続く痛みが無いこと気付いたのはいつだったのか。
ずっと浴びせられていた卑猥な歓声が、悲鳴になっていると気付いて、きつく閉じすぎて痺れたようになっているまぶたをゆっくりと持ち上げた。
少し垂れた頭を持ち上げるだけの力はもう無くて、けれど斜め前方で血飛沫が散っていた。
視線だけを動かして辿れば、傍らに座面を下げてた男が転がっていた。
右目があった場所が血に染まり、そこから長い棒状の物が突き出ている。
「……あ、れ……」
どこか覚えがある代物だった。
普通より太いそれは、破壊力があるから──と気に入っているのだと言っていた。
『本数は持てねえが、頭蓋骨すら貫通する威力を持ってんだ。敵をびびらせるには十分だ』
その重い矢を正確に放つだけの技量を持っていたのは、弓を得意とするジムリーだけで。
けれど、必死に首を動かそうとするけれど、どうしても動かなくて周りが見えない。
さっきまでの淫靡な空気は消えていて、代わりに血の臭いが立ちこめている。
爆音も、それに伴う火薬の臭いもしてくるというのに。
何かが起きていて、それは、きっと頭の片隅に浮かんだ想像の通りだろうと思うのに。けれど、確信を得ようとしても、動かない筋肉と真綿が詰まったように鈍い思考が、邪魔をする。
その視界に、ごつい革靴を履いた足が入ってきた。
「まあったく、ご主人様を放っといてこんな遠出しやがって。逃げられると思っていたのか? あっ?」
聞いたことのある声。
苛立たしげな口調も覚えがある。
「しかもこんなにボロボロになってよおっ、使えんのかよ、それで。くそっ、てめぇはっ」
いつも触れていた指の感触が額に触れる。その指に前髪を掴まれて頭を引き上げられて。
ようやく視界に入ってきた顔は、確かに知った顔だった。
もう、会えない──と。
深く眠れない夜の、悪夢の中で浮かんだ顔の一つに、助けてくれと懇願した相手。
「……ダマス……副……た、ちょ……」
記憶より無精髭が増えて、怒りのせいか肌が赤い。
「おうっ、ご主人様の名前を覚えていたことだけは誉めてやる。で、他の連中の名前も覚えてるんだろうなっ」
痛む前髪に顔を顰め、それでも促されるままに指さされた方向を見やる。
「……クド、ルス……様、……ジムリ……さ……、レ、ダ様……」
一人、一人。
クスリに冒されてうまく働かない脳でも、それでも10人の名は決して忘れることなく思い出す。その中のこの場にいる5人の名を告げれば、ダマスが口角を上げて頷いた。
「全員正解だ、覚えてた褒美に帰ったらたっぷりと犯してやる」
満足げに頷かれ、酷い言葉だというのにひどく安堵した。何より、”帰ったら”という言葉がたまらなく嬉しい。
「そろそろ終わりか」
視界を動かされて判ったけれど、会場はすでに死体ばかりが転がっていて、あれだけ大勢いた観客は一人もいなくなっていた。
「副隊長っ、片付きました。目的のルクザンって野郎も、ジムリーの矢を胸板に喰らって事切れてたんで、目ん玉くりぬきましたわっ。ってことで、さっさとずらかりましょう」
その右手がぶら下げる髪、その下には人の頭部があって空洞となった眼窩がこちらを見ていた。
それは、確かにルクザンで、さっきまで面白そうにミズサを揶揄していたあの男が、今は物言わぬただの物と成り果てていた。
腹に、胸に、突き刺さる太い矢の数の多さに、確かにその男が対象だったのだと知れる。
ミズサが囮に出ていた作戦の対象はこの男だったから、後を追ってきたのだろう。痕跡を探り、ラカンの国境を越えて、さらに塩湖を越えての追跡は大変だったろうに。ひどく手間をかけさせてしまったと、もっと何かできたのではないかとひどく悔いる。
こうやって動けもしない己などうち捨ててくれればよいのに。
「よおっしっ、これで目的は達成。後の有象無象の輩は、俺たちの敵じゃねぇっ、てことで後は帰るだけだな」
手にぶら下がる血濡れた証拠品は、持って帰れる物ではない。
もとより身体を持って帰るのも大変だし、一昔前のように首を持って帰るのも重いだけで始末に困る。
だから、それが本物だと証明さえできれば、死体はうち捨ててしまうことが多かった。ただ、もし仮死状態だったとしても、後で生き返ったとしても生きることのできない身体にするのは鉄則で、その中で目玉は、未だラカンの再生技術でも視力の回復をさせることのできない代物の一つということで、対象にされることが多かった。
「クドルスっ、頼むわ」
寄ってきたクドルスがミズサの身体を支えると、ダマスが剣で拘束している紐を断ち切った。
がくりと崩れ落ちるミズサを、クドルスが持ち上げて。
「うっくっ」
ずるりと体内から引きずり出される感触と痛みに、身悶え唸る。
力無く垂れた足にたらりと流れる血の色に、誰もが視線を逸らしたのは一瞬で。
「とにかく出るぞ、こんな胸くそ悪いところは」
「副隊長?っ、この馬使えそうっす。荷役用なんすけど、これならクドルスとミズサ二人が乗っても大丈夫ですって」
レンダが連れてきたのは、陵辱用に用意されていたあの馬だ。
「ほおっ、こりゃでかい。が、扱えるのか、興奮しているようだが」
「お任せっ」
レンダの言葉に嘘は無い。だいたい問うたダマス自体が疑っていない。
作戦の最中で急遽馬を借用するのは良くあることで、使えるか使えないかの判断は即座に必要だ。特にレンダはその判断がうまく、そのレンダが連れてきた馬が使えない訳はないのだ。
数度、荒れた馬の首にその手を触れさせ、静かに語りかけて。
野生馬ならいざ知らず、もともと使役されていた馬などレンダの手にかかれば自身の馬のごとく大人しくなった。
先にクドルスが乗り、ミズサを抱え上げる。力の入らない身体を縄で縛って身体に括り付けられた。
「うっ……くっ」
鈍い痛みが下肢から全身へと広がる。
力の入らない身体はたいそう邪魔なはずなのに、クドルスは縄で支えた身体をさらに片手で自身に身体に押しつけた。
「傷に響くだろうが、できるだけじっとしていろ。体力を消耗するから声も押さえてろ。塩湖の中でガザが待っている」
「ん……」
けが人の治療を担当する仲間の名前に、吐息で返して。
うまく動かない指先で、それでも力を込めてルクザンの服を掴む。大きな身体に包み込まれて、服越しにその体温と筋肉を感じて、零れた吐息はひどく甘い。激痛の原因がなくなり、クスリの効果が表に出てきていた。
朦朧とするほどに眠くて、けれど脳の奥底が完全に覚醒していて眠れない。身体が熱くて燃えるようで、全身の肌と内臓が疼いて仕方がない。破れて出血するジクジクした痛みにすら、脳が快感と捉えた。
与えられたクスリ全部が、ミズサの身体を蝕んでいる。
内臓がボロボロになる──そう言ったルクザンの言葉をミズサは覚えていた。
それでも、怖い──と、今はもう思わなかった。彼らの元で死ねるなら、それはそれで良いと思っていた。
願わくば、もう一度だけでも彼らみんなこの身体に受け容れて、抱かれてから死にたかった。
処刑として浴びた陵辱の記憶を、せめて、塗り替えたかった。
「行くぞ」
かけられる言葉に小さく頷いて。ぎゅっと力を込められたクドルスの腕の力を優しく感じて涙する。流れる涙は止まらなく、クドルスの服を濡らしたけれど、彼は何も言わなくて。
「よし、帰還だっ」
ダマスの声が響く。
「おおっ!」
明るいかけ声に、ミズサも喉の奥で小さく「おう」と息を吐き出した。
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