夢に誘い、鬼眠り

夢に誘い、鬼眠り

 最近、啓輔は時折自分の家にいるのに、酷く寂しさを感じることに気が付いていた。
 それはテレビを楽しんでいた今も、先ほどから啓輔の胸の内に宿ってきている。
 テレビの音しかしないその空間が、いたたまれなくて、不安になってくるのだ。
 ──ここは自分の家なのに。
 いつもそう思って、割り切ろうとしていたのだけど。
 おかしなもので、そう思うほどにその寂寥感は強くなっていく。それが何故かは判らない。
 だが、火事によって長屋だけしか残らなかったとはいえ、それでも生まれた時からいる家だ。家族がバラバラでどうしようもなかった時には、いつも一人でこの部屋にいたけれど、そんなときでもこんな感情を持つことはなかった。
 啓輔の家がある集落は、国道からも外れた場所で車通りも少ない。だから、周りも静かで離れた隣家の物音など聞こえようもない。夏場で窓でも開放しているのならともかく、着込まなければ寒いと感じる今の季節、塀を越えてしまえば音は途端に小さくなって届かなくなる。
 昼間は別に気にならないのに。
 いや、昼間は農作業する人間が多いから、街中よりよほど賑やかだ。
 おばちゃん達の声高なうわさ話は、騒音にも近い。だが、ずっとそれを聞いてきた啓輔にとって、それがないと何か物足りない。だから夜になると寂しい気持ちになるのだと思っていたけれど。
 今日は特にそれが酷いように感じた。

 だからと言って、寂しいからと、それを黙って享受するほどに啓輔も大人しくはなかった。
 暇だから変な事を考える。だったら、暇でなくなればいいんだ、とそんな事を考えて、とんとんと軽快な音を立てて階下に降りた。
 目指すは友人である里山櫂の家だ。
 今日は金曜日で、本当なら家城のところで楽しい夜を過ごすはずだった。ところが相変わらずのいきなりの出張で、帰ってくるのは明日の昼過ぎだという。
 予定も何もかも吹っ飛んだ休み前、仕方がないので家にいたけれど、やはり大人しくしているのにはもったいない。
 そうなれば、他に暇している奴のところにでも行くのがベストとなる。
 そして、櫂もまた今日は確実に暇しているはずだった。
『今日は、ご飯どうしよう……何作ろうかなあ』
 なんて休憩時間に言っていたのを、聞き逃しなどしていない。
 啓輔よりは真面目な櫂は、こんな時に夜中にうろつきなどしないから、いきなり尋ねても絶対にいるに違いない。だから電話連絡もせずに、啓輔はバイクを走らせていた。


「櫂?っ」
 チャイムを鳴らしながら、ドアを叩く。
 ややあって、中から「はい?」と声が聞こえてきて、ドアが開いた。
 少し驚いたような表情で現れた櫂を押しのけるようにして中に入る。
 中は外よりは暖かく、冷えた体がぶるりと震えた。
「啓輔ぇ。いきなりなんだよ?びっくりしたよ、誰が来たのかと思ってさ」
「暇なんだよ。何、誰か来る予定でもあった?」
 そんな筈はないと思っていたから冗談めかして言ったのに、櫂は浮かべていた笑みを不意に引っ込めた。
 その変化にもしかして、と問いかける。
「あれ……もしかして予定があった?」
「あ、……いや、いいんだ。ほんとは来てくれる予定だったんだけど、仕事が入って来れなくなったって連絡あって……」
 暗い声音に、来てくれる人ってのを凄く楽しみにしていたんだろうと判る。
「そっか……。でも俺にはラッキーだったね。ここまで来て追い返されたりしたら、ショックだからさ」
「え、そんなことは……しないよ」
「嘘」
 ほんの僅かな間が、櫂の本心を教えてくれて、啓輔は楽しそうに笑いかえした
「そんなに大事な相手って、彼女?」
「違うよ。それより寒いんだろ、あがれよ」
 照れたような笑いを見逃す啓輔ではなかったが、確かに芯まで冷えた体が暖を欲していた。
「ま、そういうことにして……。おじゃましま?す」
 靴を脱いでぺたぺたと歩いていく先から、いい匂いが漂ってくる。
「何、この匂い?」
「え、ああ、シチュー。作りすぎたんだけど、食べる?」
「え、お前がっ?」
 思わず素っ頓狂な声を上げて、心外そうに睨まれた。
「そんな事言うんなら、あげない。だいたい、少なくとも俺は啓輔よりは料理は上手いよ」
「う……」
 まあ、食べてきたから空腹ではなかったけれど、剣呑な櫂に気圧されてそのまま居間に通された。座布団に腰を下ろして窺えば、そこにはもうグラスが出ていて、櫂が飲んでいる事に気が付いた。
 それに珍しい、と思ったけれど、すぐに現れた櫂がことんとテーブルに置いてくれた湯気を立てる物に気を取られる。
 カップに触れた指にじんわりと温もりが伝わって、啓輔はそっと両手でカップを持った。立ち上るクリームの香りが、鼻腔をくすぐる。
「あったかい……幸せ……」
 その温もりに誘われて思わず呟くと、櫂が笑い出す。もっとも啓輔とてらしくない台詞だと思っているから、紅潮した顔を俯かせるばかりだ。
 こんなところを家城に知られたら、子供のように扱われてしまうけれど、櫂とて先ほどの拗ねた様子は似たようなものだ。
 どっちもどっちの感想を抱きつつも、櫂を上目遣いに睨む。
 外に出たせいか、それとも少し飲んだ酒のせいか、櫂の頬はほんのりと染まっている。それがいつもの櫂よりさらに幼く見えさせた。彼は同い年なのに弟のような感じがして、啓輔は時にいたずらに構いたくなる。
 それに櫂も想像通りの反応を返してくれるから、これが楽しくて堪らない。
 高校時代はあまり深い付き合いをしていなかった啓輔にとって、櫂は久しぶりに友人と呼べる存在だった。
「最近付き合い悪いのに、今日はどういう風の吹き回し?」
 櫂が笑って啓輔に問う。
 テーブルを挟んだ向かいに櫂がグラスを寄せて座った。ぐいっと飲んだその色が少し濃いような気がして眉を顰めるが、櫂が返答を期待しているのに気が付いて、視線を逸らした。
「ちょっとさ……」
 寂しかったなどはとても言えない。
「何?喧嘩でもしたの?」
 何気なく問われた言葉は、意味が判らない。
「えっ、誰と?」
「誰って、家城さんと。最近仲良くていっつも一緒じゃんか。それ以外の啓輔の友達なんて俺知らないし」
「してないけど……」
 確かに仲良いのは、櫂にもバレている。
 家城の無表情な風貌とその性格のせいで、誰も同じテーブルに着こうとしない休憩中に、平気で割り込んでくる櫂。傍目に見えるほどに、家城の性格が悪くないことを知っている、数少ない人間だ。
 だけど、なぜだか櫂の声音に言外の意味を感じるのは気のせいだろうか?
 上目遣いに見つめるその目線が、何かを語っているような気がする。
 カップを口の傍まで持ってきて、啓輔は櫂を窺った。
「家城さんは今日は出張だって。それに、そんなにいっつも一緒にいる訳じゃないし」
 前半部は真実。後半部は嘘八百。
「へえ、そうなんだ。じゃ、しょうがないね」
 櫂があっさり納得してくれて、ほっと一安心したけれど。
「でもさあ、二人って見ていて羨ましくなるくらい仲睦まじいよねえ。マジで、あの家城さんがっ?っていうような顔つきしていることあるし」
 決して少なくない量を一気に飲んだ櫂が、さらっと言葉を吐き出した。
 その内容に、引きつるような悲鳴が喉の奥で鳴る。
 幸いにして櫂は気付かなかったそれは、だが同時に啓輔の顔から色を失わせていた。
 震える両手の中で、カップが揺れる。
 悲鳴を飲み込んでいる先で、爆弾発言をかましてくれた櫂はどこかぼんやりと遠くを見つめていた。
「そ、そうかな?」
 誤魔化すように問い返して、じっと櫂を窺う。
 それでもすぐに帰ってこなかった答えに、啓輔はいたたまれなくなって食欲などないのにカップに口をつけた。
 白い海に緑や赤の野菜の島。
 今日ここに来る誰かのために櫂が作った料理。
 それを見ていると、少しだけ心が落ち着いて、櫂が何故そんな事を言い出したのかを考える。
 櫂は、羨ましいと言っていた。
「なあ、櫂。今日さ……」
 一体誰がここにくる筈だったんだろう?
 そう思って問おうとしたのに、櫂はふわりと目線を動かして啓輔を見つめた。
 そして。
「啓輔、あの家城さんとつきあい始めてから、表情が和らいだよね。前はもっと目つきとかきつかったもん。背も高いから迫力あったし。それでたとえば金髪で長かったりしたら、もろ、不良って言っていいくらいだったもんなあ」
 がちゃんと音を立てたのは、手に持っていた筈のカップ。
 あまり高い位置でなかったそれは、手から離れてもきちんと着地して中身が零れることはなかった。けれど、櫂の想像が決して外れでない時があった啓輔の瞳がこぼれ落ちんばかりに見開かれている。
「だからさ、最近ご無沙汰で寂しいなあって思えた時もあったけど、恋人と一緒にいるのに邪魔しちゃ悪いって思って。なんか、最近そういう気持ちってすっごくよく判るんだよね?。やっぱり、好きな人とはいつも一緒にいたいもんだからさ」
「そ、それはそうかも……って、その純哉とは、その……」
 恋人と言われているのが誰かなどと誤魔化すことはできそうにないほどに、櫂は何もかも知っているとばかりにしみじみと呟く。
「だ、だから、俺と純哉──じゃなくって家城さんは何の関係もなくってっ」
 それでも二人の仲を否定しようとした。
 けれど、不思議そうに櫂が言う。

「だって二人して、あの夜、やってたじゃない、セックス」

 言おうとした単語が、喉の奥で消えた。


 耳が壊れたかと思った。
 さっきまで聞こえていた音が何も聞こえない。
 体がびくりとも動かなくて、しかも呼吸することすらままならない。
 それでも唯一戦慄いていた唇が、かろうじて息を吐き出して、ようやく言葉を紡ぎ出す。
「な、何を冗談を……。俺達、男同士なのに……」
「あの夜さ、目え覚めちゃったら、可愛い鳴き声聞こえたんだよね……。子猫かと思うような可愛い声。でもさ、なんか変で。やっぱり人の声だなあって思って……。俺だってさあ、エロビデオぐらい見るよ。まあ、男がそんなふうに声を出すのはそうそうないけどさ。それでも、その後の家城さんの様子とか、翌朝の啓輔の様子とか……判らないって思う方が変じゃない」
 ほんのりピンクに染まった顔で可愛くにっこりと微笑まれても、啓輔の強張った体は元に戻らない。
「う……」
 だいたい櫂はあの後平然と振る舞っていて、バレているとは思いもしなかったのだ。
 なのに。
 にこにこと無邪気に笑う櫂は、何もかも知っているのだ。ということは、あの時の平然とした態度は、演技だと言うことになる。
 元気で明るくて、人懐っこい櫂。
 だが、その実態は……。
 不意に浮かんだ悪魔の容姿をした櫂に、慌てて頭を振ってそれを追い出した。
 けれど。
「あの時の啓輔って、次の日も可愛かったよねえ」
 明らかにあの時を思い出して、うっとりとした口調で言われては、立ち直りかけた啓輔の心は再び奈落の底に突き落とされる。
 やはりこいつは悪魔だ。
 そう働かない頭が断言して。
 けれど、その櫂が目の縁まで赤く染めていることにようやく気が付いた。
 それはどう見ても話の内容に羞恥しているからでないことは明白。
「か、櫂?もしかして、相当飲んでる、のか?」
「ん?……、そういえば、もう結構飲んだかも。これって美味しいんだよ?」
 無邪気に見せるウイスキーのボトルは、すでに半分以下になっている。それがいつ開封されたものかまでは判らない。だが、今の櫂の様子だと、水割り一杯や二杯という量ではないはずだった。
 もっとも櫂の酔いは悪いものではない。
 ただ、無邪気に人懐っこくなっていくだけの楽しい酔い方。
 けれど。
 呆然と櫂の様子を凝視する啓輔に、櫂は遠慮無く問いかける。
「ねえ、男同士ってやっぱり気持ちよかった?そういうのって」
 遠慮の無い酔っぱらいの櫂に、素面の啓輔が叶うはずもない。
 これは早々に退散を、と思ったけれど。
「だって、啓輔あんな可愛い声出してて……。俺いっぺんに目が覚めちゃったよ」
「そ、それはっ!」
「男同士ってやっぱり抱かれる側と抱く側ってあるんだよね。それって啓輔はどっち?」
 すでに頭の中は爆発して、むちゃくちゃになっている。
 昇りきった血は、解放を求めて抗って、ますます啓輔を混乱させていた。もうそうなると体のコントロールすらままならない。
 飲んでもいないのに櫂より真っ赤になってしまった啓輔は、戦慄く唇を幾度も開閉させた。けれど、言いたいことは言葉にはならない。
「ね、男同士ってさ、不自然じゃない?啓輔はどうして抱かれようって思ったのさ?」
 何も答えなくても、櫂の話は勝手に続く。
 その中ではやはり啓輔は抱かれる側だと認識されていた。
「初めての時って怖くなかった?それでも抱かれたいと思った?」
 じりじりと詰め寄る櫂に何も言えないと首を振るけれど、彼は真剣な目で啓輔を睨み付ける。
「何、まだ誤魔化すの?あの時、しっかり俺は聞いたんだから。だから聞いてんのっ!それに、そう思って見ていると、思い当たる節があるんだよ?たとえば、着替える時に啓輔って、鎖骨の辺りに赤い斑点があったりするけど、あれってキスマ……」
「う、うわわわわぁぁっ!」
 さすがにそれ以上聞きたくなくて、啓輔は必死で櫂の口を塞いでいた。
 他人のそれを指摘するのは恥ずかしいけれど楽しいこともあるが、自分のそれを他人に指摘されるのは堪らなく恥ずかしい。まして相手が櫂なのだ。
 もぐもぐと暴れる櫂が、どうにかしてそこから脱出して啓輔を睨む。
「酷いっ。聞きたいことを聞いているだけなのに、何で教えてくれないのさっ!」
 途端に、その大きな双眸がうるうると潤み始めた。今にもこぼれ落ちんばかりの涙に押さえつけていた手までも緩んでしまう。
 返事に詰まった啓輔の膝を、櫂が逃がさないとばかりに両手で押さえつけた。
「教えてよ。やっぱり気持ちいいからするんだろ?痛いって聞くけど、その辺りはどうなのさ?」
「どうって……」
 最初は痛いけれど……。
 問われるがままに口を開きかけて──けれど、そんなことは言えるわけもない。
 その時の事を思い出して、熱くなった体のせいで耳の後ろまで真っ赤になった啓輔に、櫂は容赦がなかった。
「啓輔も最初は怖かった?やりたくないって思った?それって積極的になったのはどっち……ってやっぱり家城さんの方?家城さんって厳しそうだけど、その時はやっぱり優しかった?」
 応える暇もない。
 櫂は矢継ぎ早に質問を仕掛けてきて。
 だが、啓輔の回答を期待しているようなのに、そこには口を挟む暇はない。
「やるのって簡単だよね?挿れればいいんだから。痛いのは……何とかなるよね?だって痛いばっかりだったら、啓輔あんな声出さないと思うし。だったら、大丈夫だよね。できるよね?」
「か、櫂……」
 ふとあることに気が付いて、啓輔が呆然と呼びかけた。
 好奇心で聞いているような台詞が、気が付けば、何かを確認するかのように同じ言葉が繰り返されいることに気が付いた。その様子に、変だと櫂の表情を窺う。
「大丈夫だよね?できるよね?簡単だよね?お互いが好きだったらできるよね?……したいって思うよね……?」
 真剣な瞳、だけど、見つめているのは啓輔ではない。
 どこか遠くを──誰かを見つめている。それは、たぶん、セックスをしたいけれどできない相手。
 だから、櫂は酔いに任せて不安を啓輔にぶつけて──大丈夫だ──といって貰いたいのだと、気が付いた。
 それが誰かは判らない。
 けれど、不安がここまで凝縮するのだから、櫂はまだ経験がない。
 初めての一線が越えられなくて、悩んで悩んで──たまたま飲んでいた酒の力が、それを助けたのだ。誰にも言えない不安を経験のある啓輔に癒して貰いたいと。
 そんな櫂がひどく気の毒で、そして愛おしかった。
 相談してくれたのだと気が付いて、そして安心させたかった。
 だから。
「ああ、大丈夫だよ。相手が好きなら、どんなことだって堪えられるし、二人とも気持ちよくなれる」
 それが啓輔にとって真実だ。
 最初の痛みなんて、もう記憶の中ではひどく朧気だ。
 ただ、初めて体を合わせた日の、たとえようもない幸せな気持ちはいつまでも心の中にある。
 初めて抱かれた時も。初めて抱いた時も。
 どちらも啓輔にとっては、大切な思い出だから。
「ほんとに?」
 泣きそうな表情の櫂に、笑んで答える。
「大丈夫だって。櫂が相手のことが好きで、相手も櫂の事が好きなら──大丈夫だから」
 この美味しいシチューを食べ損ねた櫂の恋人は、一体どんな奴なんだろう?
 相手は、こんな櫂の悩みを知っているのだろうか?
 不安なんて取り除いてやるのが恋人の役目だろうに。
 櫂を悩ませる恋人に無性に腹が立ってきて、きりきりと奥歯を食いしばる。
 けれど、啓輔の言葉を聞いた途端に、櫂が首に抱きついてきた。
「う、うわっ」
 いきなり体重をかけられて、したたかに背を床に打ち付けた。けれど走る痛みに顔を顰めたのは束の間のこと。
「あり……がと……啓輔……ひっく……そうだよね……できるよね……」
 小さな嗚咽と消え入りそうな声。
 それを聞いて啓輔は思わず櫂を強く抱きしめていた。
「大丈夫だから、な。櫂はその人のこと好きなんだろう?だったら、大丈夫だから。いい人なんだろう?」
 櫂が好きな相手なんだから。
「うん……。優しくてさ。しかもなんか凄く純情で……可愛いんだよ。俺、気が付いたら好きになってて。優しくて、いつも俺のこと大切にしてくれるのは判るんだけど……だけど……」
 櫂がそんな事を言うくらいだからきっと優しいのだろう。
 ただ、その優しさが櫂の望むものと少し外れているのかもしれない。だから、櫂がこんなにも不安になっている。
 そんな櫂を安心させたくて、啓輔は背に回した腕に力を込めた。
「櫂……大丈夫だから、ね」
「……うん」
 小さな声が返ってきて。
 そのまま互いを抱きしめる。
 啓輔はあやすように櫂の背をさすって、櫂は啓輔の胸に顔を押しつけていた。
 愛おしいと思う心は、家城に対するものとは違う。
 助けてあげたいと、願って、宥めたいと手を動かす。
 啓輔の口許に自然に笑みが浮かんで、あやすように動かす手は優しくなった。
 それを受けてか、櫂の体の震えが少しずつ小さくなる。
 そして。
 啓輔が体の重みに苦痛を感じ始めた頃、櫂の規則正しい寝息が聞こえてきた。


 勝手しったる他人の家で啓輔は櫂を布団に押し込むと、戸締まりを確認して家を出た。
 かけた鍵は、玄関横のポストに放り込む。
 しんと静まりかえった住宅地。
 つられるように空を見上げれば透き通るような澄んだ空気で綺麗に星が瞬いている。
「なんか……帰る気しねーな」
 手の中の温もりは、そう簡単には消えていかない。
 そこには不純な思いなど一欠片もなかったけれど。
 だが、そのせいで別の温もりを思い出してしまう。かけがえのない相手を抱きしめた時の、櫂とは違う温もりが、今この手の中に欲しいと思った。
 だけど、その相手は今日はいない。
 そんな啓輔を冷えてきた大気が、嬲っていく。
「うっ……寒……」
 震える体を丸めて、ポケットにいれた指がキーホルダーに絡みつく。複数の金属が擦れる音に、啓輔の指がそれを取り出した。
 三本の形の違う鍵。
 一つは啓輔の家のもの。
 二本目はバイク。
 そして──最後のは家城の家の鍵。
「言ってみようかな……」
 主は不在ではあるけれど、それでもあそこには家城の匂いがある。
 家城の物に囲まれて、家城を待つのも悪くはない。
 自宅で一人寂しくいるよりは、家城の家で一人でいる方がまだ堪えられるような気がして、啓輔はバイクにまたがった。

「おやすみ、櫂」
 
 小さな声が、誰にも聞かれずに消えていった。


【了】