携帯電話

携帯電話

『電話して タツ』
 そんなメールが幹人の携帯に入ったのは、連日連夜の残業で思考能力が低下している時だった。
 労働基準監督署のお達しを遵守しようとしてくれる会社のお陰で、幹人はサービス残業というものは経験したことがない。
 そのせいで、幹人の先月の給与は過去最高を記録した。
 そして、今月はさらにその上を行くだろう。
 だがここまで来ると、残業代より休みをくれっ、と言いたいところだが、新米の幹人ではどうしようもなかった。何せ、この課の主任である竜城がそうそうに諦めている位なのだ。
『締め日が過ぎたら、マシになるよ』
 ぼやく幹人に、竜城が耳元で優しく囁いたのはいつのことだったろう。
 手の中で携帯を弄びながら、幹人は音にならないため息を吐いた。
 年度末の決算締め日。
 ようやく辿り着いたその日、昼間に最大の修羅場を越えて、今はもう少しだけ和らいだ雰囲気が流れている。
 それでも、残業しなくてはならないほどの仕事はあるし、明日もあさっても──後一週間くらいは残業が続くだろう。
 ただ、せっぱ詰まった感がなくなるだけで。
「入力者チェックはっ!」
「今のところ60%ですっ」
 日報担当者が、逐次吐き出されるプリンタ用紙を確認している声がして、幹人はふっと顔を上げた。
「工程の未完はないな」
「在庫確認終了」
 工場側が棚卸しの終了を宣言し、そっちの担当者からは安堵のため息が零れていた。
 こうして、少しずつ皆の顔に明るさが戻ってくる。
 忙しいのはイヤだが、この雰囲気は好きだと思う。
 幹人は手の中の携帯をぱたんと閉じて、ぐっと伸びをした。
 古い椅子が小さな音を立ててきしみ、体が揺らぐ。伸ばした背と腕が気持ちよく、新鮮な空気を欲してネクタイの結び目に指を入れた。
 ほんの少し緩んだだけでも解放された気分がして、その安堵感に大きく息を吐く。
「さて」
 今なら、少しぐらい抜けても大丈夫だろう。
 仕事も一段落は付いているし、何より上司である竜城からして今この場にいない。
 一体どこからメールをしてきたのかは判らないが、きっとどこかで待っているのだろう。
 竜城もかなり疲れていたな、と、ここ数日の様子を思い出す。
 誰よりも働いて一番疲れているだろうに、部下の健康の心配をしていた竜城。
 竜樹は仕事では厳しく、失敗でもすればとことんまで原因を追求させ反省を促す。問題を定義して、自分の力で解決してみろと突き放すこともある。
 それがイヤだという人間もいるけれど、幹人はそうは思わなかった。そのお陰で鍛えられているのだ。
 それに竜城は部下の失敗を自分の責任とも考える人だ。
 イヤな上司と好きな上司。
 そのどちらだと言えば、部下は皆、好きな上司だと言うだろう。
 携帯を手にしたまま、席を立って部屋を出る。
 一体何なんだろう?
 竜城の真意を測りながら、幹人は誰もいない場所を目指して歩いた。
 あの時──同窓会で罰ゲームで女装をしていた時。
 どこからともなく現れた竜城は幹人を拉致し、有無を言わせずホテルに連れ込んだ。
 途中何度も抗うチャンスはあったはずなのに、結局逆らえなかったのは、竜城に惹かれていたからに違いない。
 バレたくないという思いは、バレた後では、嫌われたくないというものになっていたから。
 だから、羞恥という抵抗はあったけれど、竜城の言われるがままに服を脱いでしまった。
 その後は、ずっと竜城に翻弄されて、気が付けば組み敷かれていて。
 何度も好きだと囁かれて──。
 流されるだけ流されて、気が付けば全裸で抱き合っていた。
 我に返った幹人がさすがに抗っても竜城は決して離そうとはせず、後はもう成されるがままだったのだ。
「……ん……」
 その時の事を思い出せば、体の奥が甘く疼く。
 こんな時に、とは思うが、あの後すぐに決算期に突入したものだから、二人きりで逢ったのはまだ片手で数えるほどしか。
 抱かれたのも、あの時も含めて三回だけ。
 最初は翻弄されっぱなしで過ぎて、二回目は緊張と羞恥で過ぎて、三回目は少しは慣れてきたかな、と思ったけれど、結局はただなされるがままで。
 仕事から離れた竜城は、幹人にはひどく優しい。
 巧みに幹人をリードして、快感の渦に導いてくれる。
 だけど。
 その事に思い至り、幹人の口の端が不意に奇妙に歪んだ。
 優しいけれど、仕事の時のような強引さも変わらない。
 最初の時のような強引さを、竜城は時折見せる。幹人が逆らえないようにしているような、そんな感じはある。
 優しいんだけどなあ……。
 何かがひっかかる。
 仕事の時の竜城を思い出すと、その三回の竜城にはそれでも少しだけ違和感があった。
 室内は熱気が篭もっていて熱い程だったが、通路はひんやりと冷気を伝えてくる。
 幹人はぶるりと身を震わせて、それでも足を止めることなく急いだ。
 行き先は、二つほど上の階のトイレだ。
 会議室と倉庫があるフロアは、今の時間は人気がない。
 多少長く閉じこもっていても邪魔にはならないし見咎める者もいない、と言ったのは、竜城だった。
 その時は何でそんな事を?と思ったのだけど、今はちょうど良かった。
 耳に押し当てた携帯から数度の呼び出し音が漏れる。
『はい』
 少し押し殺した声に、幹人は何故か胸が高鳴った。
「あ、あの」
『ミキ?』
「は、い」
 二人きりの時だけの呼び名に、向こうも誰もいないのだと推測する。
『抜けられたようだな』
 くすりと笑う真意は何だろう?
 会話が始まったばかりだというのに、幹人の手の平はじっとりと汗ばんでいた。
「はい、あの、何か?」
『つれないね、俺はミキとゆっくり話をしたかっただけなんだ。ここんところ、ゆっくりとできてなかったらなあ』
「はあ」
『気分転換にミキの声が聞きたくなったんだ』
「あ……。でも、俺の声なんか」
『可愛いからなあ、ミキの声は』
 言われて羞恥に顔が熱くなる。
 女装した時でも、声を出せば一発で男と判る声だ。
 可愛いと言われる筋合いもない。
 返す言葉もなく黙っていると『ミキ?』と訝しげに返された。
「え、あ、あのですね……」
『黙っているとミキの可愛い声が聞けないな。なんか喋ってろよ』
 その声音に揶揄が含まれるとは気付いていたけれど。
「喋ろって……何を?」
 思わず問い返したら、くつくつと笑われた。
「あの?」
『ミキ、今、例のトイレだろ?』
「え、あ、はい?」
『誰もいないだろ?』
「はい」
 誰もいないと判っていても見渡して確認してしまう。
 一つだけある個室は、「空き」の表示が出ていた。
 そんな事をぼんやりと確認していると。
『じゃあさ、ミキの達く時の声が聞きたい……』
 耳朶に飛び込んできた言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
「え?」
 間抜けにもそんな返答をして。
『ミキが一番可愛い声を出すのは、達く時の声だって思うわけよ、俺は。だから、それが聞きたいんだ』
「う、あっ、達く時って──っ!」
『そう達く時』
 再度の竜城の言葉を、聞き間違えようはなかった。
 明るいハイテンションといえる声音に、期待が見え隠れしている。
「で、でもっ、ここはっ」
 会社で。
『誰もいないんだろ?だったら、できるよ。いつもはどうやってやってんだよ?』
 電話の向こうで笑う竜城が、先を促した。
 それに嫌々と首を振るけれど、拒絶の声が出ない。
 ドキドキと心臓が駆け足でもしたかのように鳴り響き、早くなった呼吸が荒い音を立てる。
『ミキはさ、達く瞬間ぎゅっと顔を顰めて、辛そうな顔をするよなあ。けど、それって感じすぎてあんな顔になるんだろ?声もね、いつもは男って声なのに、その時には掠れていい味を出してるんだ。その時の声が聞きたいよ』
 とんでもない要求だった。
 いくら人気がないからといって、会社でなんかできる筈がない。
 なのに。
『──ミキ?』
 甘い声が耳をくすぐる。
 携帯ごしのせいか、いつもより少しだけ声音が違う。
 けれど、それはやっぱり竜城のもので。
『愛しているよ、ミキ。君の声が聞きたいんだ?』
 甘い囁きに、否応なしに二人で睦まじあった記憶が甦る。
「あ……竜城──さっ」
 息が荒くなって、整えようとごくりと唾を飲む。
『ミキは俺が触れると、いつもそんなふうに息を荒らすよな。すっごく色っぽいんだよ』
「タ、竜城さん……」
 羞恥が熱を高める。
 言葉が記憶をたぐり寄せ、体がそれを思い出す。
 幹人は、気が付けば個室の便座に座っていた。
 そうしないと、立っていられないほどに腰にキテいたのだ。
 おかしい。自分はおかしい。
 幹人の心は必死で葛藤しているのに、体が勝手に動く。
『ミキの手、俺の手だと思って?なあ、触りたいよ。ミキのもの』
 竜城に言われれば、手が勝手に動くのだ。
「だ、ダメ……ヤダ」
『何がダメ?どう、俺の手、気持ちいいだろ?』
 優しい声音で諭されれば、もう反論できない。
 ずくずくと声が響くたびに腰が痺れる。
 触れる前から兆していた幹人のそれは、その言葉にずきりとさらに体積を増した。
「お、俺……」
『ミキ、ほんとなら毎日でも可愛がってあげたいんだ。毎日、抱きしめて上げたい。それこそ仕事中でも……』
「あ、あぁぁ」
 途端に体が震えた。
 仕事中のきりっと引き締まった端正な竜城が、その姿のままに幹人に覆い被さるシーンが浮かんだせいだ。
 憧れて止まない上司に迫られて、体がイヤらしくも反応する。
『ミキ……』
 名前だけなのに。
 堪らない……。
「ん、あっ……」
 火が点いた体は、もうどんな些細な言葉でもさらに熱く燃え上がり、今更とめようが無くなっていた。
 片手は携帯を握りしめ、もう一方の手が己自身を責め立てる。
 抱かれる悦びを知った体は、ここしばらくしていなかったことにかなり飢えていたらしい。
『ミキ、もっと声を聞かせろよ……』
 どこか冷静な、けれど十分興奮もしている竜城の声に、幹人も逆らえない。
 目を固く閉じれば、そこに竜城がいるようで、自身を包んでいる手も竜城のそれのような気がする。
 そう気が付けば、体はさらに高ぶって、限界が近づいてきた。
「だ、だって……ん、あっ、ヤッ!」
 手の中が汗まみれになって、携帯がずり落ちそうになる。
 それがもどかしい。
『いいよ、ミキ……、我慢なんかすることはないから』
「ヤ、だ──タツキさっ……、あ……んっ」
『ミキ──可愛いよ……』
「あ、んあっ……はあっ……」
『ああ、ミキ……達っていいよ──』
 その言葉に意識が弾けた。
「ん、くぅっ……」
 ぎゅっと固く瞑った眦から、じんわりと涙が浮いてくる。
 硬直した体から熱い飛沫が散って、手を汚した。
 手の上を流れるその熱に、体がさらに反応してぶるりと痙攣する。
「あ……俺……」
 肩で息をして、ぽたりと流れ落ちる感触にうっすらと目を開いて。
 薄暗い蛍光灯の下、ぼんやりとその白い滴を見つめた。
 激しい運動でもしたかのように汗が浮かんだ額を、冷気がくすぐる。
 熱い体が急速に冷えるような、そんな悪寒が走った。
「あ、あ……」
 目の前に広がった手のあからさまな光景に、自分が何をしていたかを、はっきりと自覚した。
『可愛かったよ、ミキ』
 その声が笑っていると思うのは気のせいではない。
「あ、あの、竜城さんっ!」
『声だけで、俺まで達きそうになったよ。これで会社じゃなかったらなあ……」
「だ、だってっ!」
 ならば、してしまった幹人は一体なんだというのか?
『ミキもいい加減、戻らないとヤバイだろ?俺は先に戻るからな』
「ま、待てっ!」
 慌てて汚れた手を拭こうと思っても、片手は携帯を握っていて思うようにはならない。
 だから竜城に言い募って引き留めようとしたけれど。
『後一週間もすれば仕事も落ち着くから、そうしたら思いっきり可愛がってあげるよ。その時には、その可愛い声を電話越しなんかじゃなくて、生で聞かせて貰うからね』
「え……あっ」
 途端に、立ち上がり駆けた体がぞくりと疼いて、ぺたんと腰を下ろした。
 一体どんなふうに可愛がられるというのか?
 甘い期待をしている己に、幹人は目を見開く。口から甘い声が漏れたのは余韻にくすぶっている体が過剰に反応したせいだ。
『おやおや、我慢できない?だったら、一人でしてもいいけど、その時にはこうやって声だけは聞かせてくれよ。ミキの可愛い声を聞き漏らすなんて、そんなもったいないことはしたくないから』
「……っ」
 こんなこと、二度とできない。
 興奮している時は必死だったけれど、事が終われば襲われるのは激しい羞恥心と後悔だ。
 なのに、明らかに揶揄を込めて、竜城が笑う。
『いいね、ミキ、約束だよ。破ったら、お仕置きするからね』
 困惑している幹人に気付いているのか、竜城が宣告した。
「えっ?ちょっと待って、竜城さんっ!」
『ミキのこといつも見ているから、勝手に達ったらすぐに判るよ。欲求不満かそうでないかなんてずくに判るから。だから誤魔化そうなんて考えないこと』
 と言われても。
 赤くなった幹人の顔が青くなって。
 返す言葉が出ない幹人の耳に、くつくつと満足げに笑う竜城の声が響く。
 そして、プチっと切れた音がした。
「竜城……さん……」
 呆然と呟く幹人は、今までの竜城にずっと感じていた違和感の正体に気が付いた。
「優しすぎたんだ……」
 仕事中の竜城は、意地悪だ、と評されるほど、無理を言う。
 けれど、それは決してできない事ではなくて。
 できることは自分でしろ、というスタンスだから、あの時の優しいだけの竜城に違和感があったのだ。
「……なんか、ヤバイかも……」
 イヤだと思うのは簡単だ。
 だが、幹人は深いため息を吐いた。
 今度こんなことを許容されても、甘受しそうだな、と思ってしまったのだ。
 イヤなのに……。
 どうしてだろう……。
 汚れた手を情けなく見つめながら、零れたため息はひたすら甘いものだった。 
【了】

720,000 プチキリ rinさんからのリクエストは 携帯電話です。「決算シーズン、残業続き でゆっくりオフで会えない二人。欲求不満も 限界で、そんな二人の人には絶対聞かせられ ない(読ませられない)ラブラブな携帯での やりとり。二人は仕事場が同じで席も近くだ から電話、メールはお互い休憩中にトイレの 中や、会議室、屋上などで。」というリクエストでした。