【四つの王国と魔王の話】第一章〝北の国〟ー2

【四つの王国と魔王の話】第一章〝北の国〟ー2



 父王のことは気になるが、それでも魔族が気に入ったモノをすぐに殺さないということもあの資料には書かれていた。それが正しいことを誰にともなく祈りながら、今は従うしかないのだと、嶺炎の手が闇烏に触れる。
「ぐっ!」
 噛み締めたまま喉の奥が鳴った。
 目の前がぶれ、幾重にも視界が重なったように、目眩にも似た乱れによって頭の中が掻き毟られる。伸ばした手が放されて、身体がその場に崩れ落ちる。それでもそこに突っ伏しそうなったるのをどうにか膝を突くだけで耐えた。
 いまだ視界の定まらぬ目を隠すようにその手で覆い、強い胸焼けにえづく。
『南の城、朱雀城でございます』
 遠く聞こえた言葉の意味を理解したのはそれから一秒ほど後。目を塞いだ手を外してみれば、嶺炎の視界に入った光景に先ほどまで見ていたはずの北の城の姿はなかった。
 漆黒の石を亀甲模様に飾った壁面を持つ玄武城。だが今目の前にあるのは、優雅に羽ばたく鳥を思わせる鶴翼型の白い壁に朱塗りの屋根だった。
 南風に吹かれた旗が篝火の灯りが届き、嶺炎の瞳が朱雀の旗印を見いだす。間違いなく〝南の国〟の旗印と、何よりもこの建物が以前見た城の姿だと嶺炎は知っていた。
 驚き立ちすくむ嶺炎を包み込む風は暖かく潮の香りがした。朱雀城が海を望む高台に建てられているせいだ。
「そんな……さっきまで玄武城に」
 空間転移など人どころか魔族でもなかなかに為し得ぬ力だと首を振る。使えるのは高位魔族か、それとも魔王か、とも言われるほどに難しい力だ。
 ならば闇烏がそれほどまでの力を持つのかと視線を向ければ、ゆるりと首を振り否定した。
 だとすると考えられるのは遠隔でその力を使った存在がいるということ、それはまさしく魔王でしかない。
 茫然と佇む嶺炎の耳にカサッと何かを踏みしめる音が響いた。微かな苦鳴の響きもまた届いて跳ねるように身体をひねる。
 闇烏は音を立てない。何より人の気配などなかった場所に、隠そうともしない気配がする。
 振り向いた嶺炎の視界に、先ほどまで誰もいなかったはずの地に蹲って地に手をついた者と、ふらつく身体をなんとか支えている帯剣した男がいた。帯剣しているほうは衣服からして〝西の国〟の騎士。
 短めに整えられたくすんだ金髪の男は、息を整え終わるとゆるりと辺りを見渡した。
「ここは、朱雀城か」
 一瞥しすぐに場所を把握できるほどに知識はあるようで、騎士は数度足下を確かめるように足踏みしてから、嶺炎へと視線を走らせた。人には珍しい赤みを帯びた黒い瞳と相対する。
「……失礼ながら〝北の国〟第三王子 嶺炎殿下で違いありませんでしょうか?」
 通りの良い声が届き、嶺炎は頷いた。
「まさしく。そなたは〝西の国〟の騎士か?」
「はっ、私は〝西の国〟第三騎士団副団長を拝命しているユーリア・フォースと申します。このような場で嶺炎王子に拝謁できるとは……」
「かしこまらなくてよい。〝北の国〟では第三王子ともなるとごく一般的な貴族の息子と同じ扱いだからな」
 生真面目な質なのだろう、礼儀に則した挨拶を続けようとするユーリアを、嶺炎は手を上げて制した。
「そなたも〝西の国〟の代表であれば立場の違いはあるまい」
 重ねて伝えれば少し疲れた風情の顔が僅かに歪んだが、すぐに俯き表情が隠れて窺えなくなった。だがそれも一瞬だ。
 たいまつに照らされ赤みを帯びた金髪の頭が上がり、見えた顔は影が色濃く落ちてはいても、瞳の力は強く精悍な顔立ちにすでに憂いはないのが見て取れた。
 代わりにその口元に浮かぶのは、自嘲の笑みか。
「私の出自はそれほど良いものではありません。指名された残りの四名が誰かは知りませんが、内務府は高貴なる者を危険にさらすわけにはいかないと、ただそれだけで地位の低かった私が選ばれました」
 押し殺した声音はあまりにも抑揚がなく、不本意だと明らかに伝えてきた。少なくとも最初の如才ない挨拶を見る限りもっと誤魔化すこともできるはずで、国の恥部を晒すような言い方をするまでもないはず。だからこそ彼が内包する怒りの強さが感じられた。
 確か、と、嶺炎は伝え聞いた情報を思い出した。
 闇烏の訪れの際に王が死去した〝西の国〟の混乱は他国以上。その混乱の中での代表者選びが困難を極めないはずもなく、内務府とやらが王族に近い指名者から勝手に名を抜いていったことは容易に想像がつく。最後に残った彼には拒否権などなく、抗うこともできなかったということか。
 それは〝北の国〟とは真逆の選考方法だ。
「ふむ……〝西の国〟の混乱は聞いている」
「ついでにお伝えしますと、私が騎士団副団長の要職に就いたのは昨日のことです。本来あるべき王の前での儀式すらなく、書類一枚、庶務部の部隊員から手渡されただけでございました」
「……なるほど」
 名目だけでそれ相応の地位に就けた、ということか。
 〝西の国〟の国政の中心である内務府は、現在金と権力志向の強い者が揃っており、互いに互いを牽制しあいながら地位と金儲けばかりを見ていると〝北の国〟まで伝わっている。王族は全員ことなかれ主義で、国政の方針はすべてが内務府の言いなりだという調査報告もある。
 嶺炎も数年前に〝西の国〟の皇太子や他の王族にも会ったことがあるが、どうひいき目に見ても〝北の国〟の文官より弱々しく、華美な装飾や美しい女性を尊ぶばかりの軟弱者ばかりという印象だった。
 〝北の国〟とは根本的に王族というものの考え方や、国の代表であるという精神的なものが違いすぎるのだ。
 そんな〝西の国〟の王族の状況に、今後の商取引が優位に進められるだろうと虎視眈々と狙っているのは〝北の国〟を含め各国の経済担当大臣だったが、それらを口にすることなく、嶺炎はユーリアの肩を軽く叩いた。
「どちらにせよ俺達はすでに一蓮托生。この地にこうして集まった以上はな」
「……はい、恐れ入ります」
 絶え入るような返事に再度肩を叩き、嶺炎は地面に膝と掌を突いたままのもう一人の男へと視線を向けた。先ほどから肩を揺らすほどに荒い呼吸を繰り返している。
 ユーリアが〝西の国〟の者ならばこちらは〝東の国〟の招待者というところかと、えずくほどに咳き込んでいる男の腕を取り、ふらつく身体を支えて立たせてやった。
 細身で筋肉もあまりないのが触れただけでわかる。
「〝東の国〟の者か?」
 問えばようやく顔を上げ、翠水晶の瞳に嶺炎を映した。
「は、はい……。申し訳ありません、嶺炎殿下の御手を患わせるなど」
「気にするな。俺も転移の際に目眩が起きた」
 頑強な嶺炎ですら起きた失調は、見るからに武人でない彼にはきついだろう。
「恐れ入ります。わたくしは〝東の国〟の宰相補佐カスト・ラリでございます」
 赤茶色のふわふわのくせっ毛が、頭を下げた拍子に風に揺らぐ。肩までの長さのようだが、その柔らかな髪に長すぎる印象はない。
「宰相補佐……これはまたずいぶんと若く見えるが?」
「つい先日までは宰相付きの末席の書記でしたが、この任に就きました折に書記では格好が付かぬと王が申しまして」
 どこか遠い目をし、皮肉気に口元を歪ませた彼の表情からして、かなり思うところがありそうだ。しかもつい先ほど聞いた話をここでもまた聞くはめになるとは。
「なぜわたくしが五名の中に入っていたのかはわかりませんが、わたくしが知る限り立場も地位もそれぞれ。王子、武人、商人……抽選の結果、わたくしが当たりくじを引いたのでございます」
 なるほど、〝東の国〟はくじだったのかと嶺炎は頷いた。彼の国の王は結構なギャンブル好きだと聞いている。
 そんなことを思い出しながら、嶺炎はカストをユーリアに引き合わせた。相変わらずの堅苦しい挨拶が交わされた後に、ユーリアのまとう空気が少しだけ緩んだ。立場的に同程度だと知れたからだろうか、口調が緩み、同情めいた労りの言葉が漏れ聞こえた。
 それも落ち着いたころ、近づく気配に強く悪寒が走る。とっさに振り返れば、闇烏が恭しく頭を下げていた。
『お顔合わせはお済みなられたご様子。それではこちらにどうぞ』
 わずかな気の緩みを突くような闇烏の声に、背筋が伸びて気が引き締まる。やはり伝わる性的な快感とそれ以上の不快感。それでも少し慣れてきたのか、握りしめる拳の力は強くなく、数度の呼吸で息が整う。
 だが嶺炎はそうであっても、二人は違った。驚愕に肩が震えたカストと警戒心も露わに鋭い視線を向けたユーリア。その様子に、嶺炎はとっさにカストを庇うように彼と闇烏の間に動いた。
 だがそんな動きにも闇烏の感情は動かないようだ。
 二人の様子も嶺炎の態度も当然だとばかりに言葉を紡ぐ。
『皆様方をお部屋にご案内させていただきます。式典は明日の夜、太陽が沈む時間からにございますので、それまではお部屋にておくつろぎください』
 それだけを伝えた闇烏は、白い手をふわりと宙で揺らした。
 とたんにふわりふわりと浮かび上がったのは紫色をした炎の珠だ。風に揺らぐたびに炎が長く伸びる。それが付いてこいと言わんばかりに三人それぞれの周りでゆらゆらと漂った。
「付いていけばいいのか?」
 得体のしれないモノに二の足を踏み、警戒心も露わに問いかけたがその答えはない。
 気がつけば先ほどまでそこにいたはずの闇烏は消え、残されたのは三人と三つの炎の珠だけだった。
 三人共に目を合わせ、無言の議論は数秒で終わった。
 城の中庭らしきとはいえ、ここで次の夜まで待つわけにもいかない。
 ある意味仕方なく、それでも警戒も露わに炎の珠に連れられていった城の中はごく普通だった。深夜故に人は少ないが、それでもさざめく人の声は多少なりともあって、漏れ聞こえる会話もごく普通だ。
 ただ三人が炎の珠に連れられていくさまを見ても、客人に対する礼はあってもそれ以上の反応はない。
 これは確かに異常なことだとカストが呟き、嶺炎も頷いた。こんな夜更けに正門からではなく、中庭から現れた客を疑問にも思わない状況。
 だがそれでも客室は以前来城したときと変わらず、調度にも不審な点はないようだ。
 入る前にそれぞれの部屋を確認したが、隣り合った三部屋であり、見た目は普通の客室のようだ。できれば一つの部屋に集まりたいが、案内してきた紫の珠が嶺炎を誘うように目の前をうろつく。
「仕方ない、それぞれの部屋に入ろう。われわれは確かに招待されたのだからな」
 頷く二人を見送り、最後に嶺炎は案内された部屋に入った。
 客室は他国の重要な客を案内する豪勢な部屋で、歓迎の軽食、酒なども置かれ、浴室にも豊かな湯が張られている。
 強い警戒心を持って嶺炎は室内を調べたが、問題があるようなところは見受けられなかった。
 軽食も毒があるように感じられず、またその理由もない。ないが、念のためその辺りには触れずに、嶺炎は今日は休むだけにした。
 それでも警戒を怠らずにいたせいで張り詰めた神経が、嶺炎の睡眠を阻害する。浅い眠りに終始した夜は結局何も起こらずに、そのまま朝を迎えたのだった。