【淫魔 憐(れん) 給餌】(1)

【淫魔 憐(れん) 給餌】(1)

 まさか、自分がそんな目に遭うとは、用賀 蓮(ようが れん)は夢にも考えたことがなかった。
 否──普通ならばそんな事を考えるなんて事はしないはずだ。
 それほどまでに常軌を逸している書類を手に、蓮の脳は必死になって今を思い出して、現実に縋り付こうとしていた。
 普通に暮らして高校に行って受験勉強をして。苦しい受験もなんとか日の目を見て、楽しい大学生活を過ごし始めて二年に入り、ちょっと就職のことが気になり始めたばかり。
 未来に若干の不安はあったとしても、現実味はまだまだ無くて、昨今のどん底の不景気も「良くなるといいなあ?」とまだ友達と交わす程度だ。
 そんな事を考えても、目の前の薄っぺらい二枚の紙切れも、それを持ってきた男達も消えやしない。
 何より、そんなことに自分が関わっているなんて信じられるはずもなかった。たとえ、そこに記されている名前の下に、確かに自分が父、母と呼ぶべき人間の見慣れた直筆の署名が並んで入っていても。
 それでも、その文面のひどく非人道的な内容を頭が理解すればするほど、それが本物だとは思わなかった。
「う、そだ……」
 知らず力の入った指の間で、薄い紙切れはクシャリと音を立てる。
 引き裂きたい衝動に指が震えていた。けれど、目の前の男達は、蔑んだ視線をよこすだけだ。
「破られても結構ですよ。それはコピーです。もっとも、その内容に間違いはないですから、あなたがとるべき行動は、我々に従うだけです。あなたが19××年10月31日にA市で出生した用賀蓮である限り」
 それは間違いなく蓮の誕生日だった。何より、そこにある両親の名前だって間違いはない。
「……だっ、て……これ……」
 その紙切れは契約書だった。
 一枚目は日付を見る限り蓮が生まれる一年以上前で、二枚目は、蓮の誕生日の数日後で、一枚目に追加されたものだ。コピーだからモノクロだが、正式な印鑑だろう凝った印影が複数、さらに両親の名の横には拇印すらある。
「紛れもなくそれらは本物です。あなたは、我々の道具となるべく育てられて、これよりは我々の管轄下に置かれます」
「俺、は……最初から?」
 男が淡々と知らせた事実は、その契約書にすべて記載されていたことだ。
「契約対象となった男女は金と仕事を得るために、我々の手により植えられた受精卵を受け入れ、子として育てる契約をしました。もっとも会社設立の初期投資にかかった金額を支払うことができれば、この契約はいつでも破棄できたわけですが……」
「わ、判ったからっ」
 目で読んでも理解したくない不快な内容を、わざわざ耳にしたくはない。
 声を荒立て大きくかぶりを振る蓮に、男は黙った。再度目にした契約書はもう皺だらけだ。けれど、その内容は消えない。何かを言わなければと思うのに、それは決して口から出ることはなく、自分が何をしたいのかも判らなかった。
 そんな混乱の渦にいる蓮に、男の声が再度響き始めた。
「ご両親が経営している会社は、我々の援助が無ければすぐに倒産します。それは今までずっと変わらず、結果、返済は一度も行われていません」
 良い両親、とは、さすがに言えないけれど。けれど、悪いとは言えなかった。
 仕事で忙しいから放置気味で、かなり好きなように育ったけれど、数えるほどとはいえ家族旅行も行ったこともあるし、参観日や運動会などの学校行事も顔を出してくれていた。それに、三人の弟妹達とも分け隔て無く育ててもらっていると思っている。
 だから、あの両親がそんな契約を交わしていたなどと、思えない。
「信じ、られない……、こんなの、信、じら、れない……」
「我々もあなたが必要になりましたので、ここで契約を履行させていただきます」
 男の声が冷たく脳髄まで響く。
 その冷たさが体の芯まで凍らせて、神経すべてが麻痺してしまう。寸前に開いたまぶたの奥で、瞳すら動かない。見えるのは、男の瞳。その濃茶色の虹彩がひどく赤みを帯びていた。
「私たちは、新たな存在を引き入れたときに名前を与えます。おまえの名は、憐(れん)。憐れみの憐。その名に、他人の憐れみを封じ込めます。よって、おまえは今後一切憐れまれることはないでしょう、たとえどんな行いを課せられたとしてもね」
 それがどんな意味なのか。考えるより先に、次の言葉が続く。
「憐、良い名ですよ。おまえのような物にふさわしい名だ」
 伸びてくる男の手から逃れることができないままに頬に触れられて、全身に怖気が走る。男が連に対する呼称を変えたと同時に、彼の雰囲気が変わっていた。
 得体の知れなさはさらにひどくなって、この世のモノとは思えぬ気配が辺りに充ち満ちている。
「憐、おまえのすべては我が主人に支配される。我は綱紀(こうき)。そして主人の名は羽角(はずみ)様。これより羽角様の言葉はおまえの命よりも遵守すべき”絶対の命令”になります」
 綱紀の言葉が終わる頃には、憐と名付けられた体はぴくりとも動かなくなっていた。
 


 移動させられている間に混乱した心は落ち着いて、今度は不安に押し潰されそうになる。
 どう考えても尋常でない状況ではあったけれど、こんな契約書はしかるべきところに行けば破棄できるはずだと言うことも思いついた。だが同時に、男達から伝わる異様な雰囲気が、その希望をも打ち砕く。実際、何をされたというわけでもないのに、自分の意思では体が動かないのも事実で。
「あなたの住まいはここ。主要な仕事場もここ。期間は永遠に、です」
 男により連れてこられたのは、豪邸と呼ぶべき日本風の屋敷の奥まった場所で、そこには白壁の倉のような大きな建物があった。倉に見えたのは窓が少なく、あっても小さい上に、出入り口となっている扉は観音開きの重厚の物だったからだ。
 その中で永遠に働け、という言葉も異常だが、その内容がまともな仕事とは思えない。
「な、にを……? あ、嫌だっ」
 扉の中に押し入れられそうになって慌てて戸口に手をかけて振り返る。
 複数いた男達は一人だけになっていて、最初に契約書を渡してきた綱紀という男だけが残っていた。そういえば、最初から最後まで喋っていたのはこの男だけだったと今更ながらに気づく。
 このまま入れば、もうきっと出てこられない。
 そんな恐怖心に煽られるままに抗えば、綱紀の瞳が不気味に鈍く輝いた。
「入りなさい、憐」
 それは、自分の名で無いと判っているのに、自分の体を縛り付ける。
「あ……」
 踏みとどまっていた足が動いて、狭い三和土に入り込む。その先にあるふすまはすでに開いていて、足がそこまで体を運ぶ。
 奥の座敷は、煌々と灯りが灯っていたので、中の様子が丸見えだ。
「……な、んで……?」
 思わず呟いたのは、饐えた臭いが充満している上に、畳の上にいくつもの岩が転がっていたからだ。その間には鎖が伸びていて、木の枝のようなモノすら転がっていてた。しかも、畳も壁も、外の綺麗さとは段違いに薄汚れていて、ひどく汚い。
 広い、けれど、モノも多い。
 この倉のような建物が建っていた場所は、綺麗に手入れされた日本庭園だったが、ここには同じような素材があっても、荒れて放置された庭のように酷い。ただ、雑草はなさそうだったけれど。
「だ、れ……」
 呆然と辺りを見渡していると、いきなり声がかけられた。
「ひっ!!」
 背後の綱紀からではなかった。出入り口とは反対側の一番奥、大きな丸鏡の方からだ。
 誰もいないのに声がした場所に目を凝らしても、やはり何も見えない。
「それが、そうか?」
「これは、羽角様」
 今度は背後からの声に慌てて振り返る。
「さようでございます。と言っても、まだ収穫したばかりで、加工はできておりません」
 綱紀が深々と頭を下げて礼を尽くす相手は、大きいと思った綱紀よりも体格が良く、出入口を塞いでいた。
 その威圧感と不気味な気配に体から一気に力が抜けて、すとんと腰から崩れ落ちる。
「珍しいことよ。お前が手を抜くとは」
 ぎろりと綱紀を横目で睨み付けるその眼光も鋭すぎて、正視できない。
「手を抜くとは滅相もございません。憐は貴樹(たかき)様専用の給餌器故に、その加工に愚鈍な輩は使用できません」
 綱紀の言葉は淀みなく、羽角と呼ばれる恐ろしい存在の叱責も意に介さない。
「もっとも、憐は生粋の淫魔の血筋。私の手元にいる憂と黄勝様保有の雌の淫魔を掛け合わせた受精卵でも優れた遺伝子を持つモノを選び抜いております故に、加工に手間はかけさせぬと。ただ、その体に、お二方の存在を刻みつけていただければそれでよろしいのです。優れた淫魔であればあるほど、少ない回数で覚醒いたします」
「なるほど。しかし雌の淫魔は、まだ一匹か? 量産するのではなかったのか?」
「なんとか一匹生まれましたが、卵子採取には後10年ばかり必要です。どうやら、淫魔の雌は遺伝子的に劣勢のようでして。それ故に、卵子が採取できるのは、未だ憂の母親である一匹のみ。しばらくは、雌の淫魔は子作り専用にしかなりません」
「そうか、まああれほど優秀な淫魔を二匹も産んだ雌ならば、その子は期待できようよ。まして、雄側が覚醒しきった憂ならばな」
 ぺろりと長く赤い舌が蠢いて、羽角の舌が乾いた唇を舐めていた。
「あれは、あれで傀儡(くぐつ)以上に良い糧を多く放出してくれるが、いかんせん配下集めという重要な任を与えている故に、貴樹には足りぬ……」
「さようで。しかしながらこの憐は貴樹様専用。もちろん羽角様がどのように使われようともかまいません」
「ふむ、で、名前は憐か、意味は?」
「憐れみを封じ込めております。これからはたくさんの人の精を集めて貴樹様に捧げねばなりません故に、憐の前ではどんな輩でも遠慮、躊躇いなど感じないようにしております」
 その言葉に、羽角の口の端がにやりとあがるのが見えた。
 笑っているのだろう。それもひどく楽しげに。けれど、その笑みが深いと判れば判るほどに、人の名を捨てさせられた憐の体は恐怖に凍り付く。
「相変わらず悪趣味な名前よ。もとより淫魔の虜となった輩は、誰も遠慮などせぬというのになあ」
「もちろんでございます。ただ貴樹様は虜にはなりませぬ。それに、理性の戻られた貴樹様は人のように情けを持っておられますから、淫魔にも遠慮されるでしょう? けれど、憐相手はそんなこともございません。どうか、貴樹様には衝動の赴くままにお使いいただければと思いまして」
「なるほど、確かに貴樹は淫魔ごときの虜にはならぬし、あれは無駄に優しい。だが、給餌器ごときに憐憫などもたれても業腹だ。確かに憐の名はふさわしい」
 給餌器?
 意味不明な言葉に、呆然としている憐に、羽角が楽しげな視線をよこした。
「憐、貴樹に会わせてやろう。俺の大事な連れ合いで、お前の主人となる貴樹だが、あれはどん欲でいつも物足りなくて飢えておる。その飢えを満たすのがお前の仕事だ」
 その言葉が終わるより先に、ジャラジャラっと金属が擦れる音がして。
「あ、わっ!」
 いきなり座敷の中央に何かが降ってきた。鈍色が絡まった白いモノが蠢いている。
「貴樹様ですよ」
 それが人の裸体なのだと判ったけれど、目を逸らすことなどできなかった。
 吊られているのは男なのだと、こちらを向いている股間にあるペニスで判ってしまう。
 彼は、全裸で何一つ隠すことなく、その体に鈍色の鎖が絡まって中空に吊られている。いつからそこにいたのか、見上げれば高い天井には、鎖やロープがつながった滑車がいくつも見えた。
 その瞳は酷く虚ろで焦点が合っていないのに、それでもこちらを見ているのは判る。まるで何かを探しているかのように、のろのろと動くのは頭だ。
「先日、我慢せずに配下の輩を喰ろうたので、罰として吊している。飢えると見境が無くなって困るので躾けていた最中なのだ」
「喰らうって……罰、躾け……」
 若い、自分とそう変わらない男だ。
 苦しげに蠢く体は、そんな中でもはっきりと勃起しているのが見える。
「貴樹様は男の精を喰らい続けないと飢えてしまうのですが、時々羽角様が許したモノ以外の精も喰らおうとなさるのですよ。ですので、ああやってご自分では男を銜え込むことなどできぬようにしているのです……。と言っても羽角様? 貴樹様の理性は完全に飛んでいるようですが、いつから糧を与えておりませぬのですか?」
 綱紀の言葉に、羽角は首を傾げて。
「吊す前は2週間だな。喰らった奴は2発で引き剥がしたから、飢えは解消されておらんだろう。それから……もう2週間あのままだ」
「2週間?」
「ということは4週間ですか、食事も当然無しですよね」
 2週間も吊られたままという信じられない言葉に、呟いた憐の言葉に、綱紀の言葉が重なる。
「飢えて当然といえば当然でしょう。最近は、傀儡もなかなか作れませんから与えておりませんし」
「そろそろと思ってはいたのだが、欲しがって甘えて悶える貴樹の姿が気に入っているのでな。ついつい先延ばししておった」
 楽しげに話す言葉に、確かに愛でる感情は感じられる。だが、その内容は受け入れられるモノではない。
 しかも、あの飢えているという男に、自分は喰らわれるのだ。
 給餌器というのは、食事のことか? ──男を喰らう……と言っていた。
 それがいったいどういう意味なのか、未だに判らない。けれど、それがよいことではないのあまりにもはっきりしていて。
 ガタガタと震えて後ずさろうとしたけれど、その肩に重い手がすしりと掛かった。
「飢えているならば好都合。羽角様、まずは羽角様が先に。それにより憐の淫魔としての嗜好が決まります。それから貴樹様に糧を与えてくださいませ。順番を間違えますと、男を犯すことが大好きな淫魔となってしまいます」
 その言葉に、頭上の羽角がニヤリと嗤うのを、憐は硬直したまま見上げることしかできなかった。

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