先ほどまでは微かだった音が、確かに大きくはっきりと聞こえてくる。
音、と表したけれど、それは人の声だと櫂は気が付いていた。けれど、誰の声かと考えることは頭が拒否している。
もっとも、考えなくても判っているのだけど。
はあっと大きなため息を吐いて、気付いていないふりをして桜を見上げる。
家城が珍しく苦笑を浮かべながら、泊まって見て欲しい、と薦めた夜の桜は、櫂に感歎の声を上げさせたほど、幻想的で綺麗なものだった。
人の家に泊まる事を厭うていた高山も、言葉無くその桜を見つめたほどだ。
案内されたのは、いつもは啓輔が寝泊まりしている部屋らしく、片隅には布団が二組用意されている。その用意周到さに、啓輔が?と、不思議には思った。
けれど、実際問題、家城の車で来たのだから、彼が送らないと言えばどうしようもない。
疲れていたのか、珍しくも早々に寝込んだ啓輔から家城は離れる様子がなく、そうなると櫂達も無理は言えなかった。
けれど。
『…い…あぁ』
少し甲高い声。
いつもの啓輔とは違う声は、どこか鼻にかかっていて、畳を介しているせいか、くぐもりもしていて。
「ネコの声……」
そんな風に、前にも思ったことを思い出す。
途端に、高山が眉根を寄せた顔を櫂に向けた。
何を?と困惑の色の濃い高山に、櫂は苦笑いを返す。
「そんなふうに……俺には聞こえるんだけどさ、どう?」
問えば、途端に強張らせた頬を赤くする。
もっとも、櫂の方もなんだか体が熱い。
寄り添うように窓辺で見ていたその接している場所が、汗ばんでいた。
そこが、さらに熱くなってくる。
『あ、あぁぁ、んくぁっ』
声は絶え間なく続き、どんなに他のことを考えようとしても、意識が引っ張られた。
耳に毒……。
零れるため息は、諦めも含んでいる。
ため息を吐くために俯かせた視線を、どうしたものかと窓の外へと向ければ、視界を覆うように見事な桜の花が白く闇に浮かんでいる。
部屋の灯りは、桜を見るために完全に消している。
なのに輝くような白さは、空に浮かぶ満月のせいだ。
そして、それは桜の花の間を縫って部屋の中にまで差し込んでいる。
それが高山の顔をも照らしていて。
「高山さん……赤い……」
手を差しのばせば、触れる寸前顔を背けられた。
その最中もますます赤味が増していく。
きっときつく口許を引き締めた高山が、何から逃れようとしているのかは、さすがに櫂でも判った。
『あ……もっとおっ……。お…が……』
何も経験が無かった頃なら、違う反応もできただろうが、少ないとはいえ二人とも経験している。
ネコの啼き声がそんな二人を煽る。
櫂は逃れる頬をさらに手を伸ばして捕まえた。
途端に、びくりと震える頬に爪を立てる。
「あっつい」
爪先を立てたまま、つつっと顎へと向かい、喉へと辿らせた。
途端に堪えきれないかのような吐息が口の端から漏れ、薄く唇が開いた。
微かに見えた白い歯が、月明かりにいつも以上に白く映える。
その奥にある柔らかな舌は、生真面目そうな外観を裏切って、櫂を腰砕けにするほど器用に動く。
それが──欲しい。
『んああっ──わあっ!』
突然、はっきりとした声が聞こえてきた。
悲鳴のようで、だが、どこか甘く淫猥な響きを持ったその声に、櫂と高山の動きは完全に止まった。
思わず見合わせた視線が、だが一瞬後同時に外された。
お互い、その瞳の中にある情欲の炎に気が付いたのだ。
どうしよう……。
熱くて堪らない。
ずくりと痺れるような快感が股間を刺激して、もうかなり勃ち上がっていることは、見なくても判る。
触れたままの手は、縋るように高山の肩で止まったままだ。
「……櫂……」
苦しそうな声音に誘われて櫂が高山に視線をやると、俯いたその耳朶が真っ赤に染まっていた。
緩んだ口許から零れる息も荒い。
それは櫂も同じ事で、今すぐにでも触れあいたいと欲している。
「……高山さん……、俺、もう……」
高山との経験をしてから、体はいつでも高山を欲している。
それこそ、快感に憑かれたように何度でもしたいと思ってしまう。
けれど、何せ相手は高山で。
本当に……。
強張った顔はそれ以上情欲に崩れることはなく。
大きく嘆息をついて、明らかに離れようと体を動かす。
その様子に、思わずむうっと唇を尖らした。
「……やんないの?」
思わず文句が口をついて出た。
上目遣いに窺えば、高山が大きく目を見開いていて。
「ここは……隅埜君の家だ。それに下にもいる……」
「そりゃ、そうだけど」
正論は、時として冷酷なまでに悲しい。
恨みがましく見上げる櫂から逃れようとする高山とて、その体は明らかに兆しているというのに。
ちらりと見える股間は、普段とは明らかに形が違う。
なのに、高山の理性は櫂のそれよりはるかに強固で、厄介だ。
「人の家では……できないだろう?」
そうは言っても、我慢できないのも事実だ。
何しろ。
「あんな声、聞いてもかよ?」
ネコの啼き声はいまでもそんな可愛らしいものではなくなっている。
もちろんはっきり聞こえる訳ではない。
けれど、櫂達には何を求めてそのネコが啼いているのか、はっきりと判ってしまうのだ。
そうなれば、体はしっかりと煽られる。
自ら欲するのもどうか、と思う櫂だったが、煽られた体は容易く宥められそうにない。
だけど高山は一人静かに自身の欲情を鎮めてしまいそうで──櫂は、泣きたくなりそうな思いで、高山を見つめた。
「だけど……」
「……」
その途端、高山がひくりと喉を上下させ、慌てて目を逸らした。
そのせいで晒された喉元が汗ばんでいる。
いつもは白い喉がほのかに朱に染まって桜色をしていた。
「高山さん……」
甘い声が勝手に漏れる。
ぞくぞくと粟立つ肌が、触れられたがっている。
「櫂っ」
高山の声がせっぱ詰まっていた。
それに縋って。
「熱い……んだ……」
手を首に回して引き寄せる。
途端に、ふわりと傾いだ体を抱きしめた。
胸と胸が触れあえば、高山がどんなに興奮しているか、その鼓動で判る。それは櫂も同じで、どちらともつかない鼓動は、微妙にズレたリズムを刻んでいた。
「……でも、ここは」
高山の頭が動いて、慣れない部屋を探るようにしているのが櫂にも判る。
この期に及んでっ!
さすがにその焦れったさに櫂も苛立ちが湧いてくる。
「でも、ちゃんと布団あるもん」
そう言うことを言いたい訳ではないだろうが、櫂は拗ねたように言い放つと、するりと高山から手を離した。
「え?」
途端に高山が驚いたように目を見開く。
その手が櫂を押しのけようとでもしていたのか、宙をきっていた。
「布団、ほら」
三つ折りに畳まれた布団の片端を引っ張れば、容易く開いて広げられた。ぽんぽんと肌布団と枕も放り投げる。
「ほらっ」
とんと手で布団を叩き、櫂は真ん中にぺたんと座り込んだ。
もちろん敷いたのは一枚だけだ。
「櫂っ」
泡食ったように震える声が高山の口から迸る。
悲痛な顔を浮かべてはいるけれど。
『んあぁっ、もっと……ゆっくりっ──ひぃ』
絶妙なタイミングで、そんな嬌声が聞こえて。
「──っ」
「けい…すけ……」
櫂が思わず呟いたほどに、それはあまりにも淫猥な欲情を煽ってくれるものだった。
小さな悲鳴を上げた高山も例外でない。
ゆるりと動いた高山がぺたりと櫂の前で布団に腰を下ろす。
「……人の家なのに」
まだ言うか、と思ったけれど。
「櫂……」
手がゆっくり回される。
途端に全身に広がる粟立つような刺激に、ぶるっと悪寒のような震えが走った。
ああ、と吐息のような声を漏らして、櫂も高山を抱きしめる。
どちらともなく合わせた唇に、櫂がまず動いて、それに高山が応える。
しんと静まりかえった田舎の夜に、二人を煽るように啓輔の声だけが響く。
普段なら、その異常さにかえって退いてしまうだろう。
だが、二人はすっかり失念していたが、しっかりと酔っていた。
昼間に飲んだアルコールと、桜の美しさと、そしてこの雰囲気に。
啓輔の声も、二人の動きを急かしてくれる。
一度タガさえ切れてしまえば、高山とて男だ。
「んっ……」
舌が絡まり、濡れた音が耳を犯した。
手が互いの肌をまさぐり、高まった熱をさらに渡し合う。
瞬く間に脱ぎ捨てた衣類が、薄闇の中ぼんやりと白く浮かび上がっていた。
「はあっ……」
快感だけを与えるようにと、どこまでも優しい高山の愛撫は、本音を言えば少しもどかしい。
けれど、それも長時間続けられれば、息が上がる。
痛みなど味わうこともないほどに、ゆっくりと増やされる指。
それが体の奥をやわやわと探る。
そこから時折きついほどの刺激が体内を暴れ狂い、櫂を翻弄させていた。
後少しの快感を欲して、もっとと自ら腰を動かして、高山を誘う。
だが、それでも高山はなかなか先に進まない。
時折、判って焦らしているのかと思ったけれど、真剣な表情の高山はそんなつもりは毛頭ないらしい。
それはそれで、悔しくて。
「あ、櫂っ」
小さな声が叱るように響く。
くすりと笑っている櫂の手が、高山のものを緩く扱いているのだ。
「やめっ、うっ」
制止されても止めるつもりなどない。
芯から込み上げる疼きに堪えている櫂は、物足りない思いを高山に伝えたい。
言葉にするには恥ずかしい欲する言葉を、手で伝えている。
疼く体は限界まできて、挿れて欲しいと訴えていた。
「たかや…まさぁん……」
はあっと熱い吐息を首筋に吹きかけて、両の足を高山の腰に回す。
導くように腰を押しつけていって、もう完全に解れた場所に高山のものを押しつけた。
「櫂……いいのか?」
あれだけさんざん解しておいて。
櫂はまだそんな事を言う高山に苦笑と言葉を返す。
「きて、よ」
潤んだ瞳で見上げれば、高山もきつく奥歯を噛みしめていた。
彼も限界がきている。
そう思うから、ぐいっと腰を突き上げた。
「あああっ」
このときの声だけは我慢できない。
下に啓輔達がいると判っていてもだ。
いや、いると判っているから、櫂の中の負けん気が鎌首をもたげてくる。
「か、櫂っ」
「いい、からっ」
こんな時でも理性が働いて焦る高山を、櫂は銜え込むように腰を押しつけた。
逃がさない。
たまにどうして自分がここまでどん欲に動かなくてはいけないのだ、と思う櫂だったが
欲しくなればそんなことは気にしていられなかった。
「んあっ、ああっ、んん──」
「櫂、かい……かいっ」
名前を呼ばれるたびに体の芯が熱く疼く。
体の奥にある高山のものをはっきりと味わいながら、その動きに腰までがつられて動いていた。
「あ、ああっ」
「櫂っ、ううっ──くっ」
幾度も激しく突き上げられ、それでも快感以外は襲ってこない。
しかも的確にピンポイントの攻撃は、目の前が白く弾ける程に意志が飛びそうになる。
「はあっ、ああっ、もっとっ!」
後少しで達きそうだと、必死で縋り付く。
櫂のものは、密着した二人の下腹に挟まれて、ずりずりとそれだけで扱かれているようなものだ。
手とは違うもどかしい刺激だというのに、けれど体内の刺激によってそれはもう暴発寸前だった。
「も、もうっ」
ぎゅっと目を瞑れば、まなじりから生理的な涙が流れ落ちる。
それを高山が口で吸い取って、乾いた場所にはキスを贈ってくれた。
「いいよ、達って」
掠れた声が、いつもの高山とは違う。
それにも煽られて。
「んああっ」
一際艶やかな嬌声が櫂の口から迸った。
一夜明けて、夜の嵐にかなりの桜が散っていた。
花絨毯のようにピンクに染まった地面は、それはそれで美しいものがあった。
だが、啓輔と櫂はそんな花絨毯をゆっくりと愛でる暇はなかった。
朝起きて自分たちのした後の片づけの必要性に気付いて、二人はずっとそれらに明け暮れているのだ。
何より借り物の布団を汚したツケは大きい。
大きなシーツは、独り者の啓輔の洗濯機では一回に一枚しか洗えない。
長屋の裏に放り出していた竹竿を木や適当な軒下に引っかけて、シーツをひっかける。
家城が乗ってきた車は、今は日当たりの良い場所まで移動させられて、布団干しと化していた。
「啓輔が悪いっ」
面倒な大物の洗い物に櫂がふて腐れたように言葉を投げつけた。
「何言ってんだよ、櫂だって」
「何だよお、啓輔の方が借り物の布団だったんだろ?それに先に始めたのはそっちじゃないか」
「それにつられたのはそっちっ」
「いいじゃないかあっ、あんなん聞いて我慢できるかっ」
微妙に主題は口にはしていない。
けれど、判る人間にはその内容の意味など判りすぎるほど判るものだ。
ばたばたと走り回る音ともに、そんな和やかな口げんかが中まで聞こえてくる。
先ほどからずっとそんな声が聞こえるたびに、食器類が割れそうな音を立てていた。
中で洗い物をしているのは高山で、家城は洗い終わったものを拭いて片づけている。
すすんで中の仕事を受けた二人だったが、今はかなり後悔していた。
こんな丸聞こえの場所で……。
確かに田舎の庭はそれぞれが広く、隣家の話し声まで聞こえるものではない。
けれど。
「なんなら、また泊まってもいいよぉ、今度は四人で雑魚寝したいよな」
「ああ、それなら自分で布団持ってくるよぉ。そしたらゆっくりできるよねえ」
がちゃっ!
途端に、高山が掴んでいた皿が真っ二つに割れた。
ちらりと家城が眺めた先で、高山はその顔を朱に染めている。
「怪我……しませんでしたか?」
「大丈夫です」
動揺しているようには見えたが高山の返事は早かった。
すぐに割れた皿の処理にはかかっている。割れた皿は綺麗に二分割されたようで、破片は少なかったようだ。
それらは難なく拾い集められて、高山は何事も無かったように洗い物を再開した。
だが、彼が一体何わ想像したのか、家城にも判った。
ちらちらと少し遠くなった声を、聞き逃すまいとしている様子がよくわかる。
「……修学旅行の気分のようですね」
「え?」
「布団を並べて一緒に寝るってのはそういう意味でしょう?」
「え……あ、そう……ですね」
恥じ入る高山というのも珍しいものだ、と家城はしばらくその横顔を眺め、一人ほくそ笑む。もっともその表情には変化は見られないけれど。
「昨夜は……すみませんでした。少し飲み過ぎたようで」
「い、いえっ。私の方こそ……。酔っていたんでしょうね」
視線を合わせない高山が、ため息をつく。
それに家城も小さく頷いて。
「でも、楽しい夜でした」
そう言えば、ふっと高山も視線を上げた。
ほんのりと朱に染まった顔は、すぐに伏せられる。
「……そうですね」
それでも、今にも消え入りそうな声で高山も答えてくれた。
【了】