心地よい夢の中を漂っていた。なのに、何かのきっかけで意識がふわりと現実へと舞い戻った。
覚醒とは言えない。
けれど、ぼんやりとした意識はすぐに現実に馴染んだ。
だが視界の方が数度瞬きしても、情景に馴染めなかった。
薄暮の世界のように境がはっきりしない。
いつもと違う。
こんなふうに夜中に目覚めることはたまにあるけれど、微かな違和感がまとわりつく。
啓輔は手の甲で目を擦りながら、上半身を起こした。
身をまとう、着た覚えのない黄色のパジャマに気が付いて、口元が勝手に笑みを形作る。
けれど、それを着させたであろう人の温もりは、啓輔の隣にはなかった。
見渡して、訝しげに首を傾げる。
手のひらに伝わるシーツの温度は冷たい。彼がずっとここにいなかったことを教えてくれた。
だが、違和感はそのせいではない。
見ようによっては薄紫の妙に明るい影の世界。ぼおっとした視界の中に、カーテンの隙間から零れる月明かりが映る。
「あれ?」
まだ足が怠いのは寝入ってから時間が経っていないせいだ。なのに、明るい。
そんな遅くまでしていたつもりはなく、啓輔は不審に思いながらベッドから降り立った。
カーテンに手を近づければ、ひんやりとした空気がまとわりつく。
「……あっ!」
月明かりではなかった。
マンション近くの街灯が照らす蛍光灯の灯りが反射していたのだ。
「雪だ……」
今季初めての雪は、今年も最後に近くなってようやくその姿を現した。
暗い空を見上げれば、灯りに照らされた白い塊が綿のように降り注いでくる。
「おっきい……」
粉雪とはほど遠い、温暖なこの地では珍しくないぼた雪は、降り注ぐと言っても音がしそうな勢いがある。
名の通りにぼたぼたと落ちていくその様がなんだかおかしくて、啓輔はくすくすと笑った。
この分だと朝になっても雪は残るだろう。
休みで良かった、と啓輔は別の意味で微笑む。
いまだ車で通えない啓輔にしてみれば、雪道のバイク通勤など考えたくもない。
もっとも、その気配があれば純哉がいつだって啓輔を前泊させるだろう。だから、前の冬はかなり助かったのだ。
台風シーズンも夕立のシーズンもいつだって、純哉はマメに天気予報をチェックする。そんな純哉だから、今日の雪もきっと知っていたに違いない。
「寒……」
部屋の中は適度な室温に保たれていたが、窓から伝わる冷気は防げない。カーテンを開けたせいで、一気に啓輔の周りの室温が下がったようだった。
パジャマの襟を手繰り寄せ、温もりを欲して視線が知らず純哉を探す。
けれど、ベッドにいなかったのは起きた時から判っていた。
それほど広くない部屋はわざわざ探す必要もない。
ならば、と啓輔の視線が隣の部屋とのドアへと向けられた。
トイレということは無いだろう。
啓輔が起きてから、そこそこに時間は経っている。
啓輔の足が意識する間もなく動いて、手がドアの取っ手を掴む。
窓際と違って、そちらはほのかに暖かかった。
照度を落とした灯りが暗さに慣れた目に柔らかく映る。
「純哉、起きてた?」
リビングに据えられたソファに見慣れた姿を見いだして、啓輔はほっと安堵した。
「ええ、啓輔は?」
向けられた視線の優しさに、笑みを返す。
「一度起きたら目が冴えてしまったんだよ、んで外見たら雪降ってるし」
「先ほどから雪に変わったようです」
「ん、もうかなり積もっているみたいだけど?」
「牡丹雪だから、日が昇ればすぐに解けますよ」
「うん、知ってるけど」
「まあ、朝ならまだ残っているでしょう」
「うん」
朝の通勤がないと思うと、雪が積もるというだけで何となくウキウキとしてくる。
「今年はもう降らないかと思いましたけどね」
「急に寒くなったもんなあ。やっぱり冬だね」
こちらの部屋は明るいせいか、窓の外ははっきりとは見えない。けれど、白い塊が落ちていくのは判った。
「ぼたぼたって、ほんとぼた雪だよなあ」
さっきも思ったことをふと口に出して呟けば、純哉が訝しげに呟いた。
「ぼたぼた?」
「え? だからぼた雪だろ。ぼたぼた落ちるから」
「いえ、牡丹雪ですよ。花の牡丹」
「え?」
「雪が集まって牡丹の花びらのようにふわふわと落ちてくるから牡丹雪と言うのです」
その言葉に目を見開き、思わず視線を外に移す。
「ふわふわ、と?」
という形容が似合わない落ち方をしている雪を見つめた。
「まあ、この辺では融けかけた雪が多いですから、ぼた雪という方が似ているかもしれませんけど」
「うん、少なくとも今日のはぼた雪だよ」
大きくて重そうな雪が、どんどん降り積もっていく。
この量だと、景色が白くなるのは早いだろう。だが、温暖なこの地域では白さがあっという間に消えるのも早い。
それでも、今のこの時間はさすがに解けるよりは降る方が早かった。しかもさっきよりさらに外気温が下がってきたようで、啓輔は冷えてきた体に思わず身震いした。
「寒い、ですか?」
「少し」
「窓際は寒いですよ、こちらへ」
「ん」
純哉が傍らへと招いた場所へ啓輔は急ぎ足で向かった。
手が伸びてきて啓輔の肩を抱く。促されるがままに腰を下ろせば、純哉によってぐっと引き寄せられた。
触れた温かさに冷えた体が悦んで震える。
「あったか」
「冷たいですね。もしかして、ずっと雪を見ていましたか?」
「そんなことはないけど」
けれど冷たくなった体では言い訳は効かない。純哉がため息を吐いて、ますます啓輔を抱く力を強めた。
「風邪をひいてしまいます」
「大丈夫だって」
純哉の優しさがくすぐったくて、思わず身動いだ。けれど、本当はずっとこのままでいたいほど、伝わる温もりも、純哉の匂いも何もかも心地よい。
目が冴えたと思っていたけれど、ゆったりとした心地が眠りを誘う。
うっとりと目を閉じて純哉に体を預けていると、どこか遠慮がちな言葉が聞こえてきた。
「明日──いえ、もう今日ですね──帰るのですか?」
ほんの少しの不安を聞き取って、目を開ける。
「まあ……ちょっと帰っとかないと」
休みの間ずっとここにいたい気はあったが、大晦日の夜、地元の神社で行事があるのだ。
その手伝いに、隣の佐山のご主人の代わりとして借り出されている。
「おばさんに頼まれるとさ、断れないし」
地元の総代でもある彼は、年末の大掃除の間に腰を痛めて、未だに家で唸っているらしい。
それに神社の行事は薪を組んだり、大鍋を出したり、と、それでなくても力仕事が多いから若い男の方が好まれるのだ。
「しょうがないですね」
もう何度か説明して、そのたびに純哉はそう言う。
けれど、寂しさがいつもその言葉と共に伝わってくる。
行かないでくれ──なんて口が裂けても言いそうにないよな。
くすりと笑んで、啓輔は純哉の頬に口付けた。そのままそっと囁く。
「でも、正月にはまたこっちに来るよ。そんでさ、どっか初詣行こうよ」
「正月、天気が悪いかも……」
「別に遠くでなくても、大きくなくてもいいよ。どこでもいいよ。純哉と行けるならさ」
「それは構いませんが……その……」
頷いた純哉が言い淀む。同時に擦り寄せた頬に伝わる熱が上がっていた。
「何?」
視界の片隅に映った純哉の頬が上気している。
「……先日佐山さんにお会いした時、あの辺りのお雑煮の作り方聞いたんで……」
真っ赤な頬が、俯くように逸らされる。
「雑煮?」
「はい」
言葉少なに頷いた純哉が、大きく息を吸っていた。
細められた目があらぬ方向に向けられている。
その表情をまじまじと見つめて、啓輔は半ば呆然と問い直した。
「純哉が、作ってくれるんだ?」
「いつも啓輔に作ってもらっているので」
いつもと言っても、それほどいつもではないけれど。
この人が、一体どんな顔をして彼女に教えを乞うたというのだろう?
そんな話など、お喋り好きな彼女からも聞いたことが無かったというのに。
考えれば考えるほど、胸の内にじわじわと悦びが湧いてくる。嬉しくて堪らなくなって、言葉が勝手に迸った。
「す、げ……、俺、絶対来るっ。作業終わって解放されたら、すぐ来るよっ!」
「そんなことをしたら危ないですよ。徹夜明けになってしまうでしょう? ですから、朝落ち着いてからで良いですよ。来る前に電話してくれたら準備しますから」
そんなに手間じゃないんです。
小さな声で付け加えられると同時に、純哉の手が啓輔の頭を押さえた。
「それよりもう寝ないと。今晩も遅くなるんでしょう?」
照れた表情を見られたくないのか、押さえた力は弱まらず啓輔の頭はずりずりと純哉の体を辿っていった。
最後にぐいっと押しつけられたけれど、額と頬に触れたソファとは違う柔らかさに目を瞬かせる。
「純哉?」
「寝てください──あ、でもベッドで」
今の啓輔の体勢に気が付いたのか、慌てて手を緩めた純哉が言いかけたが。
「ううん、ここでいい」
パジャマの布地が頬に触れる。
その中にあるのは芯はあっても柔らかで、心地よい温もりを与えてくれる純哉の足だ。
「ちょっとだけ、な?」
ソファに足を上げ、はみ出た足先は外に投げ出す。
ごろりと向きを変えて見上げれば、困惑気味の純哉の顔があった。
そんなつもりではなかったのだと、その表情が教えた。
「寝心地悪いでしょう?」
「いや、最高」
すりすりと頬ずりすれば、純哉の視線は泳いでいた。顔は耳まで赤い。
それでも、啓輔を払いのける気はないようで、その手が優しく啓輔の髪を梳いていた。
その心地よい感触と温もりが疲れた体を眠りへと誘う。
シンとした静まりかえった室内で、ゆったりと目を閉じれば、純哉がお雑煮を作ってくれる光景が浮かんでくる。
幸せだ、と、心から思う。
ほんの数年前までは、こんな風に正月を祝うなどと思っても見なかっただろう。
けれど、今この時は現実なのだ。
純哉がいて、こんな風に甘えられる現実。
離したくないと切に願う。
初詣に行っても、今のこの時間がずっとあることを願いたい。
純哉と共に。
「啓輔……寝にくいでしょうに」
遠慮がちな声が遠くに響く。
寝にくいのは、ソファのせい。
純哉の膝は、クセになりそうなほど心地よかった。
【了】