「か、い、とっ」
「え?」
席について溜まっていた事務処理をこなしていた伊月海人は、背後から弾けるような明るい声で呼びかけられ、何事かと振り返った。
途端に目の前に色とりどりのリボンと包装紙に包まれた箱がいくつも差し出され、咄嗟にイスごと後ずさる。
ガタッと派手な音を背後の机がたてて、その拍子に床に筆記用具が転がっていった。
「な、何……?」
少々のことでは狼狽えない海人も、さすがにここには似合わない煌びやかなそれらに目をぱちくりと瞬かせる。
メタリックな包装紙が多い中、可憐な花を象ったリボンが華やかさに色を添えている。
「今日はバレンタインでしょ」
海人の問いかけに代表して答えたのは、同じチームに所属しているリシューだ。
アキヤより後に入った彼女は、小柄ながら機敏で快活な行動力で海人達を圧倒する存在だった。外見だけではとてもそうは見えないその彼女が、嬉しそうににっこりと微笑みを浮かべれば、どんな男とて思わず振り返るだろう。
「だから、どうぞ」
その彼女が、その笑みを浮かべて、差し出してくる。
どうぞと言われても……。
ぐぐっと差し出されるその箱の山に、海人も思わずさらに後ずさろうとするが、もう無理であった。
「で、でも……」
「こらあっ、僕の海人に何してんだっ!!」
もう逃げるところはないというところで、アキヤという助け船が現れた。
だが、海人にしてみれば助かったと言う気はしない。
何よりアキヤのその言葉に、火を噴いたように顔が熱くなる。
途端に、きゃあっと黄色い歓声が上がり、その歓声の意味を知っている海人をますます追いつめるのだ。
「リシュっ!!お前はっ!」
「邪魔っ!!」
手加減もせずにリシューの胸ぐらを掴んだアキヤの体が、速攻で引きはがされ宙を舞う。派手な音を立ててひっくり返ったのは、クレスタの机だったが、当の本人はさっさと安全圏へ逃げていた。
もっともそれ事態はいつものことなので、海人とて気にはしないのだが。
「でね、受け取ってくれないの?」
あくまで海人にはにっこりとシナを作るリシューは見た目だけ言えば可愛い女の子だ。
そんな彼女プラス一体何人いるのだろうというくらい視界には女の子しか入ってこない。
「で、でも……」
バレンタインって、好きな人に贈り物をするんだよな……。
海人の一週間前に仕入れたばかりの知識は、その程度。
となるとこれを受け取るわけにはいかない、という気になってしまう。
だが、どう見たって目の前の彼女たちは、海人がそれを受け取るまで引き下がりそうにない。
「でも、その……」
どうすればいいのか見当もつかない海人の視線がうろうろと彷徨う。自信なさげな海人の様子は、彼女たちの庇護欲を駆り立て、ますますエキサイトさせるしかなかった。
「あ……もしかして、海人ってばアキヤに遠慮してんの?」
さすがに海人が配属されて以来の同僚であるリシューには海人が躊躇う理由に気がついたようで、首を傾げて問いかける。
その視線が何げに床上にだらしなく伸びているアキヤに向けられていた。
その瞳に同情の色はない。
何よりリシュー自身が投げ飛ばすついでに急所に一発叩き込んだから、そう簡単には目覚めないだろう。
それを一目で確認したリシューは、視線を海人に戻すとにっこりと微笑んで手の物を差し出した。
「大丈夫、これは義理チョコだから」
「……義理チョコ……?」
義理……って……。
その単語が脳の記憶を探り、そういえば、と思い出す。
「あ、そうなんだ……義理チョコなんだ……」
情報ソースである雑誌にも載っていたではないか。
好きでなくても親しい相手や上司に贈るのに使うアイテム、とか……。
そっか……、と、ほっと安堵の溜息を漏らす。
だったらいいか……。
相変わらず伸びているアキヤをちらりと横目で見て、それから海人はリシュー達ににっこりと微笑んだ。
「ありがとう、貰うよ」
途端に事務所内が甲高い黄色い歓声に包まれる。
その様は、少々の事ではびくりともしない筈の窓枠がびりびりと震えるほどだったらしい。
とりあえず目の前の人達のを受け取ってみたら、次から次へとひっきりなしに人がやって来た。
一人ずつ名前を確認して受け取った贈り物は、机一杯に山となっている。
女も男も……30を数えたところで、海人は数えるのを放棄した。
「……結局受け取ったのかよ……」
地の底から滲み出るような声音がまさしく床の方から聞こえてくる。海人はそちらを見もせずにこくりと頷いた。
だって義理だから。
そう思っていたからだ。それに貰える物はなんでも貰え、と貧しいときに染みついた性格は、容易なことでは消えやしない。それはアキヤには決して漏らせないことだった。
「せっかく持ってきてくれたのに、断るのも悪いだろ。それに途中でいらないっていう訳にもいかないし」
だから、やんわりと伝える。だが、アキヤはそれでは納得していそうにない。
「だって……僕がいるのに?」
手が伸びてきて、ハートマークが散りばめられた包装紙の箱を掴んでいく。
睨み付ける目の力が尋常ではない。
一体何を怒っているのか?
どうも海人の休み明けから、アキヤの機嫌が悪いような気がしてならなかった。それが今日は最悪だ。
なにかにつけて、つっかかってくる。
「義理だって言ってたからね」
そういうのが普通なんだろ?
あんなにも雑誌で取り上げるくらいなんだし。義理チョコはここがお勧め、とか雑誌にも載っていたし。
贈って当たり前なんだと、海人は思っていたから、貰っても当然と思ったのだ。
アキヤが何をそんなに文句をいうのか判らない海人は、とりあえずこの山をどうしようかと悩んでいた。
山になっているこれらの贈り物が邪魔で仕事にならない。
「くそ……これなんて、超高級チョコじゃんか……下心丸見え……」
机の下でアキヤが意味不明なことを言っている。
「うぐっ」
カエルを踏んづけた時のような断末魔の悲鳴にふと視線を走らすと、後の席のクレスタに羽交い締めに合っていた。
「アキヤ……うるせー……」
なぜだがクレスタも不機嫌そうだ。
なんでだろう?
海人には検討もつかない。だから、二人は放っておくことにした。
こんなことを気にしていたら、ここでは仕事にならないからだ。
「うぐうっ!!」
片手一本とは言え見事に決まっていて、アキヤは逃れることができずにじたばたと藻掻くだけだった。
「お前まで女みたいにきゃんきゃん騒ぐと鬱陶しいんだよ。それでなくてもさっきの騒ぎで俺の耳はどうにかなっちっまってんだ。それにな、お前だって俺よりたくさん貰っているんだ、海人の事とやかく言えねーだろーが」
その言葉に海人の視線が無意識の内にアキヤの机に向かう。
「……断っても……くれるって言うんだから……。仕方ねーだろ」
ようやく解放されたアキヤはぜいぜいと喉元をさすりながらクレスタを睨んでいた。
「でも義理なんだろう?」
義理だったら別に受け取ってもいいと思っている海人にしてみれば、アキヤ達が一体何を騒いでいるのか判らない。
「……これだからな?……」
海人の言葉に力無く蹲るアキヤに、クレスタがニヤリと笑った。
「この多量の”義理”に勝てるのかね、お前は?」
「煩いっ!!海人は僕のものなんだっ!!」
ガンっ!
小気味よい音が室内に響く。
「いい加減にそれはやめてくれ……」
頬を朱に染めた海人が、わなわなと震える手を握りしめていた。
もっとも、その言葉を崩れ落ちたアキヤは聞くことはできていなかった。
まったく、どうしてこうなんだ。
事あるごとに大声で「海人は僕のものだ」と叫ぶアキヤには恥ずかしいから止めてくれと言っているのに。
最近では、思わず手か出てしまう。
なのに、どうして止めてくれないのだろう。
アキヤを見下ろしながら深いため息をつく海人に、クレスタは苦笑混じりで呟いた。
「取られると思ってんだよ」
取られる?
その意味がわからない。
海人にとって、アキヤ以外はそういう対象ではない。
アキヤがいればそれでいいというのに。
憂いに眉間にシワを寄せて顔を顰めるその切なげな様を、通路から頬を染めた女性達が見ていることにも気付かない海人には、アキヤの心配など何も判っていなかった。
バレンタインデー。
海人がその意味を知ったのは、実はつい一週間ほど前だった。
その日、海人は久しぶりに取れた休み。
ゆっくりと骨休みをするつもりで、怠惰に過ごしていたのだったが。
結局は暇に負けてしまった。
ずっと生きていてこんなにも穏やかに時を過ごすことがなかったから、どうにもいたたまれなくなるのだ。
このオリンポスに来た時はとにかくアキヤを探すことに一生懸命だった。
それが解消されて、アキヤとともに働けるようになったら、今度は配属されたドドナ中央警察署はやたらに忙しかった。
それに、やはりなんと言っても星が違うというのは、想像以上にいろいろと問題点が湧いてくる。
生活習慣が違うのは判りきっていたのだが、うっかり失念していたのが、言葉の問題。
アキヤと普通に喋っていたのであまり気にしていなかったが、研修施設を離れ一人で暮らすようになるとそれがいろいろとトラブルの原因になり始めた。
基本言語は宇宙どこに行っても同じ。
だが、方言ともいうべき独特の言い回しがやはりこのオリンポスにも存在した。いや、長い間独自の文化を築いていたオリンポスだからこそそれが多い。
アキヤ達は巧みにそれを使い分けているようなのだが、ごくごく一般の人達で地上でしか暮らさない人達は、馴染んだ言葉でしか話さない。
そのせいで最初は特に苦労した。
何せ捕まえた犯人が興奮状態で喚くと、何を言っているのか判らなくなることがあるのだ。
だから、暇さえあれば言葉の勉強をするようになった。
アキヤが隣で拗ねていても、ここで暮らすためにはしようがない。
申し訳ないと思うのだが、やはりオリンポスという独自の文化を身につけるためにはまだまだやることはたくさんあった。
暇つぶしと勉強を兼ねて、買ってきた雑誌のデータをハンディターミナルに転送する。ポケットにしまえるほどに折り畳み可能なスクリーンと言ったふうのそれは、新聞や本・雑誌用の物でどこの家庭でも家族分はあるものだ。
その辺りの便利さは、前の街に比べれば段違いだと思う。
あそこは、紙ゴミの山があちらこちらに無造作に放置されていて、景観を損ねていた。というよりそれがあることを誰も気にしていなかったのだ。
だがここオリンポスでは、これだけ人口があってもゴミは少ない。無駄は効率的に排除しているせいで資源が有効活用できているのだ。
僅かに覗くサイドのスイッチをコントロールして、ページをめくる。
若い年齢層向け生活情報誌に区分されるその中身は、話し言葉を用いた記事も多様で、言葉の勉強にはちょうど良い。
そしてその雑誌の特集記事が、バレンタインデーだったのだ。
「バ……レンタ……イン?」
きっとそう読むのであろうタイトル。
何だろう?
妙に浮かれた感じのレイアウトが目立つ。
海人は首を傾げながら、辞書用のターミナルを操作した。
勉強中の海人には必須のアイテムで、ドドナに来てすぐにアキヤがプレゼントしてくれたものだ。
『VALENTINE……バレンタイン……恋人同士がプレゼントしあい、お互いの愛を確かめ合うもの。または、親愛の印を送るもの……。古地球より連綿と受け継がれてきた行事で、特に東洋の国においては好きな相手にチョコレートを贈って求愛したという……』
「へ、え?、そんな行事があったんだ……」
単語の意味が判って、海人はもう一度雑誌へと目を向けた。
前に暮らしていた街ではそんな習慣は無かった。だいたい愛を確かめ合うということなど、意味がなさない街なのだから。だが、この辞書に書かれている内容を見る限りでは、この行事はこの星ではごく一般的に行われているものらしい。
しかも……。
雑誌には、『恋人同士ならここが必見っ!』とか『愛を語らうデートスポット!!』、『彼が喜ぶプレゼント特集』などといったベタな文句が踊りまくっている。
アキヤ辺りが見たら、苦笑を浮かべそうなほどのあおり文句なのだが、海人にしてみれば見るもの全てが面白い。しかもバレンタインにするべき事をいろいろと教えてくれる貴重な情報ソースとなっていた。
「恋人同士……って言うんだったら、俺とアキヤもそうなんだよな……」
となると、やはり贈り物はしなければならないことになる。
海人は、もう一度辞書を起動した。
DAYとついているのだから、日にちが決まっているということだ。その日がいつなのか?
「……2月14日?来週の……金曜日?」
ふいっと壁に表示されているカレンダーを確認する。
「あまり日がないな……」
海人の長い指が折り曲げられ日を数える。
「5日……その間に休みはないし……。となると今日だけ?」
相手を驚かすプレゼント……なんて書かれているところを見ると、こういうプレゼントは黙って用意するものなんだろうな……。
となると今日買ってこないと。
プレゼントなんて、今までしたことがなかった海人にしてみれば、その行為自体、考えるだけで楽しくなる。
いそいそと支度をして出かける海人の留守宅に忘れた携帯電話に、アキヤから何度かかってきたのを、海人は帰ってから知ったのだった。
山のような多分中身はチョコであろう贈り物を持ち帰った海人は、それらを脇に置き、ほっと一息吐いた。
本当なら、その足で隣のアキヤの部屋に行くつもりだったのだ。が、アキヤはまだ帰ってきていないのは知っていた。
隊長に捕まって、警察署内のどこかの部屋に監禁され、始末書を書かされているからだ。
ったく……。
何やってるんだ、あいつは……。
無鉄砲というか、何と言おうか。
今回は海人は止めようとしたことと、それを見ていたリシューの口添えもあって、海人自身はお咎め無しだった。それにはほっと安堵するのだが。
一体どうしたと言うんだ?
あれから機嫌の悪かったアキヤとともに警戒区域の巡視に出かけ、そこでたまたま見つけた痴漢を追いかけていった。
アキヤが捕まえたのはいい。
問題なのはその手段だった。
アキヤは一人で逃げる痴漢を追いかけるために”たまたま”傍を走っていた車を止めて”無理矢理”借り受け、”走って逃げている”痴漢の前に車を突っ込ませ、腰を抜かしたその男を”ぶっ飛ばし”、逮捕した。
その暴走ぶりに海人よりよくアキヤを知っているリシューすら呆れ果て、事情を知ったクレスタが天を仰いだ程なのだ。
何せ。
突っ込んだせいで借り物の車は大破。レッカー移動を余儀なくされ、しかもあのまま廃車になる可能性が高い。
突っ込まれたのは洋服の店舗で、客がいなかったのが幸いしたほど、滅茶苦茶になってしまった。あれも、ほぼ全改装になるだろう。
ついでに、僅かな走行中に3本の街頭と、1本の表示板を破壊している。
しかもその痴漢は、歯を数本折り、その他のキズで全治1週間と診断された。
どうして他に怪我人が出なかったのか不思議なくらいのその暴走ぶりを知った同僚達は、そんなアキヤを手ずから捕まえて隊長に差し出し、その場を逃げ出した位だ。
つまりアキヤが今日帰ってくる可能性は低い。
「せっかく用意したのに」
先週の休みの時、雑誌に載っていた贈り物に最適な品物が置いてあるという店を歩き回り、限定商品だというのを無理矢理頼んで作ってもらったものが、宅配便ボックスに届いていた。
それを取り出して、テーブルの上に置く。
シンプルな若草色一色の包装紙に、メタルシルバーのリボン。そして同じくメタンシルバー製ホログラムのハートマーク。
賞味期限付きシールには、小枝に小鳥が一羽留まっていた。
「レストーナ」という店で、マスターではなくまだ若い子が作ったいつもより大きめの特別チョコレートクロワッサン。色とりどりのトッピングはすべてハートマークだ。それぞれに小さなチョコレート製ネームプレートがお互いの名前入りで飾られているという代物。単なるチョコレートではないものということが、おすすめのポイントということになっていた。しかも味は保証付き。
『Sincere Love(心からの愛)』というネーミングも気に入って買うことにしたのだが、雑誌に紹介されただけあって、限定販売のそれはすでに予約個数を大きく上回っていた。
女の子ばかりでごった返す店の中、「どうしても欲しい」という海人の頼みに困ったように顔を顰めながらも頷いてくれた彼には本当に感謝したというのに。
「はあああ???……」
渡したい肝心の相手が帰ってこない。
「どうしよう……」
海人は溜まらなく寂しい気持ちになって、ぺたりと座り込んでしまった。
と言ってもそれは数秒のこと。
「よし」
気を取り直したかのように立ち上がった海人は、その箱をそっと持ち上げた。
待っていてもアキヤは帰ってこない。
ならば、行けばいいのだ。
歩いて数分の職場。
機能美を追求したのではないかというその外観は、そのせいである冷たさと、くすみのないアイボリーの壁が持つ暖かさを同時に持っていた。
アキヤが監禁されている部屋は、だいたい想像がついていた。
アキヤに付き合わされて海人も何度も入ったことがあの部屋だろうと検討をつける。
独自のセキュリテイがきく拘束室。そこでないとアキヤは巧みなワザですぐに脱走してしまう。
結構簡単に暴走してしまうそんなアキヤを見ていると、あの街でいかに我慢をしていたのか判るような気がした。
だが、そんなアキヤを見ても嫌いになどならない。むしろ、前よりも好きになる。
飾らないアキヤ。いつもいつも正直に生きているアキヤが海人は好きなのだから。
部屋の前まで行くのは容易い。
海人は紛れもなくこの警察署に所属する者だし、このフロアは警官であれば誰でも立ち入ることができるからだ。
問題は鍵。
扉の上に、訪問者を確認するセンサーがあるはずで、それをクリアしないと鍵は開かない。
どうしたらいい?
この鍵のセッティングをしたのが上官であるならば、そのランクの証明が必要だというのに。普通考えたら海人の身分証であるピアスでは、鍵は開きそうにない。当然アキヤでも無理。
これがアナログの鍵ならばどうとでもできるのだが、根本的なセキュリティで弾かれる以上、どうしようもなかった。
それこそ、来てはみたけれど……だ。
たが。
それでも海人は、開閉スイッチを押していた。
押せばいい、と勘が言っていた。
「え?」
開くとは思わなかった扉が静かに左右に開く。
煌々と灯りがついた先で、開いたことに気付いたのだろう座っていたアキヤがこちらを見て……呆然と目を見開いていた。その手元にある始末書のフォーマットには未だ一字一句打ち込まれていない。
「か、いと……?」
「開くとは思わなかった」
素直な感想を口にして、室内に入る。
どうやらこの部屋のロックはアキヤ専用に設定されていたらしい。
それにほっとする。それこそ、扉を壊さないと駄目かと思っていたのだ。
にこりと笑いかけた先でアキヤが、のろのろと立ち上がった。
「何で?」
ここに海人がいるのが不思議だと言わんばかりに海人を凝視している。
「だってさ……今日はバレンタインデーだろ?だから…アキヤにプレゼント持ってきた」
そう言いながら、持っていた箱を差し出す。
「僕に?」
そう呟いたまま、箱を凝視するアキヤは身動ぎ一つしない。
なんで?
そんなアキヤに海人は急に不安になってきた。
もしかすると、迷惑だったのだろうか?
好きな人には贈り物をするのがバレンタインデーなのだから、アキヤに持ってきた。
それとも、アキヤは俺のこと好きじゃなかっただろうか?
そういえばずっと機嫌が悪かったのは、バレンタインデーという行事自体が嫌いだったんだろうか?
ふと思い当たったその考えに、持ち上げていた手から力が抜けていく。
これを渡したくて、ずっと今日一日夜がくるのを待っていたというのに……。
「アキヤ……そのさ……。俺、バレンタインデーって、今までしたことなくて……。好きな相手に贈るんだって知ったから……用意したんだけど……」
「好きな相手……?」
何故にそこで疑問形なんだ?
尻上がりの言葉尻が気になる。
「そう……。違った?辞書にそう書いてあったから……」
もしかすると解釈が違っていたのかも……。
不安が込みあげて、声からも力が抜ける。
仕事絡みならどんなことでも強気になれるのに、まだここの生活習慣をすべて知っている訳ではないから、不安になってしまう。
「……ごめん……」
もしかすると解釈が違っていたのかもしない。
海人が持っていた箱を引っ込めようかとしたときだった。
「それ、本当に僕にくれるのか?」
嬉しそうなアキヤの声にはっと顔を上げる。
泣き笑いのように顔を歪めたアキヤがそこにいた。
「だってさ、俺が好きなのはアキヤだから。ほら、その……”義理”とかじゃなくて……」
義理は、好きでもなくても上げられるけど、これはそうじゃない。
そう言った途端、アキヤがいきなり抱きついてきた。咄嗟に脇に避けた箱は、すんでの所で潰さずに済んだが、その反動で海人はしたたかに背中を壁に打ち付けるハメになる。
「ア、アキヤっ、痛いっ!」
「ごめん、だけど嬉しいっ!海人がバレンタインのプレゼントくれるなんて」
どうしてそんなに悦ぶんだろう?
「そりゃ……アキヤのこと好きだから」
恋人同士の行事だって書いてあったから。
「でもさあ、そんなそぶり一つも見せなかったし。女の子達から一杯貰って悦んでいたし。なんかさあ、僕がいるのに?って腹がたっちゃって」
「だって、あれは義理だろ?」
何をそんなに腹が立つことがあるんだろ?
贈り物って言うのは貰う物だろう?
「義理でも、その中に本命があったりするんだよっ!」
「本命……って?」
そういえば、雑誌の中にもそんな単語があったような……。
「だから、本当は好きだよって意味を込めた奴。だから、海人が受け取るのがイヤなんだ」
「えっ……そんなものなのか?」
「そんなものなのっ!」
アキヤにそうやって力強く抱き締められると、何がなんだか判らなくて混乱していた気分が落ち着いてくる。気がつけば、うっとりした気分でもたれかかっていたせいで、箱が落ちそうになって慌てて抱え直した。
「だいたい、いつ買ってきたんだよ。これってヘスティアの司令部がある街にしかない店のものじゃないか」
ちらりと見て取ったエンブレムを見ながらアキヤがそれを受け取ってくれた。
「先週の休みに、そういう行事があるんだって知ってさ、それで買いに行った。その店が雑誌に載っていたし、『Sincere Love』って名前がついていて……だから気に入った」
触れたところからアキヤの穏やかな心音が伝わってくる。
何もかも安心させてくれる音色だと、いつも思う。
「心からの……愛、か……」
感慨深げに言う言葉が振動となって海人にまで伝わった。
気持ちよくて、もっと味わいたいといつも思うその振動。
「嬉しいよ。海人はこんなにも僕を思ってくれているんだよな。なのに、僕さ、何にも用意していなかった」
「アキヤは休みなかったろ。この前の休みは事件が起きてつぶれていたし」
「でもさ」
「いいんだ。俺はこうしてアキヤが傍にいるだけでいい。今がすごく幸せだからな」
ほんとうに、この前までは考えもつかなかった。
自分はあいつらにぽろぽろにされて、誰にも思われずにのたれ死んでしまうのだと思っていた。それでもいいと思っていたのだ。
だが、今もし死んだらアキヤが悲しんでくれるだろう。いや、アキヤが悲しむと思ったら、死にたくはなかった。
「海人……」
優しい言葉とともに唇が触れ合う。
こんな優しいキスもアキヤとしかしたことない。
ほんの少し触れて離れた先をじっと見つめる。
「アキヤ……。アキヤはいつも俺にとっては初めてだって思うことをしてくれる。しかも、そのどれもが堪らないくらいに幸せだって思えるんだ。いつだってそうで……俺はそうやって、もう貰いきれないくらいのプレゼントをアキヤから貰っているよ」
「海人……」
視界の中のアキヤは、今にも泣きそうに顔を歪めていた。
「アキヤ?」
そっと触れた手を、逃さないと掴まれる。
「だったら、もっともっと幸せにする。海人が幸せに溺れてしまうくらいに、もっと……」
その言葉に縋りたい。
そう思わせるアキヤの言葉。
抱き締められ貪るような口づけに、海人は自ら受け入れていた。
冷たい床の上だというのに、その冷たさが心地よいと思うほどに体が火照っていた。
「痛くないか?」
アキヤの心配そうな声に、海人は微かに笑って否定する。
床の上どころかごつごつした石だらけの上でしたことだってある。あの時、傷だらけになって血まみれになった背はいつまでも疼いていた。
それに比べれば、どんなところだって我慢できる。
相手がアキヤである限り。
「んっ……あっ……」
波のように押し寄せる快感にさらわれそうになって、堪らずにアキヤの背に縋り付いた。こんな快感に襲われていると、背など痛くも何ともないのだから。
海人の柔軟な入り口にアキヤの猛々しいモノが突き進む。
1cm前進するたびにひどく体が震え、無意識のうちにそこを締め付けてしまっているようで、アキヤが苦痛を堪えるかのように顔を顰めていた。
それに気付いて緩めると、アキヤが体を進める。
幾度も幾度も繰り返され、ようやく最奥までアキヤが進んだときには海人は酸素が足りないほどの重労働をしたときのように大きく喘いでいた。
言葉が出せないほどの激しい呼吸が海人の体をピンクに染める。
「いぃ……」
はふっと微かな吐息が肌をくすぐり、海人はそちらに視線を向けた。
そこにはにっこりと微笑むアキヤがいて、海人自身もほっと安堵する。
その途端、電気のような痺れが背筋をはい上がった。
欲したモノを手に入れた感動が込み上げる。
長い間ずっと快感を与える術を教え込まれた貪欲な体が、アキヤのモノを絞るように絡めていく。体が無意気のうちに感じさせ、感じる体位になっていく。
それに気付くといつも自分の淫猥さに嫌になって辛い表情を浮かべる海人を、アキヤの優しいキスが救う。
何もかも、今の海人が好きなんだ。
そう言って、アキヤは海人の望むままに感じさせてくれる。
それが幸せで。だから、アキヤを感じさせたくて。その想いをかなえるために、体がアキヤを求めて欲する。アキヤが望むよう自らが動く。
想いが通じ合った行為がこんなにも甘美なものであるということを海人はアキヤ相手に初めて知った。
大きな手の平で持ち上げられた太股に視線を走らすと、朱色の斑点がいくつも見える。そこに触れられると体が敏感に反応してしまうところ。
「ア、アキヤ……アキヤ……」
最奥を穿かれ、鋭い刺激に身を震わせて仰け反る。その拍子に灯りの下に露わになった喉にアキヤの唇が降りてきた。
「海人……気持ちいい……」
アキヤの熱に浮かされた声音が海人をさらに高めた。
アキヤに抱かれるのはいつも気持ちよくて、狂いそうになる。今までの経験からすればごく普通の交わりだというのに。生身の体から来る刺激だけだというのに、今までにない昂ぶりをいつも感じてしまう。
「来て、もっとっ!もっとっ!」
意識は暴発寸前まできて、ただ快感だけを求める。
達きたいっ!
限界を体が訴える。
欲望の望むままに流されようとする体と、一緒に達きたいというなけなしの理性が葛藤して、余計に頭の中が混乱していた。
それを救うのはやはりアキヤだ。
「海人……達こう」
その優しい声音に意識が一気に開放される。
「んっああっ!」
ぷるりと震えた途端に全身を流れる奔流が、無意識のうちにアキヤのモノをきつく締め付けさせる。
「あっ……うっ……」
小さく漏れた声とともに、アキヤの額からぽたりと汗が流れる。それが海人の首筋に落ちる。
小さな冷たい滴にぞくりと肌を粟立たせた海人が、微かに口元を綻ばせた。
朱に染まった頬よりはるかに紅い唇が言葉を探して発する。
「アキヤ、好きだ……」
言葉だけでは不十分だとアキヤの背に回した腕に力を込める。
二人の下腹に挟まれた海人のモノが小刻みに震えながら何度も何度も精を吐き出していた。
海人が自販機で買ってきたコーヒーで、アキヤと並んでクロワッサンを食べた。
「おいしいな……さすが有名なお店だけのことはあるね」
アキヤが満足げに頷きながら、ぱくついている。
生地の甘みとビターなチョコが抜群の相性で、海人にもひどくおいしかった。
「……アキヤと食べることができて嬉しい……」
雑誌には、バレンタインデーというものは、チョコを恋人に渡して、一緒にデートして、ホテルまで行って、ずっと一緒過ごすのが普通だとあったし。
ホテルには行けなかったが、それでもアキヤと過ごすことができたのだから、ちゃんとバレンタインデーとして過ごせたわけだ。
満足げに頷いている海人に知ってか知らずかアキヤが愚痴をこぼしていた。
「僕も。でも部屋で食べたかったなあ……もっとあま?いムードでね」
悔しそうにぼやくアキヤに海人が笑う。
「自業自得だろ。昨日はほんとに酷かったから」
「しょうがないだろ。海人はチョコをあんなにたくさん受け取っちゃうし、なんかもうイライラしてさ。それになんか知らんけど、昨日何回叩かれたと思う?5回だぞ、5回」
指折り数えてぶつぶつ文句を言うアキヤのその割にはコブもできていない頭を見ながら、海人は首を傾げた。
5回?
確か、リシューが一回。
俺が一回。
……クレスタのも一回……。
「後、二回は?」
海人の問いに、アキヤは口を尖らしながら言った。
「ここに閉じこめられた途端に隊長に二回……」
「あ……なるほど」
ぽんと手を叩いて納得した海人は、次の瞬間吹き出した。
「アキヤ、それは自業自得じゃないか」
「うるせっ」
ふさくされるアキヤに海人はいつまでも笑い続けていた。
【了】