【プロローグ】

【プロローグ】

 月が無い夜だった。
 『天人が住まう城』と彼方の国でも詠われる城が、猛火の中騒々しく崩れ落ちていく。
 耳をつんざく城の悲鳴。
 外壁が、ばらばらと崩れ落ちる。
 巨大な漆黒の塊は、見つめる海音(カイネ)も何度も足を運んだことのある展望台。崩れ落ちたそれが、真下の尖塔に当たり、双方共に砕け散った。
 きらめく炎が幻影のように波立つ湖面に映える。
 そこから少しでも目を逸らせば、漆黒の闇に包まれるというのに。
 静寂を愛する闇すらも押し退けて、ごうごうと炎が燃えさかる。
 激しい勢いで火の粉が上がり、すぐに燃え尽きて地に落ちていった。
 城が無くなっていく……。
 この世に生を受けてからずっとあった景色が消えていく。
 見たくない。
 聞きたくない。
 けれど、見なければ、聞かなければ。
 あの城の中には、海音の父と母、そして海音を助けるために命を賭した多くの臣下の亡骸がある。
 これは彼らが天にある永遠の国に還る儀式なのだ。
 たとえ、正規の儀式からすれば程遠いもので、火を付けた輩にしてみれば戦勝の宴なのだとしても。
 鬨の声に混じって聞こえるすすり泣きと祈りの言葉。
 ──天に還る我らが同胞よ──。
 天を焦がす炎を見つめて、『原初の国 リジン』の皇太子 海音(カイネ)は、遠くで嘆く同胞の祈りに呼応するかのように口の中で呟いた。
 ──聖なる炎の腕の中で、真白き魂を取り戻し……。
 目を背けることなく、彼らが迷わずに永遠の国に辿り付くよう祈る。
 ──あなたの残りし思いは我らが受け継がん。
 後ろ手に拘束され、両の指を絡めて祈る姿勢を取れない海音は、かわりのように何度も何度も口の中で祈りを繰り返した。
 ──あなた方の残した思いは、私が必ず……。だから、だから──炎の浄化を受け入れて、永遠の国へ……。
 浄化されない者は、闇の国に行く。
 そこで恨みを浄化するのだが、それにはとてつもなく長い時間を必要とするのだ。
 しかも、浄化の後の最初の転生は、獣。短い獣の生を全うして初めて、神の国と言われる永遠の国へ迎えられる。
 そんなこと……。
 美しき原初の民の者達に、獣になるなどという苦行など与えたくない。
 我らは神の子。
 もっとも気高く、美しき民なのだから……。

 
 世界一美しい国。美しい民。
 天にある神が住まう『永遠の国』から、最初に人が移り住んだ場所。
 神が創りし、最初の人──原初の民。
 その証拠だと言われる空色に近い青の瞳が、今は城を焦がす赤色に染まっていた。
 炎の熱気は城下の外れにあるこの丘まで伝わってきて、血に汚れた肌を炙るほどだ。
 だが頬は乾く事なく、溢れる涙でずっと濡れていた。
 柔らかな白に近い薄桜色の肌は、戦争が始まってからの心労でさすがにくすんでいる。それでも、周りで鬨の声を上げる戦勝側の民に比べれば輝くほど美しい。
 そして、背まで届くかすかな青みを滲ませた白銀細工のような髪。
 この3つを備えた民は生粋の——純血の原初の民だけだ。
 少しでも他の血が混じると、どれかが欠けてしまう。
 故に、リジンは純血である者は純血の子を産むことを義務づけ、それに逆らう者は処罰の対象であった。
 長い年月の中、国に住まう民からは、純血がかなり失われたけれど、それでも王族と貴族は全て純血だ。そうでなければ、その地位は剥奪されるのだ。
 血が混じった者は、神の元には戻れない。
 故に、リジンの王侯貴族は常に血を守り続ける事を最優先にしてきた。



「こいつを、陣屋に繋いでおけ」
「くっ」
 触れるのもおこがましいと、民たちの羨望を集める髪が、無造作に掴み上げられた。
 海音から離れた場所で、ざわりと不穏な空気が沸き起こる
 同時に鳴らされた甲高い金属音にそれはすぐに収まったけれど。
 髪を掴んだ男が、くくっと喉の奥を鳴らしたのが判った。
 海音の奥歯が軋む。
 従うつもりなどなかったが、ぎりぎりと掴み上げられる髪に、海音は顔を上げざるを得なかった。
 粗暴な男に似つかわしい風体のこの男を、海音は初見から忌み嫌った。褐色に近いほどに肌を焼き、精悍な顔立ちをさらに引き締める茶色の髪。
 ただ、その目の色だけが海音と同じ青色だ。
 はるか昔に流れた血が混じっているのだろう。時折、外の国でもこうした血の発露がある。
 けれど、それだけのもの。
 まして、純血を守るべき立場の海音にとって、混じった血はそれだけで忌むべき物だ。
 たとえそれが世界最大の大国『深遠の国 ラカン』の王カルキス・ルイエンであろうとも。
「判っているな。お前次第でお前の末弟までもが、死以上の苦しみを受けることになることを」
 触れあわんばかりまで耳朶に近付いた男の唇が蠢く。
 その言葉に、海音は再度奥歯を噛み締めて、頷いた。
 頷くしかなかった。
 カルキスによって攻め入られて、1週間。
 その間に、純粋な血を持つ者は次々と殺され、とうとう城まで落とされた。
 残った王侯貴族はすべて彼の手の内だ。
 その中には海音の弟達──樹香(ジュカ)、水砂(ミズサ)、風南(カザナ)、そして末弟でまだ12才の嶺江(レイエ)もいる。
 もう終わりだ——と絶望に襲われた時、目の前の男、カルキスは一枚の書面を取り出した。
『リジンの王侯貴族がラカンに従うのであれば、嶺江が成長した暁にはこの地を治める領主にする。また、嶺江が望む血を残す相手を与えよう』
 そんな内容のカルキス自ら花押を記した契約書。
 それに海音は同意し、自らの花押を記した。
 本来なら力を蓄え兵を起こし、自ら奪い返すべきなのは判っている。カルキスがどこまでこの誓約書を守るか判りやしない。
 だが、ラカンの軍事力がどんなに強大で圧倒的なものであるか身を持って知っている今は、生半可な兵力ではとうてい太刀打ちできないことをすでに理解していた。
 ならば、ほんの僅かな可能性でも、縋る必要があった。
 剣を突きつけられても守ると宣言した血を残すために。
 それこそが原初の時代から連綿と続いたリジンの民の存在意義でもあるのだ。
 純粋であることを誇りにし、混ざることを忌み嫌い、神の子である誇りを忘れてはならない。
 幼い頃から繰り返し教育を受け、骨の髄まで染みついているそれを違えることは、海音には本能的にできなかった。
 だから、海音は絶対的拘束力を持つ王しての最初の花押を、その契約書に記したのだった。


 カルキスの傍らに控えていた体格のよい男が、荷を担ぐように海音を肩に担ぎ上げた。
 カルキスによく似た風貌は血縁の誰かか。
 将軍職の鎧をまとった青年は、荷でも担ぐように軽々と海音を運ぶ。
 恐怖に思わず上げかけた悲鳴を、海音は矜持で押さえ込んだ。
 己の背より高い位置で頭が下という姿勢は、不安定きわまりない。まして、男はずいぶんと乱暴で、何度も海音を振り回すように担ぎ直す。そのたびに、宙を浮き、落下する感触に身を竦ませる。
 知らず全身を硬直させ、折り曲げた手足で必死になって男の身体に縋った。
 必死で縋る海音は、自分の着衣がどんな様子になっているのか判っていなかった。
 それでなくとも、普段は手と顔以外はすべて覆う長衣を来ている。どんな動きをしても肌を晒すことを気にかける事は無いのだ。
 だが、今着ているのはラカンの民が夜着にしているという頭から被る格好の衣を着せられていた。
 しかも丈が短い。
 それに下着すら身につけていなかった。
 炎に照らされる薄く染まった滑らかな肌が、闇夜にはっきりと浮かび上がる。
 ふっくらと盛り上がった白い双丘が、ひどく艶めかしく映る。
 ごくり——と、そこかしこから響く音。
 それでなくても昂揚した兵士達の、淫靡な視線が海音に集まる。
「くぅっ」
 担いでいる男が、不意に海音の尻を掴んだ。
 食い込む無骨な指。
 陰影が深くなる狭間の奥に、近いところにいた者なら確かに見えたすぼまった蕾。
 痛みの声を押し殺し、固く目を瞑った海音は気付かなかったけれど。
 男は、わざと海音の股間を群衆に晒したのだ。
 

「直系の王族は全て世の城へ。貴族の子弟は美醜と若さで分けて、城の牢に入れろ」
 カルキスの命に、直属の兵士達が動く。
「貴重な純血種どもだ。丁寧に取り扱え。純血種は全ての——人としての権利を剥奪する」
 途端に、どよめきが地を揺らす。
 ラカンの兵士達の目がぎらぎらとぎらつき、皆が好色な笑みで顔を歪ませていた。
 その中で、拘束されたリジンの民だけが、何も判らずに不安げに辺りを見渡す。
 そんなリジンの民を見下ろして、カルキスが高らかに笑った。
「純血を守って生きていたいというのなら、その言葉の通りにしてやろう。今後死にたいと言っても簡単には死なせぬよ。我がラカンが持つ技術を駆使して、我らが祖の恨み、はらすためにな」
 その夜、国と財産を失ったリジンの民は、この後さらにその身に残っていた物まで失うことになる。
 後悔と謝罪は、決して受け入れられず、ただ言われるがままに生きていくだけの存在として。
 先を見通すことができないほどの闇の夜は、まだ始まったばかりだった。

【了】