隅埜啓輔の家は、もともと離れであった長屋の部分を何とか住めるようにしたものだ。
狭い一階に玄関直結の台所と洗面所やトイレ、風呂を設置したら、後はもともと倉庫だった部分が残るだけだ。
なんとか客を迎えられるだけのスペースは確保したが、気をつけていないとすぐに物置場になってしまう。
啓輔の部屋は二階にあって、そこはかろうじて六畳と四畳半の二間になっていた。普段は四畳半の方で寝泊まりしていて、家城が来たときは、六畳間を使ってくつろぐ。
それでも、これだけでも残ったことが奇跡のようなものだから、啓輔は狭いことに文句を漏らすことはなかった。
ただ。
「またかよ?っ」
住むのはいいが、祖父の代からの持ち物であるこの家は、古い。
電子レンジと洗濯機と炊飯器、そして湯沸かしポット。
微妙な組み合わせで電化製品が一度に動いたとたんに、ぶちっとすべてが停止した。
電気容量が少なすぎるのだ。
一番の癌は電子レンジだと判ってはいるが、この文明の利器がないと啓輔の食生活はかなり貧しくなってしまう。
真っ暗になった部屋の中を壁づたいに歩き、かろうじて判別できる段差をゆっくりと降りる。玄関のドアの上に並んだブレーカーのスイッチを押し上げると、蛍光灯が点いて眩しさに目を瞬かせた。
「やっぱ、懐中電灯は必須だな」
一階には置いてあったが、二階にはない。
「確か、物置に一個あったような……」
啓輔の視線がちらりと物置側の壁を見つめた。
あの中は、もとからあった農具もそのままになっているのだが、その上に、焼け跡から取り出すことのできたいろんな家財道具が整理もされずに押し込めてある。今から探しにいっても目的のものを見つける前に夜が明けそうだった。
それほどまでに魔の巣窟状態なのだ。
が──いつまでもそのままでは駄目だろう。
片づけるものは片づけて、使えるものは使うようにしないと。
一人暮らしになって、初めて生活するのに必要なお金がこんなにもいるのだと判った。
高校のころ、ただ闇雲に独り立ちしたいとは思っていたけれど、その時はただそのことだけが頭にあったのだ。だが、実際に初めて見ると、知らないことが多くて、しかもたくさんお金も必要だ。
ブレーカーも何とかしたいのだが、今はそのお金すら惜しい。
何より、この先会社にずっと行くためにも車は必須なのだから。
原付ではさすがに冬は心許なかった。
雪でも降れば、足がなくなる。
幸いにして、大きな道まで出れば拾っていってくれる人がいたから、何とか通えたようなものだ。
啓輔は深いため息を吐いた。
「明日……片づけよ……」
油断すればいくらでも物は増える。
目を向けた台所には、脱ぎ散らかした服や買ってきた食料、それに日曜雑貨が雑多に転がっていた。
やばいよな……。
黙して眉を顰めてしまうのは、明日家城純哉が来るからだ。
こんなにも散らかしていたら、嫌みたっぷりのお説教を食らうに決まっているのだ。
『モノを増やしすぎなんですよ』
何度言われただろう。
けれど、買いすぎているとは思わない。
必要な物以外は買わないようにしているから、ストックがなくて慌てることもある。
ただ。
片づいていないだけなのだ。
それは判っているのだけど。
「やっぱ、明日やんないとなあ……」
いい加減言い訳するのも嫌になってきた。
純哉が来ると言うのなら、ついでに物置の片づけも手伝わせてしまえ。
そう思ったとたん、ふっと啓輔の口元が楽しげに歪んだ。
一人でやるのはおっくうでも、純哉がいればきっと楽しいだろう。さんざん文句は言われるだろうけど、彼はそれでも手伝ってくれるのだろうから。
純哉が啓輔の家を訪れたとき、啓輔は物置からいろんなものを引っ張り出している最中だった。
母屋が無くなったせいでただっ広くなった庭に次々と運び出せる物は多種多様にわたっている。そのあまりの多様さに、啓輔も呆気に取られたくらいだ。
火事の後、片づけてくれたのは近所の人で、啓輔もやってはいたけれど整理整頓するまではできなかった。
だから、何が入っているのかは、実は今まで判らなかったのだ。
「いったい何を始めたんです?」
目の前の光景に純哉もしばし呆然としていたが、数秒後、気を取り直したのか眉間にシワを寄せながら聞いてくる。
「ん?、片づけ」
答えながらずるっと引っ張り出したのは、なんと長持ちと呼ばれる物であった。
「これ、ばあちゃんのだよなあ、きっと」
幼いころに見たことがある。
あのころはまだ物置はちゃんと整理されていて、祖母がこの箱の中から何かを取りだしていた記憶はあった。
「何だろうね?」
懐かしいな、と手を止めてそれを見遣り、問いかけながら純哉を見上げる。
「……さあ……開けてみますか?」
ほんの少し純哉が顔を顰めた。
声音も低く、なんだか怒っているように見える。
やっぱ、来てくれる日に片づけなんて、マズかったかな?
そう思ったけれど。
「その前に、着替えたら?汚れるし、動きにくいだろ?」
くいっと指を二階に指せば、「最初っから手伝わせるつもりでしたね」と苦笑を浮かべられた。その時には、もう怒っている様子はなくて、啓輔は不思議そうに首を傾げた。
「何だ、怒っていないのか?」
「どうしてです?」
くすりと家城が、口元を歪める。その足はもう着替えるために部屋に入ろうとしていた。
「ちゃんと手伝いますよ。確かにいい加減片づけないと駄目ですからね」
「良かった?、一人だと重い物も結構あってさ、どうしようかと思ったんだ」
長持ちも、かなり重かったのだ。
引きずり出した時点で汗だくになって、実はこれではマズいと思っていたところだった。
庭に広げた荷物は、今日中に整理して、分別して。必要な物はまたしまわなければならないのだから。
「すぐ来ますから、今出ているものだけでも分けていてください」
何も言わなくても、啓輔の意図を察してくれる。
そんな家城の姿が見えなくなって、啓輔はぼそっと口の中で呟いた。
「サンキュ……」
面と向かってはなかなか言えない言葉が零れ落ちる。
このまま家城がいない日にやっていたとしたら、一人ではきっと何もできなかったろう。
ここまで引っ張り出して、啓輔の手はさっきから鈍るばかりだったのだ。
物置の中には、あまりにも思い出が多すぎて。
祖父の使っていた朽ちかけた工具箱。
今出してきた祖母の長持ち。
鍬をを持って父親が畑に出て、母親がその後を消毒の容器を持って追いかける。
一番奥に詰め込まれていたのは、扇風機。
そんなものがそこにあるとは気付かずに買ってしまった自分に嗤ってしまったけれど。だけど、どうしても口の端がうまく上がらなかった。
きっちりとビニール袋に包まれたそれは、きっと母親がしたものだから。
火事の後かたづけの名残である手前は、ぐちゃぐちゃに詰め込まれていたけれど、奥に行くほどきちんと整理されていた。それこそ、そのまま使えるように。
そして、それをしたのはきっと母親だろう。
あんなにも荒れて、飲んだくれて、怒っていて。
最後に見たのはそんな姿ばかりだったのに、この場所を見ている限り、その姿が嘘だったんじゃないかと思えてくる。
変わらない。
昔とちっとも変わらない母の癖。
大事にしまい込まれたたくさんの物。ふっと横を見れば、三段ボックスがひっそりと隠れていて、そこには整理されておかれた日用品のストックがあった。
『ほら、行くわよっ』
安売りだと、みんなで車で買い出しに行ったことがふっと頭の中をよぎる。
みんなで買い物に行った記憶は中学のころまでだった。
大きなスーパーは車で行かないと無理だったから、行けるときにはこれでもかと言うほどに買い込んで、こうやって母は詰め込んでいた。
そんな事まで思い出して、「くっ」と喉が鳴った。
目の奥がつうんと熱くなって、熱い塊が堪えきれないままに喉の奥を迫り上がってくる。
もうずっと、泣かなくなっていたというのに。
なのに、堪えられない。
だけど。
とんとんと壁の向こうから軽快な音が響いてきて、啓輔はくっと下唇を噛みしめた。
ごしごしと目を袖でこすり、濡れた目頭を乾かす。
最後にパンと両の頬を軽く叩いて、情けない顔を引き締めたのと、純哉が顔を出したのが同時だった。
「……顔……真っ黒ですけど?」
啓輔を見たとたん、彼がふっと息をのんだ気配がした。
けれど、すぐになんでもないとばかりに、啓輔の頬に触れて笑いかける。
普段、感情を表に出さない純哉だったけれど、今日は気のせいかよく笑っている。
「そんなに黒いか?」
「ええ。汚れた埃のついた服で、汗でもこすったんですが?ひげが生えたみたいです」
そう言って可笑しそうに笑っていた。
「げっ、俺、顔洗ってくるわ」
慌ててその場を駆けだして、外にある手洗い場に向かった。
バレたかな?
と、疑問に思うまもなく、バレている、と思う。
常にない純哉の態度は、きっと啓輔を労ってくれているからだと知っているからだ。
「馬鹿やろ、優しくなんかするなよな」
悪態でも吐いていないと、せっかく押さえた塊がまた膨張しそうだった。
勢いよく出した水道の水は、地下を通ってきているせいか冷たい。それを顔にばしゃばしゃと浴びせた。
この熱さを逃したかった。
逃して、笑って純哉の元に戻りたかった。
でないと、彼が気を遣うだろう。
そう思ったから、啓輔は何度も何度も、喉のすぐそこまで来ていた塊が落ち着くまで、顔を洗い続けていた。
落ち着いて、過去のことなど思い出さないように、啓輔は意識をずっと逸らしていた。
庭に出された物から、いらないと思われる物を一角に集める。
それは確かにがらくたばかりだったけれど、もう二度と使わないだろう鍬や鋤と言った農機具もあった。
「これ、佐山のおじさんにあげよっかな」
彼ならきっと使ってくれるだろう。
捨てるにはもったいないと思っただけだったけれど。
「そうですね。悦んで使ってくれますよ。じゃあ、それらしきものは分けて置いておきますか」
捨てるはずだった物から、さらに二つの山ができた。
結構たくさんのゴミの山は捨てるのは結構たいへんだろう。それでも、物置を占領されるよりはマシだと思う。
そう思うから、思い切ってたくさんのものを捨てていく。
長持ちに入っていたのもたぶん祖父母の物らしき服で、もう駄目になっていたので箱ごと捨てることにした。
そして。
もう大きなものはあらかた片づけ終わって、細々とした整理をしている時だった。
一日物置をひっくり返して、啓輔も純哉も頭から足の先まで埃だらけだ。お腹も空いて気力もいい加減萎え、動作がかなり粗雑になっている。
奥の方から出てきた小学校のころの教科書は懐かしかったけれど、もうこうなると役にも立たない。解けかけた紐を締め直して、廃品回収用の山に置いたとたんに、啓輔はへなへなと座り込んだ。
大きな嘆息を零して、ぼんやりと夕焼けを眺める。
その時。
「啓輔……これは?」
背後から呼びかけられて、「何?」と振り向いた啓輔の鼻の先に純哉がそれをつきだした。
「それ……」
思わず目を見開く。
純哉の手の中で黒いプラスチックのケースが開いている。中に入っていたのは、銀色の腕時計だ。
「もう動いていないようですけど?」
純哉が手をひっこめて再度腕時計をまじまじと見つめる。
それはそうだろう。
「見せて」
啓輔の手が伸びて、純哉から腕時計をケースごと受け取った。
朽ちたケースは、今にも崩れてしまいそうだ。入っていた保証書は、小さく折りたたまれたところから破けかけている。
そんな中で、銀色がくすみ、傷だらけになって濁ったガラス板の時計が時を止めていた。
「まだ、あったんだ……」
「啓輔の、ですか?」
「うん……」
懐かしい。
それは中学入学の時に親に買って貰った物だった。
小学生のころから腕時計が欲しかったけれど、いくら強請っても駄目だった。
『中学になってからね』
そう言われて、待ち続けて。
ようやく手にした時計は、宝物のように思って、大事にしていたけれど。
それでも高校に入るころには、それはただの腕時計でしかなくなっていた。だから。
「高校に入ってすぐだったかな。自転車でこけて、運悪くガラス板にヒビが入ってさ。それっきり」
まだ動いていたが、いい加減飽きていたからという理由で新しい時計に換えた。
その後、この腕時計がどうなったかなんて覚えていない。
「物持ちのよいお母さんのようですから、ちゃんと取っていたんですね」
買ったときのケースに収められ、誰も見ない時を紡いで、そして電池が切れて止まってしまった時計。
こんなことでもないと日の目を見ることはなかったろう。
「ほんとに……何でもとっとくから……。こんなにもゴミの山ができて……」
おかげで、ゴミ捨てが大変だ。
くすりと笑いかけた啓輔の顔が、だが、奇妙に歪んだ。
なんとか押さえつけていた胸の奥の塊。それが、大きく熱く、迫り上がってくる。息苦しさすら覚える違和感に、啓輔は拳でぐっと胸を押さえた。
苦しい……熱い……痛い……。
弾けそうなほどに胸が苦しい。
息が詰まって、喉が苦しい。
目の前が暗くなって、ちかちかと星が飛んで──。
助けて欲しいのに、声が、出ない……。
立ちくらみを起こしたときのように、平衡感覚がなくなって啓輔の体はふらりと傾いだ。慌てて足を踏ん張ろうとしても、かくんと崩れた膝に力が戻らない。
駄目だっと思ったその刹那──。
「……いすけっ!啓輔っ!!」
ふわりと柔らかな熱が背を覆う。
苦しくて前屈みに崩れそうになっていた体が、優しい腕で支えられた。
「あっ……」
胸を押されて、吐息とともに声が出る。
とたんに、周りの喧噪が戻って来て、音すら聞こえていなかったのだと気が付いた。
「啓輔、大丈夫ですかっ!!」
「あ……うん」
くらくらと目の前が揺らぐ。
それでも呼吸ができるだけ楽だ。
「啓輔……」
「大丈夫……だよ。なんか、立ちくらみ、だと思う……」
深いため息をついて、言葉にして、自分がどんなに疲れていたか気付く。
思い出した哀しい記憶が、さらにそれを助長したのだろう。気力すら萎えかけていた。
支えてくれた純哉を見上げれば、彼が辛そうに顔を顰めていた。滅多に見られないその表情に手を伸ばして触れてみると、彼が微かその強ばっていたを緩める。そして、苦笑を浮かべた。
「無理しすぎだったんですよ。一日で片づけるのはね。さ、休みましょう」
回された腕に純哉の優しさを感じる。
「平気だよ、もう」
「もう陽が暮れますからね。片づけの続きは明日やれば」
「……まあ、そうだよな」
確かに純哉の言う通り、辺りはもう薄暗くなってしまっていた。山際にうっすらと夕焼けが残っている。そんな風景をふわりと眺め、啓輔も頷いた。
ふうっと大きく息を吐くと、全身を襲う気怠さに気が付く。気が抜けたとたんに、またふらつく。
額に手をやれば、嫌な汗が冷たく手のひらに伝わってきた。
「啓輔?」
「とりあえず、シャワーでも浴びてくるよ」
啓輔の手の上から純哉の手が触れる。その手が温かくて、すごく心地よい。このままだとただそれに縋りつきたくなりそうで、慌ててその手から逃れた。
「ごめん、大丈夫。……あっ、でもシャワー純哉が先に……」
啓輔に負けず劣らず埃まみれの純哉に気が付いて、促したけれど。
「いえ、啓輔の方が先に入っててください。私は後でいいですから」
先に行くように背を押されて、啓輔は肩越しに振り返った。その先で純哉がすうっと目を細める。
「一緒に入りたいところですけど、ね」
「それ……」
その言葉に二人での入浴シーンを思い浮かべて、体温が跳ね上がる。
「でも、ここは狭いですし……外に声が漏れますしね」
「それは──そうだけど……」
確かに狭い。
簡易に造りつけた風呂は、物置の片端に無理矢理取り付けたものだ。一人しかいないと思っていたからそれで良いと思っていたけれど、なんとなく今は後悔しているのだ。
手の中にあるケースをぎゅっと握りしめ、啓輔は純哉を見つめた。
触れて離れたその手の温もりが寂しい。
胸の奥でつっかえたままの塊が、今にも出てきそうだった。けれど、それを今吐き出すのは、あまりにも情けない。
だから、せめて純哉の手に触れていたかった。
そうすれば、その塊は無くなってしまいそうだったから。
けれど。
「汗を流したら、なにか食べにいきましょうか?作るのも大変ですし」
「……そう、だね」
純哉が台所に視線を移して言う。
それは労りの色が十分込められているのが判った──けれど。
今欲しいのは、そんな言葉じゃない。
「あ……おい……」
「はい?」
言いよどんで、結局啓輔は首を振った。
「シャワー浴びてくる」
一緒にいてくれというのには、やはり二人とも汚れていて、そして純哉は啓輔が入るまでは入らないだろう。
だったら、せめて。
名ばかりの脱衣所で啓輔は手早く衣服を脱ぎ去った。
少し熱めに設定したシャワーの飛沫が、疲れた体に心地よい。けれど、それは堪えていた涙腺までをも緩ました。
頬を伝う水滴の中で、それは水と入り交じり、流れ落ちていく。
「うっ……、母さん……父さん……」
両親が亡くなってから、啓輔が二人の思いに気が付いた時に流して以来の涙が、いくらでも溢れだしてくる。
嗚咽はシャワーの音に隠れて外には漏れないだろう。
「うっ……ううっ──…くっ」
堪えきれなくて蹲って膝を抱える。
哀しくて、堪らない。
シャワーの音が、あの時の放水の音を思い出させる。もう残り火しかなかった家の残骸に向けられていた最後の放水の時だ。
その中にはもう両親はいなくて、啓輔がその場にいたのは僅かな時だった。けれど、音の記憶ははっきりと残っている。
よみがえった記憶が、次から次へと別の記憶を蘇させた。
それはすべて両親に纏わるもので、しかも、嫌なときの記憶はあまりない。
喧嘩して殴られたことすら懐かしい思い出になっていて、さらに涙を煽った。
「あっく──っ」
塊はもう胸から出て行っているはずなのに、次の塊がいくらでも沸いてくる。
もう堪えきれない。
闇雲に叫びたい衝動に啓輔が口を開きかけたとき。
「啓輔っ」
荒々しく開いたドアの音に、啓輔の背がびくりと震えた。
「あっ……」
顔を上げれば、涙とシャワーの雨の向こうにぼんやりと純哉の姿が見える。
その腕が啓輔の方に伸びて、剥き出しの啓輔の体を抱きしめた。
「泣いて……」
泣いてるのは啓輔の方なのに、耳に届いた純哉の声の方が震えていた。
気持ちいい。
耳朶に届く声も、優しく抱きしめられる腕の温もりも、そしてそっと目を見開いたとたんに入ってきた純哉の端正な顔も。
すべてが心地よくて、啓輔は自ら腕を伸ばして純哉の首に縋り付いた。
「純哉っ、純哉……」
「啓輔、泣かないで」
シャワーの滴と一緒になっているはずなのに、純哉は間違うことなく啓輔の頬に流れる涙に吸い付いた。
「俺……なっ、欲しい……」
首を回して、純哉の唇を求めていた。
最初はふれ合うだけだった柔らかな唇が、さらにきつく深く交わっていく。
シャワーが降り注ぐ中で、埃の匂いがしていた純哉も、すぐに彼本来の匂いを取り戻した。
濡れたシャツが間にあるのがもどかしい。
そう思ったのは啓輔だけでないようで、純哉が少しだけ体を離すと、ついで乱暴に上から脱ぎ去った。
「啓輔……部屋に、行きましょう」
頭から先まで、全身濡れそぼった二人がじっと見つめ合う。
純哉の言葉に、啓輔も断る理由はなかった。
ただ、こくこくと頷いて、ぎゅうっと力の限り抱きつく。
今はもう、純哉の温もりだけが欲しかった。
二人の体から水滴が流れ、古い擦り切れた木の階段に水たまりを作る。
濡れた体をタオルで拭うゆとりなど二人には無かった。狂おしく切ない感情の波から逃れたくて、啓輔は何よりも純哉の温もりを欲していた。そして、純哉も啓輔が今求めているものを何よりもちゃんと知っていたからだ。
もつれ合うように足早に二階に上がって、啓輔の体がベッドの上で弾んだ。まだ残っていた水滴が、シーツにも染みをいくつも作る。けれど、その水滴のいくつかは啓輔の汗の匂いがしていた。
ここに来るまでに熱を持った体が、純哉の手の動きに身悶える。
瑞々しい肌が朱に染まり、触れられるたびに若鮎のように跳ねた。
「あっ…うんっ……」
下肢の付け根に純哉の指先が触れる。滑るように付近で遊び、そしてゆっくりと啓輔のものに絡みついてきた。それは、ここに来るまでの間に凛と張りつめていて、触れられるのを待っていたところだ。欲していた感触に、啓輔の背筋かきつくのけぞる。それでも離れるものかと腕は純哉の腕をきつく掴んでいた。
その純哉の腕の先で五指が巧みに強弱をつけて握りしめられ、屹立はさらに硬く体積を増していく。
「なぁ……、もっと抱き、しめっ」
言葉が終わる前に、熱い体できつく抱きしめられた。
人の温もり──何より、これは純哉の温もりなのだ。
冷たく震えていた心が、いっきに温められ、安らいでいく。だからこそ、与えられる愛撫に体が敏感に反応した。
啓輔が晒した喉に、純哉の唇が押しつけられた。
小さな痛みと痺れるような疼きが体の芯に熱を籠もらせる。堪えきれない熱を吐き出したくて、啓輔は何度も艶やかな声をだして喘いだ。
そうしないと、達ってしまいそうだった。
けれど──まだ、だ。
まだ、受け入れていない。
「じゅ…やっ、もうっ」
今日はとにかく欲しかった。
ぽっかりと何かが抜け落ちたような感覚を、埋め尽くして欲しかった。だから、啓輔は手を伸ばし、何度も乞う。
「ほしっ……願いっ、挿れろよ」
挿れて、何もかも埋め尽くして。
「俺を……」
──救ってくれ。
涙が啓輔の頬を伝う。
そこに熱い唇が押しつけられた、その刹那。
「ああっ」
とろけるほどに解された場所に、熱い楔が穿たれた。
最初にある痛みよりも快感が勝り、歓喜の嬌声が喉から迸る。
埋め尽くされ、灼熱の楔に体の際奥を押し広げられる。その度に啓輔は堪えることなく声を出して、喘いだ。
熱は際限なく高まり、いくら堪えてももう我慢できそうになかった。
すっかり慣らされた後孔は、抉られるたびに妙なる快感をもたらしてくる。
「あっ、はふっ……はぁっ」
何度も目の前が白く弾けた。
喉から迸るのは、もう意味をなさない嬌声だけだ。
それでも無意識のうちに口が願いを言葉にする。
「純哉っ、俺、おれ、もうっ」
「ああ、啓輔。達けばいい。何度でも、達けば」
優しい耳に馴染む声音が脳にまで響く。
そして、激しい衝動も。
「や、ああぁぁぁっ!」
びくびくと吐き出される白濁の粘りのある液が、啓輔の屹立から間歇泉のように吹き上げた。互いの腹を汚し、ゆっくりと伝い落ちる。
肩で大きく息を吐いている啓輔は、余韻に浸るようにきつく目を閉じていた。時折、その肌が小さく震える。
快感の余韻は心までも浸食し、意識が白く濁っていた。
ただ判るのは、肌に幅広く接しているもう一つの熱い肌の存在だ。それは、決して離したくない相手の肌だと、啓輔は判っていた。
だから手を伸ばし、その体を抱きしめる。
「純哉……」
吐息とともに愛しい名を乗せて、その胸に額を押しつける。
それだけで、体内の奥深く、まだ達していない純哉のモノが、びくりと反応した。それが判る。
「もっと──して」
意識しなくても声は掠れ、情欲に満ちた声音が出た。
「啓輔……あなたって人は、本当に」
対する純哉の苦笑混じりの声は遠い。
何を言われても、体の熱が下がらない。下げるために、もっと体の奥深くまで満たして欲しい。
啓輔は自ら腰を動かして、家城を煽った。
それの効果はてきめんで──。
「ん、くっ!」
啓輔を抱きしめる筋肉が張りつめる。息を飲む音が頭上でし、体の奥で熱い何かが広がっていく。
「あぁ」
感極まって息をつけば、それは甘い掠れた声となって室内に響いた。
「この時計、動くと思いますよ」
快感の余韻に浸って未だ気怠い四肢を投げ出していた啓輔に、家城がその手の中にあのケースを渡してきた。
「え?」
訝しげに返したのは、何のことか判らなかったらだ。けれどすぐに、腕時計の事だと気付く。
「直る?」
「電池が切れているのはね。ガラス盤の方は判りませんけど……」
「あ、ああ、そうか」
これをしなくなったときには、ガラス盤以外は正常に動いていたのだから、電池を替えれば動くだろう。
「もっとも、どの程度放置してたか、によりますけどね。電池が液漏れしていなければいいんですけど」
心配そうに取り出した腕時計をひっくり返して確認する家城から、啓輔はそっとそれを取り上げた。
「ん、でもいいよ」
動かない針に割れたガラス盤。
ベルトの部分もどことなくくたびれている。
「いいんですか?」
純哉が不審そうに首を傾げるけれど、啓輔はそれにはっきりと頷いた。
「これは……ここがこんな風に割れてて、そんで、動かないって事も判ってて。だけどそれらすべてが思い出だから」
どうして割れたかははっきりと覚えている。
いつ止まったかは判らない。
だけど、使わなくなったころは、おぼろげながらに覚えていて。
そして、大事にしまい込まれていたことも今日判った。
これを見つけたら、思わず泣いてしまうほどに切なくなって、胸が苦しくなって──それを純哉に慰めて貰ったことも、きっとこのまま記憶に残るだろう。
「動くと、いろんなことに使っちゃって、もっと壊れるかも知れない。だから、これはこのまんまこうやって飾っとくよ」
元の様にケースに収めて、手が届く棚の上に置く。
後で下に降りるときに、仏壇に一緒に置いておくつもりだった。
「ありがとう……って、言えるかな?」
小さな呟きが啓輔の口から零れた。
こんな大切な思い出を、捨てずにきちんと片づけてくれていた母親に。
生きている間には言えなかった礼を、今だったらきちんと言えるだろうか?
「言えますよ。啓輔は、ほんとに優しい子だから」
純哉の言葉が、啓輔を後押ししてくれる。
ふと顔を上げれば、優しく見つめる純哉の瞳と目が合った。
それだけで、不思議なくらいに心が軽くなる。
「俺、優しくなんかないよ……」
子供扱いされるのが嫌でそっぽを向くけれど、純哉に言われると照れくささばかりが表に出る。
切なくこみ上げる胸の中の塊は、さっきのように苦しくはない。笑いたいような、なのに笑えない複雑な感情に支配されて、啓輔はそれでも無理に笑った。その頬に、涙が流れる。
「啓輔は、優しいです。だって、こんなふうに泣くことができるのですから」
──お母さんを思って……。
指先が頬を拭い、唇が宥めるようにまなじりに落とされた。
「言えますから」
言葉に後押しされる。
純哉がそう言うのであれば、きっと言えるだろう。
そう思わされて。
そして、そうやって後押ししてくれる純哉が啓輔は好きで堪らないから。
「……ありがと……」
純哉に何よりも伝えたい言葉は、何のてらいもなく口にすることができた。
【了】