【四つの王国と魔王の話】第一章〝北の国〟ー1

【四つの王国と魔王の話】第一章〝北の国〟ー1

第一章 〝北の国〟
一-一 使者と王

 この安寧の時代はいつまでも続く――そんな根拠のない考えを誰もが持って安らかな眠りについていたその日、〝北の国〟の強固な護りは誰も気付かぬ間にたやすく突破され、玄武城の最奥にある王の寝所にそれは現れた。
 その時点で誰も知るよしもないが、その現象は〝北の国〟だけでなく〝西の国〟や〝東の国〟でも同様に起きていた。
 広い寝所で眠るのはその国の王、ただ一人。
 ただし扉を開放し垂れ幕のみで遮られた小部屋には側仕えと護衛の騎士が待機しており、さらに廊下に通じるぶ厚い扉に隔てられた場所には不寝番の近衛兵が二名、控えていた。
 それでも、その誰もが一切気が付かず、漆黒の闇のようなそれは眠る王に近づき、その額に触れた。
 途端、王の身体は心底から凍える冷気で満たされ、その激しい悪寒でもって王の目は覚めた。
 怖気たつ悪寒は強く、跳ねるように飛び起きた王の瞳に映ったのは、ただ漆黒の深い闇。
 だが刻は深夜とはいえ、王の寝所となれば必ず明かりがある、なのにそこにある闇は何かの影ではなかった。
 ただ闇がそこにある。
 そう認識した〝北の国〟の王は、開きかけた口を強張らせた。
 全身が氷室に閉じ込められたように寒さに震える。言葉を発することができないのは、それより先に呼吸への欲求が強いせい。
 喘ぐように空気を取り入れ、なんとか身体を起こしたが、それでも寝台の背もたれに身体を預けなければすぐに崩れ落ちてしまっただろう。
 それでも〝北の国〟の王はまだ勇敢であった。
 彼は闇を見透かすように視線を凝らしてその正体を少しでも探ろうとし、枕元に隠していた剣に手を伸ばすだけのことはできたのだから。
 東西南北の各国の王の中で、彼は唯一の戦士だ。壮年もそろそろ後半にさしかかろうかというころだが、いまだ銛を武器に戦う屈強な戦士としての一面もあった。だがそんな彼ですら、寝台で身を起こすこともままならない。
 その時、東と西の二国でも同様なことが起きているとは、〝北の国〟の王はまだ知らない。
 異常事態であっても、奥歯をかみしめてようやく意識を保てている状況に誰何の声すら上げられず、小部屋にいる者も、扉の外にいるはずの近衛兵を呼ぶこともできなかった。
 ただ内心で自身を叱咤激励しながら目の前の何かをにらみつける。
 次第に闇の中に何かが見えてくる。
 人のように見えた。
 窓の外では月明かりの中で薄桃色の春の花が咲き誇り、幻想的な雰囲気を醸し出している穏やかな夜だというのに、漆黒の衣をまとったソレの周りはかすみがかったように昏く、輪郭ははっきりとしなかった。
 だがそんな闇色に他の色が乗ってくると、明らかにそれは人の姿を取った。
 後ろで束ねているのであろう漆黒の髪は先が闇に溶けて長さがよく見えない。
 白い肌は〝北の国〟では珍しくない雪のようで、顔立ちは若い。すらりとした鼻筋に赤い唇、一見男とも女とも判別がつかないが、けれどもどちらにせよそれは目を瞠るほどの美を持っている。
 高貴な身分故に美しいモノを見慣れた王であっても、彼は一目でそれの虜になりかけた。
 経験の少ない若者であれば、すぐにその美にひれ伏してしまうだろう。
 何よりあの金色の砂糖菓子細工を思わせる瞳はどうだ、とろりと蕩けたように揺れ、王は妖しく誘っている。
「お、おお……」
 王は自分の股間が妖しく疼くのを感じた。
 襲う悪寒は変わらず、動けぬ身体も先ほどと同じ。なのに、王は自分の魔羅(まら)がむくりと起き上がり、寝具の掛け布越しでもそこが盛り上がっていることに気付く。
「こ、このような……」
 異常だった。
 だがその異常さこそが、あれが魔族に関わるものだと知らしめてくる。
 鍛えられた戦士だからこそ、王は与えられた甘い誘惑よりも、自身の脳で鳴り響く警告に従った。
 奥歯が音を立て、握り込んだ指の爪の与える鋭い痛みも彼の王の意識を正気にさせるのを手伝った。
 冷や汗が熱くなった身体を伝う。
 寒く、熱い、王は相反する状況に耐える。
『我は感服する』
 それは闇のモノがそう言葉を発するまで続いた。王にとり、とても長く、けれど実は一瞬の出来事だ。
 赤い唇が弧を描き、恐怖と淫欲を刺激してくる妖しくい雰囲気がわずかに緩んだ。
「はっ」
 思わず肺の中の澱んだ空気を一気に吐きだした。
 まだ気が抜けぬとわかっていても、苦しさが限界だった。
 それでも何かしらの攻撃があるかと構えた王に、闇は深々と頭を下げた。
『冷たく凍てついた大地を滑る心強き王よ、誉れ高き御国を統べる者に、我が主(あるじ)のお言葉をお伝えする』
 音が頭の中に響いた。
 脳を揺さぶるような音が伝えるのは恐怖、そして快感。体内からじわりと広がる快感が指先の力を抜く。
「お、おおっ……」
 思わずこぼした呻き声は、けれどそれ以上続くことはなかった。
 〝北の国〟の王はやはり戦士であった。
 びくんと大きく震えた身体を矜持だけで押さえ込む。
 その存在が、他国でも同様に話し出したのだと知る術もなく、また同じ声音で発したその内容もまた同じであったことも知るわけもなく。
『我は闇烏(やみがらす)、我が主に仕えしもの』
 ただ伝わる内容を必死になって理解する。
 北の王は目玉だけを動かし、控え室に続く垂れ幕へと向けた。だがその薄布の向こうが動く気配はない。また廊下につながる扉もぴくりとも動かず物音も伝わってこなかった。
 気づいていないのか、それとも動けないのか。
 悩み戸惑う暇さえ与えずに、闇烏が言葉を続けた。
『我が仕えし主(あるじ)は、魔を統べる王……夕月(ゆづき)王』
「――っ!!」
 その言葉に、〝北の国〟の王の喉から悲鳴でしかない吐息が零れた。
 その名を王は知っている。王の系統に連なる者のみに伝わる史実書に、確かに記されたその名の主は〝夕闇の海峡〟と〝黎明の海峡〟を作った存在だ。
『我は我が主の使いにして、宣言するモノなり』
 朗々と、そして十二分に伝わるその言葉にある誇らしさ。ゆらめく金色の瞳が一瞬だけ閉じられ、そして再び王を射貫く。
「んんっ、あぁ……」
 ただそれだけで〝北の国〟の王は、恐怖の中で精を放った。がんじがらめに肉体も精神も、全てが闇烏と名乗る存在に支配され、絶望と愉悦の中でその声を聞く。
『夕月王はめでたくも〝南の国〟を統治することにあいなりましてございます』
 深々と頭を下げるその口調に入り交じるのはどこか皮肉めいたもの。だが〝北の国〟の王は天上の甘露をいただいたかのようにその声をうっとりと聞き、そしてその意味を甘く理解する。
「お、おおっ、ま、魔王様が〝南の国〟の王にと」
 それまで出なかった言葉が勝手に漏れていく。
 魔王とは人ならざるモノ――魔族を統べるほどに強大な力を持つモノ。その配下であるならば、闇烏もまた人ならざるモノだ。
 魔族と言えど人と同じ、その個体は弱者から強者までさまざまだ。闇烏は確かに強者であると〝北の国〟の王は即座に気が付いた。
 だが人と違い魔族は総じて自身が好むモノにしか固執しない。また支配というものには興味を持たないと言われており、ほかの大きな大陸から遠く離れたこの地には今まで魔族が訪れたことはなかった。
 しかも魔族が固執するのは個体であって集団ではない。それは魔族自身が認める魔族の特質だ。
 だからこそ王も魔族に対して我が身の危険は考えても、国の危険は考えなかった。
 だが今、闇烏は伝えてきた。
 魔王が〝南の国〟を統治した、と。
 かつて考えたこともないことが起きようとしているのだと、茫然と頭の中でその言葉を繰り返す。
 その言葉の意味は四つ。
 一つ、魔王が復活したということ。
 二つ、魔王が国を支配したということ。
 三つ、貴重で重要な資源の産出国である〝南の国〟が魔族の支配に堕ちたということ。
 四つ、魔王がこの〝北の国〟に何かしらを仕掛けようとしていること。
 どれもが最悪なことだ。
 そう、〝北の国〟の王は正しくそのことを理解した。同時に、自身の闇烏に対する返答が、この〝北の国〟の命運をかけることになるのだろうことも。
 それほどまでに魔王は驚異であり、〝南の国〟の資源は失うことはできぬものであり、そして〝北の国〟の民のためには王は判断を間違えることはできなかった。
 北の王は快楽に荒れた息を整え、恐怖に震える自身を奮い立たせた。それは王としての矜持、民への思い、自身の生への渇望、ありとあらゆるものが混じり合った奮闘の結果だ。
『夕月王のおぼしめしはただ一つ』
 そんな王の決意に気づいていないのか無視しているのか、闇烏は魔王の名を厳かに告げた後、濡れた金色の瞳で王を見た。