【海音 エピローグ】

【海音 エピローグ】

 - 1 -

 熱に蕩けた水飴のように、トロリと揺らぐ空色の瞳がゆったりと辺りを見渡した。けれど、その場では何にも興味を引かれなかったのか、また前方へと向かう。
 その視線が一瞬でも重ねられた参列者達は、外れた拍子にようやくと言ったふうに詰めていた息を吐き出した。
 そんな微かなさざめきが、視線の動きに連動して響いている。
 その視線の持ち主は、銀糸で彩られた白地の平布が独特の民族衣装で全身をゆったりと覆い隠しているというのに、なぜかやたらにその身体の線が強調されているように見えた。
 人々の目には、時折僅かに覗く白い肌がやけに神々しく映える。
 まるで意識をもっていかれそうなそれから無理矢理視線を引き剥がした人々の目に、次に入ってきたのは彼の腰の高い位置にある金糸で彩られた帯の煌めきだったけれど、なぜか白衣の銀糸の紋様の方が目を引くことに気がついた。
 ひどく繊細なその模様が今は無き王国の象徴だと知っている者は多い。
 背で蝶のごとく形作られた帯を隠すようにおろされているのは、高く結わえた銀糸よりも細く煌めく銀の髪だ。
 三年の月日の間でも輝きを失うことのなったそれが、持ち主がゆったりと歩を進める度にキラキラと中空に舞い、小さな精霊達がその周りを飛び回っているかのような残光を残す。
「御子神が舞い降りたのか?」
 惑わされたままに呟いた声は、あれがそんなに良いものでないと知っている者にも否定できなかった。
 視線が外せないままにぼうっと後を追い、隣に寄り添う逞しい美丈夫の姿で我に返った者も多い。
 この強大なラカン王国の王であるカルキスは、諸国からの数百の客人の視線など無いものように赤絨毯の道を進み、彼のための玉座の前でくるりと客達の方に向き返った。
 その節の尖った逞しい手が隣にいた美しき青年の向きを変えさせ、その背を押して前へと押し出す。
 その瞬間、青年の腰が艶めかしく動いたのは、気のせいでは無いだろう。けれど、それに気がつくより先に、人々はその美しい相貌に魅入られた。
「リジンの海音(かいね)王子……」
 わかりきっていることを誰が呟いたものか。
 シンと静まりかえっていた大広間で、本人の意図以上に響いたそれに、ピンと空気が張り詰めた。
 己の失態に気付いて蒼白でガクガクと震え出した客の姿に、けれど、カルキスは興を削がれた様子も無く、口元に笑みをはいたまま頷き返す。
「いかにも。亡国リジンの王子 海音だ。いや、滅びる寸前に王となったか。……知っている者は知っていよう」
 ここにいる者ならば、三年前の戦勝国であるラカンが得たたくさんの虜囚達の存在は知っている。
 その筆頭が、リジンの王家直系の5人の王子であったことも、そして、長兄であり最後の王となった海音はカルキスの所有物となったこともだ。
 当時、一部の国ではそのあまりに非人道的行為に反発したけれど、絶対的な強さを誇るラカンに苦言を言える国はおらず、まして、リジンの貴族が行っていた眉をひそめるような豪遊生活と徹底的な差別を知るにつれその声も収束していった。
 もとより、奴隷化されたのは王侯貴族や純血至上主義の者のみ。となれば、敗戦国の責任者と言える彼らの処遇がどうであろうと黙認されたのだ。
 その最たる者である海音は、今自分の事を紹介されていながらも、茫洋とその場に立ち尽くしていた。
 浮き世離れした美しさだけでなく生気を感じさせない儚さは、隣に立つ彼の王とは真逆で、だからこそ神々しさを感じてしまう。
 先だって、カルキスの弟王子がリジンの元王子の一人を妃にした時も、その美しさを垣間見た人々は息を飲み、悪い噂を知っていたとしても、神の巫女だ、女神だ、天使だと、褒め称えたという。
 その王子より、美しく、儚く、神々しい。
 その祖は神と悪魔の血を引く者だと言われれば、だからこそ誰をも魅了する魔性のような美を得たのだとあっけなく信じてしまうだろう。
「さあ、皆に挨拶を」
 カルキスに促されるがままに、海音が客達に深く礼を行う。
 他国にまで鳴り響いていた傲慢なリジンの王家の直系とは思えぬ殊勝な態度に、堪らず皆が息を飲む。
 彼らは知らない。
 三年の調教の間、特に最後の一年間、月に一度繰り返された狩りという名の一方的な残虐な行為は、確実に海音の反抗心を削ぎ、なけなしの誇りすら消し去ってしまったことを。
 数十分も逃げ切れずに済んだ一回目と二回目。
 三回目には、遊びながら追いかける男達から無様な悲鳴を上げて逃げ惑い、何度も何度もカルキスの名を呼んで助けを請うていた。
 半年前には、目隠しされての陵辱中にかけられた王の声に、歓喜の声を上げてその名を呼びながら、触れられもせずに何度も達き。
 三ヶ月前には、狩りの開始直後から花押ではなくカルキスを捜していた。
 そのころには、カルキスの姿を見ただけで安堵のあまり微笑んで、快楽に溺れていなくても服従を示すようになっていたのだ。
「さて、海音よ。三年前の契約の確認をしようか」
 一度客達に向けた身体を、再度カルキスの方へと向けさせる。
 その間も虚ろな視線は変わらず、海音はされるがままにカルキスの前に立った。
 戦勝国の王と敗戦国の王が向かい合わせで並び立つ状況に、さざめく音すらなくなった大広間の空気が硬質な音を立てて張り詰める。
 カルキスの手に契約が記された羊皮紙が手渡された。
『リジンの王侯貴族がラカンに従うのであれば、嶺江が成長した暁には彼の地を治める領主にする。また、嶺江が望む、血を残す相手を与えよう』
 そこに識された互いの花押は、賓客達の目にもはっきりと見て取れた。
「あの日、あの夜為した契約は遂行された」
 カルキスの言葉に、皆がつられるように頷く。
 つい先日、元リジン城下街が自治国家として建国された。
 元のリジンの数十分の一で、国と言うよりは街としか言いようのない面積ではあったけれど、そこの領主は末弟王子の嶺江であり、その妻はリジンの純血の娘であった。今後、2人が為すであろう子は、確かに純血の血を引く子となる。
 ただ、その子が王族直系の純血ではあってもその後は無いだろうというのが、諸国では暗黙の了解であった。
 淫魔の悪魔が神の子との間につくった望まぬ子の末裔と狂気に落ちた神の子に支配された建国の話。
 純血が尊ぶべきものでなくなった今、淫乱な神の血と婚姻しようとする者は、その質を望む者以外いない。
 新たに生まれる子は、ラカン国の教育を正式に受けた乳母に育てられ、ラカンの学校で教育を受けることが決まっていて、その準備は着々と進んでいた。
「契約完遂の祝いとして我ら王家より特別に恩赦を与えよう。海音よ謹んで聞くが良い」
 その言葉に、海音がぴくりと反応し、ゆるりと長い裾をさばいてカルキスの前に跪いた。
 片膝を付くだけで無い、その身を縮こませるように両膝を突き、両手を膝の前について頭を下げる。
 その完全なる平伏の体勢に、ざわりと場の空気が揺れる。
「三年前、我らが手に入れた性奴隷共のうち望む者には戸籍をつくり、ラカンの民として取り扱うこととする」
 朗々としたカルキスの言葉に、知らなかった一部の者達から驚愕の声が漏れた。そんな彼らは他国の賓客達で、ラカン側の参列者はみな黙って頷いただけだ。
 このカルキスの恩赦は、最初から決まっていたことだ。けれど、海音にとっては賓客と同様に初耳のことで。
 思考も感情も削ぎ落としたようなその表情に、浮かんだのは明らかな驚愕だった。
 平伏していた頭が浮かび、その意志ある視線がカルキスを捉える。
 盲目的に従うがために、平静であることばかりに注力して心の奥深くに沈めていた感情が、堪らずに引きずり出されたように顕わになっている。
 瞳の中に浮かぶ明らかな海音の動揺に、カルキスはただ嗤って頷いた。



 何の式典かも判らずに連れて来られ、懐かしいリジンの衣装に驚くまもなく着せられて。
 海音にできたことと言えば、敏感な肌を擽る刺激に必死で耐えることだけだった。
 嬲られて、薬で敏感にさせられた身体は、そんなかすかな刺激にすら欲情して、思考を朱に染める。
 熱く熟れた身体で平静を保つのは難しく、けれど、カルキスの命令に従うために必死で堪えていた。
 式典の最中はずっと、今この場で無様な喘ぎ声だけは出すまいと、そればかりに集中していたのだ。
 だからこそ、カルキスの言葉がすぐに海音の中で咀嚼できなくて。それでも、それが待ち望んでいた解放の道だとようやく理解できる。
 その途端、肌から伝わる刺激のことなど全て吹き込んで、意識が全てカルキスへと向かい。
 主人たる彼の王の、浮かんだ笑みに身震いする。
 狡猾な王が決して楽には許してくれないことを、今の海音は誰よりも良く知っていた。
 だからこそ、追加条件があっても不思議には思わなかった。
「だが、われらラカンの民は勤勉を尊び、また何よりも大事な義務としておる。故に、それができぬものは民の地位は剥奪され、再び奴隷に戻すであろう」
 カルキスの酷薄としか言いようのない笑みは、海音のみならず見る者の背筋に悪寒を走らせていた。
 苛烈なる彼の王の言葉を理解できない愚鈍な者は、この場にいる資格すらない。
 それは海音とて例外では無く、日常的な調教の中でも、ラカンの理は徹底的に教えられていたのだ。
 働かざる者をこの国は受け入れない。
 年齢や障害などで働くことができないと認められている者以外は、必ず学び、働かなければならない。
 民であれば医療・教育はすべてが無料だ。その財源は、働く者や貴族から徴収された税などだから、働きもせずに恩恵だけ受けようとする者、贅を尽くして遊び暮らす者は、たとえ貴族であろうと財産を没収され放逐されるのだ。
 元リジンの民がラカンの民の地位を失い放逐されれば、待ち受けるのは純血の民を喉から手が出るほどに欲している非合法の奴隷商人ばかりと、彼らは教えられている。
 金で売り買いされる奴隷の待遇は、保有者が明確な今までの性奴隷としての立場よりさらに悪いものになるのは明白で。
 それを避ける為にはラカンの民として働くことが必要なのだ。
 民であれば守ってもらえる。
 民として助けてもらえる。
 働くことを知らなかった元貴族達であろうと、奴隷としてではなく民として働かなければならない。
 今や、参列者達の視線がすべて海音に集中していた。
 三年前、あれだけ傲慢であったリジンの王族がどう反応するのだろうか、と。
 そして、海音は判っていた。
 渦巻く快感に晒されていても、間違えてはならぬ時だ。
「……陛下の寛大なるご処置に感謝します」
 言葉とともに最大限の礼を尽くす。
 確かに寛大な措置だ。だけれど、素直に喜ぶこともできなかった。
 働く必要性を理解していてもそれができるかどうかは別物だ。まして、性奴隷になっていた者達は、それ以外の働く方法など知らないはずで。
 海音とて、働け、と言われても何もできないし、何も知らない。
 できることといったら犯され喘ぐことだけ。
 そんなことが理解できないほどにバカでは無いから、海音は思い切ってカルキスに願った。
「けれど……どうか……陛下のご慈悲を持って、働く方法を、……解放された者に与えてやって下さいませ」
「働く方法とな?」
 嗤うカルキスに、海音は深く、床に額を擦りつける。
「働く術を……最初の一度だけで良いので、教えてやってくださいませ……」
 身体を売るのでは無く、労働をする方法を……。
 どうか……生き延びられるように。
 解放と共に奴隷に逆戻りするのはあまりにも悲しい。
 海音を狩った男達のように、憎しみしか持たぬ者達から皆を守って欲しい。
 民のいない国は滅ぶしかない。
 嶺江に託した最後の道に、寄り添う民がなければ国は成り立たないのだから。
 もう遅いけれど、それでも最後の王として、一つでも何かがしたい。
「一度だけで良いのか?」
「……はい」
 何度も……と言いたい言葉を飲み込んで、海音は頷いた。
 この王の許容範囲はそれほど広くない。
「それで働かないのであれば……それまで……と……」
 幾分自嘲の混じった声音に、カルキスが物珍しく視線を落とす。
 数度逡巡したかのように、口を開いては閉じて。
「ふむ……ならば、三度……」
 一度ではなく、三度。
 譲歩した提案をカルキス自ら示してきた。
「三度まで許すのはどうか? ラカンの民とて、最初から適職を見つけられぬものもいる故に」
 けれど、それが単純な好意で無いことは、その笑みで気付く。
「……海音、そなたが望むのであれば、我はリジンの元民に道を三度示すことを許そう。王族が今の主の元にいる限り」
「!」
 ぎくりと見開かれた海音の瞳に、カルキスの楽しげな笑みが映っていた。
 民に道を示す代わりに、海音含めた王族の道は今のままだと。
 ラカンの王族の支配下である今の道は今後も変わらないと。
 自然な物言いでさらりと示された内容を咀嚼するより先に、カルキスは傍らに控えていた事務官に手を差し出した。
 その手に乗せられたのは、新たな契約書とそれぞれの花押。
 あの城で、何度も挑戦しては結局手に入れられなかった花押が、カルキスの手の中に転がっていた。
 それを弄びながら、カルキスが楽しげに続ける。
「生きる道を示す。それで良ければ、新たに契約しよう」
 カルキスの問いかけに、海音はごくりと息を飲む。
 一度で良いのに三度示すというカルキスの寛大な処置に、その場の客達が偉大なる王に感嘆の声を上げていた。
 先ほど、さらりと付け加えられた条件を口にする者はいない。
 あまりに簡単に付け加えられたらその文言を、カルキスはもう口にするつもりはないようで、それに気付いているものが他にいるかどうかも怪しい。
 だが、少なくとも海音はその意味を理解していた。
 人々が王の決断に賛美の声を上げていて、その場の雰囲気が調印をすることに決まったように準備が整っていく。
 けれど、流されることに慣れた海音であっても、それが自分と弟たちの運命を決めるものだと躊躇いが大きい。
 三年前、皇太子として亡き王の代わりに純血の理を守ることが最優先と、己の凝り固まった意志で調印した後の後悔は、直後より今の方が強かった。
 遙かな祖先の愚かな傀儡でしかなかったことを知った今、知らなかったことへの後悔ばかりなのだ。
 カルキスの用意周到な恐ろしさを、何度も何度もこの身に直接教え込まれていたけれど、知っただけではカルキスに何も対抗できないこともまた、知っていた。
 愚かな国の知識しか無い海音には、狡猾なカルキスに対抗できるだけの知恵も思考も何も無くて。
 ここで調印しなければ、解放された民達はきっと恐ろしい奴隷商人達に生け贄になるしかないだろう。
 今や、愚かなリジンの王族の考え方など欠片も無くなっている海音にとって、その選択は絶対に選べないものであって。
 たとえ、兄弟達を犠牲にすることになっても。
「……陛下の御心のままに。我らは陛下の御意志のままに従います」
 拒絶どころか反抗や再考を促すことすらすらあり得なく、海音には「服従」以外の道しか残されていなかった。



 調印に了承の意を示した海音が起ちあがり、自らの名を記して花押を押すまではその瞳には確かに海音の意志が感じられていた。
 だが、押印が終わり、その書類が目の前から消えてしまうと、緊張が抜けてしまったようにその瞳が揺らぎ、口元から漏れ出てきたのは悩ましい熱い吐息だった。
 一息ごとにその熱が上がっていっているのは、来客までには伝わっていなかったけれど。
 一度蒼白になったその肌が、わずかに揺らぐ度にほんのりと朱に染まっていくのは見えただろう。
 解放の悦びに浸っているかのような色は、けれど、近いところにいる者ほど妖しい感覚を味わせるものだった。
 ここに入ってきた時と同様に、何かの熱に浮かされたように、白目の部分が赤くなっていく。そのせいか、瞳が紫に見えると幾人かが見間違いかと目を瞬かせ、首を傾げている。
 そんな人々の間を海音は付き人に促されるがままに、退場していく。
 歩く度に宙に舞う銀糸の髪は煌びやかで、背後に光の軌跡を残しているように見えてる姿は天使のようであったけれど。海音が退場した途端そこかしこから零れたのは、奇妙に熱く、ねっとりと湿った嘆息だった。