コンビニおにぎり

コンビニおにぎり

 コンビニの棚にあるいろんな種類のおにぎり。
 それを眺めながら、幹人は眉間にシワを寄せて真剣に悩んでいた。
『なんでもいいから買ってこい』
 と、竜城から渡された千円札二枚は財布の中にしっかりとある。
 金なんていい、と返そうとしたけれど返せなかった代物だ。
 時刻はすでに深夜に近くて、24時間営業のコンビニも人影はまばらになっていた。そんな場所で、幹人はどれにしようかと先ほどからずっと悩んでいたのだ。
 目立つ、というば目立つだろう。

 やることがないのか、レジの店員がちらちらと幹人の様子を窺っている。
 それすら幹人は気付いていなかった。
 ただ、どれにしようかと悩んでいるのだ。
 自分のものは決まっている。
 鮭と昆布は外せない。それに、エビマヨが好き。──けど。
『なんでもいいから』
 そう言った竜城の分が決まらない。
 思わずため息を零して、ぶら下がっているかごの中を見遣る。そこには、幹人が食べる分しか入っていないのだ。
 何が好きなんだろう?
 適当にでもいいし、嫌いなものもないだろう、とも思ったけれど、それでも並ぶいろんな種類のおにぎりに迷いが生まれる。
 これが会社の同僚や友人達だったら、いつだって適当に決めて文句なんか言わせない。
 買ってきたんだから、嫌だなんて言わせなかった。だが、これは竜城の分だ。
 買って帰ったおにぎりを見て、竜城が嫌な顔をしたら、と思うと迂闊な決め方はできなかった。どうせなら、ちゃんと好みを聞いてくれば良かった。
 悩み出すとよけいに思考はどつぼにはまる。
「う?ん」
 たぶん、梅干しは嫌いじゃない。
 昼を一緒に取ったとき、定食についてきた梅干しをなんの躊躇いもなく食べていたことは記憶にあった。後、鮭もだ。
 それから……。
「あっ……」
 悩みつつも定番あたりをいくつかをかごに入れようとしたところで、ふっと幹人の手が止まった。
 竜城はいったい何個食べるんだろう?
 大食漢ではないけれど。
 かと言って小食ではない。
 このおにぎりは早かった夕食の後の、夜食であって、そんなにも食べるものではない、とは思う。
 けど。
 この前までの連日連夜の残業は、ボリュームたっぷりの弁当だったな、と思い出す。そして、その後にも結構なんだかんだ食べていた。
 どうしよう……。
 おにぎりが5個かごに入った時点で幹人の手は止まっていた。
 おにぎり如きで──だいたいコンビニで何を買うかなどとこんなにも悩んだことは今まで無く、その上慣れない事態がさらに幹人を混乱させて、いっこうに頭の中がまとまらない。
 どうして?
 と、こんなにもまとまらない自分に今度は悩み始める。
 これが友人とだったら──きっと、もう店を出ている。買い物袋の中に適当に選んだおにぎりとお茶が入っている状態でだ。けれど、その相手が竜城だと言うだけで、思考はどうどうめぐりだ。
 そんな自分に呆れて。
「はあ……」
 深いため息に、俯いたときだった。
「これ、美味しいですよ」
 いきなり横から手が伸びてきて、<新発売>と書かれた列からズワイガニのおにぎりが取られていった。なおかつ、そのおにぎりが幹人の方へと向かってくる。
 思わず見開いた視界に入ったのは、コンビニの制服を着た男の人。きっと幹人よりは若い彼は、入ってきた時にレジにいたはずだった。
「どうぞ」
 にっこりと笑って差し出されて、幹人は反射的に受け取っていた。
「ど、どうも……」
 突然のことにそれでも口ごもりながら答えて、手の中のおにぎりと彼とを交互に見遣る。
 にこにこと人懐こそうな笑みを見せる彼は、ここに来るといつも見かけていて、丁寧な対応と明るい挨拶に好感度は高かった。そんな彼が、悩み抜いている幹人に好意で差し出したというのはさすがに判った。
「カニ、嫌いですか?」
 その問いには首を振って、また手の中のおにぎりを見つめる。
 カニ、は、竜城も好きだったな。
 つい、ひっくり返して裏の表示まで確認して──まあ、いいか、とそれをかごに入れた。
 美味しい、という言葉につられたのもある。
「それ、人気あってなかなか無いんですよ。あっと……これも、人気あるけど?」
 今度は高菜漬けが混ぜ込まれたおにぎりだ。
 はいっと渡されて受け取った。
「何個食べるの?」
「え……と」
 先ほどまでそれで悩んでいた幹人に答えられるものではない。ただ。
「その、友達に頼まれてさ。けど、何個食べるか聞いてくるの忘れたから」
 それで悩んでいたのだと苦笑を浮かべると、彼もくすりと笑みを零した。だけどその彼が、「それで」と小さく呟いた言葉に羞恥がこみ上げる。
「でも……こんなものかな……」
 幹人より食べるにしても、それでも夜食なのだ。
「これだけでいいか」
 自身を納得させるために呟いた言葉に、彼が「じゃ」と今度は奥まった場所へと視線を移した。
「飲み物は?」
「あ……。お茶も」
 慌ててそちらに向かうと、彼も付いてくる。
 今は幹人の他に客はいなくて、暇なんだろう。
 幹人の一挙一動をじっと見られているような気がする。それもこれも、あんまりにも悩みすぎたせいかも知れない。
 お茶はさすがに竜城の好みを把握していたから、すぐに決まった。
 二本のペットボトルがごろりとかごの中に転がり、一気に重くなったかごをもう一方の手に持ち替えて、後は、とぐるりと店内を見渡した。
 おにぎりとお茶。
 竜城に頼まれたものはそれだけだ。
「これで決まり?」
 最初におにぎりを渡された時より人懐っこさが増した彼が、幹人の顔を覗き込んできた。その間近な距離に、うっと微かに上半身がのけぞる。幹人より上背のある彼は体を屈めていて、妙に圧迫感がある。
「はい……」
 我知らずに一歩下がったのは、そのせいだ。
「じゃ、レジにどうぞ」
 少し重いと感じていたかごが一気に軽くなる。いや、手の中からかご自体が消えたのだ。
 先に行くその手の中にあるかごは、さっきまで幹人が持っていたものなのだから。慌てて追いかける幹人の顔はさっきから熱い。
 彼の強引さが嫌だとは思わない。エスコートされて女性のように扱われている感じなのに、こみ上げる中に腹立たしさはなかった。ただ、羞恥はいくらでも湧いてきて、離れていかない。
 竜城をもっと人なつっこくして若くしたらこんな感じだろうか?
 似た匂いが、反発心を萎えさせるのかもしれない。
 慣れた手つきでレジを通し、袋に詰めていく。
「温めますか?」
 と問われて、無言で首を横に振った。
 竜城が店員だったら──きっと、聞く前にぽいっとレンジに放り込んでいるだろう。
 マニュアル通りの手順を踏む彼のそういうところは竜城とは似ても似つかない。というより、竜城はもともとコンビニの店員なんかには向かないだろう。──いや、ちゃんとした店員としてつとめるのであれば、竜城もそれを完璧にこなしそうだ。なんだかんだ言っても、彼はものすごく器用だから。マニュアルも苦に思うことなく勤めてしまうだろう。
 ふっとそんな光景が脳裏に浮かんで、幹人は思わずくすりと笑っていた。
 それでも格好良いんだろうな。
 惚れてしまえばあばたもえくぼ、とは言うけれど、きっとそれと同じなのかも知れない。
 と──。
 ふっと違和感に気付いて、幹人は顔を上げた。目の前の彼の手がぴたっと止まっていたのだ。
「あの……?」
 背の高い彼を見上げれば、気のせいかその頬が赤いように感じた。
 暑いからかな?
 じっとりと浮かぶ汗に、そう思う。
「あ、す、すみません」
 幹人の視線に気付いた彼の手が、慌てたように動く。いきなり動いた手は、かごから取りだしたおにぎりを取り損ねた。
ころんと台の上に転がって幹人の方に転がってくる。
「あっ」
「っと!」
 二人の手が同時に動いた。
 先に幹人がおにぎりを掴んで、その手を覆うように彼が掴む。下まで転がらなかったことに互いにほっとして、思わず視線を合わせて微笑んだ。
 良かったと、幹人の口が動いたのもつかの間、すぐにその表情が強ばる。
 手が抜けない。
 さっと移した視線がぎゅっと握られた手を見つめる。
 手のひらに伝わるおにぎりの柔らかさ。手の甲に伝わるのは人の手の温かさ。しっとりと馴染むのは汗ばんでいるせいだろう。
「あ、あの?」
 何で、抜けない?
 それは彼が握りしめているからだ。だが、なぜ離してくれないのか判らない。
 幹人は、きゅっと唇を噛みしめた。嫌な予感がした。
 覆われた手が熱い。
 この熱さは知っていた。──強引な竜城が幹人に与える熱さだ。気が狂うほどの快感と幸せをもたらす熱。
 けれど、ここにいるのは竜城ではない。となれば──ぞわりと背筋を悪寒が這い上がる。
 幹人を襲うのはえもいわれぬ恐怖だ。
「は、離せっ」
 感情が幹人を動かして、おにぎりがつぶれるのも構わずに手を引き剥がした。
 勢い、転んでいったおにぎりが床に落ちる。だが、誰もそのことには気を止めない。
 ただ、彼はひどく苦しそうに幹人の手と自分の手を見比べていて、そしておもむろに幹人を見つめてきた。その瞳の奥底にある欲望が渦巻いているのが判る。
 それは竜城が幹人を欲するときに見せるものと同じだ。だからこそ、はっきりと判った。
 幹人はずるっと後ずさっていた。掴まれていた手を、もう一方の手で覆い隠し、牽制するように相手を睨み付ける。そうしていないと、怖くて震えてしまいそうだっだ。
 無言の睨み合いが、数秒続く。
 だが。
「すみません……。1340円になります。あ、落ちたおにぎり……代わりを」
 小さく息を飲む音がその状態を崩した。続いて、彼の声が低く響く。するりとレジから抜けて、別のおにぎりを取りに行った。
 何事もなかったかのように、動く彼の姿は店員としてのそれだ。
 だが、目を離すことが怖くて、幹人の視線はずっと彼を追っている。帰ってきた彼の手の中にはおにぎりが一つあって、かさっと軽い音を立てて袋の中に入れられた。
 その動きもゆっくりと目で追って、視線を外さないようにして財布を取り出す。ちゃらっと小銭が札の上にのって、彼に触れないように台の上に置いた。
 また掴まれるのでは、と、手の動きが怖い。
 こんなこと、竜城に知られたら、と思うと恐怖も倍増だ。嫉妬深い竜城は、飲み屋等で幹人が色目を使われるのも嫌がる。それこそ、男でも女でもだ。
「ちょうどですね。ありがとうございます」
 礼を言って、小さく頭を下げられる。その間、彼は視線を向けることもなく、じっと幹人の手の動きだけを見ていた。
 互いに、手の動きだけを追う。
 だからきっと見られていただろう。
 袋に伸ばした幹人の手が震えていたことも。緊張と恐怖と、それでもなおも平静でいようとしている幹人の努力の末の震えだ。そして、踵を返し、店から出て行くときも、きつく握りしめた手が真っ白になっていたことも。
 けれど幹人は気付かなかった。
 ただ、早く帰りたい、と思って足早に歩く。
 早く帰って、この異常に早くなった鼓動とこみ上げる恐怖のような感情を何とかしたかった。
 だから、気付かなかった。
 コンビニを出てすぐの角から、一対の瞳がそんな幹人の全身を余すことなく見つめていたことも。

2

 早足で歩き続けたせいか、肩で息をするほど苦しくなっていた。
 それでも最後は駆けて竜城の部屋の玄関までたどり着いた。けれど、チャイムを鳴らしても反応がない。
「竜城さん?」
 ノックもしたけれど、その程度では中までは響かないことは知っている。
 さらに数度チャイムを鳴らしても、結局竜城からの反応はなかった。
「どっか行ったんだろうか?」
 コンビニで悩んでいた間に結構時間を食っている。その間に出かけたのかも、と幹人は諦めてジーンズのポケットに入れていた鍵を取り出そうとした。が──。
「えっ」
 指先を入れようとしたとたん、何かが遮って代わりに差し込まれる。
 その感触に驚いて、びくりと体を震わしながら肩越しに振り返れば、そこにいたのは竜城だった。
「た、竜城さっ、何っ?」
 するりと代わりに鍵を取り出した竜城が、ドアに鍵を差し込む。肩に手を置き包み込むようにされて、幹人はほっと安堵の吐息を零した。
 ここまでくれば、あんな不埒者など関係ない。
 そう思ったから、幹人は竜城を見上げながら微笑んだ。
 だが──。
 その竜城は幹人を見ようともしない。がちゃがちゃと乱暴に鍵を開け、肩を掴んだ腕で幹人を玄関の中に押しこんだ。その乱暴な行為に、たたらを踏んであやうくこけそうになる。
 迫る床に、幹人はとっさに手を伸ばした。
 手から滑り落ちた袋が鈍い音を立てて先に転がる。
 だが、右腕にひきつれたような痛みが走って、体はすんでのところで支えられたけれど。
「いっつっ!」
 腕を掴んで支えてくれたのは竜城だったのだが、その力は顔を顰めるほどにきつい。
 思わず涙が浮かびそうになる幹人が、痛みにきつく顰めたままで顔をあげた。
 刹那、息を飲む。
 未だ掴まれたままの腕の痛みすら忘れた。
「た……つき……さん?」
 きつくつり上がった瞳が、幹人を凝視しているのだ。薄暗い廊下の明かりではその表情ははっきりとしない。それなのに判るほどに、竜城の顔には怒りが浮かんでいた。
 背筋をはい上がる怯えが、幹人の体を震わせる。
 だが、そんな震えも、伝わっているはずの竜城には何の感慨も与えなかったようだ。
 何も言ってもらえないままきつく掴まれた腕をさらに強く引っ張られ連れて行かれる場所に、幹人は喉の奥をひくりと震えさせた。
 それは間違うことなく竜城の寝室で、そこにあるベッドに幹人の体が軽々と放り出される。
「な……んで?」
 さっきまでコンビニの店員に感じた恐怖とはまた違う。
 竜城から伝わる怒りが怖い。
 身震いするほどに凍り付くような気配が、ひしひしと伝わってくる。沸点の低い怒りが、蒸し暑いはずの室温を一気に下げていると感じるほどだ。
 そして、その理由も幹人には判らない。
 だから、よけいに怖い。
 おずおずと見上げる先で、竜城がゆっくりと幹人の上に覆い被さってきた。
 迫り来る恐怖に堪らずずりと後ずさるけれど、すぐにベッドの端に行き着いてしまう。背に当たる壁をちらりと確認し、もう駄目だと諦めて竜城へと視線を戻す。だが、すぐにがむしゃらに逃げたいと思ってしまった。
 それほどまでに、今まで見たこともないほどに竜城は怒っていた。
「あっ!」
 破られそうなほどの勢いで、Tシャツが首から引き抜かれる。幹人の体の構造を無視したその行為は、ひっかかった場所に鋭い痛みを与えてきた。下には何も着ていなかったから、すぐに肌が露わになる。剥き出しになった体を思わず両腕でかき抱いたのは、羞恥からではない。怖いからだ。
「手を下ろすんだ」
 命令する声音に、嫌々と首を振る。
 駄々をこねたいわけじゃない。ただ、単純に怖い。怖いから、従えない。
 なのに、竜城は乱暴に幹人の両腕を捻りあげた。なおかつ、幹人の体から剥ぎ取ったTシャツをその手首に巻き付ける。
「や、やだっ!止めろっ!」
 縛られたことはなかった。
 強引で、時に意地悪だったけれど、こんなことまでされたことはなかった。
 なのに。
 ギシッと布地が裂ける音がする。
 それほどまでにきつく縛められた腕はどんなに足掻いてもびくりとしなかった。
「なんで……何でこんなこと……」
 縛られた手首を呆然と目の前に掲げる。その向こうに見える竜城の顔が、にやりと酷薄そうな笑みを浮かべていた。
「お仕置きだ」
 その口から零れた言葉の意味がわからない。
「おしおき?」
 だけど復唱する声が震える。
 何かの間違いだと、頭の中で幹人自身が叫んでいた。けれど、あれのことか、と、さもありなんと囁く声もする。
 そのどちらも幹人の心だ。
 その囁く言葉に気が付いて、さあっと音をたてて幹人の顔から血の気が失せた。
 脳裏に閃く、コンビニの店員との間に起きた出来事。
 あれは一瞬で、あの時店内には誰もいなかったし、しかもレジの台の上での出来事だった。
 誰も何も気付かなかったはず、だけど。
「あ……」
 まさか、と思う。
 だけど、竜城は幹人より遅く帰ってきた。
 どこかに出かけていたのは間違いなく、そして、その行き先をまだ教えて貰っていない。
「た、竜城さん……どこか──どこへ?」
 声が震えるのが止められない。おずおずと怖いけれど、勇気を振り絞って聞いてみる。
 そして。
「お前があまりに遅いので、コンビニへ様子を見に行った」
 その言葉に硬く目を瞑る。
 竜城は見ていたのだ。あの時、起きたことを。
 遠目に見た竜城が、どんなふうにあれを解釈したのか考えたくもない。だが、今ここにある竜城の怒りは、明らかにあの行為に対する怒りだ。そして、それをさせた幹人への──。
 従兄弟の優司にすら嫉妬しまくった竜城が、嫉妬しない訳がない。
 あの時も、そう思ったから、恐怖はさらに増した。
 コンビニで、もしこんなところを竜城に見られたら──と。
 だが、『もし』は、『もし』でなくなって、現実問題として幹人の前に降り注いできた。
 そして、あの場に竜城がいたのだと。それを知ってしまった幹人の深層意識に何かが浮かび上がる。けれど、それがはっきりと形になる前に、幹人は叫んでいた。
「あ、あれは…っ、だって!」
 気が付いたらあんなことになっていたのだと、言い募ろうとする。あの時、幹人にはそんな意図など一つもなくて、ただおにぎりを選ぶのに悩んでいただけなのだ。
 なのに、見下ろす竜城は幹人を蔑んでいた。
「幹人は男を誘う。無意識のうちにな。彼もかわいそうだねえ」
 くつくつと嗤う。
 その物言いは、幹人が悪いとしか聞こえない。
「ち、違うっ!」
「違わないさ、いつだって、幹人は誘っているよ」
 ここで、と竜城の指が頬を撫で上げて、眦に触れる。うっすらと浮かんだ涙を掬い取った指が、今度は降りて、唇を辿った。やわやわと触れる指先が幹人の涙をなすり付ける。
「やっ」
 塩辛い味が、隙間を通って口内に苦く広がる。
 だけど、指は離れていかずに、幹人の下唇を押さえ込んだ。
「美味しそうに舌なめずりでもしたんじゃないのか?幹人の舌は、赤くて綺麗だからねえ」
「あっ……やあっ……」
 そんなことはしていない、はずだ。そう言いたいのに、体の芯から甘い疼きが沸き起こり、硬く瞑った目の奥で何かが弾ける。
 指先だけでなく、竜城の足は巧みに幹人の股間に悪戯を仕掛けてきているのだ。
 縛られているのに……。
 竜城の匂いが鼻腔をくすぐり、声が、耳から犯す。こんなふうに虐められているのに、幹人の体は竜城を欲しがって疼いていた。
「ご、ごめんなさい……」
 幹人自身に悪いことをしたという自覚はなかった。けれど、このまま竜城の思うがままにされれば、きっと幹人にとっては苦痛だろう。その思いが、言葉を紡ぎ出させる。
 いつものように優しくして欲しかった。
 たとえ強引でも、それでも竜城は優しいのだから。
 そう思ったけれど。
「謝るということは、幹人から誘ったと言うことだね」
 冷え冷えとした口調に、閉じていた目が大きく開かれる。そんなつもりでなかった幹人にとって、そんな解釈をされるなんて思っても見なかった。
「違うっ、そうじゃなくてっ」
 体を捻って上半身を起こしかけたが、とんと肩口を軽く小突かれただけで、逆戻りだ。
「本当に幹人は淫乱だからな。その悪い癖、なんとかしないとね」
「だから違うってっ!!」
「うるさい口だね。いい加減黙って、おとなしく開けていなさい」
 胸の上まで迫り上がってきた竜城が、膝立ちのままでズボンの前を緩めた。僅かに下着を下ろしただけで、勢いよく中のモノが顔を出す。
 それが近づく。
 慌てて目の前で縛られた手を使ってそれを遮ろうとしたけれど、その手はなんなく頭の上で押さえつけられた。
 竜城はそれ以上何も言わなかった。けれど、その意図が幹人にははっきりと判る。
 呆然と見慣れたはずのそれを見つめ、恐る恐る竜城を見上げた。けれど、竜城は何も言ってくれない。
 今までされたことはあったけれど、したことはなかった行為を、竜城がしろと言っているのは明白だった。
「や……だ……こんなの……」
 いつかはしてあげたいとは思っていた。
 だけどこんな状態では嫌だ。
 こんな無理矢理なんて……。
 なのに、竜城の腰が無情にも前進してくる。
 目の前まで迫ってきたそれに、幹人はがくがくと首を振った。
 嫌だ、嫌だ……。
 言葉にできない拒絶が、幾度も首を動かし、涙を振りまく。
「俺、誘ってなんかないっ。おにぎり選んでいただけなのにっ。……買って来いって言ったから、買ってきただけなのに」
 ひくりと何度も何度もしゃくりを上げながら、ただ真実を知って欲しくて言葉を紡いだ。
「あいつがいきなり手を掴んだだけっ──っ。それだけなのにっ!!」
「それだけでも十分だ」
 ぎりっと押さえつけられた手がきしむ。
 ぐいっと唇に押しつけられた屹立が、ゆっくりと押し込まれそうになって。
 もう駄目だっと思った瞬間、頭の中で何かが弾けた。
 それは、竜城があのシーンを見ていたと知ったときから、ずっと感じていたこと。竜城の勢いに負けて、奥底から顔を出そうとしてくれなかった感情だ。
 それが、幹人に勢いをつけた。迫って、唇を割り込んでくる屹立から、大きく首を捻って逃れる。
「ちっ!」
 痛みが走ったのか、竜城が僅かに腰を引いた。
 その隙を、幹人は逃さなかった。
 きっと睨み付けて、わき上がる激情のままに言葉を発する。
「見てたんなら、何で助けてくれなかったんだよっ!!怖かったのにっ!俺、怖かったのにっ!!何で、見てただけなんだよおっ!!」
 爆発した感情が、悲鳴にも近い声で竜城を責めていた。
3

「どうしてっ、どうして、見ているだけなんだよっ!!何で来てくれなかったんだよっ!」
 怖かったのに。
 いきなり攻勢に転じた幹人に、さすがの竜城も鼻白んだように動かない。
「ミキ……」
 ただそれだけしか言えないと、呆然と呟く隼人に、幹人はなおも言い募る。
「あれだけで済んだけど、もっとなんかされてもあんたは見ているだけなのかよっ!!それとも、あんなところで割り込んだら、男となんか乳繰りあってるって笑いものになるから、嫌だったのかよっ!!俺が何されても、あんたにとっては助ける価値もないのかよっ!!」
 激情は涙とともに溢れ出して、どうにも止まらない。
 怖かったのに、と男としては情けない思いばかりで覆われていた。涙が溢れた瞳では、竜城がどんな表情をしているかなどは判らない。
 ただ、ぼんやりとした幻影に向かって、幹人は手を伸ばした。
 括り付けられた手は力無く、竜城を掴みたいのに掴めない。
「あんたがいい、俺は、竜城さんだけでいい。他の男なんていらない。だから、助けに来てくれよっ!」
 そんなふうに怒ってばかりいなくて。
 怒る前に助けて欲しかった。
 差し出した手が、所在なげに揺れる。
 きつく縛められたTシャツの破れが目に入って、幹人はきつく口元を歪めた。
「こんなの……嫌だ……」
 何とか見える結び目に歯を当てる。暴れたせいでよけいにきつくなった結び瘤は、そう簡単には緩まない。しかも位置も悪くて、思うように引っ張れないのだ。
 結ぶときには簡単に破れた布地は、今はどんなに引っ張っても歯が痛むばかりで破れてもくれない。
「やだ……」
 どうしても解けないそれを、苛々と幹人は何度も噛みしめた。
 その向こうで竜城が動かない。幹人がしている事をじっと見つめている。その彼が心の奥底で何を考えているのかなんて二の次だった。今はとにかくこの手の結び目を解きたかったのだ。
「……外れない……どうして……」
 噛み付くたびについた涎に、布地はしっとりと湿っている。そのせいで、滑りが悪くなってよけいに外れなくなっているのだ。
 その様子に気付いて、幹人はさらに泣きたくなった。
 くっと口元を歪めて、縛めている結び目を見つめる。
 と──。
 まるで機械のようにぎこちない動きで、竜城が動いた。
 のびてきた指が、幹人の手にかかる。きつくなった結び目に爪の先が食い込み、ついで指が隙間を見つけて潜り込んだ。
「あ……」
 あれだけ外れなかったTシャツが、竜城の手によって呆気なく解け、ベッドの上にぽたりと落ちる。よれて紐状になったそれは、もう着られないだろう。それを感慨もなく幹人は見つめていた。
 あんなに外したかったのに、外れてしまうとどうでもいいと思ってしまう。
 痛いほどに食い込んでいたから、痕はしっかりと手首に付いていた。それでも、柔らかい材質のおかげか、すぐに消える程度のものだ。
 その痕に竜城の指が触れる。
「んっ……」
 それだけで、痺れた手がさらに甘く疼く。
 竜城がその手を引き寄せて、口付けてきたときも、幹人はあえかな吐息を漏らした。
 常になく優しい触れ合いに、体が歓喜の声を上げている。
「竜城さん……」
 あれだけ湧いていた怒りは、手が解かれたと同時に霧散してしまったようだ。
 切なげに口付けてくる竜城を振り払う気はなかった。
 そして。
 竜城が辛そうに呟いた。
「すまなかった……」
 体をずらして、幹人の傍らに転がって、抱きしめてくる。
 頭を抱かれて、胸に押しつけられると、いつもより少し早い鼓動が頭に直接響いた。
 気持ちいい……。
 その規則正しいリズムに、泣きたくなる哀しさも、何もかもが消えていく。
 ただ、縋りたいと思ってしまう。
「そうだな。あの時、俺は助けるべきだったんだな……」
 竜城の声が、頭頂部から響く。
 そんな竜城が見たくて顔を上げようとしたら、ぎゅっと押しつけられた。まるで見るなと言わんばかりの行為に、幹人も逆らえない。
「なんというか、あの時二人が見つめ合っててじっと動かないものだから──許せないと思ってしまった。だから、お仕置きすることしか考えていなくて」
「なんだよ……それって、俺が悪いってことしか考えていないじゃんか……」
「それだけ幹人が男を誘いやすいって判っているからな」
 髪に口付けられながら言われて、幹人はむうっと眉間にシワを寄せた。
 結局それか、と、諦めにも似たため息が零れる。
「竜城さんって、お仕置きしたくてうずうずしているって感じだよ……。なんかそのための荒探しされているよな……」
「そんなことは──」
 ないと言い切るような強い声音が、ふっと弱くなる。
 何かを言いよどむ気配に、視線だけを上に向けたけれど。
「──ない、とは言い切れないな……」
 結局、結ばれたのはそんな言葉で、幹人は絶句する。
「責めて泣く幹人はとてつもなく可愛いし、ひどく淫乱な姿も見られるし……。あんな姿見たら、また何度でも見たくなるよ」
「お、俺はっ」
 とんでもない。
 淫乱だと言われ続けて、言葉でも態度でも行為でも責められて。
 次の日くたびれ果てて動けなくなるほどに攻め立てられる幹人にしてみれば、お仕置きというものは勘弁願いたい代物なのだ。
 がばっと跳ね起きかけた幹人ではあったけれど、竜城の力強い腕には敵わない。
「今だって、俺が悪いとは思っているが──やっぱりミキを泣かせたいと思っているからな」
「冗談っ!!」
 その声音にはどう見ても反省の色など見られなくて、先ほどまでの殊勝な態度は何だったんだと言いたくなる。
 それに、下腹部辺りにある固いモノは、どう考えても臨戦態勢が整っているとしか思えない。
「た、竜城さん、今日は、その──竜城さんも悪いから──普通にしよう、ね」
 逃れることが敵わないなら、ごく普通にしたい。
 お仕置きでなければ、幹人だってすることには問題がないのだから。
「……そうだな」
 言葉の前に奇妙な間が開いたけれど、それでも頷いてくれたことに幹人は安堵した。
「ほら、どこがいい?」
 指が後孔を弄んでいた。四つんばいにされて、お尻を竜城の方に向けた幹人はシーツに額を擦りつけるようにして、首を振っていた。
 どこがいい、と問われても、答えられるものではない。何より、竜城だって判っているはずなのだ。何度もその場所を探り、幹人が大きく体を震わせると、その場所から離れてしまう。
 焦れったさに身を捩れば、また指先が柔らかくそこに触れてきた。
「あっ……やあっ……」
 すでにそんなことが幹人の感覚では長い間続いていて、上半身を支える腕ががくがくと揺れている。
 全身汗だくになった幹人の肌は、淡いオレンジの光ですら淫猥な色合いへと変化させていた。ただ、幹人が動くだけで、竜城の屹立が成長している。それに、幹人は気付かない。
 ただ羞恥に言えない言葉を必死で噛みしめているだけだ。
「い、ひっ」
「言わないと、先に進めないな。こんなにもいい匂いをさせているのにねえ、ミキは。まるで媚薬のようだよ。俺をとろけさせてくれる……」
 ちゅっと音を立てて腰に口付けられる。
 それだけで、幹人の口から嬌声がほとばしった。
「あ、あぁぁっ……そこっ──そこ、もっとっ!」
 気が付いたら叫んでいた、と言うのが一番相応しいだろう。
 あれだけ恥ずかしくて言えなかった言葉が、いとも呆気なく出て行ってしまう。
 そして、竜城もまた嬉しそうにもう場所なんか判っているだろうそこをぐいっと押してきた。
「ここだね」
 声音は優しかった。だが──。
「ああぁぁっ!」
 どくんと全身が弾けた。
 目の前が真っ白になり、がくりと肘が折れる。
「うっ──うっぅぅ……」
「ミキ?」
 竜城が訝しげな声を上げ──だが、すぐにその原因に気が付いた。
 ぼたぼたとシーツに濃い染みを作ったそれは、幹人が吐精したものだったのだ。
「おやおや、指だけで達ったのか?これはまた……」
 くすくすと嗤う声に、羞恥で体がさらに熱くなる。
 荒い息の中、なんとか言い訳をしようとしたけれど。
「ミキは淫乱だから」
 楽しそうな声音にすべてがかき消える。
「駄目だよ、一人で達っちゃ。もっと我慢できないなら、ここ、縛るよ」
 まだひくひくと震える幹人のものがぎゅっと握られる。
「ああっ──やっ」
 それだけで、新たな快感が沸き起こった。
 達きたくて達った訳じゃない。
 それに、もっと欲しいのは幹人も一緒なのだ。
 もっともっと奥深くに竜城のものを受け入れたい。
 竜城を悦ばせて、そして幹人自身も悦びたいのだ。
「竜城さん……ごめん……」
 怠い体を何とか起こして、幹人は竜城に縋り付いた。竜城の首に手を回し、ぎゅっと引き寄せる。
「我慢するから──だから、して……」
 羞恥に身を焦がしながら、なんとか囁くように伝える。
 とたんに押し倒されて。
「いい覚悟だ。もっともっと愉しもう」
 そんな言葉だけで、幹人の体は期待に打ち震えていた。
 
【了】