【四つの王国と魔王の話】第一章〝北の国〟ー3

【四つの王国と魔王の話】第一章〝北の国〟ー3



 ひとしきり嗤った後、夕月は三人を睥睨した。
 嶺炎の喉がごくりと鳴り、ユーリオが息を吸って身構えた。膝の上で拳を硬く握りしめたカストが充血した瞳を晒して震えている。
 そんな彼らを観察しながらも夕月は腕の中でシュリオをいたぶるのを止めやしない。静かな空間にシュリオの浅ましい喘ぎ声が卑猥に響いていた。伸びたつま先が切なげに絨毯を引っ掻く。薄い衣服がめくれ上がり、紅潮した肌が広く露わになった。
 めくれ上がった裾は腹の上に上がり、剥き出しになった股間で淡い色が濡れて輝いている。その中から雄々しく勃ち上がった陰茎は、ぱくつくようにその先端を開閉させていた。
 宙を掻く指が何かを求めている。
 けれどその何かを与える気などないのだろう、夕月は手だけをきわどく動かしながら、求める場所を巧みに避ける。それは男だからこそ、どこをどうすれば快楽を得られるか知っている彼らにシュリオのもどかしさが伝わってくる。
 儚げな容姿のシュリオが悶える様は、妙齢の女が悶えるよりも資格からの刺激が強い。
 それでもその感覚に囚われきれないのもまた夕月がいるからだ。
「あ、あの、夕月王は何かお望みがあるのでございますか」
 思い当たらぬとカストが問う。
 嶺炎は、畏れながらも下げた顔を上げてカストの意外な豪胆さを内心で感心していた。
 それが知識欲に極限から来るものであったとしても、ただ武勇に優れている自負する自身よりも、今の彼の行動は尊敬に値するものだ。
 背筋に走る悪寒を意志の力でねじ伏せても、思考が遅れる嶺炎よりもカストの的確な質問はこの場にふさわしい。
『我を騙そうとしたこれに罰を与えたいと思っているのだよ』
「……罰?」
 応えたのはユーリオだったか、カストだったか。いや、嶺炎自分がそう呟いたのかもしれない。
『だが我が一人で罰を与えるのも面白くない、支配して嬲るのも飽きてきた』
 簡単すぎると続いた言葉に、厭な震えが背筋を走る。
 魔王の罰とは一体なんだろうか、それはどんな恐ろしいものだろうか。
 一瞥しただけで身の毛もよだつ恐怖を味わう現状だというのに。
『それでだ、そなたらの国はこの国と前と変わらぬ取り引きがしたいのであろう?』
 不意に話題が転換し、嶺炎は一瞬呆気にとられたが、それでもなんとか操り人形のようにカクカクと上下に動かした。
 取り引きの継続は王や議会に言いつけられた最優先事項だ。〝南の国〟が持つ資源は、他国からすれば垂ぜんの的であり、失うことなどできない。だからこそ魔王の招待に応じたのだから。
『では我を楽しませてみよ』
「楽しませる、とは?」
 ごくりと息を飲みながら問う嶺炎に、夕月はなまめかしく身じろぐシュリオへと視線を走らせた。
『何、たいしたことではない。これを、魔呪や精神支配などの手管を使うことなく支配下に置くようにしてみろ、我はその過程を楽しむというわけだ』
「……支配下?」
 理解できぬ言葉に思わず問うたのは嶺炎だ。カストの目が細められ、夕月の言葉を聞き漏らさないように集中しているのが伝わってきた。
『今はこうして我が精神支配しているがその時間は長くは持たぬ。それ故に神子だと言えるのだろうが』
「夕月王はシュリオ様を完全に支配されたいとのこでございましょうか?」
 そう問うたのはカスト。震え怯えていても、やはり夕月の思考が興味深いのか。
『これはこのような弱々しいなりで意外とその芯は強い。今は表層のみを支配しているのだが、今のこれの頭の中は今どれだけ罵詈雑言ばかり、そこから発する神力を封じるほうに力を取られるほどだな』
 夕月が呆れたように首を振った。
 夕月を呆れさせるとは一体どんな内容であり力なのかと嶺炎は瞠目したが、カストは黙って夕月に先を促した。
『少々面倒なのでな、徹底的にこれを貶め、自我を奪い、神力発生器の魔具として使えるようにそなたらの手で行え』
 ということは、シュリオを解放してその力によって再び夕月を封印すればいいのではないか。
 その時、ちらりと見交わした三人の意思は同じだと嶺炎は気付いた。
 だがその一瞬の視線のやりとりは夕月にはお見通しだったようだった。
『甘いな、もし我を裏切るのであれば、たとえ我を封印したとしても、我が眷属たる三大魔族に報復をさせようよ』
「なっ、三大魔族……まさかやつらがこの大陸に?」
 思わず言葉を発した嶺炎ですら身体から血の気が失せた。
 快楽主義の傾向が全開の魔族はその強大な力を自分たちの好きなことに使う。特に強い魔族ほど好みの指向性が強い。ただ救いは国に対して何かするというより、特定の誰かに執着し、それを邪魔する場合にのみ国に被害をもたらすことが多いこと。故に邪魔をしなければ国としての存続は約束されているということだ。
 と言っても、積極的にかかりたいと思う国も人もいない。
 そんな災厄となる存在が夕月を再封印したらこの大陸に来てしまうという、そんな予想に明らかな警戒心を浮かべた嶺炎だったが、そんな彼に夕月は鼻を鳴らした。
『まだ来ぬよ、呼んではおらぬ」
 くすりと嗤った夕月が飾りとしてそのまま盛られたリンゴを掴み上げた。
『だがもし来たら、封印された場所を探してこの大陸などは……』
 言葉を切った途端にリンゴが拳の中でつぶされた。指の間から流れるように果汁が落ち、絨毯の中に染みこんでいく。
 ごくりと、知らず三人ともが息を飲んだ。彼らの視線の先で、広げられた指の間から小さくつぶされた残りかすが果汁の中へと落ちていく。
 嶺炎ですらその場からぴくりも動けない。嶺炎の力でもリンゴをつぶすことはできる。だができるのはリンゴをつぶすことだけ。
 夕月がしたのは、この国、いや大陸そのものがこうなるという意思表示だ。
『そのまま彼奴等はこの大陸に居座るかもしれんな』
 ごくりと喉が鳴った。冷たい汗が額に滲み、こめかみを流れていく。一度住み着かれた国は、その共存のために最大限の警戒と譲歩をしながら過ごすことになる。
『そなたらはどう考えるか?』
 夕月の目が眇められ、嶺炎達を順番に見つめる。途端に身体が勝手にひれ伏せ、全身の血の気が失せるほどの恐怖を味わった。
 今までの会話は夕月が配慮していたのだと、その威圧に屈服するかしないかの限界で保持させられた。そう、全てが夕月の思うままに。
 それができるのが夕月であり、人の身である嶺炎に抗うな術などなかった。
『そうそう、ちなみに今のこいつはこの状況だ』
 不意にシュリオの表情から甘い笑みが消えた。蕩けて朱に染まっていた頬が一瞬のうちに青ざめ、伸びた手が跳ねるように自身に引き寄せられた。はだけた衣服をつかみ、逃れようとばかりに後ずさる。
 その直後、シュリオの左右の手が重なり合った指の間から淡い光があふれかけ、けれども広がる寸前で夕月が手を振った。
「ぐっ、ぎゃっ」
 誰も触れていないのにシュリオの身体が弾け飛び、そのまま夕月の前にぶざまに転がった。
「ぐっ、こ、の……」
 それでもなんとか神力を練ろうとしているのだろうが、それを許す夕月ではなかった。立ち上がったと気付く間もなく、大きな足がシュリオの背に落ち、無様な悲鳴が迸る。
『こういう状態よ。まったく面倒でな』
 あっさりと言うが、そのわずかな力の片鱗ですら傍らで当てられた嶺炎は顔を床に擦り付けそうになっていた。
 だがシュリオはこんな状況の中でも、押しつけられた絨毯の上で夕月を睨みつけている。その顔に冷や汗を垂らしてはいても、夕月が放つ威圧に耐えきっている。
「……シュリオ殿っ」
 呼びかけた嶺炎に向けられた瞳が瞬き、その存在に今気が付いたように見開かれた。その口が嶺炎の名を呼んだように見える。煙ったようだった空色の瞳の奥から声なき悲鳴が聞こえるような気がした。だが伸ばそうとした手は、直後発した夕月の言葉にそれ以上は伸びなかった。
『これを助けるか? だが我を解放したのはこれよ。しかも我に反発するだけの精神力を持っているが、その大半は人に向けた憎悪故よ』
 笑いながら突きつけられた現実。
 夕月を解放したシュリオであり、この状況を作り出したのはシュリオ自身。
『故に再び問おう。そなたらは今まで通りの交易と我との三百年の非干渉を契約するか』
 嶺炎はすぐに頭の中でその利益を推し量る。
「それは……」
 ユーリアは一瞬何を言われたのかわからなかったようで、遅れて息を飲み、カストが震える声で問いかける。
「その契約というものは……破られないと確約できるものでしょうか?」
 ――人同士の契約は、よく破られます故に。
 続いた声にならなかった言葉がなぜか嶺炎にまで届いた。
『我がなす契約は魂に根付くもの。これは我の力でもってしても破ることはできぬ。たとえそなたらが言うところの高位魔族共が束になってもかなわぬほどの力で交わさせる契約よ』
 それは決して破られないという証。
 その言葉自体が嘘だと言われれば終わりだが、嶺炎は不思議と信じられると感じた。
 蒼白で色を失った唇で、ユーリアがなんとか言葉を絞り出す。
「……も、もし、否──と言えば?」
 勇気を振り絞った問いの答えは、残酷な宣言だった。
『この国からの輸出は全て止める。となれば、恩恵にあずかっている連中がどうするかな、そなたらを』
 広間に響き渡る嘲笑に、三人の選ばれた招待客は言葉を無くす。
 どんな理由があるにせよ、国の代表としてこの場にいるのは確か。ならば夕月の言葉に否と言えるはずもない。まして、その内容は願ってもないものであり、国にいる誰もがこぞって「諾」と応えるだろう。それが一人の人間の犠牲になりたったとしても、それでもだ。
 それにもう嶺炎は己の力に遠く及ばぬ夕月の力を知ってしまった。夕月は視線だけで嶺炎を屈服させることは可能なのだから。
 ただたとえ正式に契約したとしても、それは人との契約よりも簡単に破られる可能性は高い。それでも今できることはいつか来るであろう未来をできるだけ先延ばしにすることだけだ。
「お、恐れながら、自我を奪うとはどのようにすればよいのか、仔細を我らにご教授いただきたい」
 カストが恐る恐る問いかけるのに、「ふむ」と夕月は頷いた。
『容易なことよ、ただこれを快楽漬けすればよい』
「「「……」」」
 三人共に言葉を失った。
 意味がわからないわけではない、わかるからこそ固まったのだ。
 硬直した三人を前に、夕月が優雅にグラスを傾ける。
『我が気に入る玩具を作れ。これが保有する神力はそのままに、性欲のみに生きる玩具だ。そのためには何をしても構わぬ』
「玩具とはあの……」
 嶺炎の脳裏に浮かぶのは悪魔が固執する気に入りの存在。その気に入りがある間、その国は安泰だというほどに双方に重要な存在。
「……悪魔の玩具」
 カストも繰り返す。豊富な知識がある彼はその意味をよく知っているだろう。
「……そのために何をしても……と」
 ユーリアがその課程を想像したように上ずった声を上げる。
 悪魔がどんな所業で玩具をつくるか、それは恐怖と共にいくつかが伝わっているものだから。
 ごくりと喉を鳴らしたのは誰だったか。
 夕月に髪をつかまれ引きずられたシュリオが、再び絨毯の上に放り出された。
 いつの間にか何がしかの術にかかったのか、表情はきついのにその四肢はぴくりとも動かない。
 夕月がグラスを持った手でシュリオに触れれば、明らかにその表情が嫌悪に歪んだ。身体は動かずとも、その意識は明瞭のようだった。
「……夕月王ほどのお力があれば、わたくし程度の力など必要ないのでは」
 そう問うたのはカスト。
『魔族は精気を好む。そうだな、嗜好品というやつか。人が作り上げた酒や煙草のようなものだ。なくても生きることはできるが、あると知ったら強く渇望するようになる。そういう対象を得るために、我らは気に入りの精気を持つ玩具を作り上げるものよ』
 それは各国に伝わる高位魔族の趣味嗜好、個にこだわる理由だ。
『だがその玩具がどのような手腕によって作り上げられるかは魔族によって違う』
 どうしてここで魔族の玩具の話が出るのか。不審に思う嶺炎と視線を合わせる夕月は楽しそうだ。
『我にも多くの玩具が献上されるが、我が気に入るほどの玩具を作る魔族は限られるし、我が封印されている間にその玩具は全て失われてしまった。だが魔族というものはこだわりが強すぎて、玩具をつくるのにたいそう時間をかける』
 すぐに言葉の意味が理解できなかった。
『それにそろそろ違うやり方で作った玩具がほしいと考えたのだよ。そなたらであれば珍しい玩具ができていくだろう、とな』
 だが続いた言葉の意味を、嶺炎は理解できた。
「シェリオ殿を夕月殿の好みに仕上げよ、と」
「我らの手によってシュリオ殿を壊せと」
「人の手で玩具をおつくりになりたいと」
 三人の言葉に魔王である夕月は笑みを浮かべながら満足気に頷いた。
『さて、どうする?』
 返答に選択肢など与えられておらず、その唯一の答えは喉まで出かかっている。
 三百年の期限付きとはいえ、それでも得られる平穏な時代、それがたった一人の贄で得られると言うのであれば答えは一つだ。もとより魔族からの被害を減らすために、贄となった者を見捨てることは人の歴史の中で連綿と続いてきたことだった。
 その歴史を事細かに知っている王族だからこそ、嶺炎は目の前で元のように笑みを見せるシュリオを見た。支配されてしまっているシュリオは夕月に従順だ。
 彼が〝南の国〟でされたことは確かに同情に値するべきことだ。過去に会ったときに彼自身が助けを求めていたならば、少なくとも嶺炎はその手を取っただろう。
 だがシュリオは動かなかった。できなかったのかもしれないが、結果シュリオは人の手ではなく魔王の手を取り、魔王を解放してしまった。
 嶺炎は拳が白くなるほどに手を握りしめた。脳裏に浮かぶのは、〝北の国〟の民たちの笑顔。嶺炎が守るべきものはシュリオでなく彼らだ、ならば何を躊躇う必要があろうか。
 奥歯がギシギシと音を立てる。緊張しすぎて全身の筋肉が強張り、こめかみがきりきりと痛んだ。
「お、恐れながら……」
 カストが再び問いを投げかける。
 その変わらぬ姿を目にして、強張っていたはずの口元がかろうじて緩んだ。彼の通常運転さが、嶺炎の意識もわずかながらの平静さを取り戻す。畏れてはいても疑問を解消せねばいられない質に呆れ半分、この場の緊張感を緩める彼への感謝半分の心地でカストの言葉を待った。
 不思議なことに夕月もこの問答が気に入っているのか、震えてうまく言葉が出ないカストが落ち着くのを待っている。
「その前に、一つ、何、何故にわたくしどもが選ばれたのでございましょうか? 招待状には五人の候補者が指名されておりました。その人選は一体どのように……」
 それは嶺炎も気になっていたことだ。
 〝北の国〟なら王子である嶺炎以外に四人。地位も年齢もバラバラで、ただ男だということだ。
『ふむ、強いて言えば、我に近い者だということか』
「……近い……近い者とは?」
 魔王に近いなどと絶対に受け入れられるはずのないその言葉に、カストだけでなくユーリアも、そして嶺炎も夕月を凝視する。これが他人の戯れ言なら相手を切り捨てていたに違いないほどに受け入れがたいこと。
 だが恐怖の中に怒りを浮かべた三人の視線をおもしろがりながら、夕月は言葉を継いだ。
『人は心の中に壁を作り、柵を巡らせて本性を隠しているものよ。言葉であるならば建前と本音というものが近いか、口にする言葉と本心が違うように人は本性を心の内に封じ込めていることが多い。だが我が力は人の本性を暴く。我が我に近い者を記せと力を使えば、正しくその者の名が記される。故に貴様らは正しく我に近しい者だ』
 違うと、この場にいる誰もが首を横に振った。声を上げようともしたが、夕月の強い視線に言葉は封じられる。
『記した名は招待状に我の力を込めただけのこと、このように』
 宙から舞い降りた紙に、夕月が手を滑らせる。指先が通り過ぎれば、そこに五人の名前が記された。
「それは〝北の国〟の……」
 自身の名も入った五人の名前は、〝北の国〟に届いた招待状に記された名前だった。
 夕月が望んだように力が人を選んだのだと。
 遠いこの地にいて、夕月は知らずして望みのものがどこにあるのか知ることができるとそう示したのだ。
 いっそ大陸全土の掌握など、魔王である夕月にはどれほどたやすいことか。
 見せられた力は決して破壊的な力ではないが、夕月のその力を使えば国を内部から崩壊するような人材など容易に探しだせるだろう。まして闇烏は人に気づかれることなく城の深部に侵入してきたし、三人は瞬き一つする間にこの遠い地まで運ばれた。
「……では夕月閣下と同じものが私の中にもあるというのか? そんなものあるはずもない」
 ユーリアにとって屈辱的な指摘であり否定したいのだろうが、だが夕月は笑みを浮かべるだけだ。
『少なくとも五人の内の一人であったということは、何かが私に似通っているということだろう。我の力は我の意に沿って正しく選考したと考えられるからな』
「何かが……その何かはともかく、最終的に私が選ばれたのは?」
『五人の内の一人を選んだのは我でなく、人間よ』
 間違えるなと夕月はユーリアを睥睨した。口元にはいた笑みは変わらず、一人ずつを指差していく。
『〝北の国〟は自薦により嶺炎、〝西の国〟は中枢の命によりユーリア、〝東の国〟はくじ引きによりカスト、だったか』
 指摘されれば、それは肯定するしかない。候補を挙げたのは夕月だったとしても、選んだのはまさしく人。
『もっとも、その過程で起こった事象は視ていてなかなかに楽しめたがな』
 すべてが娯楽だった、愉快だったと続けた夕月に誰もが何も言えなかった。
『もっとも、〝北の国〟は呆気なく決まってしまって、少々興が削がれたが……』
 嶺炎に関してはせいぜいが父王と兄弟の惜しむ言動が激しかった程度。大臣が地位の低い者に押しつけようとしたときには嶺炎は怒りのままに制止したがそれだけだ。
 そういえばとそうやって命じられたのはユーリアだったかと傍らへと視線を向ければ、能面のように固めた表情は、口の端だけが微かに上がっていた。
「さて、私の国でどのようなことが行われたか、私には知る術もありませんが」
 淡々と紡がれたそれは、先ほどまでの怒りも露わなものとは違い、寒々しさを感じるものだ。
「夕月閣下が楽しまれたなら幸いですね」
 ああ、と嶺炎はそんなユーリアを見つめて理解した。彼はおおよその裏事情をすでに把握していると。そしてすでに〝西の国〟の王家を見限っていると。
 王や国に忠誠を誓うのが騎士だと言われているが、今彼の忠誠心はそちらには向いていないだろうことがその表情から窺えた。
「〝東の国〟でのくじは厳正に行われたはず、夕月王を楽しませるようなことはなかったかと……」
『いや』
 首を傾げ、おずおずと伝えてきたカストの言葉を夕月は否定した。
『彼の国は王族がくじに当たらないようにどうのような仕掛けを作るか必死になっておったぞ。その過程を見るのはなかなかに楽しかった』
「え……」
 その言葉に、カストが啞然と口を開いた。
『細工があると知らずくじを引く間抜けさもなかなかにな。王族以外の四人は必死だったというのに、外れのくじを知っている王子は内心で貴様らを嘲笑っておった』
「……なるほど」
 口を閉じたカストが、何かを思案するように目を閉じた。
「待ってくれ、では〝東の国〟で行われたくじはいかさまだったのか?」
 信じられないと嶺炎が問えば、夕月は首是を返した。
『箱の中に入れられた透明な四つの珠と一つだけ赤い珠。候補者の目の前で箱に入れられ一人が引く度に都度かき混ぜられた。指名された者はその中から一つ珠を握り、すべてが終わるまで見せないように言われていたな』
「左様でございます」
 カストの言葉は固い。
『箱の中身は誰からも見えない。大きな箱であるが故に小さな珠は転がって違う数だともわからぬ。手だけを入れて転がる珠を探しだし掴んだ貴様が赤い珠を引いたのは何番目だ? 最初に引いた王子は正しく箱の中からくじを引いたと思うか?』
「……そのように見えました、が……」
『透明な珠が三つしか入っていないことを、王子の服の隠しに透明な珠が一つ存在することを知っていたのも仕掛けた者のみ』
「……まさか、箱の中に手を入れるときにはすでに透明な珠を握っていたと?」
 カストが手の中に珠を握る仕草をした。それは外には見えないように握られていた。
 言われてみれば簡単な仕掛けだ。だがそれを示唆したのは誰か、王子を外すために仕掛けられたとしたらさの細工は誰が行ったか、誰が命令したか。
「わたくしどもは国のためだと、公平に適任者を決めるためだと言われておりました」
 淡々と言葉を紡ぐカストに表情からは彼の感情は窺えない。それこそ先ほど夕月が言っていた建前と本音、その心が何を考えているか、心を読めない人にはわからない。
「だから、皆言っておりましたよ、当たっても仕方がないと、それが自分の運だと。それでもこの国に来るのは怖い、皆、祈りながらくじを引いておりました。恐れながらわたくしもでございます」
 ぶつぶつとカストが握りしめた右の拳を見つめながら呟いていた。その瞳は静かで、だからこそその内心が何を考えているのわからない。
 そんな三者三様の表情を見せる嶺炎らに、夕月は「さて」と体勢を崩して、身を乗り出した。
 足を組み替えた拍子に、太腿まで露わになるのも気にせずに、膝を叩く。
『貴様らが真に我の望みどおりにこやつを仕上げるというのであれば、国とは別にそれ相応の褒美をやろう。それ、この者が望んだように彼の国の支配者にしてやってもいいぞ』
 夕月の言葉に、嶺炎は即座に首を振った。
「我が国の次代は兄上でありそれ以外あり得ない。兄上ならば立派に〝北の国〟を統治していただけると俺は信じている。だがもし俺に褒美をというのなら、俺は力が欲しい、我が国のために剣となり盾となりたいのだ」
 兄の助けになるように、魔族の力にすら対応できるように。
「私も王位などいりませぬ。ただ叶うならば騎士として我が剣を捧げるに足る相手に仕えたい、それだけです」
 ユーリアの手が腰に佩いた剣の柄に触れた。触れた瞬間、先ほどまでの険しい表情はなりを潜め、どこか愛おしげにすら窺えた。
「……わたくしも国の支配は望みません、単なる文官には恐れ多い。ですがもし叶うのであれば、各国に秘された文献を所望します。誰にも邪魔をされずわたくしは知を探求したいのです。ただ愚かな王家に邪魔はされたくない、そうですね、最低でも権力によって邪魔されない地位ではいたいですが」
 カストが握った拳を見つめながら言った。
 それぞれが口にした言葉に、夕月は楽しそうに笑って頷いた。
『良かろう。この者の精神が完全に快楽に堕ち自我を失ったその時、そなたらの望みを叶うであろう』
 ならば、と嶺炎は片膝を突いて左胸に掌を当てた。その姿勢で椅子に座っている分だけ見上げる形となる夕月へと視線を向ける。
「〝南の国〟の王 夕月殿との誓約の証に、〝北の国〟の代表 嶺炎の名を捧げます」
 言葉だけの契約ではあるが、これは人間の間で行われる誓約の儀式の一つだ。この場にいる残り二名が証人となるが、相手は魔王、拘束力はないと言っていい。だがそれでもと嶺炎は言葉を捧げた。
 そんな嶺炎に夕月が虚を得たように目を瞬かせた。だがすぐに、うむと首是をする。
 そんな二人の様子に、続けてユーリアも、そしてカストも同様の誓約を行った。
「ならば我も」
 最後に夕月が、三人それぞれの誓約に対し、己の名を捧げる。
 終始笑みを浮かべる夕月の真意がどうなのか、嶺炎とて楽観視はしていない。していないが、今は互いに口にした誓約を信じるしかなかった。