【影踏み】  2

【影踏み】  2

 何故こんなことに?
 二階に上がった途端に、二人して絶句した。
 どうして布団一枚出すために、押し入れの布団が全て出ているんだ?
 敷き布団に掛け布団にタオルケット……はまだ良い。襖の前に山積みになっているのは毛布や替えのシーツ。貰った箱のまま押し込められていたはずのタオルや石けんの箱はどう見ても崩れ落ちたもの。中身が飛び出している物もある。
 その山の中で、晃一が苦く笑っていた。
「ごめん、何か崩れてさ」
 怒るより前にその笑みに脱力させられた。
 啓輔が無言で晃一の腕を引っ張る。
「え、片づけるよ?」
「良いよ。先、寝てて」
「でも」
「何か疲れたしさ。俺たちも布団敷いてしまうから。だから、布団入っててよ」
 低い声音は、怒りを必死で堪えている。純哉も小さくため息を吐いてから、言い添えた。
「ええ、先に寝てください。明日はまだ会社がありますから、朝早いんです」
 明日が休みだったら、晃一を手伝わせても片づけてしまっただろうが、もうそんな気力は潰えていた。今はただ何もかも放りだして眠りたい。
「啓輔も、寝てください。ここのところずっと忙しかったのだから」
「う?ん……そうする……」
 言葉が眠気を誘ったのか、ごしごしと目を擦る啓輔をそっと座らせる。
「ふぁあ?、んじゃ、お言葉に甘えて寝るわ。お休み」
 背後の寝ぼけた声音は故意に無視して。
「あ、俺、まだ着替えてねえ……」
「ジーパンだけ脱いでください」
 ウエストに手をかければ、意味深な笑みが返ってきたけれど。
「今日は大人しく寝ましょうね」
 苦笑を浮かべれば、啓輔も素直に頷いた。
「ん……お休み」
 放り出されたジーパンを軽く畳んでいる間に、啓輔の目が細くなっていく。
「純哉も……早く寝ろよ」
 夢うつつのような弱さを痛ましく思いながら、背後から聞こえる規則正しい寝息を確認して、そっと口付ける。
「ええ」
「ん……」
 物欲しそうに潤むその瞳を見つめると欲しくなる。けれど今は。
「お休みなさい」
 嬉しそうな笑みに微笑み返した。
 そんな純哉が簡単に片づけて啓輔の横に潜り込んだのは、もう日が変わった頃だった。


「げえぇぇぇっ!」
 素っ頓狂な叫び声に心地よい睡魔はあっという間に消え失せた。
 跳ね起きた純哉の横で、「ううっ」と啓輔が唸りながら上半身を起こす。
「何、今の……」
 まだ朦朧とした表情を浮かべるその顔が少しむくんでいる。
 そっと触れると、ぼんやりと視線を向けてきた。
「まだ少し早いようです。時間が来たら起こしますから」
「……ん……」
 ぱたんと体が沈んだ。
 虚ろに開いていた目が閉じられ、すぐにすうすうと規則正しい寝息が漏れた。
 啓輔の仕事は特許や文献の情報収集と、そのための社内データベースの管理だ。時に、開発の事務所に向かって年上のメンバー達と意見を交わしている。大卒の研究者達との会話は、よく判らないことが多い、とそんな愚痴を幾度聞いたことか。それでも、啓輔はよく頑張っている。
 関わった技術に関して、もっと知識を得ようと夜遅くまで勉強しているのも知っている。
 会社としては、高卒の啓輔にそこまで期待はしていかなっただろう。
 だが、今は服部よりも得意な分野があると言う。
 開発の人達とも仲良くやっている。
 入社した頃のどこか張り詰めたような表情はもう無くて、今は年相応の可愛さすら窺えた。もっとも、そんな事を面と向かって言おうものなら、不機嫌そうに拗ねてしまうのだが、そんなところも可愛いのだ。
 社内でも啓輔は人気が高い。
 顔良し、土地付き、親無し、極めつけ性格も良くて仕事は真面目となっては、女性達も放ってはいられないのだろう。 
 そんな風評を聞くと、胸の奥が重苦しくなる。
 誰か取られるのではないか?
 焦りは疑惑を生んで、暗い感情を生む。
「ほんとに……若くて可愛い恋人を持つと厄介ですね。まして浮気性なんだから」
 最後の言葉は苦笑付き。
 若いからこその性衝動を揶揄しているだけだと、自分でも判っている。
 まだ十代の性は、本当に元気なだけ。啓輔にしてみれば、浮気性などと言われる謂われはないだろうけど。
 愛おしい恋人の額にかかった前髪を指先掬い上げる。
 そんな純哉の表情は、他人が見たら卒倒しそうなほどにうっとりと惚けていた。
 が──。
「うっわぁぁ、またっ!」
 再び聞こえた叫びとその声に啓輔が身動いだ事に、むうっと眉間のシワを深くする。
 時計を見やれば、まだ朝の5時。
 ここを7時に出れば間に合うというのに。
 朝っぱらから騒音を発生させている男に対する怒りがふつふつと込み上げた。
 幸いにも起きなかった啓輔にほっとして、彼に気を遣ってそっと階段を下りる。
 もともとは半物置だった長屋の一階に作った急場の台所は、結局一年経ってもそのままだ。その中央に据えたテーブルで、晃一がノートパソコン前にブツブツと唸っていた。その眉間にも深いシワが入っている。横顔を見ただけでも腹立たしげな様子が判った。
 もっとも、腹立たしいのはこちらも一緒だ。
「朝っぱらから何なんです? 騒々しい」
 剣を滲ませた声音で問う。
 途端に晃一がぱっと振り向いた。
「何でこんなに電波状態が悪いんだよっ、ここはっ!」
 さっきの悲鳴と同じボリュームがそのまんま純哉を襲った。思わず顔を顰め、二階を窺う。それから、短くため息を吐いた。
 この男は……。
 有る意味、相当な我が儘だ。
「ですから、静かにしてください。啓輔はまだ寝ているんです」
「う?、だってよ、電波がぶちぶち切れるんだよ」
 ノートパソコンを指さす晃一に反省の色は窺えなかった。ますます重くなるため息を吐いて、指さす画面を見やる。
 無視すれば、また騒ぎ出しそうだった。
「ああ、ここはアンテナが遠いのかもともと電波状態悪いんですよ。携帯見てご覧なさい」
 自分の携帯のフラップを開けて差し出す。
「あ、……ほんとだ、たまに一本になってる……」
 運が良ければ電波状態を示す線が三本立つのだが、今はかろうじて一本、時に二本を繰り返す。
「窓際ならもう少し改善されるかも知れませんが。どちらにせよ、無線には適さない環境です。メールですか?」
 画面に映し出されたメーラーに出たエラーメッセージを読み取って。
「啓輔が繋いでいる回線を借りたらどうですか? もっとも、基地局から遠いので8Mbも出ませんが」
 タイトル横の添付ファイルのマーク。
 ほとんどが、付いている。回線が遅ければ、相当時間がかかるだろう。だが。
「どうやって?」
 判らないらしい。
 純哉は再度ため息を零して、彼のノートパソコンを借りた。
 とりあえず有線LANのコネクタはありそうだ。
「できるのか、凄いなあ。俺ね全然判んなくてさ」
 無邪気なセリフにふつふつと怒りが込み上げる。それ以上に、こんなにも何もできない彼を作った静樹に怒りを覚えた。きっとパソコンの設定から何から全て手配して、何も晃一にはやらせていないのだろう。
「どうぞ」
 啓輔宅の回線の設定は知っていた。
 純哉とて自分で何もかも設定できるだけの技量は持っている。
 程なく無事繋がったノートパソコンを差し出せば、感極まったような称賛が返ってきた。
「凄いなあ。俺、何にも判んなくてさ?」
「メールだけなら」
 まさか、社内システムにまで入ろうとしてないだろな?
 嬉々としてパソコンに向かう晃一の背後から、ちらりと画面を盗み見る。
 どうやら、まずはメールとばかりに食い入るように一覧を見つめていた。
 社内のシステムは、ヘタするといくらパスワードがあっても、通常の接続方法以外では弾かれる可能性がある。そうなれば、入れないわけだが、それをこの晃一が知っているとも思えなかった。
 そんな蔑みが純哉の中では湧いてはいたが、晃一が次々とメールの中身を確認して、返信を打つそのスピードに目を見張った。
 速い。
 長い文面を追うその目の動きが尋常ではない。
 可否を問う文面に、間髪を容れず返していくのだ。読んでいないのかと思えば、その理由もまたミスのないキータッチできちんと打っていく。完璧なブラインドタッチ。
 真剣な眼差しで画面を見つめている晃一は、確かに若い社長という役職に相応しいものだった。
 瞬く間にたくさんの未読メールが片づいていく。
「うっわぁ……」
 そんな晃一が、後少しで終わろうかという頃、うんざりと画面から視線を外した。
「どうしたんです?」
 好奇心が問いかけさせる。
「静樹から文句の山……さっさと帰って来いって」
 それは当然だろう。
 指し示されるがままに文面を読んだが、丁寧な中に怒りが見え隠れしている。
 どうやら忙しいところを無視して、誰にも何も言わずに飛び出してきたらしい。
 早く帰らないと、仕事が滞る。
 社長としての自覚を持ってくれ。
 最後にはそんな内容が連なっていた。だが、晃一はふんと鼻先で笑い飛ばすと悪ガキのような笑みを浮かべて言い切った。
「でも、帰んないもんねえ?」
 いや、帰ってくれないと困る。
 苦い表情を浮かべる純哉に気付かない晃一が、タタタッとキーを打ち込む。
「俺は帰りません。岡山オフィス立ち上げ準備を行いますっ、と」
 そのままの文章を送信した晃一は、どうだ、と言わんばかりに純哉を見上げた。
 そんなことが許されるはずもないだろうに。
 なのに、晃一は本気でそう思っているようだった。
 いや、それともそう見せているだけなのか?
 さっきの仕事ぶりと普段の態度が違いすぎて、さすがの純哉も判断が付かなくなってきていた。
 だが。
「んでさあ、俺、腹減ったんだけど、何か無い?」
「……」
 この男は……。
 仕事以外は何ももできない男。
 振られるのも当然だろう。幾ら社長夫人という肩書きを目の前にちらつかせたとしても、こんな男は欲しくない、と常識有る女なら思うのではないか?
 少なくとも、見合い相手はそういう相手ばかりだったということだ。
「なあ……?」
「トーストくらいしか無いですからね」
 お腹を空かせた晃一の姿はまるで子犬のようで。
 なぜだか逆らう気力が湧かない。
 お陰で会社に着く頃には、妙な疲労感が純哉を支配していた。



 一日仕事をこなした疲労だけでない怠さを持てあましながら、純哉は自宅への帰途についた。同じ時刻に会社を出た啓輔とは、明日家を訪ねる約束をしている。本来なら、今夜からどちらかの家に一緒に帰るのだが、啓輔の家にはあの厄介者がいる。
 晃一を放り出っているわけにはいかず、啓輔は自宅へと帰って行った。
 昨夜から今朝にかけての騒動を思い出すと、気が重い。
 結局片づける余裕など無かった二階は、明日一緒に片づけることになっていた。
 せっかくの休みが、こんなにも楽しくないのは久しぶりのことだ。
 昨日からクセのようになってしまったため息をまた吐いて、部屋に入る。昨日から閉鎖空間であった室内は、湿った熱気で充満していて不快指数が高かった。
 冷蔵庫に直行し、ミネラルウォーターを取り出す。
 ごくごくと喉を鳴らしながら、エアコンを付けた。
 ちらりと時計を見やる。
 そろそろ啓輔も家に帰り着くほどだ。と思った途端、携帯が着信を知らせた。
 急ぎフラップを開けて、着信のボタンを押すと。
『純哉?、もうたいへんだぁ……』
 いきなり聞こえた半泣きの声に、ぎくりと体を強張らせた。
「一体何がっ?」
『晃兄ちゃん、ほんと何にもできないんだよ?。何もできないだけでなくて、ムチャクチャにしてしまうんだ?。何がどうやったら一日で家の中がこんなになるんだよ?っ!!』
『だから、ごめんって。ちょっと捜し物してただけ。そうしたら何か崩れちゃってさあ……』
 背後から入ってきた晃一の声に、昨夜の惨状が脳裏に浮かんだ。
『今まで日帰りで、用が済んだらさっさと帰ってたから気付かなかったけど……。ヘタに自分で何かしようとしたら、酷くなるんだよ?。食べたら食べたで放置してて、その上に洗濯物落としてくれて……』
『雨降りそうだったから』
『多少降ったって大丈夫なんだよっ、軒下だからっ!!』
 電話に喋っているのか晃一に怒鳴っているのか。
 収拾のつかない電話の内容に、純哉はものすごい疲労感を感じてがくりと肩を落とした。
「啓輔……」
『ああ、ごめん。んで?、明日来ても片付け三昧なるから、そんなの悪いし』
 会社にいる時は一緒に片付けようと言っていたのに。
「私は構いませんが」
『ん?、でも……。じゃあ良かったら、昼の弁当買ってきてくれるかなあ。なんか作る気しない』
 声音が弱々しい。
「判りました」
『んじゃ』
「ゆっくり休んでくださいね」
 返事より前に切れた携帯をひとしきり眺めてから、ぱたんと閉じる。
 了承はしたけれど、それは弁当を買うということだけ。
 純哉は、携帯をぎゅっと握りしめ、口元を固く引き結んだ。
 このままにはしておけない。
 それでなくても啓輔は忙しい。土日くらいはゆっくり休む必要があるのだ。
 一度決意すれば後は行動在るのみ。純哉はパソコンへと向かった。スイッチを入れて、メールを立ち上げる。
 新規画面に打ち込むアドレスは、何か必要なことがあるかも、と覚えた物。それが役に立った。
 あんな晃一を作ったのは彼だ。だったらその責任は最後まで取って貰わないと。
 引き結ばれていた口元が僅かに綻ぶ。冷笑となったそれを純哉が抑えることはなかった。



 啓輔の家から罵声が庭まで響いている。
「だ?か?ら?っ! 菓子の袋はゴミ箱に入れろって!!」
「ごめ?んっ! だってお腹空いたからっ」
 片付けているのか散らかしているのか。
 玄関をそっと開けて窺えば、あちこちに山となっているものは、確か押し入れに入っていた筈の物。テーブルの上で山となっている食べ散らかした残骸は、とても一晩だけの物とは思えない。そんな惨状と昨夜から格闘しているのか、早朝から疲れ切っている啓輔の声音を聞くと、むらむらと怒りが込み上げてきた。
「相変わらず……」
 後から聞こえた声音に冷たく視線を送る。
「あそこまで身の回りに無頓着な方は初めてです」
 啓輔ですら、もう少しいろんな事を自分でしていた。親を失ってからは、必要に迫られて懸命に習い覚えていた。動くだけであそこまで散らかす人間は今まで見たことがない。
「申し訳ありません」
 殊勝に頭を下げられても。
「私が構い過ぎていたのは気付いていました」
 下がった細い銀縁のメガネを指先で直した静樹の端正な顔が歪められていた。その彼が、純哉の横を通り抜け、部屋の中に入る。
「晃一」
 静かな、けれど響く声音に、中の物音がぴたりと止まった。
「啓輔にまで迷惑をかけるんじゃない」
「静樹……」
「静樹、来たんだっ!」
 呆然とした声音に、啓輔のほっとしたのがはっきりと判る声が重なる。
「家城さんに惨状を聞いてね。迷惑をかけた」
 啓輔に声をかけ、中に入っていく静樹の後を追った。ほっとしたような啓輔が、純哉を見て笑みを作る。それにこくりと頷いて、けれど、垣間見た時より酷い現状に硬直した。
 純哉自身、たいていの事には驚かないし、無表情でいることもできる、と思っていた。だが、この晃一が関わると、あまりに予想外の出来事に、感情が理性より激しく反応してしまう。
 思わず周りを見回して、今いる場所を確認する。見慣れた風景は、確かに台所で間違いない。
 なのに。
 何故、あんなところに土が零れているのか?
 何故、布団がこんなところにあるのか?
 何故?
「晃一……一体何をしようとしたんだ?」
 ため息交じりの問いに、晃一は申し訳なさそうに俯き口籠もる。
「……その……、昼間が暑くって……。一階の方が涼しいかなあって思って。でも、床固いから布団二階から持って降りてきたら……」
 最後まで聞かなくても、惨状の一部が入っているゴミ袋で判る。
「お前は、人の家で昼寝をしようとしていたのか?」
 純哉が言いたかったセリフは、静樹が代弁してくれた。
「だって、さ……」
「人に仕事を押しつけて。あんなメールだけで、お前の仕事が片づくと思っているのか? 無責任にも程がある」
「だって……」
「それに、啓輔だって一人暮らしで大変なのに、お前が邪魔してどうする?」
「……って……」
「だって、じゃないだろう?」
 静樹の怜悧な横顔が顰められていた。子供のように言い訳をしようとする晃一の言葉を遮り、きつく睨み付けている。
「家出するなら、せめて身の回りのことが一人でできるようになってからするんだな」
 きつい物言いに、晃一の頬がひくりとひくついた。口元が何か言いたげに震え、けれど何も言わぬままに唇に歯が食い込む。
「人の家に押しかけるんなら、せめて一通りの事はできるようになってからにしろ。お前は一人では何もできないんだから」
「っ……」
 息を飲む音。
 今にも泣きそうに歪んだ晃一が、きっ、と静樹を睨み返した。
「そうしたのは、誰だよっ! 俺が手を出す前に、静樹が全部やってくれていたからっ!」
 ひっくひっく震える体が、静樹に掴みかかっていた。
「やらなくて良いってずっと言っていたクセにっ! いきなり何もかも全部自分でしろったって、できるかよっ!」
 まるで癇癪を起こした子供のようだ。
 純哉はそっと啓輔の傍らによって、部外者となって二人を窺った。
 激しい剣幕でまくし立てる晃一に、静樹の方も思うところがあるのか、顰めていた表情が歪んだ。
「静樹っ!」
 掴みかからんばかりの晃一に、静樹は小さく息を吐き、その手を押さえた。その表情には、先ほどまでの怒りは消えていて、今は慈愛にも似た眼差しが向けられていた。
「そう。私が何もかも手を出してきたから、晃一は何もできなくなった。何もできないお前が可愛いと思っていた。仕事で忙しいのだから、それ以外の事はできる限り手助けしてやろうと思った。ずっと……もうずっと」
「静樹……?」
「けれど、それは無理だと気付いたんだよ。私ではお前をいつまでも見ていることはできない。お前だってそれを望んではいなかった」
 途端に、晃一の体がびくりと強張った。
 気付きたくなかった真実に気付いてしまったように、激しい感情は鳴りを潜め、代わりに戸惑いが晃一を支配していた。
「それは……けど……」
 ああ、そうか……。
 不意に純哉は気付いた。
 純哉達が二人の姿を見た時、恋人同士だと思ったのは、間違いなくそういう雰囲気だったのだ。甘えさせ、甘えて。見守り続けていた静樹。それに甘えていた晃一。
 出会いと別れを繰り返す晃一を、静樹はただ待ち続けたのだ。静樹の思いを受け入れることのない晃一をそれでも見続けていたのだろう。
 だが、それができなくなったのだ、静樹は。待ち続ける辛さは、相当屈強な精神を持っていないとやっていられない。
 その辛さが限界に達したか、それとも別を見つけてしまったか?
 その答えを晃一は知っていた。 
「それは……恋人ができたからか?」
 晃一がぽつりと呟いた。
「恋人ができたから、俺にはもう構えないって?」
 その言葉に、静樹はきっぱりと頷いた。
「……そう、そうだな。それに、和巳は晃一よりずっと年下なのに、何もかも自分でできる。それに比べて……と、思ってしまったのもある」
 途端に、晃一の顔が情けなく歪み、溢れた涙がぽろりと零れた。
 じっと静樹を見つめ、嗚咽を堪えるようにきつく唇を噛みしめていた。
 それはまるで、告白を拒絶されて必死で堪えているようで。
 青春ドラマの一コマのようなシーンを、純哉も啓輔も固唾をのんで見つめていた。
「そんなに恋人の方が良いのかよ……」
「少なくとも、今は手放したいとは思わない。だから、晃一のプライベートまで手が回らないんだ」
「……そう……だよな……」
「社長職がどんなに重責かも知っているから、何でもしてやりたいと思う。少なくとも仕事上のフォローをしないつもりはない。だから……」
「……判ってる」
 不意に、晃一が静樹の言葉を切った。
 俯いていた顔を上げ、真一文字に食い縛った唇がわななきながらも開く。
「ごめん、我が儘言った。静樹にだって、プライベートはあるし、俺にかまけて恋人に振られても大変だしな。俺ばっか振られて、静樹に恋人がいるってのは腹が立つけど、ね」
 笑おうとしてるのは判った。
 口の端が、何度も大きくひくつく。
 その表情を見つめる静樹は、優しげで、けれど哀しそうだった。
「そりゃ……俺は何にもできないけど……。今だけだよ。頑張るしかないってのは判ってんだよ……ただ……」
「ただ?」
「いきなりは……無理みたいで……。なんかもう訳判らなくてなるし、情けないし。しょうがないから静樹に聞こうとしたら、病欠しちゃって。そうしたら、仕事のことも自分が何しているのか判らなくなってきて……。何でこんなこともできないんだろうって……やけになって……」
「……じゃあ、それでここに?」
 静樹の問いに、晃一はこくりと頷いた。
 はあっと、隣から大きなため息が聞こえた。
 啓輔のものだ。
 確かに、運悪く巻き込まれた当事者としては、あまりにも情けない理由だと思う。
 それでも、ここで晃一や静樹を責めることはできなかった。なんてことはない痴話ゲンカではあるけれど。ただ……。
「休んだのは私の体調管理のミスだから、それは申し訳なかった。それに晃一がそこまでテンパっているのに気付かなかったのも、ね」
「いや……俺も……悪いし……」
 言葉少ない晃一がどんな思いでいるのか、その表情が全てを教えてくれる。
「私も急かしすぎたのかもしれない。今までさんざん甘やかしすぎていたのに、急には無理だよな……」
「……静樹が俺に構い過ぎたら……。恋人に振られてしまうかな?」
 静樹は気付いているのだろうか?
 純哉の瞳に映る晃一は、その答えに肯定してくれるのを期待しているようにしか見えない。
 けれど、静樹は首を横に振った。
「和巳は、私が忙しいのは判っているから」
 刹那、晃一の顔がくしゃりと歪む。けれど、次の瞬間、晃一はかろうじて笑っていた。
「……いい子だなあ。俺も、そんな相手欲しいなあ……」
 揶揄しているのに、声音が掠れていた。
「すぐできるさ。晃一はもともとできる男なんだから」
「はは、だったら良いけどさ……。……ごめっ」
 きつく、きつく。
 白くなるほどに唇に食い込んだ歯。
 俯いた顔から、ポタポタと滴が落ちる。
「泣き虫は変わらないかも知れないけれど」
「っくっ……!」
「私は、仕事を少し片付けます。飛行機の時間には迎えに来ますから……」
 晃一の頭を数度撫で、静樹が一歩下がる。
「啓輔、申し訳ないが、時間まで晃一をここに……」
「あ、良いよ」
 啓輔が頷き、静樹が頭を下げた。そのまま、何も言わずに部屋を出て行く。
 その背を黙って見送っていると、バタバタと階段を駆け上がる音がした。
「晃兄ちゃん……」
 啓輔が慌てて追おうとするのを、肩を押さえて止めた。
「一人にしてあげましょう」
「う、うん……」
 幾ら泣き虫で慣れていたとしても、見られたくない時は有るはずだから。
 それに。
「啓輔、私は静樹さんを……」
「うん」
 彼も、辛いのだと判るから。
 純哉は、外にいるはずの静樹を追った。


「静樹さん」
 静樹は、庭の木の傍らで二階の窓を見上げていた。純哉が呼びかけると、小さく頭を下げてくる。
「すみません。ご迷惑をおかけします」
「いえ……」
 迷惑は確かに被ったけれど、だからと言って邪険にすることなどできない状況だった。
「……晃一さんのこと」
 躊躇いがちに問いかける。
 だが、全てを言う前に、静樹が察して口を開いた。
「私は、晃一のことが好きでした。本当にずっと」
「……」
「けれど、彼にとって私は仲の良い従兄弟で、仕事上のパートナーで……。それだけだったんですよ。それでも良いって思っていました。けれど、ある時私ではダメだと──晃一が…他の話の流れでそういう意味合いのことをはっきりと言ってね、さすがにへこたれていた時があったんです。その頃は、晃一は本気でそう思っていたから、私もそれ以上は何も言えなかったんです。そんな時に、和巳に会って……」
「カズミさん……今の恋人……」
「はい。可愛くてね。一目惚れ……でした。晃一への思いがあっという間に掠れてしまったほどです。だから、晃一から離れようとしたんですが、ちょっと急すぎましたね……」
 苦笑がどこかひきつっていた。
「それに……まさか、今頃晃一が気付くなんて……ね」
 木が生い茂って影になっている窓を、静樹は見上げていた。木漏れ日がその顔に影を作っている。
 冷たい、と思わせる横顔も、今は労りの色を見せていた。
 静樹の視線の先で、晃一は今泣いている。
 30近くになっても、子供のように泣き虫で甘えん坊。
 静樹にとって、晃一は離し難い存在だったはずだ。けれど、諦めて、他の人を見つけて──なのに。
 晃一の遅すぎた自覚。気が付いた時には、今までいつも隣にあった静樹は他人の恋人となっていた。そして、静樹も、もう元のように晃一を思うことなどできない。けれど、晃一の事は今も従兄弟としては愛すべき存在で……。
 どちらにせよ、辛いことだ。
「いまさら、どうしようもないんですね」
「ええ……」
 静樹が即答して、目を伏せる。
「和巳への思いは、晃一の時より強いんですよ……。今更、手放せません……」
 それだけはきっぱりと言い切った静樹が、再度視線を窓へと向けた。
「……少しだけ、待たせてください。晃一は、連れて帰りますから」
「……判りました」
 これは二人のこと。他人である自分に他に何が言えよう。
 純哉は、重苦しいため息を吐くと、黙礼して踵を返した。


 笑ってはいたけれど。
 空港で見送った晃一は、侘びの言葉と笑顔を残してゲートを過ぎていった。傍らには、暗い表情の静樹。
「俺、振られるの慣れているから」
 晃一のそんな強がりと判る言葉が、静樹の顔を歪ませたのだ。
 それでも、静樹は何も言わないままに、晃一を促した。
 罪悪感は、きっと消えない。それでも、静樹も晃一も進むしかないのだ。泣いて何もかも終わらせる時代は、とうに過ぎ去っていた。
「ま、運とタイミングだよなあ……」
 帰りの車の中で啓輔がしみじみと呟いた。
「静樹の思いが強い時に、晃兄ちゃんが自覚していたら、今頃ラブラブだったろうに」
「そうですね」
 けれど、静樹の思いを知らぬうちに拒絶していた晃一。それにあの静樹なら、傷心した姿など晃一には晒さなかったことは容易に想像できた。
 外面が良すぎるのだ。
 それは、純哉自身もそうだから、よく判った。泣きたくても、決して人前では泣かないタイプ。だから、晃一は気付かなかった。
 そして、突き放されて、大事なものを失ったことに気付いた。
 心の痛みはそう簡単に慣れるものでなく、晃一自身言うほどに慣れていないだろう。だいたい慣れていたら、あんなにも泣きやしない。そして、晃一のそんな強がりは、いつまでも静樹を責め立てる。
「辛いでしょうね……」
 しみじみと呟く。だが、その純哉の言葉に重なるように、啓輔がぼそりと呟いた。
「俺も、あの時純哉の思いに気付かなかったら、同じ轍を踏んだのかも。あの時純哉を落としてほんと良かったなあ」
「……」
 思わず、横目で啓輔を見やれば、遠い目をして何かを思い出しているようだ。
「あの時……いつまでも純哉が迫っててくれねえから……。俺も焦ってたんだよなあ……」
 それがいつの時か、容易に想像できて。
「俺がもっと鈍感だったら、晃兄ちゃん達みたいになっていたかな」
 くすりと笑んだ啓輔の視線が、運転手である純哉を捕らえていた。
「そんなこと……」
 顔が赤らむのが自覚できる。
 ステアリングを握る手がじっとりと汗ばんだ。
「最悪のタイミングで、俺、緑山さんに会った。純哉との出会いも最悪だった。けど、その後の全てが俺にとっては転機だったんだろうな。それまでの悪い運から抜け出るための。そして何かあった時には、いつも純哉がいてくれたから……。今の俺がここにいる」
 静かに、訥々と語る啓輔の顔を純哉は見れなかった。熱い視線は感じている。じんわりと込み上げる熱は、体を支配しようとしている。
 その視線と熱を、純哉は運転中だと意識を逸らして堪えていた。
 けれど。
「一人では堪えられそうにないことでも二人いれば忘れられることも早い……か……、ほんとだな」
 啓輔が、意味ありげに呟いた言葉に、純哉の顔がひくりと強張った。
「静樹には、カズミって相手がいるから、後は晃兄ちゃんだよな。まあ、あれでマザコンっぽいところが消えて、静樹離れができたら、結構良い男だし……。まあ……大丈夫だろうなあ」
 視線が外れない。
「俺だって、純哉に会えたもんな」
 ステアリングを握った左手に啓輔の手が触れて、耳の近くで吐息が聞こえた。そこに含まれる意図に気付いてしまう。
「啓輔……危ないですよ……」
 責める声音が情けなく震えた。
 落ち着け、と叱咤する理性を突き崩すように、体の熱が暴れていた。
「なあ、この先……しばらくすっとご休憩場所があるんだけどなあ。俺、何か欲しくなった……」
 くすくすと笑う啓輔を横目で睨む。
 けれど、それが弱々しいものだと純哉は自分でも気付いていた。冷房で冷やされた空気を吸い込み、込み上げる熱を逃そうとする。だが、そんな僅かな冷気など役に立たない。熱は体の奥でさらにわだかまり、大きくなっていた。
 弱い、のだ。
 啓輔にこんなふうに迫られることに。
 自ら主導権を握っていれば良いが、うっかり手放そうものなら、平静さを保つことに四苦八苦することになる。そんな純哉を啓輔は良く知っていて、時々こんな風に主導権を奪おうとする。
「家さ、片づいていないから……な」
 再度促されて、道ばたの看板を指さされる。だが、純哉にしてみれば、それに答えることなどできようはずもない。
 悪戯な手が、純哉の体を辿っているのだ。
 明るい日差しの中、対向車から丸見えになるのに。
 人一倍羞恥心の強い純哉には、酷な行為だった。しかも、一度外れた仮面は、容易には元には戻せない。
 それが判って、啓輔はからかう。
「……硬く……なってる?」
 自分だって、だろうにっ!
 言葉にする前に、強く押さえられて、息を飲む。
 啓輔のそれだって押さえてやりたいのに、運転中ではどうしようもなくて。
「……いい加減にしなさい」
「何を?」
 揶揄する啓輔を睨み付けて。
「判りました」
 それでも大人の矜持を保つように、純哉はきっぱりと言い返した。もっとも返ってきた意地悪い笑みは故意に無視したけれど。



「今日は、純哉が下だな」
 車を止めて部屋に連れ込まれた途端に、耳元で熱く囁かれた。
「どうして?」
 それでも抗おうとした純哉に、啓輔がくすりと笑う。
「静樹を見ていたら、あの時の純哉のこと思い出した。言えなかったんだよな、純哉も。で、車の中だったよな、俺が純哉にキスしたの。告白したのもさあ……覚えてる?」
「そんなこと……」
 忘れるはずもない。
 あの日、自分達の運命の糸ははっきりと絡んだのだから。
「なあ、良いだろう?」
 あの時より、さらに成長したように見える啓輔。男らしく、落ち着いた雰囲気も増した。けれど、時に子供のように純哉をからかう。
 まだまだ少年から青年へと脱却しようとする啓輔は、眩しいくらいに輝いて見える。
 そんな啓輔の言葉に、純哉はわざとらしくため息を吐いた。
 こんなにも参っている、なんて思われるのが癪で、恥ずかしくて。
 口元を歪めて、啓輔を見つめる。
 熱が上がって朱に染まった肌は隠しようもないが、それでも、と冷静な声を出して。
「しょうがないですね……。まあ、今回は啓輔も頑張ったことだと、ご褒美、ということで」
「なんだよ、それ」
 ぷんと拗ねたように見つめてくる。けれど、次の瞬間、その表情が笑みへと変わった。
「まい、良いけどね」
 見透かされた恥ずかしさは、さっきより激しい。
 だがそれ以上に、啓輔に触れられた体が、熱く燃えるようだ。
「今日は、堪能させてね」
 乞われて、嬉しくて堪らない。けれど、恥ずかしい返事はしたくなくて、純哉はしなくて済むようにと自ら唇を重ねた。


 熱く絡み合う舌先が、きつく吸い上げられた。
 頭上から降り注ぐシャワーが、二人の体を濡らしていく。互いに清めているうちに、それがエスカレートしてしまったのだ。啓輔の手が、慣れた仕草で純哉の後孔を解していく。回数はまだ少ないが、それでも得た経験が、啓輔の手際を良くしていた。今はまだ純哉の方が優勢だが、いつか立場が逆転するかも知れない。
 啓輔を抱きしめて、零れそうになる声を必死で堪えた。
 と──深く入り込んだ長い指が、前立腺近くを掠めた。
「ん……くっ……」
 崩れ落ちる体に覆い被されて、耳朶を噛み付かれた。
「ベッド……行ける?」
「……え、ええ……」
 潤んだ視界の中、至近距離で啓輔が嬉しそうに笑んでいた。途端に、顔が熱くなって、俯く。
 これが啓輔以外の誰かであれば、平静さを保てるというのに。
「こういう場所でするのも楽で良いね」
 シャワーからベッドまで僅かな距離。あっという間にベッドに押し倒され、上から啓輔が覆い被さった。軽くタオルで拭いただけの体から滴が落ちてくる。純哉の肌を辿るそんなものですら愛おしいとでも言うように、啓輔が大事そうに舐め取っていた。
「ん……」
 体が甘く疼く。舐め取る濡れた音が、耳朶から脳を侵していく。
 付き合いだしたから一年あまりだ。
 何も知らなかった少年はもういない。
「か?わいい?」
 ふざけた言葉すら愛撫に変えて、純哉を翻弄する男。
 彼のいきりたった逸物が、解れて熱く疼く後孔へと当てられる。
 とくん、と甘い期待が胸の中で踊る。欲しくて堪らなくなって、勝手に腰が動こうとするのを必死で止めた。
 こんなにも体は変わってしまった。
 相手が啓輔であるならば、何をされても嬉しい、と思うほどに。
「啓輔……」
「何?」
 虚ろな瞳で啓輔を捕らえて、腕を伸ばす。
「私を……踏み切らせてくれたのは、貴方です……」
「え?」
 何を言われたのか判らないとでも言うように、動きを止めてきょとんと純哉を見下ろす啓輔を微かな笑みを浮かべながら引き寄せた。
 同時に、その腰をも引き寄せる。
「んっ……ぁっ……」
「んくっ……」
 ずぷりと侵入を果たす熱。
 その熱に浮かされて、矜持も理性も何もかもが弾け飛んで消えていく。
 啓輔だけが、純哉を狂わせる。
「ひっ……やぁ……」
 激しい律動に汗が散った。どちらからともなく唇を合わせ、舌が深く絡み合う。
 喰われるような激しいセックスは、啓輔相手で初めて知った。こんなにも欲しがられることが嬉しくて堪らない。
「あっ……けーすけ……っ、啓輔っ!」
「良いよ、その顔、たまんねえ……可愛い……」
「んぁ……、もぅ、焦らす、な……」
「そんな事言ったって、もったいないじゃん……」
 奥深くまで抉って欲しいのに、入り口近くで抜き差しを繰り返す啓輔を睨めば、困ったような笑みを返された。
「でも、その顔も堪んねえし……もう……休憩なんてやめよ、なっ」
「そ、んな……ぁぁっ!」
 深く突き上げられ、意識が白く弾ける。
 甘い疼きが電流のように四肢に四散した。指先が痺れたようになって、巧く動かない。
「一晩中、欲しい。今からずっと……抱き殺したいくらいに……」
 とても冗談とは思えない口調に、ぞくりと肌が粟立った。
「啓輔……」
「良いだろ、な?」
「けい……すけっ……」
 そんな問いは答えられるものではなく、ただ必死で首を横に振ってみたけれど。
「欲しいんだよ」
 熱く囁かれて、体の力が勝手に抜けた。
「もう……」
 結局は、苦笑しながらも受け入れて、啓輔の背に回した手に力を込めた。
「可愛いよ、純哉……」
「んあぁ」
 深く貫かれて、嬌声が零れる。何度も何度も奥深くを抉られ、手によって扱かれた。
 こんな快楽も、相手のことが愛おしいと思うからこそ、だ。
 そして、それをくれたのは、啓輔だけ。
「啓輔……ああっ……啓輔っ…んくっ…」
 近づく限界に、ただ啓輔の名を呼ぶ。
 もっと、と言えない代わりに名を呼ぶのだ。
「啓輔っ……けっ…すけっ……」
 あの時。
 啓輔が理性に邪魔されていた純哉に先を促した。考えるより先に、行動することを教えた。
 だから。
「あぁぁっ!」
 弾ける快感に、ぎゅっと目を瞑る。
 まだあどけなかった頃の啓輔が、くっきりと浮かび上がった。
『あんたって……ほんと素直じゃない……』
 苦笑して、それでも、キスを繰り返して先を促してくれた。でなければ、いつまで経っても純哉の方からは、言うことなどできなかったろう。
『好きです』
 簡単な単語だからこそ、言えなかった言葉。
 転機をくれたのは、啓輔の方だ。
「啓輔、好きです……愛してます」
 うっとりと耳元で囁けば、くすぐったそうに啓輔が笑って、それからそっと返してくれた。
「俺も、俺も愛している」
 

 足下に伸びる長い影。
 公園で、小さな子供達が影踏み鬼を行っていた。日陰に逃げれば、影は消える。それを巧みに利用する子、ただ駆けて逃げる子。鬼は必死で彼らを追いかける。
 そんな中で、純哉は影に隠れる子だった。
 最低限の労力で、最大限の利を生み出すように。
 頭の良い子だと、親が言うほどに。
 そうやって、生きてきた。目立つことも率先して動くことも、嫌いだったから。
 なのに。
『出てこいよ』
 逆らえない意志の強い手が、差しのばされる。その手を思わず握り、そして、引っ張り出された。
『つっかまえったっ!』
 元気な声の持ち主が、にっこりと笑う。影を踏んだ足が、ゆっくりと近づいて、手を伸ばす。
『さあ、行こう』
 指さすところは、明るい日差しの中、いつでも影ができる場所。


「……啓輔……」
「ん、起きた?」
 眩しいほどの明かりの中で、啓輔が笑っていた。
「無茶させたな、大丈夫?」
「ええ」
 眩しさに瞬いて、こくりと頷く。本当は、とても腰が怠かった。それでも、自然に笑みが浮かぶ。
 ほんの僅かの間、夢の世界を漂っていたらしい。
 何でそんな夢を見たのか、すぐに気付く。気付いたら、無性に言葉を紡ぎたくなった。
「啓輔……ありがとう……」
「ん?」
 訝しげに首を傾げた啓輔に、言葉を継いだ。
「あの時、啓輔が私に言葉を強要してくれて、良かったんだと今でも思っています。啓輔が言ってくれなかったら、晃一さん達のようになっていたかも」
「え、ああ……あの時」
 面はゆそうに笑う啓輔の腕を引っ張って、口付ける。
「ありがとう……」
 心からの、感謝を込めて。
 触れあうだけのキスは、二人を繋ぐ神聖な儀式であるかのように、いつまでも続いていた。

【了】