クレヨン

クレヨン

 久しぶりに立ち寄ったデパートは、ちょうど子供向けのイベントを最上階でやっているらしく、家族連れでごった返していた。
 幹人は、通常ならこんなデパートに用事はない。
 このデパートに立ち寄ったのは、竜城が万年筆が欲しいと言い出したからだった。竜城ご愛用のメーカーの製品を扱っているのがこのデパートの文具売り場だという。
 そして、今、隣で真剣にショーケースを覗き込んでいる竜城を、幹人はちらちらと窺った。
 今日は久しぶりに二人で出かけてみたのだ。
 ふらふらとアテもなくいろんな所に立ち寄り、喉が渇いたと喫茶店に寄る。そのどう見てもデートだと思われる行為を、実は幹人はくすぐったく感じていた。
 あまり無いのだ、竜城とこんなふうに出歩くことは。
 だから、恥ずかしい。
 真剣な面持ちの竜城は仕事中の彼を思い出してひどく格好良いが、こんなところではいつまでも見つめている訳にはいかない。なのに、つい、見つめてしまいそうで、気が付いて慌てる。
 会社帰りに飲みに行ったりする時とは違うシチュエーションを、新鮮に感じているせいかも知れない。
 油断すると竜城に向かう制御できない視線を、幹人は持てあましていた。
「あの……俺、ちょっとあっちに行ってますね」
「ん……ああ」
 熱心に見入っている竜城は、幹人の言葉をどこか上の空で聞いている。それでも頷いたことだけは確認して、そろそろと幹人は後ずさった。
 何がそんなに違うのか、幹人にはさっぱり判らない。
 そんな竜城に、少しだけ口惜しい気分もあったのだが。
 それでも、傍にいろ、なんて言われるよりはましか、とほっと息を吐く。あの竜城なら、目の前の店員などまったく気にもせずにそんなことを言いそうだったのだ。
 離れながらしばらく様子を窺っても、竜城の視線はショーケースから離れない。ちょうど、いくつか指さして、取り出して貰っているところだった。
 たとえば、プレゼントするよ──なんて言えれば、竜城は悦ぶだろうか? とも考える。
 けれど、彼が見ているのはオーダーメイドに近い高級な部類の万年筆だ。さっきちらりと見た値札は、ちょっとプレゼント、というには値が張る。
 新人一年目、まだまだ生活に金をかけてしまう幹人にとって、ボーナス時期でもない今、その出費は痛い。
 せめて、クリスマスか誕生日に、思い切って──と思わなければ、幹人には手が出ない代物だった。
 そんな自分がなんだか悔しい。
 恋人が欲しいものだと判っているのにプレゼントにできないなんて、と口惜しく思う。
 勝手に口から零れるため息が、また情けなく、幹人は口元を歪めた。
 何をやっているのか……。
 浮かんでいるのは嘲笑だ。
 竜城と幹人では収入の差が大きいのだから、自分が手が出ないのは仕方がないことだ。
 今の段階で竜城のように振る舞うことなどできないと判っているのに。
 いつか。
 いつか、プレゼントを買う金を惜しまないほどに給料を貰える立場になりたい──けど。
「……今日の昼もおごって貰ったしなあ……」
 先はとっても長そうだった。
 竜城はまだ時間がかかりそうだと、幹人はぶらぶらと文具売り場を歩き回っていた。
 デパートのそこは、さすがに置いてある物も、その辺りのスーパーとは違う。
 ふと見つけた地球儀などは、海の部分は黒色をしていて遠目に見ていては材質は何かは判らない。
 だが、その黒い海の中、各国の地図の部分にはトルコ石の青、蝶貝の虹色、そして翡翠と──幹人でも判る貴石がその形に埋め込まれていた。
 近寄ってみようとして、けれど、すぐに後ずさる。触れて落としでもしたら、弁償物だと思って、背筋に冷や汗が流れた。
 ちらりと見えた値段は、竜城の万年筆とそう変わりない数字が見えた。
 こんなんばっかかよ。
 思わず周りを見渡して、幹人はここなら、と思う場所へと足を運んだ。
 そこは、子供向けの鉛筆やノート、そしてクレヨンなどが置いてあった。
「へえ……口に含んでも大丈夫──って、こんなのもあるんだ」
 見たことのない図柄の木箱を手に取れば、そんな注意書きが見て取れた。中に入っているのはクレヨンなのだろう。
 蜜蝋製と書かれた文字になるほどと思う。
 子供の頃には見たことがなかったが、クレヨンにもいろいろあるのだろう。
 と。
「あ、これ……」
 見覚えのある箱のデザインに思わず口元が綻んだ。
 気のせいか、クレヨンというロゴマークですら一緒のような気がする。いや、図柄も間違いなく、幹人が子供の頃に使っていたものと同じ物だ。
「懐かしい……まだこの模様のままなんだ」
 小学校の低学年まで、絵を描くといえばクレヨンが一番好きだった。そのうちに、絵の具も使い出したけれど、それでも幹人の絵にはクレヨンで描いた部分が入っていた。
 好きだったのだ。
 クレヨンで描いた絵の上に、絵の具を載せた時の、その弾くさまが。
 白い雲を最初にクレヨンで描いて、その上にスカイブルーの薄い色を絵の具で載せる。
 白い上に塗り損ねた部分だけが青く染まって、本当の雲のように見えた。
 海だってそうだ。
 波飛沫の白と水色をクレヨンで描いて、濃い群青を載せる。
 絵の具だけよりはるかに海らしく見えた。
 そんな絵も、いつからか描かなくなって久しい。クレヨン自体、目にしたのは一体いつが最後だったろうか……?
 昔にいくほどあやふやな記憶を手繰り寄せる。
 絵の具だけで絵を描くようになってからだろうか?
 そんな思い出が、淡くはかなく浮かんでは消えていく。
「思い出せないな……」
 それほど昔のことだったのだろう。
 感傷的になっている自分に気が付いて、幹人は小さく笑みを浮かべた。
 と。
「何だ、欲しいのか?」
 低く官能的に響く声音と共に、クレヨンに別の手が伸びてきた。びくりと震える肩を抱き寄せられ、肩越しに顔が覗く。
「た、竜城っ」
 まったく気付かなかった驚きに加えて、羞恥心がなぜか湧き起こって声を震わせる。
「何だ?」
 眇めた視線が探っているのに気付いて、慌てて首を振った。
 口元に浮かんだ笑みに気付けば、誤魔化すことも難しいと判っている。
 普通であれば、単なる問いかけだったろう。だが、慣らされた体の奥深くで走った疼きに、幹人の鼓動は早くなった。
「あ、いえ。その懐かしいな──って思って」
 それでも動揺を必死に押し隠して、手にしていたままのクレヨンの箱を棚に戻す。
 クレヨンの箱に描かれた12色が、茶褐色の棚に綺麗に映えていた。
「クレヨンがか?」
 笑んだ口が意味深に問いかけてくる。
「クレヨンが」
 決して、竜城の熱を思い出した訳じゃない。
 とは、思うのだが。
 そっと半歩横に動いて、蜜蝋のクレヨンの箱を取り出した。
「俺の子供の頃は、こんなのなかったけどね」
「蜜蝋……なるほどね、子供は何でも口に入れると言うからな」
 竜城の手が幹人からその箱を取り上げる。
 そのせいでまた近づいて。知らず半歩ずれて。
 そのことに気が付いて、誤魔化すように言葉を紡いでいた。
「……俺、子供の頃はクレヨン好きだったんで。その中でも、水色が一番に無くなって、買い足したことあるんだけど」
「へえ、水色が好きだったのか?」
「好きって言うか、空とか、海とか、川とか……よく使うから」
「そういえばそうだな……。太陽は真っ赤な渦巻きか?」
 からかう言葉に、「そうだよ」とむっと唇を尖らした。
「そういう竜城は? クレヨンなんて昔すぎて覚えていない?」
「ああ、覚えてない」
 逆襲するつもりが呆気なく肯定されて、続く言葉を失う。
「だが、そうだな……緑が無くなるのが早かったような気がするな。筆圧が高かったこともあって、よく折っていたし。だから、不揃いで足りないのも多かった記憶はある」
 懐かしげな響きを含んだ言葉が竜城の口から零れる。
 とくに幹人に言った訳でもないのだろう。視線は、クレヨンの箱に固定されたままだ。
 幹人も竜城から視線をクレヨンの箱に戻した。そして、棚に収めた昔ながらのパッケージへと視線を移す。
 そういえば、幹人もよく折っていた。
 短くなったクレヨンは描きづらくて、それでも描いていたら細かい破片だらけになった。細かくなった破片を画用紙の上でまとめて指先で塗りつぶしたら、どどめ色になってしまって、がっくりしたこともある。
 蜜蝋製のクレヨンも、似たようなことになるのだろうか?そんな短くなったクレヨンを……つぶして……。
「あっ、そうだ」
「どうした?」 
「えっと、あの……最後にクレヨンを使った時のこと思い出したんで。さっき、それ考えていたから」
 思い出した。
 懐かしい思い出だと、口元が勝手に綻ぶ。
 覗き込む竜城の目が聞きたがっているような気がして、幹人は喋り始めた。
「その、絵を描いた訳じゃないんだ。その時にはもうクレヨンは全部揃ってなくて──。けど、小学校の夏休みの工作で、クレヨンを使ったんだって思い出して」
「夏休みの工作?」
「そう……。ロウソクを作ったんだ」
 蜜蝋のロウという言葉に思い出したのだ。
「クレヨンとロウソク?」
「市販の仏壇用のロウソクって白いだけだから。溶かす時にクレヨンも混ぜると、色が混ざって色が付くんだ。結構簡単なんだ」
「へえ……」
「でも、クレヨンが少ないと色が沈殿しちゃって、均一な色合いにならなんいだ。けど、混ぜすぎるとロウの持つ透明感みたいなのがなくなって……」
 マットな色合いというのだろうか。
 あまり綺麗だと思えなかった。
 でも、透明感がある程度の色だと、家ではどうしても沈殿してだしたい色と白に近い色との二色に分かれてしまう。
 それが残念で、いろいろ試してみたのだけど。
「結局、綺麗で均一な色合いってのは無理だったかな」
「そうか……クレヨンの色素の方が重いわけだな」
「そうみたい……。赤色なんて血の色みたいだったよ。他の薄いロウソクの上に残った赤色の液を垂らした時なんか、垂れた液が血の痕のようになって──結構不気味だった」
「赤いロウソク……」
「不気味だったけど、面白いからってふっといロウソクの上に垂らしまくったら、親に気持ち悪いって怒られた」
 一つを思い出すと、続いていろんなことも思い出す。
 気持ち悪くなったロウソクを花火の火種代わりに使ったら、みんながひいてしまったことも。
「そうだな……血の色に近いだろうな。クレヨンの赤だと」
 意味深に呟く竜城に気付かず幹人はいろんな事を思い出す。
「学校に出したのは、虹色にしたやつ。結局あんまりクレヨンを混ぜずに薄く積んでいって。手間だったけど、綺麗だって褒められた」
 嬉しかったことを思い出す。
 宿題が戻ってきた後、しばらく机の上に飾っていたけれど、あれは一体どこかにいったのだろうか?
「良かったな」
 竜城の言葉も嬉しい。
 さっきまで一人で放って置かれたという気分だったから、楽しくなってきた。
「竜城xさんは、なんか作った?」
「そうだな、俺は……」
「毎年、何を工作するか悩むんだけど」
「ロウソクは何で思いついたんだ?」
 竜城がちゃんと相づちを打ってくれるから。
「工作の本で」
 たまにはこんなデートも楽しいかな。
 今度もまた来たい、と、とっても楽しい気分の幹人だった。
【了】