「そろそろだね」
たった二人のチーム。
先輩である服部誠が、くすくすと笑みを浮かべて声をかけてきた。
隅埜啓輔は、その言葉にちらりとパソコンの右下に表示されている時計を見る。
『15:02』
休憩時間だ。
無意識の内に漏れたため息に、唇を噛み締める。
どこか楽しげな服部の姿。
それを恨めしげに見つめながら問いかけた。
「そんなに笑われる程……面白れーこと?」
このチームに馴染んでしまったら、服部が言葉遣いにあまり煩く言わないこともあって、友達のように話をするようになった。
こんな職場であったことはひどく幸運なのだろう。
会社も仕事場も、そして人間関係も……ここに入って本当にラッキーだった。
この目の前の可愛い先輩も……上から覗き込んでいるこ憎たらしいこいつも含めて……。
「面白いよな」
服部に声をかけたのに、降ってきた言葉はパーテション越しからだった。服部と啓輔は揃ってそちらを見上げた。
服部側にある胸までの高さのパーテションの上から、顔を覗かせていたのは開発部の梅木。
「俺にとっては、梅木さんの行動も面白いと思うんだけどなあ」
すっかり、この場に馴染んでいる部外者をじろり見る。
暇さえあればここに入り浸る梅木は、一体いつ仕事をしているのだろうかと思える。なのに、これでも上司の覚えはめでたいというのだから驚きだ。
「俺は、これが普通だからねえ。でもあの人の場合は……」
意味ありげにほくそ笑む梅木の、言いたいことが判ってしまう啓輔は彼らから視線を逸らした。
んなこと言ったって……。
やっぱり漏れるため息に、啓輔は再度時刻表示を見た。
そろそろかな。
「でも、結構噂になっているよ。噂に疎い僕にすら伝わってくるぐらいだから」
ぎくり
引きつった顔でディスプレイの向こうにいる服部を見る。
「やっぱ、服部さんまで伝わってんだ?」
「うん。というか、聞きに来た人がいる。女の子なんだけど、家城さんって隅埜君が好きなのかって聞かれて……困っちゃった」
苦笑いを浮かべる服部の言葉に、啓輔はひくりと顔を強張らせた。
啓輔自身もその噂を聞いたことがある。
家城が啓輔にご執心だというような内容。
確かに間違いではないのだが……啓輔としてはそれがばれるのはさすがにマズイと思っている。会社では大人しくしようと決意しているのだから。
なのに……。
単なる好奇心の噂ならまだいい。だが、時折突き刺さるような視線を感じることもある。
悪意に満ちた視線は、家城にご執心の誰か、だろうか?
家城は、啓輔以外には知的で落ち着いていて、しかも顔もいいし背もある。
見た目だけでは、もてない理由を思いつく方が難しい。
唯一の欠点は、その感情を面に出さないというところだろう。それがひどく冷たく感じさせる。そのせいで、女性達には近寄りがたい存在と写るようだ。
だが……。
それでも彼がいいという人はいるようで……。
はああ
啓輔は漏れるため息を止めることができなかった。
啓輔とて、今までの経験上女性にもてる方だとは思っている。ナンパしてそう嫌われたこともない。
なのに最近とみに露骨な嫌悪の視線を浴びることがある。
それもこれも。
うんざりとあの家城の顔を思い浮かべる。
あいつがもてるせいで、しかもあいつの遠慮のない行動のせいで何で俺が悩まなきゃいけないんだ。
時刻が15:05になった。
途端に測ったように、ドアが開く。
「ジャスト」
梅木がにやにやと嗤いながらそちらを見る。
「何がです」
入ってきた家城純哉が冷たい言葉を返した。
「相変わらず時刻通りに来るってことさ。よくもまあ、そうやって休憩時間の度に通えるなあ。しかも来れないときはきちんと電話しているだろう?」
「当然でしょう」
それを真面目な顔で言うものだから、誰もつっこめない。
本気でそう思っているんだろうか?
「だいたい、そういう梅木さんも、四六時中ここに入り浸っているようですね。先ほども、医材(医療材料チーム)の方が、品質部でぼやいていましたよ。プレゼン用の資料作成を押しつけられたとかで」
「……押しつけたわけではないんだが……」
家城の言葉にまずいとばかり顔を引きつらせた梅木が、ちらりと服部に視線を移した。
服部も梅木に視線を向けている。
「仕事しないと、ここには出入り禁止にしますって言っていますよね、梅木さん」
にっこり微笑む服部のこの笑顔は爆発寸前の証でもあると、梅木も啓輔もよおく知っている。
「……だから押しつけたわけではなくて……あいつが手伝うなんて言うから、じゃ、やればって……言っただけで」
しどろもどろの言い訳が服部に通じるわけがなかった。
「前に、僕も経験したんですよね」
にっこり微笑む度合いがますます激しくなる。
あはは、逃げよ。
啓輔は、ひそかに休憩に行く用意を始めた。
「梅木さんって、学会発表の資料をほんとに大変そうなふりをして作るでしょう?それで、つい見ている人が、手伝いますって言ってしまうんですよね。そしたら、その資料の大半の作成を手伝うって言ったんだからって、押しつけちゃうんですよね。自分の発表資料なのに……」
「嫌だなあ……最近は、そんな事していないって。ただ、あいつが発表なんて凄いなあ、自分もやってみたいって言うからさ、じゃやってみればって……言っただけだって」
がたりと啓輔が席を立つのと、服部の手元でかたりと音がしたのが同時だった。
持っていたペンが机の上に置かれたのだ。
「休憩、いってきま?す」
「はい、どうぞ」
その顔から笑顔が消えていた。声だけかけられた啓輔は、家城の手を引くようにドアへと向かう。
「梅木さ?ん!僕にばっかかまけていないで仕事してください!」
「だってさ」
「だってもくそもないでしょ!僕ももう子供じゃないんです。梅木さんに四六時中見張って貰わなくても大丈夫です。だから!」
啓輔は、がちゃりとドアを開いて部屋を出ていく。
ドアを締める寸前、服部の悲痛な叫び声が聞こえた。
「仕事、してください。梅木さんがそんなことで会社辞めることになったら、僕どうすればいいんですか!」
「あの二人はよく判らない関係ですね」
家城がそう言うのだから、そうなのだろう。
啓輔も、見ていて変だとは思っていた。
お互いに惚れているのだと思う。
服部がああも感情的になるのは、梅木が一緒にいるときだけだ。
啓輔と仕事をしているとき、あんな風に声を荒げたりはしない。
昔、ノイローゼにまでなって内にに閉じこもってしまった服部を無理にでも外に向けさせるために梅木が取った手段は無理矢理に抱くことだったらしい。で、意識を外に向けさせた。
内へ内へと考えることを止めさせた。
「梅木さんは、いい加減なように見えますが、根は真面目な方ですよ。その彼があそこまで仕事を放っているというのは、結構問題になっているようです。ただ、過去の実績もありますから、医材のトップがなんとかその声を黙らせているようですけれど」
「そうなんだ。今の梅木さん見ているとそうは思えねーけど」
服部は梅木に惚れてしまっている。ただ、それを自覚した途端、梅木は服部のノイローゼが治ったのだと判断して、服部を抱くのを止めてしまった。
服部もそれはそれで納得しているのかも知れない。
ただ、時おりひどく辛そうに見える……ああやって怒りを発散した後のことだ。
出ていった梅木をひどく辛そうに見つめる服部に、声をかけたくなるのをいつも止めている啓輔。
と、いろいろ考えているうちに食堂が近づいてしまった。
人が集うところ特有の喧噪さがここにまで聞こえてくる。
啓輔は、何よりも考えなければならない自分たちの事を思い出した。
「なあ」
歩きながら、声をかける。
「はい?」
「なんか、俺達仲が良すぎるって噂になっているんだけど」
「そうらしいですね」
「付き合っているとかという噂もあるんだけど」
「そういう話も聞いたことがあります」
それが何か?
啓輔に送られた視線がそう言っていた。
駄目だ、これは……。
どうやら家城は他人の目など気にならないらしい。
これ以上の会話は、今することではない。
啓輔は口を閉じた。
人に聞かれたら、どんな噂が立つことか……。
食堂で、たまに感じる視線に居心地の悪さを感じながらも、二人でコーヒーを飲んでいた。
と。
「家城くん……」
遠慮がちな声に啓輔と家城は同時に振り返った。
「いいかな?」
首を傾げて問いかけるのは、開発部の滝本という人だった。
「何ですか?」
その途端に家城の表情が僅かに変わる。
それは啓輔にしか判らない程度だったが、確かに家城は微笑んだのだ。
啓輔はその変化を見て取った瞬間、ムッとした。
滅多に表情を変えない家城が啓輔以外の人間に対して笑顔を見せる。
これがどんなに珍しいことか。
そんな啓輔の隣に滝本が椅子に腰を下ろした。
「笹木くんが、今週末来れるって」
「そうですか。じゃあ、集まれますね」
今度こそ誰が見てもはっきり判る笑顔を、滝本に見せる。
ムカムカムカ
じとっと啓輔が睨むのだが、少なくとも滝本の方は気づかない。
ほっとしたように家城に向かって話をしていた。
「で、竹井くん達は声をかけた?」
「ええ。でもなんだか竹井くんの機嫌が悪いので、安佐くんにまで話が行っているかどうかは判りませんが」
「……また、喧嘩しているんだ、あの二人」
「みたいですね」
「よく喧嘩の種があるね」
呆れたように言う滝本の表情が、なぜか羨ましそうだった。
ふっと、食堂の大きな窓から空を見つめている。
何で?
じっとその横顔を見ていると、痛いほどの視線を感じた。
はっとその視線を探ると、なんでかあちこちからそれは来ているようで、啓輔は身を竦めた。
またか……。
ちらちらとこちらを窺うようにしている仕草が見て取れる。
その内、いじめにでも遭いそうだ……。
本気でそう思っていた。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ONI GOKKO
?アベック鬼ごっこ? 2
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「なあ、俺もうやだ」
その日、食事に誘われてそのまま家城の家に行った。
そこで、啓輔は意を決して家城にそう言った。
「何がです?」
いつものようにソファに浅く腰掛け背もたれに躰を預けて足を投げ出している家城が、その目を細めて啓輔を見た。
啓輔はそのソファの後から背もたれに脇を引っかけるように躰を預けながら、家城を覗き込むようにしていた。
「気づかないのかよ?今日だって食堂で痛いくらいに視線浴びちまったじゃないか」
大半は若い女性社員だった。
別にいいじゃねーか。
叫びたくなる。
こんなのって理不尽だ。
確かに付き合ってはいるけど、別に男同士なんだから一緒に休憩くらいとったって……。
「あれって、絶対、いえ……純哉のファンなんだよなあ」
会社と家とで呼び分けるのは難しいのだが、それでもそう呼ぶと家城が照れるのだ。それが面白くて、できるだけ名前で呼ぶようにしていた。
「別に、私だけではありませんよ」
平然と言っているようだが、今まで啓輔を見ていた視線が外されていた。
……いつになったら慣れるのかなあ……純情な奴。
ふとそう思ったが。
ん?
「私だけではない、って?」
「あれ、半分は滝本さん向けですよ。彼も人気があるんです」
「あ、ああ……そう。そんなに人気あったんだ、あの人」
顔がひくりとひきつった。
「まあ、出世頭ですし、可愛い雰囲気があるって……だけど、本人は嫌がっているし、女性と付き合う気もないようですけどね」
「そ、そうなんだ」
知らなかった。
家城が人気があるのは知っていたけれど、あの滝本さんまで……。
たしかに年の割には、可愛い雰囲気のせいでそんな風に見えないし。
も、もしかして俺って、今日の休憩でさらに敵を増やしたとか……。
しかも女性と付き合う気がないってのは……つまりは、フリーな訳で、虎視眈々と狙っている人がいるとか……。
冷や汗垂らしている啓輔に、家城はようやく視線を戻した。
「それで、それがどうしたんですか?」
気づいていないのか、無視しているのか。
どうでもいいことなのか……。
「だから、俺、もう嫌なんだ。家城さんが……違った……純哉がべたべたすると俺が睨まれるんだからな。会社ではもうちょっと大人しくしていないと、バレちまうじゃねーか」
「それって……私と休憩に行くのをやめるっていうことですか」
家城の目がすうっと細められた。
声音も酷く平坦で、そんな仕草をすると周りの空気が一気に冷たくなったような気がする。
「いや、だからたまには……っていう位でいいからさあ。少しは別行動とるとか……。って何で俺か卑屈になってなきゃいけねーんだよ。被害者は俺だぞ!」
「そうですね。そんなに言うのなら別行動取りましょうか?」
「え?」
冷たさに堪えかねて荒げた声が、一気に小さくなる。
「ですから、今度から休憩は別にしましょう。そうですね、急に別行動を取り始めると、それはそれで勘ぐられますから、食事位は一緒に取りましょうか」
家城の視線がテーブルに置いてあった本に向けられた。それを手に取る。
「あ、ああ……」
啓輔は急にそんな事を言いだした家城が理解できなかった。
絶対にごねると思っていた。
嫌みがたっぷり降ってくると思った。それなのに。
本を読み始めた家城を覗き込むように啓輔は話しかけた。
「でもさあ、何でそんな気になったんだ?」
「嫌なんでしょう?」
「それは……あの刺すような視線は嫌だから」
「だからですよ」
抑揚のない声。
こ、これは……やっぱ怒っている?
啓輔はずりずりと家城の方に身を乗り出すが、本に遮られてそれ以上は近づけない。
「純哉?」
「何です」
啓輔が呼びかけても本から顔を上げない。
まずっ、怒ってる……。
「お?い!」
ぐいっと本を取り上げると、ようやく家城が啓輔に視線を向けた。
「何です?」
わずかにしかめられたその顔から冷ややかな視線。
「怒ってる?」
「別に」
笑わないんだよな、やっぱ。
「怒ってる……」
ため息混じりに呟くと、家城がぐいっと啓輔の腕を引っ張った。
ぎりぎりまで背もたれから躰を乗り出していた啓輔は、それでバランスを崩してソファの上に頭から崩れ落ちた。
落ちたところにあるのは家城の躰で、それほど痛みはなかった。だが、倒れ込んだその姿勢のまま家城に抱きすくめられる。
「え、あっ!」
「今日は離しませんよ」
抑揚のない声が耳朶に触れんばかりのところで囁かれた。
「んっ、離せよ……」
ぞわぞわと全身に広がる悪寒にも似た疼きに堪えながら、啓輔は身を捩り、家城を見遣る。
だが、家城はその表情を変えないまま、啓輔を離そうとしなかった。
「何だよ」
家城の体温が触れあった部分から伝わってくる。
触れられた部分に熱が集まる。記憶に植え付けられた感触を躰が求めているのが判る。
こ、この……。
啓輔が再度逃げだそうと手を突っ張った途端、家城がくすりと僅かに笑みを浮かべた。
「え?」
拘束していた手が離れ、啓輔はようやく半身を上げることができた。
「何を慌てているんです?」
「え?」
くすくすと漏れる笑いに啓輔は羞恥に顔を赤らめた。
「からかった?」
「かわいいですよ、赤くなってるのも」
くすくすと笑われるから、余計に顔が熱くなるのを止められなかった。
「うるせっ!」
慌てて、家城から離れる。
火照った躰がうずうずと物足りなさを訴える。ぺたりと床に座り込んだ啓輔は、ううっと唸りながら家城を見据えた。
「まあ、かなり噂になってしまったようですので、どうにかしないといけないとは思っていましたし」
「じゃ、何で!」
「それは、たまには困らせるのもいいかな、と。最近、我が儘ですからね」
「誰が?」
「あなたが」
ぴしりと言われて絶句する。
眉間の皺も深く家城を見つめていた啓輔だったが、何とか言葉を発した。
「俺のどこが、我が儘だって?」
「私を困らせて楽しんでいますよね。わざと名前で呼んでません?言いにくそうなのに」
「それは……」
だって、おもしれーもん……。
「それと、さっきの話の続きですが、私は明日から滝本さんとでも休憩に行きますからね」
「え!」
あの滝本さんと?
啓輔の脳裏に家城が滝本に見せた笑顔が浮かんでくる。
何か、やだ。
「他にはいないのかよ」
ムッとして口を尖らしていた。
「一番仲がいいんですよ。後は竹井君ですかね」
竹井さんって、家城さんが好きだった相手……じゃねーか。
「それは嫌だ!」
今は俺が好きなんだって知っているけど、やっぱりそれは嫌だ。
嫌悪の表情丸出しで頭を振る。
「では私一人で休憩しろって言うのですか?」
「うっ……」
確かに、家城はそれほどつきあいが広くない。
だからこそ、足繁くコンピュータールームに通う家城が噂になっていたのだが。
「だって、そいつら……」
言いかけて口ごもる。
「何です?」
俯いた啓輔の顔に家城の手がかかって、上向かせた。
ソファの上から躰をかがめて、啓輔の顔を覗き込む。
かああっと火照った顔を背けたい。
「言いたいことがあったら、言わないと判りませんよ」
気づいてるくせにっ!
じろりと睨んだ先の家城は楽しそうだ。
「さあ、言ってみてくださいな」
言わないと許してくれそうにない。
今ここで逃げることも出来るが、それをすると不機嫌な家城の嫌みの応酬を受けることになる。
啓輔は諦めたようにため息を漏らした。
「あんたが滝本さんや竹井さんと休憩するのは嫌だ」
「なぜです?」
「……楽しそうだから……」
「それってどういう意味なんでしょうね?」
「もういいじゃんかっ!」
ぎろっと睨み付けるが、視線の先の家城は全く動じない。
ますます近づいた顔。しっかりと掴まれた顔を啓輔は避けることもできなかった。
「言ってください。私は聞きたいですね」
ふと気づくと揶揄する声音は消えていた。
酷く真剣な眼差しが啓輔を縛る。
「あ、あの……純哉?」
いつもなら照れているはずのその顔に変化がない。
啓輔はごくりと息を飲んだ。
「啓輔……」
至近距離で囁かれる家城の声は、啓輔の性感をもろに刺激する。
思わず固く目を閉じた啓輔の頬に触れる家城の吐息。
「言ってください」
その声に誘われるように啓輔は、その言葉を漏らした。
「妬けるんだよ!なんか、あいつらと一緒にいるあんたを見るのが嫌なんだよ!だから一緒にいてほしくなんかねーんだ……」
ようやく言ったその言葉への褒美のように、唇を柔らかく塞がれた。
負けた……。
あのままなし崩し的に家城に抱かれた。逆らうことなどできなかった。
腰が重い……。
啓輔は服部がいないことをいいことに、椅子にぐったりと背を預け天を仰いでいた。
う?、ちっとも抱く側になれんじゃねーか。
いつだって家城の方が一枚上手で、啓輔はいつの間にか流されている。
それが悔しい。
俺だって、抱きてーんだよ。
「どうしてくれよー」
ぶつぶつと呟くが、こればっかりは経験の差なのか、家城が啓輔の扱いを心得てしまったのか……啓輔が仕掛けようとすると家城がはぐらかす。
からかって表情を変えることも少なくなった。平然と啓輔のそれをはぐらかしてくれる。
「う?、面白くねー」
躰としてはたぶんすっきりはしているのだろう。だが、いかんせん精神的なものが満たされない。啓輔とて健全な男。
「やっぱり……俺としては…入れてーよなー……」
ため息が漏れる。
「お前……」
いきなり背後から声をかけられて、啓輔はびくりと躰を震わした。
「う、わっ!」
その反動で椅子が動き、ぐらりと傾く。それを慌ててバランスを取って立て直した。
「何やっているんだ?」
驚きに見開いていた目がすうっと細められ、啓輔を見据えていた。
「梅木さん……いつからそこに……」
ドアが開く音がしたようにはなかった。
こいつ……どっから……いや、何よりもまずい。もしかして、聞かれたのか?
「どうしてくれよーってのは、聞いた」
ってことは……。
「で、何を入れたいわけ?」
あ、ああ……やっぱり。
「別に何でもねーよ。それよりいっつもいっつもさあ、どやって入って来るわけ?ドアが開く音もせんかったし」
「俺、音なんか立てないよ。そんな事したら誠が警戒するからな。逃げられないように、そおっと開けると音なんかしやしない」
「……そやって無理矢理迫ったんだ?」
焦っていたせいで、つい言ってしまった。
途端に梅木の顔色がはっきりと変わった。幾分青ざめたその顔の眉間に深い皺が刻まれる。
「その言葉遣い、何とかしてやろーか」
低い地を這う声音に、啓輔の背筋に冷や汗が流れた。
げ、まじっ。
慌てて席を立ち、ずりずりと後ずさる。
「逃げるな。何もしないって」
そんな啓輔の様子に気づいた梅木がふっとその表情を和らげた。
「ま、事実だし」
さらりと言われてほっとすると同時に、服部が気の毒になった。
こんな人につきまとわれたなんて、大変だろうなあ……。
どう解釈しても、この人行動パターンは異常としか思えない。
「それより、何が入れたいのか聞いてないんだけど」
「うっ」
避けられたと思った筈の話題をぶり返され、啓輔は息を詰まらせた。
「ね、もしかして……ナニかな?」
意味ありげににやつく梅木はどう見ても気づいているとしか思えない。啓輔はううっと唸りながら、梅木を睨んだ。
「やっぱり、君がネコって訳なんだ?」
「ネッ、ネコって……」
その意味も啓輔は十分知っていた。あからさまに言われてぐっと言葉に詰まる。
「ま、あのクールビューティさんが君の躰の下で悶えている姿ってのは想像できないもんな。君なら別だけど」
「そ、そんなもん、想像すんな……」
真っ赤になって呟く啓輔ににやりと嘲笑を浮かべている梅木。
啓輔は必死の思いで自分を落ち着かせた。
こんなふうに相手にいいように扱われるのは嫌いだった。
おおきく息を吐くと、きっと梅木を睨み付けた。
「ったく、何の用だよ?俺をからかうためじゃねーだろ。それに服部さんは会議だよ」
啓輔の一挙一動を観察しているかのような梅木の視線が気になって仕方がないのだが、必死で平然さを取り繕う。
「何だそうなのか。せっかく休憩に誘いに来たのに……って、今日は家城さんは来ていないのか?」
言われて慌てて時計を見ると、確かにいつも来る時間が過ぎている。
「喧嘩でもしたのか?」
声音は心配そうなのだが、その顔はどこかにやけている。
啓輔はじろりと睨むと梅木に吐き出すように言った。
「喧嘩なんかするかよ。それより、そっちはどうなんだよ。今日服部さん機嫌悪かったし」
ふと思い出した事をぶつけてみる。
途端に梅木が狼狽えた。
はっきりと変わった顔色に、視線が落ちつきなくうろうろと周囲を彷徨う。
その狼狽ぶりに啓輔は目を見張った。
何なんだ、この人は……っていうか、やっぱり服部さんの機嫌の悪さはこの人が原因か。
朝から話し掛けてもどこか上の空。
しかも、ずっとしかめられた顔が解れることがない。
いつもはそんな事がなかった。面白くない冗談でも、困ったように笑ってくれる人だ。神経質なまでに他人に気を遣う人だ。
その服部が、啓輔が話し掛けても気づかない。
今日の会議だって、啓輔が言わなければ忘れていたようだ。
ばたばたと書類を抱えて出ていった様子を思い浮かべた。
「やっぱり何かあったんだ。それで様子を見に来たんだ?」
「……」
一文字に結ばれた口元が、それが真実であると示していた。
「だったらさ、こっちのことなんか気にしてる場合ないんじゃないですか」
下手につついて、こっちに逆戻りしても敵わないので、一応丁寧に進言してみる。
そんな啓輔を梅木はじろり睨んだ。
「お前、そんな丁寧な言葉遣いすんな。気持ちわりー」
「……先輩に対しては、きちんとした言葉使いは当然です」
なんて家城に言われたまんまの台詞が飛び出してしまう。
「家城さんに対しては、そうでもなさそうだが?」
「!」
そりゃあまあ……身に付いてしまった話し方って言うものはそう簡単に変わらなくて……。
家城に対しては砕けた調子になるのは、最初からだ。
これで、言葉遣いまで丁寧に接していたら、なんだか完璧に負けているような気がしてしまう。
だいたい、これだって無理して喋ってやってんじゃねーか……。
それにどう考えても梅木の言葉は、こっちの問いをはぐらかしている。
「あのさあ……」
だから、改める。
「あんた、何やったのさ?あの自分のことより他人の事を優先するような服部さんが、ため息付きまくってんだぜ?その原因を作ったのがあんただって自覚してんだったら、何とかしてくれよ」
お陰で仕事になりゃしねー。
ぶつぶつと文句を垂れ流す啓輔に、梅木は苦笑いを浮かべた。
「気持ちわりーとは言ったが、そこまで戻せとは言ってねーぞ。ま、でもその方がお前らしいな」
「すみませんね」
「ああ、もう……確かに俺のせいだよ。誠の機嫌の悪いのは……だけどな…俺だって悩んでんだよ。お前だって悩みあるんだろ。ま、入れさせて貰えそうにはないわな、あの人とじゃあ……」
「うっ!」
しつこい、こいつ。
「しょうがねーことだよな。ほんと。どうしようか……」
梅木が椅子をたぐり寄せ、どしんと躰を預ける。
「俺さあ……あいつに抱いてくれって言われたんだよなあ……」
「え?」
啓輔はそれを聞いた途端、そのままの姿勢で硬直してしまった。
呆然と見つめる視線の先で、梅木が腕組みをして、自分の膝あたりを見据えている。
えっと、もうそういう付き合いだろ。それが今更?
それで困っているって?
「あ、あの……だってさ、もうそこまでいってたんじゃないのかよお!」
だってだって、確かそんな事を……あ、あれ……???
今までの二人のじゃれ合いが、脳裏を走り回る。
「確かに躰の関係ってのはあったけどさ、そのあいつからして欲しいってのは初めてだ……」
「か、躰の関係はあったって……」
だからあ……どうして、そこでそんなに悩んでいるんだ?
服部は確かに彼のことを気にしている。無理矢理だったって言うことは知ってはいたが、その後仲良くなったんだとばかり……では、今の状況って何なんだ?
「何て言うか……俺もお前みたいなんに相談するなんてやきが回ったとは思うが……。ま、俺達の事をはっきり知っている奴って他にはいないし。家城さんに相談するわけにもいかないだろ。だから、愚痴だと思って聞いてくれ」
「はあ……」
いつの間に、ここは悩み事相談室になったんだ?
啓輔はそういう話を聞くのが苦手だったのだが、ぽつぽつ喋る梅木が妙に弱々しくて、つい邪険にするのも躊躇われた。
椅子に座って向き合って、まるでお見合いのようだとぼーっと考える。
「だからな、内へ内へ籠もってしまった誠を助けたくて、それで無理矢理にでも外の世界に向けさせようとしたんだ。まあ、気になっていた奴だったし……。完全に内に籠もってしまったあいつはなんだか弱々しくて、助けたいって思った。だけどさ、何をしても反応しなくて、流されているんだ。そのうち……俺の中に怒りが湧き起こった」
はあっと息を吐く。
決して顔を上げようとしない梅木の方が、よっぽと弱々しく見える。
「気が付いたら、徹底的に痛めつけてしまえって……一回どん底になってしまえば、後は這い上がるだけだから、何とかなるんじゃないかって……今から考えると無茶苦茶な事を考えて、それを実行に移してしまった。それに引っかかったあいつは……悲壮だったよなあ。いやいや俺に抱かれていたのに……」
梅木の手がぎゅっと握りしめられ、その拳が震えている。
「それでも、あいつは何とか這い上がったんだ。俺をはね除けることも覚えた。言いなりにならなくなった。その澱んでいた瞳に意志が入った。それで、俺はあいつを手放した。だって、そのために抱くことにしたのだから、それが治ってしまえば抱く理由がなくなる。俺はあいつのこと嫌いじゃない。好きだ。だけど、あいつは俺の事、嫌いだって言っていたしな。だから、抱く理由もないのに抱くわけにはいかないだろう?だからさ、前と同じとはいかないけれど、それでも会社の同僚という立場に戻ったんだ。それを今更……崩せないだろ……」
「あ、あの……いつも言っている俺の誠に手を出すなっとかいう雄叫びはじゃあ、何?」
「う?ん、あれな。一応本心なんだけど……。なんか気が付いたら、やっているんだ。でさ、そういう態度取っていると誠が楽しそうなんだよな。笑ったり怒ったり。構って貰えるのが楽しいのかも知れないって思えたな。それにすごく感情が豊かになるんで、ついな」
それはそうかも知れない。
服部は梅木がいる時は、ひどく楽しそうだ。怒っている時も生き生きとしている。
だから、二人とも付き合っているのだと思ったけれど……。
「だけど、やっぱりそういう関係って異常だと思ってはいたし、幾ら好きでもこれ以上誠を拘束するつもりはなかったから……なのに」
ふっと言葉を切った梅木が啓輔に視線を向けた。
その目は睨んでいた。
「誠は、お前達に煽られたんだ。でなきゃ、あいつがあんな事言い出すなんて……、俺のこと好きだなんて……言う訳ない……」
「だって!」
煽られようが煽られまいが、服部が梅木のこと好きなのは、啓輔にだって判った。
「俺がちょっかいださなきゃ、誠は普通に女の子を好きになるような奴だったんだ。それなのに、俺が抱いたから……勘違いしているんだよ、あいつは。あんときまで童貞だったみたいだし。女っての知らないんだよ。それに……俺はあいつが思っているような奴じゃない。もう、あんな関係は終わったんだよ……」
梅木がぴたりと口を閉じた。
え?と、これはどうすればいいんだ?
この人は服部さんが好きなんじゃないのか?
服部さんは、この人が好きなのに?
好きだけど、つきあえないって言っているのか?躰の関係まで出来ているのに?
「俺、できないって言ったから……だから、あいつ落ち込んでいるんだよ」
この言葉を聞かなくても、服部が変な原因が判ってしまった。
とんでもないことを聞いてしまった……。
啓輔は悩みの種が増えてしまって、ずーんと机に突っ伏してた。
「両方好きだけどできないってのはどうしてだ?」
判らない。
好きなら好きだってそれでいいじゃないのか?
猪突猛進タイプだと思っていた梅木が、妙に臆病なのが変だ。
いや、確かに変なのかも知れない。服部も梅木も。
お互いがひどく相手を気にしている。
「どうしたの?」
気が付いたら、服部が傍らに立って心配そうに啓輔を見下ろしていた。
「あ、ああ。すみません、何でもないです」
「ほんと?きついんなら、医務室にでも行く?」
「いえ」
首を振る。
どうしよう……。
「あ、れ……、梅木さん、来たんだ?」
そっと手を添えられたのは、梅木のPHSだった。
どこかぼーとしながら帰っていった梅木の忘れ物。
「え、ええ」
「そっか……来たんだ」
どこか寂しげな服部に、啓輔は思わず話し掛けた。
「あ、あの、梅木さん、なんだか暗かったんですけど……」
「暗かった?」
「服部さんの様子、気にしていましたし」
「ん。僕、彼に無茶言ったからね。心配してくれたんだよ。また、どつぼにはまってんじゃないかってね」
あははと笑ってるのが空笑いだって判るほど、その目が笑っていない。
失恋……。
その辛さを啓輔は知っている。
想っているのに叶えられないその想いを、知っている。
俺は、もうどうしようもなかった。
だけど、この二人は……好きあっているとしか思えない。
「ね、服部さんさあ、前に無理矢理だったんだろ」
言った途端に服部が真っ赤になった。
顔を隠すように腕を口元にあてている。
「隅埜君、何を!」
「だったら、こんどは服部さんが無理矢理してしまえよ。そしたら、梅木さんもけりを付けられるって」
「ま、さか、知っている?」
「どう見たって、梅木さん、罪悪感があるんだよ。服部さんをホモの道に引きずり込んでしまったっていうね。だからだよ。でもそんな事を想うほど、梅木さん、服部さんのこと好きなんだよ。だからさ服部さんが迫っちゃえ」
「迫っちゃえって……僕、そんなこと……昨日だって必死だったのに……なのに」
茹で蛸のように真っ赤になっている服部がおろおろと視線を彷徨わせる。
「手伝う。だってさ、こんなのって変だよな。好きあっているのに。服部さんはもう割り切っているのに、それを仕掛けた梅木さんが今更迷っているなんて変じゃねーか。だから、けりをつけさせてしまえ」
「隅埜君……」
「な、服部さん。俺、手伝うから……」
「……でもどうやって……」
躊躇していた服部の視線がしっかりと隅埜を見つめていた。
服部も切羽詰まっていたのかも知れない。
「梅木さんってお酒強い?」
「……普通だと思うけど」
「家城さん巻き込む。あの人強いよ。だから飲ませちゃえ。それで酔っぱらわせよう。そして、有耶無耶のうちにやってしまえ」
「そんな……無茶な」
「無茶でも何でも、そうでもしないと梅木さんだって吹っ切れないんだよ。自分がどんなに後悔したって、服部さんが梅木さんを好きになってしまったのは消せないんだ。それなのに、今更その想いを拒絶するなんて卑怯じゃないか。だったら、無理にでも納得させないと……できる?」
「それは……」
かあっと真っ赤になった服部は、男の目から見ても可愛いと思える。
思わず抱き締めていた。
「す、隅埜君っ!」
どんと押しのけられて、啓輔は我に返った。
「すみません。でも嫌だったでしょ、俺だったら?」
「……うん」
「これが梅木さんだったら……嫌じゃないでしょ?」
「うん」
「だったら、実行あるのみ」
「……うん!」
逡巡していた服部はふっと表情を改めると大きく頷いた。そんな服部に啓輔はにっこりと微笑んだ。
さて、服部には大見得きったものの、家城にどうやって切り出そうかと悩んでいた。
勝手にさせればいいんだ、と言われそうな気がする。
会社で捕まえることの出来なかった啓輔は、家城の部屋を尋ねたが家城は帰ってきていなかった。
金曜日の夜。
会社にはいなかったような気がする。
誰かと飲みにでも行ったのだろうか?だが、そんな話しも聞いていなかったような……。
「あ」
そういえば、先日休憩時間に滝本が家城と話をしていた。
誰かが来るって?
竹井さん達も……。
もしかして、今日?
逢っているんだ?
でも何で俺にそれを言ってくれないんだ?
「そりゃ、別に誰と飲みにいこうがかまやしねーけど」
主のいない部屋は、酷く冷たく感じる。
いつだって、このソファに啓輔を無視するように躰を預けている家城。そのくせ、啓輔の一挙一動をいつも窺っているようで、その視線にも慣れてしまっていた。
だが、今日はそれがない。
な、んか……。
落ち着かない。
いつもあるものがないということは、自分をこんなにも不安にさせるのか?
啓輔はいつもの家城の指定席に躰を埋め、天井を見上げる。
「あ?あ、帰ろっかなあ」
家城がいないんならここにいてもしようがない。
だが、啓輔はそのまま動くことが出来なかった。
ふとした拍子に家城が出てきそうな気がする。
「も、毒されてるなあ……いっつもひっついていたし……」
用事があって出かけるときは、必ず啓輔に連絡があった。
こんなふうに黙って出かけたことなど無かった。
ふと携帯を取りだしてみる。部屋の灯りに負けないくらいはっきりと光る液晶画面を確認しても家城からのメッセージはない。
「どこ行ってんだよ」
噛み締める奥歯が嫌な音を立てる。
酷く神経が苛ついていた。
いつもと違う行動をとっている家城が気になってしようがない。
だいたい、今日は休憩時間にすら誘いに来なかったし、帰るときも顔を出さなかった。
残業かと思って品質保証部の部屋を窺ったが、家城の気配はなかった。
「おかしーよなあ」
確かに休憩は別にとろうという話はしたけれど、いきなりは変に思われるからと言ったのは家城の方だ。
その家城が啓輔の前に一回も姿を現さないと言うのは……それに何も言わずに飲みに行くなんて……。
「変だな」
ソファに埋めていた躰をがばっと起こす。
何かあったんだろうか?
家城の事を考えると啓輔の胸の奥にもやもやとした不快な感情が込みあげる。
これは一体?
啓輔はいてもたってもいられなくて、手に持っていた携帯を操作した。
液晶に浮かぶ番号に家城の名が添えられている。
それを確認して、ボタンを押した。
耳に呼び出し音が鳴り響く。
一回目、二回目、三回目……。
何で……出ないんだよ。
呼び出し音が鳴り響く毎に怒りが湧く。
とっとと、出ろよ!
唇を噛み締めて苛々と中空を見据える。神経が全て耳に集中していた。
呼び出しが10回目近くになった。
駄目か……。
怒りの中にも諦めの感情が湧いてくる。
啓輔はため息をつきながら、携帯を切ろうとした。
と、途端に液晶表示が変わる。
慌てて、携帯を耳に当てた。
「家城さん!」
感情的になっている啓輔は、慣れ親しんでいた名字で呼んでいた。そのことにすら気付かない。
『なんです?』
地を這うような不機嫌そうな声が耳に入った途端、啓輔は息を飲んだ。
怒ってる?何で?
でもこっちだって怒ってるんだ!
怯んだ気分を奮い立たせながら、問いかける。
「今どこさ?」
「飲みに来ているんですよ」
「判ってる」
背後から独特の喧噪さが伝わる。
「なあ、誰と?随分と賑やかみたいだけど」
居酒屋のようなところだろうか?
家城の声が聞き取りにくい。
「滝本さん達とですよ。同期のメンバーが揃っているんです。……ああ、一人は違いますけれどね」
どうでもいいような声音にかちんと来た。
どうして!
「……俺は言ったぞ。っつうか、昨日言わされたばかりだっ!一緒にいて欲しくないって……聞いてたじゃねーかよ。行くなら行くって何で俺に言わねーんだよ!」
せめて言ってくれれば、こんなに苛々しない。
こんなに胸が苦しくならない!
「関係ないでしょう」
だが、家城の声は電話からでも冷たく突き放したものだと伝わってきた。
「何で!」
言ったじゃないか!
「……もう切りますね……」
「なっ!」
その一言で、反論する間もなく電話が切れた。
「何で?」
呆然と携帯を見遣る。
輝いていた液晶が、ふっと暗くなっても啓輔はそれをじっと見つめていた。
訳が分からない。
何であんなに怒ってんだ?
携帯を持っていた手をぱたりと落とした。
内に籠もっていた怒りやわだかまりまでもを吐き出すかのように大きく息を吐くと、ぐったりとソファに躰を預ける。
訳が分からない理不尽な怒りに曝されて、頭がひどく疲れていた。
「何もしてねーぞ、俺」
少なくとも昨日の夜まではご機嫌だった……と思う。
言い様に攻められたのはこっちだった。
なのに……。
「何か会社でやったっけ?」
だが、思い起こせば今日は一度も会社で逢っていない。珍しいなとは思ったが、忙しいのだろうと気にもとめなかった。
「やっぱ、その辺からおかしかったんだ?」
何が家城を怒らせたのか?
他人に対しての怒りを啓輔に向けることはしない家城だから、原因は啓輔自身にあると言うことになる。
けれど……。
「ああ、もう!」
がしがしと頭をかきむしる。目にはいるまでに伸びた前髪が鬱陶しく、余計に啓輔を苛つかせた。
「……また、ブリーチしてやろーか」
前髪を一房掴み、睨み付ける。
伸ばして、ブリーチして、昔の俺になったらそしたらあいつは何て言うんだろう。
やっぱり冷めた声で「関係ありませんね」、なんて言うんだろうか。
「ちっ!」
舌打ちをして、ごろんとソファに寝そべった。
「何だよ、ちくしょー!」
吐き出した言葉は、誰に聞きとがめられることもなく宙に消えていった。
悶々と過ごした啓輔の元に家城が帰ってきたのは、日付が変わった頃だった。
煌々とついた灯りの下でソファに寝っ転がったままの啓輔は、家城が帰ってきた気配に躰を起こす。
「お帰り」
待ちくたびれしまっていたのに、それでも寝ることもできなかった。
だがかけた声はあっさりと無視された。
啓輔の存在そのものを無視するように、一直線にキッチンに向かった家城は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターの容器を取り出す。
無視されるとちりちりとした痛みが胸の奥で疼く。
意識的に啓輔を見ていないのが判る。
「あんたが何で怒ってんのか、俺、わかんねーんだけど」
ずっと考えていた。
何度も何度もトレースするように、自分の行動を辿っていく。
それでも、家城が怒るような行為をした覚えがなかった。
啓輔の視線はずっと家城を追っていた。
取り出されたガラスコップにとぽとぽと注がれる水。
それを手にし、飲もうとする。
こちらを見ようともしない家城に、啓輔の胸の奥にドス黒い感情が湧き起こった。
焦り、怒り、疑惑……。
飲んでいたメンバーがメンバーだけに、激しい嫉妬心すら湧き起こる。
聞きたかった。
何故、何も言わずに行ってしまったのか?
「家城さんっ!」
叫ぶように呼んでも、振り向かない。
こ、のっ!
その瞬間、積もりに積もっていた負の感情が理性を上回った。
ガラスコップが割れる音がした。
飛び散り踝まで跳ねた水が家城の靴下を染め上げる。
「無視するな!俺を!」
ぐいっと胸元を掴んだ腕を引き寄せる。
「危ないですよ」
だが、家城がようやく発した言葉はそれだった。
家城と啓輔の足下には、蛍光灯の光を反射したガラスの破片が散らかっていた。スリッパを履いている家城と違って啓輔は裸足だった。その際まで、破片がある。
「そんなもの、かまやしねえよ」
啓輔には、それで怪我をするということは頭の中になかった。
ただ、家城を問いつめたい。怒りの原因を知りたい。
無視されたくない!
離そうとしない啓輔の視線と手、そして足下を、家城は交互に見比べる。
それでも何も発しない。
どうして!
何も言わねえんだよ!
かあっと頭に上った血がどくどくと不快な音を立てていた。
「家城さんっ!」
再度呼びかけるとようやく家城が反応した。
ぐいっと無造作に前進する。ぎりぎりまで躰を寄せていた啓輔はそれに押されるように一歩後退した。
ジャリっと床の上で嫌な音がした。
気にせずに家城が進むことで、バランスを崩しかけた啓輔はさらに一歩下がる。
そこでようやく家城は立ち止まると、胸元を掴んでいる啓輔の拳に手を添えた。
「無茶ですね、相変わらず」
家城は小さく息を吐くと、再度足下に視線を落とした。それにつられるように啓輔も足下を見遣る。
そこにはもう破片がない。
きらきらと光る破片は家城の後にあった。家城はその場所まで破片が刺さっているであろうスリッパを蹴り飛ばした。
危なくない位置まで啓輔を動かしたのだと、なんとなく判った。そのせいか、ふっと手の力が抜ける。
それを逃さず家城が啓輔の手首を掴んで無理矢理に引き剥がした。
「っ!」
爪が布地に引っかかって僅かな痛みが走る。それに顔をしかめる間もなく、ぐいっと引っ張られた。
たたらを踏む間もなく、突き飛ばされた。
「わっ!」
バランスを失った躰を堪える間もなく背後からぐっと全体重をかけられ、俯せに床に倒れ伏す。
のしかかられ押さえつけられた背に、胸に残っていた息が吐き出されてしまう。
「く、はっ!」
「怒ってるって?そういう君こそ怒っているではありませんか?」
ぎりぎりと押さえつけられる躰。
胸が膨らむ余裕を無くして、息ができない。
口を大きく開けて喘いでいる啓輔に、家城はようやく少しだけ力を緩めた。
「乱暴をすると、それ相応の対応もこちらとしてはする必要がありますよね」
「……んでっ!」
こんな家城は初めてだった。
怒っているときでも、ここまで怒りを露わにすることはなかった。
「ど…して……」
息苦しさに潤んでしまった視線をかろうじて、家城に向ける。だが、その先の家城が酷く辛そうな表情をしているのに気が付いた。それは怒りの表情ではなかった。
「あ……い、えき…さ……」
「判らないんですか?私が今日どんな気持ちでいたのか?」
「何?」
言っていることが判らない。
啓輔は呆然と家城を見つめていた。
あまりの事に、自身の怒りはどこかに飛んでしまっていた。
「今日、行ったんですよ。休憩に誘いにね」
え?
「いつ?」
「午前中の休憩ですよ。会議が長引いて連絡ができなかったんです。随分と遅れたんですけどね」
午前中の……って、来なかった…はず……。
「だけど、来なかった…よな?」
「行きましたよ。ドアも開けかけたんですけどね」
ドアを開けた?
「何で、それで……」
嫌な予感がした。
まさか……。
「仲良かったですよね。服部さんと。抱き締めて……」
吐き出すように言われたその言葉を聞いた途端、頭が真っ白になった。
見られた!
思わず抱き締めてしまった服部との姿を……見られた!
「あ……れは……」
何かを言おうとして、口をぱくぱくさせるのだが、言葉が出てこない。
あれは……つい、なんだ。
決して他意はなかった……筈。
「これがまた、お似合いだったんですよ。そうですよね、啓輔にはああいう可愛いタイプの方が似合うかも知れませんよね」
妙に淡々とした口調が、ひどく啓輔の胸に棘となって突き刺さってくる。
俺のせい?
こいつをこんなにも怒らせ、動揺させたのは、俺?
「あ、あれは……」
何を言おうとも、啓輔が服部に抱きついたのは間違えようもない事実。
だけど、これだけは言わないといけない。
「服部さんのこと可愛いとは思って……それで抱きついたけど、でも好きとか、どうかしたいとか、そんなことちっとも思わなかったんだ」
「可愛い方がいいでしょう?あなたは抱かれるより抱きたいほうですし。きっと服部さんとならお似合いですよね」
冷たく言い返す家城の言葉が胸に刺さる。激しい焦燥感に襲われ、目の前が暗くなる。
肩越しに見える家城の冷たい視線が怖い。
ち…がうっ!
「俺にとっては、家城さんの方がよっぽど可愛く見えるんだよ。だいたい、服部さんは梅木さん一筋なんだ。それで落ち込んで慰めていただけ!あれは、元気付けるための冗談だったんだ!俺は家城さんの方がいい!絶対家城さんの方が可愛い!絶対に可愛いんだっ!家城さんなら…抱きたいけど、抱かれたっていい!家城さんだから、家城さんだからっ!!」
最後には絶叫に近かった。
目を固く閉じ、喉が悲鳴を上げるほどの絶叫。
一気に放出した感情の波が、ふっと静けさを取り戻す。
家城の返事がない。
ただ外の世界から入ってくる音だけがやけに響く。
息が苦しい。
押さえつけられているせいだけでない。心臓が訴える痛みのせいだ。
啓輔は、祈る思いで言葉を継いだ。
家城に誤解されたままは、堪らなく嫌だった。
「好きなんだ……抱きたいって思えるのも……抱かれてもいいって思えるのも……家城さんだから…なんだ。ごめん。俺……家城さんを不安にさせた。」
と、その途端ふっと躰の上の重さがやわらいだ。
はっと目を開けて躰を起こし家城を見遣ると、先ほどまで痛いくらいに啓輔を押さえつけていた手が家城の口元を覆っていた。
「あっ……」
その姿を見た途端、ずきんと下半身に電気が走る。
家城の変化は、決して飲み過ぎた酒のせいではない。さっきまで、本当に飲んできたのかと思えるほど、普通の顔色だったのだから。
啓輔を欲情させた家城は、見える範囲全てが朱に染まっていた。
続く