【鬼の子】 2

【鬼の子】 2

「ここ、狭いからあっち行こうぜ」
「え、あっ」
 鎖を解き強く引き寄せれば、純哉が体を折り曲げて呻く。体の向きが変わったことで、バイブがさらに体内の奥深くを抉ったのだろう。
 紅潮した顔が切なげな表情を見せる。
 それが苦悶の表情でないことを確認して、啓輔はさらに純哉を引っ張った。
「もう、止め……」
 その吐息に交じる甘さに、つい笑んでしまう。
「気持ちいいのに?」
 問えば、恥ずかしそうに視線を逸らす。
 ふらつきながらも寝室に向かう純哉のそれは、完全にいきり立っていた。
 もうちょっと逆らうかと思ったけれど、純哉は意外に素直だ。けれど声だけは漏らすまいと必死になって奥歯を噛みしめている。そんなふうに我慢されると、悲鳴の一つでもあげさせたくなるというのに。
「何だ、この程度では物足りない?」
「うあぁっ!」
 ベッドに押し倒した途端に純哉が堪らず悲鳴を発した。倒れた拍子に、バイブがさらに深く入ったようで、全身が小刻みに震えている。
「こんなんで感じる? 純哉って、こういうの好きなんだ?」
「ち、ちがっ、もうっ!──やあっ!」
 食い縛った歯が弛んだら、呆気なく悲鳴が零れていた。
 その姿が啓輔の劣情をさらに煽り、ずくずくとたぎった下半身が、今にも節操無しに暴走しそうだった。
 眼下にある純哉の淫猥な姿に、目の前がぶれる。
「んっ……くっ……け…すけ……」
 震える唇が、欲情に満ちて掠れた声音を呟いた。
 うっすらと開いた目が、潤んでいる。それが誘っていると思うのは気のせいだろうか?
「何?」
 期待に満ちて答えを待つ。
 欲しいと言わせてみたい。
 純哉から、絶対に。
「どうしたい?」
「どうって……」
 なのに、純哉は固く目を閉ざし、なおかつそっぽを向いてしまった。
 なぜっ!
 言って欲しいのに。
 たったひと言、無理矢理は嫌だが、こうなると意地にでも言わせたくなる。
 そう思った途端に、勝手に笑みが浮かんだ。
「何だ、何もしなくて良い? でもなあ、それだと俺楽しくないし」
 何だろう?
 この精神の昂揚は?
 楽しい。
「これ、物足りないだろ? だったら、こっち試してみる?」
 純哉の目の前で、さっきより一回りは大きいバイブにたらりとローションを垂らした。
 溢れて流れたローションが、純哉の頬にぽたりと落ちる。乳白色でわずかにピンク色をしているから、その姿は酷くエロティックだ。
「へへ、いい顔。顔にかけたみたいだね」
 そういやこれも槻山のものだった。
 あの男の好みそうなローションだなと思う。
 この色は、行為の痕の残滓を思い起こさせる。
「俺、なんか気に入っちゃった」
 指先でゆっくりと伸ばすと、肌がざわめくのを感じた。純哉も感じているのだ。
「気持ちいいだろ? なんか言ってみてよ?」
「んっ……」
 けれど、僅かに喘いでいるだけで、何も言ってくれない。
 そんな反抗的な態度は、逆効果なのに。
 聡い純哉だから、そんなことは判っているだろうに。
「なんかさあ、煽ってるだろ? 俺が我慢できなくなるの待ってる?」
「ちが……」
「嘘吐け」
 しっとりと汗ばんだ肉体が、時折びくびくと震える。
「良さそうだね」
 ぐいっとバイブを動かせば、「ああっ」と、さすがに嬌声が迸った。
「すげぇ……」
「け、啓輔っ!もうっ」
「達きそう? 純哉、バイブで達くんだ?」
 揶揄を込めて耳元で囁けば、羞恥に耳朶まで赤くなって俯いていた。
 こういうところは堪らなく可愛いくせに。
「な、どうしたい? 欲しいもの、あるだろ?」
「うっくう……」
 肝心なことは何も言ってくれない。
「ちくしょっ……」
 もう、啓輔も限界が来ていた。
 触れてもいないのに、啓輔のモノだって完全に張り詰めているのだ。
「こっちにしようと思ったんだけどね……」
 とりあえず自分の欲望を何とかしないと、我慢比べでは負けてしまいそうだった。
「先に俺が愉しむよ」
「け、啓輔」
 純哉がその言葉に何かを感じたのか、啓輔の名を呼んだ。
 どこか嬉しげな響きを持ったそれに、啓輔は苦笑を浮かべる。
「嬉しい? まあ、良いけどね」
 かちゃと鎖が音を立てる。
 不自由な両手が、少しだけ前に差し伸べられていた。
 代わりに、啓輔から抱きしめてやる。
 しどけなく広げられた足の間に腰を進めて、邪魔なバイブを抜き取った。
「うくっ」
 小さな悲鳴と共に振動音が大きくなる。
 蠢くバイブが、震動したままベッドサイドからごとりと落ちていった。生き物のように蠢くそれすらも、啓輔の熱を高める。
「うわあ、どろどろ」
 溢れるほどのローションが卑猥に純哉の肌を伝う。
 それを見ているだけで、ぞくぞくと背筋をむず痒く快感が這い上がって。
「挿れるよ」
 柔らかなそこに、熱く張り詰めた自身を押し込んだ。


「あっ、はああっ!」
 ぎゅっと純哉の腕が体を締め付ける。
 背で鎖が微かな音を立て、金属質な感触が肌を伝う。
 全身を汗で濡らし、紅潮した肌からは湯気が立っていた。奥深く抉るたびに、純哉の喉が震える。掠れた声が室内に響く。
「ああっ、けえすけぇ……」
「純哉ぁ、可愛いぃ」
 いつもの純哉も好きだが、必死になって啓輔に縋り付く純哉も堪らなく好きだ。
 愛おしくて、可愛くて、淫猥で──もっと苛めたくなる。
「欲しい? もっと欲しい?」
 耳朶を甘噛みしながらそっと囁けば、コクコクと頭を動かす。
 その瞳はどこか朦朧とし、欲情に満ちていた。
 こうなれば素直なんだけどな。
 ふっと笑んで、ぐいっと突き上げれば、艶やかな嬌声が先を促す。
 もっとこんな純哉を見たいのに、そんな声や姿を聞くと、腰が止められない。激しく突き上げ、自らの快感を貪ってしまう。
「ああっ、やあっ──、い、いくっ!」
「う、ふうっ! んくぅっ!」
 びくんっと純哉の体が強張る。ぎゅうっと体内の雄を締め付けられ、啓輔もきつく眉根を寄せた。
 堪えられないと締め付けから逃れようとしたけれど、きついけれど柔らかな感触に、限界は呆気なく超えた。
 快感の波が奔流となって暴れ狂い、体の芯で爆発する。
「あっ……はあっ……」
 大きく息を吐く。
 下腹の下で純哉のモノがびくびくと震えていた。
 指先が背に食い込んで痛いけれど、それすらも愛おしく感じる。我を忘れた純哉がきつく抱きしめているからだ。
「純哉……」
 そっと口付ければ固く閉じられていた目蓋が震えた。
「良かった?」
 問えば、嫌だとばかりに顔を背けられる。
 あっという間に戻ってきた純哉の理性に苦笑し、啓輔は肩を竦めた。
 これで離れれば、また終わり。
 前と同じようにいつもの純哉に戻ってしまう。
「純哉……」
 呼びかけて、その顎を捕らえる。
 何とばかりに、うっすらと開いた瞳を覗き込んで、微笑みかけた。
「もっと俺の虜にしてあげる」
 その言葉に、純哉が大きく目を見開く。
「だって、これで終わればいつもと同じじゃん」
「け、啓輔……どういう……」
 荒い息が零れる。
 その口の端をあやすように口付けて、ぎゅっと腕の中に抱きしめた。
「でもさ、今日は寝て良いよ。だけど、このままね」
 にいっと笑う啓輔に、純哉の顔に明らかに怯えが走った。
 その表情を愉しみながら、拾い上げたバイブを純哉の中に突き立てた。
「うぅ、ああっ」
「動かさないけどね」
 わざと音を立てて手枷から伸びた鎖を弄ぶ。ぶらりと垂れ下がる鎖の端を純哉に見せつけて。
「寝られるといいね」
 ベッドの足へと括り付けた。
 


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?888,888キリリク?

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「寝られた?」
 カチッと点いた明かりの下、純哉が眩しそうに身動ぐ。
 様子を窺うために寝室のドアは開けていて、かなり遅くまで純哉の荒い息が聞こえてはいた。それでも、いつかはそれもなくなって、寝ていたとは思うのだけど。
 紅潮した頬と赤く染まった目が啓輔に向けられる。
「……けーすけ……」
 掠れた声が堪らなく色っぽい。
 このまままた喘がせれば、どんなに艶やかな声を上げるだろう?
 そんな欲求をなんとか堪えて、努めて平静な声を出した。
「朝だよ」
「あ、さ……?」
「そう、朝」
 鎖をベッドから外して、ついで、手枷を外す。
「少し、赤いか……」
 長袖でどうにか隠れる場所に、赤い線が走っている。そこに音を立てて口付けた。
 可哀想だと思うけれど、こんな傷でも愛おしいとも思う。
「今日……休むって連絡入れろよ」
 まだ体内にある異物に顔を顰める純哉に、携帯電話を差し出す。
 抱いたのは一回だけだけど、体力の消耗は激しいはずだ。
 それに、まだ啓輔は満足してない。
「俺も休むから」
 今日は一日純哉と共にいて、抱き続けたい。
 体力が続く限り、愛して、快感の虜にしたい。
 そのつもりでまどろっこしいであろう快感を与え続けたのに。
「いえ……」
 けれど、純哉は携帯を受け取るのを拒絶した。
「純哉?」
「今日はどうしても朝一で処理しなければならない案件があります」
「で、でもっ」
「啓輔……それだけ……済ませたいのです……」
 掠れた声音を気にして喉をさすりながら、純哉が体を起こそうとする。けれど、すぐにその体ががくりと崩れた。
「会社……行くつもりなのかよ……」
「行かないと……今日が締めだから……それだけなんですけど」
 そう言われると、啓輔も行くなとは言えない。
 けれど、今日はずっと抱きたいと思っていた。なのに、このまま純哉を行かせたら、元の木阿弥になりそうだ。
 純哉は時を経ると、学習してしまう。
 こんな啓輔への対処法を考えついてしまうのだ。
 それだけ、の案件とは言ってはいるけれど、行ってしまえば純哉はいろんな仕事をこなすだろう。寝不足など気力でねじ伏せるタイプなのだから。
「け、けいすけ……これ、抜いて……」
 言われて、呆然としていた啓輔は、未だ純哉を苛んでいるバイブの存在を思い出した。
「抜いて……って、バイブ?」
「ええ」
 どうやら、自分で抜くことは羞恥が勝ってやりたくないらしい。
 スイッチの入っていないそれは、今は純哉の体に特に刺激は与えていないけれど。
 たとえば……。
 ふっと浮かんだ案を、啓輔は自分でも呆然としつつもそれを頭の中で幾度も反芻する。
 面白いかも……。
 と思うけれど、純哉がそれを拒絶してしまえば終わりだ。
 だったら、何か純哉が拒絶できないような提案をすれば。
「啓輔?」
 起きられない純哉を見下ろしたまま、黙してしまった啓輔に、純哉が不安げな表情を浮かべる。
 そういえば、まだ、『欲しい』と言わせていないような気がする。
「なあ、純哉……」
「な、んで、す?」
 啓輔の低い声音に純哉がびくりと体を強張らせる。
「バイブ……は苦しいだろうから、これ、挿れたままなら、会社行っていいよ」
 手の中で転がすのは、小さな楕円の塊だ。
 けれど、スイッチが入れば小刻みの震動は結構きつい。
 さあっと純哉の頬が青ざめ、ひくりと口の端がひくついている。
 きっと、体内に挿れればどんなことになるか判っているのだろう。
「け、けーすけ……本気、ですか……」
「本気だよ。用事だけ済ませて、体調が悪いって帰ってくれば良いじゃないか」
 啓輔の方は休むつもりだった。
 今を逃したら、純哉をモノにできない、と、そう思えば残り少ない有給休暇など気にならない。
「でも……こんなの挿れたら、車なんて……」
「送るよ。で、純哉が終わったら、連れて帰ってあげる」
 病欠の連絡を入れるつもりだからバレるとマズいかも知れないけど。
 けれど、確かにこんな純哉に運転させるのはマズいという理性はある。
「どうする? けど、俺の目が離れたからって抜いちゃ駄目だよ。そんなことをしたら、また同じ事するよ。いつまでもずっと」
「なっ……」
「その代わり、ちゃんと帰ってくるまで挿れたまんまだったら、こんなバイブ、全部捨ててあげる」
 それは、純哉にとって一番の効果的な言葉だろう。
 びくりと全身が小刻みに震え、窺うように啓輔を見やる。
「捨てる?」
「ん、純哉は捨てたくない?」
 その捨てたくないという意味に、啓輔に使うことを目論んでいたら堪らないけれど。
「捨てたい」
 それだけはきっぱりと言い切った。
 もとより、あまり好きではないのだろう。
 あれだけ感じていた純哉を思い出すにつれ、捨てるのがもったいないと思う。
 純哉は必死で何か考え込もうとしてるけれど、体力的にもかなり弱っているせいか、うまく考えがまとまらないようだった。
「啓輔……この一度だけ……ですよね?」
 確かめるように問う純哉に、啓輔は苦笑いを浮かべながら頷いた。
「一度だけ」
「昨夜のようなこと、もうしないって……」
「それは……だって、純哉、素直に抱かせてくれねえから」
「……素直に……なるのは……恥ずかしいんです……」
「えっ?」
 今、純哉は何を言った?
 何かとんでもなく可愛いことを聞かされたような気がする。
「啓輔に抱かれると……我を忘れて……恥ずかしい姿を晒してしまう。それが嫌で……」
「恥ずかしいって……。それって、すっごく可愛いんだけど」
「でも、それが嫌で。可愛いって言われると、よけい恥ずかしくて……」
 耳まで真っ赤になって俯く純哉は、本当に恥ずかしそうだった。
 そういえば、啓輔に抱かれた後はいつも羞恥に真っ赤に染まって、なかなか目を合わせようとはしない。
「しかも、どんどん啓輔に抱かれることへ期待感が高まって、翻弄されやすくなっていると思うから。だから……」
 それっきり口を噤んでしまった純哉に、啓輔がまさか、と唇を震わせた。
「まさか、純哉……。俺に抱かれることが嫌じゃない?」
 その問いかけに、こくりと小さく頷かれて、啓輔は呆然と純哉を見つめる。
「俺に抱かれると我を忘れるから? それが嫌で──だから、逃げてた?」
 こくこくと肯定されて、絶句したのは今度は啓輔の方だった。
 あまりにも純哉らしい言葉だとは思う。
 いつも面を覆っている鉄面皮は、感情を隠したものだと知っているが、そんな純哉も、セックスの時だけは感情を露わにする。感じていることを全身で教えてくれるから、可愛くて堪らない。
 けれど、確かに、それは我に返った純哉には耐え難いのだろう。
 だから、か?
 純哉が啓輔に抱かれるのを嫌がるようになったのは……だからで……。
 思い当たってしまえば、全てが納得できることで、そんな純哉に無理強いしていた自分があまりにも情けなく感じる。
 まして、昨夜からの行為など、考えてみれば八つ当たり以外の何物でもない。
 冷静になってしまえば、なんてとんでもないことを強いたのだと、冷や汗すら流れた。
 しかも、啓輔はさらにとんでもないことを要求しているのだ。
「啓輔なら、抱かれても良いけど……。ただ」
「嫌だって──俺を組み伏せようとするのも、そんな醜態を晒したくないから?」
「昨日だって……こんなことをされていたのに、感じて……我を忘れて……」
「可愛かったけど?」
「だからっ!」
 ますます真っ赤になってしまった純哉は、とてつもなく可愛いけど。
 思わず可愛いと呟きそうになって、慌てて手のひらで口を塞いだ。
 言ってしまえば、ますます頑なになってしまいそうで。
「わ、判った……」
 なんとかそれだけは言って。
「だから、今日は約束を守ります。でも、この後は……」
 純哉がふっと顔を上げて、啓輔を見やる。
 その瞳が涙で潤んでいるのに気付いた途端、啓輔の心臓がどくんと高鳴った。
 一度激しくなった鼓動は、今度は一向に治まらない。
 早くなった血流のせいか頭の中が激しく脈打って、思考回路が麻痺しそうなほどになっている。
「それを判ってくれるなら、そうしたら」
 上目遣いで見つめられ、その艶やかな姿に我を忘れそうになる。
「ですから……、啓輔、昨夜のようなことは……」
「わ、判ったっ!」
 思わず叫んでしまっていた。



 自ら体を開く純哉に、今更もう良いとは言えない。
 本当は、あんな告白を聞いて、ローターを挿入したままの出社などどうでも良くなっていたのだけど。
 それでも、ちょっとだけ見てみたいと思ったのも事実だった。
 ローターを体内に挿れたまま服を着込む純哉は食欲などとうていなさそうで、促されるがままに会社へと連れて行った。
 先日ようやく取れたばかりの免許がこんなところで役に立つとは思わず、しかも、隣で辛そうにため息を零す純哉に運転に集中できない。
「けい、すけ……もっと静かに……」
 喘ぎながら注意されても、股間が苦しい啓輔にしてみれば、ブレーキ操作すらおぼつかない。初心者+気もそぞろな運転は、かなり純哉に負担をかけたのか、駐車場についても一向に立ち上がろうとしなかった。
 ダッシュボードに突っ伏して、時折体を震わせる。
 そんなに強くはしていなかったけれど、それでも当たる場所によってはかなりの刺激なのだろう。
 いつもの皮肉も、冷たい態度も取れない純哉は、ひどく目を惹く存在だった。
 これはヤバイかも……。
 時間が無くなって慌てて車から出て行った純哉に、周りの人達がちらちらと視線を送っている。
 そんなことに気が付いて、堪らなく焦燥感が湧いてきた。そんな純哉を一人会社に残すことなど、考えられなくなる。
 結局、啓輔は純哉の後を追いかけるようにして出社した。
 ただ、服部には虫歯の調子が悪いから午前で帰りたいと無理を言って午後休暇を許可して貰う。
 半日──半日で良い。
 少しでも時間を短くしたくて堪らなかった。だが、それが精一杯なのだ。
 苛々と何度も時計を見る啓輔に、服部は虫歯のせいだと思ってくれたらしい。進まない仕事についても、あまり追求はされなかった。だが、啓輔の真意は、休憩時間が待ち遠しい、それだけだ。
 何もない時に品証の部屋に行くのは難しい。ある意味、啓輔にはもっとも縁が無い部屋だ。
 けれど、休憩時間なら仲の良い純哉の所に行くのはおかしくはない。
 だが。
 ようやく行くことのできた品証の部屋で純哉を見つけたのに、啓輔はそれ以上立ち入ることもできずに扉のところで硬直してしまった。
「こ、これは……堪んねえ……」
 うっすらと肌を紅潮させ、潤んだ瞳の純哉は、堪らなく色っぽい。
 辛いのか時々荒い息を吐いているのだが、それはどう見ても熱が籠もったものだった。
 そんな姿に啓輔の節操のない下半身が暴走しそうになる。
 作業着の前を押し上げようとするそれを必死で宥める。
 だが、そのせいでようやく純哉から視線が外れた途端、とんでもないことに気が付いた。
 せっぱ詰まった状態に陥っているのが、啓輔だけではないのだ。他の品証の部員が前屈みで座っている。しかも、純哉から必死で視線を逸らそうとして、けれど、吐息が聞こえるたびにびくりと反応していた。
 朝の時点で湧いて出た焦燥感は、こんな状況を暗示していたに違いない。これ以上彼をこのままにしておくのは非常にマズい。
 ど、どうしよう……。
 もう止めさせなければ、と思うのだけど、だが、どうやって外せば良いだろう?
 こんな場所で、体内のモノを取り出すこともできない。
 いや、トイレで……。
 今の純哉の表情が詰まって暴走しかけている頭では、なかなか対処法が浮かばない。
 ただ、どうしよう、と右往左往するばかりだ。
 と──。
「どうしたんだ? 入り口塞ぐんじゃねえよ」
「げっ、梅木さんっ! って、滝本さんまで……」
 背後からいきなり声をかけられて、啓輔の体が面白いように跳ねた。
 そんな啓輔の反応に相手も驚いたようで、しばし沈黙が漂う。
「……なんなんだ?」
 結局、梅木が訝しげに声をかけてくるまで、啓輔の硬直は解けなかった。
 よりによって。
 と、啓輔の背筋に悪寒が走る。
 この二人は、純哉が啓輔の相手であることを知っている。
 そして、彼らも男を相手にする以上──今の純哉がどういう状況なのか、バレてしまうのは必須だった。
「おい、どけろよ。家城君は……」
 動けない啓輔を押し退けて、梅木が入り込む。やはり目的は純哉のようで、声を掛けかけて、不意に言葉を切った。
「梅木さん?」
 硬直する梅木の背後で、中の様子が判らない滝本が、肩越しに覗き込もうとする。だが、梅木がそれをさせなかった。強い力で滝本の体を外の廊下まで引っ張り出した。
 強く二の腕を掴まれた滝本が顔を顰め、呻く。
「い、痛いって」
「すまん。ただ──ああ、そうだ。あ、あのな、ちょっと家城君は忙しそうだから……。先に休憩行かないか?」
「え、でも、10時までって、約束の」
 手の中の封筒を渡しに来ただけのに、と文句を言う滝本の背を梅木が押していく。
「良いから。それは大丈夫そうだから。なんか、今入るとマズそうだから、な」
「マズいって何が?」
「あ、なんか──その、鬼気迫ってるって。そう、なんかトラブってんだわ、きっと。だから落ち着くまで待とうよ、な?」
「……そっか……それだったら、まあ」
 啓輔は、そんな二人の様子を何が起きたか判らないままに呆然と見つめていた。
 二人の背が角を曲がって消える。
 と、すぐに梅木が現れた。
「う、めきさん? え、わっ!」
 険しい顔の梅木が、啓輔を激しく壁に押しつけた。
 後頭部を打ち付けて、激しい痛みとともに頭の中が震動する。目眩にも似た視界のぶれが何とか治まった時、梅木が強い口調で言いはなった。
「お前、家城君に何している?」
「な、何って……」
 いきなり核心を突かれて、ぎくりと全身が強張る。
「あれ。尋常じゃねえよ。あんな色気垂れ流しの家城君なんて、見たこと無い」
「色気、垂れ流しって……ってぇ」
 あまりの当を得た発言に、笑うことしかできない啓輔の頬を、梅木がぎゅっと引っ張った。その強い痛みに涙が浮かぶ。
「馬鹿野郎っ、あの家城君が自分からそんな醜態晒すはず無いだろうが。何やらしているのか知らないが、とっとと止めろ。それで連れて帰れ。あのままでいると、そういう趣味でない人間もあいつを押し倒したくなる」
「え……」
「お前、ライバル増やしたいのか?」
 その言葉には、慌てて首を振って。
 そのことで何かしているとバレてしまったことにも気付かない。
 梅木の言葉は逐一当を得ているから、啓輔の内心に一気に焦りが生まれてきたのだ。
 確かに、今のこの部屋の状況を見れば、梅木の発言の真意も判る。啓輔自身、こんな効果を期待したわけではないのだ。
「で、でも……」
 連れて帰るにしても、まだ後二時間は働かなくてはならなくて。
 ローターの電源は、まだ数時間は保つだろう。
 そして。
「何をしてるんです?」
 掠れた声が、熱い吐息と共に二人に投げつけられた。
「じ、うっ──家城さん……」
「ああ、ちょうど良いっ、こっち来い」
「え?──うっ」
 乱暴に引き寄せられ、純哉が思わず蹲った。
「お、おい……っ! まさか」
 その様子に気付かれた、と啓輔の顔面から血の気が音を立ててひいた。
 唯一の救いはそれが梅木だったことだろう。
 いや、梅木だからこそ気が付いたのかも知れない。
「医務室……いや、トイレか屋上か……。いや、トイレなら……」
 ぶつぶつ呟く梅木が、家城を立たせる。
「まったく、悪ガキにおとなしく従うお前も珍しいけどな。どんなに惚れてても、周りの人間煽るような真似すんな。いつだって、恋人と一緒にいられるような連中ばかりじゃねえだろ」
 言われて啓輔は初めて梅木が滝本に見せなかった理由に気が付いた。
 彼の恋人は、すぐには会えない距離に住んでいるのだ。
「とりあえず落ち着くまで医務室ででも寝とけ。この悪ガキは午後休取ったらしいからな。それまで挿れときたきゃ挿れたまんまんでも良いけど」
「で、でも……。仕事が……」
「あんなあ、仕事なんてお前が居なくてもどうにかなるっての。たまには他人を信用しな。だいたいこんな調子で、まともなことできる訳もないだろうが……」
「それは……」
 梅木の言葉に反論できない純哉が悔しそうに唇を噛みしめる。
 そんな態度を露わにする純哉も珍しく、啓輔は今更ながら純哉に強いた行為を悔いた。
 こんな純哉を他人の目に晒したかった訳ではないのだ。
「ほら、このトイレならそんなに人は来ねえよ。さっさと抜いて、後始末はこいつにやらせろ。んで、ちゃんと連れて帰って貰え」
 連れてこられたトイレは、来客用のトイレだった。人通りが在りそうで、時間によっては使う者など皆無の場所である。
 それに医務室も近いから、今の状態の純哉がここにいてもおかしくはないだろう。
「あ、ありがとうございました」
「バカ、今更殊勝ぶっても遅いんだよ」
 拳骨が頭を掠める。
 そのまま帰って行くのかと思いきや、ふっと梅木が啓輔の耳に顔を寄せた。
「でもまあ、あんな色っぽいあいつのせいで、俺も今日は燃えそうだ。明日は誠ちゃん休ませるから、仕事の方よろしくな」
 その言葉に頷くことしかできない啓輔に、梅木はひらひらと手を振って離れていった。


「んっ……」
 思ったより奥深く入っていたローターを何とか引っ張り出す。
 その間、純哉はきつく啓輔の体を抱きしめて、必死になって声を押し殺していた。
 滅多に人が来ないトイレとは言え、それでも声を出せば通路にまで聞こえるだろう。きつく、痛いほどに抱きしめられ、純哉の苦しみが伝わってくる。
 堪らなく可哀想なことをしたのだと、ひどく後悔する。
「ごめん……純哉」
 抜いた途端に脱力した純哉をトイレに座らせて、その体をそっと抱きしめた。
 疲れた表情の純哉の弱っていた体力と精神力は限界にまで来ているはずだ。
 と──。
「啓輔……」
 微かな呼びかけに、ふっと視線を動かせば、純哉のそれと合う。
「私が……したかったんですよ……啓輔が……したいなら……って」
 ただ、それだけを言ってその目が伏せられた。
 目の縁まで赤くなった純哉のその言葉を何度も頭の中で反芻して。
「じゅ……や……」
「早く、帰りたい……ですね……」
 熱い吐息が首筋を擽り、ざわりと肌が粟立った。
 こんなふうに簡単に啓輔が欲情するように、今の純哉も欲情しているのだろう。
 こんな可愛い純哉の姿を、皆の目に晒してしまった。
 啓輔にすら可愛いと言われたくないと嫌がる姿をだ。
 だからずっと被っていた鉄面皮だというのに、それを剥がして素顔を晒してしまった。
 それこそ、もっとも純哉が忌むべき行為だったはずなのに。
 それなのに、啓輔のためだから、純哉は従った。
 そのことを考えれば、悪いのは啓輔自身の方だ。
 情けなくて、可哀想で。
「うん、帰ろう……」
「ごめん……、最後まで…我慢できなくて……」
 この期に及んで、まだ侘びの言葉を入れる純哉に、啓輔は激しく首を振った。
「違う……違うよ……純哉……ごめん。ごめん……」
 こんな弱気な純哉を見たかった訳じゃない。
 本当に好きなのは──いつもの、純哉なのだから。
 啓輔は堪らずにぎゅうっと純哉を抱きしめていた。 
【了】