【ECLOSE -羽化-】 4

【ECLOSE -羽化-】 4

「いつからだ?」
 きつい声音にびくりと体が震える。
 裕太が差し出す物を智史は見ていたくなくて、顔を背けていた。視界には入るのは、少し汚れた裕太の白い上履き。そして、智史と裕太の鞄。
 その中から出した智史の教科書には、消そうに消せない落書きがあった。

『ホモ!』
 一番大きな文字は教科書の大きさ一杯に書かれていて、隙間には多種多様な単語が書き綴られている。
 少し丸みを帯びた字体は、その書いた人間が女の子だと容易に知らしめた。
「智史……それに、机の中、こんな紙くずも入っていた」
 紙の擦れる音ともに背けていた目の前にシワだらけの用紙が差し出された。
「これって楠瀬さん絡みだろ」
 男殺し、他の男までホモの道に引きずり込むな、別れろ、可愛いからって調子にのんな……。
 それを書いた相手に、智史はずっと気が付いていた。見られることには馴れてはいたが、睨まれることまでには馴れていない。
 肌を焼くような痛みを伴う視線は、楠瀬といる時に一番感じていた。
 そしてその、ちりちりと神経を焼く嫉妬の中にあるたった一つの言葉が、智史の責め苛んでいた。
「別に、質の悪い悪戯だけど、気にしなきゃいいし……」
 智史が好んで楠瀬の側にいるわけでないから、どうしようもないことだと呟く。
 彼女たちは、どんな言葉よりもその中の一つの言葉が智史をどんなに傷つけるかなんて気付いていないから。
「だけど、智史が倒れたのもこれのせいだろっ?」
 苛々と、裕太が声高に詰め寄る。それにようやく智史は視線を上げた。
「違うよ。こんなもの……気にしなきゃいいことだから」
 再度答えて、その紙を手に取った。
 教科書とよく似た字。
 言葉が表す意味は、端的に智史のことを言い表していると思う。
 これは事実だから。現に楠瀬は智史に近づいてきてしまった。だから……これは事実なのだ。そして、その事実が、智史を諦めさせる。
「でもっ」
「それに……本当に違うから。ぼくはただの寝不足と風邪。このせいじゃないよ。だってぼくは気にしないから」
 庇うわけでなく、何より、こんなことで倒れるまで傷ついたなんて、裕太には知られたくなかった。
「それより帰ろ。いつまでも居残るわけにはいかないだろ?」
 自然に浮かんだ笑みだというのに、裕太が痛々しそうに顔を顰める。
 ベッドから降りて、上履きを履いて、鞄を持って、その中に、裕太の手にあった教科書を入れた。
 その間もずっと裕太は硬直したように動かない。智史はそんな裕太を見上げて笑いかけた。
「な、帰ろ。送ってくれるんだろ?」
「智史が……無理してるように見える」
 低い声音に震える言葉が裕太の唇から漏れて、智史の耳に届く。
「どうしてだよ?」
「何があってもいつも笑っている。平気なふりをしている」
「ふりだなんて……していないよ」
 平気なんだと思っていれば、なんだって平気だ。
 智史にとって、今の裕太のように傷ついたような顔をされる方がよっぽど堪える。
「智史……我慢するなよ。誰だって……嫌な事ってあるんだから。智史は……嫌なんだろ?そんな風な対象に見られることが……嫌なんだろ?」
 裕太の手が智史の腕を掴んで引き寄せる。
「智史は可愛いという言葉をむけられるのが嫌なんだろ?」
 苦渋に満ちた声音で言われた台詞に、智史の体が硬直した。
「……何で?」
 震える唇が、震える言葉を囁く。
「だってさ、そう言われるたびに、智史は傷ついたように顔を顰めるのに……だけど笑うんだよな」
「……あっ……」
「そんなお前の顔を……俺は見たくない」
 引っ張り込まれ、抱きしめられた途端、智史は思わず裕太にしがみついていた。
 平気だと……思っていた。
 何を言われても平気だと……だけどそれを裕太に悟られるのは嫌で……。だけど。
 だけど、裕太の温もりを感じた途端、智史の体は震えていた。思わず掴んだ腕を、ぎゅうっと握りしめる。
「ぼくは、平気だよ。でもぼくって……。ぼくって……女の子が嫉妬するほど……そんなに可愛いんだろうか……?」
 我慢する事なんてできなかった言葉が震えるのを止められず、裕太の肩に押しつけられた智史の頬に熱い滴が流れ落ちた。


「智史は、可愛いって思われることが嫌いなんだって気付いていたから……できるだけ言わないようにしてきた」
 裕太の手が智史の髪を柔らかく梳いていった。
 ずっと前から知っていた、と裕太が微かな笑みを含めて言う。
「でも、俺が、智史は可愛くなんか無いよ……って言ったらどうする?」
「え?」
 慌てて見上げた先で、裕太が悪戯っぽく笑っていた。途端に、かあっと頬に血が昇る。そんな智史に裕太が思わず笑っているのを見て、ますます智史は激しい羞恥に捕らわれた。
 嫌だ……って思ったことを伝えられるわけがない。
 羞恥の余りに俯いた顔は、裕太に即座に上げさせられた。
「俺にとって智史は、誰よりも人のことを思って、しかも兄弟思いで、優しくて優しくて、自分が犠牲になることも厭わないような……そんな格好良い奴なんだよ。智史が誠二君の事を厭わないのも、彼の思いが判るからだろ?そんな智史を誠二君は大好きで。で、俺はそんな誠二君に嫉妬してしまうほどに、智史のことが好きなんだけどね」
 真面目な顔で言われて、冗談だろっと跳ね返すことはできない。
 何よりも智史は、ずっと前にも好きだと言われたことを覚えている。それがどういう意味かは……よく知っていたから。知っていて答えを出さなかった。
「智史は嫌がるかも知れないけど、智史は、俺にとってはその辺のどんな女の子より可愛くて仕方のない存在なんだ。だから、俺はあんな智史が傷つくような言葉を書いた、見た目がどんなに可愛いかも知れない女なんて、絶対に許せないって思ってしまう。そして、その原因を作った楠瀬も許せない」
「楠瀬さんは悪くないよ」
 可愛いと言われて、どうしても浮かぶ反発は、さすがに他の人相手よりは小さかったけれど、少しムッとして逆らった。智史のその抵抗に、裕太が苦笑を浮かべる。
「はいはい。智史が思うようにしたらいいけどさ。だけど……今度こんなことがあったら……俺は楠瀬さんを許さない。それに……このことはやっぱり楠瀬さんに言っとかないと駄目だろ?」
「そうかな……」
 言ったら彼はどうするだろう?あの女の子達と話をつけるのだろうか?
 でも基本的に男は女の子が好きだと思うから、それならばと智史から離れて彼女達の方に行ってしまうだろうか?
 そう思うと、ひどく寂しいと感じる。
 短い間だけど、楠瀬と一緒にいることも楽しいことだと思っていたからだ。
「智史は……楠瀬さんのことが好きなんだ?」
 少し拗ねたような言葉が頭の上から降ってきて、くすりと智史は笑みを零した。
「……裕太と比べると落ちるけどね」
 にこりと笑って、上目遣いに窺えば、裕太がごくりと息を飲んだ。そのはっきりと判る喉の動きに、また笑いかける。
「……智史は……からかうなよ……」
 困ったように赤く染めた顔を背けるのに手を添える。
「ね……ぼくって……そういう対象にしたいほど……可愛い?」
 今まで、男らしいと言われたくて、可愛いなんて言葉は絶対に嫌だと思っていたけれど、何故か請うように智史は問いかけていた。
 だって、裕太のその赤い顔が可愛いと思ってしまったから。
 誰よりも理想だと思っていた裕太のその顔をもっと見てみたいと思ってしまったから。
「……ああ……」
 眉根に深いシワを寄せた裕太の顔が近づく。
 初めてのキスは、ただ触れるだけで終わった。
 一瞬だけ閉じた瞼を開くと、ふてくされたように裕太がそっぽをむいていた。そんな態度も可愛いと、智史は笑う。
 相手の事を可愛いと思えることが、ひどく心を軽く温かくする。その事が幸せだと思うくらいに。
 だから、もっと味わいたいと思うし、裕太がそう思ってくれるのなら、可愛いと思われることも幸せだと思える。
「そっか……ありがと」
 それこそ素直に礼が言えるくらいに。
 そして、今度は自分から口づける。
 それはごく自然に、したいと思ったからできた行為だと、してから気付いた。
 裕太相手だけ、したい。
 それは楠瀬に思う感情とは違うものだった。
 だから、智史はそれを裕太に伝えたいと、その背に、ごく自然に腕を回していた。
「ぼくも裕太のこと好きだよ」
 智史は、今まで何に悩んでいたのだろかと思えるくらいに、ひどく幸せな気分に浸っていた。


 裕太が望むのなら、可愛くてもいいかも知れない。
 そう思った途端に、心がひどく軽くなった。
 あの時微かに触れた唇に指で触れると、疼くような震えが全身を襲う。
 幸せだと、胸が締め付けられる痛みは、痛みだというのに何度も味わいたいと思う。
 そんな仕草がとても男らしいとは思えないのに、智史は癖になったように唇を指で触れていた。
 何よりもそういう仕草をすると、裕太が狼狽えて頬を染めることがある。それが見たいと思うから、余計に可愛く見せようとして。
 そんな自分の心境の変化に智史は驚いて、だがそれでもいいと思ってしまっているのだから不思議だ。
 すっかり心の枷が消えてしまって気分爽快な智史に、相変わらず嫌がらせは続いていたが、それが気にならなくなっていた。


 今日も今日とて、仲良く帰る三人の姿があった。
「裕太?、ぼく喉が渇いたんだけどさ」
 ちょっとだけ上目遣いに請うと、てきめん裕太が頬を染める。
「お前……煽るなよ」
 大きな手で顔を半ば覆いながら裕太が小声で呟きながら顔を背ける意味を、智史は知っているというのに。
「でもさ、そう言う時の裕太って可愛いんだよなあ」
 そんな姿を見るのが楽しいと笑えば、裕太が眉を顰めて睨んできた。
「お前は……いい加減にしろよ」
 手が伸びて、智史の柔らかな髪を掴む。
「い、痛っ」
「お前は……」
 呆れたように言って、最後にはため息をついて諦める。最近、そんな裕太を見ることが多くなった。その瞳に宿る切ない色に気付かないほどに鈍感ではないから、智史はくすりと誘うように笑う。
「おらっ、二人でじゃれ合ってんじゃねー」
 そんな二人は傍らに常にいる楠瀬には仲睦まじいじゃれ合いに見えるらしく、二人揃って襟首を掴まれて、強引に引きはがされた。
「ったく……いつの間にか恋人同士になりやがって、俺の立場はどうなる?」
 むすっと睨み付けられてもそれに笑って返せるほどに智史は余裕があるのだが。
「だ、誰が恋人同士だってっ!」
 そこで赤くなるのはいつも裕太の方だった。
「そのいちゃつきよう、どう見たって恋人同士だ」
「だからっ!」
 慌てる裕太に、智史はわざとしかめっ面をして見せた。
「ねっ。ぼくが相手だと裕太はやっぱり嫌なんだよな?」
「えっ……」
「やっぱりぼくは……男だし……可愛くないし……」
「そ、そんなことっ!」
 慌てふためく裕太が、口をぱくぱくさせて二の句を継げないでいる理由を智史は十分知っている。知っているからこそ、俯いて指先を目尻に当てる。
 くすんと、鼻をすすり上げて。
「似合わないよね……ぼくなんかさ」
「ち、違うって。智史はかっ……っ!」
 言いかけて、そのまま硬直する裕太に、引っかからなかったか──と、智史はぺろりと舌を出した。
「さ、智史っ!!」
 からかわれたことに気が付いた裕太が、さっと耳の後ろまで紅潮させて怒鳴っている。
 それが楽しくて仕方がない智史はけらけらと笑いながら、先に駆けだしていった。
「そこの自販機でジュース買ってるから」
「智史っ!」
「どこをどう見ても恋人同士にしか見えん」
 楠瀬が憮然と呟くのがかろうじて聞こえて、智史はにかっと笑いかえした。
「えへへ?、残念でした?」
「まあ、いいさ。その代わり、おまえらの行く末しっかりと見届けさせて貰うからな。ちくしょ?っ、俺がもてるばっかりに、迂闊にもキューピッド役をしていたなんてっ!」
 楠瀬はあれから、きっぱりと彼女たちに止めろと言ったらしいが、それでも続く嫌がらせにいろいろと気を揉んでいる。それでも、智史達から離れようとはしなかった。
 曰く。
「おまえら見てると退屈しねーもんな」
 お気楽な性格なんだよ、と自分で言ってのけた楠瀬は、今では楽しい親友なのだ。
 


「分団長っ、誠二は?」
「おうっ、二人揃ってどこかにしけ込みやがったっ」
「分団長っ!!」
 豪快に笑って返した楠瀬という名の分団長の背後から、誠二達が真っ赤になって飛び出してきた。
「倉庫を片づけてこいって言ったのはあんたでしょうっ!」
 年とともに貫禄がついて、それでも楽しいことが大好きな楠瀬は今でも地元に住んでいて、先だって智史達の地区の消防団の分団長に昇格した。
 相変わらずの性格に、智史も誠二も振り回され気味だ。
 だが、智史が裕太と別れた時、誰よりも智史の本心に気付いて心配してくれたのは楠瀬だった。
「いらんこと言わないでくださいっ!」
「そうだったっけか?」
 とぼける楠瀬には誠二は相変わらず歯が立たない。
 それは昔からで、不意に智史の胸に懐かしい思いが込み上げる。
 あの時、楠瀬とぶつからなければ今の関係は無かったかもしれない。
 ぶつかったのが楠瀬で無ければ、裕太とはまた違う関係だったかも知れない。
 あの時、楠瀬と知り合えて良かったと、智史は本心から思っているのだが。
「おいっ」
 がしりと肩を抱き寄せられ、耳元に熱い息を吹きかけられる。
「ちょっ、ちょっとっ!!」
 慌てて押しのけようとしたら、視界の片隅で彼がにやりと笑うのが見えた。
「深山君とやってんのか?」
 小声で囁かれた言葉は予想通りだ。
「ええ、していますよ」
 呆れ気味にため息をついて、智史は平然と言い返した。
「ちえっ、相変わらず面白みが無い奴。誠二みたいに返せないのかよ」
「おあいにく様。それより、分団長こそ。こんなことをしているとどうも背中に鋭い視線がちくちくと……。頼みますから、とばっちりはごめんです」
「計算ずくさ」
 背後に気付かれないようにおかしそうに笑って離れた彼に、智史はもう一度ため息をついて背後を見遣った。
 ……ったく。面倒はごめんだ。
 明らかに仏頂面をしている視線の持ち主に笑いかけて、ぺらぺらと手を振って返す。それに曖昧な笑みを浮かべて返した谷部は、深いため息をついていた。
 彼だって判っているのだ。
 もう何度繰り返されたか判らない分団長の悪戯は、まともに取り合っていると身が持たない。
 それは、智史にしてみてもそうで。
 それに、そんなことは智史と裕太には何の障害もないことで。
 なのに。
「あ?あ……、あっちから深山さんが睨んでる?」
「こんなところにいるわけないだろっ!」
 後先のことを考え無い誠二の言葉に、智史は笑って拳をお見舞いしていた。

【了】