【桜鬼(はなおに)】 鬼の章

【桜鬼(はなおに)】 鬼の章

「……すけ?啓輔?」
 何度も呼ばれて、ようやく自分が呼ばれたのだと啓輔は気が付いた。
 ぱちぱちと何度か瞬きをし、辺りを見渡す。と、傍らで覗き込むようにしていた家城に気付いた。
 だが、よく見えない。
「な……に?もう夜?」
 室内だから、というだけでない薄闇に、視線を彷徨わせる。
 あまり日に焼けていない家城の肌が、ぼんやりと白く映えていた。
「はい、もう8時ですよ」
「……もう?」
 そんなに寝たつもりは無かったけれど。
 どこか怠い体で起きあがり、違和感のある目元を擦る。
「あ……れ?」
 濡れた指をまじまじと見つめる啓輔に、家城もその手を覗き込んできた。
「泣いて──いました……」
 指から啓輔の顔へと視線を移した家城の顔が近づいてくる。
 びくりと僅かに震えた肩に手をかけられ、つうと舌先が目尻をなぞった。
「……俺が?」
 泣いた記憶はない。だが、間違いなく涙はそこにあって──だが、だからと言って、それを他人に指摘されると恥ずかしさが込み上げる。
 つい、逃れるようにそっぽを向いた啓輔だったが、そんな彼を労るように家城の舌先が追ってきた。頬を這う舌の柔らかさは、思わず首を竦めてしまうほど心地よい。
「俺……覚えてねーよ?」
 それでも、肩を竦めて意地で目は合わせない。
 その様に、家城も少しだけ笑ったようだ。声もなく笑うその体の震えが、啓輔の顔の赤味が増していく。
「ほんと、覚えてねーのに……」
「悲しい夢を見ていたようでしたけどね」
「……夢?」
 そう言われれば、何か夢を見ていたような気がする。
 だが、涙が流れるほどの夢なのに、どうして覚えていないのだろう?
 考え込む啓輔に、少し体を離した家城が覗き込んできた。
 ちらりとその表情を見た啓輔が微かに喉を鳴らしたのは、家城の冷めた物言いとは裏腹に顔が心配そうに顰められていたせいだ。
「押し殺した泣き声でした。ひどく悲しそうで──」
「あ──覚えていない……」
 悲しい夢、だったのだろうか?
 泣いたのだから、悲しいものだったのだろうけど。
 だが、楽しくて幸せな気分にもなっていたような気がする。
 その部分だけでも思い出したいと願うほどにだ。
「もう、大丈夫さ」
 だから、笑って家城を見返した。
 啓輔にしてみれば、そんな心配げな顔をする家城こそ見ていたくはない。
 大声で笑ってくれ、とは言わないが、それでも、心配はさせたくないのだ。
 この意地悪だけど優しい相手には。
 そう思うからこそ、啓輔はふと気が付いたように話題を変えた。
「櫂達は、どうした?」
 それに家城も乗って、視線を天井へと移す。
「二人は二階の啓輔の部屋に案内しています。帰ると言われたんですが、啓輔がどうしても夜桜も見せたいと言っていたと言って、少し強引に」
 もっとも家城の車で来たのだから、運転手が動かなければ帰りようはない。
 そう言って口の端を歪める家城に、啓輔も可笑しそうに苦笑した。
「ん、ありがと」
「そういえば、布団が余分にありましたね」
「ああ、あれ?佐山のおばちゃんがさあ貸してくれたんだよねえ。純哉と友達が花見に来るって言ったらさ、せっかくだから泊まって貰え。その方がゆっくり飲めるし、夜の桜も見て貰えるってさ。やけに熱心に勧めるんだよ。もう、見ないと損だって。布団もさあ、俺が返事する前に運んできた」
「なるほど」
 佐山のおばちゃん、を、よく知っている家城が納得して頷く。
 だがその彼女が、押し切られて布団を運ぶ啓輔の後ろで。
『桜の下の家城さんって、昔話出てくる桜の鬼みたいよね。白い着物着せて立たせたら、もうこんなはまり役はないわ。綺麗でしょうねえ』
 などと言ったことは、内緒だ。
 そして、啓輔もそんな家城を見てみたい、と思ったことも。
 何せ、言葉通りに想像した途端、ぞくりと腰にくるほどの甘い疼きが走ったのだ。
 桜の下での情事すらしてみたい、とその時、啓輔は本気で思った。
 階段でふらつきかけたせいで、驚いて正気には戻ったけれど。
「えっと、そういやっ」
 思い出した記憶は、今現在も有効なほどに家城の妖艶さを下半身に伝える。このままでは押し倒しそうだと、誤魔化すように啓輔は思いついたままに口にした。
 何せ、二階には櫂達がいるのだ。
「俺んちも母屋の押し入れにたくさんの布団があったんだ。昔、近所の人達がやっぱりこうやって庭で花見して、そしたら、飲み過ぎてどんどんつぶれていって。それに女の人達がどんどん布団を掛けていくんだ。それで、あのたくさんの布団の使い道が判ったんだよなあ」
 まだ小学校の低学年の頃だったろうか?
 今よりも近所にはもっと人がいて、子供の数も多かった頃。
 子供の頃はそんなふうに皆がよりあって、なんだかんだ言って幾度も花見をした。
 両親どころか祖父母も健在で、かくしゃくとした祖父は、いつも陽気な酔っぱらいと化していた。
 離れと屋根で繋がっていた母屋は、昔ながらの建物で、外回りに水回りもあって、料理に不自由はしない。男達の呼び声に、女達の威勢のいい返事が飛び交っていて、祖母と母が、何度も往復しては、肉やら海鮮類、そして腐るほどある野菜を運んだ。
 今のような綺麗なバーベキューセットなんかなくて、コンクリ製のU字管やドラム缶を切断したようなものに、網を張っただけの道具。それぞれの家に山のようにある薪を燃やしてそののこり火が炭の代わりになった。
 それこそ、公園で楽しむのと何ら代わりのないような大宴会になっていったこともある。
 その間を、まだ小さな啓輔は走り回って。
 空から降る桜は、まるで雪のようだった。
 ──そうだ、桜の最盛期には、いつもこんなふうにみんなで騒いでいた。
 次の日、近所の大人がみんな二日酔いで頭を抱えていたこともあって──。
 そんな風景がいっぺんに思い出されて。
 途端に、鼻の奥がつうっと熱くなる。
 ──あっ、思い出した。
 ひくりと喉の奥が鳴る。
 泣いた夢がどんなものだったかを思い出して、堪えようとした涙がさらに奥から沸いてくる。
 懐かしい記憶は、先に夢でも見たものだ。
 騒ぐ大人の間で退屈になった啓輔は、寝っ転がったまま桜の木を見上げていた。
 空の向こうは真っ暗なのに、すぐ近くに灯りに照らされた桜の花は真っ白に浮かんでいる。
 闇によって、さらに白く美しい桜の花は、子供の手にも掴めそうなほど近く視界いっぱいに広がっている。なのに、その手には掴めない。
 吸い込まれそうな白の中、慌てて跳ね起きたのは、取り込まれそうだと思ったからだ。
 途端に、ものすごく怖くなった。
 怯える啓輔に、母親達が『こんなに綺麗なのにねえ?』と不思議がった。
 その時の恐怖が夢の最後に出てきたのだ。
 だから、泣いた。
 けれど、懐かしく楽しい夢でもあったから、もう一度見たいとも思った。
 だから──泣いてしまった。
「綺麗ですよ。満月の灯りに照らされて、ね。みんな、こんな綺麗な桜を見たら、そりゃ騒いだでしょう?」
「──うん……」
 タイミング良く家城がそんな優しい声をかけるから。
 こくりと呟いた途端に、大粒の滴が頬を濡らした。


 泣き濡れた頬に何度も口付けられ、啓輔の体は布団の上にゆっくりと押し倒された。その視界の中に、窓の外の景色も入ってくる。
「ああ……、ほんとだ」
 そこには家城が言ったとおりの桜の花が広がっていて、ちらほらと風に煽られて花びらを散らしていた。
「夜の桜……」
 のしかかる家城の温もりに甘い吐息が零れる。窓から入る月の光は、桜と同じように家城の肌も照らしていた。
 それはいつもの人工的な灯りとは違う。
 すごい、綺麗だ……。
 伸ばした指先で触れるのがもったいない。
 家城の向こうで、花びらがゆっくりと舞い続ける。
 それは幻想的な舞で、夢を思い出したせいか、見ていると引きずり込まれそうにすらなった。
 慌ててぎゅっと目を瞑ったのは、背筋に走った悪寒のせいだ。
 気持ちよい温もりの中にいるというのに、心が萎縮したように身が縮こまる。
 知らずに家城の腕を強く掴んでいて、それに気付いた家城が訝しげに啓輔の頬に触れてきた。
「どうしたんです?」
 その言葉に誘われて、目を開ける。
 月に照らされた肌は白く、影が深い彫りを作っていた。
 そんな家城の顔は──。
 あの時聞こえた佐山のおばちゃんの言葉が鮮やかに甦る。
「桜の……木の鬼……」
「え?」
「あっ……いや、何でもない」
 伝えるつもりなどなかったというのに。
 慌てて首を振って、苦笑いを浮かべる家城が、ふっと桜の方を振り返った。
 そのままの姿勢で何も言わずに桜を見つめる。
「……純哉?」
 問いかけても答えはなく。
「純哉っ!」
 取り憑かれているようだと、怖くなって強く呼んだ。
 と。
「桜の木には鬼が棲まうという話がありますね」
 顔を戻した家城がふわりと笑う。
 途端にぞくりと全身がざわめいた。
「しかし、平安の頃に現れた彼の鬼は、ただ詠っただけだったそうですが」
 強張った体に、啓輔の体の変化に気付いた家城がくすりと音もなく笑う。
「う…たう?」
「和歌をね、詠ったそうですよ。それに宮中の女性達は恐れおののいた。それだけです」
「それだけ?」
 鬼が和歌を詠うというのも妙な話だし、それだけでいい伝えなるほどの恐怖だったというのも変だけど。
 啓輔の疑問に家城が答える。
「それだけ、だから、人はその先を想像して、恐れたのです」
 その先を……。
「古来より、桜は畏怖の対象でもあったことですしね。それもあって昔の人は、恐怖を想像してしまったのですが……」
 と、家城の手がするとり啓輔の下肢を覆う。
「んあっ」
 途端に走った衝撃に、啓輔は声を堪えることもできない。
 慌てて口を両手で覆う啓輔の耳朶に触れんばかりの距離で、家城が囁いた。
「あなたは、恐怖でなく情欲を感じたようだ……」
 掠れたような声音と、その吐息に混じるアルコール臭に気が付いて、啓輔は体を小さく震わせた。
 家城の手の中にあるそれが、むくりと一際大きくなる。
「や、めろっ……櫂が……」
「我慢……できます?」
 嘲ら笑われて、口を噤んだ。
 さっきからいつもより早く激しい鼓動は、アルコールのせいだけではない。
 全身がしっとりと吹き出た汗に濡れたのも、冷や汗だけではない。
 それをはっきりと自覚しているから、未だ置かれているだけの手の平の熱を感じながら、啓輔は恨めしげに家城を見上げた。
「そうやって、俺を煽るくせに」
「煽られる前に、もう十分元気でしたが?」
「──っ!」
 形を味わうように手が動く。
 その圧迫感が、ぞくりと背筋に快感を走らせる。
 このままでは言い様にされてしまう、と、慌てて上にのしかかっている家城の体を押し返そうとしたけれど。
 ──ダメだ、力が入らない。
 肩に押し当てた手が、本来の目的を達する前に、呆気なく降参した。
 啓輔は、結局、押し返すことは辞めて、縋るように家城の首に手を回した。
 ぎゅっと引き寄せるようになけなしの力を込める。
「畜生っ、今日は、純哉に任せるっ」
 煽られるほどに月と桜に照らされた家城は綺麗で、そんな家城を抱きたいとは思う。
 けれど、同じく月と桜に晒された家城は、いつもと違う威圧感がある。そんな彼に、屈服して支配される悦びが身の内にあるのも事実だ。
 どちらも本気の心だけど、啓輔は今日は後者に軍配をあげた。
 抱かれたい。
 いつも、流される前はたまにしか思わない心なのに、今日ははっきりと啓輔を支配していた。
 何も言わずに、啓輔の言葉を聞いていた家城は、しばらくじっと啓輔を見ていた。
 啓輔がそんな誘う言葉を言ってしまったことを後悔して、顔が全て真っ赤になってしまっても、まだ見続けている。
「……じゅ、純哉っ!」
 堪えきれなくなって、伏せていた視線を向けて問いかける。
 と──。
「困った……」
 辛そうで、だけど、熱い、そして欲にまみれた声音が、啓輔の耳を犯した。
「壊れるまで、愛したい」
 腕に、ぎゅっと力を込められる。
「ん……」
 胸を圧迫されて、息苦しい。けれど、その圧迫感が心地よく、啓輔は逃れるどころか家城にさらにすり寄った。


 突き上げられ、幾度も喉を詰まらせる。
 壊したい、と家城は言ったけれど、それでも最初はゆっくりと優しい愛撫で啓輔の体を開いていった。
 だが、それも挿れる前までだ。
 奥深くまで侵入し、啓輔の体内に完全に収まった途端、家城のそれは獣に変わった。
 けれど、そんな状態でも啓輔の快感を高めることは忘れないようで、絶え間ない激しい刺激に、あっという間に啓輔の意識も高波に翻弄される。
 休む間もない高い波の上で、えんえんと喘がされる。
 掠れて出なくなった声は、それはそれで家城を高めるようだ。
 初めは抗おうとしたけれど、今はもうされるがままで精一杯だった。
 ただ、かろうじて残っている理性が、必死で啓輔の声を押さえつけていた。だが、それなのに家城が容赦なく責め立てる。
「んああっ──わあっ!」
 最奥を抉られて、痛みと、それ以上の快感に喉から嬌声が迸った。
「あっ、あぁ──っ!」
 強引な突き上げに、堪えきれないままに幾度も声を上げる。手は浮遊感支配された体を落ち着かせたいと無意識のうちに家城を探す。だが、せっかく触れていて掴みたいのに、汗で滑った肌は思うようなとっかかりがない。
 何度も何度も肌の上を滑り落ちるいく。
「んあぁっ、もっと……ゆっくりっ──ひぃ」
 敏感な部分から弾けるような快感が広がり、目の前が幾度も白くなる。もう回りを気にする余裕などなく、啓輔はただ与えられる快感を貪っていた。
 欲しい、目の前のこの快感をくれる人がもっと欲しい。
 ただ、快感だけを欲して、それをくれる家城を欲する。
「じゅ……んやあっ……っ」
 なんとかその首に手を回すことに成功して、二度と離すまいと渾身の力を込めた。
「んくうっ」
 けれどそれは、さらに深く家城の楔を啓輔に沈めさせる。
 自ら招き入れたそれに、啓輔は髪を振り回して悶えた。
「すごい……。熱くてとろけている。なのにしっかりと絡みついて離さないっ……」
 熱い吐息とともに、忘我の域にでもいるような家城の虚ろな瞳が向けられる。
 何かに憑かれているように快感を貪る家城は、どこかいつもと違う。
 だが、そんな家城に、啓輔は悦びしか感じない。
「んあっ」
 あやうく達きそうになって、奥歯を食いしばって堪える。
 もっともっと味わいたい。
 この妙なる快感を味わって、最高の悦楽で解放を迎えたい。
 どん欲なまでの欲求は、体に負担を強いるよう命ずる。
 与えられる刺激だけでも相当きついのに、自ら誘うように腰を動かしていた。
「けいすけ……啓輔っ」
 アルコールと啓輔と、そしてきっと桜にも酔った家城が、戯言のように呟く。
「離さない……啓輔……」
「俺もっ!俺もっ!!」
 より深く、より激しく、互いに互いを離したくないと、繋がる。
 そして。
「んああっ」
「うっ」
 限界を越えたとたんに呆気ないほどに、だが同時に二人は解放を迎えた。
 どくどくと吐き出される白い精は、啓輔の腹を内と外から汚す。たらりと流れ落ちるそれすらも、熱を持って敏感な場所をくすぐって、啓輔は甘く息を吐き出した。
 激しい体力の消耗に、疲労困憊の四肢を投げ出して、家城の体を抱えたままぼんやりと視線を巡らせる。
 まだ時折痙攣するかのように体が震えて、息を詰まらせた。
 それでも、解放されれば理性は少しずつ戻ってくる。
 怠惰さでいっぱいの解放感は、だが互いに羞恥をも呼び起こしたようで、二人とも黙って荒れた息を整えていた。
 だが、そんな啓輔の視界に、桜の花びらが吹雪のように舞っているのが入ってきた。
 いつの間にか、風が強くなっていたらしい。
 春の嵐が桜の花びらを舞い上げる。
「風が……」
 吹き荒れる風に残念そうに啓輔が呟けば。
「散ってしまいますね」
 名残惜しそうに家城も桜を見つめていた。

夢の章に続く