【ECLOSE -羽化-】 3

【ECLOSE -羽化-】 3

 ──男には見えないくらいに可愛いね。
 子供の頃から言われ続けた言葉は、さすがに最近では言われなくなっていたし、智史自身そんなことはどうでもいい、と……思っていた。
 弟の誠二は、そう言われることをはっきりと拒絶してすぐにいきり立つけど、さすがにそこまで怒る気力はもう失せた。というより、智史は言われたからといって怒るタイプではなかった。
 どちらかというと、それをじっと抱え込むタイプだ。

 だから、いつの間にかどうでもいいと思うようになっていた……筈だった。
「変態っ、おかまっ、男のくせに可愛いなんて変じゃんっ」
 すれ違いざまに罵倒されれば、さすがに智史の神経もきしむ音を立てた。
 振り返れば、見たこともない女子生徒達が嘲るように嗤いながら足早に通り過ぎていく。
 男らしくない容姿は遺伝だから智史にはどうしようもないことで、少なくとも態度までは女っぽくないとは思っている。それでも、時折そうやってからかう人がいるのは知っている。
 性格が誰よりも男っぽい誠二に、おっとりとした優司、そして要領の良い恵と、みなそれぞれに個性があって、可愛いと言われる前に別の形容詞が当てはめられる。
 それは智史にもあてはまることだった……筈なのに。
「……違う……よ……」
 無意識のうちに出ていた呟きは、誰にも聞かれることなく中空に消えていった。
 ぐっと握りしめた手の平に痛みが走って、智史は自分が爪を立てていることに気が付いた。血の気を失った手の平に赤い筋が浮かんでいる。それをまじまじと見つめて、ふっと小さく笑みを含んだ息を吐き出した。
「何やってんだろ……」
 もう一度手を握りしめて、そして去っていた彼女たちの見えない後ろ姿を追う。
 最近、こんなことが増えたような気がする。
 嘲るような憎しみにも似た視線が増えて、智史の肌をちりちりと焦がす。その視線の元を辿れば、いつもこの先に向かう。その廊下の先は三年の教室に続くのを思い出して、智史はその原因に気が付いた。
 今智史が親しくしている三年は、楠瀬ただ一人。
 楠瀬はとにかく人を楽しませることを一番に考えて、智史がどんな無理を言っても叶えようとしてくれる。楠瀬といると無意識のうちに笑う回数が増える。そんな智史を見ているうちに、最初は仏頂面だった裕太までがひどく嬉しそうだった。それも智史にとっては嬉しいことで、そして智史が笑えば楠瀬が満足する。
 三者三様の楽しみ方をしいてる三人は、だが、それに反感を買ってしまう連中もいるらしい。
 楠瀬がもてるという話は聞いたことがある。彼女たちはきっと楠瀬目当ての女生徒なのだろう。
 嫉妬が怒りを生んで、そのはけ口を原因である智史にぶつけた。
 それだけのことだ。……ただ、それだけのことなのに。
 ずきりと胸の奥底で引き連れるような鈍い痛みが走る。最近、味わうことの無かった痛みに、知らずに眉間にシワが寄る。
 まただ……。
 きしむような痛みは、実は覚えがあるものだ。
 そんな柔な神経は、幾重にも殻を作ることで奥深くに押し込めたと思っていたのに、どうやら表に出てきてしまったらしい。
 弱い痛みなのに、いつまでもいつまでも智史を苦しめるその痛みが嫌で、ずっとその痛みをもたらす原因を作らないようにしていたというのに。
「油断……したかな……」
 苦笑混じりのため息をついても痛みは消えない。智史の握りなおした拳が胸骨の上を軽く叩いていた。
 楽しいと……思ってしまったから。人に構われる楽しさを思い出してしまったから。
 それが殻を突き崩し始めてしまった。そして、智史は殻に籠もっていた頃には……もう戻りたくなかった。
 智史が纏っていた殻は、周りに対する無関心であったり、誠二の周りに対する対応であったりしたけれど。
それでは駄目なのだと、裕太が気付かせてくれた。そんな態度はやはり良くないと──それだけが殻ではないのだと。だけど、裕太は決して強引ではなくて、まだ片足しか出ていない状態だった。……なのに、そこに楠瀬が加わって、彼の強引な態度が、智史のみならず周りまでをも刺激した。
 それに気付かなかった。
 自分が周りに対して与えている影響に──気付かなかった。それを考える暇を与えないほどに、楠瀬に構われるのが楽しかったのだ。
 こんな痛みを覚えても、今更……元には戻りたくないと……思うほどに。
「大丈夫……」
 数度深呼吸をして、窓の外を見遣ると、透けるように青い空に薄く白い雲がかかっている。
 まだ……大丈夫だと、智史は誓うように口の中で呟いて、その口許に笑みを浮かべた。
 あれからもう随分と経って、智史自身も成長している。
 傷ついた心を癒すために子供のように泣いて過ごしていた時は、もうはるか彼方に過ぎ去っていて、今はきっと笑って通り過ぎることができるだろう。
 だから、これは良い機会なのだと。
 嫌悪を抱きながらも誠二の庇護下にいることはないのだと、楽しい輪から外れて何事にも無関心でいること必要もなくして。
 自分の力で耐えなければならない時が来ているのだと、智史は十分自覚していた。


「智史……顔色が悪い……」
 心配そうに覗き込む裕太に、智史はくすりと笑いかえした。
「別に?なんとも無いよ」
 声にのせた笑みに不自然さはなく、裕太は不思議そうに首を傾げていた。
 顔色に出るとは精進が足りない、と智史はそれと気付かれないように肩を竦める。正直言って、昨夜もその前もあまり眠れていない。
 布団にはいると目が冴えて、なかなか睡魔が来ない。そのせいか、体が怠かった。
「今日は曇りだし、日の加減でそう見えたんじゃないのか?」
「そうかなあ……」
「そうだよ」
 裕太は優しいから、だから気付かれたくなかった。余計な心配は彼にはかけたくない。何よりも裕太は智史を大事にしてくれる。それが判るから。
 ──俺だって……智史が好きなんだ……。
 そう言ってくれた時に、何よりも嬉しかったから。
「それより、次は科学だろ。実験室行こうよ」
「……あっ、そうだな」
 慌てたように教科書を取り出している裕太に笑いかけて、智史も教科書を取り出した。
「あっ……」
 目に入った文字に、思わず口から音が漏れる。
「どうした?」
 それを聞き咎めた裕太が覗き込む前に、智史は急いで教科書を抱え込んだ。
「なんでもないよ。間違えて持ってきたかと思っただけ」
「科学の教科書なんて間違えようがないだろ?」
「そうだけどさ」
 笑って……返して。
 胸に走る痛みに、心の中で悲鳴を上げる。
 抱え込んだ教科書の表紙に、黒の油性のペンで書かれた文字は、決して裕太には見せたくない。
 きっと裕太だってそんな言葉は読みたくもないだろう。
「ほら行こっ」
 裕太の背を教科書を握った手で押して、促す。
 消えない文字は、心の奥に焼き付いてしまったけれど、それでもいつかは消えるから。
 智史は笑って、裕太とともに移動した。


 下駄箱に入れられたゴミの山は、こっそり鞄の中に押し込んで公園のゴミ箱に捨ててきた。
 まだ細かいゴミが残っている時に楠瀬に見られたが、彼は一言「汚いな、掃除さぼってるだろ?」と言っただけで、それ以上のことは気付かない。
「ちょっとね」
 曖昧な笑みは、裕太になら変だと思われるかも知れないが、楠瀬はそれほど智史を知らない。
 だから誤魔化せる。
 それに、楠瀬はいつも側にはいないから。笑っていれば、楠瀬は気付かない。


「いてっ」
「あ?ごめんなさい?」
「小さいから気付かなかったわ?」
 嗤いながら智史を押しのけて女生徒達が去っていく。
 傍らの壁に押しつけられた拍子に、手の甲を擦ってひりつくような痛みが走っていた。
 小さいと言われても、同級の男達の中にいれば確かに小さいかもしれないが、ぶつかってきた彼女たちとはそう大差ない。
 見れば白く剥けた皮膚の端から微かに血が滲んでいて、それをぺろりと舐める。動物的だな、とは思うけれど、それでももう傷は癒えたようにみえた。
 瞬く間に止まってしまった血を見つめて、胸の痛みもこんなふうに簡単に治ればいいのに……と智史は小さく笑い続ける。
 さっきから、耳の奥で不快な音が鳴っていた。
 最近少しずつ強くなっているそれは、さっきからまた強く聞こえだして、智史の神経を苛立たせる。
 眠れない夜もどんどんと酷くなって、昨夜は数時間ほどしか眠れていない。それも夢にうなされて、ひどく浅いものでしかなかった。
 このままだと壊れてしまいそうだ。
 胸の奥の痛みを癒すように大きくため息をついて、智史はそのまま壁にもたれかかった。
 横になりたくて、仕方がなかった。今横たわれば、眠りに入れそうな気がして。
 だけど。
「智史、もうチャイムが鳴るよっ」
 裕太が遠くで手を振って呼んでいる。
「すぐ行くっ」
 自分でも気付かないうちに智史は笑っていた。


「やっぱり、具合悪いんじゃないか?」
 毎日のように聞いてくる問いかけに、智史はいつものように首を振って答える。
「大丈夫だよ」
「……お前さ、鏡見てんのか?」
 だけどこの時ばかりは、裕太は引き下がらなかった。
 間近に覗き込んでいる瞳が心配そうに揺らいでいる。
 そういえば誠二も似たようなことを言って、朝から詰め寄ってきたことを思い出す。
「……でも、大丈夫なんだ」
 他に答える言葉も見つからない智史は、裕太の視線から逃れるように席を立とうとした。
 と、不意に視界が暗く狭まった。
 きーんと耳の奥で激しく音がして、バランスが取れなくなる。
「智史っ」
 叫ぶ声とともに力強い手が体に回されたことは判ったけれど、体が自分の物ではないように言うことをきかない。
「だ…いじょーぶ……」
 見えない視野の中で、必死になって裕太を捜す。
「何言ってんだよっ!!」
 きつい声音に裕太が怒っているのが判って、智史はくっと唇を噛みしめた。
 だけど息が苦しくなって、結局喘ぐように息を吸う。立ちくらみに似た症状は、一向に治まることなく酷くなった。
「智史っ!」
 音の無くなった世界に、裕太の声が聞こえてきて、怒っているのにそれだけが縋るものであるように智史は意識の手を差し出した。
 ……裕太……。
 抱きしめられた手の温もりが気持ちよくて、張りつめていた緊張の糸が切れる。
 途端に激しい睡魔に襲われて、智史は裕太に抱き留められたまま意識を失った。

【ECLOSE -羽化-】 6


「おまえさあ、ほんとにおとこなのかっ!」
「おんなみたいっ」
 小さな子供の言葉は相手の事を考えないから残酷だ。
 容姿だけでなく、性格も優しくておっとりとして、そして泣き虫であった智史は、悪戯盛りの子供達の格好の標的になっていた。
 走り回るよりは、家の中で大人しくしている方が好きなだけ。
 取り合いの喧嘩になったら、相手が傷つくことが恐くて、渡してしまうだけ。
 ズボンを着ていても女の子と区別がつかないほどに可愛い容姿も手伝って、そんな智史をからかう言葉は、いつもそれを揶揄したものだった。
 そんな時にも智史は何も言わないから、子供達は遊びのように智史をからかう。
 それに笑って返していても、智史のプライドは決してそれを許容できるほど寛容ではなかった。
 男らしい男になりたいと、成長するにつれ芽生えた意識が、その言葉に簡単に傷つく。
 部屋の片隅で泣いて過ごした智史は、ある夜、高熱を出した。
「ぼくは……女じゃない……可愛くなんかない」
 譫言で何度も何度も繰り返した言葉は、当然ながら智史の記憶にはない。
 それを聞いたのは母親と弟の誠二で、誠二は「可哀想だ」と泣きながら智史の頭を撫でていたという。
 他に症状のない高熱は、きっと必要以上に傷ついた心が解放を求めたのだと、後で母親は「気付かなくてごめんね」と泣きながら教えてくれた。
 だけど、誰も泣かせるつもりはなかったのに。
 誠二も母親も決して悪くはない。
 自分が耐えられなかっただけだから、だから……やっぱり自分が弱いのだと。
 だったらどうすればいいんだろう?
 男だったら、誰も泣かせたりしないだろうから。
 もう……誰も泣かせたくないから……。
「ぼくが兄さんを守るからねっ」
 強い決意を込めた言葉に、誠二の強さを感じる。
 それが羨ましくて、そしてその意思を邪魔したくはないと願う。
「兄ちゃん……元気になってよかった」
 小さな弟達が笑うと、その笑みを壊したくはないから、もっと強くなろうと願う。
 だから人の言葉に惑わされないように、殻をつくってその殻ごしに相手の言葉を受け止めることにした。
 一歩退けば、それほどまでに心が揺さぶられないと気付いたから。
 そうすれば、……もう誰も、智史を傷つけることはできないだろうから。
 そうしたら……だれも泣かなくて済む。


 柔らくて、そして頬をくすぐるような感触に気が付いて、智史はそれを取り除こうと手を動かした。
「っ」
 息を飲む微かな音に、訝しく思って目を開ける。その時になって、ようやく自分が寝ていることに気が付いた。
「あれ?」
 視界に入ってきたのは、いつもより赤くなっている裕太だ。その背後の風景は見覚えのある壁とポスター。そして、薬の入った棚。
 保健室だと思い出して、そしてそのベッドに寝ているのだと気が付く。
「ぼく……どうした?」
 さっきまで教室にいて裕太と話をしていたと思っていたけれど。
「た、倒れたんだよ。真っ青になって」
 狼狽えて慌てて言葉を紡ぐ裕太の様子が妙におかしくて、智史は思わず笑っていた。
「……笑うなよ。びっくりしたんだぞ、こっちは」
「ごめん」
 その怒ったような声を聞きながら、倒れる寸前のことを思い出す。
 その時の様子はどう考えたって、限界が来てしまった事を智史に知らしめる。それは歯噛みしそうなほどに悔しい事柄だった。しかも、もっとも気付かれたくなかった裕太の前で、醜態をさらしてしまった。それだけは、絶対に避けたかったのに。
 うまくいかないもんだな。
 自嘲めいた笑みが智史の口許に浮かんでいる。それを裕太が訝しげに見つめていた。
「智史……寝不足だって?寝られないのか?」
 いつもとどことなく様子が違うと気付いたのか、それとも怒っている場合ではないと気付いたのか、一転して心配そうに裕太が声をかけてきた。
「大丈夫だよ」
 反射的に答えて。だが、裕太はきっと口許を引き結んだ。
「ずっと、大丈夫だって言っていて、それを信じたらこんなことになった。だから、その言葉は信じない」
 そう言って、智史を睨む裕太の顔はひどく男らしい。
 それは智史がいつも焦がれ欲していた男らしさであって、決して手に入らなかったものだ。
 だけど、それを裕太に言うわけにはいかない。
「何でもないよ」
 駆けられていた布団の縁を掴んで、顔を隠す。
「何でもないんだ……」
 自分を隠しきれなかった醜態をこれ以上見せたくはなかった。
「智史……」
 くぐもった呼びかけは、だがその後に続く言葉を持たないようで、裕太はそのまま智史を見下ろしていた。
 窓から入る日差しはかなり高い位置から降り注いでいて、もう昼が近い事を教えてくれる。それに外がとても賑やかだ。
「裕太……今、何時?」
「……3時間目が終わったところだよ」
「そんなに?」
 思わず見開いた目を裕太に向けると、苦笑が返ってきた。
「何度か目を覚ましたらしいけど、すぐ眠ってしまったって先生は言ってたけどな。覚えていないか?」
「ぜんぜん……」
 ずっと夢を見ていた。では、その中で何回かは現実の事柄だったのだろうか?
 でも……あれは全部過去の出来事だった……。だけど、あの時も譫言でみんなに心配をかけたのに……。
「ぼくは……なんか言っていた?」
「さあ、俺は聞いていないけれど?」
「そっか……」
 裕太の表情が嘘を言っているように見えないから、ほっと小さく安堵の息を吐いた。
 聞かれていなければ、きっと大丈夫だと信じる。
 安堵が、智史の表情を和ませた。
 と、不意に裕太がくっと唇を噛みしめ、吐き出すように呼びかけてくる。
「……智史?」
「何?」
 それには答えずに少し腰をかがめた裕太の手が、智史の乱れた前髪を掻き上げた。露わになった目を裕太がのぞき込み、その近さに智史は知らずに心臓が跳ねた。
「何か気になることがあるんなら……何でも言えよ?」
 智史にとっては泣きたくなるような優しい言葉がその口から漏れる。
 張りつめていた神経がぷつりと切れそうな、そんな予兆に捕らわれて、智史は慌てて大きく首を振った。
「何でもないよっ」
 拍子に離れた裕太にほっと安堵して、助かったとにこりと微笑む。
「そりゃ、悩みがなんにもないほどに脳天気じゃないからさ、悩みもあることはあるけど。少なくとも今考えていることは自分でなんとかしなきゃいけないことだし。それに裕太が何を心配しているか知らないけれど、そんなにたいしたことじゃないんだ。しかも、今回の寝不足の原因じゃないし」
 すらすらと言い訳が口から出る。
 それが不思議なほどすんなり紡げることが不思議で、だけど今回ばかりは助かったと自分を褒める。
「……それに寝不足なのは、面白い本読みふけっていたからだし……も、ぼくがバカなんだから」
「そう、なのか?」
 智史に触れていた手の平を裕太はじっと見つめ、そして智史を見遣った。
「そうなんだ。それより……先生は?」
 いい加減この話題から離れたいと、智史はいるはずなのに見あたらない人物を目で捜す。
「そろそろ帰ってくると思うけど。目が覚めたら早退させるって先生は言っていたぞ」
「え……。ぼくは、平気なんだけど」
 帰ったら、みんなが心配する。
 困惑の色が浮かんだ智史に、裕太が呆れたようにその頭に手を置いた。
「何が原因か知らないけれど、貧血に寝不足。ついでに疲労も溜まってんじゃないかって。帰って病院に行けってさ」
「病院なんか行きたくないな」
 行っても医者に何かが判るわけでもない。まして、男らしくして貰えるわけでもない。
 智史はゆっくりと体を起こすと、裕太を見上げた。
「このまま寝ていたら駄目かな?」
 まだ怠い体は、睡眠を欲している。
「う?ん……怠そうにしていたらもう少しは寝かせて貰えるかもしれないけどさ。でも病院に行かなくていいのか?」
「ああ、平気。ちょっと風邪気味はあったんけどさ、診て貰う程じゃないし」
 智史が浮かべた笑みに、裕太が小さくため息をついた。
「じゃあさ……適当に誤魔化せよ、先生を。今日は親が出掛けているとかさ……。で、帰りは俺が付いて帰るから」
「ああ」
 それだけは譲れないときっぱりと言い切った裕太に頷くと、智史は再びベッドに横になった。
「やっぱ……眠いや……」
 はふっとあくびをかみ殺し、体を横に向けた。見えるのは、吸い込まれそうな青空だ。
「裕太もそろそろ戻んないとチャイムが鳴るよ」
 背中越しに声をかける。だが、その言葉に返事が来ない。
 智史が窺うように肩越しに見上げた先で、裕太はじっと智史を見下ろしていた。
「裕太?」
「……智史……俺は……」
 何かを言いかけて。
「……じゃあ、戻るから大人しく寝てろよ」
 結局言いたい言葉ではないと智史にも判る狼狽えようを晒しながら、裕太は踵を返していた。


 裕太の気配が完全に消えて、智史はほっと大きくため息を吐いた。
 知られたくない。
 気にしなければいいことをずっと拘ってきて、いつまでも大人になれない自分を裕太には見せたくない。それこそ、誰よりも裕太には女々しいと思われたくない。
 智史は顔の前に来ていた拳をぎゅっと握りしめた。
 その拳の大きさは裕太の物よりは一回りは小さくて、手首はひ弱なほどに細い。
「裕太……ごめん……」
 心配してくれるけれど、だけど今は何よりも裕太を見たくないと、智史は拳とともにぎゅっと目を固く瞑った。
 優しくて、意思が強くて、喧嘩も強くて、勉強もそこそこにはできて……そんな彼は、智史にとって一番の友人で。
 誰よりも離したくない相手で……。
 だが、その存在そのものが、実は誰よりも一番智史のコンプレックスを刺激する人間でもあるのだということを、智史は今更のように思い出していた。
 それなのに、傍らにいたいという思いは、智史だって自覚している。
 こんなことで倒れるなんて、情けないから……。
 もっとしっかりしよう。
 誰に頼らなくても強くなって……。
 昔の自分とは違うのだと、そう思うだけで強くなれるような気になる。
 だから、強くなる。
 
 そのことばかりを考えていたから、だから、智史は肝心なことを忘れていた。
 そしてその事を思いだしたのは、放課後、厳しい顔をした裕太が差し出したものを見た時だった。

つづく