【ECLOSE -羽化-】 2

【ECLOSE -羽化-】 2

「だから」
 爆弾発言をした楠瀬が笑いを苦労して収めて、かがめていた腰を伸ばしながら智史を見遣る。
「俺ももっと親密な友達になりたいってこと」
 くすりと笑ったその顔、だが目が真剣で思わず返す言葉を失う。
「滝本君にそれを認めて貰うためなら、俺はどんな労力も惜しまないつもりだけど?」
「でも……」 

 誠二の攻撃は執拗なのに。
 智史の顔が顰められても、楠瀬は静かに笑っていた。
「でも……」
「それに友達が彼一人だと……喧嘩した時困るだろ?」
 今度はにやりと笑って、意地悪く裕太を見つめる。
「け、喧嘩なんか……」
「してたろ?」
 見透かされて狼狽えている裕太が可愛くて、智史までくすりと笑うと、裕太が睨む。
 それもまたおかしいと、出てしまった笑いが止まらない。
「笑ってる顔も可愛いねえ」
「おやじくさっ」
 一気に親近感が増した二人を、裕太がしかめっ面のまま割ってはいる。
「離れろっ」
「いいだろうが、今まで独り占めにしてたんだから。滝本君は君だけのものじゃないだろう?」
「っ」
 何かを言いかけて、だが裕太は寸前でそれを飲み込んだ。
 ぎりぎりと歯ぎしりする音が聞こえそうなその気配に、さすがに智史も裕太を黙って窺う。
「智史……」 
 しばらくして、我慢していた吐息とともに裕太が漏らした呟きは、掠れていてひどく切なく聞こえた。


 裕太の言葉を待つ間もなく、かろやかな音楽ともにはフォークダンスが始まった。
 結局、楠瀬はずっと智史の手を握って離れなかったものだから、裕太はその後ろで別の人間の手をしようがなしに握っている状態だ。
「わざとからかってます?」
 きつい視線を背に浴びるうっとうしさに顔を歪めながら、智史はぼそっと呟いた。
 裕太といると楽しいと思ってたのに……今日は楽しくない。それを考えると、原因はこの楠瀬にあるとしても、今は彼といる方が楽しい。二番手は後ろで睨んでいる裕太には違いないけれど、もっとも長い時間一緒にいる一番手が楠瀬であったのは幸いかも知れないと思う。
 ほっと安堵のため息をついた智史を、楠瀬が小さく笑いながら見下ろして、言った。
「なんというか……彼もかわいそうかなあって思ってね」
「え?」
 思わず見上げる先で、楠瀬がにやりと笑う。
「俺はまだまだ新参者だけど、彼の気持ちもわかるしねえ」
「?」
 何かを含んでいるその意味が判らないと智史が首を傾げると、彼は肩を竦めてそれ以上は語ろうとしない。
「楠瀬さん……って変ですね」
 何て言うか……言動が、他の人と違うような気がしてそれを口にすると、苦笑が返ってきた。
「……普段から言われてはいるけれど、直接言われると結構ぐさりと来るなあ。しかもそんなマジでさ」
「だってさ」
「恋する男としては普通の対応だと思うけど?」
「へえ、誰に?」
「……」
 彼でも好きな相手がいるのかと呟いた途端に、楠瀬がびくりと硬直した。
「誰にって……」
 不思議そうにまじまじと言われて、あれっと考えてから智史はその意味に気が付いた。
「あ……そうか……」
 さっき、気に入って、恋だと言われていたと、こくこくと頷く。
「これだから」
 踊りながら笑い出した楠瀬の言動はどう見ても変としか思えないらしく、二人の前後は大きく離れていた。 

「何だよ、あいつは……」
 裕太にしては珍しく苛々とした声が、手をつないだ途端に振ってきた。
「まあ……変ていえば変だけど、いい人なんじゃないか?」
 割合にはっきりしたところがあるがそれが不快ではない。
 ところが、そう言った途端に、握られていた手が痛いほどに締め付けられる。
「裕太……」
 訝しげに見上げた先で、裕太が顔を顰めていた。
「智史は……ああいう奴が好きなのか?」
「何で?」
 智史があまり他人に興味がないことを、何よりもこの友人は知っていたはずなのに、そんな事を言われて首を傾げる。
「……いつもより、楽しそうだから」
「そう?」
 そんなつもりはないのだが、裕太がそう言うのならそうなのだろう。
 確かに楠瀬の言動は、思わず笑いを込み上げされるほどに智史のツボを突いてはいたのだが。
「ま、でも面白いかもなあ。あの人って、思考回路がどっか微妙にずれているみたいだし、変なところですぐに笑い出すし……ああいうのって笑い上戸っていうのかな?」
「……俺は面白くないな、からかわれているような気がする」
「何で?」
 問うたら、裕太の眉間のシワが深くなった。
 それが何か痛みに耐えるかのようにひどく辛そうで、リズムを取って動いていた足が止まりかける。だが、引っ張られて、まるで振り回されるかのように智史の体が回された。そして、すれ違う。
「俺だって……智史が好きなんだ……」
 瞬間、聞こえた声を最後に、裕太は短い時間を終わらせて、次のパートナーへと離れていった。


「裕太?、もう帰れるか?」
 体操服から着替えて荷物を手に持った智史は、裕太の席を振り返った。
 教室に戻ってからも、着替える間も、ずっと何かに捕らわれているかのように無言だった裕太は、帰り支度が住んでいるにもかかわらず、一向に席を立とうとしなかった。
 ホームルームの間も、時折背にきつい視線を感じる。
 それが、あのフォークダンスの時と同じ視線だとは判るのだが、何故そんなに裕太が智史の事を睨むのかが判らない。
 結局、何も言わずに動かない裕太に焦れて、智史の方から声をかけたのだが。
 それに、椅子に座って何か考え事をしていた裕太がびくりと肩を震わせて顔を上げた。
「返ろうよ。それとも何か用事でもあるのか?」
 今日は部活も何もなくて、さっさと返れと教師が言っていた筈だと思い起こしながら問いかけ、席へと歩み寄った。
「あ、いや」
 智史が近づくと、慌てたように裕太が立ち上がった。その音が大きく響いて、室内の残っていた数人が振り返る。
「どした?」
「あ、いや……何でもない」
 沈着冷静とは言わないまでも、同級の誰よりも大人びた印象は、その落ち着きからくるというのに。今日の裕太は、とにかく変だと智史は眉根を寄せた。
「じゃ、帰ろう」
 話しかけても不機嫌そうで笑いもしない裕太。その目が智史を見ない。
 そういえば、裕太は結局智史の怪我には気がつかなかった。ずっと何かに捕らわれているように他のところばかり見ていたから。
 足を踏み出すと、少しばかりつれたように痛む傷。
 いつもなら、真っ先に気付いて心配してくれるのに。
 もう制服に隠れて見えない傷は、結局裕太が知ることもないだろう。それが少し寂しいと感じる。
 だが、その智史に視線を合わせようとしない裕太がそこにいて、そのまま先導して部屋を出ようとした途端にばたりと足を止めた。
「滝本君は?」
 その肩越しに、にこやかな笑みを浮かべた楠瀬が見えて、智史は彼が本気なのだと改めて思い当たる。
「ああ、いた。もう帰れるんだろ?」
「一応は」
 硬直したままの裕太を不審げに見遣って、だけど邪魔だと押しのけて前へ出る。
「本気で一緒に帰るんですか?」
「だって俺は君のナイトだし」
「よっぽどその言葉が気に入ったんですね」
「可愛いお姫様を守るのに相応しい称号だろう?」
「……」
 そんなに華奢に見えるのだろうか?
 と、小さい頃に考えることも諦めた思いが浮かんで、その脳天気な返答にも脱力しそうになる。と、その腕を掴まれた。
「俺が一緒に帰りますので。だいたい三年ってのは忙しいんでしょう?」
 強い力に思わず振り返ると、厳しい形相の裕太が楠瀬を睨んでいる。
 やっぱりこの二人は合わないんだろうなあ……と思いつつ、だが出入り口を塞いでいる今の状況を、皆が鬱陶しそうに、かつ、興味津々といった感じで見ているとこに気が付いた。
 どうでもいいことだとは思うが、いらぬ興味を他人に持たせるのも癪だと、智史は腕を掴まれたままぐっと引っ張った。ついでに楠瀬の腕も掴む。
「どっちが一緒になってもいいけど、僕はもう帰りたいんだから」
 そう言った途端に、楠瀬が苦笑を浮かべ、裕太がしかめっ面をしたのを智史は目の端に捕らえて、だが二人が歩きだしたことに、ほっと安堵した。
 少なくとも二人ともに帰る意思はありそうだ。
「相変わらず。意識していないんだろうけどきついね、このお姫様は」
「……天然だから」
 それだけは紛れもない事実だと、裕太が楠瀬の言葉に賛同していた。
 その二人をちらりと見遣る。
「お姫様はやめろよ」
 さすがにそれは嫌だと訴えた。
「はいはい」
 それが了承の証なのか、楠瀬が片手を上げる。だが、その頬には隠しきれない笑みが浮かんでいて、どう見ても止めてくれそうにないことを伝えていた。


 裕太達と別れて家に帰ってくつろいでいると、しばらくして誠二も帰ってきた。滝本家の三男と末弟は、どこかに遊びに行ったのだろう。鞄だけが放りだしてある。
「お帰り」
「ただいま」
 明らかに誰かと喧嘩したことが判る誠二の格好に、その相手が誰かは容易に想像できて、苦笑が浮かぶ。しかもその不機嫌そうな様子から、珍しく誠二の方が負けたことを智史に知らせた。
「怪我しているね、こけたの?」
 つんと突いた途端、誠二がその手をはね除けた。
「いてえよっ!」
「ああ、ごめん」
 痛いのも道理で、智史の指先はじくじくとした場所を爪先でつついたのだ。爪の先に、まだ固まっていない浸出液がついたのを確認して、智史は無意識のうちにその顔を綻ばせた。
「珍しいね、怪我するの」
「いいじゃねーか」
 触れられたくないのだろう。誤魔化すように睨んできたその顔を見て、智史はくすりと首を竦めた。だが、滅多に見られない誠二の悔しい顔を見るのが面白い。
 だから。
「楠瀬さん、強かったんだ?」
 何気なく問うたら、誠二は今度は完全に硬直した。
 にこにことその姿を窺う智史を、胡散臭そうに見遣る。
「何だ、知ってたのかよ」
「まあね」
 知らないわけがない。
 勝ち気な誠二は、だいたいその日の内に行動に出る。帰ってきた時に、誠二の鞄が玄関に放り出していたというのに、気付かないわけがないだろう。
「あいつ……のうのうと兄貴の事、お姫様なんてぬかしやがったのにっ!」
 どんな状態で言ったのか……。
 完全に誠二をからかっているであろう楠瀬の姿が脳裏に浮かんだ。
「で、どうするんだ?」
 これに懲りる誠二ではないと、智史はにこにこと笑いながら痛みに顔を顰めている弟を見遣った。
「リベンジだよっ。もう、あの深山ってだけでも厄介なのに……さすがに高校ともなると変な連中ばっかで、しかも強いし……。ああ、俺も早く高校になりてー。そしたら兄貴の事、守れるのに」
「守る……か」
 口の中で呟いたその言葉は、誠二には聞こえなかったようで、ぶつぶつと次はどうしようかと考え込んでいるね。
 いつもいつも誠二は、智史の事を守ると言っていた。
 体格はともかく年上である兄を、何故こうも守ろうとするのか、智史には判らない。
 誠二とて、それほど体格に恵まれている訳でなく、どちらかというと同年代の中では可愛い部類だろう。それなのに、けんかっ早くて、自分が強いと思いこんでいる。
 それならば、もっと可愛い弟たちを守ればいいのに、その対象は智史だけなのだ。
 むすっと不機嫌そうに唇を尖らしているその様は、酷く子供じみて、あの楠瀬にはそうそう敵うものでもないだろう。
 なのに、智史はつい誠二に伝えていた。
「そういえば楠瀬さんが、誠二のこと、可愛い子だって言っていたっけ」
「何をっ!!」
 兄弟の誰よりも可愛いと言われることを嫌う誠二が、真っ赤になって怒り始めるのが判っていた。それでも、それが見たいと思ったから。
「ま、無茶はしないでよ」
「うんっ、大丈夫っ。次は絶対に勝つからさ」
 ガッツポーズを取る誠二に笑いかけ、そして背を向ける。
 途端に、その表情から笑みが消え、智史はくっと唇を噛みしめた。
 負ければいい……。
 その思いは、隠せないほどに智史の心を支配していて、それを誠二に気取られたくなかった。
 どうでもいい、と思っていた。
 誠二が何をしようと、どうでもいい、と……。
 だが、裕太が側に来てからずっと、智史の心の片隅に誠二に対する嫌悪にも似た感情が生まれているのに気が付いていた。それが今日、さらに大きくなって智史を責める。
 それが楠瀬のせいだとは判るのに、だが、なぜそんな事を考えるようになったのかまでは智史にも判らなかった。
 ただ……。
 誠二がずっと負ければいい、と願って……。
 その思いは、いくら振り払おうとしても、一向に払えるものではなかった。

 
「強いね。君の弟」
 苦笑混じりに楠瀬が二の腕をめくって見せた。そこにはくっきりと青あざが残っている。
「それ、誠二が?」
「ああ、よけ損ねてね」
 たぶんそれが唯一の誠二の痕跡なのだろう。それ以外にはどこも違和感のない楠瀬は、智史の前でぱくぱくと弁当を食べていた。
 大きな体にはそれに見合うだけの食料がいるのだな……と、そんな詮ない事を考えされるほどに、楠瀬の弁当箱は大きい。
 たが食べるスピードは速くて、誰よりも一番に食べ終わる。
「今日は、三年は補講があるんでしょ。こんなところで暇しててどうすんです?」
 同じく智史の横で弁当を食べていた裕太が、邪魔そうに楠瀬を見遣った。
「こんなところでも、愛おしい滝本君の側だと思うと、訪れがいがあるだろ?」
 確かにここは楠瀬にしてみれば、こんなところだ。
 智史達2年の教室で、そこに明らかに三年の楠瀬が混じれば、十分に浮きまくっている。なのに、楠瀬は昼になるとここを訪れて、智史と弁当を食べていた。だが、それもすでに一週間も過ぎると、クラスメートも馴染んでしまうし、裕太も追い返すのを諦めかけている。それでも、たまにこうやって嫌みをいうのだが、それが成功した試しはない。
「ほんと、楠瀬さんて変な人だよな?」
 何気ないいつもの智史の評も、楠瀬には何のダメージも与えないらしく、にこにことすらしていた。
「しかし、あの誠二君の攻撃はしつこいって言うのに、あんたも保つもんですね」
 その攻撃をこなしてきた裕太が言うからこそ、その大変さが真実みを帯びる。
「ま、俺の方が強かったって事で」
「それはそうでしょうけどね」
 確かに楠瀬は強い。
 家に帰って、不機嫌な誠二を見るにつけ、改めて実感させられる。
「強い、か……」
 もし昔から、楠瀬のようなものばかりが周りにいたら……。最近、よくそんな事を考える。
 そうしたら、自分はどんな友人達がいただろう?
 教室の中で、裕太と親しくしていなかった頃。
 浮いた存在の自分は、一体どんな思いで過ごしていたのか、もう思い出せないし、思い出したくないと思う。
 ただ、今が楽しい。
 裕太と楠瀬は相変わらず仲が悪そうだが、それでもこんな他愛もないやりとりは聞いていて楽しい。
「ああ、そうだ。今度の土曜の午後、デートしようぜ」
「な、何をっ!」
 智史がその単語を理解する前に、裕太がばしっと机を叩いて立ち上がった。
 憤懣やるかたない表情の裕太を無視して、楠瀬は智史だけを見つめている。
「で、どう?暇?」
「……暇だけど」
「智史っ!」
 悲痛な叫びが教室内に響く。
 もういい加減この三人のやりとりに慣れてきた筈のクラスメートもさすがに固唾を飲んで様子を窺っていた。
「楠瀬さんって……ホモ……?」
「確か、三年の中でも結構もてるって噂聞くよね」
「だけど、どうどうとしてるね?」
 こそこそと呟く声が聞こえてくるのに、楠瀬は意にも介さない。
「じゃ、決まり」
「あっ、だけど」
 悦んで指を鳴らした楠瀬に智史はにっこりと笑いかけた。
「裕太も一緒に行くっていうのが条件だから」
「えっ?」
 さすがに、それには楠瀬も絶句する。
「それが駄目なら、行かない」
「……智史……」
 茫然とした楠瀬の表情も、困惑している裕太の表情も、双方ともに面白く、自分の仕掛けた手に自己満悦してしまう。
 楽しい事は好きだから。
 最近、そんなことばっかり考える。特に、意識せずに放った爆弾で、皆がウロウロとしているのが面白い。だが、それはいつもは無理だから、やはりこうやって楽しむのが一番効率がいい。
「どう?」
「……マジ?」
「じゃ、デートは無理ですね」
 裕太がそれ見ろと笑って。
 だが楠瀬も、さすがに楠瀬だった。彼は大きく息を吸い込むと、意を決したように、こくりと頷いていた。
「OKっ。深山君も一緒に三人でデートだっ!」
 拳を突き上げて宣言する。
 それを聞いて、やっぱりと、智史はくすりと笑みを零した。だから、その提案に了承する。
「なら、いいよ」
「マジ?」
 今度は裕太が固まっていた。


「男ばっか、三人で何が楽しいんだよっ」
 裕太は怒っていたが、結局半日過ごした後では、彼も満足していたらしい。
 変なことを言い出さなければ、楠瀬は気さくにつきあえる相手で、智史も馴染みやすかった。
「じゃ、また学校で」
 楽しいと、笑って手を振る気分になれる。
 そんな智史を裕太が嬉しそうに笑って見ているのも嬉しい。
 穏やかで楽しい日がもう暮れてしまうのが、智史は惜しくて仕方がなかった。

 楽しい日々に明け暮れるとそれが普通になってきて、自分が何に拘ってきたのかがどこか遠くに行ってしまう。忘れまいとずっと頑なに守ってきたことが異常に思えてきて、今のこの時が普通なのだと思ってしまう。
 だけど、それでは、駄目なのだと。
 その思いが今の智史を作り上げていたというのに。
 自分の身は自分で守らないと周りに迷惑がかかるとずっと思っていたから、智史はいつも一歩退いていたというのに。
 なのに、今はこの楽しみから離れたくない。
 裕太といる日常も楠瀬といる日常も……手放したくないと……思ってしまったから……。

つづく