冷たく暗い夢。
嫌な疲れが溜まっていると悪夢を見るのだと、ミズサが知ったのはラカンに連れて来られてからだ。それまでは、何が起きてもそれが嫌なことだとは思いもせずにいた。否──思わないようにしていたというのが正解か。けれど、だからこそ嫌な夢など見ずに闇を過ごすことができた。
けれど、陵辱の果てに意識を失うのは、単なる睡眠とは違っていた。
疼く身体は痛みだったり、燻る快感の火種だったりしたけれど、脳が深い睡眠に入らない。どこか熟睡とは遠くて、いたずらに夢を見てうなされる日々を過ごす。
そんな日々が積み重なり、疲労が蓄積されていくうつに身体が悲鳴を上げた。
発熱して、自分の身体がひどく重い。仰向けに寝ていると胸の重さに呼吸をすることすらままならなくなっていた。もう全てを投げ出して意識を手放したいのに、怠すぎて眠れないのだ。
しかも、うとうとと微睡めば、夢の中にまで男達が迫り、逃げられずに犯される。
熱は薬で下がる。
けれど、下がれば陵辱が再開され、また発熱して。
昼も夜も。
現実と夢の境も無く、いつでも陵辱され、休んでも夢にうなされて。
そんな頃に見た、陵辱される以外の夢は、たぶんいつも同じ内容だった。
同じだけど、起きれば忘れてしまう夢。なのに、夢の中では覚えている。
ああ、またあの夢だ──と、ひどく胸が苦しくなって、悲しくて涙が込み上げた。
周りは石造りの壁に囲まれていて、さっきまで自分に覆い被さり、腰を打ちつける男達の影が遠くなって。
それが始まりだ。
遠くなった影はいつの間にか壁の向こうにいて、自分はその壁の入り口のようなところから中を窺っている。
そこにいた影は、人。
壁を掴む小さな指が白くなる。はふっと息を吐いて、その音が大きく響いたような気がして慌てて両手で口を塞げば、その手が今よりずっと小さい自分のものだと気が付いた。
ああ、これは……。
もう何度無く繰り返し見ている夢。
本当は、リジンにいる頃から時折見ていた夢だ。けれど、起きたら忘れるから、夢なんて見ないと思っていたけれど。
でも、覚えている。
自分は、この夢を何度も見たことがあって、そして、悲しくて堪らなくて。
零れる涙がシーツを濡らして、目が覚める。
覚えているのは、激しい寂寥感だけで、それも何の夢を見たかを思い出すことなく忘れていく。
そんな夢。
その夢の世界にまたいるのだと、ミズサはぼんやりと立ち尽くして見ていた。
自分は幼い。
そして脳の奥で響く音は、今なら何の音が判るもの。
だから、今見ているのは夢で、そしてこの先に見るのは……きっと同じ内容で、そして、実際に起こったあの日の出来事なのだ。
あの日、前から見つけてはいたけれど、入ろうなんて思いもしなかった空間に、12歳の水砂は入り込んでいた。
まだ、リジンの王子として暮らしていた頃の水砂は、勉強という名目でやってきた王城の古い書庫にいた。
王族しか入ることが許されない書庫は、一番奥まった場所にある故に、警護の任も必要ない。それ故に、ここに来れば、水砂はいつも一人で過ごすことができたのだ。
そんな書庫の一番奥、古い書棚の影に隠れていたそこは、四つん這いでようやく移動できるくらいに細く狭い空間だった。けれど、子供で細身の水砂であったからこそ、その身体は難なく通り抜けられた。
昔の排水溝であったそれは、増築時にその溝の形のままに残され、増築部分の床が設置されたのだ。手抜き工事であると言えばそれまでだが、図面上はもっと細く、空気抜きとして描かれていた。その図面を見つけたからこそ、水砂はそれを見出したのだ。
そして今日、水砂はそこを通って書庫から地下通路へと抜け出した。
図面上では通路になり得ないそれのせいで繋がっているとは誰も思わないだろう。
だが、聡明な頭は図面の違和感に気づき、建物の造りの違和感に気が付いた。
辿れば、書庫の一角と地下通路が細い空間で繋がっているのは容易に知れた。排水溝は結構広く、水砂が通り抜けられることも容易に知れた。
もっとも、長年の汚れが溜まり、ネズミのミイラ化した死骸すら転がっているそこを、通ろうなどとはとても思わなかったけれど。
ずるりと身体を引きずり出して薄暗い地下通路にしばらく座り込む。地下の空気は澱んでいて、けれど、ひんやりした冷たさが心地よかった。
明かりの無い通路は、それでも僅かに白くぼんやりと目に写った。
この手の地下通路に用いられる白い百光石は、僅かな灯りもその石の中に明かりを蓄えて、暗くなると発光する。それに気付いて。
「?」
不思議に辺りを見渡した。
地下通路に灯りは入らない。なのに、ここの百光石は灯りを蓄えている。ということは、つい最近何かの灯りがここに入ったと言うことだ。
けれど、どこにも窓など無いここで、何故に灯りが入ったのか。
水砂の視線が、通路の奥へと向かった。
この先は、今は使われていない地下の牢獄へと道だ。
王族専用の、王族に近い者にのみ使われる牢獄で、前に使われたのは先々代の王弟だ。落馬により頭を打ち、狂気の性を露わにして反逆すら企てようとした王弟は、30の若さでこの地下牢に幽閉され、10年後に死んだ、と記録にあった。
それは、王家の記録にのみ残る史実で、今では闇に葬られている。今ではあの書庫で記録を見つけた水砂以外知っている者はごく僅かだろう。
この国の者達は、貴重な資料である書類が山積みされている書庫に見向きもしない。記録されたものを見返すこともせずに、同じ事を繰り返す。
他の誰よりも正確に真実を見極めるだけの才能を持った水砂が見れば、愚かでしかないリジンの記録は、その歴史を見れば愚行がはっきりと判るというのに。
けれど、ミズサがそれを皆に説いたとしても誰も聞きやしないだろう。それどころか、ミズサ自身がこの奥の地下牢に入れられてしまう。彼の王弟も、本当に狂気に陥ったかどうかなど怪しいところだと、水砂は考えていた。
水砂は聡い。
一から十を知るだけの知力と聡明さを持っていて、人の機微にも敏感だ。
心の成長も、他者の誰よりも早かった。まさかそんな幼子が理解などできまい……と、大人達が話していた政治経済などの話も、反応はしないまでも理解できていたのだ。
故に、10歳になるくらいから、水砂は知力では目立つことを避けてきた。いつかリジンが滅びると理解してしまっても、それを胸の内に秘めた。
けれど、真実を溜め込むことはたとえ聡明でも幼い心には重すぎて、苦しくて。
他人など入り込む余地が無い場所を求めてやってきたあの書庫は、ほんとうに快適な空間だった。
けれど、新に見つけてしまった地下通路との出入り口に、水砂が通り抜けたのはほんの気まぐれで。
新しい居場所があれば良いな──という、深い期待などない考えからで。
ずるりと怠そうに立ちあがり、細い身体を伸ばす。
知力と同じく体技にも秀でたところがある水砂ではあったが、王子である、というだけで、重たいモノはもちろんのこと、外遊びすらなかなかさせて貰えない。
長く伸びた手が、薄暗い壁に触れる。
一瞬、手のひらに伝わった微かな振動は、確かに耳にも音として届いた。
誰かがいるのだ──それは決して獣などではない。獣は灯りを使わない。
ゆっくりと歩き出す水砂の瞳は、暗いだけでなく細められ、全身で周りの気配に意識を配っていた。
耳を澄ませば、静かな空間に確かに響く物音がする。
短く鋭い音は何かを打ち付けているような、長く響くのは、人の声のような。
王族専用の地下牢に、誰かがいるというのだろうか?
けれど、今直系の王族はミズサの両親である現王と王妃、そして兄弟5人しかいない。王の弟は、病気で居城から出てこないし、それ以外の少し離れた親族まで辿っても地下牢に入れられるような人物には心当たりがなかった。
知らない親族でもいれば別だが。
そんな事を考えて、嫌な予感に捕らわれる。
産まれた子を、隠してしまう風習がリジンにはある。面だって存在しない風習は、兄王子達も知らないことだ。
けれど、あの書庫にはそんな記録が残っていた。
──誰かいる。
か細く長く続いた確かな悲鳴は、決してネズミや猫の鳴き声ではない。
ならば、あれは人。
近づくな──と理性が言う。
近づくな、聞いてはならない。見てはならない。
今の水砂はあれが何かを知っている。
なぜなら、これは夢だから。すでにアレが何か一度見たことがあるから、見ている夢なのだから。
だから、近づいてはならない。
脳の奥で自分の声がけたたましいほどに叫んでいる。
ぞわりと肌が総毛立ち、二本の足がひどく重くて上がらない。引き返せ──と、心は叫ぶのに、足が思いくせに止まらなかった。
近づけば、怒声が聞こえた。悲鳴はか細く、だからこそ猛々しいそれは恐怖と共に鼓膜を震わせる。
「忌み子のくせに、純血の手を煩わせるなっ」
「ひあっ」
怒声と悲鳴、叩く音に叩かれる音。
不快なそれに、ミズサの足がようやく止まった。
目の前には、もう地下牢の入り口が見えている。金属の扉は僅かに開いていて、だからこそ良く声が漏れていた。
「あ、ひ……許し、て、父様っ、あひぃぃぃっ」
「汚らしい髪色を染めて謀りおった極悪人がっ」
「ああぁっ、ひっ、だ、父様っ、あうっ」
叩きつける音と悲痛な声はもうはっきり聞こえる。
忌み子が何であるかは知っている。だからこそ、嫌な予感がしたのだ。
リジンの、子を隠す悪しき風習の元になった、色味が悪いリジンの子に与えられた蔑称。白磁の肌に銀の髪、そして空色の瞳を保つための純血の中に、時折産まれる他の色を宿した子のことだ。
それは、近親婚故に濃くなり過ぎた血が影響しているというのに、それを認めず隠そうとする。
「我はお前の父などではないわっ、気安く呼ぶなっ、この大罪人がっ!!」
「ひっ、いぃぃぃ!!」
「あの女も謀りおって、この、わ、我の子に、忌み子だとぉ、そんな訳があるかっ、どうせどっかの下僕と乳繰りあった混血を産んだのであろうにっ!!」
「ちが、ああっ、母様はっ、ちがっ」
ああ、これは。
怒りに満ちているけれど、あの声は王族に近い、公爵家の当主。純血至上主義で周りは全て見目麗しい者ばかりで揃えていることを自慢にしてる者だ。
ならば、身のうちに忌み子などとは決して受け容れられないだろう。
公爵の子は、確か5人。
この声は誰だろう? 少なくとも声の感じからして長兄と次兄ではないだろうけれど。
まだ少し甲高い声の主を考えて、嫌な予感がさらに増す。
確か末っ子の……。
声変わりしていない、水砂より一つ上の男児。
「神に逆らう反逆よ。たっぷりと仕置きしてやろうぞ」
ずりっと足が動いた。
近寄ってはいけない、見てはいけない。
なのに、動いた。
通路の闇ではないその奥に、確かに揺らぐ炎の影が見えた。
見えたら止まらなくなった。
心が悲鳴を上げている。見てはいけない、と騒いでいる。
なのに、あの時、水砂は近づいてしまって、そして、見てしまったのだ。
あの時は、ほんとうに何が行われているのか良く判っていなかった。
ただ、今でもあの時の恐怖と引き裂かれそうな心の痛みは覚えている。どうして、それを夢の中でしか思い出せないのか、いつもそう思うほどに、苦しい記憶。
あの日、水砂は完全にその知識を生かす道を閉ざした。進むべき道を見て見ぬ振りをした。
そうしないと堪えられなかったのは、自分自身。
あの時から、自分は卑怯者と成ってでも、全てから背を背けた。
扉の向こうには確かに地下牢らしき扉が、いくつか並んでいて、しかも十分な灯りが灯っていた。
その扉の窓をそっと覗き込む。
一つ一つの部屋は広いけれど、扉の窓枠には鉄格子がはまり、中を覗けば空の部屋は窓一つ無い空間だった。ただ、周りが鏡張りで中央にはこんなところには不釣り合いな大きな寝具が置かれていた。二つ目には、何か妙な形をした道具のようなものがたくさん入った棚が置かれていた。
そして、三つ目の一番奥の部屋に、公爵はいた。
いつもの身なりで、けれど、どこか着崩した感じで。
見える横顔は赤く、目は血走り、額に汗が浮かんでいる。
そして。
「ひっ──」
水砂は叫び声を上げそうになった口元を、必死になって自分の手で押さえた。
そうだ、あれは……。
公爵家の末っ子の理塔(りとう)だ。
13歳、いや、確か先日14になったと挨拶を受けた記憶があった。優しい性格の、水砂の数少ない友の一人。
その彼が、今は一糸纏わぬ姿で部屋の四方から伸びた縄に四肢を繋がれていた。仰向けだから何もかもが良く見える。
身体は背の下に置かれた台にかろうじて触れている程度で、伸びた四肢はすでに色を失っていた。
白磁の肌は、青白く、けれどそのいたるところに赤いミミズ腫れがあった。
「あひぃぃぃ──っ」
公爵が手を振りかざす度に鋭い破裂音がする。重なった悲鳴とともに、そのミミズ腫れが増える。
痛みに振り乱された髪も銀色だったけれど。
けれど、その股間の毛が茶色だった。程度の問題でなく、あれは銀ではない。そうはっきりと判るほどに。
だが、だからといって……。
ミズサが愕然としたのは、そのせいでなかった。忌み子というからには、色が違うのは判っていたからだ。だが、だからと言って。
あれは自分の子だ、公爵家の末っ子で、公爵自身も可愛がっていた。彼の母親もたいそう優しく美しい方で、憧れていたのに。
なのに。
鬼のように鞭を振るい、我が子を痛めつける公爵の様子に、水砂の全身から血の気が音を立てて失せた。
壁につかまっていないと、そのまま崩れ落ちそうなほどに目眩がする。
「貴様を殺すことはできぬ。我が公爵家の戸籍に載せてしまった以上、生かしておいてはやろう。だが、病の果てに気狂いして、ここに封じることにする。この牢で、貴様は死ぬまで過ごすのだ」
息を荒らした公爵が、鞭を落とし、カラカラと嗤う。
「我を今まで謀った罰よ。ここで、死ぬより惨めな生き様を与えてやるわ。あの女にもお前の様を見せつけてやろう。奴隷と課した貴様をな」
狂っているのは公爵の方だと思った。
怖くて、苦しくて、ずりっと足が後ずさる。
これ以上ここにいると危ない。
公爵の権力は強い。直系といえど、どんな汚名を着せられるか判らない。
閉じこめられた王弟のように、なるのは嫌だった。
何もかも諦めて流されて生きてはいても、水砂はまだ12歳の子供で。
この時、何よりも恐怖が勝っていて。
「ぎ、いゃゃゃぁぁぁぁぁっ!!!」
地下牢を揺るがすような凄まじい悲鳴に脳が激しく揺さぶられた。くらくらと目眩がする中で、這うようにしてそこを出ようとして。
「はははっ、やはり貴様は淫売だなっ、グチャグチャになりながらも締め付けて悦んでおるわ」
「やああぁぁ!! がぁぁっ!」
ぐちょぐちゃ、と粘着質な水音が響いてきた。
悲鳴とその音に追いかけられているように、よろよろと這い出した。
知られてはマズイ。ここに入るのは嫌だ。
そんな考えが一瞬にして湧き起こる。
悲鳴が、自分の声と重なる。吊された彼に、自分の顔が重なる。冷え切った身体が、ずるりと動く。
扉を出てしまうとあれだけ重かった足が動いた。転がるように走り抜けて、あの狭い排水溝に潜り込む。
ただ。
『ごめんなさい』
どうしてそんなことを呟いたのか、意識しないままに繰り返す言葉は、書庫の中でくたりと倒れ込んでも止まらずに。
その日の夜から発熱して寝込んでいる間も、呟き続けて。
目が覚めたときには、地下での出来事の記憶は全て失っていた。
その後、公爵家の末っ子には会っていない。何故か気になったけれど、病気療養で屋敷の奥にいるらしいという話を聞いてから納得してしまった。
その頃にはミズサ自身も書庫に足を踏み入れなくなっていた。それが何故かは判らないけれど、行く気が起きないのだ。
そして、そのまま完全に忘れてしまっていたけれど。
夢の中ではその記憶が現実だったと思い出す。
今なら、彼が父親に何をされたのか判る。
苦しくて辛い陵辱の日々から、彼が逃れ得たとしたら、それはきっと死してのみだろう。
地下から戻って上機嫌の公爵の、その理由が今頃分かった。
今更、言ってもしようがない。
『ごめんなさい』と何度呟いても、どうしようもない。
けれど、呟かざるにはいられない。
助けられなかった友に、唯一助けられたはずの自分が逃げた事への謝罪は、きっと何度しても止まらない。
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