【鬼の子】 1

【鬼の子】 1

 それはほんの僅かなものだった。
 啓輔自身、自らも香りをまとうようになってからか、他人の香りにも敏感になっていた。
 だから、気が付いたのだろう。
 純哉の部屋に漂う微かな香りの違和感に。
「……誰か来ていた?」
 休みの日に、ふらりと寄った純哉の部屋で、その違和感に気が付いた。
 窺う視線の先で昼過ぎまで寝ていたのか、ぼんやりとした純哉は訝しげに返してくる。
「別に? 何かありましたか?」
 では、この香りは何なんだろう?
 純哉の部屋に今までなかった、ある種の甘みのある香りだ。けれど、それも微かなもので油断すると逃げていってしまう。
 啓輔はこの香りは知っていた。つい先日、緑山のところで嗅がせて貰ったものだからだ。
 くんくんと鼻を鳴らして香りの源を探っていく。
「これ、新作の香水の匂いに似ているよ」
「そう……ですか?」
 純哉のほんの少しの動揺は、すぐに無表情の下に押し隠された。
 その僅かな変化は、明らかな異変を教える。
 誰も来ていないなら、この香りは一体どこで付いたのだろう?
 思わず疑いの目を向ければ、さっきよりはしゃきっとした純哉が明快に答えた。
「昨日香水の売り場を覗きましたから、その時着ていた服に付いたのかも知れませんね」
 言われて辿れば、確かに放置されていたジャケットが源のようだった。香りが完全に飛ぶ前に脱いだろう。わずかな残り香がその服に付いていた。
「へえ、純哉が香水売り場?」
「啓輔が最近凝っているでしょう? だから、どんなものかな、と思いまして」
 啓輔に近づきながらくんと鼻を鳴らした家城が、笑みを浮かべる。
「今日は啓輔の最近のお気に入りですよね。確かトゥルース……でしたか?」
「うんそう。純哉も判るようになったね」
「啓輔が好きなものは何でも知っておきたいものなんですよ」
 くすっと至近距離で笑われて、吐息が頬をくすぐる。
「そんなもの?」
「そんなものですよ」
 唇の端に口付けられて、くすぐったく身を竦めたけれど。
 下肢にまで響いた甘い疼きに、すぐに互いに求め合う。純哉の忍び込んできた手が肌をまさぐって、心得た愛撫が啓輔の熱を高めていく。
 熱くなった吐息を漏らし、手が純哉のシャツにすがる。
 あっという間に体は純哉を堪らなく欲しがって、啓輔は欲情に掠れた声で乞うた。
「なあ、今日は……」
「そうですね……」
 そう言うくせに。
「ちょ、ちょっと……あ、んん……っ」
 全身を走る痺れに、捕らえようとした力が抜けていく。
 純哉の感じる場所を探ろうと伸ばした手は堰き止められ、力強く、熱い体が覆い被さってくる。
 抗おうとする気力が、敏感になった嗅覚のせいで萎えていく。欲情を煽ってくれる純哉の匂いを敏感に感じてしまうからだ。
 それは、主導権を握ろうとするには邪魔になった。
 純哉の雄のフェロモンは、啓輔にとっては媚薬に等しい。下腹が熱くたぎり、力が入らなくなる。
「うっ、そこっやだ──」
 まして、純哉の指が体内に侵入を果たせば、期待にさらに煽られる。自分の体だというのに制御できない。びくびくと全身が震えて、肌がざわめき、純哉に逆らえなくなって。
「可愛いですよ、相変わらずここは元気で」
「ひっ!」
 元気になった雄を握りしめられて、全身が歓喜に打ち震えた。
「あ、ああ──」
 背から押さえつけられて、深く挿れられて、喉から嬌声が迸る。
 欲しいのは変わらない。
 けれど、こうなればもう流されるがままに純哉に翻弄されるしかない。
「あぁ……ふぁ……」
 ずんっと熱を持った塊が体内を抉っていく。と思えば、すぐに抜かれて、また打ち付けられる。
 小刻みな抽挿も、激しい抽挿も、どちらも熱を高めていった。
「ああ、凄いですよ……絡みついて──熱いっ!」
「あ、あああっ!」
 全身が硬直し、そして打ち震えて、意識が弾けて。
 今日も負けかあ……。なんか最近ずっと……負け続け……。
 脱力する寸前、ふっとそう思った。


 
 久しぶりに歩く街中は賑やかで、見て歩くだけで楽しい。
 そう思って楽しく過ごしていたのに。
「……あんた……」
 ずるっと知らず後ずさる。
 気分は一気に急降下し、今はもう最悪だ。
 会いたくない相手というのは誰にでもいるかも知れないが、啓輔にとって、その最たる相手が今目の前にいた。
「久しぶりだね、啓輔君」
 にこりと笑う男から、体が知らず逃れようとする。なのにさせてくれない。
 二の腕を強く掴まれて、啓輔はその男──槻山を睨み付けた。
「離せよっ」
 地下街の店が建ち並ぶ一角で騒ぐ啓輔たちの周りは、ぽっかりと空間が空いている。
 他人が頼りにならないのは、前回の一件で自覚していた。
 だから。
「なんか用かよっ!」
 自分が強くなくてはならないのだ。
 そう思って睨み付けたというのに、槻山はくすくすと笑っていて。
「いや、見かけたから声をかけただけだ。暇だったら、一緒に茶でも飲まないか?」
「……」
 しかもナンパされてしまった。
 笑みを浮かべる槻山は、人の良さそうな顔をしている。かっちりとしたスーツを着込み端正な顔立ちを持っている槻山は、普通に女性に声をかければ幾らでも引っかけられるだろうに。
 けれど、この男はこの顔で啓輔たちを苛んだ。その事は忘れようがない。面白ければそれで良いという男の誘いなどに迂闊に乗れば何があるか判らない。
 どんなに優しく微笑んでいたとしても、啓輔も槻山の本性を知っているから、逃げることしか考えなかった。
「遊ぼうよ。ほんと暇なんだよ?」
「冗談じゃねえ」
 拒絶すればますます掴まれた腕の力は強くなる。どんなに振り解こうとしても、食い込んで痛みが増すだけだ。それでも、啓輔は断固として拒絶した。
 なのに槻山は笑うだけだ。
「まあまあそう言わず、何もしないって。私も三時の新幹線に乗らなきゃいけないからね」
 三時……。
 ちらりと時計を見やれば一時間ほどしかない。その言葉を信用する訳じゃないけれど。
 でも……。
「あんたなら、一時間もあれば突っ込みそうだよな」
 言ってしまってから、やりそうだと納得してしまう。この男なら、絶対にするだろう。となれば、やっぱり逃げるしかないのだ。
 だが、槻山もしつこく、あやす声音がさらに甘くなる。
「あれあれ、信用無いなあ。何にもしないから、ね?」
「信用できるかっ!!」
「ほんと、懐かしくて声かけただけなのになあ。そりゃ、私も時間があればホテルまでご一緒したいのは山々なんだよ」
「一人で行ってろよっ! もう俺を巻き込むなっ!」
「だって、面白くないじゃないか、一人でなんて」
「それだったら……、あっ、タイシはどうしたんだよっ!!あんた、あいつ連れて行ったんじゃないのかっ」
 せっかく休み返上で講習してやったのに。
 なんでこんな男を野放しにしてんだっ!
 理不尽な怒りが湧き起こるけれど、目の前の男は、のほほんと笑う。
「あの子は東京に居残りだよ。宿題できなかったら、連れて行かない約束だったからね。あはは」
 嘘吐けっ。
 毒突こうとした台詞の代わりに、啓輔はきつく唇を噛みしめた。
 昔は何かと策を凝らすタイシであったけれど、この槻山相手だとそれも難しいのだろう。 
 そんな様子は、この前の講習の際にもよく聞かれた。
 今頃タイシも荒れてんじゃないかな。
 と、ふと考えたが、今はそれどころでないと啓輔は慌てて槻山に意識を戻した。
「だあからっ、いいから、いい加減離せっ! 痛いっ!!」
「だったら、お茶しよう、ほら、そこのカフェならいいだろ?」
 ずるずると目の前のカフェに連れ込もうとするけれど。
 確かにそこはガラス張りで人通りも多い場所で、何かするような所では絶対にない。だが、さっきからの押し問答は、中の客達の良い見せ物になっていたのは確実だった。
 今も視線が痛い。
「わ、判ったからっ、だから、あっちの方が良いっ! 俺、あっちのケーキの方が好きだからっ!」
「ああ、あっちのか? OK、行こう」
「……」
 ぐいっと引き寄せられ、二の腕は解放されたが今度は肩に腕を回された。
 ぴったりと密着しているこの格好は堪らなく恥ずかしい。今時の男女のカップルでも、そうそういない。
「離れろよ、逃げねえから」
「いやいや、啓輔君とこうしていると楽しいから」
「俺は、嫌なんだよ」
「嫌われたもんだねえ……」
 残念そうには言っているが、声音は酷く楽しそうだ。からかわれているのだとはっきり判る。
 と──。
 鼻腔に覚えのある香りが届いた。
 空調の流れが変わったのか、それともからかうように強く抱き寄せられたせいか。
 グリーン系の香りだが、ほんの少し甘さがある。
 記憶にある匂いに似ていて、だが少し違うような気もする。
 けど──よく似ている?
 つい先日、純哉のところで嗅いだ香りとだ。
「あんた……香水使ってんのか?」
「香水? ああ、これかい。そういや、あの子が自分に合わないからと言っていたのを付けてみたのだがね。似合うかい?」
 くんと袖口を嗅ぐ仕草に、だから香ったのかと気が付いた。
 槻山は手首に香水を付けたのだろう。だから、肩を組まれた時にその手首から匂ったのだ。
「タイシが?」
「そうなんだよ。ああ、君にも貰ったのがあるとか言っていて羨ましかったよ。私には何かないのかな?」
「ねえよ」
 きっぱり言い切って、そういえば、別れる日に一つ、ミニ香水を渡したなと、思い出した。
「最近新作の香水を幾つか買って試してみたようだけど、これはあまり気に入らなかったようだ。私がこれをつけて近づくと嫌そうな顔をするのが面白くてねえ」
 笑う槻山に、そんなはずはないとは言えない。タイシは爽やかな中にも甘い匂いを好んでいたのを知っているからだ。
 結構、頑張っているじゃん。
 一度は喧嘩別れで決別した友人であったけれど、それでも頑張っていて欲しい。彼が頑張っている限り、この男が野放しにならないと思っていたのに。
「なんて……名前か忘れたけどね」
 言われて、また香水の事を思い出す。
 そうだ、やっぱり似ている。
 香水は、付けた人によっても時間によっても変化するから、はっきりとは判らないけれど。
「あんた、さ……純哉に会った?」
「純哉?」
「うん」
 会うはずなどない。けれど、何となくあの香りの持ち主が、槻山のような気がした。それは直感でしかなくて、確たる証拠もなくて、当てずっぽうにしか過ぎなかった。だが、違うと言ってくれるのを期待する啓輔に向かって、槻山ははっきりと頷く。
「ああ、家城君ね。先日会ったよ……おとつい、にね。よく知っていたな」
 それでは、やはり。
「残り香……純哉の服に付いていた」
「残り香?」
「その香水。何で純哉と会っていたわけ?」
「知りたいなら、カフェじゃすまないよ」
「……あんた……」
「どうする?」
 ニヤリと探りを入れてくる槻山を殴りつけたくなって、啓輔はその衝動を必死で堪えていた。


 カフェでは話せないとごねる槻山を、啓輔は胡乱な目で睨み付ける。
「一時間しかねえんだろ?」
「ああ、そうだった」
 わざとらしく項垂れる槻山を、本気で殴りつけたくなる。あの時にされた事、忘れたことなど無い。
 自分ばかりか敬吾まで辱めたこいつを許せるものではなかったが、今はそれを差し置いても気になることがある。
「だから、どこでも良いから適当なとこを探すからな」
「ふむ、時間もないことだし……。ああ、あそこなら良いか」
 何を思いついたのか槻山がいきなり通路をかくんと曲がる。もっとも、いきなりの行動に遅れかけた啓輔の腕を引っ張ることは忘れていない。
「ホテルじゃないから、安心しなさい」
「ホテルじゃなくても安心できないって言ってるだろ?」
 文句を返す啓輔の足は、それでも素直に動いていた。
 なぜ槻山が純哉と会っていたのか、その理由が知りたくて堪らないのだ。
「それって、マジで人前では話せない内容なのかよっ」
「う?ん……、まあ、そうかな?」
 意味深な表情に、啓輔の胸の内にもやもやと渦巻くものが生まれる。それは、胸につかえて息苦しくさせ、意識を暗く支配するものだ。
「どこまで……」
 気が付けば、そんなに離れていないのに人気が減っていた。
 と思う間もなく階段を上がって地上に出ると、そこは駅の外れ、バスターミナルからも離れていた。そのせいで、ひどく閑散としている。
 裏通りというわけではないけれど、人の流れから外れた場所なのだ。
「このベンチ……今日は寒くも暑くもないから良いだろう?」
 槻山が指し示したベンチの、その意外さに啓輔は目を剥いた。
「こんなとこ?」
「ホテルも駄目だって言ったのは君だよ」
「そりゃそうだけど」
「まあ、座りたまえ。私もどうしても新幹線に乗り遅れるわけにはいかなくてね、残念なことに」
 残念そうにホテルを見やる槻山に同情する気などさらさらない。
 ただ、知りたい。
 そのことが、啓輔を動かし、多少ためらうことはあってもそのベンチに腰を下ろさせた。
 確かに、ここなら無体な事はされないだろう、という気もあったからだ。
 ちらりと周囲を窺えば、少なからず人目はある。
 ただ、遠すぎて話し声は聞こえないだろう。
 確かに槻山の言うとおり、話をするにはもってこいの場所だった。
「で、何で純哉と会っていたわけ?」
 さっそく切り出して、ヒョウヒョウとした槻山の横顔を睨み付ける。
 口が巧い槻山に、騙される気はさらさらなかった。
 だが、槻山は何でもないことのようにさらりと言ってのけた。
「ああ、そういう約束だったんだよ。君を助けた時、あの子の居場所を教える代償だ」
「俺を?」
 助けた、といえば、あの時のことしかない。
 そういえば、啓輔の居場所を教えてくれたのは、この槻山だったということは聞いていた。だが、その他の事は詳しく聞いていない。
 今更ながらにその事に気付いた。
「会って……それで」
 何か嫌な予感がした。
 槻山が愉しそうに笑っているのも気になる。
 この男が純哉と会って欲すること──それが一つしか思いつかない。
「彼はね、昔から目を付けていたんだよ。だけど、なかなかなびいてくれなくてね」
「昔、から?」
 聞きたくない。
 警報を鳴らす理性を聞きたい欲望が凌駕する。
 啓輔は、ただじっと槻山を見つめていた。問い返した声音も、つい出たものでしかなかった。
「何だ、そのことも知らなかったのかい? まあ、君とつきあう前──ずいぶん前だね。その手の人間が集まる場所だな、初めてあったのは。可愛かったよ、彼は」
「かわ、いい?」
 純哉のことをそんなふうに言ったのは、自分以外では聞いたことは滅多にない。
 まして、こんな相手から聞こうとは……。
 軋む音が頭の奥深くで聞こえた。胸の中に広がり始めた暗く澱んだモノが、確かな形になってくる。
「可愛いよ。今でこそ仏頂面が板に付いているけれど、あのころはそうでもなかったしね。けど、ガードの堅さは変わらなかったな。私なんて嫌われてしまっていたからね」
「純哉はお調子者は嫌いなんだよ」
「ははっ、そうかもね。だが、素直でない子は私は好きだよ」
「それで?」
 なかなか進まない話に苛々と、啓輔は先を促した。
 聞くな──という理性の言葉は無視していた。
 聞かなければならないのだ、たとえどんなことであっても。それが自分達のためなのだ。
 そう思いながらも、確かに煽られいてく負の感情が抑えきれない。
「まあ、それで、久しぶりに一人でこっちに来たこともあって、連絡を取ったんだよ。会おうって」
「それで?」
「会ったよ、金曜日だったから……夜7時に、ここで」
 槻山が立てた親指を後方へ向けた。それを視線で辿っていって、啓輔の口が何か言いかけて止まる。
 そこに在ったのは、県下でも一二を争うホテルだ。
 そのホテルを見上げながら、槻山が呟く。
「可愛かったよ、彼は。一度きりの約束が悔しいくらいだ」
 心が、さらに軋む。
 大きくなった音から堪えようと奥歯を噛みしめた。
 口の中が粘ついて、気持ち悪くて仕方がない。
「教えて良かったよ。こんな役得があるなんて思いもしなかったけどね。本当にあの子は可愛くて……」
「可愛かった……?」
「ああ、とっても」
 ホテルで。
 可愛かった、という言葉。
 純哉の服に残っていた残り香。
 そして、この男の性格。
「彼は可愛い声で啼くんだね」
 啓輔しか聞いたことのないはずの声を褒める。
「俺の……せいで?」
「ん? ……ああ、君のおかげだね。彼を抱けたのは」
 それは、決定的な言葉だった。


 おみやげ、と渡された紙袋が重い。
 自分のせいだと思うと、純哉を責めることなどできない。
 けれど。
 堪えきれない程に膨らんでくる胸の奥の澱みをどうすればいいのだろう。
 押さえつけられない。
 言ってくれれば、あんな奴の所になど行くことはないと、止めることもできたのに。
 巧くすれば、タイシにも相談して、何とか策を取ることだってできただろう。それをしなかったのは、啓輔のためだったのだろうけど、逆効果だ……。
 純哉の行為を肯定的に考えようとする度に、けれど、と頭が反発する。
 ずっとずっと、最近ずっと、抱かせて貰っていない。
 最近頭の片隅にずっと引っかかっていた事が、こんな時に頭をもたげてくる。
 あいつには抱かれたのだ。
 俺には抱かれないくせに。
 槻山の体の下で純哉が悶えている姿が鮮明に脳裏に浮かぶ。
 それはひたすら受け入れられない映像だ。
「ちくしょうっ!!」
 悪態が口をつき、全身が小刻みに震える
 啓輔自身のせいなのだからと、必死で我慢しようとするのに、それとは別問題だと感情が暴発しようとする。
「ああ、これ、重てえっ!」
 無理矢理渡された荷物が、意外に手に食い込んで、よけいに啓輔を苛つかせた。
 いらないと言い張ったのに、ロッカーから出してきた荷物を無理矢理持たされたのだ。
「何なんだよ、これっ?」
『君にあげるよ。私は今回使う暇が無くてね、君ならきっと有効活用してくれそうだ』
 何のことだ? と思って、結局持たされた中身の正体はまだ知らない。
 このまま持って帰る前に一度確認した方が良いかも。
 そんなことに気が付いて、啓輔は人気のない路地に入り込んだ。
 片手で袋の中を漁り、箱に入ったそれを取り出して。
「……まさか……」
 乾いた笑いが零れ、箱を慌てて突っ込んだ。
 見えないように上にタオルが入っていたのも、道理だと頷けてしまう。
 思わず、袋ごと地面に叩き付けようと持ち上げた。
 が、そのタイミングで近くを人が通り、慌ててそれを下ろす。
 代わりにいろんな悪態が口をついて出てくる。
「あの野郎……」
 これを純哉に使おうとしたということか?
 使う暇が無かったという言葉を信じたい。
 けれど、槻山の言葉など信じられるものではない。
 だったら、純哉を抱いたという言葉も信じられないはずなのに、それは信じてしまっている。
 自己の矛盾が判っているのに、それでも純哉を責めることしか頭にない。
「どうすれば良いんだよっ!!」
 混乱した頭が、ぐるぐると幾つもの映像を繰り返す。
 それは、どれも純哉が槻山に押し倒されている姿なのだ。
 純哉の白い肌が朱に染まり、喉元を晒して仰け反る。
 切なく物欲しそうに見据えて、震える手で抱きしめてこようとする。
 ぎゅっと首に手を回して抱きついて、掠れた声で甘くねだる姿──。
 それは、ここ最近啓輔は目にしていない姿で、そんな姿を槻山は見てしまったというのだろうか?
 啓輔が欲して止まないあの姿を……。
 ──羨ましい……。
「え……俺は……。もしかして……羨ましがっている?」
 ざわめく心の中に芽生えた感情に気が付いて、啓輔はぎゅっと手を握りしめた。
 怒っていたはずなのに、悔しいと思っていたはずなのに。
 今は、見たい──自分こそが触れたかったのに、と槻山を羨んでいるのだ。
「くそっ、頭いてえ……」
 混乱している頭を落ち着かせようとするが、なおさらに収拾がつかなくなる。
 あんなふうに純哉を抱きたかったのは、自分の方なのに。 
 だいたい、純哉自ら進んで抱かれてくれたことなどどの位あっただろうか?
 いつだって、攻防の末、かろうじて勝った時だけ、抱かせて貰える──そう、お情けなのだ。
 そんなお情けすらも、最近減っていて。
 いや、無くなったと言っても過言ではない。
「俺だって、男なんだよ。抱きたいんだよ」
 呟く声音がはっきりと自身の耳まで届く。
「抱いて、俺のモノだって……言いたいさ。純哉が可愛いって言葉は俺だけのモノだったのに。あんな奴に、そんな姿晒したって? 俺に黙って? 俺にだって滅多に見せないのに? 俺だって……俺だって」
 繰り返される思考が、啓輔の心を凝りかためていく。
 もう槻山のことも、過去にあった啓輔のことも、何もかも忘れていて。
「今日……家にいるよな」
 日曜の夜、明日は会社だけど。
「休んだって良いよな。俺だって休まされるんだから」
 今日こそは。
 暗い声音が、決意を露わにする。
「覚悟してよ、純哉」
 啓輔の口元が、小さな笑みを作っていた。。


 灯りが零れる窓を見上げてから、啓輔は純哉の部屋がある階まで上がっていった。
 渡されている合い鍵で入り、いつものように奥まで入っていく。純哉がいるのはたいていリビングで、そこのソファが純哉の定位置だ。
 初めてきた時からずっとここにあるソファの上で、何度睦み合っただろう。
 そう思うだけで、体は簡単に欲情の兆しを見せる。
 まして、そこにいるのは心も体も何もかも欲して止まない相手なのだ。
「ああ、いらっしゃい」
 何かの本に見入っていた純哉が顔を上げずに挨拶をして、数秒後訝しげに顔をこちらに向けた。
「どうしたんです?」
 黙したままの啓輔に、さらに眉間にシワを刻む。
「啓輔?」
「……今日さ、槻山に会った」
「えっ」
 明らかに純哉の表情が変わった。
 純哉相手に何か策を立てようなんて考えられない。頭の回転は純哉の方が速いから、下手に何か企んでも揚げ足を取られるだけだ。
 今日こそは絶対に抱くのだから。
 そうすればこの胸の中の澱みも軋んでいる心の塊も何かも消えるから。
「金曜日に会ったんだって、ホテルで」
「啓輔……」
 どこまで知っているのか、その鋭い瞳は探っているのだろう。
 だから、笑みを浮かべて啓輔はゆっくりと近づいた。
 足に当たって、紙袋がかさかさ音を立てている。
 この中にあるもの、思いっきり使ってみようか? そうすれば、純哉はどんな顔をするだろうか? たまらなく可愛い顔を見せてくれるのだろうか?
 暗い欲望が頭の中を支配する。
 純哉を苛めたい。
 苛めれば、もっと可愛い姿を見せてくれるだろうから。
「可愛かったって言っていたよ、あの男。懲りない奴だよね」
「可愛かったって……それって?」
 顔を顰める純哉の頭を抱き寄せた。
「俺のせいだったんだろ。だから、それは責めない。責められる訳がない。……それは判っている」
「え?」
 それだけは言っておかないと、純哉が誤解しては堪らない。
 俺が怒っているのは、そのことじゃない。
「けどさ、最近、純哉を抱いていないだろう? なのに、あの男には可愛い姿見せたって事だよな。それが悔しい。こっちはさ、もういつ抱いたのか覚えていなのに」
「ちょっ、ちょっと待って! 啓輔っ!」
 震える声音に、啓輔の男としての本能がくすぐられる。
「俺が抱きたいって言っても、純哉嫌がるよな。俺の方が快感に弱いってのが、敗因だと思うけど。それでも純哉だって絶対狙っているんだよ、俺に抱かせないように」
 ソファの背にその体を押しつけて、顔を至近距離で睨み付ける。
 困惑の色が濃い純哉の顔は、ぞくぞくするほど綺麗だ。
「だから、今日は絶対抱くんだ。ううん、これからもずっと、抱きたい。俺に抱かれる事、嫌がらないように──ずっと欲しいって言わせたい……」
「け、啓輔っ」
 明らかに動揺している純哉が抗おうと手を伸ばす。その手を弾いて、しっかりと抱きついた。
 いつもなら堪らなく欲してしてしまう口付けは今は我慢だ。
 攻めているはずなのに、いつの間にか攻守が逆転しているのはいつも最初の口付けのような気がするから。
 だから我慢して、代わりに喉元に口付ける。
 きつく吸い付けば、腕の中の体が小刻みに震えていた。
「なあ、どうしたら虜にできる? どうすれば、おとなしく抱かれてくれる?」
「そ、そんなことっ……んくっ」
 こんなに頼んでいるのに、逃れようとする力はなくならない。
「何、俺に抱かれるのはそんな嫌? 特に最近、そうやって嫌がるよね」
「違うっ! そんなことないっ!」
 否定されて、眉間に深いシワが寄った。
 逆らう手を封じ込めるために乗り上げた体で押さえつけて、かろうじて届いた手で紙袋を引き寄せるとソファの上にひっくり返した。
 ごとんと重い音に純哉が目を見開く。
 色とりどりのグロテスクな形に啓輔は微笑んで、純哉は硬直した。
「それはっ……!」
「これ、あの槻山がくれた。ほんとは純哉に使いたかったって残念そうに言ってたけどねえ」
 そのうちの一つを拾い上げると、チャリっと金属質な音が手の中でする。
 手枷に着いた鎖の音だ。
「でも、俺の時は逆らうんだから、必要だよね」
「待ちなさい──啓輔っ!」
「嫌だ」
 逃れようとする腕を捕らえて、一気にはめた。
 拘束する輪の部分はムートンで包まれているが、中身はしっかりとした金属だ。留め具がワンタッチでかかり、簡単には外せなくなる。その金属の当たる音に、啓輔の口の端が上がった。代わりに純哉の顔がさらに青ざめ、強張る。
「は、離せっ!」
 いつも純哉と共にある冷静さは完全に消え、言葉遣いすら乱れている。
 そんな姿もひどく新鮮で、啓輔の欲情を煽る。
 もっと見たい。
 もっと──。
「このっ! いい加減にっ!」
「やだよ」
 冷たく言い放ち、暴れるのを全身で押さえつけて封じ込めた。
「啓輔、もうっ」
「捕まえた」
 押しのけようとする手が目の前にある。それを捕らえるのは簡単なことで、先ほどと同じ音がした途端、力が弱まった。きつく噛みしめられて歪んだ唇が、色を失っている。
 鎖は15cm程。余裕があるようで無い長さだ。
 しかもその鎖の中間点には別の長い鎖が繋がっていた。
「けい、すけ……」
「このままだともっと暴れるだろ?」
 ぐいっと引っ張れば、バランスを失った純哉の体は呆気なく倒れる。引っ張って両手を上げさせ、鎖の先端をソファの足に括り付ける。その間、純哉はただその行為を見つめているだけだった。
 ソファに横たわった純哉の手は頭上にあり、下ろすことなどできない。
 何か言いたげに唇が蠢いている。
「何?」
「こんなことをしなくても……」
「でも、こうしないと抱かせてくれないじゃないか」
「それは……」
 苦しそうに顔を顰めて、視線を逸らした。
 そうだ。やっぱりそうだ。
 純哉には、啓輔に抱かれる意志はない。
 抱かれても良いと考えるなら、啓輔がここまでしなくても体を開くだろう。
「前はもうちょっと抱かせてくれたのに」
 あれは春頃だったろうか?
 あの時が純哉が良いと言ってくれた最後の時だったような気がする。
 シャツのボタンを外せば、下に何も着ていないから、すぐに肌が露わになった。
 昨日セックスした時に付けた痕があちらこちらに散っている。陽に焼けていない部分の肌は白くて、朱色の痕は酷くエロチックだ。それだけで、啓輔の欲情を煽る。
 だが、今日はもっともっと付けることができる。
 何しろ、純哉は逆らえない。
「ふふっ、ここ、弱いよね」
 脇腹に口付ければ、純哉の体が面白いように跳ねた。青ざめた体が、すぐにほのかに色づく。その様が楽しくて、もっとたくさん口付けたくて、啓輔はいろんな場所に吸い付いた。
 どんどん増えてくる色は、色の濃い桜の花びらでも散ったようだ。
「だ、め……、うっ! んっくっ……んくっ」
「なんか、……敏感だね。縛られて感じてる?」
「ちがっ、ああっ」
 否定しようとした瞬間を狙って、乳首に吸い付けば、艶やかな悲鳴が零れていた。その声が啓輔をさらに煽る。
 こんな目にあっても純哉の反応が良い。
 敏感で、淫猥な姿を眺めるのは愉しいと知らず口の端が上がる。
 笑われたことに気が付いたのか、純哉がきつく顔を顰めた。そむける顎を捕らえて、真正面を向かせる。
「純哉……ほら、もうこんなになって」
「う、あっ……けい……すけっ」
 上半身を弄んだだけで、純哉のそれははっきりと形を成していた。そこを膝でぐりっと押し上げれば、体が快感に打ち震えている。そんな体を抱きしめようやくのように唇に口付けを落とせば、純哉の肌がざわめていたのが判った。
 幾度も啄むように口付ければ、甘い吐息がその口の端から零れる。
 固く瞑った目の端から、うっすらと涙が滲んでいた。それを舌先で舐め取れば、「け……すけ」とか細い声で啼く。
「気持ちいい?」
 それには答えてくれなかったけれど、代わりのように全身が朱に染まった。
「ははっ、可愛い」
 普段陽に当たらない肌が薄く色づいた純哉は、誰よりも感情豊になって堪らなく可愛い。
 いつだって、この姿を見ていたいのに。
「なあ、今日はいろんな物試してみようか?」
 槻山からのプレゼントに視線が彷徨う。それらを一瞥して、使った時を想像して。
 ぞくりと背筋が震える。
「そういや、前に使われたことあったっけ。でも、純哉は使ったこと無かったよね」
 あの時、啓輔自身はあまり良くなかった。だが、感じなかった訳じゃない。
「本気……ですか?」
 朱の色がその面から消えていく。感情を隠せなくなった純哉の瞳は雄弁だ。怯えている目が、啓輔の嗜虐心をくすぐる。
「本気だよ、どれが良い」
「止めてください、いつものように、啓輔が良いです」
 そんな殊勝な態度は今更だとうっすらと笑い返せば、怯えがいっそう激しくなった。足を広げようとすれば、さすがに抵抗があったが、純哉のそれをきつく握りしめれば抵抗も消える。
 わざと目の前でローションを指にたっぷり塗ってやれば、本気で嫌そうに顔を顰めていたけれど。
「何だ、もう解れてるじゃない」
「ちがっ」
「ま、やっていない訳じゃないしね」
 飲み込まれた指を動かせば、どんどん奥に吸い込まれていきそうだ。
 絡みつく感触に指ではなく自身のモノを挿れそうになる。だが今日は、違うモノを挿れるつもりなのだ。
 楽しみは後に取っておくつもりだ。
「挿れるよ」
 ローションをたっぷり塗ったどぎついピンク色のバイブを後孔に押し当てる。
「やっ、止めろっ!」
 悲鳴交じりの制止に、よけいに煽られた。
「嫌だね」
 笑って、バイブを握った手に力を込めた。
「うあっ!」
「何やってんだよ、俺のよか、小さいだろ」
 純哉の深い眉間のシワがさらに深くなって、固く瞑った目尻が小刻みに震えている。
 必死で我慢しているようだが、一体何を我慢しているのか?
「感じてんのかよ?」
 カチッと小さな音が手元で響く。同時に振動音が微かに純哉の体内から聞こえた。
「ひっ」
 哀れな悲鳴が純哉の喉から零れたけれど、頬に赤味が走ったと思うのは気のせいではないだろう。
「この辺り……かな?」
「あぁぁっ!」
 びくん、と、純哉の体が大きく跳ねる。強張った指先が、ソファに深く食い込んでいた。
 ひくひくと全身の筋肉が震えている。
 そういえば、こんなにまじまじと感じる純哉の体を見ていたことは無かったような気がする。
「すご……綺麗だ……」
 見ているだけだというのに、ぞくぞくと込み上げる甘い痺れに脳髄まで痺れそうだった。

続く