鬼が見た夢

鬼が見た夢

 ドアを開ける音がして、隅埜啓輔は身を沈めてさせていたソファから跳ね起きた。
 手に持っていた雑誌が勢いよく床に落ちる。読んではいたけれど中身が頭に入っていかなかった雑誌がくしゃっと啓輔の足の下でつぶれた。
 だがその事に気付かないほどに、啓輔は嬉しい気持ちのままに玄関へと走る。
 待望の、なのだ。
 出張で遅くなるとは聞いていたけれど、それでも家にいるのが妙に寂しくて来てしまった。
 本当は友人の里山櫂の元に行っていたのだけど、待ち人来たらずに落ち込んでいた彼は、今頃爆睡している。
 そんなところに一人で起きているのも気が引けて。
 何より、酔っぱらった櫂の告白を聞いたらどうしても家城に逢いたくなったのだ。
「お帰りっ!」
 灯りがついていることに訝しげに細めていた家城の目が、啓輔に気がついて大きく見開かれる。
 それを見ていると、この家城を驚かせることができたのだと、子供じみた悦びすら湧いてきた。
「啓輔……ただいま……」
 それでも、戸惑い気味に答えてくれた家城に啓輔は笑って、彼の鞄を持った。
 重たくてずしりと手に食い込む。
 中身はきっと書類の束なのだろう。
 その重さが家城の疲れのように見えて、啓輔は休ませたいと顎をしゃくった。
 目線の先の家城も、驚いた表情が消えれば、どう見ても少しくたびれた感じがある。
「中、入ろ。コーヒーとお茶と……ビール。どれがいい?」
 明日が休みとはいえ、疲れているであろう家城に啓輔は無茶はできない。
 実のところ、ちょっとだけではあったが、櫂のところであった一悶着で啓輔の心の中にある男の部分が鎌首を持ち上げてたいた。
 抱きしめた温もりは、櫂では友人としてしか感じなかったけれど、その姿を家城に変換してしまえば、それはもう性的な欲情の対象でしかない。
「とりあえずお茶でいいです。……今日は来ていないと思っていました」
 スーツの上をソファの背にかけ、ぐたりとその体を沈み込ませる。
 指先を喉元に入れて、ネクタイを緩めて。
 疲れたようにため息をこぼすその姿に、今日はずっと煽られる。
 けれど。
 それが全て家城が疲れているが故の行動だと思えば、啓輔も我慢しようがあった。
「なんかさあ、急に来たくなってさ。遅いったって最終便で帰ってくるんだし、って思ったら来てた」
 ことりと置いた湯飲みからかぐわしい緑茶の匂いが昇ってくる。
 それを嗅ぐと、啓輔もほっとするような感覚を味わった。
「あまり夜遅く出歩くと危険ですよ。それでなくても啓輔は原付なのに」
「う?ん……。ちょっとは寒かったけどさ。やっぱり車欲しいや」
 マンションの駐車場の空きを気にしなくて良いという利点はあったけれど、それでもこれからもっと寒くなると来るのも大変だろう。
 その瞬間、二人の視線が絡んで、すぐに外れた。
 一緒に暮らせば。
 とは啓輔も、そして家城もその時思ったけれど、お互い口には出さなかった。
 それはまだ早い。
 啓輔にしても、まだ心の整理がつかない。
 あの場所に一人でいると寂しさはあるけれど、それでもその寂しさは過去の懐かしさにも結びついているから。
 捨てきれない思いが、あそこにはある。

「食事は?しましたか?」
 浮かんだ思いを振り切ったように顔を上げた家城が問う。
「したよ。軽く食べて、さっきもシチュー食べたし」
 浮かんだ思いを啓輔も振り切るように。
 だから、問われたままに答えていた。
「シチュー?そんな手の込んだ物を作ったんですか?珍しいですね」
「え?」
 何を言われたか、ほんの少し理解するのが遅れて。
「あ、あ、あん……でもそのレトルトだったし……」
 確かそんなのがあったよな?と思い浮かべている啓輔の顔がひきつっていた。
「啓輔?」
 途端に家城の目が、鋭く啓輔を射る。
 失敗したと、思う間もなく啓輔はえへへっと笑っていた。
 誤魔化すことができるほど、家城は疎くはない。だいたい普段から誤魔化しを逃さないとばかりの仕事ぶりのせいか家城の追求に啓輔が敵うものではない。
 さすがに学習能力故か、啓輔も諦めるのは早かった。となれば、被害を最小限に食い止めた方が身のためなのだ。
「実は櫂に貰った」
「櫂……里山君にですか?」
 ますますきつくなる視線に、内心マズイと舌を出し。
「ここに来る前に寄ったら、余ったから食べてけってさ。あいつも一人暮らししているせいか、そういうの上手いよ。レトルト使ったアレンジとか」
「そうですか……。そういえば、前にもそんな事言っていましたね」
 ふっと家城の瞳が和らいで、啓輔も気付かれないように肩に入っていた力を抜いた。
 いつもなら、もう少し突っ込まれるのだが、今日は相当疲れているようだ。
「何?そんなに今日は大変だったんだ?」
「そうですね。少し差し替え分の作業もやりましたから。慣れない事をするのは疲れます」
「ふ?ん」
 そういえば、開発に行った時、ざわついていたような気がする。
 あまりない怒声すら聞こえて、早々に退散したことも。
「でも、今日でけりはつきましたから」
「じゃ、今日はさっさとお風呂入って寝ろよ。俺も眠くなってきた」
 いろいろありすぎて。
 寝るという言葉に、体が反応したように、途端に脱力してくる。
 もっとも。
「そうですね。それでは」
 着替えを取りに立ちあがった家城の緩められた襟元から、鎖骨の線が見えた途端、その眠気も吹っ飛んだ。
「……寝たら疲れも取れるよ」
 自分で言った言葉は、どこか白々しいものだった。


 渋る家城をベッドに押し込んで、啓輔はその下で毛布と掛け布団にくるまった。
 外は冷えては来ているけれど、まだ寒いとは言えない。それに締め切った部屋はまだ十分温もりがある。
「本当に……いいんですよ」
 狭いとはいえ、それでも二人で寝られない広さではない。床に寝る啓輔を案じて、家城も誘ったのだろうけど。
 啓輔にしてみれば、今の心情で家城の横に寝るのは体に毒だ。
「大丈夫。固いようだったら、ソファ使うし」
 いつもなら一緒に寝られなかったらそうしていたけれど。
 あそこだと、家城が見られない。
「何かあったんですか?」
 啓輔の常にない行動に家城も敏感に違和感を察したようだった。
 横になっていた上体を持ち上げて、啓輔を見下ろしてくる。
「何にも?」
 笑っては見たけれど。
 家城は聡くて、きっと啓輔の感情なんか気がついてしまう。
 それが判っているから──それでも、啓輔は頭まで布団を被った。
「何でもないって、お休みっ」
 だが、返事はため息で帰ってきた。
 そして。
 衣擦れの音と、ベッドがきしむ音がした。
「何でもないことは無いでしょう?」
 触れる手の重さを背に感じた途端に、胸の奥から湧き上がる熱い塊に身を丸める。
 出て行きそうになる思いを必死に堪えるために。
「……寂しくなりましたか?」
 なのに。
「バカやろ……」
 鼻の奥まで熱くなって、出てきた罵声は掠れて弱々しいものでしかない。
「啓輔がそんな瞳をするのは……葬式の後の、あの時以来のような気がします。けれどね、あの時の啓輔を私は忘れてはいませんよ?」
「うるさっ……っく!」
「どんなに慣れた場所だって、何かの拍子に寂しくなるものです。啓輔もそんな……何かの拍子が合ったんでしょうね」
「……っく……」
 寂しかったなどと口が裂けても言えない。
 けれど、確かにそうだった。
 音がテレビだけしかない空間が。
 人の気配がしない空間が。
 慣れていると思ったはずなのに、寂しくて堪らなかった。
 布団越しに背を撫でる家城なら、きっと判ってくれるとそう思ったから。
 必死で堪えようとした涙も、優しさに触れるとあっという間に溢れだして止まらない。
「ね、一緒に寝ましょうか?やっぱり冷えてしまいますし……。」
 家城は、そんな啓輔を慰める術を知っていて。それでそんな言葉を吐いているのは間違いないのだから。
 ちらりと布団の端から見上げれば、家城が微笑んで啓輔を見下ろしていた。
 だから。
「俺、今危ないって思うんだけど……」
 寂しさを紛らす一番の方法。
 それが脳裏を過ぎれば、先ほどようやく押さえつけた啓輔の男の部分が鎌首を持ち上げる。
 男の──それは征服欲。
 家城が優しければ、優しいほどに、啓輔の心を占めてくるそれ。
「帰ってきた時から気付いていましたよ。それでも温もりが欲しいんでしょう?」
 そんな事を言われて、それでなくても我慢がきかない心は簡単に期待にざわめいた。


 家城の匂い、そして温もり。
 それに間近に触れて、啓輔はひどくほっとしていた。
 自分がそれをどれだけ欲していたから気がつくほどにだ。
「ごめんな、疲れてんのに」
 舌先で鎖骨をなぞれば、喘ぐような吐息が聞こえる。
 いつもなら若干の抵抗はある筈なのに、それすらない。従順な夢見るほど素直に反応して欲する家城の姿。
「今日は、構いませんよ。それに……疲れてても……欲しい時はあります……っから……」
 どんな気持ちでそんな事をいっているのだろう?
 浮かんだ疑問そのままに胸に伏せていた顔を上げれば、耳まで真っ赤になった家城が目に入る。
 艶やかな、桜よりも濃い色。
 目の前が白くなるほどの妖艶さに、ドクンと啓輔の雄が成長した。
「あっ……」
 押しつけた腰のところではっきりとそれを感じ取った家城が、見つめる啓輔から顔を背ける。けれど、そのせいで目の前にさらけ出された喉のラインはひどく美味しそうで。
 喰むように口づければ、息を堪える音がする。
 体の線を感じるように手の平で撫で上げて、行き着いた先で指先を押さえつけた。
「んくっ」
 堪える吐息に逢わせて、再度尖りを押しつける。
 右も左も喰みたくて、啓輔は思うがままに舌先と歯と唇で蹂躙した。
 疲れているであろう体が、びくびくと生きの良い魚のように跳ねるまで。
 降ろした手の中に家城の物を捕らえ、もう一方の手を慣れることのない後孔へと差し入れる。
「ううっ……」
 堪える声も、指先に感じる締め付けも、何もかもが啓輔を煽るものでしかなく、止めることなどすでに頭から吹っ飛んでいた。
 つい先ほどまで感じていた寂しさも同様で、今はもう家城の体を貪り尽くしたい欲求に捕らわれていた。
「ん、ああっ」
 既に知っている場所を前触れ無く強く押すと、びくりと体が仰け反った。突き出されような腰を体で押さえつけて、さらに指を増やす。
 感じるたびにきつくなり、呼吸するようにひくつくそこを丹念に解す。
 それは言葉をかける余裕が無いほどで、啓輔はただひくつくように先を欲する自分を宥めることに必死だった。
「あっ……啓輔……っ……」
 掠れた声で家城が呼ぶ。
「ん、判ってんだけど……」
「うっ……あっ……」
 ただ、傷つけることだけはしたくない。
 それが今の啓輔にとって枷の役割をしていた。だが、体の下で身悶える家城の媚態に、そのひどく細い枷もいつまで持つか判らない。
「うっ……くふうっ……う、けいす……け……」
「うん……もう俺も限界」
 笑ってはみたけれど、それは苦笑にしかならなくて。
 余裕無く雄を家城の後孔に押しつける。
 はああっとわざと大きく息をする音を聞いて。
「ふあっ!」
「んっ」
 熱い絡みつく内壁に、入った場所が激しく波打ったような気がした。頭の中まで血が駆け上がる。
 熱くて、柔らかくて。
 欲して止まなかったそれは、やはり啓輔にとって妙なる物。
「んあっ……あっ……はあっ……」
「んくっ……熱……きつ……」
 家城が腕の下で喘ぐ。
 その体を抱きしめて。
 何度も何度も最奥を穿つ。
 そのたびに家城が逃れようとするかのように手から離れかける。だが、逃すつもりは毛頭無い。
 追いかけて、さらに打ち付けて。
 腰を押さえて。
 滑らかな肢体が汗でぬめりを帯び、触れあえば密着するように感じる。
「あっ……もうっ……」
 手の中でも家城の物が限界を訴えているのが判る。
 それが堪らなく嬉しい。
「ん……達こ……」
 汗が流れるのが気にならない。
 締め付け蠢く家城の後孔に誘われるように、啓輔も動きを早めた。


「ん……ふぅ……」
「はあ……」
 ごろりと転がった途端に、家城が身動ぐ。
 向き合った瞳は快感に染まっていて、目の縁まで赤くなっていた。
「疲れた?」
「少し」
 小さな声からも、微笑もうとして失敗したのか力無く閉じられた目からも、家城の限界が判る。
「後、やるよ……。寝てて」
 いつもなら、こんなことをいえば真っ赤になって意地でも起きようとするけれど。
「でも……」
 そう言いながら、その体が弛緩していく。
「お休み」
 何か言いたげだった唇は、もう規則正しい吐息しか零れない。
 それに指先で触れる。
 くすぐったさを感じると抱きしめたくなったが、さすがにそれは堪えた。
 だから。
 思い切ってベッドから降りる。
 室内の空気が直に肌に触れて、冷えた汗が身震いを起こさせる。
 それが気持ちいい。
 大きく深呼吸して、体内の熱までも吐き出してから、啓輔は振り返った。
 視線の先で、ベッドに四肢を投げ出すように寝ている家城を見下ろす。
 もう寂しさはなくなった。
 触れあった温もりはちゃんと手の中にあって、当分は離れても忘れることはないだろう。
「ありがと」
 軽く触れるだけのキスを頬に落として、啓輔はシャワーを使うためにその場を離れた。

 ほら、もう寂しくない。
 それを実感しながら。
 
 FIN.