【始まりはバケツに入った薔薇の花】

【始まりはバケツに入った薔薇の花】

【始まりはバケツに入った薔薇の花】
pictBLand ローズフェスティバル2022参加
 現代、ハッピーエンド系

ローズフェスティバル2022 参加賞



 プールにトレーニング室が併設された施設で俺――中谷祐二が働き始めたのは二カ月前。
 目の前をたくましい身体が通り過ぎるたびに、俺も鍛えたいと思って、仕事の合間にある休憩時間なんかに指導員の先輩に機器の使い方とか教えてもらったり、実際に試してみたりとしているけれど、貧相な身体に筋肉がつくまではまだ先は長そうだ。
 そんな俺がいつものように受付に立っていたら、やってきたお客さんから会員証と共に目の前に差し出されたのは小さなバケツに差し込まれた五、六本の薔薇の花。
 庭先で咲いていたんだろうな、とすぐに思い浮かぶほどにその花びらはいびつで正直あまりきれいでない物も入っているが、それでも薔薇は薔薇で、薄いピンク色や黄色、深い赤色とそろえばずいぶんと華やかだ。
「えっ、あっ、ありがとうございます」
 差し出されるままに両方を受け取って、とりあえずバケツはカウンターに置いたまま会員証をリーダーに通してから返す。パソコンに表示された名前は、記憶にある程度に常連さんだ。
「きれいですね、どうしたんですか?」
 マスク越しににっこりと笑みを返せば、お客さんは「庭で咲いて盛りだから持ってきた」と返してくれて、ああなるほどと頷いた。
 田園風景も見事な地域にある地元密着型の施設のため、年配の方も多く利用するこの施設は顔なじみの方が自宅で育てた花や野菜を持ってきてくれることも多い。それだけ親しんでくれているということで、いつも感謝の気持ちでそれらを受け取り、花はすぐさま施設内に飾られる。
 まあ今回はいつも持ってきてくれる人よりかははるかに若い人なんだけど。
「ありがとうございま~す、あっバケツは返しますね」
「ああ、帰る時に渡してくれ」
「了解ですっ」
 軽く頭を下げれば手を振ってジムへと向かう彼の名前は河本さんで三十二歳。
 先ほどパソコンに出てきた名前と年をあらためて思い出す。もちろん顔なじみの利用者ではあるんだけど、まだ入って二カ月では時間帯によっては顔は覚えていても名前までは覚え切れていないことも多い。彼はその中でも名前と顔がなんとか一致している一人だ。
 寡黙で雑談なんかはあまりしないけど、こちらからのあいさつにちゃんと返してくれるし、帰り際にも声をかけてくれる。それに彼は結構俺の理想型の体格をしているのだ。
 そんな彼だけど、俺より肩幅も身長も一回りは大きな彼は、半袖のシャツから覗く筋肉質の腕も相まってなんとも薔薇の花が似合わない。というより、鮮やかな花が似合わないというべきか。どっちかっていうとサツマイモとかタケノコとか、そんなもののほうが似合うと思う。
 そんなことを思いながら俺は抱えたバケツから頭が重すぎて落ちそうになっている薔薇を支えながら見下ろした。
 大きな薔薇は育てにくいと聞いたことはあったけど、こぶしより大きな花は立派で、素直にすごいなと思えるものだった。
 開き始めた薔薇は、基本的に暖かなこの施設内ではすぐに見ごろになるだろう。ならば今のうちにと俺は空いているのも相まって奥へと入って花瓶を引っ張り出した。
 花をいただいた時はその場で飾るから、花瓶は複数個準備済み。
 もっとも俺とてここに勤め始めるまで花なんて生けたことなどなく、先輩の見よう見まね、まずは水切りして――トゲも付いたそのまんまの様子が、本当に今庭から切りましたっていう感じがすごいする。
 大きなトゲを指先で折って、全部は無理かな、一番きれいなやつを生かしてといろいろ試行錯誤して三本だけをとりあえず花瓶に入れてみた。あとは受付に戻って、ちまちまと位置を直していく。
 こういうのにセンスがいい先輩は今はプールのほうかな。
 花が重いせいかくるんと回るのに苦労ながら、なんとか三つの花を、俺的にベストな位置に持ってきて、そおっとカウンターの端に置いた。


「お疲れさまでしたっ、あっ、バケツお返しします、ありがとうございましたっ」
 一時間ほどしてから出てきた河本さんにバケツを返す。そのバケツが子ども用のかわいい絵がついた真っ赤なバケツだったこともあって、河本さんはなんともミスマッチ。
 ジムで筋トレをしたんだろう、色が変わるほどにTシャツが濡れていて、近づいた時に少しだけ汗の臭いがした。でもあんまり不快感はなくて、思わずすんと嗅いでしまう。
 なんだろう、陽の光の匂いかな。
「お疲れさまでした」
「ああ」
 一言頷きながらバケツを受け取った彼は、しばしカウンター上の薔薇の花を眺めていた。
「えっと、あんまきれいに生けれなくて、そういうの得意な人が来たらまた入れ替えてもらいますね」
 自分でも頑張ったつもりだが、たぶんちゃんと習った人はもっときれいに生けれるんだろうなと思いつつ、河本さんを見上げた。
 やっぱでかいなあ、筋肉すごいや。。
 太すぎず、けれど細すぎず。動きやすい筋肉をしているけど、なんというか引き締まっているという感じ。
 ここに勤め始めていろんな人を見るけど、筋肉質なんだけど、なんか丸い印象を受ける人とか、太っているように見えてしまう人がいたりする。かといって細すぎるのもまああまり好みじゃないというか。
 たぶん俺の性的興味は同性に向きがちだ。たぶんというのは、実際に向けたことがないからで、ここで働き始めたのも別に相手を見つけたいからとか不埒なことを考えたわけではない。
 ただ俺も身体を動かすのが好きだから、スポーツ施設っていいかなって思っただけ。
 まあこういうところだったら、俺も筋トレなんかできるかなっていう思惑もあったりはしたけど。
 そんなことを思っていると、河本さんが不意に俺へと視線を向けた。
「中谷さん、タケノコいる? ハチクがあるんだが」
「えっ……ハチク?」
 言われてなんのことかわからない。正直料理なんてしないから、タケノコならわかるけど、
ハチクがなんなのかわからない。
「ハチクって細いタケノコで今時期に採れる、タケノコは嫌いか?」
 きょとんとしていると説明付きで繰り返されて、「あー」と思わずうなった。
「タケノコは食べるけど料理はできなんですよ。一人で住んでいるんで誰も作ってくれないし」
 さすがにタケノコ系はもらっても困るということを言外に匂わせる。
「あっでもほかの人なら……」
 タケノコが好きだという人は確かいたはずで、と言いかけたところで、河本さんがそれなら、と俺の言葉を遮った。
「だったら今度料理済みを持ってくるよ。次のシフトは?」
「え、あっ、あしたもいます、この時間に」
 問われてほとんど反射的に答えてしまう。俺はまだこういう質問ににっこり笑ってスルーなんて芸当はできないのだ。というか、河本さんからこんなふうに言われるなんて思ってもみなかったからよけいにだ。まあ別に俺がいつ入るかなんて伝えても、それはまったく問題ないんだけど。
「じゃ持ってくる」
「え、あ、ありがとうございます」
 どうやらマジで持ってきてくれるんだろう、そんな言葉にとにかくお礼を言って、帰る河本さんを見送った。
 Tシャツの背中は汗に濡れ、大きな染みを作っている。肩幅は広く、きゅっと締まった腰にすらりと長い足。
 ああやっぱきれいな体格だなあ、いいなあ、なんて思いながら眺めていたら、ふとその手にぶら下がる赤い小さなバケツが目についた。彼が持つにはあまりにもミスマッチで、俺は思わず噴き出しかけてしまった。
 きれいな薔薇が入っていた素朴でかわいいバケツ。
 カウンター上の薔薇とそのバケツの色を眺めながら、俺はほっこりとした気分で口元に笑みを浮かべていた。


 ハチクはピリ辛メンマ風味となって次の日に届けられた。
 そして河本さんのお裾分けはそれで終わりではなく、その次の日も、その数日後も別の料理を持ってきてくれた。
 最初に持ってきてくれたメンマがめっちゃおいしかったせいで思わず「おいしいっ!」って本人の目の前で言ってしまったせいだろうか?
 でも受付でタッパを開けて、「食べてみて」とつまようじに刺して差し出されたら思わず受け取っちゃうだろ、んでそのままどこにも置けないから食べるだろ、んで本当においしかったら声が出ちゃうだろ。
 マジで田舎の施設ならではのこのアットホームなこの施設、人が来ない時にはマジで来ない時間帯、俺は河本さんの手作りメンマを味わってしまったわけです。
 唐辛子のピリッと感、かむとじわっとにじむほどよいうまさ、タケノコの食感、マジで俺の好みドンピシャだったんだから。
 そうしたらそれに味を占めたのは俺ではなくて河本さんなんだと思う。
 次の日はなんと炊き込み御飯、さすがにこれはお持ち帰りで俺の晩ご飯になった。
 その次の日はカウンターの薔薇がもう終わりごろだからともう一回薔薇を持ってきてくれて、それと一緒に渡されたのは今度は煮物、それでハチクは最後だそうで、思わず。
「残念です」
と言ってしまったのは、多少社交辞令も入っていたけど、まあマジで惜しむ気持ちあった。
 なんせ本当においしかったからだ。
 そんなふうにつぶやいた俺に、「そうだな」と河本さんも言ってくれて、「ハチク料理はもう来年だな」と彼も惜しそうに言ってくれた。
 まああれだけおいしい料理を作る河本さん――なんと彼が自分で料理しているらしいのだ。ちなみにハチクは親戚の山から自分で採ってくるらしい。春先のタケノコももらえるらしく、イノシシが掘る前に持って帰ってくれって言われて、朝早起きして採りに行くんだそうだ。
 河本さんはあまりしゃべらないから、それだけのことを聞くのも三、四回のお裾分けをもらってようやく。俺もあんまり雑談が得意ってわけじゃないから、どうしても何もなく来られた時には一言二言で会話が終わることもあった。それが惜しいなと思うほどには、俺の中での河本さんのお株は上がってて、なんというか、会話が少ない時には寂しいなと覚えるほど。
 それはきっと河本さんもそうなんだと思う。
 だって、別れ際に何か言いたそうに、このまま帰るのが惜しいなとそんな態度がかいま見えたりするから、それはきっと俺の妄想なんかじゃないと思う。
 俺と話をするときの河本さんの表情はなんだか見ているとちょっと嬉しそうだなと思うし、俺も河本さんに話し掛けると最近なんかテンションが上がったりするし。
 これって気が合うってことでいいんだろうかな、友達というか、今みたいにお客さんと受付の職員というだけじゃなくて、普段から親しくできたりすると嬉しいかなって思う。
 それでもやっぱり言葉少なく、けれど会員証を渡す時の「どうぞ」「ありがとう」ってささいな会話でもいいからと思えるほどには、俺は河本さんが来るのが楽しみだ。
「俺ね、河本さんみたいな筋肉っていいなと思うんですよ」
 あるとき話の流れでそんなことを言ってしまって、河本さんが少しためらった後に。
「今度一緒にトレーニングできるといいよな」
 そんなことを言ってくれて、「ぜひっ」と思わず返してしまった。
 ちなみにどんなことを普段しているのかって聞いたら、納得のトレーニングメニュー。どうやら大学時代からの習慣らしくてそんなに激しいものではないけど、俺がやれば確実に筋肉痛で動けなくなるほどの量だった。
 けれど千里の道も一歩からって言うし、俺も簡単なのから家で始めてみている。
 その手元にあるのは、河本さんが貸してくれた筋トレの雑誌。ずいぶんと古い年代のもので、読み込まれた感があちこちに残っているほどの河本さんのお気に入り。
 そこに載っているたくましい人達の写真を見ていると、自然に河本さんがやっている姿も脳裏に浮かんできた。
 河本さんが料理が上手なのも、やっぱりその身体を維持するのに自然と覚えたんだそうだ。
 ちなみに野菜は家庭菜園らしくって農家とかじゃない。というか、住んでいるのは元祖父母の家でそこに小さい畑みたいなのがあって、そこでいろいろ休みの日に作っているんだそうだ。
 そんなところで収穫した野菜で作った料理は、本当おいしい。まあ河本さんの腕によるんだと思うけど。
 いいな、俺も……と思ってはみたものの、さすがに何にもない一人暮らしの台所、鍋一個でいできることってなんだろう、ということで、せいぜいがちょっと薔薇ンスを考えたお惣菜を選ぶようになったぐらい。
 そんな話をした後、食事についてもいろいろ教えてもらえるようになった。
 「俺のは素人だから」と謙遜するのは、施設内にはもっと詳しい人がいるだろう、ということだったからだけど、実際先輩達に聞いてもやろうという気にはならなかったのは確か。
 だけど河本さんに教えてもらったら作ってみたいと思うんだよな。
 夜帰ってお裾分けの鶏肉とキャベツのガーリック風味炒めをぱくつきながら、マジで器用だなときょうの河本さんを思い起こす。
 それが俺の最近の習慣だった。


 そんなある日、新玉ねぎとサーモンのマリネを持ってきてくれた河本さんが少し視線をそらしながら、俺に話し掛けてきた。
 俺ときたらもうもらうのにすっかり慣れたものでお礼を言った後は保冷剤入りの保冷バックの中身をのぞき込んで、半透明なタッパのふた越しに見える、見た目もうまそうなマリネにくぎ付けだったりしていたんだけど。
「あした施設が休みだろ? 家の畑でエンドウの収穫があるんだが、採りに来ないか? その、昼をおごるから」
「え?」
 少し遅れて言葉の内容を理解して、俺はきょとんと顔を上げた。
「薔薇ももう見ごろが終わるから、最後にどうだ?」
 続けられた言葉の、視線がそっぽを向いた河本さんの言葉に、俺は首をかしげて。
「えっと、河本さん家?」
「そうだ、住所は……」
 教えてもらったところは、この施設からでも車で十五分ぐらい。そんなに遠くないと考えて。
「え、でも俺、収穫なんてしたことないけど……」
 そんなできないのに行ったって迷惑だよな、ずうずうしいよなと一応遠慮はしてみたんだけど。
「あしたはスナップエンドウでパスタを作ろうと思うんだが、パスタは好きか?」
「はい、好きですっ」
 思わず勢いよく答えてしまった俺は、マジで正直ものだと言ってから気付く。
「だったら十時ごろに来てくれるか、送れても構わない」
 そこまで言われて断る理由もない。というより、実際いろいろ食べさせてもらっているんだから、収穫ぐらい手伝ったほうがいいだろう。
「えっと、じゃ、頑張りますね」
「ああ、待っている」
 俺の言葉にふわっと笑みを浮かべた河本さんの表情に、なんだろう、俺なんかちょっとくらっと来ちゃったんだけど。


 日頃の行いがいいとは言えないけど、でもきょうは雲一つない晴天で絶好の畑作業日和。というより暑いほど、そんな中で立ったり座ったりしゃがんだりと結構きつい。
 豆類一列分の往復で俺はもう腰が痛くなっていたんだけど、河本さんは俺が往復する間に別の野菜の収穫は全部終わらせていた。
 確かに畑だなと思うそれは、広さとしてはそんなに大きくない、のかな?
 それでも建て売り分譲一軒家は建つぐらいの面責があった。
「こんなに広かったら大変じゃ」
「一つの野菜は大して量を植えてないからな、いっぺんに全部使っているわけじゃないし」
 確かに一面のうち半分以下しか植わってない。でも畑って放っとくと雑草だらけになるから、いろいろと草抜きとか耕したりとか大変そうだと思うんだけど。
 しかも普段は仕事もあるし、それに結構な頻度で施設にも来ているし、それで料理もするなんてすごいなって思う。
 でもクワを振るう河本さんの姿を目にして、俺は「すげえ」って思わずつぶやいて見惚れていた。
 振り上げた時に盛り上がる肩や腕の筋肉、貼り付いたTシャツの下にかいま見える腹筋、大胸筋のたくましさ。
 いや、確かにそれほどマッチョな、鍛えてあげて作り上げたすげえっていうような筋肉じゃないんだけど、でもなんていうか、俺なんかよりはきっちり盛り上がるし、溝もできる。
 最近おいしい食事にありつけて、ちょっとばかり体重が増加傾向にある俺としては、あの脂肪のなさそうな腹なんてうらやましい。
 思わずぼおっと眺めていたら、ふっと河本さんが振り返って、慌ててクワを降ろしてなんだか挙動不審にわたわたしていた。
 俺が変なふうに見つめていたからかな、警戒されちゃったかも、そうだったら残念だなあ。
 俺は残ったエンドウの収穫に集中することにして、適度に大きくなったサヤエンドウをぷちっと千切っては手持ちの袋に入れていく。
 プチ、プチ、プチ、手の中にいっぱいになったら袋にいれて、エンドウの列を制覇していく。
 少し離れた場所で河本さんがキュウリの支柱を立てていた。
 細い枝が河本さんの手で器用に組み合わさっていく。やっぱ器用だなと思わず見惚れていると、立て終わった河本さんがこちらに向いた。
 俺を見て、手を振って。
「そ、そうだな、そろそろバスタを作ろうか」
 言われて、俺の腹がくうっと鳴る。
 うん、そろそろおなか空いたと思っていたんだ、なんせ目の前にこれからパスタになる取れたての野菜があるもんだから、ついつい期待してしまう。
「じゃ俺、これ持っていきますね」
「あ、ああ、頼む、土間に入れておいてくれ」
「了解っ」
 古い買い物カゴにいっぱいの春野菜、中でも取れたてサヤエンドウやスナップエンドウは、これからパスタになるのかと思うと期待大。
 畑から河本さんの自宅はすぐだ。
 古い建物は昭和初期の民家で、こぢんまりしているのは昔倉庫だった場所は売ってしまったかららしい。それでも薔薇が植えられた庭は広く、塀に囲まれているのにどこか開放的だ。
 俺はもう終わりとは言われてわりにはまだ鮮やかな薔薇の中を突っ切って、玄関の土間へとカゴを降ろした。振り返れば、通ってきた庭の小道の両側でまだ何本かの薔薇を咲かせていてとてもいい匂いが漂ってくる。
 青い空と緑の葉っぱ、その中に咲き誇る白やピンク、赤の薔薇。
 なんかすげえなあと思わず見惚れていたら、遅れて帰ってきた河本さんの姿が現れた。
 逆光で影になった分、体形がなんかすごくよく映える。短い髪も男らしくて、両腕に抱えた農具と野菜のカゴがすごく軽く見えるほど。
「汗かいたな、料理をしている間にシャワー浴びるか?」
「え、あ、うん」
 汗をかくから着替えを持ってきて、とは言われていたので予備の服を持ってきている。それに着替える前にと促されて、俺は頷いた。
 それにしても、畑でも思ったけど施設で見る河本さんと今はちょっと雰囲気が違うかな。農作業用の格好というのもあるんだろうけど、河本さんって陽の光が似合うというかなんというか。
 タオルを渡されて俺はお風呂場に行って、河本さんは台所に向かった。そんな彼を見送って、通路と洗面所の間のドアを閉じて、俺は汗にまみれた服を脱ごうとして――不意にしゃがみ込んでしまった。
 なんだ、これ?
 洗面所の向こうが浴室、だからここには洗濯機とか洗濯カゴとかがある。
 そこには河本さんの洗濯物が入ったまま。たぶんパジャマだと思う。それとシーツとかかな、深緑の色をした布。
 それだけならまだ良かった、そこにあるだけ、生活の名残が感じられる場所だっていうだけ。
 けど……けど、俺は、自分の心臓がどくどくと脈打つ感覚をまざまざと感じた。めまいとも酩酊感とも似つかぬあからさまな衝動に襲われ、身体から力が抜けてしまったのだ。
――この、匂い……。
 扉を閉じた途端濃厚に漂ってきた香り。
 それを嗅いだ途端、血流が一気に早くなり、腰と膝から力が抜けた。
 男臭い匂い、そして混ざる薔薇の香り。
 くらんだ視界に見えた薔薇の花。洗面所の窓が開いていて、その向こうに見えたのは深紅の薔薇だ。つる薔薇のように見えた、持ってきてくれた薔薇よりも小さな薔薇がいくつも窓の外で花開いている。
 その香りと、そしてこれは河本さんの匂い。
 ずくんと鈍く疼く股間を押さえて、俺は立ち上がれなかった。脳裏に浮かぶのは薔薇を持ってきてくれたあの河本さん、そしてジムの終わりに受付に寄ったTシャツに汗を浮かべた河本さん、畑で陽の光を浴びている河本さん。
 どうしよう、勃ってる……。
 人の家の洗面所で、こんな真っ昼間に、どうして……。
 俺は発情してパニック状態だった。股間のムスコは一気に膨張して、熱く疼いている。思わず押さえた手の圧力すら、新たな快感が生まれてくる。
 俺は熱い吐息をついて、床に手をついた。
 そのせいでカゴに顔が近づいてしまったせいで、新たな快感が生まれる。
 締め切った狭い空間にあった洗濯物、そこから漂うのは河本さん。
 俺はしゃがみ込んだまま、膨れ上がった股間を押さえてうなった。
 どうしよう、これ。
 落ち着こうと思うんだけど、でもやっぱり河本さんの匂いがして、それを感じるたびにどくどくと脈打つように身体が震えた。
 これはもういっそ……。
 人の家だけど、このきかん気なモノを手っ取り早く治めるには一発出すしかないんじゃないか、幸いにしてこの先はシャワーを浴びるだけだし。
 そう決断してしまえばあとはもう脱ぐだけ、浴室に向かうだけ。
 俺は破けそうな勢いで来ていたシャツを脱ぎ、きついジーンズを下着ごと下ろした。途端に跳ね上がった俺のモノ、すでに先端がぬめる液体で濡れていた。
「すげ」
 思わずつぶやいてしまった。それほど俺のモノはいきり立っていたし、粘液は陰茎に垂れていきそうなほど。
 揺れるだけで重苦しいような疼きが走るから、俺は陰茎から先端を握って揺れるのを押さえていた。
「歩きにく、もう……」
 浴室の扉を開けるのももどかしく俺は中に入り、昔ながらの冷たいタイルの床に膝をつく。その振動すら甘く響き、俺の触れた手が勝手に動いた。
 ぬめる粘液が手のひらで潤滑剤になって、スムーズに動く。
「すごい、熱い。なんか熱っ……」
 呼吸が荒くなる。背筋がびりびりと震えた。甘く疼いた身体は熱を孕んで、ぴんと伸びる。
 喉をさらし、内なる衝動に堪え入るように喘ぐ。陰茎を扱くたびに腰がゆらゆらと揺れた。
 込み上げる欲情は熱く高く、あっという間に上り詰める。
 ここが河本さん家だっていうのもあったに違いない、焦りのままに手が荒く動き、人の家だという背徳感に煽られる。
「う、あ……こう、こーもと……さっ」
 限界まで高ぶった身体が解放を求める。その衝動のままに俺は手と腰を動かして、視界を閉ざしてもっと感覚を感じるように視界を防ぎ、体内を走る快感に集中した。
 乾いた唇につられるように舌でなめる。
「あ、あっ……」
 喘ぎ声が零れる。
 爆ぜる快感は暴力的で、視界どころか聴力も消える。ただ嗅覚は鋭く、薔薇の花の香りと、そして河本さんの匂いが強く香る。
「こ、こーもとさ……んっ、ああっ」
 肌があわ立ち、空気の存在すら感じるよう。
 狭い管を拭き上げる液体が、手にかかる。熱くてぬめったそれが指を汚し、垂れていった。その感触に身震いして、「ああ」と吐息を漏らす。
 喉の奥が焼けるように熱い。乾いた喉を濡らすように唾液を飲み込んで、俺は囁いた。
「河本さん……」
 うっとりと、この快感をくれる存在を求めて、俺はその名を呼んでいた。
 だけどまるで夢のような時間は、あっという間に消える。というか、これは現実の話であって、そしてここは河本さんの家。
「えっと……」
 閉じていたまぶたを開いた途端、俺はぴきっと音がするほどに固まって、そして動かせない視線の先で、困惑も露わな河本さんは手の中からバスタオルを床へと落としていた。
「……」
「……」
 二人共に続ける言葉を失っていた。
 俺は動けないまま、視界の片隅でいまだ勃起したまんまの俺のムスコに気が付いた。
 まああれだ、やっちゃったものは仕方ない。
 なぜかそんなことを頭の中で考えていた。
 だってあれだろ、男だったらバレバレだろ、どうすんだよ、これ、
「ああ……えっとタオルな、ここに置いとくから」
 先に動いたのは河本さん、そのまま後ろに後ずさって、段差でつまずきかけながらそれでも下がって、そっと扉が閉じられた。
 それを見て、あっそうか、と気が付いたのは、浴室と洗面所の間の扉を閉めていなかったということに。
 せめてその扉を閉めていれば、なんて後悔はあまりにも遅すぎる。
 俺は下を見て、汚れた俺のムスコと指、白く粘った精液は糸を引いてボタボタと小さな液だまりを床に作っていた。その液だまりを消したくて、シャワーを使う。
 何も考えないままカランを捻ったせいで冷たい水を頭から浴びる。
 悲鳴を上げて慌てて止めて、回らない頭であたふたとしながらお湯にする。最初は冷たい水が次第に温かく、そして熱くなって頭から浴びた。
 目を閉じて、肌の上を水流が流れる感触に集中する。
 身体が全部温まるまで少し時間がかかった。全身にシャワーを感じてしばらく、不意にふっと身体から力が抜ける。
「あー、やっちまった」
 落ちてくるお湯を顔に浴びながら、独りごちる。
 なんというか、若いから勃起しちまって、とかなんとかごまかすことができるかなあ、なんてぼんやりと考える。
 けど射精の時、自分が口走った内容は覚えていた。
 うん、駄目だな。
 たぶんあれは聞こえたんだと思う。
 河本さんは、ただ見ただけっていう感じじゃなかった。あの戸惑いはきっと聞こえている。
 俺自身、なんであそこで河本さんの名前を呼んでしまったのか、よくわからない。ただそう名前を呼んだとき、いつもより快感が強かったような気がした。
 なんていうか、これぞ天国っていうか、すっげえ、とか、そんなことを思っていた。
 バシャバシャとずっと頭からお湯を浴びる。浴室内がもうもうとした湯気でいっぱいになった。身体はもう十分温まって、そろそろ出ないとまずいよなとか、そんなことを考えるんだけど身体が動かない。
 怖い、出た時に河本さんにどんな目で見られんだろうか?
 さっき河本さんはどんな顔をしていたんだろう?
 つい先ほどのことが、気が付けば思い出せないことに気が付いた。あまりのことに俺の思考は完全に止まっていたようだった。
 それでもいつまでもここにいるわけにはいかない。
 少しぼおっとしてきた。
 立ち上がればふらりと目の前がくらむ。ずっと湯を浴びて、浴室内は湯気がいっぱい。なんとなくやばいなと思いながら、俺は洗面所へと出た。
 洗濯機の上に新しいバスタオルが置いてあった。
 さっき河本さんが持ってきてくれたバスタオルだと俺は手に取って身体を拭く。
 天日干ししたお日様の匂いだなあ、なんて思いながら心地良い触り心地のタオルで拭いて、下着を着けて、服を着て。
 少しふらふらとしながら俺はもう……意を決して外に出た。
 

 気まずい思いを胸に秘めたまま近づいた俺に、河本さんは居間で迎えてくれた。
 とりあえず先ほどの件はスルーしてくれるっぽい、んだよな。
 特に表情を変えずに席へと招いてくれているし。
 本当ならこのまま帰って自室で一人自己反省したいところだったけれど、さすがに用意されていた料理を見れば、これは食べたほうがいいっていくらなんでもわかる。
 それにスルーしてくれるならそれでもいいかも……と思ったのも確か。
 座卓の上にはスナップエンドウとベーコンのパスタ。少し冷めてしまっているのは俺がいつまでも出てこなかったから。
 なんとなく気まずいままに向かい合って座った。河本さんも特に何も言わないから、俺も何も言いようがない。
「まあ、あれだ、食べよう」
「いただきます」
 スルーするには衝撃的な状況ではあったけど、俺は促されるままにフォークを手に取った。
 オリーブ油と黒胡椒が絡んだパスタの上の緑が鮮やかだ。
「おいし……」
 思わずつぶやいたほどに、新鮮な緑とベーコン、香辛料がよく効いて、びりっとした舌に伝わる刺激も味を深めている。
「うまいか、良かった」
 静かに響く河本さんの笑い声。
 俺はその笑い声に顔を上げた。目に入った河本さんはいつものようで、特に気負った感じはない。
 いや、やっぱりどことなく緊張した雰囲気は消えていない。
 このまま無視するっていうのは、きっと後々俺達にとって良くないかも。
 俺はごくりと息を飲むと、河本さんへと視線を向けた。
「あの……」
 と言いかけた俺を、けれど河本さんが手を振って遮ってきた。
「まあ、そうだな。若いってことだな」
 それは浴室で考えていた言い訳で。
 先に言われるとなんとも言えぬ気まずさが込み上げる。
「ただな、実は言うと俺の名前を呼んでくれたのは……」
 ああやっぱ聞こえてたと思って心臓が嫌なリズムを奏でる。だけどそこで言葉を切った河本さんはフォークを動かしてパスタを巻き取ると、大きな口の中にばくっと入れる。
 まるで子どものように頬を膨らませるほどの量はものすごく食べづらそうな量で。
 その続きを聞きたくて、でも聞きたくなくて。
 けれど河本さんはモグモグと口の中の物の咀嚼(そしゃく)に忙しい。視線は俺を見ていなくて、空になったフォークで皿をツンツンと突いていた。
「あの……」
 思わず俺は手を止めて問いかける。
 そんな俺をちらっと見て再び視線を落とした河本さん。
 何も言われないことに不安が沸き起こるけど。
 俺はふっとあることに気が付いて、ネガティブに陥っていた感情が浮上して来るのを感じた。
 俺の視線の先、首筋に走るその色は、決して日に焼けたからとか、虫に刺されたとか、そんな色ではない。
 耳たぶまで赤く染まったその様子に、俺はごくりと息を飲んだ。
「……くそっ、思い出しちまった」
 ようやく口の中が空になったようで、つぶやいた言葉がそれ。
「河本さん……あの」
「あー、あのな、その俺はまあ……嬉しかったんだよな、中谷くんが俺の名を呼んだの、嬉しかったんだ」
 吐き出すように、それでも長い文章をつぶやいた河本さんは、ようやく顔を上げて俺を見た。
 そのまなじりまで赤くなったまなざしが俺を見る。
 きょうは何度も忙しく動いていた俺の心臓は再び速くなって、身体が熱くなった。
「中谷くんも……そういうことでいいのかな?」
 問いかけるように俺に言う河本さんの言葉に、俺は反射的に頷いた。
 それだけでは駄目だと思って、遅れて「うん」と言葉にする。そうするべきだと思ったのはたぶん直感。
「えっと……まだよくわかんないけど」
 俺はもう素直に口にしていた。
「でも河本さんといると楽しいし、料理はおいしいし、それにかっこいいなって思うし」
 尊敬というか、羨望というか、そういうものだったはずだったけど、気が付いたら俺は河本さんに惹かれてしまっていて、それでもはっきりと自覚したのはあの時――はっきりと河本さんの匂いを嗅いだ時。
 男としての河本さんの匂い。
 だから俺は……。
「だから俺は河本さんに惹かれていると思う」
 なんとか言葉にした、それでもあいまいな言葉だったけれど河本さんは頷いた。
「そうか」
 と、ほっとしたように微笑みを浮かべて、そして俺をじっと見つめて。
「俺も中谷くんが気になっていた。それこそ餌付けして、この家に連れてきたいと思うぐらいには……」
 その言葉を頭の中で何回も考えて、それから意味がはっきりするまでかみ砕いて、それでようやく河本さんが言いたいことを理解して。
「いつから?」
「受付で君に会ってから、たぶん何回か後。最初から好感が持てるなと思っていたんだけど、気が付いたらいいなと思ってて」
「どこが?」
「なんというか、元気でまじめで、明るくて……俺にはないところがあるなって、その内にずっと一緒にいられるといいなと思って。ただその時点では友達になれたらいいなと思っていたぐらいだったんだけど」
 きっかけなんて些細なことかもしれないけど。
 はにかむように笑った河本さんはすごくすてきで、俺はもう目が離せない。
「お、俺も、河本さんとは友達になりたくて、お裾分けしてもらえるのも嬉しくて、家に呼んでくれたのもすっごい期待して、嬉しかったです」
 本当はきょう一番に言いたかったこと、でもなんだかんだでちょっと行程をとんじゃったけど。
「俺なんておじさんだけど、マジでいいの?」
「河本さんはかっこいいよ、俺のほうがどうかなって思うぐらい」
「中谷くんも俺にとってはすてきだ」
 河本さんが右手を差し出してきて、俺も手を伸ばしてその手を握る。
 体格の違いが手の大きさにも表れていた。分厚くて大きな手が、俺の細い指に絡んでいた。
 色も濃くて男らしい手、でも、俺はこの手の持ち主が好きなんだ。だから手のひらに伝わる熱に、こんなにも心臓が激しく鳴っている。
「あの、俺……男の人を好きになったというのは始めてて……よくわかんないところもあるかもしれないけど」
「俺も中谷くんが始めてだ。でもわからなかったらゆっくり進めばいいと思うし、先に進みたくなったら自然とそうしたいって思えるようになると思うし」
 ああ、だったら今俺がしたいと思っているということは、してもいいということだろうか?
 握りあう手から顔を上げて河本さんへと向けば、彼も俺をじっと見つめていた。
「ねえ、中谷くん、キスしていい?」
 問いかけるのはずるいと思う。熱が一気に上がり赤くなった顔で、俺がどんな言葉を返せるというのか。
 河本さんが腰を上げて、その分近づいてくる。俺もなかば立ち上がり、そして握った手に引っ張られるように身体を前に倒して。
「ありがとう、中谷くん」
 それってどうなの? 俺はなんと返せばいいの?
「あ、ありがと……」
 結局同じようにお礼の言葉を口にした途端、触れた唇はオリーブオイルの味と香り。
 そんな俺達のいる部屋の窓の外では、俺達を祝福するように薔薇の花びらをふわりふわりと飛んでいた。

【了】