桜鬼:今昔物語集にて登場する桜の樹の下に棲む鬼の呼び名
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「花見をしようっ」
櫂達といつものように休憩をしていた時、啓輔がついそんな事を言い出したのは、まるで誘っているかのような青空と白い雲、そして山間に見える山桜のほのかなピンクのせいだ。
それを見た途端、毎朝出がけに見る桜の花を思い出したのだ。
「花見っ?」
途端に隣の櫂が目を輝かせる。
櫂がそんなにも花見という言葉に反応した理由を啓輔は知っていた。櫂は先日開かれた製造チームの花見の席に夜勤で行けなかったのだ。
だからこそ、断らないだろうと踏んではいた。
その考えたとおりに、櫂は食いついてきて、自然に高まる期待に、身まで乗り出している。
「バーベキューしながらさ、今度の土曜って天気いいって聞いたし」
「うわっ、さいこっ。俺んちバーベキューセットあるよ。炭もまだあるし」
「野菜は佐山のおばちゃんがいっぱいくれてるから、肉とビールさえあれば」
「うん、買ってく?っ」
気分は既に花見。
まだ後二時間は働かなくてはいけないことすら、頭にない。しかもまだ木曜日だ。
と──。
「どこでするんです?」
賑やかな席に、まるで水を差すように落ち着いた声が響いた。
それはいきなりでなく、前から彼はそこにいたのだけど。
そして、もう一人もどこか表情の乏しい顔で賑やかな二人を眺めていた。
そう、この席には最初から四人いたのだ。
啓輔達がどんなに賑やかに騒いでも、この二人があまり乗ってこないのはいつものことだから、全く気にはしていない。
こんなふうに口を挟むのも珍しいのだ。
煩すぎて面白くないだろう、と問えば、そうでもないと言って、都合がつく限り二人とも一緒の席に着く。そのせいで、最近の休憩はいつもこの四人の取り合わせだった。
だが、工場の殺風景な食堂で丸テーブルにおいて、半円は賑やかで、半円は寡黙となれば、一種異様な雰囲気となる。何せ、その寡黙な側は、鉄仮面とも称される家城と、同じく堅物で融通が利かないとその方面では恐れられている高山なのだ。そのため、他の社員達の足は自然に遠のき、混みあっているにも関わらずその近くのテーブルは誰も座らない。
「人が多いところは苦手ですが?」
暗に自分も行くことを知らせ、啓輔を窺う。
もちろん、家城も当然来ると踏んでいる啓輔はそれににこりと微笑んで、自慢げに答えた。
「ん、俺んち」
その言葉に、家城が微かに首を傾げる。
「桜……ありましたか?」
何度か家城も啓輔の家は訪れたけれど、母屋が焼けてただっ広くなった庭に桜の木の記憶はなかった。もっとも、桜の季節に訪れたことはまだ一度もないのだが。
「ん、片隅に一本だけ。でもさ、すっごい今綺麗なんだ。大きいから一本でも十分楽しめるし。それにそっち側の隣は桃畑なんだ。今、そっちも満開だし。それに自分ちの庭だからゆっくりできるし。バーベキューしても文句なんか言われないし」
「うわっ、見たいっ」
桜や桃が好きなのか、付随する食べ物につられたか判らない櫂の視線が、黙して語らない高山を捕らえた。
「高山さんもねっ」
「え……」
「みんなですれば楽しいよっ!」
ねっと、小首を傾げて問えば、高山の視線が行き場を失ったかのかのように彷徨いた。けれど、それを逃す櫂ではなくて。
「高山さんも行くって」
高山が返事をしたようには、他の二人には見えない。
けれど、櫂がそう言った時には高山は決して反論しないのだから、それは是ということなのだろう。
長くはない付き合いではあるが、その辺りは啓輔達も心得ていた。
「うわっ、綺麗っ!!」
啓輔の家に着いた途端の櫂の一声に、啓輔は嬉しそうに照れた笑いを返した。
「凄いだろ?じいちゃんの時からずっとあるらしいんだ。昔はもうちょっと小さかったんだけどさあ」
「立派ですよ。でも、こんなところにあるなんて気付きませんでした」
その桜は、現在啓輔が暮らしている離れの外れにあったのだ。いつも車を停めるところからすれば、ちょうど影になる。そのせいで気付かなかったのだろう。
そういえば、啓輔の部屋から枯れ木のような枝振りが見えていたな、と、家城の視線がその枝の先を辿っていく。
「えへへっ、野菜は切っといたよ。火も興しといた」
あらかじめ櫂のバーべーキューセットを預かっていた啓輔の準備は万事ぬかりない。
今の季節は春キャベツが美味しいよっと、隣の佐山のおばさんが取れたてを分けてくれているのだ。それに同じく椎茸に茹でたタケノコ。
啓輔が準備しているのを見かけて、貯蔵品のサツマイモに南京、にんじんと、あれやこれやと持ってきてくれて、野菜だけで腹が膨れそうな量になっている。
「肉もビールもいっぱい買ってきたよ」
ずりっと櫂が引っ張ってきたのは箱毎のビールだ。
「誰がそんなに飲むんだよ」
「いいじゃん、余ったらまた後で飲めるしっ」
けらけらと笑う櫂の後ろで、高山が黙々と荷物を車から降ろしている。
「あ、ありがと?」
櫂がそれに気付いて走っていき、高山が随分と重そうに持ってきた買い物袋を、軽々と持ち上げた。
「テーブルは用意した?」
「ああ、離れの窓を開けたから、部屋もつかえるよ。野菜はそっちにおいてる」
「OK、高山さん?、そっちの方が軽いから、それ持ってきてっ!」
「──ああ」
つまみらしい袋は、容積の割には確かに軽そうだ。
ラフな私服を着た高山は、小柄な櫂より細く腕もひ弱そうだった。
思わずくすりと苦笑を零した啓輔に気付いたのか、高山が困惑気味に顔を歪める。
けれど。
「高山さん、ほら、見てっ、凄いっ!」
満開の桃畑を見つけたのか、弾む櫂の声に、高山も複雑な表情をすぐに消して嬉しそうに微笑んだ。
それは本当に仲睦まじい様子で。
「へえ、あんな顔もするんだ」
思わず呟きが零れるほどに、その表情は優しい。
「あんな顔会社で見せたら、堅物、なんて言われないんだろうにね」
くすっと零れた笑みのままに、傍らの家城を見上げる。
「あんな顔をさせることができるのは里山くんだけでしょう?」
そういう家城も、会社では滅多に拝めない笑顔だ。そして、高山が櫂にだけ笑顔を見せるように、家城も啓輔にだけは笑顔を見せてくれる。
人が言うほどに冷酷でない恋人は、ただ自制心が人一倍強いだけだと啓輔は知っている。
「なんか、今日は楽しめそうっ。純哉、いこっ!」
「まるで子供に戻ってしまったようですが?っといっても、まだまだ子供なんですよね。未成年」
「うるさいなあ、今日はいいだろっ」
酒を飲むな、とは言わない。
けれど、飲み過ぎるなという意味の嫌味は相変わらず健在だ。
啓輔はちっと顔を顰めて、けれどそんな家城を子供のように手を引っ張った。
「今日は……泊まるだろ?」
「高山さん達と一緒に来たんですよ?」
「みんな泊まればいいよ。夜桜も綺麗なんだ」
月の夜に闇に白く浮かんだ桜はとてつもなく幻想的に綺麗で。
「みんなで見たいんだ」
それには家城も複雑な顔をしたけれど。
「まあ、いいですよ。その代わり、ちゃんと我慢してくださいね」
こそりと耳元で囁かれて、啓輔は、当たり前だっと、ふんと顔を背けた。
けれど、その頬が熱いのはさすがに誤魔化せない。
「もう行くぞっ!」
「はいはい」
くすっと小さく笑う家城をむうっと睨み付けれる啓輔であったけれど。
「啓輔?っ、肉、出したよ?」
食い気に入っている櫂に、「今行くっ」と元気な声で返した。
啓輔の家の桜の木は、啓輔が子供の頃からそこにあった。
季節の気候がうまくあえば、満開の桜と満開の桃をいっぺんにその視界に納めることかできる。
花見には絶好の場所なのだ。
その桜の下にブルーシートを敷き、バーベキューセットとテーブルを並べて。
桜の向こうには、広々とした桃畑にいっぱいの桃の木がある。
濃いピンクの桃は、季節になるとたわわに甘い実がなるのだが、今はその花で啓輔達を楽しませくれた。
「子供の頃は、ここんちの桃盗んでは食べて、メチャクチャ怒られたんだよなあ。一番上等な奴ばっか盗るってさんざん怒られたっけ」
酔いが回った啓輔が、昔を思い出して自らバラすと、誰ともなくくすくすと笑いが湧き起こる。
「昔から、悪ガキだったんですねえ。よくもまあ、追い出されなかったものです」
冷ややかな突っ込みは、酔っているからこそ場の雰囲気を盛り下げることはない。それどころか。
「啓輔が大人しかったら、啓輔じゃないっ!」
一番酔っぱらっている櫂が、賑やかに宣言して。
「なんだよ?、それ」
途端に大爆笑だ。
それこそ、高山や、家城達も、滅多に笑わないのをここで全て出し尽くしているのかと思うほどに、笑っている。
もっとも、その笑いの程度は、やはり啓輔達に比べれば、とても大人しいものであった。
それでも、啓輔も櫂もひどく幸せだった。
田舎だから、気さくな近所の人達がたまに声をかけていくが、それでも啓輔の友達も一緒とあって、邪魔をしないようにはしてくれる。
時折風が吹くと、桜の花びらがひらひらと降ってくる。
食べられるだけ食べて、飲めるだけ飲んだ四人は、今はもう本当の意味での花見をしていた。
思い思いの方法でくつろいで、桜や桃の花を見つめる。
「凄いなあ、こんな綺麗な桜の木も、花見でこんなにゆっくりできたのも初めて」
ビールを飲んで、アルコールが回った櫂の頬はほんのりと朱に染まっている。
甘えるようにぺたりと高山に背を預けている櫂はひどく自然で、高山もくすぐったそうに時折姿勢をただすだけで、させたいようにしていた。
啓輔も寝っ転がって家城に膝枕をして貰っている。
そうすれば、視界いっぱいに桜の木だけが広がった。
白いけれど淡い桃色が入っていて、重なり具合によっては濃い桃色になる。けれど桃の花よりははるかに薄く、それは昼の光の中でも幻想的だ。
ちらちらと降り注ぐ木漏れ日は、まだどこか柔らかいせいで、目を射ることはない。
心地よい風が、アルコールで火照った体を適度に鎮め、けれど、柔らかい膝の温もりが啓輔を夢にと誘う。
甘い匂いは、桃の花。
気持ち、いい……。
なびく前髪を、家城の手がそっと梳いていく。
酔いは睡魔を呼び寄せ、啓輔は抗う間もなくそれの虜となっていった。
「眠い?」
頭上の声にこくりと頷けば、小さな笑いが降りてきた。
「いいですよ、寝て」
「ん……」
もう一度、僅かに顎を動かして頷く代わりにする。
それからそう時が経たないうちに啓輔の吐息が規則正しいものになった。
鬼の章に続く