【ONI GOKKO −つっかまえたっ−】

【ONI GOKKO −つっかまえたっ−】

 情報処理科の工業高校を卒業した隅埜啓輔(すみの けいすけ)が入社した会社で、4月の1ヶ月間の開発部研修が終わった。
 4月は、プライベートに関わることでいろいろとあった。
 過去の過ちのせいで逢いたくても逢えない相手に巡り会い、しかもその時の相手が自分だとばれて危うく嫌われそうになった。とりあえず、それは通常の同じ会社の人間というつき合いで落ち着いた。しかも、そのドタバタで知り合った、家城純哉(いえき じゅんや)という男の家に入り浸り、結果お互いに好意を持っていると言うことは確認した。
 だけど、それだけなんだよなあ……。
 やたら言いたいことを言ってくる嫌みな所が在るくせに、言って欲しいことは絶対に言わない。感情を表に出さない厄介なその男に、啓輔は最近少し苛々していた。
 ったく、素直じゃない。
 怒りを通り越してため息を付きたくなるほど何も言わない家城。
 触れ合うだけのキスで、無理矢理聞き出した告白。……あれが告白と呼べる物なのか、最近今一自信がない。結局、ゴールデンウィークには進展がなかった。
 酒を飲むと本音が出ると聞いて、一度酒を持ち込んだが、結局酔いつぶれたのは啓輔の方が早かった。どうやら、飲むと本音で動いてしまう自分の質は十分把握しているらしく、飲んだふりをしていたらしい。
 そこまでしてオレに本音を見せるのが嫌なのか。
 気付いたときには、怒り心頭!
 思わず、家城の家を飛び出した。
 しかし……。
 あ?あ。
 どうしよう。
 あれでオレより10も年上かよ。
 仕事をしている姿、プライベートでも通常は、とにかく格好良いタイプだ。やや切れ長の目で冷たい雰囲気を漂わせるその顔は、女性社員に人気の的だと言うのは頷ける。
 だが、とにかく、肝心なことになると何も言わない。そのくせ、啓輔がそれを無視すると不愉快そうにする。それはたいてい嫌がらせのような行動で啓輔に降りかかってくる。
 厄介なガキみたいなもんだ。
 最近になってようやくその事が掴めた。
 とにかく自分の内面に関わることと、自分が直接関係しない事柄への態度の出方が違いすぎる。
 啓輔とてやりたい盛りのしかもゲイだと気が付いたばかりの男の子。
 せっかく見つけた相手に、キス以上の……いやまともにキスすらたどり着けない相手、というのも結構辛い。これが相手がもうちょっと普通だったら、何とかなったかも知れないが……。
 なんて、厄介な性格……。
 もう、これに尽きる。
 結局、啓輔はため息を付きながらゴールデンウィーク明けの出勤となった。
 しかし、いつまでも家城の事を考えているわけには行かない。
 啓輔は、新たな緊張感を持って自分の配属先へと向かった。というのも、配属辞令を受けてすぐに開発部の研修に参加させられて、自分の正規の配属先に行ったことがなかったのだ。
 情報管理部の事務所に行き、一度だけまともに言葉を交わした第一リーダーの紺野と言う人の所に行く。
「ああ、今日から戻ってきたんだったな。じゃあ、こっちに来て」
 行く先々で、第二・第三リーダー達に紹介された。総勢4人。
 だが。
 こんなん一遍に覚えらんねーよー。
 啓輔は、内心冷や汗をかきながら、挨拶をしていった。
 誰か、組織図くんねーかなあー……。
 最後の4人目のリーダーで啓輔はその人に引き渡された。
「彼が君の直属の上司になる。情報配信チームの第三リーダー佐藤くんだ。彼は、特許チームのリーダーでもあって兼任なんだ。じゃあ、後は彼に聞いてくれ」
 紹介された佐藤という人は、どこか物静かな中年のおじさんと言った感じだった。
 そのくたびれた感じから、高校の教師を思い出す。
「よろしくね」
 にっこりと笑われ、啓輔は慌ててお辞儀をした。
「よろしくお願いします」
「紺野さんに頼まれちゃったけどね、実際には君の先輩になる人に仕事の詳しい説明は受けて貰うことになるから。ていうか、机もそこに用意するからね。紹介するから付いてきて」
 って……どういうことだ?
 オレは言われるがままに付いていった。
 連れて行かれたのは、図書室の隣の部屋だった。
 コンピュータールームと掲示されたドアを開けた所に一人の男が、コンピューターの画面を見入っていた。こちらの気配に気付いて、振り向く。
 画面にはブラウザが立ち上がっている。
 インターネットに繋がっているのだと一目で分かった。
「服部くん、君の部下だ。よろしく頼むよ」
 その言葉に、彼が立ち上がった。
「服部誠(はっとり まこと)です。よろしくお願いします」
「隅埜啓輔です。こちらこそよろしくお願いします」
 可愛い顔立ちの人だなあ……。
 年がよく判らないが、童顔なのだろう。
 高校生と言っても通りそうだ。
「君の仕事場はここ。服部君、彼の机手配して」
「はい」
「じゃあね」
 来た時同様、佐藤はさっさと出ていってしまった。
 ここに二人きりで残される。
「佐藤さんは、あんまりここには来ないからね。リーダーと言っても兼任だから、ここって結構放っとかれるんだ」
 苦笑を浮かべた服部に啓輔は曖昧な笑みを浮かべた。
 何か……陰気くせーな、ここ。だからじゃねーのか?
 窓のない空間。
 そこそこの広さはあるが、その半分はコンピューター機器で埋まっている。
 その一角にパーテーションで区切られた一角があって、そこが服部の仕事場のようだった。
「僕は、最初開発部で1年。それからここに来て3年目。なんとか、無事こなせているって所なんだ。だけど、最近結構仕事量が増えてきて、君が来てくれて嬉しいよ。ああ、机と椅子と……パソコンは手配が済んでいるんだ。今週中にも来るから」
「はい」
 へ?。
 4年目っていうことは、大卒として……26位?
 なんか見えねーや。
「で、肝心の仕事の内容なんだけど」
 服部が傍らの椅子に座るように指示してきた。
 そこに座ると、服部が傍らのプリンタから紙の束を取り出した。
「これ……特許公報。知ってる?」
 特許というのは判る。でも特許公報って?
 啓輔は訝しげに首を傾げた。
「知りません」
 その反応に服部はさして気にもとめずに説明を始めた。
「特許って、特許庁に出願されて1年半位経つと、外部に発表されるんだ。それを紹介した一覧が
、公開公報って言われる。また、特許になった時点で紹介されるのが特許公報なんだけどね。特許って仕事をしていく上で……特に開発部にとっては重要だから、情報収集は必須なんだ。それをやっているのが、僕たちのチームって言うことになる」
 さらりと言われた半分も理解していない啓輔は、曖昧な笑みを口元に張りつかせ、小さく頷いた。だが、それすらも服部は承知しているのか、くすりと笑うと、その紙の束を手渡してきた。
「それね、そういう特許庁から公開されたデータを、データベース会社が契約している会社に必要な部分のみを翌日に配信してくれるサービスで取り寄せた物なんだ。とりあえず、隅埜君にはその仕事をしてもらうから。追々特許の事は勉強して貰うことになると思うけど、暇なときにでも本を読んでみて。隣の図書室にはその扉から行けるから。後、検索やデータベースの管理方法も、教えるから」
 ……もしかして、このチームって勉強することが山のよーにねーか?
 特許にしろ、そういうサービスのことにしろ、検索?データベースの管理?
 ……。
 コンピューターは好きだ。
 だが、そんなもん、遊びの範囲だ。
 特に最近は、この前見つけたゲイサイトにしか行ってねーし……。
 啓輔は、ふとまじまじと目前の服部を見た。
 何て言うか、真面目そうな人だよな。
 ゲイサイトはともかく……エロいサイトなんて行ったことなさそーだよなあ……。
 男たる物、そんな事はないだろーと思うのだが、何となくそう思ってしまう。
「何か?」
 あんまりまじまじと見つめていたせいで、服部に気付かれてしまう。
「いえ、何でもありません」
「そう?……あっ、それでとりあえず、それ配布先毎にステープラーで留めてくれないかな。配らなきゃいけないんだ」
「あ、はい」
 言われてぱらぱらとそれをめくると、確かに所々に配布先が書かれた表紙が入っていた。
 そこで分けて綴じるのだと気付いて、啓輔はとりあえずその作業を開始した。
 と、その中に、篠山と言う名前があった。
 これって緑山さんのチームだよな。
 それに滝本……家城さんと同期だって言ってた人。
 さっき、これ配布しに行くって……もしかして……このチームって滅茶苦茶開発部と関わりのあるチーム、なんだ。
 それで開発部の研修に参加させられたことも納得がいく。
 というより、できるだけ避けていた緑山にも否が応でも逢うはめになりそうな気配がする。
「あの、ここって、他の人、来るんですか?」
「ここには、あまり人が来ない……全く出入りしていない訳じゃない。僕たち以外の人は検索する時は図書室でするから。だけど、図書室でなんかあったら僕らが呼び出されるし……それにここに入り浸っている人がいるんだ。そろそろ来ると思うけど……」
 最後の方を申し訳なさそうに言う服部。 
 そっかー。あまり人が来ないのか……。
 でもこんなとこ、入り浸る人って……どういう人だ?
 コンピューターからの微かなモーター音や時折動くハードディスクの音、その中に一際高く啓輔が動かすステープラーの音が響く。
 マジ、静か……。
 オレ、堪えられるんか、こんな所。
 ガチャ、ガチャと綴じていくと、30冊ぐらいできた。
「できました」
「んじゃあ、こっち来て」
 ひょいひょいと手招きされて、服部の席に座る。
「その配布先にhit件数が何件あったかをここに記録しているんだ。ちょっと数値入れててくれる。僕、他の用事すませとくから。あっ、上書き保存で良いからね」
「は?い」
 ちょっとふざけたような返事でも、彼はくすっと笑うだけで、手を振って出ていった。
 なんか、いい人っぽい。
 大人しいっていうか。
 まあ、もうちょっとしないとどういう人かははっきりしないけど、あの家城さんに比べれば、たいていの人がいい人に見える。
 啓輔は、ぼーっとそんな事を考えながら、コンピューターに数値を入れていった。
 そんな事を考えているからか、背後の扉が開いたことに気が付かない。
 しかも、静かに入ってきたその人物に。
「ま、こと、ちゃんっ!」
「うわぁぁぁあ!」
「えええ!」
 いきなり背後から抱き付かれて、不覚にも悲鳴を上げる。
と、その人物もはっと気が付いて、驚きの声を上げた。
 こ、こいつ!見たことあるぞ。
 開発部の研修の講師の一人だ。
 確か、医療材料1チームの……えーと、梅木亮介。
 名札に書かれた名前を読みとる。
「お前、誰だ?って……今年の新人じゃねーか。なんで、こんな所にいる?」
 なんで?ってこっちが聞きたいわ!
 啓輔はじろりっとその男を睨みながら、キャスターの力を借りて、おもっいきり離れる。
「ここに配属されたんです。それより、なんで抱き付くんですか……」
「ええっ、配属されたって……げーっ、じゃあ、誠ちゃんとの逢瀬に邪魔者がぁ!」
「逢瀬ぇ??」
 な、なんだこの人はっ!
「そ、逢瀬。ここに来ると可愛い誠ちゃんに逢えると楽しみにしていたのにぃ、なんでお前みたいなごつい奴が配属されてくるんだよお」
 ごつい奴で悪かったな!
 確かに啓輔は背が高い。
 たいていの人を自分より見下ろすことになる。服部も、一回り小さかった。
 ?
 で、なんでこいつ間違えるんだ?
 というか、服部さんしかいないと思いこんでいたのだろうか?
 それに比べれば、この目前の男は大きい。
 それでも啓輔よりは10cmばかり小さいのだが、というか横はそいつの方が大きい。
 かといって、太っているというわけでもなさそうだ。骨太っていう方が合う。
「あ、あん……」
 思わず、あんた、と呼びかけそうになって口を噤む。一呼吸して、再度話しかける。
「梅木さんは、服部さんと、どういう関係なんです?」
 と、後ろのドアが開いたのが見えた。
「それは、こ、い、び、と!」
 その途端、入ってきた服部さんがだだっと駆け寄り、持っていた紙ファイルで梅木の頭をひっぱたいた。
 軽やかなその音に、梅木は頭を抱えて踞る。
「梅木さ?ん!新人に何馬鹿なこと言ってるんですか!信じたらどうすんですか!」
 真っ赤な顔をして、怒りにふるふると震えている服部に、啓輔は思わず『可愛いっ』と思ってしまう。
「隅埜くんも信じないでよ。この人って、こんな冗談ばっかりなんだから」
 真っ赤になって狼狽えている服部が啓輔に詰め寄る。
「判ってます、そんなん誰も信じない」
 ははは、と笑ってみせると、服部はほっとしたようだった。怒らせていた肩の力が抜ける。
 ていうか、そんなに真っ赤になって狼狽えていたら、余計勘ぐってしまうよ、服部さん。
 あんたってば、可愛いじゃん。
 どうみたって、さっきといい、今の服部の様子からして、それが冗談には思えない啓輔であった。
「ほんとに……梅木さんは……」
「ほんとの事なのに?」
 なおも言い募ろうとする梅木を服部はじろりと睨む。
 紅い顔して、あんな目を見せても色っぽいだけなのになあ。
 綻ぶ顔を必死で堪える。
「でもさあ、今度から誠ちゃんとこの子、二人っきりでこの部屋にいるんだろ。だったらちゃんと俺達の関係教えととかないと、手出されたら嫌だ」
「だから?!」
 服部の悲痛な叫びに、乾いた笑いを返す。だが、内心啓輔は流れる冷や汗を止められなかった。
 先ほどから、ずっと梅木が啓輔を見ていた。
 ほんまに、マジだ。この人って。
 へらへら笑っている陰で、鋭い牽制をかける視線を送ってくる。
 なんとなく、自分に似たものを感じた。
 内面の猛々しさを隠す外面。
 啓輔とて、決して暴かれたくない過去のために今は大人しくしている。
「手、出すわけ無いじゃないですか。オレ、恋人いますもん」
 だから、笑いながらあっけらかんと伝える。
 恋人……相手は言えないが……というより本当に恋人って言える立場なのか今ひとつ不安ではあるのが……。
 この二人がどういう関係かより何より、そっちの方が重要問題だ。
「へ?、さすが今時の子だよな。そりゃ良かった。俺も一安心」
 にこにことする梅木に、服部はもう言葉も出ないと言った感じでぐったり椅子に座り込んだ。
「で、梅木さん、用事は?」
「そりゃあ、愛しい誠ちゃんに逢うために」
「だからっ!ここではそう呼ばないでくださいって言ってるでしょう!」
 ここでは、ね。
 零れそうになる笑いを必死で堪える。
 いいなあ。
 家城さんもこんなに素直な反応返してくれたらおもしれーのに。
 そうだ、こんど、じゅんちゃ?ん、なんて呼んでみたら……。
 冷たい視線と言葉が返ってきそーだ……やめとこ。
「はいはい、これね。よろしく」
 苦笑を浮かべながら梅木が服部に紙の束を手渡す。
 それは、さきほど啓輔が綴じていたものと同じ物だった。
 いや、中身を見た跡があるから、前に配った物だろう。
「はい、どーも。で、隅埜くんはこうやって返ってきた物をチェックして、さっきのリストの下に返却した印を付けるんだ」
「はい」
 それを手渡されていると、梅木が恨めしそうに見ているのに気が付いた。
「なんですか?」
「それ、君の仕事になるの?」
「はあ……」
「梅木さん、用事が終わったんなら、早く仕事戻ってください。でないとまた残業ですよ」
「……冷たい」
「う?め?き?さ?ん」
 低い声が室内に響く。
 梅木はため息をつくと、ぶつぶつ言いながら部屋を出ていった。

「ごめんね。彼が入り浸ってるって人。困るんだけどね」
 でもその表情が困っているように見えないのは気のせいだろうか。
 どこか照れたような苦笑いの表情。
 いい関係なのかなあって思えてしまう。
 しかし、あの梅木って人の行動。
 どこか、似ている所があるんだけど……。
 啓輔は苦笑が浮かんでくる顔を無理矢理引き締めた。
 家城が啓輔を部屋に呼ぶその行為と似たものを感じる。
「梅木さんが言っていたこと、あれってマジでしょ?」
「!」
 一気に赤くなって狼狽える服部。
 ほんと、素直な反応。
「あの、でも気にしないでください」
「え?」
「オレ、気にしませんから。別に相手が誰でも」
「えっ、えっ?」
 驚く服部に笑いかける。
「どうして?変だとは思わないの?」
 ほっんと、素直。羨ましい。
「それは……」
 言って良い物か、口ごもっていると、ドアが開いた。
 もしかしてって、ここって、ノックもなしに入ってくるのか?
 今度机が来たら、パーテーション区切り直してもらおう。などと思っていたら、服部が驚いたようにドアの方へと躰ごと向けた。
「家城さん、何か?」
 その言葉に啓輔もそちらに躰を向ける。
「いえ、隅埜君がこちらになったと聞いたので」
 服部が驚いたように啓輔と家城を見やる。
 啓輔が家城と親しいと知った人たちはみな一様に同じ視線を向けるので、いい加減馴れた。
「よく判ったな」
「今日から情報処理部になるって言ってましたからね。そこの人に聞いてきたんです。それより、またその言葉遣い、なんとかならないんですか」
 あ、ああ……またか。
「これは、あんただけ。それより、なんの用?」
「初仕事だから、何か失敗でもしているのかと」
「なんだよ、それ」
 ……。
 眉間に皺が寄ってしまう。
 そう言えば、昨日は喧嘩別れ状態だった。
 これっていつもの嫌みな攻撃か?
 服部が呆気に取られて、様子を見ているのが判った。
「あのさ、こいつがオレの恋人」
「えっ」
 服部が驚いた。
 その傍らで家城が真っ赤になっている。
 何てことを言うんだ、とその目が非難に満ちている。
「家城さんが、君の?」
 茫然と啓輔と家城を見やる視線が、家城の顔が赤いのに気付いて、ますます見開かれる。
「だから、服部さんのこと、気にならない訳」
 なんか、おもしれー。
 どうやらこれって、家城の想像を超えた行動だったらしい。
 限度を超えた出来事に、いつも被っている仮面が剥がれている。
「そうなんだ……」
 服部の顔に驚きの中にほっとしたような表情が浮かんでいる。
 ふと、家城を見ると先ほどまでの赤い色が既に消えていた。
「一体、なんの話です?」
 否定するわけでもない。狼狽えていたかけらも見られないその言葉に、内心がっくりとした。
 ああ、もう……。
 もうちょっと楽しませて貰おうって思ったのに。
「なんでもないよ。それよりオレ、仕事中。あんたも仕事戻れよ」
「気になりますね。是非ともその口から聞きたいですが?」
「今する話じゃねーよ」
「では、今度の休みにでもゆっくりと話をしましょうか」
「……わかった」
 やられた。
 頭の回転はどう足掻いても家城に負ける。
 いつのまにやら、家城のペースになっている。
「服部さん、隅埜くんのこと、よろしく頼みますね。それと」
 ふっとその口の端を上げて笑う。
「梅木さんとのこと、誰にも言いませんから、安心してくださいね。隅埜くんにもそれは守らせますから」
 てめーは……。聞きたいって言ってる割には、判ってんじゃねーか……。
「は、あ……」
 梅木の名前を出され、服部が目を白黒させている。
 汚ねー奴。
 ようは自分たちも知っていること言わないから、そっちもバラすなって言ってんじゃねーか。っていうか、こいつ、知っていたんだ……。結構、有名なのかなあ、この二人って。
 今度聞いてみよ。



  ……こいつってばどうしてくれよう。
 啓輔は床のラグマットの上に座り込み、ソファに背を預けてテレビに見入っているふりをしながら、ちらちらと家城の様子を窺っていた。
 足を組み、浅くソファに腰掛けて背もたれに躰を預けている家城は、先程から熱心に本を読んでいた。
 朝9時頃からここに来ているのだが、何をする訳でもない。もうすぐ夕方になるというのに、ずっとこんな調子だ。
 だからといって、ここに来ないと週明けに逢った途端。
「くるという約束でしたよね。約束できないのなら、最初からきちんと断るべきでしょう」
 何て言われるのが目に見えている。
 家城にしてみれば、服部達との関係など周知の事実にしか過ぎない。あれは、啓輔を家に呼ぶための方便だ。
 あーっ、もうっ!
 素直じゃねー!
 どうして素直に来て欲しいなんて、言ってくれねーのか、こいつは。
 自分から誘ってはいない。
という態度のくせに、行かないと文句を言われるんだから堪ったもんじゃない。
 ……。
 も、しょーがねー。
「家城さん?」
「……はい」
 本から顔すら上げずに返事をする家城。
「オレ、明日来ねーから」
 何気なさを装って言うと、家城がふっと顔を上げた。
「何か用事でも?」
「何もない」
 わざと素っ気なく言う。すると家城が眉をひそめた。
「何もないのに、ですか?」
「ああ。だって、ここにいても用事ねーじゃん」
 本音は、ここに来たい。あの家で一人ごろごろするよりは、ここでごろごろする方が最近はよっぽど居心地がよくなっている。だが、それでもこの鉄仮面相手に何とかしてくれ、という思いが募ってくる。
「そう、ですか」
 その言葉がほんの僅か暗さを漂わせている。だが、それだけだ。
 そのまま家城は再び本に視線を落とした。
 啓輔は内心ため息をつきながら、テレビに視線を向けた。
 やっぱ、駄目かなあ。
 ちょっとでも「来て欲しい」なんて言わせてみたい。
 車の中で啓輔が仕掛けたキス。
 だが、あれから一向に進展がない。
 なのに、いつまでたっても家城は何も言わないし、それらしいそぶりを見せない。
 オレ、やりてーんだけど……。
 正直、啓輔とて家城の事が気になっているのだ。好きだと言える。
 しかも、男を強姦してしまう夢は、数は減ったと言え見てしまう。
 それを家城は知らない。言えるわけもない。
 どうやらそれがストレス度の大きさと比例しているのだと、最近ようやく気が付いた。
 難しい研修、家城の冷たい台詞、緑山に逢う……そう言ったストレスか溜まると、たいていその夜、その夢を見るのだ。
 そして、最近、その男の顔が家城なのだ。
 あのキス以来、確実にその割合は増している。
 そんなこんなで、啓輔としては家城といるときにふっとその夢を思い出すこともあり……。
 やりてーなあ……。
 という事になる。啓輔とて若い男。こんな夢を見てしまうほどに、性欲は強い。
 だが……。
 啓輔は男相手というのが初めてになる。
 緑山の時は、半ば切れていたし、相手の心を壊すことが目的だったから、闇雲に突っ張ったし、最後まではしていない。
 しかし、家城相手にそんな事出来ようはずもなかった。
 どーせーって……。
 はあああ
 大きく息を吐いた。
 躰の中に籠もった熱を吐き出すために。
 ま、しょーがねーか。
 ぽりぽりと頭を掻きながら、啓輔は立ち上がった。
 腹減ったし……。
 頭、まわらんわ……。
「オレ、なんかおかず買ってくる」
 家城に声をかけ、そのまま玄関の方へ行こうとした。
 と、パタンと本を閉じる音がした。
 その音に振り返ると、家城がじっとこちらを見ていた。
「……私の分は?」
 僅かな逡巡が見られた。だが、出てきた言葉はそれだ。
「ついでに買ってくるって。何がいーんだよ」
「そうですね。あまり脂っこくないものがいいですね。といっても和風ですと物足りなさがありますし。そこそこのボリュームは欲しいですね。というのをお願いします」
 と、しれっと言われて、啓輔はう?と唸った。
 だから何が良いんだよお?。
 家城との会話は時として禅問答になる。特に買い物に関してはそうだ。だが、そうそう家城のリクエスト通りの物が見つかるはずもなく。
「あれだけちゃんと伝えたのに、その頭は理解能力が足りないようですね」
 と、文句を言われるのがオチだ。
 はあっとため息をつくと、啓輔は気を取り直した。
「ああもう、なんか適当に買っててくるよ」
 背後の家城を無視し、玄関に向かう。
 と、足跡が聞こえた。
 ふっと振り返ると、すぐ後ろに家城がいた。
「どした?」
「買いたい物があるので、私も行きます」
「買いたい物?オレ、一緒に買ってくるけど」
「いえ、自分でないと判らないものですから」
 ……結局、一緒に行きたいんだろう。
 そう言いたいのを堪える。
 そんな事を言った日には、何を言われるか判ったものではない。
「そう、勝手にすれば」
 そう言うと、啓輔は先に玄関を出た。
 すぐに家城が出てくる。その手には、家の鍵と車の鍵がついたキーホルダー。
「なあ、買いたい物ってコンビニで買えるもんなんか?」
「いいえ、車で出ます。この先のスーパーの総菜コーナーの方がいろいろと揃っていますから」
 じゃなくて、あんた、何か買いたいんじゃないのか?


 スーパーで総菜売り場に向かう啓輔。
 と、家城も付いてきた。
「なあ、あんた、何か買いたい物があるって言っていたろ。オレ、適当に選んどくから、行ってきたら」
「ああ、そうですね」
 そう言う割には、その場から家城が動かない。
 啓輔がじっと家城を窺うと、家城は微かな吐息を漏らすと踵を返した。
「終わった方がそこの待合いで待とうよ」
 その言葉が聞こえているのか……家城は、2階に上がるエスカレーターに向かった。
 どうして……。
 それを見送りながら、啓輔は脱力していた。
 なんつーか……仕事の時とのギャップがひどい。
 会社での家城の評判は、凄いと思う。
 品質の鬼。
 クレームでも出そうなら理詰めで責められ、担当者はひれ伏すしかない。
 また女性達には、クールで知的。つき合いたいランクTOP3に入っている。
 確かに、啓輔が見ている限り、家城は確かに冷徹な雰囲気がある。
 自分と意見を異にする者には容赦がない。しかも、言っていることは正しい。
 こうしてつき合っていても、感情が少ないから、何を考えているか判らないところが多い。
 しかし、この前キスしたときも思った。それからずっと思っていることがある。
 彼は、もしかしなくても自分を出すのが下手なのではないかと。
 しかもすこぶるつきで。
 啓輔は先ほどの家城の様子を思い出しながら、考える。
 ぜってー、一緒に行きたかったはずだ。
 だからこそ、読んでいた本を止めて、あんな理由をつけて付いてきた。
 買いたい物?
 そんなものたぶんない。
 それなのに、絶対に自分から行きたい、なんて言わないんだから……。

 空手で帰ってくるかと思ったら、家城はしっかりと袋を抱えて戻ってきた。
「なあ、何買ってきた?」
 家城が抱えていた少し大きめの袋を見つめながら言った。
「ちょっと服を」
 それだけ言うと家城は、隣室へと入っていった。
「服?どんなん?」
 ドアから顔を覗かせて様子を窺うと、家城がふと立ち止まった。啓輔を一瞬見、袋のままクローゼットの奥にしまい込む。
「たいしたものじゃないですよ」
 そう言うとまるで啓輔を追い出すように、後ろ手でぱたんとドアを閉める。
「さあ、食べますか」
 くすっと笑みを浮かべるその表情はいつもの家城で、変わった様子が見られなかった。

 だが、家城がいつもと違うと気づいたのは、夕食後のことだった。
 いつもなら夕食を食べ終わると、家城が啓輔を家まで送る。啓輔はバイクの免許しか持っていなかったので、普段はバスでこの家まで来ているのだ。
 なのに、その家城が一向に動かない。
 すでに9時を過ぎている。さっきから啓輔は待っているのだが、本当に動く気配がない。
「なあ、オレそろそろ帰るから」
 そう言っても、家城は無視する。それどころか、
「ビデオ、見ます?」
 そう言ってごそごそとテープを探す。
「この前の冬のオリンピック、撮ったのがありますけど?」
 ……もしかして、帰って欲しくないのか?
 さすがにここまであからさまな態度になってくると啓輔にも気が付いた。
 そりゃあ、オレだってあんな家帰る間にはここにいたいけど……でもすることねーし。それに
……我慢できねーし。
 だいたい、なんか悔しいじゃねーか。このままここにずるずると居続けるのって、こいつの言いなりみたいだ……いや、言ってくれればいいのに、何で言わないんだ?それが嫌だ。
 啓輔が目を細め、睨むように家城を見据える。
「オレ、帰るから」
 啓輔はそう言うと立ち上がった。家城に送ってもらうのを待っていたらいつになるか判らない。
 それを見た家城が困ったように口元を噛み締めていた。
 どこか頼りなげに視線をうろつかせる。
 いつもそうだ。
 帰る間際になるとこんな態度を見せる家城。
 それが溜まらなく啓輔を困惑させる。
 何故、そこまで言いたいことを口に出来ないのか?
 判らない。
 啓輔は小さくため息をついて、玄関へと向かった。
 居て欲しいんだろ。
 帰って欲しくないんじゃないのか?
「明日、来ないんでしたね」
 後ろについてきた家城がぽつりと漏らした。
「ああ、こない」
 振り向かずに言う。
 と、何か言われたような気がした。小さな、ほんとに小さな声。
 慌てて振り向く。
「何か、言った?」
 啓輔の問いに、家城は玄関に視線を向けたまま何も言わない。啓輔に視線を合わそうとしない。
 でも何か言ったのは聞こえた。その意味までは判らなかったが、何だ?
「なあ、言いたいことあったら言えよ。いつもみたいに。あんたがそんな態度見せるんだったら、オレだって考えがある」
 いつもいつも帰る間際に感じる無言の圧力。
 いい加減、嫌だ。
「オレ、もう来ない。あんたが来て欲しいって言わない限り、ここには来ない」
 その言葉に家城の目が見開かれた。
 滅多に見ることのない驚いた顔。
 しばらく待った。だが結局家城の口は開かれなかった。
 駄目か……。
 啓輔は踵を返して玄関へ向かおうとし、その腕を掴まれた。
「何?」
 冷たく言い放つ。
「……な」
 家城の口が微かに動いた。微かに耳に入るその音。
「何?」
 聞き取れなくて、啓輔が顔をしかめた。
「帰るなって言っているんだ!」
 吐き出された言葉。ほんとうに胸の奥底から絞り出すように。
 やっとかよ……。
「帰るな?でもオレ帰りたいよ。ここにいても何もできないし」
 啓輔は内心ほくそ笑みながら、それでも静かに言う。
「そんなの、何だってすればいいじゃないか。したいことをすればいいから、だからっ!」
「へー、何でも?」
「何でも!」
「じゃあさ、家城さんはオレと居て何かしたいことあるの?いつだって本読んでるか、テレビみているかでさ。別にオレがいる必要ないじゃない」
「そんな事ない。隅埜君が居れば、私は……」
「私は?何?」
 言葉を失った家城に啓輔はからかうように続きを促す。
 言葉が荒くなった時は、感情が溢れだしているときだと知っている。いつもの冷静さがぶっ飛んでいる家城をずっと待っていた。
 いつもこうだといいのに。
 顔を朱に染め、うろうろと視線を彷徨わす家城が、無性に可愛く思える。
 普段と違う家城。
 普段が鉄仮面だからそのギャップがひどい。だが、それが面白い。
 ぐいっと詰め寄ると、家城が一歩下がった。
 当惑し、自分が言ってしまったことを後悔しているかのように、僅かに首を振る。
「家城さん、言ってよ。まだ言えないわけ?」
「私は……何をしていいか判らなくて……隅埜君が居れば、いるだけでいい、と……だけど明日、来ないっていうから……だから帰って欲しくない」
 その視線は、自らの足下を見据えている。
 ったく……どうして、はっきり言えないわけ?そーゆー大事なこと。
 まっ、これはこれでおもろいけどね。
「まっ、そういうことなら帰らなくてもいいけど、ね」
 その言葉に家城がはっと顔を上げる。
 ああ、何て情けない顔しているんだよ。
 そういう顔見せるのって、もしかしてオレだけなのかな?
 と、啓輔の頭に面白い案が浮かんだ。
「なあ、ほんとに帰って欲しくない?」
 口元に浮かびかける笑みを無理矢理押さえつけながら、家城に問う。と、家城が、今度はすばやく反応した。
「帰って欲しくない」
「ならさ、キスしてよ。そうしたらここにいる」
「え?」
 訝しげな家城に啓輔は再度伝える。
「キスしてくれたら、ここにいる」
「……」
 家城が一歩下がった。
 その顔が真っ赤だ。
 啓輔はそれを見て取ると、ぐいっと家城に近づいた。
「す、すみの、くん……」
「何だ、してくれないの?んじゃ、帰るわ」
 くるっと振り返る。その背後から焦ったような言葉が掛けられる。
「する!キスする……から」
 それを聞いた途端、にやりと笑みを浮かべた。
「ほんと?じゃ、してよ」
 背を向けたまま言う。
 背後から息を呑む音がした。僅かな間をおいて、啓輔の肩に家城の腕が回される。
「君は……意地が悪い……」
「大事なことを言わないあんたの方がよっぽど困りモンだよ」
 顔だけ後ろに振り向ける。そこに家城の顔があった。
 躊躇いがちに家城の顔が近づき、啓輔の唇を捕らえる。
 どことなく湿った唇を感じた途端、啓輔は躰を捻って家城と向かい合った。そして、家城の背に手を回し、強く抱き締める。自分と同じくらいの背格好。どこまでも男性的な体格の相手が腕の中にいる。それなのに、離したくないと切に思う。
 その唇を強く貪るように吸い付く。
 初めてあったとき、あんなにも嫌な奴、と思った。言って欲しくないことまでずばずばいうこいつが嫌だった。
 だけど、気がついたら時折見せる態度が優しい。その傍が居心地良い。
 そしていつしか、ここがいいと思っていた。
 家城に触れている所全てがお互いの熱を伝える。
「す、みの、くん……」
 熱に潤んだ瞳が啓輔を見つめる。何かを言おうとして口を開きかけたその口を塞ぐ。
 開いた唇から舌を滑り込ませ、歯列をなぞり、歯茎の柔らかな部分をゆっくりとつつく。まだ不慣れなそのキスにそれでも家城が反応する。
「んっ」
 家城が漏らした声に顔が綻ぶ。
 見た目とのギャップが啓輔を昂ぶらせる。屈服させてみたいと嗜虐心が沸き起こる。
 それを想像し、その楽しさに、くくっと喉がなってしまった。
 それに気付いた家城が、ぐいっと啓輔を押しのける。
 真っ赤になったその目元は潤んでいる。その目で睨み付けるのだが、それは啓輔の躰にずきんと甘い疼きを走らせる。
 たまんねーよお、こいつってば。
「もう止めんの?」
 甘く耳元で囁く。だが、家城はくっと唇を噛み締めると、啓輔を押しのけた。
「もう、いいでしょう」
 啓輔の手から逃れるように躰を離した途端、がくんと膝が折れた。咄嗟に壁に手を付き、崩れかけた躰をなんとか持ちこたえさせる。
「足たたないんだ?」
 啓輔が楽しそうにその腕を取ろうとすると、家城がその腕を跳ね避ける。悔しそうに顔を歪め啓輔を睨みつけてくる。
「ばーか、遠慮するなよ」
 気持ちよかったってことじゃねーか。なんで、そんなにつっぱねるんだよ。
 だが、家城はそんな啓輔の言葉を無視すると、壁に手を付きながらでも自分で歩いていく。
 こいつってば……。
 啓輔もリビングへと向かうと、家城がむすっとしたままソファに座っていた。
 ほ、んと……素直じゃない。
 でも、これから、どうしよー。
 あの調子だと、素直に先に進めてくれそうにないし。
 やっぱ、酒でも飲ませてみようかな。




 「酒でも飲もーよ」
 家城がしまい込んでいたウイスキーのボトルを引っ張り出し、グラスを用意する。
「隅埜くんは未成年ですよ」
「この前も飲んだだろ。今更何言ってんだよ」
 勝手知ったるキッチンから、氷とミネラルウォーターを持ってくる。
 ぜったいっ、今度はこいつを先に酔わせる。
「また、酔いつぶれますよ」
「泊めてくれるんだろ。だったらいいじゃねーか」
 啓輔の言葉に、家城はため息をつくとウイスキーのボトルを取った。啓輔が氷を放り込んだグラスにウイスキーを注ぐ。そこに啓輔がミネラルウォーターを注いだ。
「今日は、ちゃんと飲めよ」
 じろりと睨むと、家城は僅かに眉をひそめた。
 今度は誤魔化されない。
 啓輔は家城が半分ほど飲んでいるのを確認してから、グラスに口をつけた。
「何を、企んでいるんです」
 その様子を見て取った家城が、ため息を付きながら聞いてきた。
「あんたを酔わせるんだよ」
「何故?」
 当惑気味な言葉。
 そんなん判っているだろうが。だから、この前は、誤魔化したくせに。
 くくくと嗤うと、家城がグラスをテーブルに置こうとした。
「飲まないと、帰る」
 その言葉に、家城の動きが止まる。
 啓輔は立ち上がって家城の横へと移動した。ソファの肘掛けに家城に背を向けるように腰掛ける。
「飲んでよ」
「無理に飲みたくはありません」
 きっぱりと言い切る家城の肩に手を置く。少し強めに掴んだせいで痛みが走ったのか、家城が抗議の色をたたえて、視線を送ってきた。
「飲まないの?」
「ええ」
 やっぱり一筋縄ではいかない。
 啓輔は、少し減っていた自分のグラスに、ウイスキーのみを注いだ。
 結構、きつくなったその水割りを口に含む。
 と、家城の頭を掻き抱いた。
 突然の事に反応が遅れた家城の口に自分の口を押しつける。逃げられないようにしっかりとの頭を抱え込む。抗議の声をあげかけ僅かに開いた口の中に、零れるのを無視して啓輔は口内の水割りを注ぎ込んだ。
 ほとんどが溢れ、家城の喉を伝う。伝った液体がは、家城のシャツを濡らしていった。
 啓輔の意図を察した家城が啓輔を押しのけようとするが、啓輔は家城の髪を掴んでそれをさせなかった。
 押しのけようとするとひどく引っ張られる髪。それに家城の抗う動きも封じられ、引っ張られるせいで顔が上向く。
 家城は結局何度も注ぎ込まれる水割りを、最後には自ら受け止めて飲み干していた。啓輔はそれに気付くと、左手で家城の髪を掴んだまま家城のグラスにウイスキーを追加し、それも口移しで飲ませる。先ほどよりさらに濃くなった水割り。
 それを一気に飲まされ、しかもその合間に啓輔はついでのように家城の舌を絡め取り吸い付く。口内の敏感な部分を貪るように嬲られ、家城の躰から抗う力が抜けていった。
 離された時には、家城はぐったりとソファに背を預け沈み込んでいた。その息が荒い。肩で息をする家城を見下ろしながら、啓輔は口の周りについた水割りを腕でぬぐい取った。
 家城がどの程度で酔うのかは判らない。
 だが。
 苦しかったせいだけではないだろう。潤んだ瞳が何とも言えず艶っぽい。それに背筋がぞくりとした。
「今度は自分で飲むよな」
 問いかけながら、水割りを濃いめに作る。
 それを手渡すと、家城は僅かに逡巡し、そしてそれを口に運んだ。
 ゆっくりと飲み干す家城の動く喉元に指を這わせる。
 ぴくりと震える躰。その訝しげな瞳が啓輔を射る。
「ね、オレのことどう思ってる?」
 微かな笑みを浮かべて、問いかける。
 その途端、家城が顔を赤らめ、視線を外した。
「ふーん、まだ飲み足りない?」
 今日は手加減するつもりはなかった。負けるつもりだってない。
 いい加減、オレだって腹立っているんだからな。
 あんだけ言いたいこと言われて、からかわれて、……そのくせ肝心なことになると貝のように口を閉じてしまうなんて……。とんでもねーと思わないか。ったく。
 時折見せる思わせぶりな態度に気付いてしまったから、だから、もう言い加減堪えられない。
 まるで、餌を目前につられて、手がととが無くて右往左往している猿みてーじゃねーか。
 だから。
 酔わせてやる。
「隅埜くんは……少し、乱暴ですよ。すっかり服が濡れてしまいました」
 いつものように冷静な態度。だが、触れた手から伝わる僅かな震え。家城が今、なんとか自分を取り戻そうと必死になっていると判る。
 自分の本心を押し隠すことに必死になって、こんなにも取り繕ったような台詞を吐き出す。
「着替えてきます」
 それが逃げようとしていると判るから、家城の肩に手を置いて立たさない。
「駄目。そんな姿も結構色っぽいよ。こうやって、流れている跡がね」
 流れた跡を指でなぞる。
 口元から喉のラインへ。そして、しっかりと濡れてしまって肌に張りついている服の上を胸元から下腹部へと向かってゆっくりと。
 その指が、脇腹のラインをなぞった途端、家城の躰が隠しきれないほど大きく震えた。
 その両手がとっさに動いて、啓輔の腕を掴む。
「やめっ……」
 俯いて表情は判らないが、微かに漏れた言葉から必死で堪えているのだと判った。
「飲むんだったら止めてあげてもいいけどさ、でもほんとに止めていーの?」
 揶揄を含んだ言葉を投げつける。
 それに家城は、動きを止める。迷っているようだった。
 聡い家城だから、啓輔の言葉が今の家城にとって究極の2択だと気付いている。
 このまま、啓輔の愛撫に流されるか、それとも酔って本音を言わせられるか……。
 たぶん、今、それを打破するためにいろいろと考えているのだろうと。
 だが、させるか。
「家城さん、好きだよ」
 そっとその耳朶に口付ける。「だから、オレに答えてよ」
 家城の手が動いた。
 その手がグラスを掴み、そして、一気に煽った。
 迷いも何もかも吹っ切るように。そして、手早く次の水割りを作り、そしてまた煽る。
 そして。
「ほんとに、隅埜くんは、陰険だなっ!」
「……」
 まあ、いきなり甘い言葉を期待したわけじゃねーけど……いきなり、それか?
 きっと啓輔を睨む家城は目元まで赤くなっている。
「陰険で、乱暴で、強引で!しかも、意地悪で、私をすぐにからかう。だから、負けまいとこっちが意地を張らざるを得ないじゃないか!」
 これって、こいつの本音だよな……うげっ……。
「からかうって、だいたい最初からからかい続けてんのそっちじゃねーか。だいたい、そんな事聞きたかったんじゃねーって。なんで肝心な事言わないんだよ、あんたは」
「これが私だ」
 きっぱり言われて、脱力する。
 そんなん断定されても……だいたいなんで口喧嘩状態なんだ?
「で、あんたは、オレの事どう思っているわけ?」
 もういい加減、うんざりとなって問いかける。
「それは好きだ。決まっているだろう」
「はい、そうですか……って、何?」
 危うく聞き逃す所だった台詞に、啓輔ははっと顔を上げる。脱力しかけていた気力が一気に復活した。
「だから、ちゃんと聞いていろ。私は君が好きだ」
「は、あ……」
 え?と……もしかして、やっぱり成功?
 だけど、なんだか嬉しくないんだけど……なんで?
「だいたい何で君を好きになったかなんて、私にも判らない。だいたい私の好みは、年下でどちらかというとひ弱な子なんだからな。君なんか、年下だけど、どうしようもない辛そうな恋をしていたくせに、私にだけは無茶苦茶強引で、腹が立つ」
「おい……」
「だけどっ!いつの間にか君と一緒にいたいと。私はだから、君とキスしたいし、セックスだってしたいと思ってるっ」
 げっ!
 あまりの露骨な台詞に啓輔は狼狽えてしまう。首筋まで火を噴いているように熱い。
「ところが私と君は10歳から年が離れていて、私の方が年上だ。私が何とかしないと駄目なんだろうな、とは思う。だが、どうしても言い出せないんだ。何故か、私は自分のこととなるとひどく引っ込み思案で、相手の事を先に思ってしまうようなんだ……それで今まで失恋したこと君より多いぞ!」
 威張って言う事じゃないって、それ。
 呆気に取られる啓輔の目前で家城が再度水割りを飲み干した。
 飲まずにはいられないと言った飲み方に、けしかけた啓輔も心配になる。だが、いまさら止めようがなかった。
「それに、私は今までにセックスはしたことがある。そういう相手と遊びでだけどな。だが、実は他人が思っているほど経験が多くない」
 ……誰が思っているって?
 あんたんのそういうところ、知ってる奴いるんだ……。
 胸の奥に、きりきりと打ち込まれる杭があった。それが、苦しいと思うのはなぜだ?
 だが、その思いも家城の次の台詞にぶっとんだ。
「しかも、どうも私の体格と普段の態度から、遊びの相手は私が攻めだと……ということで、私は攻めしか経験がない」
「攻めって……」
 つまりは……男役だよな……。
「だが隅埜くんは、受けは嫌だろう?」
「受け……って、女役……って嫌だ」
 なんか自分がそういう立場なんて考えたことがなかった。
 夢の中ですら、いつだって自分が相手を攻める方だったから。
「だから、余計に何も言い出せなかった。私たちは、上手くいかないのかも知れない。だったら、このままそれ以上にならなければいいのではないかと」
 ちょっ、ちょっと待て?!
「何でそうなるんだよ!そんなの、やってみなきゃわからんじゃねーか」
「やってみて、駄目だったらもっとひどいことになるだろう」
「それは……」
 啓輔は結局男相手に経験がない。だから、どうしても何も言い返せなかった。
 その間に家城が次の水割りを飲み干していた。
「私は君が好きだから……いつだって一緒にいたい。君が帰ると言うたびに、引き留めようとしたくなる。それがみっともないって思ってしまう……」
「それであの態度か?」
「そう。だけど、もう来ないと言われて……私は堪えられなかった。君とキスしてしまったあの時から、自分が狂ったように君を欲しているのをずっと押さえつけていたから。もう、嫌だと。絶対に返したくないと」
 狂おしいまでに熱い思い。
 見つめられた瞳の真剣さに吸い込まれそうなほどだ。
 啓輔ははあっと息を吐くと、家城の足下に跪いた。そして見上げる。
「あんたってさ、考えすぎ。上手くいかないって、なんで思いこむ必要があるんだ。人を好きになるってさ、理屈じゃねーもん。前に緑山さんを好きになったときも、声をかけた訳でもない。ただ、その瞳を見た瞬間にオレはあの人が好きになっていた。なんで?って聞かれてもそれはもう答えようがない。家城さんのことだって気付いてみたら好きになっていた。こんなにも理屈ばっかの嫌みな奴なのに。そんなん何でかなんてわかんねーよ」
 どこか不安そうな家城に、にっこりと笑いかける。
「だからさ、好きだっていうんだったら、素直に伝えてくれよ。せっかく両思いなのに、オレはもったいねーと思うけど。それにやりたかったからればいーじゃん。そりゃあまあ、不安はあるけど、だけど、ちなみに、オレは今すっごくやりたいって思っているけど、家城さんは?」
「やりたい」
 即答って。げに恐ろしきは酒の力、かよ。
「んじゃ、やってみますか」
 不安か……。まあ、確かにどうなるかわからねーけど、これって、やっぱ攻めたモン勝ちっていうのはないのかなあ。
 啓輔は膝立ちすると家城の首に手を回した。ぐっと力を込めると、家城の顔が下りてくる。
「まっ、なるようにしかならないよ」
 家城の赤くなった唇に啓輔はそっと口付けた。



 深く交わされたキスは、今まで以上だと思う。
 絡められた舌が、お互いに主導権を握ろうとせめぎ合い、結果より深く激しく絡み合う。
 理性が飛んだ家城は普段とは比べようがないほど積極的で啓輔を組み伏せようとしていた。それを遮るように舌を動かすと、巧みに舌の裏側を擦られる。口の中だけで全身に痺れるような疼きが広がった。
 これがキス?
 今までしたどんなキスよりも痺れる。触れ合った部分からじんわりと伝わる熱すらも、啓輔を高みに導く。
 やべー
 攻めているつもりだった。だが、それでも追い込まれているのはこっちだと気づく。
 しゃれになんねーぞ、これは……。
 これって経験の差?
 でも、悔しい。
 無茶苦茶、悔しい……。
 家城を抱きたいと思っているのに、翻弄されている自分が悔しい。
 家城がここまで経験を積んでいるというその事も悔しい。
 オレではない誰かと抱き合ったのだろう、その事実が悔しい……。
「んっふ……」
 それでも躰は正直に反応する。
 家城の手が背骨を辿る。尾てい骨近くまで下ろされたその手が、啓輔の尻のラインを辿り、内股へと入り込んだ。
「あ……っ……」
 膝から力が抜けかけた。
 崩れ落ちそうになった躰を必死で堪える。
 マジでやばい。
 啓輔は間断なく襲ってくる甘い疼きから意識を取り戻すかのように、唇を噛み締めた。ぴりりと走る痛みが少しだけ啓輔の意識を引き戻す。
 やられっぱなしは嫌だ。
 浮遊感の漂う躰を必死になって起こしてソファの上に上がった。家城の肩に両手を置き、ソファへと押し付ける。上からのしかかるように抱き締め、家城の唇を掠めとった。
 されたままの通りを、さらに時間をかけてじっくりと返す。
 さきほど辿った時に家城が反応した場所を掌で再度辿ってみた。
「んっ」
 家城の喉からくぐもった声が漏れた。
 ここ、弱いんだ……。
 その声を飲みこみながら、啓輔は家城のシャツをジーンズから引きずり出しそこから手を入れた。直に触れた家城の肌は暖かく意外になめらかな感触を与える。そこをそろそろと撫で上げる。
「やめろっ」
 触れた途端に家城が顔を捻り、唇が外れた。
 家城の手が、啓輔の手を避けようと動く。
 きつく噛み締められた唇を追いかけて啄み、唇のラインに添って舌を這わせると、家城の躰がびくりと震えた。
 固く閉じられていた目が、うっすらと開き啓輔をきつく見据える。
「慣れて……る?」
「女相手なら、少しはしたことあるからね」
 くくっと嗤い、その首筋に吸い付く。首筋まで赤く染まったそこを舌でつつくと、家城の躰が面白いように反応した。特に反応したところを選んで吸い付く。
 時折喉のラインが震え声が漏れようとしているのを、家城が必死で堪えているのがわかった。
「ね、声、出してよ」
 脇腹をなぞっていた手をさらに上昇させ、指で探り当てた胸の突起を摘む。指の腹で擦るように揉むと、ぴくびくと小刻みに躰が震えていた。
 家城もされるのには馴れていないのかも知れない。
 ふと、そう思った。
 そう思わせるほど、家城の躰が素直に反応する。
「んくっ……あはぁ……」
 荒い息が繰り返される。
 身を捩り、逃れようとする家城を啓輔は体重をかけて押さえ込んでいた。
「ね、大人しくしてよ」
「いや……だ。このままだと……んっ」
 このままだと?
 その言葉の続きを思い描き、啓輔は苦笑をこぼす。
 抗う力が徐々に抜けているというのに、まだそんな事を言う?
 家城が敏感な事が嬉しい。決して巧いとは言えない啓輔の愛撫に、反応を返す。
 啓輔は家城の足の間に躰を割り入れ、膝をぐいっと持ち上げた。
 その膝に触れる確かな感触に、啓輔はふっと笑みを浮かべるとぐりぐりとそこを押し上げる。
 シャツをたくし上げ、露わになった胸に口付けた。
「んんっ……くっ……んくぅ」
 漏れる声が激しくなっていた。
 苦痛に耐えるかのように歪む表情。噛み締められた唇の間から漏れる息の音。それがさらに啓輔を煽っていた。
 家城の手が啓輔の頭を離そうと掴んできた。引っ張られた髪の痛みに仕方なく顔を上げると、家城がきつい視線で啓輔を睨んでいた。
「止めていいの?」
 くすりと嗤い、指で赤く膨らんだ突起を嬲る。
「くっ」
 深い眉間の皺がさらに深くなり、堪えるように目が細められた。
「す、み、のくんは……」
 熱い息と共に吐き出された言葉。荒い息の中で絞り出すように言われた言葉の先を聞き取ろうと啓輔の動きがふっと止まった瞬間、家城にぐっと襟元を掴まれ引き寄せられた。
 啓輔の首筋に熱い吐息と共にさらに熱い柔らかな感触が触れた。途端に全身にひどくきつい疼きがずきんと駆けめぐる。
「あっ」
 思わず漏れた声。慌ててくっと奥歯を噛み締めた。だが、すうっと首筋から喉元まで舐め降ろされた途端、再び襲ってきた刺激に躰からふっと力が抜けた。
 やばいっ。
 脳裏に走った危険信号に、啓輔は慌てて手に力を込めて、躰を離した。
 家城がそれを待っていたかのように、躰を捻った。そのせいで躰の上から引きずり降ろされ、その拍子にソファの下まで躰が落下した。背中をしたたかに床に打ち付け、その痛みに一瞬息が止まった。
「私を組み敷こうなんて、10年早いですよ」
 見下ろす家城の目が怖いほど据わっている。赤い顔も、潤んだ瞳も変わりはしないのに、ただその雰囲気にぞくりと寒気が走った。
 これって……もしかして、オレ飲ませすぎ?
 告白していた時より剣呑さが増している。口調すら元に戻っている。
 もしかしなくても、やばい状況……だよな。
 熱くなっていた躰からすうっと熱が引いた。
 これって、かっんぺきに理性が飛んだ?
 ってことは、この先に待っているものって!
 やばっ!
 啓輔は慌てて床から躰を起こそうとした。それをソファから転がるように降りてきた家城が、組み伏せる。
 手足を、しっかりと押さえつけられ、身動きができない啓輔の首筋に家城の唇が降りてきた。
 とがらした舌が、つつくように刺激を与えながら耳から肩へと降りていく。
「んくっ……うう……っ」
 そこから伝わる疼きにきつく閉じた瞼が震える。
「んっ……やあっ……」
 つつかれる度に全身に広がるうずうずとした感触は、その心地よい快感とともに、それ以上の快感を求めさせる。それ以上の感触を覚えているから、穏やかなその刺激にもどかしさすら感じてしまう。
 声を漏らしたくなくて唇を噛み締めていると、じわっと血の味が広がった。
 それに気づき歯を緩めた途端、お返しとばかりに施された胸への愛撫に躰が跳ねた。
「やっ」
 急速に広がる痺れに手足が麻痺したかのようにいうことを聞かない。
 これが……セックスなんだ……。
 女を相手にしたときとは全く違う。
 自分が、相手に翻弄されることなど、今までなかった。
 そこが敏感だと気づいた家城によって丹念に施される愛撫に、意識すらも霞んでくる。
 気がついたら、シャツのボタンを全て外され、大きく前を開かれていた。外気に曝された肌が、空気の流れを敏感に感じ取り、家城が起こす動きを読みとってしまう。
 近づく気配に躰が震えた。
 胸の突起を熱く柔らかい舌が包み込む。
「あっ」
 思わず家城の頭にしがみついていた。
 家城を攻めるどころではなかった。頭が、気持ちいいっと叫んでいる。
 もっとして欲しいと……。
 こんな自分が可笑しい……と思う。このままだと、自分が受け入れることになる。
 なのに……どうして……?
「んんっ、んあっ」
 するりと腰のラインをその大きな手がなぞる。それだけで、声が出る。
 どうして、こんなにも触られることが気持ちいいのか……。
 触れられただけで、躰が舞い上がる。
「い、えき……さんっ……」
 思わずその名を呼んでしまう。
 だが返事はなかった。その代わりに、ジーンズの中に潜り込んだ手が、太股の付け根をまさぐった。
「ひっ……ゃあっ!」
 激しい期待感が、必要以上にその部分を敏感にする。
 それだけで、自分のモノが猛ってくるのを感じ、慌ててその手を掴んだ。
 だが、力が入らない。
 このままだと……。
 快感に捕らわれた心に、それでもそれに逆らおうとする意識が動く。
 攻められるのは嫌だ、と。
 その意識が空いた方の手を動かす。家城のジーンズの上から触れたそこは、明らかに固く形を持っていた。
 びくっと家城の躰が触れる。
 それに煽られ、啓輔はそこを掴んだ手に力を込めた。
「あっ」
 家城の口から吐息と共に声が漏れる。熱いその吐息が啓輔の肌をくすぐり、それすらも快感を呼び起こす。
「家城さんっ……ここ、ゆるめ……て」
 片手だとうまく外せないボタンに、苛々する。
 啓輔の言葉の意味に気づいた家城が、器用に自分のジーンズのボタンを外し、中のモノを取り出した。それを啓輔に握らせる。
 こいつって……こんなに大きいんだ……。
 自分を抱こうとして、こいつのここはこんなにも猛っている。
 そう思った途端、どきりと心臓が高鳴った。
 家城さんはこんなにもオレに欲情している。その思いに啓輔は自分のモノがぐぐっと大きくなったのを感じた。
 それをやんわりと握られ、上下に扱かれる。
「うっ……あふっ……」
 それが他人の手、いや、家城の手だと言うだけで、いつもよりはるかに早く射精感が高まる。
 それが悔しいと感じるのも、相手が家城だからだろうか?
 啓輔は、握った家城のモノを同じように扱き始めた。
 同じ男だから、どの辺りが感じるかなんて想像はつく。
「ううっ」
 家城の鼻にかかった声が漏れるのを聞いた途端、かあっと全身の体温が上昇した。躰が火照る。
 欲しいと……。
 躰がその先を求めて、動こうとする。
 啓輔は、ふっと夢を思い出した。
 夢の中で、組み伏せられているのは家城の方。
 夢の中の苦悶に滲む家城の顔が今の家城と重なった。途端に一気に射精感が高まる。
「も、うっ」
 そう、間をおかずに、一気に高まった圧力が解放された。
「くうっ」
 吐き出された白濁した液が、啓輔の腹の上にぽたぽたと落ちる。とろりと流れたそれが腹に液溜まりをいくつも作った。
「はあ……」
 大きく息をつく。心臓が激しく鼓動する。
 家城に握られたままのそこがびくびくと震え、残っていた液がぽたりと落ちた。
 それを家城が絞り出すように、扱きだした。液のぬめりが、家城の手の動きをなめらかにする。
「あっ、やめろよ……」
 その手の中で自身がさらにむくむくと立ち上がる。
「まだまだ元気ですよ、ここは」
 その言葉に羞恥心も沸き起こったが、それ以上にムッした。
 ちくしょーっ!
 このまんま好きにさせて堪るか!
 啓輔は外れ掛けていた家城のモノを扱く手を激しくした。
「んくっ……うっ」
 家城のモノとて啓輔の手の中で、完全に勃ちあがっている。その先からは、透明な先走りの液が溢れ、それが啓輔の手の滑りを良くしていた。
 時折、その先を爪でつつく。
 途端にびくんと家城の躰が堪えられないように震えた。
「はああっ……ああっ」
 漏れる熱い息が、敬啓の首筋をくすぐる。
「ねっ、気持ちいい?」
 揶揄するようにその耳元で囁くと、家城がうっすらと目を開け啓輔を見やる。目元まで赤く染まっているその視線が色っぽく、堪らず啓輔はその目元に口付けた。
「好きだ、何でかなんて判らない。だけど……こうしたい」
 空いた手で家城を抱き締め、家城のモノを激しく扱き上げた。その刺激に家城が堪らず、躰を大きく震わせる。
「ううっ!」
 どくどくと溢れ出すそれを手に取る。流れ落ちた液が啓輔が吐き出したモノと交じり合い、さらに大きな液溜まりになった。
 まだ滲み出ているそれを絞り出すように握りしめる。
 手の中で震えるそれが愛おしいと思う。
 そして、もっともっといい気持ちにさせたいと。
 啓輔はその手を家城の背に回した。きつく抱き締め、家城の唇を貪った。
 家城もそれに応え、お互いの舌が深く絡まり合う。唾液が溢れ、喉を伝う。抱き締めあい、お互いの体温がこれでもかと言うほどの広い接触面で伝わりあい、まるで一つにでもなったような気がした。
 家城の体温の方が熱いような気がするのは、アルコールのせいだろうか。
 ぽかぽかと暖かいその躰に包まれていると、射精後の気怠さも手伝ってほんわりとした浮遊感に包まれる。
 それは家城も同じなのか、啓輔の躰の上にぐったりと躰を預けていた。
 同じような体格のせいで結構重いが、それすらも心地よくて家城を抱き締める。
「家城さん……オレ、こういうのって、初めてだ。こんな幸せな気分って……」
 これがセックスというのなら……というか、まだ最後までやっていないけど……今までの女相手にやったのって何なんだろう。やっぱり遊びと本気の違いがこういうことなんだろうか?
 こうやってお互いの体温を感じているだけで嬉しい。
「なあ……」
 と、家城の反応が変なことに気が付いた。
 返事がない。
 というか……このもたれ方は?
「家城さん?」
 動かない家城から無理矢理躰をずらす。
「まさか、寝てる?」
 こんこんと軽く頭を叩いてみたが、反応がない。
 聞こえるのは微かな寝息。
「う、そ……だろ」
 啓輔は茫然と家城を見やり……、力任せに家城の躰を自分の上から転がした。
 テーブルとソファの隙間に転がった家城はぐったりと身を投げ出し、熟睡していた。




 「飲ませすぎ……たのか、もしかして」
 脳裏に煽るように飲み続けていた家城の姿が思い浮かぶ。
 ……適度な運動もしたしなあ。酔いも回るって……。
 はああと大きなため息をつく。
「こんな所で寝るなよ……って言ーたいけど、でもあのままだと、オレが『受け』って奴になってたよなあ。それはそれで助かったというべきなんだろうけど……でも、寝るか?」
 躰を起こし、家城の横に胡座をかいて座り込む。
 ふと、自分の姿を見下ろした。
 はだけたシャツが腕にひっかかってかろうじて脱げずに済んでいる。それはともかく、お互いの出したモノがべっとり腹や手に広がっている。そのまま、家城と抱き合ったものだから、家城の服は腹から背から、同じくべっとりと濡れてしまっていた。
 とてもではないが、このまま放置したくはない。
 啓輔はため息をつくと、浴室へと向かった。
 勢いよく服を脱ぎ捨てると、熱いシャワーに躰を晒した。気怠い躰に当たる刺激が気持ちよい。
 躰を簡単に洗って出る。
 家城さんも何とかしないとな……。あのまんま朝までっていうのは、あまりにも、だもんなあ。
 幸いにして、シャツはかろうじて汚れるのを免れていたので、それを着直した。
「どうせ、起きないんだろうな……」
 先程から何度もついてしまうため息。
 目に付いた洗面器に湯を入れ、タオルを持って家城の元へと戻った。
 家城の躰を濡らしたタオルで拭う。
 なんつうか……これって、結構みっともなくないか?
 自分がこうやって果てていたら、家城が綺麗にしてくれるのだろうか。
 何かめちゃくちゃ恥ずかしいじゃねーか、これ。
 自分がしているのにされているような場面を想像してしまい、羞恥心に真っ赤になってしまう。
 意識が無ければ堪えられるが、意識が在るときは絶対に自分で後始末しようと、啓輔は固く誓った。
「えっと……服……」
 立ち上がり、家城の服が閉まってある筈のクローゼットに向かった。
 寝室にしている部屋のクローゼットを開ける。
 下にある引き出しに入っていたパジャマを引っ張り出した。
「あれ……」
 ふと、その奥にあった袋が目に付いた。
 昼間家城が買ってきた袋だ。
 何を買ったんだろう?
 むくむくと好奇心が沸き起こる。
 啓輔はその袋を取り出して、中を覗いてみた。確かに服のようだが、覗いただけだとどんな服かは判らなかった。見た目は柔らかそうな生地だ。
 服なら、見せてくれればいいのにさ。
 なんでこんな所にこそこそと奥深く隠すようにするんだよ。
 なんだかムッとして、啓輔は勢いよくその袋をひっくり返した。
 ぱさりと足下に落ちてきたの、黄色地のパジャマだった。
「これ……」
 啓輔は茫然とそれを見つめる。
 何のことはない普通のパジャマ。だが、何故それを家城が隠すようにしたのか。
 パジャマ以外にも、下着がワンセット一緒に入っていた。
 この色は……。
「……もしかして、これ、オレの?」
 その色は、家城の好みではなかった。家城はどちらかというとブルー系の服を好んでいる。その色は啓輔の好みの色。
 オレのかな……やっぱり。
 顔が自然と緩んでくる。
 きっとあの時買う物がなくて、だけど何かを買わなくては行けなくて……それで買ったのだとしたら……。
 啓輔はそれを袋に戻し、前と同じようにクローゼットの奥にしまい込んだ。
 ぱたんとドアを閉めると家城の元に戻る。
「ほっんと、あんたって、素直じゃねーな」
 あの袋を啓輔に黙って差し出すだけでも、家城の心が判ったのに。それすらも出来なかった家城に呆れてしまう。だが、啓輔の口元には止めることの出来ない笑みが浮かんでいた。
 あんたって、ほんと、かわいーじゃねーか。
 それを思うと、家城の世話も苦だとは全く思わなかった。むしろ、出来ることが嬉しいとすら思える。
 しかしなあ……。
 こいつ、重いんだよなあ……。
 啓輔は家城を見下ろし、ため息をついた。
 酔っぱらった家城を起こす努力など最初の段階で放棄している。
 啓輔はなんとか汚れた服を脱がせると、パジャマの上だけを着せた。
 さすがにベッドまで運ぶ元気はなかったので、ベッドから布団を取ってきて家城に掛けた。
「はあ?」
 つっかれたあ?。
 さすがに重労働で、啓輔はぐったりとソファに座り込んだ。
 疲れと共に少しとはいえ飲んだアルコールのせいもあって、啓輔にも眠気が襲ってきた。だが、布団を家城に使ったのでベットに行っても布団がない。
 他の布団がどこにあるか、判らなかった。
 ちらりと、家城に視線を移す。
「しょーがねーか。寝れるかどうかは別として?、と」
 啓輔は苦笑を浮かべながら、家城の隣に潜り込んだ。
「まっ、一回出しているしな……今日は大人しく寝よ……と」
 ……。
 だが結局、啓輔は眠ることが出来なかった。
 うつらうつらとしかけると、家城が身動ぐ。その途端に意識がそちらに気をとられて、結果目が覚める。
 たまんねーよー。
 一回出したとはいえ、健康で性欲が人一倍強いのではないかと思える自分のモノが何かの拍子にむくむくと元気になる。
 啓輔は結局寝るのを諦めた。
 だが、一人ソファでぼーっとするのもアホらしく……結局布団の中に潜り込んだまま家城に背を向けた。しかし、離れているのに家城の体温がじんわりと伝わって背中ばかりが暖かい。
 それが結構暖かくて気持ちいい。
 他人の体温が気持ちいいと思えるなんて……そんな事を思ったのはいつ以来だったろう。
 もうずいぶん昔、まだ両親が仲良かった頃がふっと頭によぎった。
 あんな家になる前の、忘れることの出来ない頃……。
 くっ……。
 熱くなった目頭に、唇を噛み締める。
 先ほど傷つけたせいで痛みが走ったが、それでも溢れる思いは止められなかった。
 もう随分長い間思い出していなかった。
 ……暖かいよ、ここは。
 あふれ出た涙が頬を伝う。
 人との接触に幸せだと思ってしまったからだろうか……。
 今はもう望むべくもないあの幸せが、結局忘れられなかったのか……。
 いつからだったろうか?
 家の中の雰囲気が冷たく、すさんだものになっていったのは?
 自分でやっていた仕事がうまくいかなくなって、親父が外に働きに行きだした頃?
 家計の助けに、母親が外に働きに出始めた頃?
 金策に走った挙げ句親戚達に体よく断られ、しかも断絶状態に陥った頃?
 あれは……高校に入ったばかりの頃。
 それでも、あの時は二人とも言っていた。
 何も気にせず、勉強してればいいんだよ……って。
 なのに……。
 一体いつからあんなにも帰りたくない家になってしまったのか……。
 あの二人が鬼の姿にしか見えなくなってしまったのは、一体いつからなのだろう?
 一度陥ってしまった無限ループ。その思考に入り込むと、なかなか抜け出せない。なのに、啓輔は考えてしまった。
 もう……取り戻せないのに……。
「ん……」
 背後で身動ぐ気配がした。
 それに気付いて、振り向く。
 起きてくる気配が無いことを確認して、ほっと息を吐いた。
「馬鹿だ、オレ」
 どうしてそんな不毛な事を考えてしまったのだろう。
 ここには家城さんがいる。
 今は、家城さんがいてくれる。
 それだけで、いい。
 ぐいっと涙をふき取ると、家城の背に自分の背をひっつけた。
 この温もり。
 離したくないんだ。
 啓輔は暗くなっていた思考を無理矢理片隅に押しのけた。いつもなら抜け出せない思考から容易く抜け出せそうなのは、やはり家城がいるからだろうか。
 啓輔はほおっと息を吐いた。
 先ほどの行為を思い出し、無理矢理思考の全てをそれに向ける。
 家城さんがもしオレを抱きたいというのなら、それでも仕方ないかも知れない。
 そりゃあ、オレとしては家城さんを抱きたい。
 抱きたくて…… 
 酒を飲ませたのは、成功といえば成功だったけど……結局その時に家城が指摘した通りになった。
 攻めと受け、かあ……。
 そうだよなあ、男と女ならそういう役割分担できてっけど、男と男の場合セックスしようと思ったら、どっちかがそうなるわけで。でも、お互いが受けることが出来ないと思っていたら、どんなに相手のことが好きでも、そういう関係にはなれないって事だよな。
 それって……結構きつい。
 触れあうだけでも躰の内側から熱を持った欲情が沸き起こってくるのに、手だけで終わりって言うのはなんか情けない。できれば、最後まで行きたいと思うのは、欲なのだろうか?
 家城が心配していたことがなんとなく判ってきた。
 やってしまえばどうにかなるという問題ではない。
 啓輔自身、家城を抱きたくて堪らない。となると、受けをするのが家城ということになる。
 だが、大人しく受け入れてくれるだろうか?
 もう酒を飲ませるわけにはいかなかった。理性が外れた家城は、はっきりいって啓輔をなんなく組み伏せてしまうだろう。
 それでもいいかな……っていう思いが無くなもない。だけど、やっぱり男としては……入れたいって思うのは、正常だよな。
 ってことは、したいのなら、家城が素面の時。
 だが、そうなるとそこまで辿り着きそうもない。
 それに。
 結局、啓輔は男とするときのことを詳しく知らない。
 このまま突っ込んでも痛いのだとは判る。だいたい出すところだ。入れる所ではない。
 インターネットのゲイサイトは英語で書かれていたので写真以外興味がなかった。
 しかし。
 素面の家城を何とかしようとなると、啓輔自身がある程度判って進まないと家城に痛い思いをさせてしまう。素面の家城が、こうするんだよ、なんて絶対教えてくれそうにない。
 ……だからと言って、そんなもん、誰に聞けばいいんだ?
 インターネットで調べるのか?それても誰かに聞くって言ったって……。
 そういう経験ありそうな人と言えば、緑山さんだけど……あの人に聞ける訳ないじゃん。
 未だに普通の会話ですらうまくできない。
 ……。
 でも、オレしたい。
 家城さんの手で触れられただけでもあんなにも良かったのに、入れたいって思うのは止められない。
 あ!
 啓輔はふとある事に気がついた。
 そういう事を知っていそな人がもう一人いる。
 その人に聞けばいいんだ。
 啓輔はその考えにうんうんと頷く。
 そっかあ。あの人がいたんだ。あの人なら、うまく話を持っていけば教えてくれそうな気がする。
 啓輔の脳裏に服部の顔が浮かぶ。
 それに。
 あの人にそう言うの聞いたら、真っ赤になって狼狽えて面白そうだなあ?。
 これはぜひとも聞いてみたい。
 思わず喉から漏れる押し殺した笑い声。
 躰がくつくつと震えた。
「ん……隅埜くん?」
 背後から家城の声が聞こえた。
 慌てて振り向くと、家城が躰を捻って啓輔の方を見ていた。まだどこか朦朧とした視線で焦点が合っていない。
「ごめん、起こした?」
 起きあがりあぐらをかいて家城の傍らに座る。
「私は……寝てたんですか?」
 時折顔をしかめ、考え込むようにする。
「酔っぱらってたからね」
 ふと、家城の顔が赤くなった。
「その……どこまで、したんでしょうか?」
 昨夜の事を少し思い出したらしい。
 手をついて上半身を起こす。
「覚えてない?」
「その……抱き合って、出した所までは記憶がありますけど」
 なんだ、ほとんど覚えているじゃん。
「その後、オレの上で家城さん寝ちゃったんだよ。重かった」
「寝た、んですか?」
 かあっと赤みが増していく顔が面白くてまじまじと見てしまう。
 可愛いなあ、ほんと。
 酔っぱらった家城さんも面白かったのは面白かったけど、やっぱり素面の時のこういう顔の方が、結構そそられる。
「で、運べないからここで寝かせたんだ。躰、痛くないか?」
「それは大丈夫ですけど、その着替えているのは隅埜君が?」
 自分がパジャマを着ているのに気づいたのか、啓輔へ視線を移す。
「汚れてたからね。綺麗にして上だけ着せた。あのまんまじゃ、気持ち悪いだろ」
「す、すみません」
 口元に手を当て、俯く家城の躰は出ているところが全てピンクになっているようだ。
「いいさ、可愛かったもん」
 その躰を引き寄せ、頬に口付ける。
「誰が可愛いって?」
 さすがにムッと睨み付ける家城に笑いかける。
「とにかく素直じゃないあんた」
 そう言うと、家城が手を伸ばしぐいっと啓輔を押しのけた。
「シャワー浴びてきます」
 立ち上がろうとするのを引き止める。
「何です?」
「おはようのキス」
 途端に激しく動揺する家城に、啓輔は堪らず声を上げて笑いだした。
「お……おもしれっ」
 息が苦しっ!
 けらけらと腹を抱えて笑う啓輔を、家城は眉間に深い皺を寄せて睨み付けた。
「そこで笑い死んでいてください」
 きっぱりと言い切るとさっさとバスルームへと向かう家城。
「ごめ?ん」
 一応謝ってみるがどうにも止まらない笑いのせいで誠意のかけらも感じられないのが自分で判る。
 あはは。
 まじーな、これは……。
 怒らせちまった……。
 




 怒ってバスルームに行ってしまった家城のご機嫌取りをせねばと、啓輔は朝食の用意を始めた。
 時計が8時を指している。
 ほとんど寝ていない啓輔の腹は先程から空腹を訴えていた。
 昨日買っておいたウインナーを焼き卵焼きを作る。その間にコーヒーメーカーでコーヒーをつくり、パンを焼いた。
 あんまりにもおいしそうな匂いにくすぐられて、ウインナーをぽいっと口に放り込んだ。
 おいしっ。
 それだけで幸せな気分になれる。
 いつも食欲のない躰に無理矢理詰め込むようにしてとっていた朝食。なのに、今日は欲しくて堪らない。
 なんだかすっきりとしている体調に苦笑が漏れる。
 何だかんだといっても一つは問題が片づいたから、ストレスが減っている。
 今の啓輔にとって、可愛い家城を見るというのも結構なストレス解消だった。
 なんたって面白い。
 腹の底から笑うなんて、ここ最近なかったから。
 鼻歌混じりで作り上げた朝食を運ぶと、家城が出てきたところとかち合った。
「いい、タイミング。できたよ」
 テーブルに皿を並べていると、家城の顔がほころんだ。
「隅埜くんは意外にこまめですよね。よく気がつきます」
 あ、よかった。機嫌治ったかな?
「どういたしまして。さ、食べよーよ」
 まだ濡れている髪を拭いている家城に声をかける。
 水も滴るいい男。
 そんな考えが頭に浮かび、その姿にどきりと胸が跳ねる。
 どうして、こんないい男がオレを相手にするのか?オレがいいって言ってくれるのか?
 だけど、それだから嬉しいって思える。
 ざまーみろっ!
 って世の女達に叫びたくなる。
 お前らが目の色変えて追っかけたくなるようなすこぶるつきのいい男がオレのモノなんだよおっ!て。
 そんなこと考えていたら、思わず顔が緩んでしまった。
 それを家城がめざとく気づく。
「何を笑っているんです?」
「べ、別に」
 んなもん、言えるわけがない。
 啓輔は慌ててトーストにかぶりついた。
 誤魔化しているのは判っているのだろうが、家城は微かにため息をつくとコーヒーに口をつけた。
「おいしいですね」
「えへへへ」
 ほめられて、笑いが漏れる。
 なんだが、いい雰囲気。
 それにこの仮面の下の顔を昨日見てしまったから、どんな顔をしていても昨日の顔が思
浮かぶから、ついつい勘ぐりたくなる。
 こんな仮面の下で何を考えているのだろうって。
 啓輔は終始笑顔で朝食を食べていた。
 家城がうさんくさそうな視線を啓輔に向けるが、それでも何も言わなかった。
「ところで今日はどうします?」
 家城が諦めたかのように別の話題を出してきた。
「あ、うん。どうしょーか?」
 昨日は怒りにまかせてももう来ない、なんて言ったが、だからと言って用事がある訳ではない。
「……用事がないのなら、ちょっとドライブでもしませんか?」
「え?」
 珍しい家城からの提案に啓輔は目を見張った。
 口に運ぼうとしていたコーヒーを持った手が止まる。
「家にいてもすることないって言っていたでしょう?だから……」
 その言葉に昨日の事を思い出した。
 一応、気にしてくれてたんだ。
「あ、行きてー!」
 嬉しい。
 こんな事でもすっごく嬉しくなる自分が変だって思えるくらい、嬉しくてどぎまぎしている。
 啓輔は、期待に満ちた顔で家城を見つめた。
「どこがいいですか?私は……こういう時、どこにいけばいいのか、判らないですので」
「どこでも、いいけど。あっ、オレ、県北行きたい。広々としたとこ、行きたい」
 もう、ここんとこずっとせせこましいところばっかにいたような気がする。
「じゃあ、県北の方に言ってみますか?蒜山(ひるぜん)周辺の高原地帯とか?」
「いいなあ」
「じゃあ、食べたら出かける用意しましょうか?」
「あ、それとオレ、一回家に寄りたい。着替えてーもん」
 汚れなかったとは言え、結構皺だらけのシャツを指さす。
「私の服を貸してもいいんですが、ジーンズはサイズ合いませんね。いいですよ、通り道ですから」
「あんがとー!」
 啓輔の気分は最高潮だった。
 ある意味初めてのデート。
 こんな嬉しいことはないっ!

 いそいそと車に乗り込み、まずは啓輔の家に向かう。
 啓輔の家は、どちらかという会社の近くになる。だからこそバイクで通えるのだ。
 家城の家からは車だと20分位の距離。
 だがそれだけ走ると、市街から完全に外れ、田園が広がる田舎の景色になる。
 その中にある昔ながらの地域に、啓輔の家はあった。
 祖父母が建てたその家は、農家だったせいもあって母屋と長屋、という田舎の様式。
 といっても、唯一残っていた畑は、金策に困り果てた結果売ってしまった。それまでは母親が楽しげに農作業をしていた姿を覚えている。
 その長屋の2階の一室が啓輔の部屋だった。だから、夜中遅くなろうとも親は気づかない。といっても干渉すらしない親だ。
 昨夜だって、帰ってこないことすら気づいていないだろう。
 家に帰るとなるとどことなく暗くなる気分だが、今日はその後の楽しみが待っていた。そのせいか、いつもと違って心が軽い。
「広い所が好きなんですか?」
 車の中で家城が啓輔に聞いてきた。
「好きって言うわけでもないけど、なんかひろーい所ってゆったりできるじゃん。最近、街の中ばっかで過ごしていたから。蒜山なんて中学以来だなあ」
「スキーはしない?」
「最近してないから。子供の頃は連れてってくれたけど……」
 あれはいつのことだったろう。
 ふっと浮かんだ疑問を慌てて振り払う。
 家城が口を噤んでしまった。
「やだなあ、何気にしてんだよ。オレが気にしていないのに。それより、スキー、家城さんはするの?」
「ええ、そう何回もは行っていませんが。毎シーズン2?3回は。来年は一緒に行きましょう。教えますから」
「なんか、恐そうなコーチだよな。家城さんって」
 くつくつと笑っていると家城の表情も楽しそうだ。
 だが。
 その和やかな雰囲気も啓輔の家の近くまでだった。
 地区の様子が変だった。
 人が道ばたに出て、様子を窺っているのがあちらこちらで見かけられる。
「何かあったのかな?」
 啓輔の言葉に家城も黙って頷いた。
 家に近づくにつれ、外気にしていた車のエアコンからすえたような臭いが入ってくる。その臭いを啓輔は知っていた。中学の頃、近所で起きた火事でもこんな臭いがした。
 嫌な予感がした。背筋をぞくりと寒気が走る。
 視線をやった先に一筋の煙が上がっている。啓輔の家の近くまで来ると、消防団員が揃いの法被を着込んでうろうろしていた。
 頭がびしょぬれの人もいる。それが汗だけとは見えなかった。その中に見知った人がいる。啓輔の地区の消防団員達。
 近づくにつれ、上がっている煙の元が啓輔の家の場所に近づく。
「ははっ、まさか……」
 そんな筈はないと思いながら、それでも口をついて出た言葉。
 それでも、目に入ったのは完全に焼け落ちた母屋の姿だった。
 家城が一番近い道路沿いに車を止めた。赤車(消防団用の車)が家に入る道を塞いでいた。
 慌てて降りて家に駆け寄る。その啓輔を近所の人が見つけた。
「けいちゃん!みんな、けいちゃんが帰ってきた!」
 その声に聞き覚えがあった。
 がしっと掴まれた腕に、ぶら下がるように小柄な女性。
「佐山のおばちゃん……」
 子供の頃からずっと親しくしていた隣の人だった。
 随分と逢っていなかったその人は記憶の中よりさらに老けていて、しかも涙で化粧がぐしゃぐしゃだ。
「連絡取りようがなくて……帰ってくるの待ってたの!さ、早くっ!」
 ぐいっと家とは逆の方向に引っ張られる。
「どこへ」
 戸惑いも露わに問いかけると、佐山はふっと引っ張る手を止めた。
「病院よ。二人ともずいぶん前に運ばれたの……」
 その顔がくしゃっと歪む。
「行ってあげて……」
 掠れたような声に気がついた。
 煙にやられたせいとは思えなかった。
 駄目……なのか?
 ふっと焼け崩れた家の方を見やった。周りの人達の顔が一様に暗く、言葉少なに消火作業の片付けをしている。消防署の人らしい姿。警察も来ているのだろう。
 その周りでは、作業をしていない女性陣がひそひそと小声で言葉を交わす。
 その人達の声が、どこか遠くに聞こえていた。
 目の前にあるのは、まだ煙を上げている家の枠組み。
 ふと見下ろすと、びしょびしょに濡れている地面。
 家の前にあった古い柿の木の芽生えたばかりの若葉が茶色になっていた。
 昨日は、緑色だったのに……。
 ぼーっとそれを見上げる。
 火事の火にあぶられたんだ……。
 と。
 視界がすうっと狭まり、地面が波打ったように感じた。バランスを失った躰が、ぐらりと傾く。
「けいちゃん!」
 傍らにいた佐山の声すら遠くに聞こえ……。
「しっかり!」
 その言葉にはっと我に返る。
 家城の手が、倒れかけた啓輔の躰を支えていた。
「家城さん……」
 今の今まで家城がそこにいるのを忘れていた。がしっと両肩を掴み、顔を覗き込んでくる。
「病院、行きましょう」
 その言葉に啓輔はとりあえず自分がしなければならないことに気がついた。
 そうだ。
 とりあえず行かないと……あんな親でも……親なのだから……。
「おばちゃん、病院、どこの?」
「片岡病院よ。そう言っていたから」
「ありがと」
 そう言って、家城の車に乗り込む。
「落ち着いたら電話してきて」
 後から駆け寄ってきたおばさんが、電話番号を伝える。それを家城が手早く書き取った。
「長屋の方は大丈夫。倉庫に使っていたみたいだけど、一階は空けさせて貰うから……」
 その言葉に、元の姿を保ったままの長屋を見た。
 それは、両親を連れて帰る所を作らせて、と行っているのだと朧気ながらでも判った。
 いつもいつもこのおばちゃんには助けられる。
 母親も、父親も、どんなに喧嘩しようとも外面だけは保ち続けたから、近所の人達は家の内情をほとんど知らない。
 だからおばちゃんも数年前の仲の良い家族の姿しか知らないだろう。
 連絡を絶っている親戚よりも頼れるのは、近所の人達だけだった。
 そして、それだけが今は救いだった。
「ごめん。お願いします」
 そして、家城が車を出した。





 病院で会った二人は、寝ているようにしか見えなかった。赤くなっている顔も酔っぱらっているせいかなって思える。
 だが、それは一酸化炭素中毒の特徴だと医者が言った。
 二人は煙に巻かれて死んだのだ。
 だから、早くに助け出されたにも関わらず、二人はすでに息をしていなかったらしい。
 助け出すことを優先したから、火を消すのが遅くなったのだと。
 火は、仏壇の方から広がったらしい。
 昨日はおじいさんの祥月命日だったんだってね。
 付き添ってくれていた町内会長にそう言われて、そうだったのかなとしか思えない。
 家の間取りをよく知っている佐山のおじさんのお陰で二人はすぐさま運び出されたのだが、くすぶっていた煙は随分前から家の中を充満していたらしい。その重いガスが布団やこたつで酔っぱらって寝ていた二人を襲ったんだろう。
 そう言えば会社の研修で、有毒ガスの講義もあったっけ……。安全教育の一環で受けたその内容が頭に浮かぶ。
 一酸化炭素が充満した空気を数呼吸もすれば、それだけで躰が酸欠に陥って早めの手当が出来ない限り死に至る。
 佐山のおじちゃん達、よく無事だったな。
 ふっとそんな事を考えていた。
 彼らが無事で良かった。
 いっその事、運び出されずに焼けていればよかったのに。
 そうしたら、おじちゃん達がそんな危険な行為をせずに済んだのに……。
「啓輔君、警察の人が話があるって」
 その言葉に見上げると、家の周りにいた警察の人が立っていた。
 お決まりの悔やみの言葉。それにやはり決まり文句で答える。
 通り一遍の事情徴収。
 その場にいなかったから、何も答えようがなかった。
 しばらく話をしていたら、彼らもいなくなっていた。
 どこか夢の中にでもいるように現実感がない。
 病院の人が、何か言っている。
 答えられない啓輔に代わって家城と町内会長が返事をする。それがありがたいと思うし、申し訳ないと思う。
 家城さんは関係ないんだから、帰って貰った方がいいんだろうな。
 だが、それでもその言葉は言い出せなくて……。
 一人になりたくなかった。
 何かの拍子に家城がふっと啓輔の手を握ってきた。それを握り返す。
 それだけで、ほっと安心した。
 

 二人の亡骸を連れて家に帰り着くと、倉庫と化していた長屋の一階が片づいて、部屋になっていた。そこにどこからか運ばれてきた布団が2対並んでいる。
 近所のおばさん達がわいわいと賑やかに走り回っていたが、亡骸が運び込まれると途端に静かになった。皆一様にはんかちで目頭を押さえている。
 二人の顔に白い布がかけられる。
 オレ、どうすればいいんだろう。悲しい顔をしていなければいけないんだろうか。
 だが、泣きたいとかそういう感情は無かった。
 ショックはショックだった。だが、それ以上のモノはない。
 頭が考えることを拒否しているようだ。
 現実だけが自分の上に流れていく。
「可哀想に……」
 背後からそんな声が漏れ聞こえる。
 可哀想?誰が?
 それが自分のことを言っているのだと判るまでに数秒を要した。
 へえ?、オレって可哀想なのか?
 そんなことしか思えない。
「けいちゃん、葬儀屋さんが話があるって」
 佐山のおばさんに呼びかけられ、啓輔は頷いて立ち上がった。
 と言っても話ができる場所は2階の啓輔の部屋だけ。
 乱雑に放り出されていた服や雑誌を足で避けて、なんとか人が座れる空間を作った。
 町内会長が葬儀屋と話をする。世話好きなこの人にまかせていれば大丈夫だろうなっていう気がしていたから、問題はなかった。何せ、啓輔には何も判らない。葬式なんぞ、子供の頃の祖父母の記憶しかない。
「啓輔君、なんとかここから出すかい?それとも会場を借りるか、なんだが?」
 金が関わってくるところだけ、啓輔に確認が入った。
 親戚は来ないだろうし、呼びたくないと伝えると、二人は驚いたように顔を見合わせた。
 たぶんそんなことは知らなかったのだろう町内会長に、数年前の出来事を伝える。
「そうだったのか。あんなに奥さんが大事にしていた畑を売ってしまったのだから、何かあったのだろうとは思ったのだが、二人の雰囲気が変わらなかったからかな。そんな事になっていたとは知らなかったよ」
「そんなに大事にしていたんですか?」
 知らなかった事実。そういえば、畑に出る母親は楽しそうだった。あの頃の母親の姿には最近の鬼の姿など微塵も想像できない。
「あそこはね、君のおじいさん、おばあさんが大事にしていたんだよ。昔ながらの君の家の土地だったから。なんでもご先祖が最初に手に入れた土地だから、いろいろな事情で田んぼを手放すことがあってもあそこだけは手放さなかった。それを奥さんはよく聞いていたから、だから大事にしていたよ。君も小さな頃はよく手伝っていたっけ」
 町内の生き字引き状態の会長の言葉は懐かしげで、啓輔の口元が僅かに上がった。
 そういえば、あの頃の会長さんはすでにこんなに年寄りだった。今はさらに深く皺が入っているが、それでも老人には代わらない。
 それにしても。
 大事にしていた土地。それを売らざるを得なかった苦悩。
 親父はそんな自分を責めていたのだろうか?
 確かに両親とも割と古い物を大事にしていた。物が捨てられない性格。
 あれ以来、家に帰ると酒を煽るように飲み干していた。
 だけどさ、土地は土地じゃん。そんなことで、あんなにも荒れたのか?
 そんなことで……あんた達は鬼になってしまったのか?
 オレを無視してしまうほどに……。オレが何をしても関心を持たなくなってしまう程に?
「それなら、うちの会館を利用しましょう。やはりここでは狭すぎますし。今日はここで通夜ですが、明日昼頃運びましょう。明日は友引ですので、葬式は火曜日になります。出棺は、11時頃。坊さんの連絡は済んでいますからね、問題ないですよ」
 どっしりとしたタイプの葬儀屋の人が、柔らかく微笑む。
 それが啓輔を安心させた。
 この人はプロなのだから、任せておけばいいような気がした。それに、ひどく安心させてくれる。
「お願いします」
 そういうと、彼は「こちらこそお願いします」と、頭を下げた。
 葬儀屋が帰るのと入れ替わりのように佐山のおばさんが入ってきた。
「けいちゃん、これ」
 佐山のおばさんが、四角い木箱を渡してきた。30cm角の桐の小箪笥。
「これ……」
 覚えがあった。
「うちの人に取ってきて貰ったの。消防署の人に立ち会って貰ったけど、大事な物だからって頼んでね。私、奥さんがこれに通帳とか大事なモノを入れていたの知っていたから」
 佐山さんが遠い目をして、啓輔が抱えた小箪笥を見つめる。
 昔から家に出入りしていたこの人を、母親は信用していた。それこそ、親戚なんかより。だからきっと、訪ねてきたおばちゃんの前で、この小箪笥を開けていたとしても不思議はなかった。
「それでね、明日一番に銀行にいって当座の金をおろしていらっしゃい」
「何で?」
 言われた意味が判らなくて首を捻る。
「口座名義の人が亡くなったのが判ったら、銀行はその口座を引き出せなくするの。正式な書類が揃わない限りね。でもそれだとけいちゃん困るでしょ。まだ働き始めたばかりだから、そんなにお金無いでしょ。葬式って何かとお金かかるから。香典が集まれば良いんだけど、その前にもね。だから、必要な分は明日朝一番におろしていらっしゃい。その間の留守番はしてあげるから、ね」
 言われて引き出しを開ける。
 桐の表面は多少焦げていたが、中は無事のようだ。
 この小箪笥は書棚の中に入っていたから、二重の意味で火事から免れたのだろう。
 数冊の通帳に、印鑑。
 定期の証書。
 知らなかった。おろせなくなるなんて。
 オレ、何も知らない。
「ありがと。おばちゃん」
 だから、お礼を言う。


 一段落がついて階下に降りた啓輔は、家城が蝋燭を立てているのを見て取って、唇を噛み締めた。
 両親が寝ている部屋で蝋燭と線香の番をしてくれていたのだと気が付いた。線香の火を絶やしてはいけないのだと言うことは、啓輔でも知っている。もう夕方になっていて、薄闇が迫ってきていた。
「家城さん、すみませんでした」
 慌てて駆け寄り、頭を下げる。
「いいんですよ。大変なのは隅埜くんの方ですし」
「でも、オレ、ばたばたしてて家城さんを放っていたし」
「大丈夫です。佐山さん、でしたっけ?あの方を筆頭に、いろいろな方が何くれとしてくれましたし、あなたの会社での様子などを聞きに来るので、あっという間に時間が過ぎていました。お昼も頂きましたし。隅埜くんこそ食べていないのではありませんか?」
 心配そうな家城の言葉だが、啓輔はその前の言葉が気にかかった。
「おばちゃん達、オレの何を聞きに来たって?」
「最近、逢っていないけど元気なのか?を筆頭に、仕事ぶりや、彼女の存在など……いろいろと」
 辺りを気遣ってか、口元を手で隠しながらくすりと笑われ、啓輔はう?と唸る。
「けいちゃん、こちらの家城さんって人から聞いたわよ。がんばってるんだってね」
 新しい茶を家城の前に置く佐山のおばさんは、まだ赤い目をしていたけれど、化粧がばっちりと直っていた。ふと気がつくと、手伝いに来てくれているおばさんたちが、きらきらと目を輝かせて、皆家城を見ているような気がする。
「昔っから、けいちゃんは頑張りやさんだっものねえ。奥さんの自慢だったのよ。ついこの前も、無事就職できたって、ひどく喜んでいて……最近塞いでいることが多かったから、良かったねえって、言い合っていたのに……」
 思い出したら感極まってきたのか、慌てて目尻を押さえながら立ち去ってしまった。
 だが、啓輔はそれどころではなかった。
 喜んでいた?
 そんなの知らない。
 入社式に出る準備も事前研修に着ていくスーツの準備も自分でした。さすがに金は出してくれたが、それだけだ。
 喜んだ姿など見ていない。
 いや、聞こえていなかったのか?
 オレは、ずっと二人の言葉を聞いていなかったから……。
「けいちゃん。おばさん達、今日は帰るわね。二階にお弁当置いておくから」
 その言葉に慌てて立ち上がり、帰りつつある近所の人達を見送る。
「それと必要な物は遠慮なく言ってきて。水道やトイレも外の自由に使ってよ」
 あ、ああ、そうか……ばたばたしていて頭が回らなかったが、そういうものは全て母屋にあった。
 隣の佐山の家は啓輔の家より大きく、農作業用の水道や土足で入れるトイレが外に備え付けてあった。
「ありがとう、おばちゃん」
「ほんとにねえ、せっかくけいちゃんが独り立ちできてほっとしていただろうにねえ……」
 こみ上げてくる思いを押し殺すように、くっと顔を歪め佐山のおばさんは帰っていった。 
 判らない。
 佐山のおばちゃんの言うことが。
 あの母親がほっとしている姿など見ていない。
 でも、おばちゃんが嘘をつくはずがない。そんなにも外面が良かったのだろうか、あの母親は。
 だが……もし、おばちゃんの言うとおりだったとして……そんな……こと、知りたくない。
 じゃあ、今までオレが味わっていた思いは何なんだ?
 母親の横にぺたんと座り、その姿を見つめる。
 聞いていない。
 喜んだ?
 嘘だろ……。
 ぐるぐると頭の中に巡る思い。
 気がつけばいつだって、酔っぱらっている父親の姿。それに愚痴をこぼし、オレに当たる母親。
 それが次第にひどくなっていって……。
 そのはけ口が暴力になったのはいつだろう。決してきつい物ではなかったけれど……それでも、オレにとっては十分ショックだった。
「隅埜くん、食べてください」
 気がつくと、家城が啓輔の前に弁当とお茶のペットボトルを差し出していた。
「食欲ない……」
「食べないと持ちませんから……一緒に食べましょう」
 家城の言葉が優しくて……。
「家城さん……っ」
 啓輔は家城に縋り付くようにその胸に顔を埋めた。その固く瞑った目から溢れるのは涙。噛み締めた口から堪えようもなく嗚咽が漏れる。
 そんな啓輔を家城の腕がきつく抱き締める。
「泣きたいときには泣いてください。でないと、胸が苦しくなるでしょう」
 家城の腕の中は暖かい。それが啓輔の頑ななまでに凝り固まった心を溶きほぐす。
 あんなんでも。
 鬼だと思っていたけれど……それでも、3年前まではオレ達は親子だった。
 こんな事になって、思い出すのはその頃のことばかり。
 白い布の下の顔は、3年前より年の分だけ老けていて……もう鬼の顔じゃなかった。
「かあさん……とうさん……」
 どうして、こんなことになったのだろう。
 どうして……。
 涙は留まることを知らないように流れ続けた。


 泣き疲れたのと昨夜の徹夜がたたったのか。
 気が付いたら、夜明けも間近。窓の外が白々としてきていた。
 なんてこった……。
 慌てて辺りを見渡すと、掛けられた布団の反対側に家城が座っていた。その膝に布団をかけ、壁に背をつけている。優しげな目が啓輔に向けられていた。
「家城さん……」
「おはようございます。よく眠れました?」。
「オレ……ごめん……」
「昨日寝てなかったんですね。それは私のせいですから、いいんですよ」
 それは、まあ、そうなんだけど……。すうっと熱が顔に集まる。
「でも、オレこんな時に……」
 ちらりと寝かされている二人を見やる。
 常識的にも、オレが起きていなきゃ行けなかった。
 常識……オレがこんな事を考えるなんて思っても見なかったけど、口うるさい家城に感化されたのか……そーゆーこと、考えてしまう。
 啓輔は、強ばった躰を伸ばし、両親の横に座った。
 高校の三年間のオレは異常だったんだよな。
 そして、あんた達も。
 オレはこの人に助けて貰った。助けて貰ったから、あんな羽目を外すようなことは二度としたくないって思う。
 だけど、あんた達は、誰にも助けられずに逝ってしまったんだ……。
「こんな二人でも、オレの親だから、オレが付いていなきゃいけなかったんだ」
 ぽつり呟く。その肩を近寄った家城が手を置いた。
「こんな時だからこそ、寝ていた方が良いんです。それに通夜は今日が本番です。もう1日あるんですよ」
「そうだけど、オレ、図太いのかな?熟睡するなんて……」
 こうして見ると、結局この二人を憎み切れていなかったのだと今更ながら気付かされる。
 オレは、好きだったんだよ、あんた達が。
 それなのに熟睡できる自分の図太さに呆れる。
「昨日の今日でしょ。昨日、きちんと寝ていたら、たぶん寝られなかったと思いますよ。それに、精神に受けたショックって言うのはね、後から来ます……だから、今寝られるのなら、寝ていた方がいいんです」
 家城の言葉が真実みを持って啓輔の心に染みこむ。
「隅埜くんがきちんと送り出すこと二人にとって供養になりますよ。だから、躰に気をつけないとね」
「そうかな?」
「そうですよ」
 不審がる啓輔に家城はくすりと笑いかけると、啓輔をその胸に抱きこんだ。
「あ、ちょっと!」
 かあっと躰が熱くなる。
 見えていないはずなのに、両親の前だと言うことが余計に羞恥を煽る。
 オレ、何考えているんだろ。もう死んでしまっているのに。
 どうしてだろう。
 本当に、頭の中にあるのは仲良かった頃の両親の姿。
 その二人が、啓輔に向かって しょうがないなって苦笑を浮かべて見ている。
 それが嬉しくて、でも悲しい。
 それでも、ようやく悲しいって思えることが嬉しい。
 このまま憎まなくてもよくなったことが嬉しい。
 オレ達はやっと親子に戻れたんだ。
 だって、この二人の顔が鬼ではない。
 脳裏に浮かぶ声が不快な音ではない。
 昨日泣いたときに、嫌だった記憶が全部流れてしまったような気がする。
「昨日たっぷり泣いたから今日は大丈夫だとは思いますけど、それでも今日出来るだけ早く会場の方に行きますから、それまで頑張ってください。ほんとならずっと付いていたけど」
 本当に、家城さんのお陰だ。
 泣かせてくれた。彼がいるから、泣くことができた。
 家城に心配されるのが何でこんなにも心地よいのか。
 すごくほっとする。
 でも。
「なんか、すっげー素直な言葉聞いた。いっつもこんなんだったら嬉しいのに」
 自分が素直じゃないって判るけど、恥ずかしくて礼を言えない。
「……あなたって人は。こういう時でも私をからかうんですね」
「別にからかっている訳じゃねーけど……」
 家城を押しのけながら、答える。
 このまま抱かれていたら、何だか変な気分になってきた。それはマズイと思うから。
「もう、だいじょーぶ」
 だって、あんたがいるもん。
 今日一日位、がんばれる。
「だいじょーぶだってさ。これでも、オレ、たいていのこと経験したから、こんなことで負けやしない。……二人が、鬼に見えたときのショックの方がよっぽど酷かった。だから、こんな事、何でもない。だって、鬼でなくなってくれたんだから。それに今は家城さんがオレを見てくれている」
 だから、寂しくない。
 すると家城が困ったように口の端を歪めた。
「何?」
「不謹慎、ですよね。でも……」
 そういうと、すっと家城の顔が近づいてきた。唇に乾いた柔らかな家城の唇が触れる。触れた途端に離れたそれを啓輔は名残惜しげに見つめた。
「もっと」
「駄目ですよ」
 冷たく拒絶する家城の顔が、朱に染まっている。
「え?」
 むすっとして上目遣いに睨むと、家城は微かに息を吐き出すと、もう一度だけ啄むように口付けた。
 う?、もっともっと熱いの欲しい……。
 あ、でも、そういえば初めてだ。
 彼の方から、してくれたのは。
「……会社、行きますね」
 そう行って立ち上がった家城はすでに元の仮面を被ったような表情。それを見た啓輔はなんても言えず嬉しくて目を細めた。
 仕事モードに入った家城。それも格好いーって思う。
「服部君や総務には連絡しておきますからね。会社の方は気にしないでください」
「ありがとう」
 だから、その唇を掠め取る。
 途端に赤くなった家城。恥ずかしそうに口元を隠しながら出ていく家城に啓輔は手を振って別れた。


 一人取り残された部屋。一気に室温が下がったような気がする。
 先ほどまで脳裏に占めていた幸せな気分は急速に冷えていった。
 家城がいなくなった途端、啓輔の表情から感情が失せた。
 別にそうしようと思ったわけではない。勝手に躰と心がそうなった。
 だが、勝手に沸いて出た食欲には逆らえなかったけれど。
 葬儀屋が来て、佐山のおばさんがきて、おじさんがきて……町内会長がきて……。
 その全てを淡々とこなす。
 余分におろしてきた金は、とりあえず何があろうと処理できるだろう。
 昼過ぎには、貴重品と借りた喪服、細々した物を持って葬儀屋の会館に移動した。その時には、二人は白木の棺に入っていた。
 着いてしまえば、もうすることはなかった。
 通夜になれば人が来るだろうけど、家から離れてしまうと近所の人もすぐには来れない。だから、啓輔はただ、線香と蝋燭の番をしていた。時折、葬儀屋が細かい事柄を確認しに来、それに応える。その他には何も考えることは無い。
 取り戻したと思っていた感情は、家城がいたせいだったのだろうか?
 悲しみも何もかもが消え去ったようだ。
 それを何かの拍子に葬儀屋の人にぽつりと漏らした。
 何か、泣けないね……。
 すると彼は、優しく言う。
「今はまだいいんです。気が張っていますから。だから泣けない人だっていますよ。それはそれで正常な反応です」
 すべきことだけをこなしている今が……それでも正しいのだろうか?
 でもこの人がそういうのなら、そうなのだろう。
 オレなんかよりはるかに多くその場を見てきているのだから。
 啓輔は、ふっと肩の力を抜いた。
 いろいろと考えなきゃ行けないことはある。
 でも今は、葬式のことだけ考えよう。
 それが正しいと言ってくれる人がいるのだから。

 その晩、通夜の客が帰った後に家城がやってきた。
 その手に喪服を持っている。
 それに。
「緑山さん……服部さん……」
 茫然と呟く。
「明日来れないから、今日だけでもね」
「隅埜くん、大変だったね」
「すみません、わざわざ」
 そう言いながら、家城をじろっと睨む。
 服部さんはともかく……なんで緑山さんまで。
 だが、家城の顔に浮かぶ隈に言葉を飲みこむ。
「2時頃に交替ね」
 緑山がくすりと笑って手を振った。
「じゃあ、お願いしますね」
 家城が啓輔の手を引っ張って休憩室に向かう。
「え?」
 訳も分からずに家城に引っ張られていく。祭壇の前に、緑山と服部が残っているというのに。
 どういうこと?
 引っ張り込まれた休憩室で、家城は啓輔を抱き締めた。
「すみません、一人にして?」
 珍しく積極的な家城に戸惑いが隠せない。
「あ、何で?」
「気になって……」
 きつく抱き締められると、ふっと無くなっていた感情が戻ってくる。
 じんわりと込み上げる熱い想い。
「でも、あの二人は?」
「今日の通夜の番、隅埜くん一人では辛いでしょう。だから相談したら、来てくれたんです。夜中で交替して、寝て貰いますけど」
「でも、緑山さんが何で?」
 オレ、緑山さんにそんな事して貰ういわれはない。それは服部さんもそうだけど。
「緑山くんは自分から行くって言ってくれましたよ。通夜番はきついからって。彼も前に二日間の通夜番という経験があって、葬式当日倒れそうになったって言ってましたから」
「それでも……」
 彼には、悪いことしかしていない。
「彼は、優しいですよ。彼が気にしないって言っているのだから、隅埜くんも忘れることですよ。その方が彼のためになります」
「それでも……」
 今となっては、本当になんであんな事をしてしまったのだろうとしか思えない。
 忘れたいけれど、忘れられない。
「忘れることができないなら、割り切ってあげてください。未だに彼を見るあなたの目は、辛そうです。それは緑山君自身も気付いているようで、どうにかしたいと、言っていましたよ」
 そんな……。
 オレが後悔し続けると緑山さんが困るのか?
 それは嫌だ。
「判った……」
「だから、今日の好意も素直に受けることです」
「判った。判ったから離してくれよ。オレ、あんた襲いたくなるから」
 感情が戻ってきたら、性欲まで戻ってきてしまった。
 その温もりに先日の一件を思い出し、下半身に甘い疼きが走る。
「また、そういう事を言うんですねえ」
 家城は困ったようにため息をつくと、啓輔を腕から離した。
「今日は、食事したんですか?」
「ああ、弁当食べた。っていうか、食べざるを得ない状況でさ。佐山のおばちゃんに見張られちゃって」
「あの方はいい人ですよ。昔ながらの世話好きな方ですよね。あなたの事本当に心配してくれている。良かったですね、そういう人が隣にいて」
「うん……あのおばちゃんには助けられた」
 ほんとうにあの人には。
 家城ががらりと押入のふすまを開けた。
「さあ、少し早いですけど、もう寝ましょうね。夜中には交替ですよ」
 その寝るという言葉に、反応してしまうのは何故?
 どきどきと早くなった心臓に啓輔が困ったように苦笑を浮かべる。
 オレってばか?
「隅埜くん……。何か変な事考えていません?顔がにやけていますけど」
 すかさず家城につっこまれた。
「な?んも、考えてませ?ん」
 慌てて、布団を敷く。
 少しだけ離して。出ないと、家城の布団に潜り込んでいきそうだ。
「しょーがないですね、ほんとに」
 家城がその口元に苦笑を浮かべる。
 ほんま、しょーがねーわ、オレって……。





 葬式って……ほんとうに、言われるがままにしていれば終わるんだ……。
 気が付いたら、斎場から戻ってきて新たに家で組まれていた祭壇に骨壺を置いた。
 最後には喧嘩ばかりしていたけど、もうこんなのになったら、喧嘩も出来ないよな。
 準備が終わったら、初七日の法要も一緒にして、公民館で食事をして……その場で礼を言って……。
 斎場までは葬儀屋が取り仕切って、それ以降は佐山のおばさんが取り仕切った。だから、啓輔はほとんど言われるがままに動いた。
 ……やっと終わり。
 ぐったりと自分のベッドに転がると、家城が傍らに座り込んだ。
「お疲れさま」
 家城の手が背中をぽんぽんと叩く。
 それが気持ちよくて、うっとりと枕に顔を埋めていた。
「葬式って疲れるんだな……」
「そうですね。でも、残念ながらやることはまだたっぷりありますよ」
「えっ?」
 ぴくりと顔を上げる。
 まだ、あんのか?
「法事については、佐山さんによく聞いてくださいね。それと、電気や水道なんかの名義変更。たぶん、生命保険の申請……たぶん、これらも佐山さんに聞くのが隅埜くんには一番良いかも知れないですね。とにかく、よく相談することです。まあ何か失敗しても、いきなりの事だからと多少は多めに見て貰えるでしょうけど、ね」
「う?」
 ばたんと顔を枕に落とす。
 そりゃあまあ、判っているけど……。
「家城さんって、いじめっ子……」
 今はそんな事考えたくないよ……。
 そんな啓輔の頭を家城がそっと撫でる。
「意地悪ですよ、私は」
 くすりと笑うその気配に、啓輔は仕方なく、という風に起きあがった。
 ベッドの上で胡座を組み、手を躰の後ろについて家城を見つめる。
「今は、ゆっくり休みたいんだけど。だから、他の事は考えたくない」
 ムスッとして睨むと、家城はその口元に浮かべた苦笑を消した。
「……」
 何かその口元が言葉をかたどった。
「何?」
 きょとんとしている啓輔に家城がその手を伸ばす。
「私は、意地悪なんでしょうね。いや、卑怯っていう方があっているかも知れませんね」
 家城が啓輔から視線を逸らして、呟く。
「は?」
「疲れ切ってショックを受けているあなたを愛したいと思ってしまう。今がいい機会だと思ってしまう」
「は、あああ?」
「ほんとに……」
 ふわっと家城の胸に抱き締められる。
「愛してますから……」
 耳元で囁かれ、甘い疼きが全身に広がる。
 だが。
 ちょっ、ちょっと待て?ぇ!その口から漂う匂いは!
「家城さん、酒飲んだっ?」
「先ほど、片付けている時に佐山さんから残っているからってコップいっぱいの日本酒を渡されて……飲みました」
 ひ、え?!
 半徹夜明けでそんなもん飲むな!
 つうか、おばちゃん達、何すんだよ?。
「ね、隅埜くん、もう誰もいませんから……」
「んな事言ったって……」
 どうしよう。
 嫌じゃないって思っている自分が怖い。
 あ、でも、駄目っ!
「あ、あのさ、今日はオレ疲れているし……その葬式、終わったばっかだし……やっぱ、駄目!」
「我慢できない……」
 我慢できないじゃないっ!
 だが、抗議の声は家城の口に飲みこまれた。頭を抱えられ、きつく深く唇を吸われる。
「んっ……」
 舌を絡められ、流し込まれた唾液をごくりと飲みこんでしまう。
 家城の舌が歯列を辿り、口腔の上顎をなぞられるとびくんと躰が痙攣した。
 マズイ……。
 家城のキスが気持ちいい。
 手が所在なげに動き、家城の背を掴む。
「今日は……止まらない……」
 僅かに離れた唇が言葉を紡ぎ出すと、すうっと移動し耳朶を甘噛みされた。耳をくすぐられぞくぞくと背筋に疼きが走った。
「あ……っ」
 漏れた声が自分の声とは思えないほど甘ったるくて、それに顔が熱くなる。
「い、え……きさん」
 おずおずと窺うと、家城が顔を離して啓輔の顔を覗き込んできた。
「何?」
 目前でにこりと笑われ、言葉を失う。
 動きの止まった啓輔を家城はぐいっとベッドに倒して張り付けた。
「あ、あの……」
「愛しています」
 首筋に落とされた口付け。
 ぱあっと広がる疼きにくっと目を固く瞑る。
 どーしよー!
 やべー!
 ぼんやりとした頭でなんとかしようと考える。だが、間断なく襲ってくる疼きがその思考を邪魔にする。
 もともと緩めていたワイシャツをさらにボタンを外して広げられた。
「ここ、あの時のキスマーク」
 その言葉にかあっと躰が熱くなる。この前の時の事が脳裏にまざまざと甦る。途端にざわざわと躰が期待するかのように疼く。そのもどかしさが堪えられない。
 すっと家城の躰が離れた。
 二人の躰の間にヒンヤリとした空気が入り込む。ぶるっと身震いして、慌てて家城の腕に寄り縋った。
「今日は、随分と大人しい」
 揶揄されるように言われて、かっと頭に血が昇った。
「家城さんこそっ!何で今日に限ってそんなに積極的なんだよ!」
「今日に限って?私はいつだって自分に正直ですよ」
 くつくつと喉を震わせる家城。
「何言っているんだよ、うくっ」
 いきなり服の上から股間を軽く握られ、息が止まる。しかめた顔から薄目を開けて家城を睨む。
「いつだって……ただ、それ以上に抑える感情があるだけ。ずっとしたかったってこの前も言いませんでしたっけ。私にとってアルコールはそれを外す方法。先ほど、日本酒を渡されたとき、酔ってしまうことを承知で私は飲んだんですよ。それが私をどうするか判っていて……前例がありますし……ね、こんな正直な行為はないでしょう?」
 判って、飲んだ?
 そう言えば、飲むときは素面なんだから、それをしてはいけないと思っていたら飲めないはずだ。
「それに、飲まずにすると私の方が受けになりそうですものね」
 くすりと浮かぶその顔が悪魔に見えた。
 薄ら笑いを浮かべ、自分の悪巧みが成功していると喜んでいる悪魔の顔。
 家城の手が、さわさわと肌の上を撫で上げる。そこから来るのは、嫌悪ではない。ただ、もどかしい程の弱々しい疼きが全身へと広がる。
「……あぁ……」
 それでも声が漏れる。
 びくりと震える躰が、家城の重みで押さえつけられる。
 絡め取られた指がきつく握りしめられた。
「泣いているあなたが可愛かった。その場でそのまま押し倒してしまいたいほどに……私は、必死でそれを堪えていた。私は……もう我慢できなくなった……」
 言葉が胸のすぐ上で紡ぎだされる。吐息がくすぐるように胸の突起を掠めていく。
「やめ……」
 絡めた指に力が入る。
 家城を押しのけようとする動きは無駄な足掻きにしかならなかった。力が入らないのだ。
 一気に昂ぶってしまった躰が前の事をまだ覚えているせいなのか。次の刺激を期待している啓輔がいた。
「あ……やあ……んくっ」
 さわっと脇腹のラインを撫で下ろされ、びくんと腰が跳ねる。
 しっかりと押さえつけられたせいで思うように動けない。逃げられない……。
「はな……して……」
 それは懇願にしか聞こえなかった。
 言ってしまって、くっと唇を噛み締める。それがあまりにも甘い言葉にしか聞こえなかった。拒絶しているのに誘っているようで……。
「嫌です」
 しかも家城がきっぱりと拒絶する。その笑みを含んだ声が、啓輔の心を不快にさせるのだが、それも躰に与えられる性技にあっという間に飛散する。
「あ、ぁ……うぅぅ……」
 スラックスの中に侵入した手が、太股をさわさわと撫でる。
 胸に触れる舌が、赤く充血して敏感になった突起をつつく。絡め取られ、吸い付かれると、じわぁっと疼きが飛散する。
 手が家城の手を止めようと動くが、それは制止することなど出来そうにない力でしかなかった。
 だ、駄目……。
 逆らえない……。
 その手がすっと下着の上から撫で上げられると、びりりとさらに激しい疼きが脳髄まで一気に駆け上がった。
「くうっ!」
 びくんと腰が跳ねる。だが、すぐさまぐいっと押しつけられた。
「い、えきさん……」
 口を開けば、喘ぐような声しか出ない。何か言おうとしても、それは甘い戯れ言にしかならない。何をしてもそれは家城を煽る。それに気付いてしまったから、啓輔はくっと唇を噛み締めた。
 このまま、されてしまう……のか……。
 それはそれでいいかも知れない……。
 固く瞑った目尻から、涙が溢れる。
 悔しくて、気持ちよくて、きつい疼きに堪えられなくて……溢れる涙が、こめかみへと流れていく。
「くう……ううっ」
 堪えられない
 もう……逆らうことに。
 弱っていた精神が、家城に抱かれることを望んでいる。
 それに気付いた。自分の躰がそれを望んでいる。
 それは、とてつもなく悔しいことだっだけど、それを凌駕する想いがある。包み込まれた躰が、その温もりをもって感じたいと願っている。
 逆らうことが苦痛でしかならなくなった頃、啓輔は理性を手放した。
「もう……どうでもいい、よ」
 避けようとしていた手も、背けていた顔も、力を込めていた躰からも力を抜く。
「隅埜くん?」
 家城の声が遠くに聞こえる。
 涙で霞んだ視界の先で、家城が覗き込む。
 それに手を伸ばす。
「あんたといたいから……」
 掠れた声しか出ないけど、精一杯の声を出す。伸ばした手で家城の頭をかき抱く。
 弱々しくでしか力を込められなかったけれど、それでも家城の顔は啓輔に引き寄せられ、啓輔はその唇に吸い付いた。
 軽く、そして深く。
 ふっと家城の表情が和らぐ。
 家城の手が啓輔の躰を強く抱き締めた。
 包まれた温もりに流されたのだと、この人の優しさに流されたのだと……いろいろな言い訳がそれでも駆けめぐる。だけど、それでも……。
「愛しています、隅埜くん……だから、いつも私を感じてください。弱っているあなたに付け入っているこんな卑怯な私でも……許してください。私には、これしか思いつかなかった……」
 何を言っているんだろう。
 焦点の合わない視線を必死で、家城に合わせようとする。その先にいる家城の表情がひどく辛そうで、胸にずきんと痛みが走った。
 何で?そんな顔?
 家城の手が下ろされ、啓輔のモノを柔らかく包み込んだ。
「あっ……」
 びくびくと自分が震えているのが判る。むくむくと屹立する自身をさらに扱かれ、啓輔は堪えられないように頭を左右に振る。先ほどまでの家城の不審な言葉は記憶から消え去った。
「いやあ……」
 自分がどんなに甘い声を出しているか、既に啓輔の耳には聞こえていなかった。
 だが、確実にその言葉は家城を煽っていて、家城はその胸に顔を埋め、舌で敏感な所を選ぶようにつついていく。
「あふっ……そこ……や」
 くびれた部分を指の腹で擦られる。先端から溢れ出した液が家城の手をしとどに濡らしていた。だから、扱く動作もスムーズで、さらに啓輔を駆り立てる。
「ふうっ……あんっ……あぁ」
 緩急をつけて握られ、5本の指を全て使われて先端を擦られる。
 男のイイ所を知り尽くしている同性の相手だからこそ、啓輔は呆気なく爆発寸前まで昇りつめさせられる。
「あ……もうっ、だめっ!」
 制止しようとする間もなく、弾けてしまう。
 びくびくと全身が震える。
 張りつめたモノが一気に解放され、全身を襲う気怠さ。そして、意識も徐々に現実を認識する。
 はあはあと荒く呼吸を繰り返す。
「あ、い、えき……さん」
 息を整えようとごくりと唾を飲みこみ、そして霞んだ視界の中から家城の顔を探し出す。
 視線の先に見つけだした家城が、その口の両端をすうっと上げた。
「良かった?」
 その言葉にかあっと全身が火を噴く。
「そんなこと!」
 言える訳無い。
 しかも、この前より、良かった、なんて……。
 顔をしかめ、それでも家城から逃れようと身を捩る。と、くるっと躰を裏返された。
 その上にずしりと家城が覆い被さる。
「ちょっ、ちょっと!」
 慌てて背後の家城に振り向くと、家城が背筋にすうっと舌を這わせた。
「あっ、ひい……っ」
 その刺激に思わず仰け反る。その背筋のラインに家城はさらに舌でなぞった。
「はっ……ああ」
 押さえつけられ動きようがない。背後にいる家城に手を出しようが無くて……。
 そして、尻に当たる固いモノ。
 そのはっきりとした形に気付き、びくんと悪寒にも似た震えが走った。
 やっぱ、やだ……。
 だが、家城は啓輔を逃さなかった。
 尾てい骨から尻の割れ目に沿って、家城の指がそっと入ってきた。
 未知の体験に躰が竦む。
「止めっ!」
「止めませんよ、今日は……」
 んな事言っても!
「や、っぱ、やめよーよ」
 情けないとは思うけど、心の中から沸き起こる恐怖。
 流されていたときには思わなかった。
「ひゃっ」
 つんとつつかれたそこは、今まで他人が触れたことのない所。
 出したモノでたっぷりと濡らされ、ゆっくりとじっくりと揉みほぐすように指がそこを動く。
「うっ、わああぁ」
 ぞくぞくと走る疼きは甘くなく何とも言えない違和感で、啓輔はシーツを掴み枕に頭をこすりつけていた。
 その指がぬるっと入り込んだ途端、その異物感にびくっと躰が跳ねる。
「あ、あああ」
 やめろ……。
 漏れる声が悲鳴でしかあり得ないと家城は気付いている。その口元がくっと引き締められて眉間には皺が刻まれている。
 だが、その指の動きが止まることはなかった。
 それでも、深く埋められた指が内側の一点に到達したとき、啓輔の躰は大きく仰け反った。
「な、何!」
 驚きに見開かれたのは、それだけで躰を駆けめぐった疼きのせいだ。
「家っ……うあっ……ああっ」
 執拗にそこを嬲られ、啓輔は呆気なく達ってしまう。
 肩で息をし、茫然とベッドに突っ伏す啓輔の意識は半端朦朧としていた。
「まだ、ですよ……」
 その言葉がどこか冷たくて、でも熱く感じる。
 一体、家城が何を考えているのか……、振り向いてその顔を見ようとしたら、唇を奪われた。
 絡まる舌に気を取られていると、躰の中で暴れる指が増えていたことに気付くのが遅れた。
 ぐいっと広げるように指を動かされ、躰が跳ねる。
「う……うう……」
 はぎ取るように取り払われたスラックスと下着。その時になって、家城がまだ服を着ていることに気がついた。
 だがそんな事を考えられたのも僅かの時だった。
「あっ」
 指を一気に引き抜かれる感触に、ぞくりと背筋に寒気のような震えが走る。ぐいっと腰を引き上げられ、緩んだそこに太いモノがあてがわれた。
「あっ!」
 それが何か判ったと同時に、引き裂かれるような痛みがそこに走る。
「はあっ!」
 あまりの痛みに最初の叫びから息が吐けない。
 ぶるぶると震える躰から血の気が引いていく。
 それでも家城のモノが体内に割り入れるように入ってくる。
「隅埜くん、息を吐いて……力を抜いて」
 んな事言ったって!
 痛い!
 痛い、痛い、痛いっ!!
 自分の躰が自分のものじゃないようにコントロールが効かない。
 息すら自分の意志でできない。
 ぎりりと音が出るほど噛み締めた歯の音が直接頭に響く。
 一向に緩まない躰の強ばりに、さすがに家城の動きが止まった。
 広げられた痛みはまだあるが、広げられる痛みが止まったから痛みが軽くなったような気がした。
 少しずつ、息を吐いて見る。  
 繋がった部分の力を意識して抜く。と。
「ひいっ!」
 啓輔の躰が力を抜けたタイミングを図っていたかのように、家城が一気に押し入った。
 仰け反り逃れようとする躰を家城が抱き締める。
「すまない……でも、入ったよ……」
 溢れた涙がぽたぽたとシーツに染みを作る。
 見上げれば、家城がその涙を指で掬い取っていた。
「泣かしたくはなかった。だけど、今日だけは、私が抱きたかった」
 耳元で囁かれる言葉は静かで、まるで言い聞かせるよう。
 家城さん……。
「判っていたんだ……隅埜くんが、そうでないことは最初から。この前、お互いに告白する前からずっと。あの日、抱き合って、うやむやに終わったときも……あのまま続けることが出来なかったのは、私の方。だから、きっと眠気が襲ってきたのを幸いに寝てしまったんだろうって……思えるから……。でも、それでも、今日だけは抱きたかった」
 何を言っているんだろう。
 皮肉なことに痛みが啓輔の霞んでいた思考をはっきりとさせていた。
 ただ判るのは、その口調が砕けていること。そして、それが家城の偽らざる本音なんだと言うこと……。
「言ったよね、精神に受けたショックは後から来るって。私は、明日から出張なんだ。本当は今日出発だったけど、無理を言って延ばして貰った。だけどこれ以上は無理だから、明日朝一の飛行機に乗るから、今日はこの後帰らなきゃいけない」
 躰の中にある確かな質感を感じながら、薄れていく痛み。そんな中でも家城の言葉は理解できた。
「オレのせいで無理させてる……」
「そんな事は良いんだ。だけど、たぶん君が一番辛くなる時期に一緒にいて上げられない。それの方が私には辛い。だから」
 家城の躰がぐいっと動いた。
「んくっ」
 ずくんと内壁を押しつけられ、息を飲む。
 引き攣れるような痛みに喰い張られた口元を、家城が指でなぞった。
「痛いだろうね。でも、それでも抱きたかった。覚えていて欲しいから、どんなに辛くなっても、私がいると言うことを……だから、どうしても躰を繋ぎたいと思った」
 体内のモノを半ばまで抜かれ、ぐいっと差し込まれる。
 と、あの一点を突かれたのか、全身に激しい疼きが走った。
「あっ、あぁぁ!」
 痛みを凌駕する快感。
 開かれた口の中に家城の指が入る。閉じることの出来ない口の端から唾液が流れ落ちていく。
「私がいるのだから、それを忘れないで……どんなに悲しい事になっても、辛いと思っても、私が傍にいるのだから……それを君の躰に刻みたかった……」
 家城さん……。
 抜き差しする動きがだんだん激しくなる。
 その度に走る痛みと快感が交互にせめぎ合うその狂おしい波に翻弄されながらも、啓輔は家城の言葉を繰り返し、心の中に刻み込んでいく。
 家城さんがいる。
 どんな辛いことがあっても、家城さんがついていてくれる。
 今、オレに施されているのは、その証。家城さんがオレを愛してくれる、その証……。
「あぁっ……うふぅ……くう……ふっ」
 リズミカルな動きに合わせて声が漏れる。
 今溢れる涙は痛みのせいじゃない。
 これは……。
 徐々に高まる躰の熱が、むくむくと自身を膨張させる。
「あっ……ああっ……」
「んっ……くっ……」
 家城の切羽詰まった声が聞こえる。
 躰の中で蠢くそれが、ぐっと膨張したのを感じた。
 オレの中で……家城さん……感じてる?
 そう思った途端、躰に甘い疼きが走った。そのせいで、尻に力が入った。
「ううっ!」
 ふわっと躰の中で何かが弾ける。
「あっ」
 腰を掴んでいた家城の指に力が入っているのを感じる。それが、啓輔に安堵を与えた。
 オレの中で、達った、んだ……。
 肩で大きく息をしている気配がする。
「家城さん……」
 振り返ると、家城が柔らかく微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん……」
 その言葉に家城が動く。
「あっ……」
 その刺激に思わず漏らした声が、甘く聞こえて、啓輔は真っ赤になった。
「よかった、感じてくれたんですね」
 濡れた音をたてて抜けたそれが名残惜しいって思えてしまうのを気付かれたくなくて、枕に顔を埋める。
 その頭を家城がそっと撫でていた。


10

 家城が帰っていく。
 啓輔は、出入り口からずっと暗闇に消えていくその姿を見つめていた。
 本当なら見送りたかったが、初めての行為は確実に啓輔の躰に負担をかけていた。だから、家城がここでいいっと見送りを断ったとき、啓輔自身もそれに従うしかなかった。
「にしても、用意いー奴」
 啓輔は自室に戻り、ベッドに潜り込んだ。
 ずきずきと痛むそこが、どうしても先ほどの行為を思い出させ、赤面する。
 もしかして、いつだって狙っていたんだろうか?
 家城は啓輔の中に入る時ちゃんとコンドームを使っていた。
 つうか、いっつも持ち歩いているとか?
 啓輔は、家城がいつもの無表情のままに荷物にコンドームを忍ばせている姿を想像してしまい、思わずくくと喉を鳴らした。
 でも、できちゃうもんなんだなあ、セックスって。
 えらい痛かったけど……それでも最後には気持ちいいと思ってしまった。
 それは今まで経験したセックスより、はるかに甘美だった。
 あそこまで昂ぶった状態で射精したことなんかなかったし、あまりに昂ぶっていたから、出した後の開放感がもの凄かった。
 啓輔は、じんわりと残っている体内の熱を感じながら、気怠げに躰を伸ばしていた。
 その心地よい気怠さと気を張って過ごした葬式が終わった後の安堵感が、啓輔をゆっくりと眠りへと誘う。
 明日からは、家城さん出張なんだ……。
 それが何よりも寂しいと思える。でも、今この時点では……愛されていることが嬉しい……。
 啓輔は眠りに落ちる瞬間、脳裏に家城の姿を浮かばせた。


 気が付くと、まだ仲良かった頃の家族の姿があった。
 両親がいる。なのに、自分がそれを外から見ている。
 声をかけても気付いてくれない。
 近づこうとしても足が重く思うように動かない。必死になって近づこうとするのに、二人は少しずつ遠くに行っているようで、その間隔は広がるばかりだった。
『かあさんっ!とうさんっ!』
 何度も叫ぶ。
 それでも、届かない声。
 泣き濡れた顔をぐしゃぐしゃに浮かべ、立ち竦んでしまった啓輔に両親の声が聞こえる。
『私たちを拒絶したのは啓輔の方だから、だから私たちは何も答えることはできない』
『違う!違うっ!オレは拒絶したんじゃない!だけど、聞きたくなかった!見たくなかった!あんた達の言い合いなんて、怒りに満ちた目でオレを見るあんた達の形相を!』
『私たちを拒絶したのは啓輔の方だから、だから私たちは何も答えることはできない』
 何を言っても同じ言葉しか言わない声に、啓輔は耳を塞ぎ、目を固く瞑る。
『オレは……オレは……』
 幼子のように泣きじゃくる啓輔。
 そして、夢は唐突に覚める。
 びくんと躰を震わせて一気に覚醒した啓輔は、ぼろぼろと涙を流して月明かりで見える天井を見つめていた。
 精神が切り裂かれる。そう感じるほど、心が痛いと叫んでいた。
 その口から漏れるのは、ただ嗚咽ばかり。
 かあ……さん……。
 ……啓……輔……
「かあさんっ!」
 呼びかけられたような気がして、はっと躰を起こす。途端に躰の芯がじくりと痛みを訴えるのを無視して、その声が聞こえたと思える方を窺う。
 だが、そこには誰もいなくて……啓輔はがっくりと肩を落とした。
 音がない月明かりの世界で、啓輔はただ一人なのを再確認してしまう。
 あふれ出る涙。こぼれ落ちる感情は止めようがなかった。
 ばたんと起こしていた躰をベッドに投げ出す。
「どうして……ひくっ……こんな……」
 どうして、こんなに泣けるんだろう。
 通夜の時も葬式の時にも泣けなかったのに。
 ああ、一度だけ泣いた。
 その記憶が鮮明に甦る。それは、家城の腕の中で泣き続けた自分。
「家城さん……」
 ここに家城はいない。
 ??精神へのショックは後から来るんです。
 今なら、家城の言葉の意味が理解できる。
「家城さん……家城さん……」
 繰り返される言葉に想いのありったけを込める。
 逢いたくて逢いたくて……寂しい……さっき別れたばかりなのに、仕事があるというのに……それでも、ここにいて欲しかったと願う自分がいる。
 オレってこんなに寂しがり屋だった?
 んな筈ねーだろー……。
 自分があまりに情けなくて、ごろんと身を捩った途端に再度疼いた痛み。
「んっ」
 ふと手にあたった枕。家城の愛撫に堪えきれなくてそれに顔を埋めた自分。
 躰に当たるシーツの感覚。素肌に触れたその感触は、ざわざわとした熱を呼び起こす。
 啓輔の五感全てが家城の痕跡を伝えてくる。
 ここで愛された記憶。
 その時の刺激。
 全てがまだ鮮明な記憶。
 その記憶が啓輔の夢を覆い尽くす。
 思い出しただけで、躰の芯が熱くなる。
 気がつけば涙が止まっていた。
「家城さん」
 言葉に出して呟くそれはねだるように甘く聞こえて、啓輔はかあっと顔が熱くなった。
 それは呪文。
『これしか、思いつかなかった……』
 家城の言葉の意味が、やっと判った。
 彼がなぜ自分を抱いたのかも。 自ら酒を飲んででも、思い切った理由が判った。
 そのお陰で啓輔は、精神を切り裂くような痛みから解放されたのだから。

 翌日から、家城が言ったように、やるとことはたくさんあった。だが、ちょっとでも休憩を入れると、とてつもない寂しさが込み上げてくる。外の片づけは近所の人達が来てやっているのでけたたましいまでの喧噪さなのだが、その中にあって油断をすると心の中に冷たい風が吹き荒れる。
 その状態だから、一人になるのが恐かった。
 孤独感。
 苦しくなる胸に、啓輔は口の中で呟くことしかできない。
「家城さん」
 呪文のように呟けば、落ち込みかけていた気分がなんとか浮上する。
 それを繰り返す。
 そんな状態だから、とにかく今やるべき事に熱中した。それこそ休憩すら入れないほど、あちこちを飛び回って手続きを済ませていった。空いた時間は、部屋や周りを片付ける。
 外回りの用事が一段落付いたの頃には木曜日になっていた。
 だから、金曜日には速攻で出社した。何と言っても新入社員だから、いつまでも休んではいられない。
 随分オレも真面目になったよなあ……。
 何があっても会社に行かなきゃと思うのは、家城の勲等のたまものだろうか……。
 だが、それは啓輔が無理矢理理由付けた物だった。
 本当は……。

「そのお坊さんってのが、まだ若い人なんだ。すっごい気さくな人で、オレ、その手の事なんにも知らないからすっごい助かってさ。でも、町内会長さんなんか、頼りないって零すんだよなあ……」
 啓輔は、先程からずっとしゃべり続けていた。
 その先で、服部が困ったような表情を浮かべながらも、それでもそれを制止することはなかった。というより、最初何回か注意はしたのだが、その時は止まるのだが再びそのおしゃべりが再開してしまう。
 その内、服部は気がついた。
 楽しそうに話をしながら、しかし、啓輔の目は笑っていないことに。
 啓輔とて、黙って仕事をしなきゃと思うのだが、無言で手だけを動かしていると、どうしても何か話したくてどうしようもなくなる。
 自分がこんなにも話好きだとは思っていなかった啓輔自身も実は戸惑いが隠せない。
 それでも、口が動く。
「戒名って高いんですねえ。オレ、ランクがあるなんて知らなかったんですよ」
 何でこんなこと喋っているんだろう。
 と、服部がため息をついた。
 それに気づいて、慌てて啓輔は口を閉じた。
「すみません……」
 頭を下げる。
 オレ……服部さんの仕事邪魔して何をしているんだろう。
「いや、いいよ。喋りたいだけ喋ってくれれば。その方が気が紛れるんだろ?」
 言われて顔を上げると、服部がにっこりと微笑んでいた。
「もしかして、ずっと話がしたかったんじゃない?誰かに聞いて貰いたかった?もの凄くストレスが溜まっていたって感じだよ、今の隅埜くんの話し方は」
 言われて、呆然と服部を見詰める。
「そういうの僕も経験有るんだ。前は開発にいたんだけど、部署替えでここになって……初めての仕事でしかも聞く人もいない。すっごく不安になってた。どうしたらいいんだろうって……ほんとうに……そしたら、気がついたらずっと独り言言っているんだ。コンピューター相手に。ただひたすら意味もなく喋っていた。だけど、僕は指摘されるまで気がつかなかった。そんな事になっているなんて。あれもノイローゼの一種だったのかも知れない……」
「ここでずっと?」
「そう。一人で黙っているのが堪えられないっていうように見えたってその人は言っていた。今の君もそんな感じがする。あの家で一人でいるのが堪えられなかったから、今日会社に来たんじゃない?」
 一人でいるのが堪えられない……。
「だって、特別休暇は5日あるよ。今週ずっと休んでも、良かったんだよ。なのに……」
「そう、ですね」
 啓輔は、ぽつりと言葉を零した。
「服部さんの言う通りかも……」
 嫌だった。
 家で一人でいるのが。だから、とにかく闇雲にやることこなしていったら、木曜には片づいて、考えることも一段落ついて……そうしたら、もの凄い孤独を感じた。
 家が休息の場でなくなっていた。
 外にいて、人の姿を見るだけで安心する。
 なのに、家にはいるとひどく息が詰まる。
 両親の夢を見たら、呪い(まじない)のように呟いていた家城の名前もだんだん効果がなくなっていったから。
 だから、昼間家にいる必要がなくなったから会社に来た。
「僕ね、ある人が僕を助けてくれた。すっごい強引なやり方だったよ。最初はなんでこんな事って思ったけど、でもね、僕はそれで助かった」
 少し頬を赤らめて俯きながら服部は小さな声で言った。
 それはまるで告白のようで、啓輔は思わず服部を見つめていた。
「それ、もしかして……梅木さん?」
 図星だったのか、服部の顔がさらに真っ赤になった。
「う?ん、まあ、そうなんだけど……」
「いいなあ、そういうの。なんか素敵じゃん」
 啓輔が羨ましそうに言うと、服部が驚いたように目を見開いた。
「でも、君だって家城さんがいるでしょう?葬式の前日、手伝ってくれる人を捜しに来た家城さんは、ほんとうに隅埜くんを心配してたし」
「それは……」
 だけど、今家城はいない。
 今週はずっと出張になっていた。
「あ、もしかして出張中?開発でおっきなクレームが出たって聞いてるけど」
「そう、みたいです」
「そっか。きっと家城さんがいれば、君の事癒すことが出来るんだろうけどね……仕方がないもんな、今日はずっと話をしていていいよ。そんなに緊急の仕事が入っていないし」
 そう言って服部が浮かべた笑みは、その童顔とも相まって天使のように啓輔には見えた。
「オレ、なんか服部さんのこと好きだなあ」
 深い意味もなく思わずそう呟く。
「ちょっ、ちょっと待ってよ!君には家城さんがいるじゃない!」
 狼狽えて机の書類を落としまくっている服部に、啓輔はぷっと吹き出した。
 そういう所が楽しくって気に入っているという意味なんだけどなあ。
 心の中で呟く。
 だが、服部の動揺している姿が面白くて、その言葉を飲み込む。
「だって、服部さんって可愛いから。オレ、服部さんと一緒の職場で良かった」
 くっくっと肩を震わして笑っていると、少し心が軽くなった。
 なんていうか、恵まれたっていうか……。
 最初に緑山さんに再会してしまったときは、なんて会社に入ってしまったんだろうっておもったけど、今はここで良かったって心の底から思える。
「む?」
 眉間に深い皺を寄せている先輩は、どうみたって年下にしか見えない。
 面白そうに未だ赤く染まっている服部を見ていると、ドアが激しい音を立てて開いた。
 その壊れそうな音に思わず振り向いた所に、肩で息をしている梅木の姿。
「う、めき、さん?」
 なんか、怒ってる?
 そう思った途端、突進してきた梅木が啓輔の襟元を掴み上げた。
「貴様!オレの誠に手え出すなって言ったろーがっ!」
「手って、何もしてませんって!」
 梅木のあまりの勢いに、啓輔は何が起きたのか判らないまでも身の危険を感じた。
 掴んでいるその手を必死で剥がそうとするが、馬鹿力でびくともしない。
 仕方なく、啓輔が立ち上がると啓輔より10cmばかり背の低い梅木を見下ろすようになった。
「だ?か?ら!誠に好きですって言ってたじゃーねーか!誠は俺のもんだから手え出すなって言っただろーが!」
 好きって……。
 あっ、さっきの!
「あ、あれは、友達とか先輩に対する人間としての好きっていう意味ですって。オレには家城さんがいるのに服部さんを捕らなきゃいけないんですかっ!」
 そりゃあ、こっちだって勘違いさせる言い方はしたけど、この理不尽な扱いは気に入らない。
 オレだって、ちゃんと恋人がいるんだからなっ!
 怒りを込めて勢いよく梅木の手を振り払った途端。
 パッカーーーン
 盛大な音が鳴り響いた。
 啓輔の目前にいた梅木が消え、怒りに満ちた顔を歪ませ荒い息を吐いている服部がいた。その手には前回と同じく紙ファイル。しかし、今日はその持ち方からして背表紙で攻撃したらしい。
 可愛い顔立ちの服部だが、今の服部には凄みすらあった。
「ってえ??っ!ま、まこと……今日のは、もろに入った。目から火花が出た……」
「うめき?さ?ん」
 蹲って唸る梅木を見下ろす服部の表情がまるで冷たく蔑んだような物になっている。
 啓輔は背筋にぞくりと寒気が走るのを感じ、ゆっくりとその場を離れるとパーテションと机の影に隠れた。
「だって……あいつがお前のこと、好きだなんていうから」
「何で知っているんですぅ?」
 低い声が梅木に詰め寄る。
「え?」
 途端に痛みに顔を歪めていた梅木の顔から音を立てて血の気がひいた。
「何で、知っているんですか?」
「あ、そうだねえ、はは、何でかなあ?」
 その言葉に啓輔も、ようやく知られていることが変なんだとは気づいた。
 ここには、二人しかいない。
 しかも言ってから梅木が来るのに間があった。ということは、ドアで聞き耳を立てていたわけではないだろう。
 まずいっと、そろそろと床を這うように逃げを打つ梅木。だが、服部はすばやくその逃げ道を塞いだ。その前に服部も跪き、きつい視線を梅木に向ける。
「また、やってくれたんですね?」
「え?、何のこと?」
 途端しらばっくれる梅木の頭に、再びファイルが音を立てた。
「痛いっ!」
 頭を抱える梅木に、服部が容赦なく冷たく言い放つ。
「また、やったんですね」
 今度のそれは疑問形ではなかった。
 啓輔になんの事が判らなかったが、服部には検討がついているらしい。
「ごめ?んって。誠ちゃんの事が心配なんだって」
「しないで下さいってお願いして、梅木さんはもうしないって言ってくれましよね。なのに、また、ですか?」
「ごめん。頼むから許してって。そんなに怒っていると可愛い顔が台無し……うわあっ、待った、待ったっ!」
 みたびファイルを振り上げた服部に、梅木が頭を抱えながら叫んでいた。
 うっわー!すっげー……。
 影に隠れていた啓輔は唖然と服部を見ていた。
 今後一切、この人を怒らせないよーにしようっと。
 固く誓う。
 それほど切れた服部は恐かった。
「外してくださいね」
 冷たい目をしたままにっこりと笑いかけられ、梅木はこくんと頷いた。
「せっかくつけたのに?」
 とかなんとか言いながらぶつくさと一際大きなケースに入ったサーバーの後に走り込むと、ごそごそと探っている。
「今回は1個だけしかつけなかったから、これで終わり」
 といって差し出されたのは、小さな四角い黒い箱。
「ほんとに?」
 じとっと服部に睨まれ、梅木が苦笑を浮かべた。
「本当。ったく、昔の誠ちゃんの方が素直で可愛かったのに、今じゃこんなにきつくて疑り深くなっちゃってさあ」
「誰のせいですっ、誰の!僕の性格変えたの、梅木さんじゃないですか!」
「それを言われるとお……」
「とにかくそれ持って、今日はもうここには来ないでください。だいたい用事が無いんでしょ」
 きっぱり言われ、すごすごと梅木は帰っていった。
「何なんだ、あれは……」
 ぱたんと扉が力無く閉じられるのを確認してから、そろそろと出ていく。
「盗聴器」
 服部がため息混じりに答える。
「へ?」
 盗聴器?
 何で?
「あの人、前にもしてたから……」
「何で、そんなもの」
 呆然と問いかけると、服部がはにかんだように口元を緩めた。
「さっき話しただろう。僕、まいってたこと。それに気づいた梅木さんが心配してさ、あれつけて僕の様子探ってたんだ。ただ、それはいんだけど……」
「え?」
「その後もずうっと僕に内緒でつけ続けてた。さっきみたいな感じだったかな?何かの拍子にそれが僕にばれて。僕も切れて……もうしないって言ってくれたんだけど」
 はあああと大きなため息をつく服部。
「それだけ心配なんですよ、服部さんのこと」
「心配か……やっぱりそうなんだろうなあ……僕のこと、同情してくれてるだけだよね……」
 ふうっとため息をつく服部の表情が暗かった。だが、そんな彼の様子を見ていると梅木の心配が判ってくる。
 ほんと、可愛いよなー、この人って。
 くすくすと漏れる笑いに服部が眉をひそめたのを見て取り、慌てて堪える。
「あ、仕事しましようねー」
 巧みに話をすり替えて、服部の意識を逸らしていたから、啓輔は忘れてしまっていた。
 自分が口走った言葉のことに。


11

 一週間ぶりの仕事といっても、新人の啓輔にそれほど仕事がある訳でもない。
 終業の合図と共に、啓輔は部屋を出た。
 近道の会議室横の通路を通ってロッカールームに行こうとして、人影に気がつく。
 道を塞ぐように立っているのは、梅木だった。
「話がある」
「え?」
 返事をする前にぐいっと引っ張られ、傍らの会議室に連れ込まれた。
「何なんです!」
 いてーじゃねーか!
 掴まれた腕が痛くて、きっと睨み付ける。だが、その先にある目は、先程よりもはるかにきつかった。
 ……なんか、まだ疑ってる?
「ほっんとうに、誠とは何でもないんだな?」
「何でもないですよ。服部さんは優しいから、だから好きだっていう意味で言っただけですっ」
「ほんとに?」
「ほんとうに!だいたい、服部さんは梅木さんのことが好きなんですよ。オレが付け入る隙なんてありませんって」
 そう言った途端、梅木の手から力が抜けた。
「誠がそう言った?」
 その力のない言葉に、啓輔は目を見開いた。
「言わないけど、でも話をしてたらその態度で判ります。あの人、そういうところ素直だから……」
 家城さんと違って……。
 家城さんと比べると、服部さんなんて、顔見てれば何考えてるかはっきり判る。
「そうなんだよな。態度見てたら判るんだよなあ。だけど、やっぱり口にしてくれないと不安だから……いっつもそうだ。あいつってさ、あの時、どんなに配置換え嫌がっていたか。それなのに何も言わないから、だからあんな所で一人で作業するはめになってさ。あいつ、何も言わないから……」
 先程までの勢いがなかった。
「そう、なんですか?」
「あそこの部署が出来たとき、人が足りなくて……開発部から誰かを回すことになって、その時にピックアップされた中にあいつがいたんだ。運が悪いことにあの頃の俺達のチームは、景気悪くってさ、人員削減がかかってて、あいつが第1候補だった。オレと誠は同じチームだったんだ。1年だけだったけど。それでも、本人が嫌だって言えば代わらなくも良かったのに。だけど、あいつは何も言わなかった。だから、あんなとこに行って、で、心が壊れかけた」
「それ、聞きました、今日」
「聞いた?」
「はい、その壊れかけたところを助けて貰ったって嬉しそうに言っていました。ほんとに、楽しそうに話してくれました」
「楽しそうに……?」
「そうですよ」
「ふーん。そっか。俺、あの時のことだけは許してくれないって思ったけど、そうでもなかったんだ」
 許してくれないって?
 あんなに嬉しそうなのに、何でそんなこと言うんだろう?
「でも、なんで誠の奴、お前なんかにそんなこと言うんだ?」
「それは……俺が落ち込んでいるのが判って、励ましてくれたんです……」
「お前が?……あ、ああ、そうだったな」
 噂には聞いているのだろう。梅木が口の中でもごもごとすまないと呟いた。
「いえ……」
「そうだな、でもお前にだって相手がいるじゃねーか。だから、大丈夫……って言えないよなあ、なんせ、あの冷酷魔人、品質の鬼の家城くんだもんなあ……」
「……っ?」
 何で?
 オレ、服部さんにしか言ってねーぞ。って、服部さんが喋ったのか?
「何、驚いてんだよ。オレが知っているのが不思議か?でも、お前が言ったたんぞ。あの時に、オレには家城さんがいるってさ」
「喋ってた?」
「そう」
 げげ、オレ、無意識の内に言ってる。やべー。
「ま、お互い様だから、いいんだけど。にしても、俺もあの後、頭冷やして思い出して、びっくりした。何をまかり間違って、あんな奴と恋人同士になろうって奴がいるんだって」
「何だよ、それ」
 えらい言われようだ……。
「だってさ、あいつ入ってきたときから可愛くねーんだよ。年下の癖して、えっらそーに。そりゃあまあクレーム出したのは、出した方が悪いけど、一応反省しているんだ。それなのに、ねちねちと嫌み言いやがって。お前、何であんなやろーがいいんだよ」
「あ、はあ……なんでかなあ」
 思わず梅木の言葉に、そうだなあって頷きそうになった。
 だけど、それは別として、やっぱりムッとする。
「家城さんはねえ、確かに見た目はえらそーだけど、感情出すのが下手なだけだよ。よっく見たら、ちゃんと表情だって変わっているし、何より、困らせたりするとすっげーかわいーんだ。ついついからかいたくなるほどだよ。オレにだって嫌みいうし、きついことも言うけど、その分、すっげー優しいときもある。あんたなんか家城さんのことよく知らない癖に悪口言うな」
「可愛い?あいつが?」
 くすりと吹き出され、余計に頭に血が上った。
「可愛いよ!キスしろって言ったら、すぐ真っ赤になるんだぜ。オレが帰るっていったら、困ったようにウロウロして、オレにいて欲しいってすら素直に言えない奴なのに!こんな可愛い奴、他にはいない!」
「誰がです?」
 いきなり降って沸いたその冷たい声に、会議室の空気が一瞬に氷点下になった。
 啓輔と梅木が同時にドアの方を見る。
「誰のことを言っているんです?隅埜くん?」
「あれ??家城さん出張じゃなかった?」
 最悪……。帰ってきて欲しいとは思ったけど、そのタイミングが……。
「先程帰ってきました。ところで、通路まで響くような声で、二人で何を言い合っていたんです?私の名前が聞こえたんですけれど?」
「き、気のせいだって。ね。梅木さん?」
「そ、そう……気のせい……」
 梅木と二人でがくがくと頷き合う。
「そうですか?私が医療材料チームの出したクレームで奔走している間に、当のクレームを出した本人は、こんなところで逢い引きですか?しかも、お相手が違うようですが?」
 じろっと睨まれ、梅木の顔から血の気が失せた。
「クレームって、梅木さんが出したの?」
「そうですよ。仕様書のデータミスですから、全くのこちらの人為的ミスですよね。それをフォローしている私たちが疲れて帰ってくれば……」
「いや、ちょっと隅埜くんに誠の様子聞いていただけだから、あ、じゃあねまた報告書まとめたら持っていくから……じゃあ」
 あたふたと家城の横を擦り抜けて梅木が会議室を出ていった。
「あ?!梅木さん!」
 オレ一人で、家城さんの相手をしろって!
 啓輔は慌てて追いかけようとして、その腕を家城にがしっと掴まれる。
「どこに行くんです?」
「あ、ははははは」
 乾いた笑いが漏れる。
「ったく。あんな大きな声で話をするなんて……誰もいないからいいようなものの……」
 その時、啓輔は初めて家城の顔が朱に染まっているのに気がついた。
「い、えきさん?」
「ほんとに……恥ずかしくて……」
 後に行くほど小さくなる声。
「ご、ごめん。オレ、かっとなって……」
 さっきまで……梅木さんがいるときは顔色一つ変えなかった家城さんが、オレだけになるとこれほどはっきり表情を見せる。
 啓輔は呆然とそれを見つめ、ふっとその口元を綻ばせた。
「やっぱ、家城さんって可愛い……」
 その衿元を掴み、もう一方の手を家城の頭に回し力を込める。
 そっと唇を合わせると、家城の手が躊躇うように動いて、結局啓輔の背に回された。
 オレだけしか知らない家城さんなんだよなあ、これが。
 それがとてつもなく嬉しい。
 この人がいれば、他には何にもいらないってマジで思える。
 周りが音もなく静かなのに、さっきまでそれが嫌で嫌でたまらなかったのに、今はそれが心地よいさえ思える……。
 

**その頃……*************************

「なあ、見えた?」
「なんとか?」
 可動壁のほんの僅かな隙間を狙って二人の男が動いている。
「みなさ?ん、可哀想ですから無視しましょうよお」
 際限まで潜められた声は当然のように無視されていた。
 会議机に頬杖をついて苦虫を噛み潰したような顔で制止している橋本の横で、苦笑を浮かべているのは緑山。
「だって、あの家城くんが、だよ」
 信じられないと篠山が言うと。
「最近大人しいなあって思っていたけど、いつのまに……」
 今日一日どこか機嫌の悪い竹井が呟く。
「あ、キスした!」
「え?」
 さすがに、それには全員(橋本は引きつっていたが)、壁の向こうに聞き耳を立ててしまう。
「相手、誰?あっちの方が積極的なんだけど。げっ、家城くんが攻められてる感じ」
 不思議そうに安佐が誰とも無く問いかけた言葉を、緑山が肩を竦めて答えた。
「たぶん、新人の隅埜くんだと思いますけど?」
「なんだ、緑山君は知ってたんだ」
「まあ、偶然」
「……それより、さっきの喧嘩の相手の声って、医材の梅木さんだよなあ?」
 まったく、というようにため息をついている橋本は、いい加減、呆れ果てている。
「会話に出てきた服部って……、それって情報配信の服部くんのことか?」
「まあ、あの二人はもともと同じチームだけど……そういう関係とは……」
 知りたくないことをなぜか気づいてしまう橋本をもってしてもその関係には気づかなかった、と橋本はうんざりと天を仰ぐ。
 彼らは別に覗きを目的に集まったわけではなかった。ただ、会議の合間に煮詰まった頭を冷やすために静かーに休憩をしていただけなのだ。
 この部屋のホワイトボードに、議事録が乱雑に書き殴られている。
 その最上段に『○○製品 工程不具合率低減会議』と書かれていた。
 最初に異変に気づいたのは、安佐だった。一番、壁際にいたせいかもしれない。隣から喧嘩しているような声が聞こえ、篠山に知らせた。
 隣室の人達にとって不幸だったのは、ここと隣が可動壁でしか遮られていなかったこということ。他の壁より、防音性が極端に落ち、しかもわずかに隙間が有る場所がある。
 そして幸いなことに……不幸だという人もいるだろうが……会議中であったメンバー(橋本を除く)が、家城を単なる社員同士という以上によくその性格を知っており、橋本以外は、恋人が男という一団だったことだろう。
「うっわぁ!いいなあ、何か、すっごいいい雰囲気」
「馬鹿!」
 もう一人の出刃亀男、安佐を竹井がひっぱたいた。
「他人のを見て、何が面白い!」
「ってえ、竹井さん、最近すぐ殴る」
「お前が馬鹿やってるからだろ!」
「おい、声が大きいって!」
「げっ、気づかれた!」
 途端に全員逃げを打った。


12

 最初に家城が物音に気がついた。すぐさま啓輔も人の気配を感じた。
「げっ、もしかして隣に人がいる?」
 その言葉より早く、家城が部屋を飛び出す。それを慌てて追いかけた啓輔は、家城の目前で隣の会議室の扉が内側に開けられるのを見た。
「あっ!」
 中から出ようとした一団が、ぴたっとその動きを止める。
「あなた、方でしたか……」
 家城の感情を押し殺した声が静かに響いた。
 あなた方?
 啓輔が家城の背後からひょいっと覗き込むと、中の人間達が面白いようにひきつった顔で硬直していた。
 その中に平然と入っていく家城。さながらモーゼの十戒のワンシーンのように家城の両脇によけていく人達。啓輔も慌てて、後について入っていった。
 どこかで見たことがあるような人達。
 その中にいた緑山が、啓輔に向かって苦笑を浮かべる。
「緑山さん……」
 ってことは開発部?
「駄目ですよ。覗きはね」
 家城の静かな声が部屋に響く。
「覗いてなんかいない。ただ、物音がしたので気にはなったけど」
 むすっとしている人には覚えがない。疲れたように椅子に座り込んでいる。その言葉に家城がそちらに視線を移す。だが、すぐに壁際にいる二人へと視線を戻した。
「良かったね、隣が俺達で」
 くつくつと笑う緑山。
 やっぱ見られてた……。
 全部ばれているのを知った啓輔の顔が羞恥で赤くなる。しかし、それでも家城の表情は、わずかに赤くなっただけだった。それもよっく見ないと気付かないほど。
 すっげーよな。相変わらずの無表情鉄仮面男……。
 内心舌を巻く。
「緑山、ばらすな!」
 この中では一番年輩らしい人が慌てている。
 ああ、そうだ、篠山さんだ。緑山さんの上司の人。新人研修の日にいなかった人だ。
「そうですよ。家城さんって厄介なんだから……」
 同じく名前を知らない人が、しみじみと言っている。
「お前が悪い」
「そんなあ、竹井さんが大きな声だすから」
「だから出刃亀するなって言うのに安佐くんが一人興奮して見ているからだろうが!」
「だか?ら?、え、ああっ、見てたの、一人じゃないって」
「最後まで熱心だったのはお前だ」
 え?と、安佐さんと竹井さん?
 でも何なんだ、この二人は?
 何で喧嘩が始まるのか?
 安佐と呼ばれた人が必死で許しを願っているのは、見られた啓輔達でなくて、機嫌の悪そうな竹井という人。
 何か違うんじゃねーか……。
「相変わらずですねえ、あなた達は」
 家城が呆れたようにため息をつく。
「だいたい、家城君も何やってんだよ。こんな所で」
 竹井が気怠そうに躰を動かして椅子に座り直した。
「ちょっとしたアクシデントですよ」
 その顔に余裕の笑みを浮かべている。
 ほんと、こいつってば外面は完璧だな。見られて慌てるでもなく、どちらかというとこの場を支配している。
 だが、啓輔はふと首を傾げた。にしても、ここにいる人達は妙に家城を警戒している。
 特に、安佐という人と篠山さんは困っているようだ。
 しょうがない、というように天を仰いでいるのは、橋本さん。この場の様子を面白そうに見守っているのは緑山さん。
 緑山さんて、こういうの慣れているんだろうか?
 妙に落ち着いている。
「ああ、隅埜くん、この人達はお相手が全て男の方ばかりですからね、気にしないでいですよ」
「げっ」
「こら待て!俺はちゃんと結婚してるぞ!」
 一人橋本が喚いているのを家城は平然と受け流す。
「ああ、そうでしたね。でも知っていて気にしない方ですけれどね」
「う……俺だって、知りたくなかったわい。何で、うちのチームに絡んでいる奴がみんなホモなんだよお」
 おいおいと泣きまねが始まってしまう。
「すまないな」
 ちっともすまなくなさそうな篠山の態度がさらに橋本を落ち込ませた。
「ほんとに、うちのリーダー殿ときたら、できるくせにさぼることが大好きで、やる気が少なくて、ホモで、仕事中に恋人にラブラブメールやりとりするし……すっぐ、仕事を押しつけるし……なんか、もめ事起こすし……」
「おい、橋本」
 篠山の制止する声も耳に入らないようで、橋本がひたすら愚痴り続ける。
「ほんとにどうしてこんなのがリーダーになっているのか……」
 聞きようによってはもの凄い事を言っているのだが、これがいつものことなのか、周りの人たちはあまり気にしていないようだ。
「橋本さん、もう今日は止めにしません?これから続けたってろくな結論にならないでしょう?続きは来週にしましょうよ。後は俺が片付けますから……」
 気の毒そうに緑山が声をかけると橋本はのろのろと立ち上がった。
「そうするわ。頭が痛くなってきた」
 はああとつくため息は盛大なもの。
「次の会議の資料頼むなあ」
 何でもないことのように篠山が言うと、ぶちっとは橋本のこめかみの血管が切れた。
「自分で少しはやったらどうです!今日だって、篠山さんが会議をブッキングさせちゃうからこんな時間になったんでしょーが!でないと、明日に試作立ち会い、出て貰いますよ!デートなんでしょ!」
 篠山の行動パターンを把握している橋本のきつい一撃に篠山はさすがに撃沈した。
「わかったよ……」
「しょうがないですよねえ」
 くすくすと笑い始めた緑山に、篠山が睨む。
「ほんとに、お前まで橋本化しやがって。あの可愛い緑山くんは一体どこにいったんだ?」
「篠山さんにはいろいろと鍛えていただきましたから」
 面白そうに笑い続ける緑山を見ていると、啓輔の胸に痛みが走った。それは一時期に比べると随分と小さかったけれど、完全には無くなりそうもない想いのせい。
「それでは、お先に?」
 ひらひらと手を振って橋本が会議室を出ていった。
 まあ、ノーマル一人という状況はこの場の状況についていけないんだろうなあ……。
「ったく……」
「まあ、隣があなた方で良かったと言えば良かったんですけどね」
 微かに吐く息はため息だろう。
 啓輔はちらりと家城の横顔を見つめた。
「なあ、家城くん、ついでだから紹介してよ。いつの間に相手を見つけたわけ?」
 この竹井って人は、家城さんが恐くないんだ。
 こんなに馴れ馴れしく家城に話し掛ける人、初めて見た。
「4月に」
 どこか諦めにも似た口調の家城。
「良かったじゃない。相手ができて」
「そう、ですね」
 家城が別の場所を見たまま、答える。啓輔はなぜかそれに違和感を感じた。その家城を見、そして知らない人達を見つめる。
「家城さん、この人たち……オレ知らない」
「ああ、生産技術部の第2チームの竹井くんと安佐くん。竹井くんは私の同期です」
「へえ?家城さんの同期」
 それでこんなに親しいのか。
「よろしく。でも、ほんと良かったなあ、家城さんに相手ができて、これで俺達にちょっかい出さなくてもいいもんね」
「ちょっかいって?」
 安佐の言葉に啓輔が眉をひそめる。
「すぐキスしかけてくるんだよ俺に。でも、そしたら竹井さんが嫉妬してくれるんで俺は嬉しいんだけど、ってえっ!」
 頭を抱えて踞る安佐の傍らに竹井が拳を握りしめていた。
「お前は?!どうしてそんなに口が軽いんだ!ちょっと来い!」
「いい加減、口は災いの元って自覚できないんですか、安佐くんは」
 竹井に引っ張って行かれる安佐に、家城が冷たく言い放つ。
「あ、あ?、すみません、竹井さん、ごめんなさいっ!」
 安佐の声が遠くに聞こえる。
 でも、なんで家城さんが安佐さんにキスを仕掛けるんだ?オレにだって、要求せずにしてくれたのって、あの時の一回だけじゃないか……。
「まあ、あんまり会社で羽目を外すなよな。そりゃ、覗いた方も悪いとは思うけど、俺達じゃなかったらどうするつもりだったんだよ」
 ふらりと篠山が立ち上がった。
 緑山が荒れていた会議室を手際よく片付けていく。
「アクシデントですよ。今後はこんなことしません」
「そうか。でもまあ、あんたが受けだとは知らなかったが」
「え?」
 その言葉に家城が狼狽えた。
「違うのか?そういう雰囲気だったけど?」
 きょとんと首を傾げる篠山に緑山が苦笑を浮かべながらつつく。
「篠山さん、口は災いの元ですって」
「あ、ああ。すまん。それじゃあなあ?」
 さっと顔色を変えた篠山が慌てて荷物を集めると、ばたばたと騒々しく出ていった。
「逃げられましたか」
「すみません。一応止めたんですけど」
 ぺこんと緑山に頭を下げられては、啓輔はもうどうしようもない。それは家城も同様なのか、その口の端が僅かに上がっただけだった。
「まあ、こちらの不手際ですよね」
「気をつけないとね」
 そして、緑山も部屋を出ていった。
「隅埜くんは、もう帰るんでしょう?」
「あ、うん……」
「今日は、ばたばたしそうですので、明日また改めてお宅を伺いますね」
「うん……」
「どうしたんです?元気がないですね」
「そうかな……」
 聞きたいことがあった。
 あの安佐って人とキスする理由は、何?
 だけど……。
 なんとなく聞き難い。それに竹井の馴れ馴れしさが癪に触った。
 啓輔は家城の交友関係を知らなかった。いつも一人でいるのだと思った。
 だが、今日の雰囲気はそうではなかった。ここにいた人が皆、何かで家城を知っている。
 家城自身が言っていた。
 ここにいる人たちは、みな、男が相手だと……。
 そして、彼らもそれを家城が知っていることに不審を抱かない。
 ここにいた人はみんなそういう関係なんだ。啓輔が知らない家城を知っている人たち。
 それが、羨ましくて、ねたましかった。
「じゃあ、オレ帰るわ……」
 考えてみれば、オレ、家城さんのこと、何にもしらない……。


13

「ねえ、けいちゃん、あの家城さんって恋人いるの?」
 細々した片付けの一切合切を佐山のおばさんに手伝って貰いながらこなしていた啓輔に、彼女がいきなり切り出した言葉にぎくとり全身が強張った。
「な、何で?」
 心臓がばくばくと音を立てて、喘ぐような返事になったが、それに気づく余裕は彼女にはなかったようだ。家城を思い出しているのかうっとりと遠い目を空に向ける。
 いい年したおばちゃんのその少女のような仕草の違和感に、啓輔は背筋にそぞっと寒気が走った。
 あまりのことに、激しかった心臓までが大人しくなる。
「素敵だったわねえ。こんな田舎であんな人に逢えるなんて思わなかったわよ。私がもっと若かったら、絶対に恋人に立候補するわよねえ?」
 不気味……。
 思わず視線をそらして、あらぬ方を見る。
 似合わね?よ、おばちゃん……。
 啓輔が返事をしないのに気づいた佐山が、照れたように顔を赤くしてあはははと笑った。
「まあ……顔はいいけど」
 気まずい雰囲気に仕方なく、フォローを入れる。
 それに助けられたのか、彼女がこほんと咳払いをして、とんでもないことを言い出した。
「でね、ほら松崎さんちのようちゃんがね、一目惚れしたみたいでねえ。ぜひ娘と見合いしてくれないかって」
 松崎さんちのようちゃん?ってもしかして、この辺じゃあ珍しい臍出しルックで平気で歩いている人?んで、その娘?
 滅多に近所づきあいはしていなかったが、それでも目立つその親子のことくらいは知っていた。
「もしかして……美並ちゃんのこと?」
 明るい色の茶髪の女の子が脳裏に浮かぶ。
「そうよ」
 あの子……まだ中学生じゃなかったっか?
 啓輔の記憶にあるその子は、まだランドセルを背負っていた。それが数年前の記憶だから、計算してもその位。
 何、考えてんだ、この人達は……。
「家城さん、28ですよ」
 いささかムッとして答えると、
「年の差なんて?」
 と、脱力するような甘い声で返された。
 どうもここのところ逢う人、逢う人皆家城を話題にする。
 よっぽど目立ったんだろうか……。
 確かに火事の当日といい、通夜、葬式当日と動けない啓輔の代理みたいになっていろいろと動いてくれた。特に親戚の仕打ちが噂として流れたらしく、ひどく啓輔には同情的な近所の人たちは、その啓輔を手伝う家城に好感を抱いたらしい。
 が。
「あの人、何歳?」
「恋人いるの?」
「見合いしてくれないかしら?」
 などと、逢うたびに言われては、嫌気もさしてくる。
 恋人だと声を大にして言いたいのに言えないもどかしさが、啓輔を縛り付ける。
 改めて家城がもてるのだと認識させられ、それが昨日から沸き起こっている突き刺さるような胸の痛みを増大させる。
 ぎりりと奥歯を噛み締める啓輔は、はあっと息を吐いて自分を落ち着かせると、無理に作った笑顔で答える。
「恋人、いるみたいなんですけど、詳しくは知らないんです」
「あらまあ。……そういえば、けいちゃん、話す言葉が丁寧になったわねえ。やっぱり、会社に行きだしたからかしら」
 丁寧?
 そういえば、たいていの人には敬語を使っている自分がいる。
 これってもしかして家城さんのが移った?
 いつだって、啓輔に対してすら丁寧な言葉遣いの家城に感化されたのかも知れない。
 だが、ふと気が付いた。
 何かを誤魔化そうとすると、自然に言葉が丁寧になっていると。
 気づいた途端、何が頭の中でがらがらと音を立てて崩れていく。
 家城さんは……酒を飲んだときは言葉が崩れる。なら、あの普段の丁寧な言葉遣いは何だ?
 何かを誤魔化しているのか?何かを偽っているのか?
 一点の黒い染みがじわじわとひろがっていくように、頭の中を疑念が沸いて広がる。
「あら?」
 おばさんが道路の方へと視線を向ける。
「噂をすれば、ね」
「えっ?」
 啓輔が慌てて振り向くと、家城の車が入ってくるところだった。
「ほんと、まめな方ねえ。よっぽど、けいちゃんのことが心配なのかしら」
 来たんだ……。
 嬉しいのに、素直に喜べないのはなぜだ?
「おばちゃん……今日は手伝ってくれてありがとう。後、オレ自分でやれることばっかだし」
「あらそう?あ、お茶でも入れようかしら」
「ああ、いいって。オレ、やるから」
「まあ、そう……」
 残念そうにおばちゃんが肩を落とす。
「じゃあねえ」
 手を振って家に戻る彼女に、ぺこんとお辞儀をすると近づく家城に視線を向ける。
 逢いたかったけど……。
 啓輔は、きついほどに握りしめた拳を見つめた。
 なんだかひどく苛々する。何かに当たりたくて、うずうずしている。握りしめられた拳は、その象徴。
 まずい。
 オレは、何を考えている?

 家城を早々に部屋へと招き入れる。
 これ以上、他の人にその姿を曝すのが嫌だった。
 1階の出入り口に鍵をかける。
「どうしたんです?」
 有無を言わせず連れ込まれた部屋で茫然とする家城に、啓輔は曖昧な笑みを浮かべる。
 そんなん、オレにもわかんねーよ。
 躰に籠もったわだかまりを吐き出すように大きくため息をつくと、ぺたんと畳の上に座り込んだ。
「随分と疲れていますね」
 家城が心配そうに啓輔の頬に手を添える。
「まあ、いろいろとね」
 そうだな。ほんとに疲れた。
 昨日もよく眠れなかった。
 昨日のことが気になってしまって、それが頭にこびりついてしまって静かになると考えてしまう。それが今日啓輔を不安定にさせている原因の一つだった。
 家城がいなかったときとは違う思考が啓輔を支配し、それが啓輔を苛つかせる。
 苛ついた気分のままに寝ようとしたら、いつもの夢を見てしまった。
 葬式以来、啓輔悩ましている夢ではない。
 もっと前からストレスのたまった啓輔を襲う、ひどく官能的な夢。
 だが、跳ね起きた啓輔の脳裏に浮かぶのは『すぐキスしてくるんだよ』と楽しそうに言っていた安佐という人。
 結局、まんじりともしないうちに夜が明けてしまった。
 ったく。
 啓輔は、こっそりため息をつくと、コーヒーを入れ始めた。
 それを思い出してしまった啓輔の胸の中にもやもやとした不快な感情が大きくなる。
 せっかく逢えたのに。
 キスもしたのに……キスを受けて入れくれたのに……。
 だが、その後の出来事が全てを帳消しにしてくれた。
 コーヒーを差し出しながら、家城の表情を窺う。
 いつもと同じ。
 少し疲れているような感じがする。
 ふと、その口元に目がいった。それを凝視する。
 『よくキスしてくるんだよ』
 啓輔にすらなかなかキスを仕掛けてくれないその唇で、あの安佐って人とキスしてきたんだ……。
 そう考えてしまったことにさらに苛つく。
 なんだよ、これ。
 自分の感情がコントロールできない。
 黙っている啓輔に、家城が顔を上げてわずかに首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「……」
 どうしたんだろう。
 そんな事、自分でも判らない。
 ただ、無性にむしゃくしゃする。
「隅埜くん……」
 どこか他人行儀だと、家城がそう呼ぶのですら苛つきが増す。
「あんたさ、オレのどう思っている?」
「え?」
 聞いた途端に家城の顔がすうっと染まってくる。
 言葉に出来ない想いが、家城の視線を啓輔からそらせる。
 その意味を啓輔は知っている。だが。
 今はそれで許す気分ではなかった。
「あんた、安佐って人にはキスするんだろ。オレにはなかなかしてくれないのにさ」
「……安佐君とは悪ふざけでしてしまっただけですよ。宴会の席でね」
 さらりと言ったその言葉は本当かも知れない。
 だけど、それでは啓輔の感情は落ち着きを見せなかった。
「家城さんって酒飲むと、誰でもキスするんだ」
 からかいをこめて、その口元に笑みを浮かべながら言う。
「誰でもではありませんよ」
 啓輔を見る家城の目が、僅かに伏せられた。それは一瞬のことだったが、啓輔はそれに気づいてしまった。
 かっと頭に血が昇った。
 壁際に座っていた家城の肩を掴んで強く押し付ける。
「っ!」
 痛みに顔をしかめる家城の唇に強く口付ける。歯が当たり音を立てた。
 一瞬後僅かに離す。ほとんど触れあうほどの場所で、啓輔は囁いた。
「あんたって、酒を飲んでもオレとはあまりしてくれなかったキスを、あの人とはしてたんだ」
「す、みの…くん……」
 家城の目に僅かに走った躊躇。
 それが啓輔の嗜虐心を煽る。
「昨日逢った人達って、なんか家城さんの性癖知っていたみたいだよね。竹井って人なんか、同期だって?妙に馴れ馴れしくてさ。それにあの時、なんだか家城さん変だったよね。あの人と視線合わさなかったじゃん」
 あの時感じた違和感。
 その冷たい視線で相手を圧倒する家城が、決して視線を合わせようとしなかったこと。
「それって何で?」
「……気のせいです」
 その返事を口にするのに、家城が躊躇いを見せた。その間僅か数秒だったが、啓輔に不審を抱かせるのに十分だった。胸の痛みがさらに大きくなる。対処しようもないそれが余計に啓輔を苛つかせる。
「信じらんねー」
 肩に当てた手に力を込めて、躰を離す。膝立ちになって家城を見下ろした啓輔は、ぎりっと奥歯を噛み締めていた。
「ほんとうに……何でもないんです」
 ぎりぎりと押し付けられる肩が痛いのだろう。眉間にしわを寄せている家城の視線が啓輔と合わない。
 普通だったらそんな事は決してない家城だから、それが嘘だと判る。
「あんた、オレにはポーカーフェイス出来ないって気づいていないの?」
 くくっと喉で嗤われ、家城の顔が歪んだ。
「オレってさ、あんたの何なの?この前、抱いてくれたのは哀れんで?」
 そんなはずはないと判っているのに、それを否定する言葉が出る。
 啓輔は、自分が昔に戻っているような気がした。
 二度とあんな時に戻りたくないと思っていたあの頃に……。
「そんなことありません!」
 それだけは強くはっきりと否定する家城。
 判っている。
 そんなことはないだろうってこと。
 何とかして……よ。家城さん。
 爆発してしまった感情が、啓輔の意志に反して暴走する。
 きりきりと痛む胸がなんなのか、啓輔は気づいていた。
 啓輔は、家城の肩を掴む手に力を込めた。
「痛い……」
 顔を歪ませ、見上げてくる家城に啓輔は言い放つ。
「オレ、あんたが欲しい。無茶苦茶にしたい……」
 オレはあんたを誰にも渡したくない!
 その言葉に家城の躰が強張る。
 無茶苦茶言っている。
 僅かに残った理性が警告する。
 だが、言ってしまった勢いを止められる物ではなかった。
「こんなにも欲しいなんて……だけど、不安なんだ……。あんたって、もてるんだよ。みんながあんたを見てる。そんなの嫌だ。安佐って人にも、竹井って人にも……誰にもあんたを見て欲しくない。オレ、たまらなく不安なんだよ、あんたがどこかに行ってしまいそうで……」
 啓輔は絞り出すように苦しげに呟く。
 そんな啓輔に、家城が今まで逸らしていた視線を向けてじっと見つめていた。啓輔もその目を見つめ返す。
「だから、全部、オレのものにしたいんだ……」


14

「最初に言いましたよね」
 家城がぽつりと言う。あまりに静かなその物言いに、ふと啓輔の意識がそれに向けられた。
「何?」
「私たちは、上手くいかないかも知れない、とね。それはね、お互いがお互いを求めているから。どちらも相手を欲しているから」
 なんとなく言いたいことが判った。
「そう、だね」
「私たちは……いつだって張り合っている。いつも自分が有利に立とうとして……何気ない会話も、触れあうことも……どこか相手の隙を窺っているようだ……」
 家城の目が伏せられた。
 言いたいことは判る。
 お互いがとても相手のことが好きなのに、二人とも攻めだから……性格までもがそうだから……相手を組み伏せようとしている。
 何度もあった機会。
 葬式の日は別にしても……もっとお互いを知っていてもいいような気がする。
 どちらかが受ける側なら……こんなにも、張り合わなくても済んだのだろうか……。
 ……。
 嵐のように吹き荒れていた感情が、急速に修まっていく。
 そして、気付いてしまう。
 オレは何をしていたんだ!?
 目の前の家城を見つめ、心の中で叫ぶ。
 嫉妬に駆られて、彼を傷つけようとしていた。かつて、あの人にしたように。
 あんな事は二度としたくないと思っていたのに……また、同じ事をしようとしていた。
 オレは!
 肩を押さえつけていた手を離した。その手を握りしめる。
 ひどく寒気がする。
「家城さん……」
 くたっと座り込んだ啓輔。血の気を失った啓輔に家城が言葉をかける。 
「いいですよ」
 その言葉に啓輔が目を見張る。
 伏せられていた家城の目が啓輔に向けられていた。
「喧嘩して、君と気まずくなるくらいなら……私は……君に抱かれたい……」
 最後には俯いて。その首筋まで真っ赤に染まっている家城。
「家城さん……」
 その姿は、ひどく扇情的で啓輔の下半身を直撃する。
 だが。
 啓輔は目を閉じ、必死になってその劣情を押さえつけた。
「できない……」
 その言葉を絞り出すように吐き出す。
「隅埜くん?」
「オレ……もうしないと……あんな事はしないと……なのに、またするところだった。緑山さんと同じ事……家城さんにまで」
 勢いに任せて、嫉妬にとち狂ったままに家城を抱いて、何が残る?
 あの時の罪悪感をまた味わうつもりなのか?
 緑山さんと同じ罪悪感を家城さんにまで持つつもりか?
「オレ……ごめん!」
 いたたまれなくて、家城の前にいるのが嫌で身を翻す。
 何も考えていなかった。ただ、この場に家城といるのが堪えられない。
「どこに行くんです!」
 その躰を家城が抱き締める。
「離せよ!」
 駄目だって!
 今は駄目だ!
「落ち着けって!」
「離せ!」
 触られたくなくて振り払った手が、乾いた音を立てた。
 そのちりちりとした感覚に、啓輔は動きを止めてその掌を見る。そして、家城を。
「オレ……」
 何をした?
 家城さんの片頬が赤いのは、なぜだ?そこに走る爪痕は?
 呆然と立ち竦む啓輔を家城が包み込む。
「落ち着いてください」
 なんでそんなに優しいんだ?
 オレが叩いてしまったのに。そんなことしたくないのに……どうしていつもオレは。
「ご…めん……」
「大丈夫です。掠っただけだから」
「でも……」
 なおも言い募る啓輔の顔を家城が覗き込む。
「私が大丈夫だと言っているのに、何で隅埜くんが気にするんです?」
 くくっと揶揄を含んだ笑いはいつものもので、それにほっと安堵する。
「ほんとに、ごめん」
「いいんですよ。なんだかそんなにかしこまって小さくなっているといつもの隅埜くんらしくないですね。まあ、それも可愛いけど」
 う……。
 人が大人しくするとすぐからかう。
 むっとして睨むと、家城がするりと躰を離した。
「やっぱり君は元気がないとね」
「家城さんは相変わらず意地悪だよなー」
「まあ……これが私ですから」
 くつくつと嗤う家城は確かにいつものだけれど……。その家城が視線を合わさない。
 窓の外の今だ残っている瓦礫を見ている。
「家城さん……」
 不安が込み上げ、呼びかける。
「……君は、本当に目敏いですね」
 ため息と共に家城が言う。
「目敏いって?」
「私が必死になって隠していることを、ほんのちょっとした事で気付いてしまう。私のあなたへの想いも。あなたに欲情している私の心にも気付く。そして、竹井君の事も気付いてしまった。あんな一瞬のことなのに……どうして、そんなに気付かれてしまうんだろう……」
 静かな告白にも似た言葉はたぶん啓輔が聞きたかったこと。
「竹井さんはやっぱり特別なんだ」
「そうですね」
 家城が啓輔に笑いかける。その穏やかな笑みに啓輔は誘われるように笑みを浮かべた。
 はっきりと告白されたのに不思議とあの荒だった感情は起こらなかった。いや、はっきりと言われたせいかもしれない。へたに隠される方が不審を煽る。
「彼は確かに特別な想いを寄せていました。でも、彼は普通の男性でした。ずっとね」
 え?
 でも……。
「あそこにいた人はみんな男が相手だって、家城さんが言ったじゃないか」
「あそこにいた人たちは、みな好きになった人が同性だったというだけで、真性のゲイではないのです。彼らは、たぶん女性でも愛せる筈です」
「そう、なんだ……」
 そうか……ゲイってそういう所で別れるんだ。
 本当に同性しか愛せない人と、そうでない人。
「じゃあ竹井さんは……」
「彼は、自分にない力をもっている安佐君に惹かれていたんです。そして安佐君もね。私はそこに入り込めなかった……」
「竹井さんの相手って安佐さんなんだ……」
 昨日の様子が目に浮かぶ。
 そう言われればそうなんだろうけど……というと昨日の喧嘩しているみたいなあれは、もしかしてじゃれ合っていたのか……。
 どこか唖然としている啓輔に、家城は苦笑を浮かべた。
「いつもあんな感じで……完全にひっついてしまえば諦めがつくと思って……それで安佐君にキスをして、竹井君に嫉妬させました。彼もいいかげん独占欲が強いから……」
 あ、それ判る。
 自分の恋人が他人にキスされるなんてシーンみたら、嫉妬なんてもんじゃない。取り戻そうと必死になる。必死になって……。
 ふっと浮かんだ考えに啓輔は顔が熱くなってきた。
 相手に見て欲しくて……相手が……欲しくなる……。って、これって……オレも同じじゃねーか。
「あの二人がくっついたのが12月。その後もいろいろあってなんとか諦めがついたのが3月の終わり。だから、まだちょっとね……心配かけてしまいましたね」
 頬を朱に染めながらの告白。
 しっかし……家城さんって……純情物語一直線?相手のことを考えて身を引いて、なおかつ後押ししてるんだよな。しかも、それでも諦められずに3ヶ月?
 この人って……なんて可愛いんだ……。
「家城さんてさあ、そんなんでよく遊べてたね。なんか想像できないや」
「遊びはね……できたんです。それこそマニュアル通り…っていうのが合っているんでしょうか?決められた通りにするのは出来るんです。だけど、それに心の問題が入ると……うまく出来ないって言うか……」
 言ってて恥ずかしくなってきたのか、口元を押さえる手。その手首を押さえる。
「好きだからうまく出来ないって?」
 啓輔の言葉に家城が赤くなって、逡巡した後頷いた。
 それが啓輔の劣情を誘う。
 しないと思った。
 今は駄目だと……感情の赴くまま、嫉妬にとち狂ったままでは駄目だと……思ってたけど……。
 掴んだ手首を引き寄せると、家城がふっと啓輔と視線を会わした。
「あんたってさ、考えすぎ。そうしているだけで、オレをこんなにも煽ってる」
「え?」
 力を込めて引き寄せ、家城の躰を抱き締める。
「すみの…くんっ」
 高鳴る心臓に家城の耳をあてさせる。
「聞こえる?オレって今こんなにも家城さんに欲情してる。もう、家城さんって何でそんなに可愛いんだろ」
「隅埜くんっ!」
「あのさ……オレ、抱かれたとき気持ちいいって思った。こんなセックスでも良いって思った。でもさ……やっぱり好きな人の中に入りたいって思う……駄目かな」
 息が苦しいほど心臓が激しく動悸を打つ。
 欲しい。
 抱きたい。
 愛したい。
 それに、この前はオレが受け入れたんだから、今度は入れたい。
 抱いているだけで昂ぶってくる。張りつめてくるのは股間のモノ。
 愛したいから抱きたい。
「家城さん、愛してる。オレも竹井さんに似てるのかな。家城さんが他の相手とキスしてるって考えるだけでもう、たまんなくなる。ねえ、判るよね、この意味?」
 判らない訳ないよな。
 そうやってあの二人を煽ってきた家城なら。
 その意味を判りすぎるほど判ってしまっている家城が諦めたように躰から力を抜く。
「言ったでしょう。今日は、いいって……」
 今日は、という所が強調されていたような気がするけど……。苦笑する啓輔の視線の先で、家城が顔を上げた。
 その真っ赤になった顔の唇に誘われるように口付ける。
 触れるだけのキス。
「言っておきますけど、私は初めてなんですからね」
「オレも初めて、男相手は……」
 耳朶に口を寄せて言葉を返す。ぺろりと耳朶を舐めた途端、家城がそれから逃れるように顔を背ける。だが、同時に家城の躰が僅かに震えるのも伝わった。
 不思議だよな。
 こんな可愛いところがあるのに、攻めなんてさ……。
 本当に、家城さんって立場代わると、すっげー可愛いから……だから、オレ、抱きたくてしょーがなくなる。
 でも、オレ達みたいなつき合い方もあって良いんじゃないかな。
 背けられた顔を引き寄せ、再度唇を啄む。
 触れるだけのキスが、少しずつ熱く潤んだものになる。
 

15

 しばらくその場でキスを交わす。
 まだ馴れていない啓輔のキスを受け入れた家城。それでも躰から力が抜けたように啓輔によりかかってきた。
 長く貪られたその唇は赤く濡れ、力無く伏せられたその目がわずかに潤んでいる。
「家城さん……ベッド行こ」
 耳朶に噛みつくように口付けて囁きかけると、家城は朱が散った頬をさらに赤くし、一瞬逡巡した。が、啓輔の促す手には逆らわない。
 家城を抱え上げることは出来なかったので、その腰を抱いたままベッドへと誘う。
 ベッドに押しつけられた家城は、大きく息を吐くと、困ったように苦笑を浮かべていた。
「なんだか……不思議です。隅埜くんの向こうに天井が見えるってこと……」
「そうかもね」
 啓輔はそれにくすりと笑って返した。
 緊張しているのが判る。掌を通して伝わる皮膚の下の筋肉がひどく強ばっている。
 だからそんな戯れ言を言っているのだと判るから……。
「あんたって可愛いよ」
 その躰の上にゆっくりと覆い被さっていく。
「隅埜くんは……いつもそういいますが……今まで誰にもそんな事言われたこと無かったんですよ……」
 首筋に顔を埋めた途端、家城の口から吐息が漏れる。
 言われたことがないのは、こんな可愛いところを見せる機会が無かったって言うことだよな。
 オレにしか見せてくれないその様子。
 オレはこれを知っているのに……どうしてあんなにも嫉妬したんだろう。
 考えてみれば、あの竹井さんて人もいつもの家城しか知らないのだかう。警戒していた安佐さんだって……。
 スキーをすると言った割には、焼けていない白い皮膚。
 首筋からゆっくりと何度も啄むように口付けながら、降りていく。
 着ていたシャツのボタンを上から順に外しながら、その間から覗く肌にも口付ける。肩胛骨の下できつく吸い上げると、赤い印が肌に浮かび上がった。
 顔を背け、堪えるように眉間に皺を寄せている家城。その閉じられた瞼が時折微かに震えた。
 全てのボタンが外れ広げられたシャツの下に家城は肌着をつけていなかった。
 改めて目にしたその姿に、啓輔の心臓はどきりと高鳴る。
 躰を起こし、家城の顔を見ながらゆっくりとその躰に掌を這わした。
 まさぐるようなその動きに家城がくすぐったそうに身を捩る。だがそれが脇腹来た途端、家城の躰が大きく震えた。
 前もそこだった。
 だからそこに口付ける。啄み、吸い付く。
 時折きつく吸い上げれば、赤い印が増えていく。
「ん……」
 吐息と共に漏れる声が頭上でする。必死で声を押し殺している気配に、啓輔はもっと喘がせたいと思ってしまう。
 そろりと延ばした手で家城の胸の突起に触れる。
 指の腹で押しつぶすようにして揉み、つんと爪先でつつく。
「くっ…ん」
 途端に甘い喘ぎが家城の喉から漏れた。
 脇腹にあった顔を持ち上げ、指で弄んでいたその突起に舌を這わせる。すでに固くなつているそれに舌を絡ませるとさらに激しく震えた。
 啓輔の手や指や舌が家城に触れる度に、家城が反応する。必死になって押し殺している声すらも、啓輔を昂ぶらせる。
 啓輔は家城の感じるところを探しては、そこを丹念に攻めていた。
 家城が、無理に受けて入れてくれるのだと判っているから、だから、どうしても気持ちよくなって欲しかった。
「すみの…くん……もう……」
 掠れた声が降ってきた。と、思った途端に口に含んでいない方を愛撫していた手首を掴まれる。
「ん?」
 不審に思って顔を上げた途端にその頭を抱き締められ、ずるっと引き上げられた。
「んんっ!」
 家城が堪えられないといった風に啓輔の唇を奪った。
 すぐに入ってきた舌が啓輔の口内をまさぐり、上顎を嬲られる。
 ずくんと伝わる痺れに、啓輔はびくんと躰を震わした。
 掴まれた手が導かれた先は。
 すげ……。
 キスを受けながら、ちらりと家城を見やる。
 目を瞑って啓輔とのキスにのめり込んでいる家城の股間は、完全に張りつめていた。
 誘われるがままに、そこを服の上から包み込む。
「んんっ」
 途端に漏れた声に、啓輔は無理に顔を離した。
 名残惜しそうに薄目を開けて窺う家城に、啓輔は囁く。
「あんた……欲しいんだ」
 揶揄を含んだ言葉に、家城が真っ赤な顔を背ける。だが、啓輔の手が動くと、くっと唇を噛み締めた。その隙間から漏れる息が、ひどく熱い。
 啓輔は一度そこから手を離しジーンズのボタンを外して中へと手を差し入れた。先ほどより空間ができたその中で、家城のそこは熱くたぎっていた。それを柔らかく握り込むと、家城が啓輔にしがみついてくる。
「いいの、ここ」
 途端に激しく首を振る。
 素直じゃない。
 ムカっときて、啓輔はそこから手を離した。そこを放って、太股に手を這わす。
 首筋から胸元に赤い印を何個もつける。
「あ…んぅ……」
 家城が漏らす声はひどく扇情的で啓輔を煽る。今すぐにでも入れたい気分になるのを必死で堪える。
「あ……すみ…のくん……」
 いつまでも触られないそこに堪えきれなくなったのか家城が自分で手を伸ばそうとしていたのに気が付いた。
「駄目」
 素早くその手を取り、ベッドに縫いつける。
 顔を覗き込み、わざと笑みを浮かべる。
「言ってくれないとさせないから」
 その言葉にくっと家城が顔を歪める。
 その表情にひどくそそられる。ごくりと喉が鳴る。
「あんたさ、絶対受ける方だと思うよ。そんな姿見るとさ、もうたまんねー」
 ぺろっと脇腹の敏感な所を舐めあげる。
「んくっ…あ……」
 足に力が入り、シーツをぴんと引っ張る。
 啓輔は自分がひどく攻撃的になっているのに気が付いていた。
 苛めたい。
 困らせて、喘がせたい。
 ふつふつと沸き上がるその感情を押さえ込む。押さえ込まないと、暴走してしまう。
「家城さん、言いなよ。良いんだろ?」
「くっ…ほんと……に……」
 否定しそうな言葉は聞きたくない。だから、その口を塞ぐ。
 吐息と同じく熱くなった咥内を蹂躙する。
「はっ……」
 唇を離した途端に家城が大きく息を吐く。その目が啓輔を睨み付ける。
「何?」
 啓輔がくっと喉を鳴らすと、家城が諦めたように熱い息を吐いた。
「……イイから……たの…む……」
 吐息と共に零された言葉にぞくりと背筋から脳天に疼きが走る。
 いい…よ、あんた……。
 思わず手を動かして、家城のモノを握りしめた。
「ああっ」
 びくんと仰け反る躰を押さえつける。
 しっかりと形作られたそこを扱くと、家城の口から堪えられない喘ぎ声が漏れる。必死で押し殺しているにも関わらず漏れてしまうその声に、家城自身戸惑いを隠せないようで、何度もふるふると首を振っていた。
「家城さん……声、出して……」
 明るい日差しの入る部屋で、家城の顔は羞恥で真っ赤だ。
 その口元をすうっと指でなぞる。
「はあっ…」
 開けられた口に指を差し込む。驚いたように見開かれた瞳が啓輔を見つめる。それに笑いかけると、啓輔は激しく扱き始めた。
「うあぁ……あぁ…はあぁ……」
 閉じることが出来ないから、そこから間断なく喘ぎ声が漏れる。家城のモノの先端から溢れ出した透明な液が、啓輔の手を濡らし、滑りをよくする。それがさらに家城を苛む。
 先ほど見つけた敏感な場所に口付け、舌を這わす。そしてゆっくりとその場所をずらしていく。下へと……。
 大きく前を広げられたジーンズから取り出したそれを、啓輔はぱくりと口に含んだ。
「んあっ」
 もう指を入れていなくても家城は漏れる声を止めることは出来なかった。それでも必死で大きさだけは堪えようとしているみたいで、自分の腕で口を塞ぐ。そこからくぐもった声が音として響く。
 啓輔の咥内に広がる先走りの液の味。
 それをもっと味わいたいと思う。
 硬く張りつめたそれに舌を絡ませ、唇をすぼませて扱く。
「あぁ、もうっ!」
 それまでさんざん焦らされていた家城の限界は近かった。
 口を塞いでいた腕すらも放して、啓輔の頭を押しのけようとする。
 だが、啓輔は手を後ろの袋で揉みし抱きながら一気に口で扱いた。
「んあっ!」
 一際激しく家城の躰が痙攣した。
 喉の奥に家城のモノから吐き出された青臭い液が入ってくる。
 それをごくりと飲みこんだ。
 不快ではなかった。
 おいしいとは思わなかったけれど、それでも家城のモノだと思うと妙に愛おしさが沸いてくる。
「す…みの……くん……」
 肩で大きく息をしながら、必死で呼吸を整えようとしている家城が上半身を起こしてきた。
「何?」
 啓輔も家城から躰を起こす。
「私も……」
 その言葉と共に家城が啓輔を押し倒す。
「え?」
 家城の手が手早く啓輔のスウェットのズボンを下着ごとずらした。その中のモノは家城の痴態に煽られて、すでに硬く昂ぶっている。それを家城が口に含んだ。
「あ…っ、んんっ」
 仰向けになった啓輔の躰に逆向きに乗っている家城。そのせいで家城の腰が目の前にあった。
 下半身から来る熱い疼きに翻弄されながらも、啓輔はそこに手を伸ばした。
 飲みきれなかった精液がその先端から溢れている。それを手にとって後ろを目指す。
「うっ」
 指先が家城の後孔に触れた途端、啓輔のモノを口に含んだままの家城が、ぶるっと震えた。
 その視線が啓輔を見やる。
 にやりと浮かべた笑みに、家城がすっと視線を逸らした。
 啓輔は指でその場所を何度も何度も揉みほぐすように苛んだ。時折家城が堪えるように躰を震わせる。口の動きがその度におろそかになる。
 それが物足りなくはあったけれど、啓輔はそれでも家城への攻撃を止めようとしなかった。
 一度指を離してたっぷりと唾液を絡ませると、再度そこに押しつける。
 少しきつく押しつけると、解れかけていたその場所にすうっと指が吸い込まれるように入った。
「あっ!」
 その刺激に家城が口から啓輔のモノを外して仰け反る。その口元から唾液が糸をひいていた。
「きついね」
 家城のそこは指一本でも締め付けるように動く。
 初めてだと言ったその言葉に嘘はないのだろう。家城自身、どう対処していいのか判らないようで、きつく目を閉じて堪えている。
 啓輔自身それが判るので、もう片方の手で、家城のモノを柔らかく扱く。
 萎えかけていたそれは、その愛撫で確実に形を成していく。
「んふっ」
 声が漏れると共に、躰の力が抜けていき締め付ける力も弱まる。そのタイミングを図って、ゆっくりと指を入れていった。
 どこか良いところが在るはず……。
 この前啓輔自身が体験した前立腺という所。
 それを探したかった。
 苛めたくて性急に事を運ぼうとする意識を押さえつけてゆっくりと事を成していこうとする事は啓輔にとって苦痛だった。
 外されて所在なげに勃っている啓輔のモノは、先に進みたいと疼いている。
 だが、必死で意志の力で啓輔はそれを押さえつけていた。
「家城さん……オレのモノ、銜えて……」
 それでも一度イカないと……我慢できそうにない。とにかく家城の痴態は啓輔を煽るのだ。今すぐにでも目の前の場所に自分を入れたくなる。
「家城さん、頼むよ」
 その言葉に家城が再度ぱくっと口に含んだ。
 柔らかく熱い感触にぞくぞくと全身に疼きが走る。
「うくっ……はあっ」
 眉間に深い皺を寄せ、その快感を受け入れる。
 家城の意識がそちらにいっているせいか、その後孔はかなり力が抜け解れてきていた。
 再び溢れ出した先走りの液を手に取り指に塗るともう一本差し込む。
「くっ」
 その異物感に家城が口に力を込めた。
「うあっ」
 !
 いきなりのその刺激に堪えられなくて、啓輔の頭の中が白くなった。どくりと吐き出されるそれを家城が吸い取り、飲みこむ。
「あ……はあっ……」
 ごくりと動く喉に目が吸い寄せられる。
 口から抜け出た啓輔のモノと家城の唇が唾液の糸で繋がっていた。
「あっ」
 びくんと家城が仰け反った。
 動いた拍子に体内の啓輔の指がある場所に触れたらしい。
 ざらりとしたその場所を啓輔は再度指でつつく。
「んあぁっ」
 手の中の家城のそれが一気に勃ちあがった。
 何度も抜き差しを繰り返しながら、そこをつつくと、そう間をおかないうちに家城が再度吐き出した。
 吐き出された熱い精液がぼたぼたと啓輔の手の中に落ちてきた。


16

 家城の口から自分のモノを抜き出す。
 わずかに萎えたそれは、それでもこれから起こるであろう快感を期待して今すぐにでもいきり立ちそうな気配だった。
 躰を起こし、力無く横たわった家城の背の上に覆い被さる。
 吐き出したばかりの躰はお互いまだ息が荒くて、その吐息の音が部屋に響く。その背に口付ける。ほのかに匂う家城の汗の匂いが、それだけ近くにいるのだと認識させられ、それが劣情を誘う。
 家城の吐き出した白い液しかぬめりを帯びたモノが無い。それを家城の後孔に塗り込めていく。
「んっ……ふっ……」
 力の入りかけた躰から意識して力を抜こうとしているのがなんとなく判った。
 そのむき出しの白い背筋に誘われるようにキスを落とす。
 僅かに震える躰の感触を楽しみながら、啓輔は自身のモノを家城の後孔に押しつけた。
 びくりと家城の躰が震える。その躰を抱き締めて、ぐいっと腰を進めた。
「うあっ…くうっ!」
 必死で声を殺そうとする家城は、その手でシーツを握りしめていた、その拳が力の入れすぎで白くなっている。
 ひどくきつい締め付けを感じながら、啓輔はぐぐっと躰を押し進めた。
「うううっ」
 ごめん……。
 喰い縛っている歯の隙間から漏れる唸り声に、罪悪感を覚える。だが、躰は突き進むのを止めようとしなかった。
 ぐいっと最後は力を込めて押し込む。
「くうっ!」
 家城の躰が大きく仰け反る。
 その躰を抱き締めて、啓輔はその耳元で呟いた。
「ごめん……でも入った……」
「あっ……」
 動きが止まったせいで幾らかは痛みが和らいだのか、家城がはあっと息を吐き出した。
 全身が汗で濡れている。そのしっとりとした感触に触れた部分が馴染んでいるようだ。女性の物とはどこか違う肌。それでも、啓輔にとって今まで抱いたどの女よりも家城の方が色っぽいと思う。
 きついほどの締め付けが徐々に馴染んできた。家城の中はひどく熱い。
「動いていい?」
 問いかけると、家城がこくりと頷いた。決して見せようとしない顔だが、その首筋が赤く染まっている。
 最初はゆっくりと動かした。
 できるだけさっき見つけた家城の良いところを突くようにゆっくりと。
「……んくっ……ふあっ…ああっ……」
 時折上げる声は痛みだけではないようで、どこか熱を含んでいた。
 それでも必死で声を押し殺そうとしているのがなんとなく悔しい。ふとそう思った途端、啓輔は一際強く奥を抉った。
「んあっ!」
 途端に堪えきれず漏れた喘ぎ声。
 びとく仰け反らした背筋のラインにキスを落とす。舌ですうっとなぞると、細かく躰が痙攣した。
「気持ちいい?ね、声我慢しないでよ。オレ、家城さんの声聞きたい」
「そ、んな……んくっ…言われても………んふうっ……」
 首を振り、堪えている家城の目から生理的な涙がこぼれ落ちる。
「声、出してって言っているんだよ」
 ぎりぎりまで引き抜き、再度貫く。
「あっ……やっ…ああっ……」
 押し込まれた衝撃に吐き出された息が声を絞り出す。
 そっと前に回した手で家城のモノを掴むと、それは硬く張りつめていた。
「イイんだ……ここ、こんなになってる……」
 からかうように耳元で囁きながら、そこを扱き、そして貫く。
「…ああ……やめ……て………ああっ!」
 痛み以上の快感が家城を襲っているのが判る。啓輔自身もこの前それを経験したのだから。痛みを越えるそれを期待した自分がいたのだから。
 だから、さらに激しく抜き差しする。
 抉るように突き上げるとその締め付けがダイレクトに啓輔のモノに伝わる。
 啓輔自身、限界まで張りつめていた。
「んくうっ…もう……ああ……」
 必死で手をついて上半身を支えている家城。その腕がぶるぶると震えている。躰を支えているのにも辛そうな様子に、啓輔はラストスパートをかけた。
 ぐいぐいと力任せに突き上げる。
「んっ!」
 限界まで昂ぶっていたそれが一気に弾けた。
 それが痙攣する以上に躰が震える。
「はあっ……」
 抑圧されたモノが解放された躰が一気に力を失って、家城の背に倒れ伏した。
「家城さん……」
「ん…くっ……」
 啓輔に押さえつけられ、家城も支えていた躰をベッドに突っ伏させた。握りしめていた家城のモノがベッドの間で挟まれ、締め付けられる。
「あ、…んんっ」
 啓輔の手がきつく扱くと、限界を迎えていた家城も呆気なく吐き出した。
 どくどくと震えるそれが愛おしくて軽く扱く。残っていた液が全て吐き出される頃、啓輔はようく家城の背からその横に転がり落ちた。
 とたんに濡れた音を立てて抜け、家城がその余韻にぶるっと躰を震わした。
「はあ……」
 啓輔の躰をひどく気怠さが襲っていた。
 この前したときとは違う開放感に包まれる。
「家城さん……」
 呼びかけると、家城がふいっと啓輔とは反対の方を向いた。
 おいっ?
 それにむっとして、半身を起こして家城の顔を覗き込む。
 すると今度はぐっとシーツに顔を埋めてしまった。
「家城さんってば!」
 呼びかけても返事すらしない。
 何なんだよ、これ。
 もうっ!
 見てろっ!
 啓輔はそのむき出しの背筋にそっと舌を這わせた。
 途端にてきめんに震える躰。先ほどの行為で見つけた家城のイイであろう場所を攻める。
「や、やめて…くださいっ!」
 切羽詰まった声に半身を起こして見ると、家城も肘をついて胸から上を起こしていた。片手で顔を覆っている。
「家城さんが返事しないからだよ」
「そんな事言われても……」
「何がそんな事だよ」
 ぐいっとその隠している手を外させる。
「えっ」
 その顔は目元まで真っ赤に染まっていた。
 くっと噛み締めた口元ですら、ひどく扇情的なその姿に、啓輔は萎えていた自身がむくむくと起きあがるのを感じた。
「……いえ…きさん……かわ…いい……」
 熱い吐息と共に漏らした言葉に家城は力無く首を振ると再び突っ伏した。その背にがばっと覆い被さる。
「ね、もう一回したい……」
 猛々しく張りつめたモノを家城の腰に押しつける。
 啓輔の言葉に家城は深く息を吐いただけだった。


 ふっと気が付くと、もう辺りはすっかりと夜のとばりが降りていた。
 辺りを見渡すと、啓輔の傍らでTシャツ姿の家城が微かな寝息を立てていた。
「あれ?何で?」
 ふと気がつけば、自分は全裸だ。
 ただ、汚れていたであろう箇所は綺麗にふき取った跡がある。
「まさか……」
 恐る恐るベッドサイドを見ると、バケツとタオルがそのままに放置されていた。
 散らかっていたティッシュがゴミ箱に全て収まっている。啓輔はごくりと息を飲むと、再度家城を窺った。
 あの後、もう一度やって……それからあまりの気怠さにそのまま眠りに入った。
 その時、家城もぐったりとしていたような気がしたが……。
 もしかして……実は、家城さん起きてて……後始末してくれた……って!
 げぇ!
 オレ、あんな情けない格好、曝したのか!
 そ、そんなの!
 だいたい、何でこの人はそんなことする元気あるんだよ!
 啓輔の脳裏にこの前の事が想い浮かぶ。
 家城が帰った後、がたがたの躰に動くのがひどく億劫だったはずだ。しかもあの時より、回数が多かった……。
 なのに……。
 疲れ切った様子の家城を見るにつれ、無茶をさせたとは思う。
 だが歯止めが利かなかった。
 『今日は……』
 どうしても気にかかるのはあの一言。
 もしかするともう無いかも知れないと……ふっと思った。
 だからこそやれるときにやりたいだけって思ったのも事実で……。
 んでも……やりすぎたのかなあ……。
 それほど家城の中は気持ちよくて、今思い起こしても再び勃ってしまいそうだった。
 それはマジでやばいっと思い起こさせるのに十分で……。
 啓輔は苦笑を浮かべると、自分も服を着るために起きあがった。
 家城を起こさないようにそっとベッドから降りる。
「んっ」
 微かな声に起こしたかと振り返る。
 だが、眠り続ける家城の姿に変わりはなくてほっとする。
「ごめん。ありがとう」
 起きてる時には照れくさくて言えないから、今ここで言っておくけど……。
「だけど、できればまたしたいんだけどね」
 こればっかりは家城次第であった。
 その家城に再度視線を送ると、啓輔はふっとその口元に浮かんだ笑みを鎮めた。
 ぱたぱたと階下に降りる。
 一階には一間しかない。そこを半分ほど占めて祭壇が奉られていた。
 最上段に並ぶ二つの錦の袋に入った箱。
 その中に二人の骨が入った骨壺がある。
 ここにくると、どんなに高揚していた気分でも、すうっと熱が引いたように冷めてしまう。
「母さん……オレ、いいのかな……」
 寂しくて、辛いこと、それを忘れてもいいのかな、と……。
 家城といるとそれを忘れられる。
 ずっと味わっていた。親が生きている間も、自分には誰もいないと思っていた。
 死んでいなくなって……やっと取り戻したけれどそれはもっとたくさんの寂しさを持ってきた。
 それを忘れてさせてくれる存在がいる。
 もし、家城がいなかったらオレはどうなっていただろう。
 それは、もし、だ。
 考えたくもない事。
 少なくとも今は……少しでもその恩恵を味わっていたい。
 蝋燭を灯し、線香をつける。
 香の独特の芳香が部屋に充満していく。
 躰に受け入れ、そして受け入れて貰った。
 今まで感じたことのない充足感。
 彼を疑うという愚かな行為もしてしまったけれど……それでも、彼は許してくれる。
 その大人な家城に比べて、自分はどんなに子供なのかと認識させられる。
 だが、子供だと割り切ろうと思う。子供であるから家城に縋り付く。我が儘も言える。
 無くしてしまった温もりを二度と離したくないから。
 どんな我が儘なことを言っても離したくないと思うから……。
 いつか、なんて考えたくない。
 ずっと彼の元にいたい。
 まだ……未成年のオレだから……まだ……許して貰えるかな……。こんな子供じみた想い。
 流れる涙を拭うことも出来ない。
 
 静寂を破ったのは、ドアを叩く音だった。
 慌てて啓輔は涙を拭い、ドアへと向かう。
「誰?」
 誰何する声に返事はない。訝しく思いながら、引き戸を開ける。
 暗い背景の中、部屋の灯りに照らされて一人のスーツ姿の男が眉間に皺を寄せて立っていた。
 まさか……。
「晃(こう)にいちゃん……」
 どんなに全て切り捨てようとしたとしても、忘れることのないその名が口をついて出た。


17

「啓輔、何で知らせなかった?」
 詰め寄るのは萩原晃一(はぎわら こういち)。母方の伯母の息子。啓輔にとっては5人いる従兄弟達の中でもっとも親しい従兄弟だった。そして……最初に啓輔達家族を切り捨てたのも、晃一の両親だった。
 もっとも近しく仲の良かった姉である伯母に切り捨てられたと、半狂乱で啓輔に当たってきたのはいつのことだろう。ひどく酒に酔っていた母親がひどく哀れでそして情けなかった。そして、叩かれる啓輔を助けようともしない父親に心底怒りを覚えた。
 何もかもが狂ったきっかけ。
 彫りの深い顔。肌の色すら浅黒い。純粋な日本人なのにどこかエキゾチックなその雰囲気は、彼の父方の血のせいらしい。背はそれほどでもないが骨太なせいで迫力がある。
 縁なしの眼鏡越しに睨まれ、啓輔は視線を逸らした。
 なんであんたがここに来る。
 最初の驚きが去り、今度は疑問が沸き起こる。
「何で来た?」
 その険の含んだ声音に晃一がまじまじと啓輔を見つめる。
 寄せられた眉間のしわが一層深くなった。
 それをじっと睨み返す。
 親戚には知らせなかった。知らせたくもなかった。火事で人が死んだのだからニュースにはなったのに、その後誰も来なかったから誰も知らないのだと安心していたが。
 だが、晃一の最初の一声は、それを知っている事を示唆していた。
 数少ない親戚は皆関東圏に住んでいた。この晃一の母である伯母、そして母の兄である伯父。父方の叔父も。ここからは随分と遠いから、滅多に顔を見ることはなかった。今いきなり遭ったとしても、この晃一以外は、そうなのかなあ、としか思えないだろう。
 7年ぶりかで見た晃一が怒りに満ちた顔を歪ませ、苛々と前髪を掻き上げると啓輔を睨み付けた。
「俺の質問が先だ。何故、知らせなかった?」
 そんなこと……。
 その目の奥にある怒りの炎に啓輔は口の端を上げた。揶揄するようなその表情の変化は、晃一の怒りを煽っただけのようだ。
 ぐっと胸元を掴み上げられる。
「啓輔!」
「知らせたくなかったからだ」
 引き上げられ、苦しげに顔を歪めながらも啓輔はその10cmほど先の晃一から顔を逸らせなかった。
「何故?」
「二人ともそれを望んでいやしねーだろーからな」
 その言葉に、晃一の目が見開かれる。そして、すうっと細められた。
「それほど嫌われていたということか。お前は、それを聞かされていたのか?」
 直接には聞かされてはいない。
 だが、両親が酔うたびに受けた罵声と暴力の嵐。
 その原因が、理性を失った両親の口から啓輔に伝わるのは不思議な事でもないだろう。
 再び浮かんだ啓輔の顔の笑みが肯定を表す。
「……それが、間違いだとは思わなかったのか……」
「間違い?何で?」
 あれが間違いだと?
 啓輔の問いから晃一は視線を逸らし、祭壇の方を見つめた。二枚の写真をじっと見据える。
 すっと手が離され、啓輔は軽くせき込んだ。
 喉に手をやり、晃一の視線に沿って写真を見る。
「3年前、お前の両親が借金を申し込んできた時、父が経営している会社は倒産の危機だった。金など貸せる状況ではなかった」
 抑揚のない声が啓輔の耳に届く。
 はっと晃一の横顔を見つめた。
 倒産?
「父は、そういうこちらの事情など一切言わずに、ただ断っただけだ。それをお前の両親は、勝手に解釈した……」
「そんな、こと……」
「うちの父もいい加減気位だけは高かったからな。倒産なんて、恥だと思っていたから母にも言わなかった。まあ、そうは言っても金の工面に四苦八苦しているから母だって気付いてはいたから、だから、こちらの話は断るしかなかったんだ」
 晃一が視線を啓輔に戻した。
 苦痛に堪えるようなその表情に啓輔の胸がちくりと痛みを訴える。
「1年ほど前、父は亡くなった。その連絡はした。知っていたはずだ、お前の両親は。まあ、その後は音沙汰無かったが……」
「伯父さんが……」
 そんなの聞いていない。
 1年前……。
 そういえば……荒れ方が特に酷いときがあった。
 あの時か?
 完全に両親が鬼と化した時だ。
 家に帰ることが恐ろしかった。
 あれがピークだった。あの後は少し落ち着いていたけれど……。
「俺達はお前の家族を見捨てるつもりなど無かった。他の親族はともかく……俺達は」
「そんなのっ!」
 くっと目を硬く瞑る。
 握りしめられた拳がわなわなと震えていた。
「今更、何だよ!最初にきちんと話をすればっ、してくれればっ!」
 あんなことにはならなかった。
 壊れることはなかったっ!
「こ、んな……こと……」
 悔しくて、悔しくて……目尻から涙が溢れる。
 たった一つの入れ違いがこんな結末に至るなんて、そんなことっ!
「そうだな、最初の言葉の足り無さが原因だ。だが、こちらもそれどころではなかった。倒産すれば、うちの家族だけの問題じゃなくなる。少ないとは言え、社員がいる。その家族まで巻き込むことになる。親戚とはいえ、お前達のことまで頭が向かなかったのは事実だ。それを責められても俺達にはどうしようもない」
 そうかも知れない……だけど、それを今知ったからと言ってどうだという。
 涙で潤んだ瞳を晃一に向けた啓輔は口を開いた。
「もう、どうしようもない。それは判ってる。だけど、一番ショックを受けた両親は死んだ。晃兄ちゃんは知らんだろーけど、あれから家は最悪だった。オレがどんな目に遭ったか……この家が安らぎの場所でなくて……オレは、ついこの前までどこにも安らげる場所はなかった。今入った会社の人たちがいい人達ばかりだったから、オレはこの家以外にやっと安らげる場所を見付けた矢先だった。なのに、火事が起きて……死んでしまったから……オレはここに戻って来れた。話を聞いて……あの二人も立ち直りつつある所だって聞いて、結構ショックだったのに……あんたまで来て、そんな事を言う……じゃあ、オレは誰を恨めばいい?オレが受けた3年間は?あんな地獄のような思い……」
 どうしたら良かった?
 どうして誰も憎ませてくれない?
 あの3年間は……忘れることなど出来ないのに。
 もう親を憎むことはできない。原因を知っているから……あんな状態になっていても少しは自分の事を気にしていたのだと知ったから……オレは、それでもあの二人が好きだったから……。
 だけど、その大元の原因が悪くないのだという。
 では、どうすればいい。
 頭の中がぐるぐると感情が渦巻く。
 どこにも出ていくことができないその感情が、啓輔を責め苛む。
「啓輔……何があった?おじさんたち、何をしたんだ?」
 がしりと肩を掴まれひどく揺すぶられる。
「……」
 言えるか!
 きっと口元を固く結ぶ。
 誰にも言いたくない。
 今更、死んでしまった両親を……。あんな両親を思い出したくないから、口にしたくない。
 それが例え、晃一であっても。
「啓輔……何があったか、言ってくれないのか?」
 晃一がじっと顔を覗き込む。
 それを見ているのが辛くなって、ふっと視線を外した。
 心配そうに覗き込む晃一の姿が昔を思い出させる。
 いつだって実の兄のように啓輔の事を心配して、こうして顔を覗き込んできた晃一。
 変わっていないや。
 胸が熱い物で一杯になる。
 幸せだった頃が思い出されて……。
 溢れそうな涙を堪えるために、啓輔は晃一の手を振り払った。
 心配なんかされたくなかった。もうあの時みたいな子供ではない。
 晃一は、昔ながらの晃一であったけれど、それでも親戚の一人なんだ。
 必要以上の期待はしたく……ない……。
 晃一の言葉がどこまで真実か判らないのだから。それでも内心は、晃一に昔のように縋り付きたいと思っている自分がいる。
「啓輔……昔のようになんでも話してくれる仲にはなれないのか?」
 何でも……。
 そうだな。昔は何でも話してた。
 でも、今は晃一相手にそれをしたいとは思わない。
 狂っていた両親のことはもちろん、自分が狂っていた時期の事も……。それを話したいと思えるのは、今は晃一ではないのだから。
 それを話してもいいと思えるのは……ただ一人。
 どうすればいい、オレは?
 苛々と髪を掻き上げながら、晃一を見る。
 思わず言ってしまったこの言葉も十分本心なんだよ。
「晃兄ちゃん、オレはそれでもまだあんた達を許せない……」
「け、いすけ……でもそれは……」
 啓輔の言葉に、晃一が口を開きかけそして逡巡の後口を閉じた。
 諦めが入り交じった吐息が漏れる。
「そうだな。逆の立場だったら俺自身、そう思うだろうな……」
 その姿がどこか疲れているように見えた。
 無理をしてきたのかも知れない。この時間に来ると言うことは、最終の飛行機で飛んできたんだ。
 許せない相手だと口で言いながら、心の中ではそんな晃一を心配している。
 その矛盾が、啓輔を縛る。
 何も言えなくて、ただぎりりと唇を噛み締めた。
「何もかも、もう遅すぎたんだろうか……」
 晃一の言葉に、違うと叫びそうな自分がいた。
 そうすれば随分と楽になるだろうに、それができない。
 縛られた心が、躰をも縛る。
 憎むことは容易い。そうすれば、あの3年間は晃一達のせいにできる。
 全てを他人のせいにして……記憶の片隅においやることが出来る。
 だけど……。
 それでは駄目なんだと、誰かが言う。これは誰だろう。
 頭の中で、縛り付けられていた心と躰を解こうとする声がある。
 啓輔は大きく息を吸った。
 どこか湿った香の香りが充満した空気が肺に入る。
 そして、吐き出す。
 吐き出しながら、自分を見つめる。怒りに我を忘れることは容易い。だが、二度とそれはしないと誓った。
 だから。
 啓輔は一回首を振ると、晃一に視線を向けた。
 浅黒く彫りの深い顔は、子供だった頃からひどく男らしく見えて憧れだった。
 10も違って、世話の焼けるガキだったに違いないのに、ずっと遊んでくれた想いでは……あの3年間を経ても忘れることなど出来ない。いや、さらに鮮明さを増して思い出される。
 許せない、と言った。だけど、憎みきる……ことはたぶんできない。
「晃兄ちゃん……四十九日の法事には来てくれるか?」
「え?」
 思っても見なかったのだろう、晃一の目が大きく見開かれる。
「後、6週間ある。オレ、それまでに何とかする。自分のことも家のことも、けりをつける。このままでは駄目だっての、判ってる……。もう一度よく考える。だから、四十九日までにけりをつける。それから……もう一度逢いたい」
 6週間の間になんとかできる自信なんてない。
 だけど。
 このまんま晃一を憎み続けるのは嫌だった。
 もうずっと逢わなかったら、憎むだけの存在でいただろう。しかし、逢ってしまった、もう憎めなくなっている自分がいる。それは紛れもない事実。
「来るよ。必ず」
 晃一がそう言ってその顔に笑みを浮かべた。
「晃、兄ちゃん……」
 気が付くと、その胸に縋って泣いていた。
 スーツの襟元を掴み、頭をこすりつける。その頭を昔のように晃一が優しく撫でてくれる。
 ごめん……言えない言葉が涙となって出てくる。そんな感じだった。
 四十九日までには何とかするから……。

 ひとしきり泣き、落ち着いてきた啓輔の耳に入ったその微かな音に、びくりと躰を起こした。
 カタッ
 トン…トンとゆっくりと響くのは階段の音。
「忘れてた」
「誰かいるのか?」
 晃一の訝しげな問いに啓輔の背筋に冷や汗が流れる。
 家城さん……。
 昔ながらの建築物だから、防音性はひどく悪い。
 下に人がいるのは聞こえていたはずだ。たぶん、声を荒げた時にはその内容すら聞こえていたに違いない。
 自分が泣いていたことも、そして今のこの状況……。
 啓輔は慌てて晃一から身を離した。
「どうした?」
 振り払われた手もそのままに茫然と啓輔に訝しげな視線を送る。
「あ、あの……今日手伝いに来てくれた人がいてさ、会社の人なんだけど……具合悪くて上で休んで貰ってた……はは、忘れてた……」
 取り繕うようなべたな言い訳を空笑いと共にした途端、階段口から家城が現れた。
 ちらりと一瞥され、啓輔は何故か身が竦む想いがした。
 その冷たいまでの美貌が、さらに輪をかけているように感じた。
 え?と……怒ってる、のかな?
 怒られるいわれはないと、思うけど……だいたい、泣き声は聞こえたかも知れないけど……抱き付いているところまでは見られていない、と……。
 でも、怒ってるよなあ……あれは。
 だけど……な、んか……ちょっと……。
 寝ていたときに来ていたTシャツの上に、着てきたシャツを羽織るように着込んでいる。少し乱れた髪は手櫛で整えたのだろう。その乱れ方を見た途端、啓輔の胸の内に熱い劣情が込み上げてきた。どことなく青白い肌がカーテンの間から差し込む月の光に照らされる。目元がほんのりと赤く潤んでいるようだ。
 それがひどく艶やかに啓輔達を捕らえる。
 傍らで晃一がごくりと息を飲むのに気が付いた。
 だからと言って責めることなど出来なかった。啓輔自身、家城に魅入られていたのだから。
 いつも以上に磨きがかかっているその冷たさをすら凌駕する色気が滲み出ている。
 それは目元であったり、苦痛に耐えるように微かにしかめられている表情と言い……。
 なのに、それ以外は毅然とした態度を取る。
 そのギャップがたまらなく良いと感じてしまう。
「すみません。お邪魔してしまって」
 そんな家城に声をかけられ、晃一が慌てて首を振った。
「そ、んな事、ないです。こちらこそ、お休みの所、お邪魔してしまって……あ、私、啓輔の従兄弟で萩原晃一といいます」
 どう見ても、家城に飲まれているとしか言いようがない晃一の態度。
「家城純哉といいます。こちらこそ長居をしてしまって……それでそろそろお先に失礼しようかと」
「え、帰んの?」
 家城の言葉に啓輔の方が慌てた。
 こんな顔色悪いのに。まだ、あそこだって痛むはずだ。それなのに……帰せない。
 それに……一件無表情なのに、どう見ても家城が怒っているとしか思えない。どこがどうとは判らないが、何となくそう思う。
 そんな状態で離れたくなかった。
「大丈夫ですか?顔色が悪いようですが、私の事は気にせずにもう少しお休みになられたら?」
 晃一の言葉に家城は微かに笑みを浮かべる。
「薬を飲みましたので、もう大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
 相変わらず……。
 そんな家城に啓輔は舌を巻く。
 信じられないとすら思う。
 こんな完璧な外面を持つ家城が、何故自分に対してだけそれが無理なのかと、その方が不思議だ。いや、判ってしまう自分もいい加減呆れるが……。
「しかし……」
「お気遣いなく。じゃあ、隅埜君失礼しますね」
「え、でも……」
 引き留めたいのだが、家城の目が冷たく拒絶する。結局、その態度に圧倒され、去っていく車を茫然と見送ることしかできなかった。


18

「なあ、あの家城さんって、なんというか……」
 歯切れの良い言葉で話していたはずの晃一が、躊躇うように言葉尻を濁す。
 もしかして、結構やばい状況?
 ちらりと窺う視線の先で、晃一の浅黒い頬が色を濃くしていた。その晃一がじっと家城の車が去った痕をじいっと見ている。
 これって……一目惚れって奴かい?
 どうみてもおばちゃん達と同じ目をしている晃一に啓輔は内心ため息をついた。
 なんて……こった。
 確かにあの色気は、もう凄まじかったけれど……その原因を作ったのは自分だという自覚はあるから家城を責めるわけにもいかない。
 しかし、だからと言ってライバルをつくる訳にも行かねーし……。
 でも……なんか……。
 嫌だ……。
「家城さん、恋人いるからね」
 意地悪げな笑みをわざとその口元に湛えて言うと、はっと気付いたように晃一が狼狽えて首を振った。
「いや、俺は、その格好良いなあって思っただけで……恋人とかそんな……」
 これ……って、おもしれー。
 どうみたって普通の男でしかない晃一が、自分の気持ちに対処できなくて狼狽えている。
 それは、他人から見れば滑稽なほどで……。
「だいたい、あの人、男だろうが。からかうのはよせ!」
 やっと結論付けることのできた言葉は予想通りだった。
「判ってるって、そんな事!」
 可笑しいっ!
 腹を抱えて漏れる笑い声を止めることの出来ない啓輔にからかわれたと気付いた晃一が憮然とした表情を浮かべて、啓輔を見据える。
「ご、ごめん……。だけどさ、晃兄ちゃんの顔つきが恋する若者って顔でさ、ついからかいたくなっちまったんだよ」
「恋する若者って……なんて喩えをするんだ、お前は。まあ、確かに家城さんだっけ?あの人は、もてそうな顔だよな。羨ましいっとは思ったけどな」
 よく言う……。確かに自分の気持ちに気付くのも他人の視線に気付くのもひどく鈍いのは昔からだけど。
 啓輔は気付かれないように苦笑を浮かべた。
 だいたい昔から晃一が家にくると競って女友達が遊びに来ていたのに、あの猛烈なアタックに全く気付かないこの鈍感な晃一だから、家城の色香に血迷っていることに否定すらするだろーけど、肯定は絶対しないだろう。
 エキゾチックな雰囲気の晃一は、その育った場所のせいでの都会的な雰囲気で結構もてるタイプだった。今はそれに随分と落ち着きが上乗せされ、もてないはずはないだろうと思わせる。
 もし彼が家城を好きだと気付いて、告白したら……どうなるんだろー。
 いや、そんな事はないだろーな。
 晃一が分の気持ちに気付いた頃には、どうせ遙か彼方の関東地方に戻っている筈だから。
 それまでには、家城の心は自分だけの物にしてしまえばいいんだ。
 これ以上いらないライバルを増やしたくない。
 それでなくても会社には、諦めたと言っているけれど家城がこの前まで好きだったという人間がいるのだから。
 啓輔の脳裏に、どこか不機嫌な家城の姿が甦る。
 とにかく、あれは何とかしないとな。
 

 結局、晃一は啓輔の部屋に泊まることになった。
 スケジュールを無理に開けて空いていた飛行機のチケットを取って来た晃一は、いつもの感覚で啓輔の家に泊まるつもりだったらしい。ホテルを予約するのを忘れていたのだ。
 それを聞いた啓輔も追い出すわけにもいかず、唯一寝ることの出来る啓輔の部屋に布団を敷くことになった。この布団は、佐山の家から借りてきた。
 家城さん、帰ってくれて良かった……。
 布団を敷きながら、啓輔は心底安堵していた。
 それでなくても狭い部屋。これに家城が加わることなどまず無理なのだから。
 だが、気になるのは帰り際の家城の様子だった。
 どことなく不機嫌さが漂っていた。
 体調の悪さから来ているのだったら問題ないのだが……いや、それも拙い……だが、どうもそれだけでは無いような気がする。
 2階にいた家城に、階下の様子は声と音しか伝わらないはず。その状態で、なぜ不機嫌になるんだ?
 放っといたからか?
 でも、親戚だということは家城さんだって気づくはずだ。
 なら、何で?
 ……。
 まさかなあ……嫉妬してくれたんじゃねーよなー……。
 それなら、何か嬉しーけどさ。
 その考えが頭に浮かんだ途端、顔がにやけてくる。
 明日、行ってみようかな。晃兄ちゃんは、用事があるとかでさっさと帰って貰ってさ。
「どうしたんだ?」
「え?」
 いきなり声をかけられ振り向くと、晃一が2階に上がってきていた。布団が敷ける間司で待っていて貰ったのだが、様子を見に来たらしい。
「何をにやにやしているんだ?」
「え?俺、笑ってた?」
「何かでれっとしてたぞ。いいことでも思いだしたのか?」
「い、やあ……そんなことは……」
 あはは。
 オレ、そんなに顔に出てたってことか?まずいじゃん。
「ま、いいけどさ。でな、明日、朝一番の飛行機で帰ることになった」
「あ、ああ、そうなんだ」
 ラッキー!
 嬉しくてつ顔が綻んでしまいそうになるのを必死で抑える。
「仕事が入ったって静樹(しずき)から連絡が入ってね」
「仕事ね。そっかあ、忙しいんだ」
 良かった、良かった。追い出したらさっさと家城さんの所、行こうっと。
「ああ、そうだ、四十九日な、静樹も連れてくるから。その電話をしていたんだ」
「へ?」
 しずき……って誰だ?
 思い出せなくて訝しげな視線を晃一に送る。
「忘れたのか?谷口静樹。俺達の一番上の従兄弟だろうが」
「あ、思い出した」
 名前だけは……。
 ずっと向こうにいた谷山一家は、晃一達ほどこちらに来なかった。小さな頃には、母に連れられて向こうに行ったことも合ったが、祖父母が相次いで亡くなってからは、すっかり疎遠になっていた。
 確か、従兄弟の中では一番上だからと、いつも後にくっついていた記憶だけはある。そうだ、しずきって呼んでいた。
 面倒だな……。
 法事は、啓輔だけでひっそりと納骨を済ませる予定だった。晃一だけならともかく、静樹まで来るとなると、厄介な気がする。
 そうは思ったものの、晃一に関しては来いっと言った手前、いまさら断れない。
「静樹は、今何やってんだ?」
「あいつは、俺の会社の副社長だよ。っていうか、実権はあっちにある。俺は飾り物……未だに見習い社長さ」
 くすりと肩をすくめる晃一は、その環境が嫌そうでもない。
「そうなんだ……」
「ということで、当日の朝一の飛行機でこっちに来ることになると思う。次の朝一くらいでとんぼ返りかな。まったく、貧乏暇なしでなあ」
 愚痴っているが、どことなく楽しそうな晃一に、啓輔の口元に笑みが浮かんだ。
 そんな様子がひどく晃一らしかった。
 憎む……必要なんて、無いような気がした。
 思い出さなければいんだ。
 思い出すなら、一足飛びにもっと前の過去まで。
 それか、今現在だけ。
 あの3年間はいつか欠片ほどになる。
 そのためだけに、晃一を憎むことなどできない。
 そう思うと、ふっと心が軽くなった。
 ぐるぐるとどこかわだかまっていた想いが、解れていく。
 ああ、そうか……。
 誰のせいでもないんだ……。
 そう割り切ればいいんだ。
 ひどく辛い体験だったけれど、そのせいで家城さんと逢えた。
 それだけは確かなことなのだから。
 ごろんと布団に転がった晃一をベッドの上から見下ろす。
 そういえば、昔はいつもこうやって寝ていたっけ。
「晃兄ちゃん、明日早いんなら、もう寝よう」
「そうだな」
 ずっと恐くて寂しく、消すことの出来なかった電気を消す。
 ほんとなら、家城とともに消したかったけど……。
 暗闇の中で火照った顔に手を当てる。
 あのひどく辛い経験は、全て家城さんに逢うためのもの。
 それだけは確かなんだから。
 そう、思うことにしよう……。


19


 次の日。
 晃一がタクシーで空港に向かうのを見送って、その足で家城のマンションに向かった。
 渡された合い鍵でいつものように部屋に入ると、これまたいつものように家城が、ソファで本を読んでいた。
 こいつは……他にすることはないのか……。
 リビングに入る手前でその姿を確認した啓輔は、それでもいつもと違う雰囲気を感じ取って足を止めた。
 いつもなら、啓輔が近づくと一度は顔を上げるのに、それがない。
 ただ、一心不乱に本を読みふけっている。
 無視すんのか……。
 意を決して近づいてみるが、家城の反応はない。ただ物憂げに片膝を立て、頬杖をついている。
 気づいていないはずはない。
 それなのに……。
 昨夜の機嫌悪そうな雰囲気を思い起こし、心の中でため息をつく。
 何でだ?
 オレ、なんかしたか?
 ここまで冷たい態度をとられたのは初めてだった。
 人をからかうために無視されることはいつものことだったけれど、こんな冷たく無視するようなことはされたことがない。
「家城さん?」
 窺うように声をかけると、ようやく家城が顔を上げた。
「どうしたんです?」
 ぱたんと閉じられた本が傍らに置かれる。合わない視線が、窓の外の青い空へと向けられていた。
 その態度にムッとする。
「家城さん、昨日さっさと帰ったろ」
 かける声に苛立ちが混じる。
 あんな風に帰られたら、様子を見に来るに決まってんじゃねーか。
 今だって、どう見ても怒っていると判る態度をとり続ける。
 来たらいけなかったのか?
 その拒絶の態度に、啓輔は戸惑いとそれ以上に怒りを覚えた。
「お客様が来られているというのに、邪魔しては悪いと思いまして」
 自分に向けられるその抑揚のない声。それが溜まらなく嫌だと思う。
「で、何で怒ってんのさ」
 聞きたいのは本心だ。繕った言葉ではない。
「怒ってなんかいませんよ。隅埜くんこそ、何を怒っているんです?」
 ちらりと向けられた視線が啓輔の上に留まることをせずに、別の場所に向かう。
 ちっくしょうっ!
「はぐらかすなっ!」
 ああ、もうっ!
 啓輔は苛々と髪を掻き上げると、家城の傍に詰め寄った。
 ソファの背もたれに手をつき、躰をかがめる。
「じゃあ、オレを見ろよ。怒ってないっていうんならさ。その証拠見せろよ」
 目前にまで顔をつきつける。
 だが、俯き加減の家城はそれでも啓輔と視線を合わそうとしなかった。
 もうっ!
 ぐいっと家城の胸ぐらを掴んで引っ張った。
 その拍子に上向いた家城の視線がようやく啓輔の顔で焦点を結ぶ。
「乱暴ですね。なぜそんなに怒っているんですか?」
「それは、オレが聞きたい。家城さんこそ、何怒ってる?」
 オレが怒っているのは、家城さんが怒っている理由を言わないからだ。
 その言葉をぐっと飲み込む。
 オレは悪くない。だから、オレは理由をいう必要はないだろーが。
「私は、怒ってはいません」
 まだ言う……。
 家城の手が啓輔の掴んでいる手を離そうとする。
 ぐいっと掴まれた手首が痛い。
「家城さん……」
 だって判るんだからな。
 あんたが怒っているのが判るのに、それを否定されたら、オレはどうしたらいい?
「言ってよ……」
 縋り付くような問いかけは、無言で拒絶された。
 それが溜まらなく悲しくて、悔しい。
 言ってくれないとわからないじゃんか。
 あんたはオレにどうして欲しい訳?
 悔しくて、悔しくて。
 オレは、どうしたらいいんだ……。
 オレを拒絶しないでよ。
 そんな言葉が脳裏に浮かんだ途端、ひどく寒気がした。
 全身を襲う悪寒に、がたがたと躰が震える。
 拒絶?
 家城さんがオレを?
 そしたら、オレ、どうすればいいんだ?
 晃兄ちゃんでは駄目だった。だって、家城さんがいるんだから。
 オレの過去を言うことはできなかった。
 なのに、その家城さんにまで拒絶されたら、オレはどうしたらいい?
「隅埜くん?」
 啓輔が真っ青になったのに家城が気づいた。掴んでいた手首から手を離し、啓輔の頬にその掌を当てる。
 躰がひどく震える。
 虚ろな視線を宙を彷徨う。
 こいつが、オレを拒絶する、なんて……っ!
 途端頭ん中がぱあっと真っ白になった。
「い、や……だ……」
 漏れた言葉に啓輔の意志はない。
「隅埜くん?」
「嫌だ、嫌だ!」
 ぐいっと力を込めた両手が、家城をソファに押し付けた。
「何!」
 制止しようと突っ張られた両の手首を掴み、ソファに縫いつける。躰全体で家城に覆い被さり、身動きできないようにしてから、激しく口付けた。
 離さない!
 オレから離さない!
 歯が当たり、がちがちと音を立てる。
 その乱暴な口づけに、家城は必死で抵抗するが、がっしりと組み敷かれて身動ぐこともままならない。
 嫌だよ、逃げないで!
 外された唇を追って、啓輔は首筋から頬に舌を這わせる。
「す、すみ……のく……っ」
 尋常でない啓輔の様子に、家城も必死で抵抗していた。
「やめっ!痛っ!」
 歯がきつくあたった家城の唇に血が滲む。
 ぺろりと舐めた唇から伝わる血の味。
「離さない」
 いっぱいに背けられ届かなくなった唇の代わりに目前にきた耳朶に噛みつく。
 その痛みに家城の顔が激しくしかめられた。
 戸惑い抗っていたにも関わらずどこか冷めた感じの瞳がすうっと細められた途端、激しい怒りが言葉となって吐き出される。
「ああっ、もうっ!いい加減にしろっ!」
 その瞳が炎を潜ませきつく啓輔を睨み付ける。
 胸をつよく押され、啓輔の躰がバランスを失ってソファから転げ落ちた。慌てて膝をつき、躰を支える。
 と、その襟元をぐいっと掴まれた。引き寄せられ家城の目前にまで顔を引き寄せられる。
「お前はっ!」
 激しい感情が溢れるその言葉に啓輔は目を見開いた。
 どこかに飛んでいた理性が、急速に戻ってくる。
「い…えき、さん?」
 いつにない激しい感情がむき出しになっている家城がいた。
「怒っているかって?ああっ、怒ってるさ!」
 あ……これって……。
 初めて向けられたその激しい感情が啓輔の感情を反対に落ち着かせる。
「どうせ判らないんだろう。私が怒っている原因なんて。そうだろうな、気が付いたら一人でそっちは下で勝手に仲良くやってるしっ!親戚だって?名前で呼び合って!仲違いしているんじゃなかったのか?」
「仲良くって……」
 そう思えたんだろうか?
 確かに最初は喧嘩腰だったけれど、もしその部分を知らなかったら……。
「仲良かったよな、泣きついて、慰めて貰ってたじゃないか」
 あ、やっぱ、そこからかよ……。
「私の事なんか、忘れていたんだろ。判るか?上でどんなにやきもきしていたか?なのに、いつまでもお前は上に来なかったじゃないか?抱いてしまったら、私の事なんかもうどうでもいいんだろ。自分の性欲だけ満足したらさ。私がどんな想いで抱かれたかなんて……抱いたら、忘れてしまうような相手なんだろ、私は」
 う……。
 確かに忘れていたけど……。
「仲いいって、昔を思い出していただけだよ。憎むのが筋違いだと思い知らされて……ショックで……それで慰められたけど……」
 しどろもどろの言い訳が口から漏れる。
 でもこれって……。
「じゃあ、私は何なんだ?すぐ呼んでくれれば良かったじゃないか?私はお前に抱かれるためだけにあの家に行ったんじゃないのに」
「晃兄ちゃんは昔から仲良かったから。ただ一人、オレのうちまで来てくれていた従兄弟だよ。……そりゃいきなり来たんで驚いたし、怒りもぶつけたけど……でもいろいろ聞いて…仲違いしていた原因がはっきりして、それがとんでもないすれ違いだったって判って、どうしたらいいか分かんなくて……それだけだよ。だって、晃兄ちゃんは、晃兄ちゃんだ。家城さんじゃない。オレは、家城さんじゃないと何も相談できない。だからそれだけだった」
 家城さんが勘ぐるような事は何もなかった。
 勘ぐって嫉妬される様な事なんて……。
 はは。
 怒られてんのに、何か嬉しい。
 やっぱ、家城さん嫉妬してんだよな。あは、嬉しい。
 突然笑い出した啓輔に不審そうな視線を向ける家城に啓輔はさらに笑いかける。
「あんた、嫉妬したんだ?オレと同じだ」
「あ……」
 驚いたように小さな声を漏らして家城の手が離された。怒りに震えてさえいた家城が、茫然としている。
 くたっと床に座り込んだ啓輔が家城を見上げた。
「やっぱそうだったんだ……嬉しいや、オレのこと家城さんが気にしてくれてるって証拠だもんな」
「あ、私は……」
 かあっと真っ赤に染まる家城が狼狽えたように口元を掌で覆い隠す。
「そんなつもりは……ただ、放っかれて腹が立ったから……あれっ?違う……えっと……その」
「ははっ、何を言ってもオレのことじゃん。嬉しいなっと」
 狼狽える家城はいつもの家城で、啓輔は心底ほっとする。
 くつくつと肩をゆらして笑い続ける。
 なんか、いいや。
「いつまで笑ってる……」
「え?オレ、笑ってる?」
「笑ってる……」
 深いため息が家城の口から漏れた。
 肩を落とし項垂れた様子は、なんだか心底ショックを受けているようで、笑いを誘われてしまう。
 それに、言葉遣いまで砕けて取り戻せていない。そんな家城が心底可愛い。
 あ、家城さん攻略方法その1。
 根暗に怒っているときは、一気に爆発させちゃえ。
 そうした方が怒りが収まるのが早そうだ。
 啓輔はしっかりとその事を胸に刻んだ。
 それに、うじうじとされるより怒りをぶつけ合う方が自分の性にあっている。
 その方が、すっきりする。
「ね、ね、ついでにさ、オレの事、啓輔って呼んでよ。名前で呼び合ってたからって嫉妬されてちゃ嫌だもんな」
「な、名前って……」
 なんでそこでそんなに狼狽える?自分で言ったのに……。
「よし、オレも呼ぶ。だから、ね…純哉?」
 うわっ、これってすっげー恥ずかしい。
 自分で言ったものの、家城が自分の事を呼ぶのは無理なような気がしてきた。
 やっぱ、家城さんは「家城さん」の方が呼びやすい、けど、純哉、か……。
 しかも、何気に呼びかける声が甘くなっていたのは…気のせいじゃないよなあ……。
 で、で……。そこまで赤くなるなよな……。
 もうこれ以上にないというほど、真っ赤に染まりきっている家城に、啓輔ははあっとため息をもらした。
 これは……駄目かな?
 落胆している啓輔に気が付いた家城が、ごくりと息を呑んだ。
「…け……」
 微かに聞こえた声にはっと啓輔は面を上げた。
「あの……」
 今言った?
 だが、すでに口を固く結んだ家城は二度と言う物かという態度がありありと出ている。
 ぐ……聞き損ねた……。
 よ?し、見てろ!
「あのさあ、名前で呼ぶだけじゃん。もっと言ってよ、オレの事好きならさ、じ、純哉?」
 言っている本人が赤くなって、家城を誘う。
 下から伸ばした両手で家城の頬を優しく包み込んだ。
 真正面に見据えた家城の顔が熱く火照っているのが判る。触れた手からもじんじんと伝わる熱。
「ね、純哉?」
 は、はずかしーじゃねーかっ!
 黙ってねーで何とか言えよ!
 啓輔は硬直して動かない家城に内心苛々しながら、ぐいっと掴んだ頬を引き寄せる。
「……すけ」
 やっと開いた口から漏れたその声はひどく小さくて掠れていた。
「聞こえない」
 下から唇をかすめ取る。
 触れただけで離れ、再度家城を見つめた。
「ちゃんと言ってよ、純哉」
 名前を呼ぶたびに、いたたまれないほどに恥ずかしくなる。
 オレがこんな目に遭ってんだから、あんたもきちんと呼んでよ。
 ほんとに世話が焼ける……。
 家城を動かすのには、自分から動かないと駄目なんだと、最近身に染みて判ってしまった。
 ったく……。
 くっと唇を噛み締めているから、充血して赤くなっているその唇を指で辿る。
 びくりと微かに震えて、その口元が緩められた。
 目元まで赤く染まった家城の瞳に、啓輔が写り込む。吸い込まれそうな瞳を見た途端、啓輔の心臓がさらに鼓動を早くした。
 誘われるように深く口付ける。
 一瞬後ずさりかけた家城の頭を掻き抱き、外されないようにしっかりと捕まえる。
 驚いたように引っ込められた家城の舌に絡めて引っ張り出すと、今度は家城の方から絡めてきた。
 家城の躊躇いが消え、ひどく積極的に啓輔の舌を貪る。
 ん……っ。
 ずきんと伝わる甘い刺激に、啓輔の膝ががくりと崩れた。それを家城の手が腰のベルトを掴んで抱き寄せる。
 ふっと離された唇が、啓輔の耳元に移動した。耳朶を舐められ、その感触に身震いが起きる。と。
「……けいすけ」
「んっ…くっ!」
 甘く囁かれたその言葉が腰にひどい衝撃を与えた。
 思わず家城にしがみつく。
 な、何、これ?
 名前を言われただけなのに、一気に啓輔のモノがいきり立つ。完璧に腰が砕け、必死で家城の躰に縋り付くしかない。
「啓輔……」
「あ、…んんっ……」
 名前を呼ばれているだけなのに、その度に走る疼きは痛いほどに腰を刺激する。
 しがみついて肩に顔を埋めている啓輔を家城がソファにそっと押し倒した。
「あ……」
 ぱたんと倒れた拍子に目を開けると、家城が目前にまで迫ってきていた。
 降りてきた唇を受けながら、再びきつく目を閉じる。
 力の抜けた躰を、家城の掌が柔らかく包み込む。
 ……このパターンて……オレ、受け、なのかな……。
 だが、はっきり言って家城の言葉にノックアウトされた啓輔に逆らう意志はなかった。
 手も足も……躰全体がふわっとした浮遊感に曝されているようで、力が入らない。今まで名字でなら囁かれたことがあった。だが、それが名前に変わっただけで、こんなにも変わる物なのか?
 しかも、ひどく嬉しい。
 今まで家城にあった他人行儀な所が消えているから、これが家城の本心なんだと、全ての行為がダイレクトに心に飛び込んでくる。
「ん……んんっ」
 んっ、気持ちいいっ!
 家城の手が直に啓輔のモノに触れる頃、啓輔は考えることを放棄して流れに身を委ねた。 
 

20

 包まれた浮遊感は、啓輔を幸せな気分にさせるのに十分だった。
 手で扱かれただけであえなく達ってしまった羞恥心も、次に来たうねりに我を忘れて家城にしがみつく。
 なんだろう、これ?
 頭の片隅でかろうじて残っている意識が、疑問を投げかける。
 だが、それも家城の指が体内で蠢く刺激に飛散する。
「ああ………やあ…んあぁぁん……」
 ほとんど服を脱ぐ暇も無く施される行為。
 啓輔はまとわりつく服が触れることにすら敏感に反応する。
 うっすらと澱んだ視界の向こうで、家城の肌が見える。肩から落ちたシャツから覗く肌に口付ける。じとっとにじんだ汗の味が口内に広がった。
「んくっ!」
 高く掲げられた足が胸に付く程に折り曲げられ、ぐいっと家城のモノが押しつけられる感触に、僅かな怯えから来る震えが全身に伝わる。
「怖い?」
「怖くなんか!」
 つい逆らっては見たものの、どうしても前の時の痛みが思い出される。
 その先に待つ快感は知ってはいるのだが……。
 くすりと笑う家城が恨めしくて、その肩にかぶりつく。
「痛っ!」
 顔をしかめた家城が、それでも悪戯っぽい笑みを口元に浮かべるとぐいっと腰を押しつけた。
「くうっ!」
 広げられる痛みと異物感に襲われる。それを必死で堪えた。
 ゆっくりと進められるそれが息苦しいほどの圧迫感を与える。
 入ってしまえば……。
 痛みに逃げそうになる躰を、家城にしがみつくことによって押さえる。
 ぐぐっと音が鳴りそうな挿入口から伝わる痛みに、啓輔はただ堪えるしかなかった。だが、それも僅かの間だった。
「啓輔」
 再び耳元で囁かれたその言葉にずくんと全身が反応する。
「くふっ」
 歯の間から漏れた息が、ひどく熱い。熱く昂ぶった躰にに触れられるだけで耐え難いほどの疼きが飛散した。 
 家城が僅かに躰を動かすと、痛みにも似た快感が下半身から脳髄まで走る。
「ああっ!」
 それまで噛み締められていた口が、今度は大きく開け放たれた。喉から漏れる嬌声が、止められない。
「うわぁぁ……っ!」
 ぐいぐいとそこばかりを重点的に突き上げられる。
「ひゃぁあ!」
 びくんと躰が跳ねた。
 その途端に一気に解放感が押し寄せる。
 吐き出された熱い白濁液が、躰の上にぽたぽたと落ちてくる。
「ああ……はあっ……」
 ぱたんと手が床の上に落ちる。
 握りしめていた家城の腕にくっきりと啓輔の手の痕が付いていた。
 脱力している啓輔の躰から家城が自身を抜き出した。
「んあっ」
 抜けた途端に躰がぶるると震える。
「ここでは背が痛いでしょう?ベッドに行く?」
 躰を起こした家城がまとわりついていたシャツを脱ぎ去ると、啓輔の躰を助け起こした。その胸に抱えられるように立ち上がる。
 立ち上がった途端、絡まっていただけのシャツが脱げ落ち、ジーンズが足下までずり下がった。それを蹴飛ばして脱ぎ去る。
 半端家城に抱えられるように、ベッドへと向かった。
 ふわりとした浮遊感に、家城の腕にしがみつく間もなく、背に柔らかなクッションを感じる。
 虚ろな視線の先に家城の顔があった。
「愛しています」
 伸ばされた手が頬を伝う。
「オレも、だから離さないで」
 下から伸ばした手の指を家城に絡め取られ、シーツに縫いつけられた。
 降りてくる唇を受け止める。
 その寸前。
「離しませんよ、絶対に」
 家城の声が聞こえた。
 
 
 ひどく怠い体に一体何回したんだろうと、目覚めた途端に思ってしまた。
 一つのベッドに背中を合わせるように縮こまって寝ていた。その背中のぬくもりが温かくてほんわりと幸せな気分を運んでくる。
 身動げば、ずきんと鈍い痛みが腰の周辺から尻に至るまで響く。
 痛いけれど不快ではない。
 ゆっくりと躰を動かすと、躰から溢れ出る感覚に顔が熱くなった。
 前回は気が付いたら家城に綺麗にされていた。
 シャワーでも浴びよ。
 家城を起こさないように、静かに躰を起こす。
 前よりは多少は楽に動く躰にほっとする。
 そろそろとベッドから降りると、壁づたいに躰を支えながら浴室へと向かった。その間にも流れ出る感触に必死で堪える。
 浴室で熱めに設定したシャワーを躰に浴びる。
 突き刺さるような湯の刺激が気持ちよく、うっとりと身を委ねていた。
 愛しています……
 ふっと脳裏に浮かんだ家城の言葉。それだけで、火照ってくる躰が自分のモノではないと思える。
 そっと手を伸ばして、体内に指を入れる。
「ん……」
 掻き出したそれは愛された証拠。
 躰の中からそれは無くなっても、素肌に残された印は当分消えないだろう。巧みに肌着の下になった所だけつけられているとわかるそれに、家城の心配りを感じる。
 オレ……どこにつけたっけ?
 そんな事気にせずにつけまくったような気がする。
 もしかして、服から見えるところにもつけたような……。
 首筋にも吸い付いたような気がしてきた。
 確かめないと……。
 家城は自分の者だという所有印をつけたいとは思うが、他人に指摘されてもきっと無表情でやりこめるだろうとは思うが……だけど、実際には必死になって表情を繕っている筈だ。繕い切れればいいけれど、もし、それが面に出たら……朱に染まった艶っぽい家城を、他の誰にも見せたくない。
 あの晃一ですら、見惚れてしまっていたのだから。
 啓輔はきゅっとシャワーを止めると、ぽたぽたと水滴を滴らせながら浴室を出た。バスタオルでざっと躰を拭くと、ベッドの方に戻る。
 と、横たわったままこちらに顔を向けていた家城と目が合った。
「起きてたんだ……」
 話しかけると家城が黙って手を差し出してきた。近づき、それを握る。
「起こしてくれませんか?」
 弱々しい言葉に、啓輔はぐいっと手を引っ張った。
 その反動を使い、家城がベッドの上に躰を起こすと、立てた膝に顔を埋めはあっと大きく息を吐いた。
「疲れた?」
 ベッドの横に跪き、下から家城の顔を見上げる。顔色が悪い家城に心配になってくる。
「少し……」
 微かに笑う家城は、本当に体調が悪そうだった。
「寝てろよ」
「大丈夫……昨日と今日で腰に負担がかかっているだけですよ」
 あ……。
 そういえば、昨日はひどく辛そうなままに家城は帰ったのだ。
 わっすれてたよ?。
 それで、今日あんなに張り切って……なんか、まあよく動けたな……あんなに、何回も……。
 凄いと思わず思ってしまった……。
「オレ、忘れてた。ごめん」
「薬飲んでいましたから、痛みが無かったんですよね……それで無茶してしまって、別に啓輔くんのせいではありませんよ」
 さらりと言われたその言葉。
 だけど、家城が名前で呼んでいたのに気が付いた。
「くんはいらない。呼び捨てでいいよ」
「……それは……」
 啓輔の言葉にどうしても消せない躊躇いを見せる。
 無理強いするのは……とは思うのだが、家城の困った顔も見てみたいと思う。そのためには、啓輔は手段を選ばないし、選べない。
「なあ、純哉。晃兄ちゃんは呼び捨てだぜ、オレの事」
 言いにくい……とは思うが、こっちが名前で呼ばないと家城も呼び捨てにはしてくれそうにない。ついでに、家城を煽るように晃一の事を言ってみた。
「晃一さんが……」
 途端に家城がきっと口元を結ぶ。
 どうやら嫉妬心は今だ健在らしい。
 ゆるゆると宙を舞っていた視線が意を決したように啓輔を見据えた。
「判りました。呼び捨てで呼びます」
 宣言され、啓輔は返って面食らった。
 いや、そこまで張り切らなくても……。
 だが、うっすらと朱に染めたその顔で、「啓輔」と呼びかけられると、もうそんなことはどうでもいいって思えてしまう。
「啓輔は大丈夫ですか?」
「……ああ、だいじょーぶ」
 見上げた先の唇を躰を伸ばして掠め取る。
「ね、オレさあ、家城さんじゃないと駄目みたいだ。家城さんが何も言ってくれなくなったとき、ひどく不安になった。家城さんに拒絶されるかと思った。だから、オレが気に入らなかったから、ちゃんと言って欲しいんだ。オレはその方がいい」
「あれは……本当に大人げない態度だと反省しています。その……私が啓輔……を拒絶するなんて事、もう絶対にしませんから」
 その言葉に自然と笑みが漏れる。
 出会えて良かった。
 本当に、あの時は……。
 初めて出会った時は最悪だって思った。
 何て会社だって思えた。
 でも今は、何よりも自分があの会社に入れたことを幸運だって思える。
 あの会社に入って、緑山さんに遭ってしまって……そしてあのトイレで出会えたことすら幸運なのだと思える。
「オレ、今日は1日ここにいる。だから、い…純哉は寝てていいよ。明日からは会社だもんな」
 くすりと笑いかけると、家城も同じように笑い返してきた。
「啓輔も……休んでくださ……休んで……」
 困惑気味に紡ぎ出される言葉は、随分と言いづらそうだったけれど。
「ん。オレも後でまた休むよ。でも今は」
「今は?」
 きょとんとした家城に再び笑いかける。
「腹減った」
 一瞬目を見開いた家城が、次の瞬間くるりと背を向けるとくくくっと肩を震わせる。
「け、啓輔……らしい……」
 その頭を軽くぽかんとはたく。
「笑うなよ、腹が減ったんだからいーじゃねーか」
 文句を言いながらも、啓輔自身ばたんと家城の傍らに転がり込んだ。
「まっ……でももうちょっとここにいよっと」
 温もりを感じたくて、家城の背に縋り付く。
 ここが……オレの居場所……だよな……。


FIN.

以下、おまけ


某月某日?
「晃一……また一目惚れしたのか?」
 呆れたように目前の大きな机に突っ伏している晃一に言っているのは、この会社の副社長でもある従兄弟の谷口静樹。
「煩い、悪かったな……」
 顔を上げて、静樹を睨む晃一の目ははっきりと判るほどに赤く腫れている。
「別にお前が誰に惚れようとも構わないが……なんで毎回そうやって即座に失恋してくるんだ?」
 はああ
 はっきりと聞こえるため息に、晃一もムッとする。
 別に好きで惚れてるんじゃない。しかも一目惚れに、相手を選べれるか?
 そう言いたいのをぐっと堪える。
「何か言いたそうだな。だが、これから接客だってあるというのにそんな面されては、会社のイメージにはマイナスしかならん」
「煩いな。失恋気分を味あわせてくれたって良いだろうが」
「時と場合によるな」
 じろりと睨まれ、晃一は首を竦めた。
 静樹の毒舌は今に始まったことではない。しかも、その言葉は決して間違いではないのだ。
 あ?もう……。
 机の引き出しから、いつものように目薬を出す。
 どうも晃一は人にすぐ惚れる。そしてたいていその場で失恋してしまう。そしてついつい泣いてしまうのだ。それも夜になると急に泣けてくる。そのたんびに繰り返される静樹との会話。
 蓋を開けようとした手を、静樹が押さえた。
「それで、その啓輔のお相手だというのは確かなのか?お前の惚れた相手は」
「その後の啓輔の様子を見ていたら、ピンときた。だてにひたすらいろんな人に惚れてきた訳じゃないからな」
「……晃一、それは自慢することではない……」
 言われて、顔を赤らめる。
「まあな」
 ほんとうに、あの家城という男にはノックアウトされたのだ。あそこまで色っぽさを滲み出した男など見たこともなかった。だが、よりによって啓輔のお相手だとは……。
「だいたい、どうしてお前はそう見境がないのか……前の失恋から一ヶ月も経っていないぞ」
「知らないな。惚れてしまうんだから……」
 晃一の手から目薬を取り上げた静樹が、晃一に上を向くように促す。
 それに従った晃一の両目に馴れた手つきで、静樹は目薬を差した。
「そして、私はお前にこうやって目薬を差し続けていると言う訳か……お前、もう28だぞ。少しは落ち着けよな、情けないったら……」
「判ってはいるんだけどなあ……」
 ぱちぱちと両目を瞬かせながら、静樹を見上げる。
 3つ上の従兄弟は呆れたようにため息をつくと、晃一の横に移動して引き出しに目薬をしまった。
「なあ、静樹」
「何だ?」
「啓輔、あんな目に遭ったのに、それでも元気良かったよ。きっと家城さんのお陰なんだろうな」
「……お前がそう思うんなら、そうだろう」
 どこか気乗りのしない返事は当然だろうと無視する。
 静樹は今回行っていなかったのだから。
 あの昔の面影を残した啓輔は、晃一の知らない経験を経た今、ひどく大人びていた。だが、それでも見え隠れする子供の頃と同じ啓輔。あの啓輔が、あんな不幸を乗り越えられたのだ。
 それが家城というあの人のせいだろうと推測することは容易なことだ。
「羨ましかったよ、俺は……」
 その言葉に静樹が晃一に視線を移す。
「あんな風に頼れる存在が身近にいるっていうことに……」
「お前には私が居ると思っていたが」
 幾分不機嫌そうな声音に、晃一が笑い返す。
「静樹は十分頼れる存在だよ。仕事の面ではね……でも」
「でも?」
「恋人じゃない……その違いって判るか?」
 その言葉に静樹が口を閉じる。
 心から頼れる存在。
 俺が欲しいのは、そんな存在。
 静樹は……拒絶されそうだしな……。
 最初から頭に入っていない存在だ。
「甘ったれだな、相変わらず」
 いつも静樹はそう言う。だけど、俺だって真剣なんだ。
 だけど、未だに男でも女でもそういう相手は見つからない。見合いだってしたのに、なぜだか断られてしまう。
 好きになる相手は結構いるんだけどなあ。
 そう思いつつもため息が漏れる。
 ことごとく振られるのは何でだろう……。
 顔もそこそこ、性格もまあ良い方だと思う。小さいながら社長という要職についているんだぞ。業績もまあまあだし……。
「なんで恋人って出来ないんだろう……」
 ぽつりと呟く晃一に静樹は呆れた風に肩を竦めると、もう何も言わなかった。

【了】