【水砂 捕獲】(1)

【水砂 捕獲】(1)

 ラカン国の中心地であり、それ故に王が治める直轄地は南西に走る山脈を持っていた。その山にある獣道を越えるのが、王都直轄地から隣の領地に抜ける近道だと聞いて、ミズサはその道とも言えないような悪路を一気に駆け抜けようとしていた。
 だが、足場の悪い坂道は崩れやすく、体勢を整えるだけで体力も気力も奪う。中腹辺りまで上った頃には、吐息が乱れてどんなに深呼吸しても整わず、酸素不足なのか目の前が霞でもかかったようにぼやけていた。
 仕方なく近くにあった雑木の影に滑り込み、膝を折って座り込む。
「んっ……くっ」
 何度も何度も、息を飲み込むように荒い吐息を整えようとするけれど、心臓が痛いほどに弾んでいて、苦しくて仕方がない。
 体力はついたと思っていたけれど、初めて走る山道は、想像以上に厳しいものだった。
 しかも、すでに日は暮れていて、糸のように細い三日月の明かりしかない。さっきから何度も飛び出た岩に蹴つまずき、尖った石のかけらが膝や手に食い込んだ。闇雲に走ったせいで、鋭い小枝が皮膚を切り裂いたところもある。
 それでも、ミズサは止まらなかった。止まってしまうと、動けなくなるのがわかっていたからだ。
 だが、さすがに体力の限界は越えられるものではなくて、座り込んだ場所で額に浮かんだ汗を剥き出しの腕で拭き取った。
 疲れに朦朧とした視線を山頂へと向ける。その拍子に、頭に巻いた布がぱさりと落ち、鮮やかな銀の髪が月明かりの中に零れ落ちた。ミズサの銀の髪と白い肌は夜の闇の中でも鮮やかに目立つ。それを隠すための布は巻いているだけだからすぐに落ちてしまって、ミズサはため息をついてその布を手に取った。
 とたんにはらりと解け、銀糸がきらきらと輝く。まるで月の光がそこに留まったようにきらめく様に、ミズサ自身も驚いた。
 そんなに丁寧に手当をしているわけではないのに。この髪は、いつまでも艶を失わない。布を持つ手も、すぐに日焼けの色が抜けてしまう。
 いつまでもいつまでも、汚れることなど許さないとばかりに、ミズサの体は元の色を失わなかった。
 もう不必要な物ばかりが、いつまでも残る。
 苦笑を浮かべたミズサの空色の瞳が、尾根近くの少し窪んだ部分を見つけた。
 もしかして……あれが?
 この山を登り始める前、麓の村で教えられた場所だろうか?
 この山は、岩と岩の透き間を縫うように幾つもの洞窟があって、それが中で迷路のように繋がっている。だが、どこの穴も繋がっている訳でなくて、出入り口になる穴は限られているのだ。
 そんな複雑な洞窟の、出入り口ではないかと目されているのが、あの場所にある洞穴だった。
 洞窟の中には水もあって、隠れ住むには困らない。
 そんな情報を得ていたミズサは、自分の目的地が違うことなくあそこだと判断した。



 どうにか呼吸を整えて、まだ怠い体を叱咤して登り始める。
 かろうじて見えた洞窟の入り口は、けれどなかなか近付かない。この溜まりまくった疲労感は、今までの行程の疲れだけでなく、前夜にダマスにさんざん犯されたからだ。そうでなければ、もう少し進めているだろうけれど。
 また、心臓が──。
 せっかく休めたのに、また心臓が悲鳴を上げ始めた。休んだつもりでも回復しきれない筋肉が無駄な力を使い、必要以上に酸素を体が欲している。それに、意識しても解せない緊張も大きい。
 深呼吸を繰り返し、息を整えて。
 平静でいたいと願うのに、生まれて始めて、というほどに強く張った緊張の糸は、なかなか緩まなかった。
 いつもは、ただ流されていて、それが普通だと思っていたのに。
 ラカン国軍が攻めてきて、城に侵入してきた時も。レイメイに引き渡された時も。あの部隊に連れて行かれた時も。
 受け入れるしか無いのだと、受け入れて当然だと、思っていたから、ここまで緊張することはなかった。
 それは、やらなければならない、という始めてとも言える決意の元にいるからだろう。
『生きたくないというのなら、死ぬ機会を与えてやろう』
 強くなれば──という条件付きの言葉を、信じてはいなかったけれど。
『任務完了後が約束を果たすべき時』
 たったそれだけの言葉しか書かれていないミズサ宛の手紙は、この山の麓で受け取った。その端的な内容の意味は、周りの誰も意味がわからないようだったが、ミズサにははっきりとわかった。
「レイメイ……様」
 あの時、堪らず呟いたミズサに、傍らのダマスが訝しげに顔をしかめた。
「何だ?」
 問われても答えられずにいれば、ますますダマスは不機嫌になって、ギリギリと歯が軋む音まで聞こえてきた。それでも何も答えなかったら、そのまま押し倒されそうになったけれど、幸いなことに時間が無くて。
 皆と別れて山に登り始めて、ようやくここまで辿り着いたのだった。



 糸のように細い三日月の夜に、道無き道を登り続けることはたいそう神経を使う作業で、だからこそひどく緊張していて。
 その張り詰めた糸が緩まないもう一つの理由をひしひしと感じるからこそ、さっきから浅い呼吸しかできない。
 息を整えながら、ゆっくりと上がり続ける。
 ゆっくりでも、着実に進んでいるから、目標である洞窟の入り口は後少しだ。
 制止の声に硬直した体が、それでも鍛えられた反射神経のおかげですぐに動いた。勢いよく振り返り、突きつけられた何かから逃れようとするけれど、何かをしようとする間もなく首に食い込みそうな程に冷たい感触が触れた。
 同時に、背筋に這い上がったのは激しい悪寒だ。
「っ!!」
 それだけで息の根が止まりそうな激しい殺意は、その切っ先からも流れ込んできて、ミズサを縛る。
 ほんの僅かでも動けば、殺される。痛みよりその殺意の方がよっぽど背筋が凍り付きそうに冷たい。
 冷たい刃先から加わる圧力に、ミズサは為す術もなく腰を落とした。ちらりと視線をやれば、使い込まれた山刀とそれを握る厳つい指が見えた。
「こんなところに何の用だい、お嬢ちゃん」
 嫌みな言葉とともに覗き込んできたのは、指と同じく厳つい形相のひどく体格の良い男だった。年は壮年の域に入ったばかりくらい。北方の蛮族の血が入っているのだろうか、やたらに髭が濃くて、背も高く横にも大きかった。鍛え抜かれたであろう腕は小山のようだ。
 暗いせいだけでなく感情を読ませぬ瞳がミズサを捕らえている。殺気はまるで網のようにミズサを絡め取り、身動ぎすら許さなかった。
「へぇ……」
 感情の籠もらない声音が聞こえた。途端に、激しい殺意が一瞬掻き消える。
 縛られていたような殺意が消えたことで、ようやく息が吐けたミズサの頭上から、嘲笑を含んだ声音が落ちた。
「銀色、だな、その印は性奴隷か」
 ぎくりと震えた体は、それが正解だと教えたようなもの。慌てて俯こうとしたが、刃がそれをさせない。
 この闇の中、乱れた前髪の間にあった印を、一瞬で見抜かれるとは思わなかった。
「逃げ出してきたのか──なかなか鍛えているようだが」
 舐めるような視線が、ミズサの肌を這う。まるで犯されているかのような不快な刺激に逃れるように体を縮めた。
「銀髪のお嬢ちゃんが来るようなところじゃないけどねぇ」
 腕が伸びてきて、額に落ちていた髪を払う。男も緊張感が消えたのか、ふざけた物言いで言い放つ。それでも、視線は強く、動きに隙はなかった。
 髪の合間で十分に見えたのだろう額の印に触れてきて、楽しそうに笑みを浮かべている。
「やはり、本物」
 レイメイが選んだ印はあまり大きくなくて、普段は前髪に隠れているけれど、その前髪を払われてしまえば隠しようもない。太い親指の腹がなぞる場所に確かにある額の印は白い肌にくっきりと浮かび上がって、男にミズサの正体を知らせていた。
 銀の髪に白い肌。
 別の男が持ってきたロウソクが灯されれば、空色の瞳に朱色の炎がゆらゆらと揺らめく。
「モノホンの純血の性奴隷だ、こりゃ、高く売れる」
 歓喜の声音に、ミズサは小さく喉を鳴らした。
 リジンの貴族出身の性奴隷は、基本的に、ラカン以外にはいない。最近では逃げ出したり盗まれたりした性奴隷が、ラカン国外でたいそう高額な取引で売り買いされていることもあるが、大多数はラカン国内にいるのだ。そのせいか、銀の髪を持つだけの混血の子供が人飼いに攫われて、純血だと偽って奴隷にされる事態も起こっていた。それを憂えたラカン国は取り締まりを強化しているところではあるけれど。
 特に悪質な奴隷商はなかなか尻尾を掴ませない。
 時折尻尾を捕まえそうになることもあるけれど、それでも盗賊団や山賊も兼ねている奴隷商は、逃げ足が速く、しかも強い。
 今ミズサを捕まえている男も、先ほどの言動からそんな奴隷商の一人であることは間違いなかった。
 そんな奴隷商が、貴重なリジンの正真正銘の性奴隷を簡単に逃がすような真似はしないだろう。性奴隷の証を見られて、今更違うと言えるはずも無い。
 ぺたりと座り込み、絶望に色を無くすミズサの肌はひどく白く、純血のみが持ちうる肌理の細かい肌は闇夜にも鮮やかに映えている。
「……俺は……」
 それでも違うと慌てて首を振ろうとして、けれど、チリッとした痛みにその存在を思い出した。
「お嬢ちゃんの玉の肌が傷つくぜ。自分で商品価値を下げんじゃねぇよ」
 どう見ても男にしか見えないミズサにふざけた物言いで諭す男は、だが、その声音はドスが利いていて、有無を言わせぬ迫力があった。
「お嬢ちゃんが下手なことをして、それで価値が下がったら、その分別のことで稼いでもらうぜ」
 それが何を意味するのか、ミズサにはまったく判らない。判らないけれど、良くないことなのは確かだ。
 そんな二人の周りに、男の手下らしい男達がわらわらと集まってきた。
「逃げてきたんすかね?」
「お上品なお貴族様に飼われて嫌気がさしたってとこだろ。純血の性奴隷ってのは、上品に扱われると欲求不満で狂うっていうぜ」
「ってことは、もっと酷く扱われてぇってことっすねっ!」
 手下達のイヤらしい舌舐めずりに、ミズサはたまらずに首を振った。
「ちが……。イヤだから、逃げたんだっ」
 だが、そんな仕草すら男達は揶揄する。
「イヤよ、イヤよも好きなうちってな」
「そうそう、嫌々言っている奴に限って腰をふりたくって誘いやがる」
「お嬢ちゃんもたいそう淫乱と見たね。こりゃあ、楽しみだ」
「ほんとかよ、へぇ、逃げ出したか性奴隷か……お頭、味見させてくれるんですかい?」
「せっかく逃げ出したのにねえ……。まあ、俺たちが、ちゃんと新しいご主人様を見つけてやるよ」
 ミズサを眺める男達の視線は、どれもが卑猥な欲望を色濃く含んでいた。

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