その日、飯島幹人(いいじまみきと)は暇だった。
 暇だと言っても一日家にいるわけではない。金曜日だから、ちゃんと仕事をしてきている。ただ退社後のデートがドタキャンされて、何もかもやる気を失ってしまったというだけだ。
 その後、を期待していたとはっきり言うのもはばかられるが、それでもデート自体も久しぶりだったのだ。しかも夜を共に過ごすとなると、さらに久しぶりで、期待はかなり膨らんでいた。
 それがいきなりなくなった。
「ん?、ど?しようかなあ」

 古ぼけたワンルームに寝っ転がれば、見えるのはすすけた天井ばかりだ。
 年度末のせいで幹人の部署の忙しさは半端ではなかった。それがようやく終わって、こんな時間に家にいることができたのは久しぶりだった。そのあまりの珍しい時間帯に、今度は何をしていいか判らない。というより何もやる気が起きない。
 それだけ期待が大きかったのだ。
「そりゃ、しょうがないのは判ってるけどなあ」
 どたキャンは仕方がなかった。聞いた時には、しようがないとすぐに諦めることができた。けれど、実際にはこの体たらくだ。
 そんな怠惰な時を過ごす幹人の脳裏に、「めんどくせーーっ!」と荒々しく吐き捨てた上司にして恋人の神尾竜城(かみおたつき)の姿が甦る。
 接待用にと着替えたスーツは、目立たないまでも実はセミオーダーでしつらえたものだ。竜城のすらりとした肢体を際だたせ、もとより姿勢の良さとその上背が、さらに格好良く見せる。
 付き合う前からその姿には見惚れてしまうことがあったのだから、もともと男相手とつきあう素養はあったのかも知れない。もっとも、こういう関係になった今はその姿を不用意に見てしまうと、熱くなった顔を隠すのに一苦労してしまう。
 その傍目からみても凛々しい竜城が、仕事中は微塵も出さない言葉遣いで毒づいた時には、幹人も苦笑した。
「オヤジの相手なんかおもしろくねーのに」
 仮にも取引先の上役を称する言葉ではない。だが、それを聞いた幹人も、頭の中ではくそオヤジと思ったのだから、竜城のことは責められない。それもこれも、その直前に聞いたキャンセルの言葉のせいだ。
 機嫌は最悪の竜城が、その表情のままで取引先の前に出るとは思えない。けれども、幹人はつい口走っていた。
「その代わり、明日は。……俺と……」
 つい口をついて出たが、だんだんとその声音は弱くなる。
 辺りに誰もいないから良かったようなものの、よくもうまあこんな台詞を会社で言えたものだと、一人突っ込んでいたら。
 竜城が不意に片頬だけに笑みを浮かべた。
「ん??」
 そのどこか悪戯っぽさを臭わす表情に、幹人の上半身が仰け反るように動く。だが、それより先に竜城の足が幹人の足を絡め取った。
「あ、の……」
「そうだな。明日は楽しみだ、いろいろと」
 唇が触れあいそうな距離で囁かれ、体の熱が一気に上がっていく。誰もいないとはいえ、ここは会社で、傍の部屋では人の気配もする。それなのに、竜城は堪能するかのようにゆっくりと幹人の背に手を回して引き寄せる。
「しゅ、主任っ!」
「ミキ、今晩は暇だからって遊び歩くんじゃないよ」
「ん…」
 唇はまだ触れていない。なのに幹人の体の中心で快感が弾ける。快感に腰砕けになって、体がぐらりと傾いだ。竜城に支えられていなければ、床に崩れ落ちていただろう。
 どうして、と思うほどに、竜城の戯れは幹人の体を狂わせる。そして、竜城もそれが判ってするのだ。
 熱くなった体を持て余して荒い息を吐き出す幹人に、竜城が優しく囁きかける。
「フラフラせずに家に帰って大人しくしてろよ」
 抱えられた体が、壁に預けられた。
 もう時間なのだ、と時計を見る仕草に気付く。
 両足に意識を向けなければ、そこで簡単に崩れてしまったことだろう。けれど、幹人はそこで崩れなかった。それは男としてのプライドだ。ここでへたり込むのは、さすがに恥ずかしい。
「幹人は夜の灯りの中では官能的な匂いをさせる。その手の男を、誘蛾灯のように引き寄せる」
「そんなこと……」
 とんでもない言葉に、眉間にシワが寄った。
 だいたい未だかつて竜城以外に言い寄られたことはない。女装していた時ならともかく、と睨み上げれば、竜城の意外に真剣な瞳が向けられていた。
「もっとも夜でなくても、今の幹人はやりたくてうずうずしている感じだな。そんな顔、他人に見せるな」
 そう言いながらも、耳に息を吹き込むように囁かれた。それでなくても、意識して低く響くように囁かれて、下半身までもが甘く疼く。
 そのまま縋りたくなる己を必死で堪えた幹人は、なし崩しになるのを防ぐように目に力を込めて竜城を見上げた。
「そんな顔って……どういう顔ですか?」
「そんな顔だ」
 だが、竜城は平然と指先で幹人の頬を撫で上げる。
 産毛だけを逆立てるようなその触れ方に、肌が総毛立つ。
 見上げる幹人の瞳が虚ろに揺らぐのも、もたれる壁から僅かにずり落ちそうになったことも、竜城にはお見通しだろう。幹人にもそれが判るから、ただ奥歯を噛みしめることしかできない。
 体の芯が簡単に疼く。覚えたばかりの快感は、もう完全に幹人を支配していた。
 それなのに、竜城の体は時間だと離れていった。
「ああ、もう時間だ。じゃあ、さっさと帰れよ」
 仕事はすでに終わっているだろ?と、今までの甘い雰囲気など微塵も感じさせない程にその顔から笑顔が消えた。
 それは仕事中の竜城の姿だ。
 でなければ竜城の主任という地位であれば、役員が接待する上客相手の場に出さされることはないだろう。
 社長の覚えめでたい竜城だからこその接待への出席。
 笑顔が消え、しゃんと背筋を伸ばした竜城は、さっきの悪態を吐いていた姿はどこにもない。
 この切り替えの良さは、付き合いだして初めて知った一面だ。
 だからこそ、付き合うきっかけになった女装事件の時の竜城の態度は、幹人には戸惑いの方が大きかった。
 だが、そんな竜城はまだマシだ、と幹人は思う。そんなふうに竜城の隠れざる一面は実はいろいろあったけれど、その最たるものはやはり先ほどのような竜城だろう。よく言えば子供じみた茶目っ気がたっぷりということ。──いや、子供じみたという冠は、外した方がいいかも知れない。
 幹人に対するそれは、はっきりいって茶目っ気というよりサドっ気だと思う。
 何事もなかったかのように踵を返し去っていく竜城を幹人は恨めしそうに見つめた。さんざん煽られたせいで股間のモノはしっかりと猛っている。余裕のないスラックスは、背筋を伸ばして歩けば目立ってしまうだろう。何よりこれでは歩きづらい。
「さっさと帰れったって……」
 これでは萎えるまで休まないととてもじゃないけど帰れない。
 一番簡単な方法は、さっさと出してしまうに限るだろうが、実は前に勝手に出すなと言われている。あれは、あの場の冗談だろう──とは思ったけれど、何となく逆らえないままに来てしまった。
 そんなこともあって、竜城の愛撫に簡単に反応してしまったのだけれど。
 仕方なく休んで鎮める場所を求めて歩く幹人は、少しだけ前屈みになってしまっていた。

 
 そんな思い出に苦笑いをしながら浸っていた時だった。いきなり鳴りだした携帯にびくりと体が跳ねる。けれど、その単調な呼び出し音はアドレス帳に登録していない相手からかかってきた印だ。
 しかし、ワン切りかと思ったけれど、ずっと鳴り続けている。誰だ?と首を傾げ投げて、幹人は携帯に向かってごろんと一転がりした。手に取れば、画面に表示されている番号は全く記憶にないものだった。
 だが、逡巡したのも束の間、結局は携帯に出た。
 鳴らし続けるということは、用事があるのだということだ。もしかすると、誰かが携帯の番号が変わったのかも知れない。それに、鳴り続けさせるのもうるかった。
「はい?」
 常より低い声音で応対したのは不信感の表れだ。相手もどこか躊躇うような間合いがあった。そのせいで、双方が牽制しあい、結果無言が2?3秒続く。
 そして。
『滝本と申しますけど?』
 ひどくかしこまった声とその名に幹人の眉がピクリと跳ね上がる。
「滝本……?」
『幹人さん──ですか?』
「はい、もしかして?」
 知った名に、期待が膨らむ。携帯を通しているとはいえ、その声は知っている。思わず返した声音は、音程が変わっていた。それに気付いたのだろう、相手の声がもっと良く知った名を伝えた。
『私……優司だけど?』
「──優ちゃん?」
 つい確認するかのように問い直したけれど、その名は記憶を揺さぶって、間違いないと伝えてきた。あの地方の、東京とは違うイントネーションも懐かしさとともに耳に馴じんだ。
 間違いない、優ちゃんだ。
 昔から慣れ親しんだ呼びかけに、返ってきた返事は照れが混じった肯定だ。
 脳裏に浮かんだ懐かしい顔もやっぱり照れている仕草を見せてくれる。
 4年ぶりだろうか?
 懐かしい、しかも一番仲が良かった従兄弟だ。
『今、いい?』
「うん、大丈夫。それにしても、びっくり。よく携帯の番号判ったね」
 大学に入ってから、すっかり音信不通になっていた相手だ。いきなりの電話に、幹人もかなり驚いた。
『この前家で法事があった時にね、叔母さんが教えてくれて』
「母さんが?」
『うん。たまに出張で東京の方に行くからって言ったから、だよ。そしたら、機会があったら様子を見て来てくれって』
「はは、母さんの事だから押し付けたんだろ、携帯の番号?」
 頼まれたら嫌とは言えない優司の困っている顔が容易く脳裏に浮かぶ。
 実家から車で40分ほどの所にある従兄弟の家は、中学の頃までは長期の休みになると泊まりがけでよく遊びに行った。
 あの家の4人の従兄弟達の中では、三男の優司が一番仲が良かったのだ。
 確か7歳は違ったけれど、もっと年が近かった末の恵はすばしっこくて、近所の子とすぐに遊びに行ってしまい、上の2人はもう大人だった。
 その点、優司は優しくて、年下の幹人が退屈しないようにいつも構ってくれたものだった。
 だから幹人は優司が大好きだ。それは、今も変わらない。
「ってことは、もしかして今東京?」
『そうなんだ。それで今晩こっちで泊まりで……ちょっと暇で』
「あ、俺も暇?。どこ泊まってんの?ちょっと会えないかなあ?」
 懐かしさのせいか、幹人の口から自然に誘う言葉が出る。
 一体何年ぶりだろう。
 さっきまでの鬱な気分はあっと言う間にどこかに行ってしまって、逢った時の楽しみばかりが込み上げてきた。しかも。
『えっと、今いるのってS駅の近くなんだけど、どうかな?遠い?』
 遠慮がちな優司の声が教えてくれた地名は近い。何より、同じ沿線だった。
 そして。
「え、そこ……」
 竜城の家の近くなのだ。
 本当なら今日訪ねるために通っていたはずの駅の名に、知らずにごくりと喉がなった。隠し切れないその緊張感は、優司にも伝わったらしい。
『何?』
 と、訝しげな声が返って来て、幹人は咄嗟に首を振った。
「あ、いや、何でも……。でも優ちゃんも何でそんなとこ?」
 その辺りはどちらかと言えば住宅地で、出張に来た人が立ち寄るような場所ではない。
『あ、その……同僚の家……あって』
 今度は優司が口籠もっている。もっとも、幹人も突っ込まれたくないから素直に「ああ」と納得した。それに同僚の家に泊まるというのは、ホテル代を浮かすためによくあることだ。
「なんだ、じゃ、そこに泊まるんだ?」
『ん……ただ、その同僚が遅くなるって言ってきて。それでちょっと暇になって……』
「え?じゃ、締め出し?」
『あ、いや……そうでもないんだけど』
 妙に歯切れが悪い優司に、幹人も少しおかしいなと思ったけれど。
『だから、ちょっと時間が空いて。それで電話したんだ』
「だったら会えるじゃん。俺、そこならすぐに出て行けるけど?」
 せっかくの機会、逃すつもりはない。
『ほんとに?大丈夫?』
「そこ、駅前に居酒屋があるだろ?そこで会お!」
『あ、判る。あの駅前の?』
 駅前にはそこそこに飲食店があって、幹人も竜城に連れられて利用したことがあった。優司もそうなのか、一発で同じ店名を言い合う。
「んっ、そこで待ってて?今の時間なら、30分もかからないと思う」
『判った』
「じゃね、待っててよ」
 優司が勝手に行ってしまうような相手でないと判っていても、つい念を押してしまう。
 きっと優司は遅くなってもいつまでも待っていてくれるだろう。だが、彼を待たせるつもりはなかった。幹人は急いで出掛ける支度をすると、上がり框に座って靴を履く。久しぶりだという懐かしさ、楽しさ、嬉しさとどんどんと期待に胸が膨らんで、幹人は玄関の鍵もそこそこに勢いよく家を飛び出した。
2

 金曜日のせいか満席に近い居酒屋で、幹人は簡単に待ち人を見つけた。
 見つけた途端にその目を見開いたのは、予想外に昔のままだったからだ。柔らかなウエーブのある髪もほとんどスタイルは変わっていない。そして向けられた懐かしい笑顔に、幹人は懐かしく相手を呼んだ。
「優ちゃんっ、久しぶりっ」
 昔の呼び名は今では可愛すぎて嫌っているのを知っている。それでも大きめの声をかけたのは、からかってみたいと思ったから。
 そのもくろみはあたって、周囲の客達はちらちらと視線を動かし、優司の顔が硬直し、火を吹いたように顔を赤く染め上げた。
 そんな所も昔のままで、幹人の心を満足させる。
 ほ、んと、からかい甲斐があるなあ。
 昔、滝本家の末っ子の恵が、そんな事を言っていたのを思い出した。確かに優司はそういうところがあって、余計に面白かったというのもあった。
 くすくすと笑みを隠さずに優司の前に座ると、彼が顔を顰める。幹人の悪戯に気が付いた時の、いつもの表情だ。
「相変わらず……」
 その優司がため息を零す。それでも、無理に強張った筋肉を緩めて幹人にメニューを手渡してきた。
「なんか、優ちゃん見るといじめたくなるって言うか……」
 他の従兄弟達は少しでもからかえば、大なり小なり反撃があったけれど、優司にはそれがない。ただ、こんなふうに困惑の表情を浮かべるだけだった。
「昔っから幹人はそうだったもんな。こっちの方が年上なのにさ」
「あんまそんな感じなかったじゃん。優ちゃん、いっつも俺が遊ぶの付き合ってくれてたし。今日なんて、母さんに言われたからってわざわざ連絡くれるし。もう久しぶりだったからすっごい嬉しかったよ」
「まあ、暇、だったし……」
「俺も暇だった。今日は飲めるんだろ?」
「まあね」
「優ちゃんの方が早く大人になったから、悔しかったんだよなあ。優ちゃんは大人達の宴会に混じってるのに、俺には寝ろって邪険にされてさあ」
 集まった席で、優司はいつも大人の一員だった。
 遊ぶ時には、年齢なんて関係なかったのに。
 それが悔しかった。
「でも、私だって最近はそんなに帰っていないから……。幹人も法事には来なかっただろ」
「東京から帰るの大変だったし。何せまだ会社入って一年目だからさあ、給料少なくって」
「確かにね?。結構金かかるもんな」
 しみじみと思いを馳せるような遠い目をした優司がグラスに口を付けていた。何か切なる思いがあるのだろう。
 幹人はただ頷いて、手の中のチューハイを飲み干した。
 その飲みっぷりに優司が感心するように見詰めていた。
「結構酒飲めるんだ?」
「ん?、そうでもないけど。今ちょっと喉が渇いてて。まあ、優ちゃんよりは強いと思うけどね」
「いいね?、強いといいよなあって思うよ。会社いるとさ、接待なんかあるしね。飲まないのは失礼だったりするし」
 接待という言葉に、頭の片隅がちりっと反応する。けれどそれはすぐに消えた。何より今のこの時間が楽しいのだ。
「優ちゃんも少しは前より強くなったみたいだけど、確かにもう赤くなってるし」
 そういえば、優司の家系は酒にそんなに強くない。そこそこには飲めるのだが、眠くなるタイプが多くて、強いとは思わなかった父でも物足りなさそうにしていた。
 懐かしい……。
 またあんなふうに騒いでみたいモノだと思うけれど、今は揃うことすら難しいだろう。現に法事でも幹人は帰ることができなかったのだから。
 その代わりのように、いろんな事を聞きまくる。
「あのさ、みんなは?恵は?」
「恵は今わりと近くに住んでいて……」
 優司が教えてくれる従兄弟達の近況を懐かしみながら聞いていると、話題はどんどん過去に遡る。
 子供の頃の懐かしい思い出は、二人の共通のものだから幾らでも話が弾んだ。
 時に今の話になるけれど、会社勤めの苦労はどこでも同じで、結局愚痴になるのが嫌だった。だから、つい避けてしまう。
「優ちゃん、前に校庭で遊んでてねんざしたことあるじゃない?」
「あ?」
「歩けなくなって、俺も小さいからおぶえなくって──」
「ああ、思い出した。しょうがないから幹人に兄さん呼んできて貰ったんだ」
 あの時、智史兄さんを呼んできてくれ、って頼まれたのに、結局見つからなくて誠二兄さんを呼んできて。
 帰る道すがら二人ともずっと文句を言われ続けた。
「誠二さんの背中でおんぶされた優ちゃんがずっと恨めしそうに俺睨んでて。なんかすっごく悪いことした気分になって」
「だってさ、よりによって誠二兄さんだぞ。恵よりずっと質が悪いんだから。とにかくしつこいんだもんな。あの後、随分長い間それで文句言われ続けた」
「でも、恵の方が意地悪かったじゃん」
「恵はさっぱりしてんの。あんなにいつまでも怒っていないし」
 確かにそうだった、と幹人も笑う。
 滝本家の四人は、兄弟それぞれに個性があって、付き合い方を間違えるとなかなか大変だった。そうしてみるとやっぱり優司が一番付き合やい。
「やっぱ、俺優ちゃんが一番いいと思うよ。あの中では」
「ハハ、どうも」
 優司もそこそこにアルコールが入って、普段より陽気に反応しているようだ。よく笑い、よく話す。幹人の問いにもいろいろと答えてくれた。
 ただ、何度か聞きたくなった今現在の恋人の話はどうしても聞けなかった。聞けば絶対に問い返される。そうすれば答えられないのは幹人の方だ。
 それもあってか、会話は微妙にその辺りを外していた。
 優司もそういう問いかけはしないので、幹人も作り話をしなくて済む。
 そうして気が付けば、幹人の前にチューハイのグラスがかなり並んでいた。
「なんか一杯飲んだみたい……」
「そうだね」
 そういう優司も真っ赤だ。
 そういえばあまり食べていないのに、いきなり飲んだような気がする、と今頃気がついた。少し体を動かして見ると、目の前が揺れる。
 そろそろ限界かも知れないと時計を見れば、もう最終電車の時間が来ようとしていた。
「あれ?、もうこんな時間」
「あ、ほんとだ」
 幹人の腕時計を優司も覗き込む。
 触れあう髪が頬をくすぐって、無邪気に幹人も優司も肩を震わせた。そんな自分たちに気づいて、また笑う。
「逢ったのも遅かったもんな?、残念。な、優ちゃん、ちょくちょくこっちに来るの?」
「こっち?う?ん……2、3ヶ月に一回あるかないか……かな?こっちに来る時はたいてい前泊、後泊かするけど」
「だったら、また来る時電話してよ。今度は東京駅まで迎えに行くって。あ、羽田からだったら、新宿方面だっけ?」
「最近はたいてい飛行機使う」
「どっちでもいいや、電話してよね」
「うん……いっつもは無理かも知れないけどね」
「ん、構わないからっ」
 楽しい時というのはどうしてこんなにも時間が経つのが早いのだろう。
 会計もこういう時だけ空いていてあっという間に終わってしまう。
「優ちゃんは、今日は友達んちに泊まるの?俺のとこ来ればいいのに」
 だって寂しい。
 賑やかな喧噪の場から外に出れば、急に静かさが身に染みて来た。
 ちょうど電車が着いたのか、近くの駅から人が溢れ出ている。だけど、皆一様に疲れ切った顔をしていて、話し声もまばらだ。
 だからだろうか。
 余計に寂しさが込み上げる。
 楽しかったからこそ、懐かしい相手だからこそ、こんなところで別れるのは嫌だと思う。
 なのに。
「……でも、その人と約束してるから……」
 優司が困ったように顔を歪めて返してきた。
「だってさ、もっと話がしたいよ」
 優司の態度にちょっと悔しさが込み上げて、幹人はその腕に縋った。昔なら、友達が遊びに来ても幹人の相手をしてくれたというのに。それに、こんな短時間では積もる話は尽きない。
 喰い縋る幹人に、優司も困惑しながらも、強くは拒絶しない。そういうところは、前のままで。
 もう少しだと、酔っていても計算して、言葉を選ぶ。
「だって……、次いつになるか判らないし……俺、優ちゃんと一緒にいたい」
 子供のようだと思いつつも、優司の態度がこっちに傾いていると思うと止められない。
 その腕に縋って、袖を強く引っ張る。
 完全に甘えるのはまだどこか羞恥心があって、それでも本気でしたらきっと優司は頷くしかできないという思いもあって。
 どうしよう、と幹人は逡巡した。
 だが。
「失礼だぞ。嫌がるのを無理強いするのは」
「え?」
 まるで降って湧いたような第三者の声に、優司が訝しげな視線を幹人の後方に向けた。
 ──まさか?
 背後からの呼びかけに顔は見えないのに、見ているようにその声の持ち主の表情が脳裏に浮かぶ。それは、怒っているもので、そのせいで幹人の体は一瞬で硬直した。
 そんな幹人に、優司の窺うような視線が背後と往復する。
「飯島?相手の方が困っておられるのに、無理を言ってはいけないよ。それでなくてもこんな時間なのに」
 腕を掴むその手の袖を反対側の手が引っ張って、そこから覗く時計を幹人に指し示す。
 ──どうしてこの人は、こうも意表をつく現れ方をするのだろう。
 激しい既視感に、幹人は声も出ない。
 そういえば、あの時もこの時計をしていた。
「あの?」
 優司の訝しげな問いかけに幹人はそれでも顔を上げた。だが、幹人が口にする前に、竜城の方が口を開く。
「ああ、すみません。私は飯島の上司で神尾と申します」
 その瞬間掴んでいた手が離れて、幹人の体からようやく力が抜けた。けれどほっと安堵する暇はない。慌てて振り向けば、竜城が優司に名刺を差し出すところだった。
 それは、こんな夜中でなければ何の違和感もない光景。だが、どこか空気が張り詰めていて、しかもその発信源は竜城の方だ。
「あ、ご丁寧にすみません」
 対する優司は、さすがにこんなところで、とは思った様子は感じられたが、その割にはごく普通に内ポケットから名刺入れを引っ張り出した。
「私は、幹人の従兄弟で滝本と申します」
 その応対はどこかのんびりしたもので。
「従兄弟?ああ、こちらの会社は存じております。今日はご出張で?」
「はい。彼の母親に様子を見てきてくれと頼まれまして」
 頷きながら答えて、ちらりと幹人を見やった。
「会社の方なんだ?」
 笑って、幹人に問うてくる。
「あ、……うん……」
 その言葉に嘘はない。
 なのに背筋に冷や汗が流れるのはなんでだろう?
「そうなんです」
と、一見穏やかに話をする竜城。けれどそれは決して、見た目通りではない。笑みをたたえたその目が、探るようになっている。
 しかも、竜城は確かに怒っていた。それも幹人に対してだ。
 離されたと思った腕が、また掴まれた。その痛みがそれを教えてくれる。
 瞬く間に冷める酔い。
 優司がそれには気付いているのかどうか判らない。のほほんとした空気は変わらないけれど。
「それでは、またご縁があれば。飯島、何をぼさっとしているんだ?」
 何とか口を挟もうとした瞬間、にこりと笑う竜城が優司に別れを告げる。
 ──げっ!
 ちょっと待ってっ!と止める暇は無い。
「はい、いつかまた。じゃあ、またこっちに来ることがあったら電話するよ」
 やっぱり気付いていないのか、にこやかな優司の返事になぜだか絶望的になる。
 置いて行かないで。
 と、切に思ったが、結局口には出せなかった。
「それでは失礼します。じゃな、幹人」
「あ、う、うん。またね」
 なんとか、別れだけは言えたが、笑いかける顔が引きつりそうになった。
 友人の家はこの駅の近くだと言っていた通り、優司の足は駅とは反対の方に向かっていく。
 ついて行きたい……。
 あっという間に見えなくなった背を、幹人はいつまでも目で追っていた。が──。
「さて」
 何げなくかけられた声にびくりと背筋が伸びる。
 その声が先より怖いと思うのは、1オクターブは低くなっているせいだ。
 幹人を捕らえた竜城の腕がぐいと引かれ、ふらりとよろけた体は、逆らう間もなく竜城の腕の中だ。
「飲み過ぎたのか?俺の家に来て休め」
「お、俺……」
 酔っ払いの介抱をしている態勢に見えるのだろう。まばらになった通行人は、二人に見向きもしない。
 寄り添って体を支えられ、竜城の顔が覗き込んできているというのに。そして、耳元で囁く唇が微かに触れる。途端に肌がざわめき、飢えていた体が瞬く間に熱を上げた。
「た、竜城……さっ」
「楽しそうだったな。俺にはあんなにも縋らないくせに」
「あれは!」
「俺が仕事で飲みたくもない酒を飲んでいたっていうのに、お前は、こんなところで浮気相手に楽しい酒か?」
 言葉と共に握られた場所がさらにきつくなる。その痛みは、幹人を怯えさせるのには十分なほどで、しかもその痛みのせいで逃れようとする力も萎えた。
 酔いの覚めた顔を上向かせれば、竜城の口元に酷薄な笑みが浮かんでいた。
「付き合いだしたばかりだって言うのに、もう浮気か?」
「ち、違うっ!!」
 従兄弟と会っていただけなのに。
 竜城も直接話をして、それを知っている筈なのに。
 下衆な勘ぐりをした竜城が信じられなくて、幹人は竜城を睨み付けた。

3

 店の前で押し問答するわけには行かないと、結局幹人は竜城の家にまで連れてこられた。
 竜城が部屋の鍵を開けて、ちらりと腕の中に取り込まれたままの幹人に言う。
「入りなさい」
 何度か訪れた場所。
 決して厭う場所ではないのに、幹人の足は思うようには動かない。戸惑いも露わに竜城を見上げれば、彼はずっと楽しそうに笑っていた。
 ここに帰ってくるでの間、幹人はずっと介抱されているように竜城に肩を抱えられていた。しかもその間、ずっと感じる場所を、竜城の手が弄んでいたのだ。
「あっ、や……」
 悪戯する手は何度押しのけても場所を変えて襲ってくる。
「それとも、ここでしたいのかい? おや、もうこんなになってる」
「う、あっ」
 そろりと触れられた股間はしっかりと固くなっていて、幹人は羞恥に頬を染めた。
「ここでしたい?」
 竜城の部屋の扉に押しつけられて、囁かれながら舌先が耳朶を舐め回す。
 走る快感に流されそうになったけれど、それだけは絶対に嫌だと、思いっきり首を振って拒絶した。
 扉が音を立てて閉まる。
 それを音だけでしか確認できなかった。鍵の閉まる音と壁に押しつけられたのが同時だったのだ。
「んくっ!」
 性急な竜城の動きに、息が詰まる。合わせられた唇に歯が食い込み、痛みに涙が滲んだ。
 意地悪だと思ったことはあったけれど、こんなふうに乱暴にされたことはない。奪われるようなキスは、されている幹人の呼吸を容易く奪って、あっと言う間に酸欠状態になる。
「んあっ、っく!」
 朦朧とし始めるその寸前、かろうじて隙を見つけて、許された呼吸を繰り返した。生への本能が何よりも酸素だけを欲して、押しつけられた手首の痛みなどまったく気にならない。
 全力疾走でもしたかのように幹人の息は乱れ、心臓はさっきから激しく鳴り響いた。
「ミキ、部屋で大人しくしていろ、と言った筈だが?」
 その声音に、ぞくりと背筋に走ったのは悪寒だ。
 怯えそのものの震えが、幹人を襲う。
 何か言われなければ、と思うのに、荒れた呼吸のせいで言葉を発することはできない。口を開けて息を吸っていたせいか乾ききった喉を癒すように何度も唾液を飲み込んだ。
 けれど、喋られるようになったからと言って何を言い訳すればいいというのだ?
 何とか思考回路も今の状況に追いついたが、こんな言いがかりでしかないそれに、幹人はどう対処していいか判らない。
 情けなく思いながらも、だがこのままではラチがあかないと、幹人は仕方なく顔を上げた。と──。
「な、んで?」
 苦しさのせいで涙が浮かんだ瞳には、竜城の表情が今ひとつはっきりしない。
 けれど、それでも判るのは、今竜城は笑っているということだ。
 どこか楽しげで、期待に満ちた目で見つめている。
 怒っていると思っていた。けれど。
「ミキがあんなにも甘えた仕草をするとは思わなかったな。随分と可愛く、どこぞの娼婦でもあんなふうに可愛くはねだれないだろうよ?」
 そんな蔑みの言葉に、幹人の顔が情けなく歪む。
 笑っているのに、責め苛む口調は変わらない。そのギャップに、対処できない。
「そんなつもりじゃないって……」
 何より、相手が誰かなんて竜城はその耳で聞いただろうに。
 そして、納得していたじゃないか!
「久しぶりで──ちょっとしか話ができなかったから──っ!」
 だから誘ったのだと、純粋に話をするために誘ったのだと言おうとした幹人の言葉が途中で止まる。
 幹人の言い訳など竜城の耳には入っていなかった。
 代わりに触れてきた指先が、幹人の大きく上下する喉をなぞる。そのせいでぞわりとした甘い痺れが神経を麻痺させた。
 自らの意志で睨み付けている筈なのに、頭が動かせなくなる。
 そんな幹人の様子に気付いて、竜城の笑みが深くなった。
 肌の上で指がゆっくりと動いて顎に至り、そして頬から唇へと移動して。
「あのまま首にでも縋り付いてキスでもするように見えたが?」
 下唇をやんわりと親指で押さえ込む。
 その性的な色合いの濃い触れ方に、幹人の体は勝手に熱くなって、反論は簡単に封じ込められた。何か言葉を返そうにも、荒い息が漏れるだけだ。
 それでも、かろうじて一言だけ呟いた。
「……従兄弟なのに」
「従兄弟でも男には違いないだろう?」
 ぐいっと下唇を強く押されれば、自然に口元が緩んだ。
 するりと入ってくるのは竜城の長い中指だ。
「くうっ……」
「まあ、従兄弟というだけあって彼も可愛い部類には違いなかったな。そんな可愛い二人が程よい酔いに頬を染めてじゃれ合っている姿。──そのまま幹人だけを連れ去りたい衝動を堪えた俺を誉めて欲しいね」
「う…あっ……」
 指先が歯列を辿り、頬の内側を探る。
 苦しさに舌で押しだそうとしても指の力の方が強く、逃れる間もなくもう一本の指の侵入を許してしまった。その指達に、舌は難無く捕らえられる。
「あぁ……」
 引っ張り出された舌を、竜城がじっとりと観察して。
「ミキが喋るたびに白い歯から見えるこの舌が、どんなに男の劣情を誘うか知っているのか?」
「へっ?」
「前に行ったバーでミキが舌なめずりをした時に、周りの男達が色めき立ったんだよ。ミキは気付いていなかったが」
 そんな事言われても。
 そんな事普通気にしない。男相手に欲情されるなんて。
 だが、見上げる竜城の視線はこの時ばかりは真剣そのもので、嘘でないのだと知れる。
 自分が男にもてるなど考えたこともなかった幹人には、信じられはしなかったけれど。
「この舌……しかも敏感なんだよな」
 顔が近づく。
 思わず逃れようとしたけれど、舌先はしっかりと掴まれたまま逃げようもない。乾いた舌を潤そうというのか、口内に唾液が溢れ始め、それが口の端から漏れ始めた。
「ミキの体はとても敏感で……。抱かれる姿もその声も、ミキが思っている以上に淫猥で男の欲情をそそるんだよ。自覚して欲しいね。ミキは可愛すぎるんだ。立っているだけで男を誘う……」
「ううっ!」
 ぺろりと舐められた舌先から、電流と呼べるほど激しい痺れが走った。
 がくりと膝が砕けたのに、壁に押しつけられているから崩れることもできない。そんな幹人の舌先を、突きながら舐め尽くしていく。そのたびに走る痺れに、もう立っているのもきつい。
 唇も触れあわない、キスもどきをされているだけなのに、幹人の股間は完全に猛っていた。
 ジーンズの布地が食い込んで痛い。
 解放されたいと欲求する体は、だが、幹人の意志では思うようにならないのだ。
「んあ……」
 閉じれない口から、喘ぎ声が勝手に零れる。
「ミキ、今日は久しぶりだから思う存分させて貰うよ。覚悟しな」
 言葉を理解する前に、頭の中が真っ白になる。
 ようやく体が離されて、幹人は竜城を見つめたままずるずると床に崩れ落ちていった。
 弛緩して身動きができない幹人の体から衣服が全て剥ぎ取られる。
 あがりかまちという場所で薄明かりの中、幹人の白い裸体が浮かび上がっていた。
 無造作に投げ出された四肢になんとか力を込めて、立ちあがろうしたけれど、その寸前竜城に抱え上げられる。
「うわっ」
 浮遊感に竜城の首に縋り付けば、くつくつと声もなく笑われて、羞恥に顔が熱くなった。
 しかも、抱え上げられたその姿勢だと幹人自身のものが所在なげに揺れているのが目にはいるのだ。しかも、それはもう先端が濡れていて。
 かあっと熱くなった体が、せめて視線から外れようと無為に藻掻く。けれど、抱きかかえられている今は、そんなことは抵抗にもならなかった。
「揺らして誘っているのか?」
 卑猥な言葉には首を振ったけれど。羞恥はさらに込み上げる。
 そんな幹人の体はベッドについた途端、放り投げられるように落とされた。その衝撃に目を瞑り、次に開けた時には壁に背を向けて横向きに転がっていた。
「足を開いてごらん。もっと見たい」
「や……だ……」
 怖かった。
 今までこんなふうに雑に扱われたことはなかった。いつだって竜城は強引ではあったけれど優しかった。
「足を開くんだ」
 ますます足を固く閉じてしまった幹人に、竜城が舌打ちをする。手が伸びて、幹人の膝頭を強く掴んだ。
「いっ!」
 関節のくぼみにかけられた指が痛い。
 顰めた顔は、だが、竜城の「足を開けって言ってるだけだ。それとも開かれたいのか?」という言葉に、泣きそうな表情へと変化した。
 掴まれた痛みもまだある。
「た……つき、さん……」
「ミキ、言うことを聞くんだ」
 そこに反論など挟む余地はなかった。
 幹人は意を決して両の膝に入れていた力を抜いた。
 ゆっくりとだが、股間が露わになる。
「素直なミキは可愛いな。今日は逆らうな。逆らわないでいるなら、優しくしてやろう」
 それにはこくりと頷くしかなかった。
 もう逆らう気力などない。ただ、羞恥に視線を合わすことはできなかった。

4

 従うと、思った途端に楽になった。竜城に流されるだけでいい。竜城が望む言葉を口にして、求められる姿勢を取る。そうすれば、竜城は望む物を幹人にくれた。
 流されるのは楽だ。
 強引なようで、竜城は幹人を巧みに快感の渦に引き込んでくれるのだから。
 しかも幹人が乞うその願いも竜城の意に沿うものであれば、必要以上に与えてくれた。
 そう、必要以上に。
「あ……や、んんっ……はあっ」
 下から突き上げられて、その衝撃で体内の空気が口から吐き出される。
 散々焦らされ体にようやくもたらされた熱い楔は、久しぶりだというのに痛みを感じさせなかった。それまでに、指で散々解されていたせいもあるだろうが、何より幹人の体がそれを欲していた。
「も……もっとぉ!」
 自らの体重と竜城の突き上げに、深い位置をえぐられる。
 とたんに視界が弾ける。
 のけぞる上半身を竜城の腕が支え、今度はゆるくつかれる。
 だが、今度はそれが物足りない。
「やぁ……竜城さっ、もっと、ほしっ」
「どこに欲しいって?」
 意地悪げな物言いに気付いて、幹人はうつろな視線を竜城に向けた。
 嗤っている。それは判るのだけど……。
「もっと……奥……つ……強く、ほし……」
 ゆるゆるとした軽い突き上げは嫌だった。うずうずと体の芯から込み上げるむず痒さにも似た疼きが、物足りなくて堪らない。あとほんの少し強くして貰えれば、もっと気持ちよくなれる。
 その思いが体を自然に動かせ、僅かな快感も逃さない。
 どうしてこんなにも気持ち良いのだろう?
 ふわりと浮かんだ疑問は、煽るような刺激に消えて行く。
 ──もっと……。
 体が熱い。
 さっきのように、深く、激しく突いて欲しい。
 言葉で、目で──そして、延ばした手で竜城の首を捕らえながら願う。
 竜城が欲しい。
 自ら深く口付けようとする幹人の瞳に浮かぶのは、情欲の色だけだ。
「たつ……き、お、ねが……」
 理性の飛んだ瞳が竜城を映す。
 その瞳に、竜城が満足げに頷いた。
 そして。
「ミキにそんなに強請られちゃ、俺も我慢なんてしてられないな」
 ニヤリと嗤った竜城が、幹人の上半身を引っ張る。
 倒れた体を抱られ、不審に思う間もなく視界が反転した。
「まだ始まったばかりだって言うのに、こんなにも乱れて……。まだ夜は長いんだよ?」
 含み笑いすらある言葉が、幹人の体をさらに熱くする。
「だって……」
 大人になってからこんなふうに甘えるなんてできないと思っていた。けれど。
「だって、イイぃ……」
 離れようとする体に縋り付いて、熱い吐息を漏らす。
 竜城が好きだ。
 どんなに意地悪なことを言われても、あの日、あの時から幹人はもう完全に竜城に捕らわれている。
 幹人が優司に甘えたせいで怒るというのなら、もっと竜城に甘えてみせることくらい訳はない。幹人の体が──心が、勝手に動く。
「ほんと……だから……。おねが……」
「ほんとに、ミキは……。淫乱で……。こんな嬉しい誤算はない」
「誤算?」
「ああ、誤算だ。ミキを落とすのは難しいと思ってたんだ。どんなに可愛くたってノーマルだしな。けど、こんなにも俺と相性がいい体を持っているんだ。お前を俺の虜にするのは、こんなにも容易い」
「んっ……」
 降りてきた唇が、深く合わせられる。
 肉厚な舌が、意外にも繊細な動きを見せて、歯列をまさぐった。
「ミキ、今日は思いっきりやるぞ」
 嬉しそうな竜城の言葉に、幹人はただ虚ろに頷いた。
 熱い体に穿たれた楔は、確実に幹人のイイ所を突き上げる。
 何度吐き出しても、竜城のそれは萎えることなく、幹人を快楽の地獄へと送り込んだ。
 どうして、こんなに……。
 揺れる体を停めることはもうできない。
 ただ揺さぶられて、それを甘受するしかないのだ。
 竜城も幹人も同じ仕事場で、彼がずっと机についてする仕事だと言うことも知っている。なのに、この体力は一体どこに秘めていたのだろう。
「ミキ……。どこがいいのか言ってご覧?でないとこのままだよ?」
 数度目の交わりで、竜城も満足したのかその突き上げは緩い。ゆっくりと戯れのように体を動かしている。
 だが、それは幹人にとって、我慢できるモノではなかった。
 体はいい加減辛くなっていたが、快感は堪えることなく襲ってくる。緩い刺激はさらなる刺激を体に要求させるものでしかない。
「あ、……そこ……」
「そこじゃ判らないよ?」
 かろうじて呟いた言葉に、竜城はわざとらしく別の場所を突き上げた。
「やあ……もっと奥だよぉ……」
 獣のように四つんばいになって、後ろから竜城のモノを受け入れて。
 感じる場所を必死になって教える。
 だけど竜城はなかなかその場所を突いてくれなくて、幹人は誘うように腰を動かした。
「淫乱」
「ちがぁうぅ……ああっ」
「違わない。ミキは淫乱だよ。これがいいんだろう?」
 卑猥な言葉を何度も浴びせられ、拒絶する言葉にはもう力はない。ただ、無意識のうちに否定するだけだ。心の奥底では、自らが淫乱だと自覚している。
 淫乱だから、それで、竜城が悦んでくれるなら──こんなにも嬉しい。
 湧き上がる悦びに、体は一気に高ぶっていった。
 竜城の『思いっきり』という言葉には、半端なことでは頷いてはいけない。
 幹人は、身動きもままならないほどに疲れきった体を持て余しながら考えていた。
 視線の先にある指先は、ピクリとも動かない。
 カーテンから零れる明るい日差しは、少なくとも朝方と呼べる時間では無いことを教えてくれた。いい加減起きたいと思うのだけど、それができないのだ。 
 一緒にいた筈の竜城の姿はもうベッドにはなかった。
 困ったなあ……。
 肌はさっぱりしているから、寝込んだ後に竜城が綺麗にしてくれたのだろう、とは思う。
 意識がある時にされると恥ずかしさは、している時の比ではない。
 こんなふうにまめな優しさは見せてくれるのだけど。
「う、ん……」
 動かそうとして、背筋に痛みが走った。腰も足も、筋肉が痙攣する。
 ──どうしよう……。
 さすがに焦りが生まれて、ここにいない人間を捜そうと目が動く。
「た、つき、さん?」
 別の部屋かと声を出せば、喉が風邪の初期症状のように痛んだ。掠れた声はひどくか細くて、隣の部屋まで届くようには思えない。しようがなく、幹人はもう一度呼ぼうとした。
 が──。
 口を開いた途端に、隣室を隔てるドアが開いた。
「起きたか?」
 そこにはほぼ一晩中幹人を抱いていたとは思えないほど、元気そうな竜城がいて。
「あ、れ……その、格好は……?」
 白いシャツにネクタイを締めながら、竜城はその問いかけに苦笑を浮かべた。
「仕事なんだ。昨日の接待で、あのオヤジがいらんこと言ってくれてなあ。ちょっと今日中に準備しとかなきゃならん」
「仕事?」
 その単語に慌てて体を起こそうとしたけれど、幹人の体はひくりと強張った。それ以上は痛い。
 腰も背もお腹もお尻も太股も。
 これでもかっというくらいに痛い、その痛みは筋肉痛だけではない。
「あっ、ぁぁ」
 元のように横たわることもできなくて、蒼白になって手をついたまま震えていると、竜城が手を添えてくれた。
「大人しくしていなさい。ちょっと無理しすぎたかなあ、あんまりミキが可愛いから」
 ふわりと横たえられて、手の平が額に触れる。
「熱はないようだけど、まあ寝ていなさい。痛み止め飲んでおけば、効いてきたら動けるくらいにはなるだろう。すまんな、ちょっとやりすぎた」
 ちょっと処ではないと思うけれど。
 幹人の視線に、竜城はあやすように髪を梳いた。
「まあ若いしねえ、ミキもすぐ慣れるって」
「慣れるっ……」
「ホントは慣れるまでゆっくりとするつもりだったんだけど、昨日はちょっと我慢がきかなくなっちゃってね。しかも、責めれば責めるほどミキは可愛く強請ってくれるし。最高だった」
 口付ける音が額でする。
 それにしても。
「竜城……さん、体……大丈夫なんですか?」
 攻める側の方が負担は少ないのかも知れない。けれど、今の竜城は何もせずに寝て疲れも何も無いような顔をしている。
「別に。これでも体力はあるからねえ。ミキももう少し体力つけた方がいいよ。毎回こうだと、次の日が休みじゃないと絶対にできないし。それに、そんなことで休みをつぶすのももったいないだろ?」
「え、あ……」
 ということは、毎回こんなにも攻められるというのだろうか?
 さあっと退いた血の気に、竜城は気が付いたのか。
「まあ、今度する時はもう少しセーブしようかな」
 壊したら大変だから。
 耳元で囁かれた言葉に絶句して、幹人は力尽きたようにベッドに体を沈めた。
【了】