【四つの王国と魔王の話】第一章〝北の国〟ー2

【四つの王国と魔王の話】第一章〝北の国〟ー2



 新たに仕立てた漆黒の儀礼用軍服と、同様に飾り立てられた大剣、小剣という正装に身を包み、嶺炎は指示された北の城 玄武城のもっとも高い見張り台へと赴いた。
 従者も護衛兵もいない。一人のみというのは闇烏の言葉だけでなく招待状にも記載されていたことであり、嶺炎は一人見張り台の上で立っていた。
 指定された時刻にはまだ早く、嶺炎は濃茶の瞳を細め空高い月に照らされる城下を睥睨した。
 冷たい北風に晒されるのをものともせず威風堂々とたたずむ嶺炎の姿は、こんなときでなければ誰よりも王らしいと讃えられるものだろう。実際、成人したばかりとはいえ所属する王家直轄第一師団でそれ相応の実力を持って副団長の地位に就いており、いずれ師団を率いる立場になるであろうと目されている。
 嶺炎は北の民族を祖に持つ故にがっしりとした骨組みと張りのある筋肉質の身体を持っている。父王の全盛期にはまだ及ばないが、成人男子を軽く持ち上げられるほどの腕力もあって、使いなれた大剣であれば人の三倍はあろうかという大熊すら一刀の元に斬り捨てるほどだ。
 その嶺炎がいるのは、玄武城でももっとも高い見張り台で、年中強い北風が吹きすさぶ場所だ。
 強い風に漆黒の髪を乱されて、嶺炎は顔をしかめながら頬に触れた髪を後ろへ払った。軽くうねる量の多い髪はどことなく湿っている。春の湿り風が雨雲も呼んでいるようだと、思わずその雲へと視線を走らせたそのとき、嶺炎の軍人として鍛えられた神経が何かの存在を感じ取った。
 遠巻きに警戒している衛兵や重臣たちのものではない。
 時刻は日が変わる真夜中。
『お迎えにあがりました』
 まるで脳を直接かき乱されるような、淫靡な声が嶺炎を襲った。
 ぞくりと肌が泡立ったのは急速に下がった気温のせいではない。いきなりそこに現れた異形から伝わる気配のどこか淫靡なものが受け入れがたく、本能が忌避感を感じたからだ。
『〝北の国〟第三王子嶺炎殿でございますか』
 態度としてはへりくだっているのだろう。だが虹彩のない金色の瞳はどこか無機質で、抑揚のない声音が聞いた者の不愉快さを助長する。
 いや、この不快さは不躾な女に触れられた時のものと同様。
 妖しさを感じる美と言おうか、若芽のように鮮やかで凜々しい美と言おうか、男とも女ともどちらとも言えぬ性別不明な存在だが、それだけではない。
 無表情なのに自分以外を貶めているのがじわじわと肌に感じる。笑みが娼婦の誘いのように見え、漂う薔薇の香りの濃厚さに顔を顰める。
 女は嫌いではないが、だが女でも逞しく強い女が好きだ。それだけでも妖しい闇烏は嶺炎の好みではなかった。
 なのに身体が不快さと同時に、おぞましい快感を感じている。ぴんと伸びた背筋にぞわりと何かが走り、疼くようなざわめくような感覚が下半身の神経をくすぐっていた。
 その厭な感覚を堪えるように唇を噛み締めた。
 自身が父王と真逆の反応をしているとは知らず、嶺炎はそれでも矜持を持って感情を押し込める。
「いかにも、俺が嶺炎だ」
『確認いたしました』
 その言葉の意味を問い質すことはできず、続けられた言葉に抗う暇もないが、元よりその気もわかなかった。自身を落ち着かせるだけで精一杯だったのだ。
『それでは我の手に触れてくださいませ』
 闇から伸びたそこだけは白い右の掌が誘うように上向いた。やたら長い指の先から鋭い爪がのぞいている。
 嶺炎は落ち着かせた己の感情がまた暴れだそうとするのを必死に堪え、見た目は平然と見えるよう努力をしながら闇烏を見据えた。
「その前に一つ聞きたいことがある」
 それは今回の件を父王より聞いたあの時からずっと疑問に思っていたこと。
『どうぞ』
 金の瞳が瞬き、けれどどこか愉快そうな声音がその赤い口元から漏れた。
 やはりこれは魔族だと、嶺炎は大きく息を吸い、闇烏を強く見据えた。
「我が父、〝北の国〟の王はなぜあのように衰弱したのか、何をしたのか教えてもらいたい」
 あれから父王は寝台から起きることも難しい。
 医師や薬師の見立てでは体力が極限まで落ちており、精神がどこかほかに向いているとのこと。王としての判断はできているのに、ふとした時にまるで別の世界を見ているようだという言葉は、嶺炎も気が付いていた。
 あの時、何が起きたのか、父王は何も言わない。ただ闇烏が訪れたことと、誰も気が付かなかったこと、そして魔王のこと、招待のこと、それだけは聞いている。だがそれだけで、父王があのような状態になることは考えられなかった。
『〝北の国〟の王は素晴らしい胆力の持ち主でありました』
 それは魔族の言葉にしては褒め言葉だっただろう。だが聞いている嶺炎にしてみれば皮肉のように聞こえた。
 眉間のしわが太くなる。太い眉がしかめられ、そんな嶺炎に闇烏の唇は弧を描く。
『故に敬意と褒美を』
 その唇がこぼしたのはそんな言葉。
「敬意と……褒美?」
『触れただけでございます、こうして』
 伸びた手が嶺炎の指先に触れる。見つめる先で金の瞳が揺れた。
「っ!!」
 途端に背筋に走る強く妖しい疼きと込み上げる衝動に息を飲んだ。とっさに手を引いたのは、それこそそれまで感じていた忌避感があったからだ。嫌悪感にも似たそれに身体が反応したのは幸いだったと、嶺炎は闇烏の笑みに気が付く。
「何をっ!」
『褒美でございます』
 笑みを浮かべた闇烏が語る。
 離れたというのに、指先がじんと痺れたように疼いていた。その指先を手のひらに沈ませるように握りしめる。伝わるのは、不快感もあったが、だがかなり強い快感だったことは違いない。不快感は自分だけだとしたら、父王は不快感なくこの快感を受けたことになる。
 それは魔族にとっては褒美であったとしても、人にとっては、ましてや壮年の域にある父王であればどうだったろうか。
「どれだけ触れたと?」
『全て』
 その瞳に浮かぶのは恍惚だと、嶺炎はしかめた。
 あれを全身で受けたとしたら嶺炎自身でも耐えられるだろうか。それを勇壮な戦士であったとはいえ、老いた父王が耐えられたのだろうか。
 いやそれだけではない。
「……あの何もかも吸い付くされたような状態は……」
『逞しくも素晴らしい精気をお持ちでございました、おかげさまでつい……』
 意味ありげな笑みを浮かべ、どこかうっとりと確かに闇烏は嬉しそうに答えた。
 その言葉に嶺炎の新しい知識の一つが思い出される。それは今回の招待にあたり魔王や魔族に関する資料を徹底的に調べて知った魔族の特性の一つ。
 魔族は人の精気を好む。そこには人に食事の好みがあるように、精気にも好みというものがあるらしい。
 それが魔族が個にこだわる理由だ。好みの個に魔族は執着し、そしてつきまとう。とてつもなく長い魔族と共に生きながらえさせながら、決して離さない。
「まさか父王が……」
『ようやく見つけた、私のモノ』
 嗤う闇烏の鋭い瞳。
 ならば父王の不調はこの目の前の魔族のせい――だとわかったが、そんな嶺炎の背筋に這うのは恐怖、それは圧倒的な力の差への恐怖だ。
 体格だけで言えば嶺炎よりは小さい存在だが、感じるのは自信よりもっと大きな存在としての力の差。
「ち、父王は元気ではあるがお年だ」
 その故に絞り出すようにそんなことを言えただけ。
『承知』
 あたりまえだとばかりに頷く闇烏が再び手を差し出してきた。
『お時間でございます』
 差し出された手を見つめ、嶺炎は奥歯を噛み締めながら己の手を差し出した。