金曜日の夜。
隅埜啓輔はいつもより遅い時間に原付バイクを走らせていた。
春とは名ばかりの季節に、バイクを走らせるのは辛い。
できれば早く辿り着きたいんだけど……。
視線がちらちらと前のかごの中を窺う。そこには、新聞紙に包まれた束が揺れていた。冷たい風に飛んでしまいそうで、スピードが上げられない。
もっと早く帰りたかったのになあ。
溜まらずにため息が零れる。
土日があるから、と思うせいか、金曜は残業になり易い。
できれば机の上が綺麗な状態で──つまり仕事が片づいた状態で、と思い出したのはいつ頃からだろう? すっきりとした机上を見れば、なんだかほっと安心する──というのは建前で、土日の行為が過ぎて月曜に休んでも良いように、というのが本当の理由だ。こんなことは誰にも言えないし、言えるわけもない。
そんな啓輔が向かうのは純哉の家だ。
金曜は泊まりに行くことが多い。だから、食事の支度をして純哉を待つこともある。
慣れなかった料理は、今ではそこそこの腕前にはなってきた。
今まで料理というものは、放っておいても出てきた。だから、何とも思わなかったのだけど、今は料理ができる人は凄いと思う。その中に含まれる母親の面影は、最近は優しい笑顔ばかりになった。
それもこれも純哉のおかげだから、早く行って少しでも何かしたい。
それが料理になっただけだ。
いつの間にか習慣になったそれは、啓輔の隣人で、あれこれ世話をしてくれる佐山夫妻にもばれていた。
木曜の夜、「家城さんに持って行ってあげな」と、野菜や花を貰うことが多い。
今もバイクのかごにはジャガイモとそして新聞紙に包まれた花束が入っていた。
朝会社で、夜まで持つのかと心配したけれど、総務の人がバケツを貸してくれて事なきを得た。
櫂にあげるからと誤魔化したつじつま合わせに、ジャガイモを渡す羽目にはなったのもしようがない。
少なくなったジャガイモは、それでも二人で食べるには結構な量だ。
重いかごのせいで安定しないバイク操作に神経を使う。それでも、ようやく見えてきた双子マンションに口元は勝手に綻んだ。
純哉はまだ帰っていない。
一目で判った部屋に灯りが点いていないことに安堵しながら、駐輪場にバイクを止めたのだった。
重たい袋を台所の床の上に置いた途端、ジャガイモがごろごろと転がり出た。
それを足で止めながら、抱えていた包みをテーブルに置く。慎重な運転が功を奏したのか、花びらはちゃんと綺麗についていた。
湿った新聞紙を破きながら開くと、十分瑞々しい緑と可愛い黄色が部屋を鮮やかにする。
今が盛りの菜の花だ。
「花瓶……ここにあったよな?」
戸棚の奥深く、あまり使われていない花瓶は何かの記念で貰ったらしい信楽焼のものだ。それを引っ張り出して埃を払うと花を生けた。
啓輔の記憶では、菜の花は畑で咲いているのが普通だった。綺麗に伸びた茎の先で、黄色い花が幾つもついている。そして傍らで飛ぶのは蜂だ。
菜の花と蜂はよく似合う。
どうしてそう思ったのか、その理由は思い出せない。
きっと子供の頃見た、絵本か何かの風景だったのだろう。
啓輔は、その花瓶をテーブルに置くと、ジャガイモを拾い集めた。
『余ったの、片づけてんのよ。たっぷり使いなさい』
余った、というには数の多そうなジャガイモを、啓輔は、さてどうしてやろうか、と考える。
惑う間、テーブルの上で遊び半分で転がして。
「やっぱ、ポテトサラダかな」
できそうな料理で最近していないものと言ったら、それしかない。
ついでに材料も確認して、にんじんとハムと卵は確保した。
「これなら、純哉が帰るまでにはできるかも」
このジャガイモなら、きっととっても美味しいものにできあがるはず。
食べた純哉の反応を思い浮かべて、啓輔はくすりと笑みを零した。
「ごちそうさまでした」
菜の花を挟んで取った食事はいつもより美味しく感じた。
「やっぱ、おばちゃんちの野菜は美味しいなあ」
手間暇かけているのだろう、いつも感心する。
「そうですね」
純哉も頷いたけれど。
「でも、啓輔の腕も良くなりましたよ」
にこりと嫌みでない笑みが、啓輔の矜持をくすぐった。
「そうかな?」
「はい」
はっきりと頷かれて、啓輔の気分も鰻登りに昂揚する。
「それに、花が飾られているというのも気分が良いものですね」
「あ、うん。菜の花、今季節なんだよな。俺んちの近くの畑でよく見かけるもん」
「あの辺りで? 栽培しているのですか?」
「ん、違うと思う。ほんの少しずつ植えてるし。あと、冬の白菜、そのまんまにして花が出たのもあるし」
「それは菜の花とは違うでしょう?」
「だって、よく似ているじゃん」
呆れたと呟く純哉に笑い返せば、純哉もすぐにおかしそうに笑い始めた。
そんな彼の反応が、嬉しい。
普段、日中は表情が変化しない純哉が、実は感情豊かであると知っているからだ。
「おばちゃんちにね、白菜半分に切ったのが置いてあって」
水栽培ならぬ葉っぱ栽培だと言っていたと教えれば、純哉の笑みはさらに深くなった。
本当はもっといろんな話をしたい。だが、啓輔の行動範囲は狭い。大半が会社の話で純哉も知っているのに、飽きることなく聞いてくれる。
こうやって会話することもあれば、二人でぼんやりとテレビを見たり、本を読んだり。
食事が済めば、片づけもそこそこに二人で並んでソファに座る。もたれ合って、啓輔は漫画を、純哉は新聞を読む。それもいつものことだ。
そして、時間が過ぎれば、どちらからともなく風呂に入って。
だが、今日は啓輔の睡魔が訪れるのが早かった。体に伝わる温もりが気持ちよく、体がだんだんと怠くなってくる。読んでいた漫画の内容が頭に入らなくなり、頭が重くなってきた。
頭が落ちそうになって眠りかけたことに気付く。
この後の事を考えたら、いつもならこんな眠気なんて襲われないはずなのに。
焦燥に襲われて、啓輔は純哉に呼びかけようとした──が。
「ああ、啓輔」
「え、何?」
「新聞に菜の花畑の写真が出ています。油を取るために栽培しているので、畑いっぱいに咲いているそうですよ。近いですし、見に行きませんか?」
「菜の花畑?」
差し出す新聞を見やれば、黄色も鮮やかな写真が四段抜きで載っていた。
「あ、綺麗だね」
「幸い明日は天気も良いことですし、久しぶりにドライブでも良いかも知れませんね」
純哉とドライブ──。
その言葉に、啓輔の気分は一気に昂揚した。
もとより異論などあろうはずもない。
「行くっ!」
眠気すら吹っ飛んだ声音に、純哉が苦笑を浮かべていた。
「じゃあ、明日早めに行きますか? だから、今日はもう寝ましょう」
「うん──ん? 寝る?」
受諾しそうになったが、すぐに首を傾げた。
上目遣いに窺えば、純哉の瞳が、バレたか、と語っている。
「ヤダ」
拗ねた物言いに、純哉が肩を竦めて立ち上がった。
「じゃあ、先にお風呂入りますね」
「ん」
いつもような甘い時間を期待してか、そんな姿を見るだけで下腹にじんわりと熱が集まる。
今日もいつものように。
二人の間で、黄色い菜の花がふわりと揺らいでいた。
「うわっ!」
着いた早々、啓輔の喉から驚愕の声が迸った。
視界一面に広がる黄色い花の絨毯。その全てが菜の花だ。
「このくらい育てないと採算が合わないらしい。大変な労力がいるようですね」
純哉の解説に曖昧に頷いた啓輔は、菜の花畑に魅入っていた。
ここに来るまでは、畑が一つか二つ菜の花だけなんだろうと思っていたのだ。けれど、幾つもの畑が全て菜の花だ。壮観な眺めに見惚れてしまう。
「あ、蜂だ」
「菜の花の蜜を採りに来たのでしょう。そういう蜂蜜がありますよね」
「やっぱり菜の花には蜂だね」
「?」
一人納得する啓輔に、純哉が訝しげな視線を向けた。それを無視してじっと菜の花を見つめる。
黄色い花が、風に煽られて芳香を放つ。
一輪でもそこそこの芳香は、これだけ多量にあるとむせるような感じだ。
「なんか匂いに酔いそう……」
「そうですね。鼻に染みつくような感じですね」
こうしてみると、純哉の家に飾ったあの程度の量がちょうど良いと思える。
何にしても過ぎれば良くないのだと、ふっと思った。
綺麗な花も、見続ければ飽きてくる。
新聞に載ったせいか、やってくる車の量も多かった。振り返れば、狭い道路は混み始めている。
「帰ろっか?」
堪能したし、と純哉の腕を引っ張った。
菜の花畑のあぜ道を、車の方に戻る。啓輔の家の辺りでは、あぜ道を辿れば草いきれの匂いが強いのに、ここでは完全に菜の花の匂いが優っていた。近くまで飛んでくる蜂を警戒しながら車に辿り着いた時には、鼻がバカになってしまっていた。
鍵の音を立て車に乗り込めば、車特有の臭いがしない。
「芳香剤なみですね」
「う?ん、嫌な臭いじゃなかったけどね?」
服にも染み付いているんじゃないか、と匂ってみるけれど、鼻がバカになっていて何も感じなかった。
「さて、どこか行きますか?」
後を次々やってくる車と相対することを嫌って、純哉が来た道をそのまま道なりに進み始めた。
「この先って何かある?」
「津山に向かう国道に降りられるはずなんです。ただし、細い曲がりくねった山道になりますけどね。抜け道……というのが正しい表現でしょうか?」
どこかで、Uターンするか、まっすぐ抜けるか。
二者択一に、啓輔は「まっすぐ」と答えた。
「なんかもったいねえもん」
このまま簡単に帰るのはもったいないと思ったからだ。
純哉も異論はないようで、狭い道をずっと北上する。じきに菜の花畑も他の畑も田んぼもなくなった。
深い山の中、両脇はどちらを向いても緑の斜面だ。
ずっと黄色を見ていたせいか、複雑な緑の紋様にほっとする。
窓を開ければ、強い芳香ははもうない。爽やかとも言える緑の匂いが、心を和ませた。
「気持ちいい?」
春の始めとは言え、昼間ともなれば日差しが心地よい。
純哉も窓を開けている啓輔のために、ゆっくりと車を運転していた。幸いにして、後にも前にも車はない。
「あ、川だ」
不意に視界が広がって、眼下に岩だらけの川が見えた。川面を反射する陽光が眩しいほどだ。
「あそこ、車が止められますね。降りてみますか?」
「ほんと? 降りるっ」
止めた場所から川に降りる道はない。だが、河原まで二メートルほどの落差だ。苦もなく降りられる。
「綺麗な水だね」
ひどく冷たかったがその痛みすら気持ちよく、啓輔は堪らず手首から先を全て浸した。
「あの菜の花畑からここまで、15分程しか走っていないのに、こんな場所に辿り着くなんてね」
「啓輔はこういうところが好きなんですか?」
「好きだよ」
畑や田んぼに囲まれた土地で育ったせいか、たまに自然いっぱいの空間に辿り着くとほっとする。
「遊ぶのはそりゃ街中が良いって思うけどねえ。でも、こういうとこは好き。なんか、楽しいんだよね」
「そうですか」
「そうだよ」
その表情を見ていれば、純哉はそんな思いには捕らわれないのだろうとは思う。要領を得ない顔をしていた。
それでも、反論はしない。それどころか、純哉の目は優しい。
「しばらくここにいますか?」
「いいのか?」
「別に他に用はありませんし」
穏やかな表情を見て取るだけで、純哉が心の底から言ってくれているのが判る。
もっとも川辺で遊ぶと言ってもすることもなく、流れに沿ってしばらく歩くだけだ。その後を純哉も無言で付いてくる。嫌なら文句の一つも出るのに、それがないことを見れば純哉も愉しんでいるのだろう。
「俺、あんま山と川で遊んだ記憶ってないな」
眩しげな川面から木々の方へと視線を移せば、今度は木漏れ日が目を射る。
幼い頃の思い出に浸ってみるけれど、こんな記憶はどこにもなかった。
「神社の近くに山がありましたけど?」
「山っていうか、木がいっぱいってだけで。川にいたっては、危ないからって……」
それでも、もっと小さな小川なら遊んでいた。
目の前の川はそれほど大きくないけれど、岩が多く、流れが急だ。その分水の変化が激しく、見ていて飽きない。
「魚いないかな?」
「見えませんね」
穏やかな会話も心地よい。
鳥の鳴き声と木の葉が風にざわめく音と、川のせせらぎ。
ふっと気付けば、二人だけでここにいる。
啓輔の視線が、川面からまるで捜し物をしているかのように彷徨い、純哉へと向けられた。
「何です?」
向けられた視線に純哉が笑みを見せる。
そのことにひどくほっとする。
「なあ、純哉?」
手を伸ばせば、その手を掴んでくれた。冷たい水に浸していた手は、熱いほどにその温もりを感じる。その熱が、啓輔の奥底にある種に火をつけた。
「あなたって人は……」
呆れて、けれど微妙に視線を逸らす純哉を引き寄せる。
「だって、二人きりだもん」
甘えた口調に、純哉も諦めたのかなすがままになっていた。触れあう唇は、同じ体温を伝え合う。強い力が背を抱き、代わりに啓輔も腕に力を込めた。
鳥が澄んだ音色の鳴き声を響かせる。
ひんやりとした風は、そんなものでは二人の間を分かつことはできない。かえって、ますます二人を強く結びつけた。
小さな濡れた音も、口の中で呟く名も、二人だけにしか届かない。
長いキスの後に、もう一度、と吸い付いたけれど、それはすぐに離れた。
潤んでいる純哉の瞳を見つめて、啓輔自身も潤んでいるだろうと思う。
そして、もっと欲しい……と願う。
「帰りますか……」
欲望が感じられる声音に、一も二もなく頷いた、けれど。
「ここじゃ、駄目かな?」
帰る時間が惜しい。
「……無理です」
きっぱりと言い切った純哉が途端に早足になったのを、苦笑を浮かべて見やり、その背に呼びかける。
「待てよっ」
「嫌ですっ」
「何で? ここでするのも楽しそうだけど?」
「っ!」
揶揄したわけではないけれど、見てとれる首筋は真っ赤だ。
もっとも、何も言わなくなった純哉に無理強いするつもりはない。
ちょっとだけしたい気持ちはあったが、触れあうだけならともかく、その先は嫌がるものを無理にする気はない。
「判ったって、怒るなって」
あやす口調が気に入らなかったのか、ちらりと振り返った視線がきつい。
「ごめんって……。でも、その……ちょっと……、あんまりいい雰囲気だったからなあ」
このまま帰ってしまうのは、惜しい──と思っただけだった。
訴える啓輔の言葉に、純哉はずっと怖い顔をしていた。
だが、二人して車に乗り込んだ途端。
「……ここはね、人が来るかも知れないでしょう? それに、まだ寒い……」
エンジンスターターが回る音に掻き消されそうな声音が、かろうじて届いた。
目を見張る啓輔の視線の先に、きつく唇を引き締めた純哉の横顔がある。
「それに……今日も泊まるんでしょう? その……ここではしないから……。だから、今日は啓輔がしていいから……」
ため息に掠れた声が乗って届く。
その言葉の意味は、間違えようもない。
「やったっ!!」
小躍りして悦ぶ啓輔に、純哉の視線は向けられない。運転しているからではない。動揺をひた隠している事が判る横顔は、さらに啓輔を悦ばせる。
「俺、なんかドライブが好きになった」
「……そんなことを言うなら、二度としませんよ」
何を言われても、もう啓輔の耳には届かない。その代わりに啓輔の鼻がくんと音を立てる。
「菜の花、まだ匂ってる」
そんなことも嬉しい。
きっと黄色い花をを見るたびに、今日の出来事を思い出すだろうから。
【了】