【ONI GOKKO −誰が鬼?−】

【ONI GOKKO −誰が鬼?−】

「柊と薊の賛歌」及び「優司君のお引っ越し騒動記」を読まれているとより判りやすいとは思います。でも、一応これだけでも判るようにはしています。
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「あんたって、ほっんと何考えてんのかわからん子だね。ちったあ、親の言うこと聞くもんだよ」
 きんきんと耳に響く不快な音。
「お前なんか、そんな面見せんな、酒がまずい!」
 耳から入ってきたその音を脳が言葉に変換することはない。目から入ったその画像を人として認識することはない。

 それでも、いつまでも残るその不快な響き。いつまでも残像するぼやけた鬼の姿。
 その音を聞いた日は、決まってみる夢がある。
 あの日以来、いつも見てしまう夢。
 それがさらにオレを追いつめる。

 忘れようと、何度も思った。
 頭から追い出そうとした。
 だが、いつも見る夢の中に彼は現れる。
 彼は男。
 ひ弱だったが、決して女のようになよなよした男ではない。
 その彼にオレは強要する。
 舐めろ、と。
 理不尽な行為を強要され、苦痛と怒りに歪む顔。
 印象的な瞳に強い力が宿る。
 それはどんな行為を強要しても、決して崩れることはない。
 オレが彼の口の中で達き、彼がオレのものを全て飲み込む。その瞬間ですら、目は閉じられることなくオレを睨み付ける。
 その瞳が、言葉も露わにオレを罵倒する。
『こんなことでは負けない!お前なんかに!』
 その瞬間、オレの躰は愉悦に震える。
 びくりと反応するそれは、実際に女とセックスするよりはるかに顕著に反応し続ける。
 そしてそれに煽られるように。
 オレは、彼を押し倒す……。

 目が覚めると、ひどい自己嫌悪に陥る。
 汚れた下着から来る冷たい感触が気持ち悪く、そして情けなさを倍増する。
 何でこんなことになったのか……。
 なのに逢いたい。
 逢ってどうにかして貰いたい。
 この疼く躰を。
 どんなに願おうとも逢うことはできないのに……なのに願ってしまう。
 気がついたら女を抱けない躰になってしまったこのオレを。
 きっと救えるのは彼だけ……。

 クリスマスイブの前夜に起こしてしまった出来事。
 あれ以来、女の裸を見ても興奮することができなくなった。
 インターネットで諸出しの女の裸を見ても、勃たない。それどころか、性欲すら起きない。
 それに気付いたとき、自分がこの若さでインポテンツにでもなったのかと本気で落ち込み、そんな筈はない、と思って、片っ端からその手のサイトを巡り歩き……そして気が付いた。
 時々、反応することがある。
 決していつも勃たない訳ではない。
 いつも反応するのは、相手の男が勃起させているモノをこれみよがしに見せている画像。
 自覚したのはリンク先から辿り着いたゲイ専門サイトでだった。
 男が男のモノを銜えている。男の中に埋め込まれようとする男のモノ。その顔。
 入れられて苦悶の中にある明らかな歓喜の表情。
 それを見た途端、むくむくと一気に膨れあがった自分自身。
 その写真を見ながら自ら扱いて達した時に、自分は男が良くなってしまったのだ、と、自覚した。

 そして、だからこそ、もう決して逢うことはないだろう彼を恋い焦がれることをオレは止めることができなかった。



「社会人として節度在る行動を……」
 少し薄い頭の男が、唾を飛ばしながら力説する。
 節度在る行動か……。
 その節度在る行動をとるために、隅埜啓輔(すみの けいすけ)は脱色していた髪を黒く染め、伸ばしていた髪をさっぱりと切った。
 とりあえず大人しくしようと……せっかく入れた会社だ。
 就職難。とてもじゃないがその程度では言い尽くせないほど求人状況は酷かった。
 啓輔の通っていた学校は、伝統があるが故にそこそこの就職率を誇っていた工業高校だ。
 だがそういう学校ですら卒業予定者全てを賄う程の求人は入ってこない。
 ぽつりぽつりと入ってくる僅か一人の求人枠を、教師が競って自分のクラスあるいは担当の部活の生徒のために推薦の争奪戦をするような状態。クラスメートとだって、動向を窺い合う。
 その中で啓輔は10月早々に今の会社に内定した。
 部活こそしていないものの、成績は上。長い茶髪以外に素行は問題ない。生活態度も良。
 就職担当の教師に言われるままに、試験と面接の時だけ髪をぎりぎりの長さで切ってムースで固めて短く見えるようにした。色も黒く染めた。
 そのお陰か、求人がきていた会社の中でもランクの高い地元企業に内定した。
『後はきちんと卒業しろ。問題を起こすな』
 内定通知を確認した教師は、それだけを言った。
 問題……。
 それを聞いたとき、啓輔は内心にやりとほくそ笑んだ。
 ふん。ばれるもんか。
 あんたらみたいに、外見だけでもおとなしくしてればころっとだまされる奴なんかに。
 オレの家がどんな状況下も知らずに、家庭訪問と三者面談の時だけ母親面する鬼にころっと騙されているような奴らに……気づかれるもんか。
 あの時までは。
 本当にそう思っていて……怖いモノなどなかった……。
「それでは、研修に入ります」
 人事担当だという人が、啓輔達の前に立った。
 やっと終わる……。
 啓輔は零れそうになるあくびを必死で堪えていた。
 啓輔が並んでいる側には今年の新入社員が10人。大卒・院卒が7人、高卒が3人。
 噂では、大卒・院卒の7人は、開発部や生産技術部に配属され、高卒3人が製造に配属される。
 製造と言っても、単調な流れ作業ではないらしい、というのが唯一の救いではある。
「打ち合わせ室に移動するから付いてきなさい」
 その言葉と共にぞろぞろと人事担当者に付いていく。
 新入社員達はまだ一様に固い表情をしていた。啓輔もそれに習い、口元を引き締めている。
 本当なら大学に行きたかった。
 だが、鬼がオレに金を出すはずがない。オレには就職するしか道はなかった……。
 だから、とりあえず学校内では大人しくしていた。
 先公の覚えめでたく、いいところに推薦をして貰うまで……。
 啓輔はほとんど家に寄りつかなかった。たまに寝に帰り、こづかいだけはせしめる。それでも、あいつらは何も言わない。自分達のしたいことだけにしか興味のない奴ら。だからオレもしたいことをする。
 もちろん学校にばれないように、警察沙汰にはならないように、細心の注意は払った。
 啓輔が付き合っていた奴らは、啓輔以上に髪を染め派手な格好をしていた。その中で、茶髪以外は特に目立つ格好をしない啓輔はどこか浮いていた。もちろん、啓輔がピアスをしなかったのは、ひとえに学校にばれないため。
『なんで、そんなに学校マジに行ってんだよ』
 特に仲の良かったタイシが一度問うてきたことがあった。それに啓輔は曖昧に笑って返した。
 何でマジにだって?
 そんなの決まっている。さっさと就職して独り立ちしたかったからさ。
 自嘲気味に内心呟いていたこと。
 嫌気のさす家には帰りたくなかった。だから、遊んだ。
 フリーターになる気はなかった。とにかく自分としての立場を固めたかった。他人に文句を言われぬ立場になりたかった。
 結局就職した会社が地元だから、今は家から通っているが、絶対に家を出る。
 そのためにも、金を貯める。
 人事担当が何かを説明しているのを聞いていた啓輔だが、何せ怠い。
 それでも見た目は熱心に聞いているポーズを取る。
 高校時代に培った技がこんな所で役に立つとは思わなかった。
「それでは、配属先の紹介に移ります」
 その声にはっと我に返る。
「では、開発部所属5名……」
 どうやら大卒者から発表されているらしい。名前を呼ばれた者が、配属先の上司の者へと歩いていく。
「生産技術部2名……」
 これで、大卒は終わり。次は高卒組かと、啓輔は真面目に正面を見据えた。
「情報管理部1名、隅埜啓輔」
「はい」
 返事をして、立ち上がり……固まる。
 今、何て……。
「情報管理部の第一リーダーは、紺野さんです」
 促され、慌てて指さされた所に行く。中年のどこかくたびれた雰囲気のおっさん。
「紺野だ。よろしくな」
「よろしくお願いします」
 ぺこんとお辞儀をして……。だが、頭の中では混乱していた。
 確かにオレの高校は情報処理科だった。
 だが、今年の新人は製造だって、研修の時に人事の人自らが言っていた筈。
「じゃあ、行こうか」
 いつの間にか、全員の配属発表が終わって、全員がてんでに部屋を出ていくところだった。
 仲良くなっていた高卒の仲間達が別の方面へと歩いていく。
「君には情報処理部の中でも、細々とした所をやって貰うことになる。それで、どちらかというとその中身は開発部よりでね。で、君には開発部の新人研修に加わって貰うことになっているから」
「開発部の?」
「そう」
 あっけらかんと返答され、啓輔は絶句した。
 だって、開発部って全員大卒・院卒。啓輔にしてみれば超エリートコース。それに混じって研修受けろって……それ、ついてけるのか?
「だから、情報処理部の研修はそれからだ。ということで、これからすぐにあっちに混じって貰うから」
「……はい」
 何か、とんでも無いことになりそうな予感がした。
 ぞくりと走る悪寒は、何を指しているのか……。

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 まさか……。
 開発部の研修にも馴れてきて3日程経った頃だった。
 他のメンバーとも気さくに話ができるようになり、判らないところは教えて貰い、何とか研修をこなし始めた頃。
 啓輔を含めた新入社員の前に立ったその男を見て、啓輔は愕然と彼を見つめていた。
「本日は工業材料2チームの研修なんですけど、あいにく第三リーダーが不在ですので、私、橋本とこの緑山が担当いたします。よろしくお願いします」
 緑山……すらっとした細身、あの時はほんとにひ弱そうだったが、今見た限りでは、それほどひ弱な感じがしない。
 だが、見間違うはずがない。
 あの時の……。
 敬吾と呼ばれていた男。
 その証拠に名札には、緑山敬吾と書かれている。
 この会社……だったのか。
 まずい……。
 もしあの時の事、ばらされたら……。せっかく入った就職先はフイ。着実に歩み始めた独立計画が白紙に戻る。しかも刻一刻と悪くなる就職状況。辞めてどうにかなると言う物ではない。
「君が隅埜君か。情報処理部は開発部もよく利用するので、こちらの事情を知って貰わないと困るから、よく覚えていてね」
 緑山が硬直している啓輔に安心させるかのように話しかける。
「はい」
 視線を合わせないように、啓輔は頷いた。
 気付いてねーんだ?
 その事実にほっとする。
 確かにあの時と髪型は違う。短く切っているし、黒くしている。それにあの時は高校生には見えないようにしていた。
 まして、こんな所で逢うなんて露とも思っていないだろう。
 ちらりと緑山を伺うと、橋本と二人で配布する資料を整えていた。一言二言会話し、くすりと笑みを漏らす。
 途端にどきんと胸が高鳴った。
 二度と逢えるなんて思っていなかったから、自分が男相手じゃないと萌えないって判ってから、オカズにしていたのは、この緑山って人だった。
 その本人が目の前にいる。
 ま、ずい……。
 こんなところで……。
 あの時、自分の性癖に気付いていたら、犯していたかもしれない。だが、今は……そんな事はできない。絶対に気付かれては行けない。その相手が、こんな近くに。
「隅埜君、顔色が悪いけど大丈夫?」
 ぽんと緑山に肩を叩かれた。どきんと鼓動が跳ね上がる。
「あ、大丈夫です」
 慌ててへらへらと笑いながら答える。
「そう、ならいいけど」
 それでも心配そうな緑山が傍から動かない。
 どうやら説明は橋本って人の方で、この緑山って人は補助のためにいて、高卒の啓輔を気遣って傍に付いているらしい。
 啓輔にとって、その2時間の間、ひたすら我慢の連続だった。
 常日頃の妄想の対象が傍から離れない。
 自分の性癖に目覚めさせた当の本人がいるという事実。必死で橋本の説明を聞いて、気を逸らす。
「じゃ、休憩ね」
 橋本のその言葉が天の声に聞こえた。


 啓輔は人の来そうにないトイレに走り込んだ。最奥の個室に入り鍵を閉める。
 ドキドキとなり続ける心臓は、人目がなくなった途端に走ったからではない。
 隠しきれないほど立ち上がってしまった股間から伝わる熱のせいだ。
「どうして……この会社、なんだ……」
 そろそろとズボンの中に手を入れる。
 取り出したモノは、はち切れんばかりに立ち上がり、我慢できないとすでに先を濡らしていた。
 それに手を添え、始めはゆっくりと次第に早く扱く。
 忘れることなどできなかった。
 何度だって思い描いて細部まで思い出す事ができる。
 何で、彼が……。
 脳裏に浮かぶのは新たに植え付けられた今の緑山の姿。
 彼が啓輔の肩に手を置く。耳元で囁く。
 それにぞくりと反応する。
「ん……くう……はあ、はあ……くっ」
 ずきずきと疼くそれを一気に扱く。
 後、少し……。
 僅かな休憩時間。
 時間の無さすらも啓輔を萌えさせる。
「あ、はあっ、はあ……」
 達く寸前まで躰が昂ぶった時、きいっとドアが開く音がした。
 それが、作業場とトイレを隔てるドアだと気がついた途端、マズイッ!と硬直する。だが、そこまで昂ぶった躰がそこで止まろう筈もなく……。
「んくっ!」
 必死で押し殺した声が喉元を振動させる。どくどくと吐き出されるそれを必死で手で受けた。
 溢れた白濁した液が指の間から漏れて手の甲側に回って落ちた。
 ぴちゃんと水の音が響いた。
「誰かいるのか?」
 どくん!
 口から心臓が飛びでるかと思った。
 ぱくぱくと開けた口から喘ぐようにしか呼吸が出来ない。
 気付かれた?
「答えられないことでもしているのか?」
 落ち着いた声で問われ……だが、啓輔には答えようもない。
 ばれた!
 ああ、どーせーって言うんだ!
 だいたい、そう思うんだったら無視してやるのが親切ってゆーもんじゃないのか!
「ま、元気なのはいいことだけどね。……君、もしかして新人かな」
「どうして!」
 思わず口をついて出た言葉。
 慌てて口を掌で塞ぎ、それが精液のついたままの手だったことに後から気付いた。独特の臭いが鼻につき、慌てて手を離す。だが、顔についてしまったらしく臭いが薄くなることはなかった。
 外でくすくすと笑い声が聞こえる。
「だって、私の声で誰か判らないんだろう。そうじゃないのかなって」
 どうやら一向に外に出ていこうとしないその声の人物に、焦りを感じる。
 時計を見たら、休憩時間が終わりに近づいていた。
 慌てて、音が立つのも気にせずにトイレットペーパーを引き出し、手のモノと自身のモノをそして顔を綺麗にした。完全に萎えてしまったモノをズボンの中にしまい込む。
「そろそろ時間?焦っているようですが」
 心配そうに言われても、出られないのはあんたがいるせいだっと口の中で毒づく。
「新人君が研修に遅れるわけにはいかないでしょ」
 こいつ……。
 啓輔は諦めた。
 今更じたばたしても仕方がない。
 啓輔はふうっと息を吐くと、個室から出た。
 腕組みをして突っ立っている人物の傍らを通り過ぎ、洗面台で手を洗う。目の前の鏡にその人物が立っていた。
 背が高い。
 啓輔も背が高いがそれと同じくらい。ただ、ひどく落ち着いた感じだった。その細い目元が冷たく見える。
 じろじろ見られ、啓輔はいい加減ムッとしていた。それでなくても恥ずかしいシーンを聞かれている。手を拭きながら、そこから出ようとした啓輔の腕をその男が捕らえた。
「私は品質保証部の家城(いえき)ですが、あなたは」
「離せよ!」
 きっと睨み付ける。
 これでも結構遊んできた。少々のことで負けるつもりはなかった。
 だが、家城の手は離れない。振り解かれないように力を込められ、痛みが走る。
「言葉遣いがなっていませんね。先輩に対してはもっと丁寧な言葉遣いをしないといけません」
「こんな事する奴に丁寧な、なんて無理だね!」
「ふーん。隅埜啓輔くんですね」
 だが、家城は隅埜の胸にぶら下がった名札から名前をなんなく読みとってから手を離した。
「元気なのはいいですが、会社でだしてちゃいけませんね」
 その言葉に真っ赤になって家城を睨む。
 だが、確かに家城に言われたとおりでもあった。
 くっと唇を噛み締めると、啓輔はトイレを走り出た。
 ちくしょー!
 もう何でこんな事になるんだ!



 入社してから2週間後。
 開発部新人歓迎会が市内の居酒屋で行われた。
 啓輔は部署は違うが、一緒に研修を受けているからといって招待された。
 だが。
「どうして、あんたいる訳」
 隣に座った家城に、啓輔は毒づく。
「ほらほら、また言葉遣いがなっていませんが」
 くくっと喉で笑われ、啓輔は忌々しげに睨み付けた。
 この家城という男はあれ以来、啓輔につきまとう。品質保証部からの研修の日などは、講師のくせに一日ずっと啓輔の傍にいた。わざわざ離れた場所に座っていた啓輔を、講師の隣の席まで移動させてまで。
 研修日程を把握しているのか、それとも連絡がいっているのか、休憩時間になるとやってきて一緒のテーブルに座る。
 それは、はっきりいって、啓輔にとっても他の新人達にとってもはなはだ迷惑な行為だったのだが、いくら文句を言おうとも家城は止めることはなかった。
 そして、なぜかここにも家城がいる。
 いい加減暴れ出したい気分になっていた。
 ストレスが相当堪っていると思う。だが、会社でぼろを出すわけには行かないし、高校時代のように遊び歩く事もできない。
 しかし、だからといってストレスを解消する手段もなく……この日、啓輔は精神的に結構まいっていた。
 無礼講だからといってみんな賑やかにしている。
 それでも啓輔は、羽目を外すことのないように、隅っこで大人しくしていた。
 ここにはあの人がいる。会社と違って普段着姿の自分の姿。もちろん想像させるような服装はしていないはずだが、それでも気をつけるに越したことはない。
 ちらり緑山を伺うと、同じチームの人たちと楽しそうに談笑していた。
 それを見た途端、鼓動が跳ね上がる。
 私服姿の緑山は、あの時の彼の様子を彷彿させる。
 それはてきめんに啓輔を昂ぶらせる。啓輔は慌てて、緑山から目を離した。
 まずい。
 本当にまずい。
 このままでは、本当にどうにかなりそうだった。
 ここのところ、夢に見る回数すら増えている。
 だが、自分の想いをぶつけたにしても、あの時の事がばれてしまう。
「隅埜くんは緑山くんのことが好きなんですか?」
 突然耳元で囁かれた言葉に思わず飲みかけていたビールを吹き出しそうになった。含んでいれば間違いなく吹き出していただろう。口元を押さえて爆弾発言した家城を睨む。
「ずっと切なそうに見ていますよ」
 だが、決して揶揄している訳ではないのだろう。
 僅かに眉をひそめ、ひどく真剣な光を湛えた目に啓輔は狼狽えた。
 だが、自分の想いをばらすわけにはいかない。
「オレ、男だぜ。あの人、男じゃねーか。ま、綺麗だとは思うけど」
 ちらっと本音を混ぜる。
 綺麗なんで見ていました、と、思わせるために。
 だが。
「彼は付きあっている人がいますから、無理ですよ」
 家城は啓輔の言葉をはなから聞いていなかった。
 こいつは!
 苛々と家城を見る。
「私が君と会った時、その前の研修はあのチームだったようですね。それで我慢できなくなったんですか?」
 その言葉にかっと熱くなる。きっと耳元まで赤くなっているだろう。
 くそっ。
 赤くなったのはアルコールのせいにしてやろうと、手元にあったビールをぐいっと飲み干した。手酌で次のビールを注ぐ。
「ちょっと待って。君は未成年でしょ」
 家城がビール瓶を掴んだ啓輔の腕を掴んだ。
 それをじろっと睨む。
「別にこの位高校生だって飲んでる。それよりあんたさ、さっきからオレにばっか構ってないで、他の所もいったらどう?」
 招待されたといってもメインではあり得ない啓輔は末席にいた。すでに宴会もたけなわ。人数の多い開発部だから、みんないろいろと動き回って話し込んでいる。だから啓輔の周りは閑散としているのだが、そこに家城も陣取って動こうとしない。
「ここがいいですよ。私は部外者ですから」
「だから、何であんたここにいるのさ」
「品質保証部は人数が少ないので面白くないんです。だからいつも参加させて貰っています」
 そこまで言った家城がにっと口の端を挙げた。
「というのは建前で、君と一緒に飲みたかったからですよ」
 ぐっ。
 今度は気管に入りかけた。
 けほけほっとせき込む啓輔の背を家城が宥めるように叩く。
「何、ばかなこと……けほっ」
 その目元に涙がうっすらと浮かぶ。
「気になりますからね。つらそうな恋をしているようですし」
「誰が!」
「君が」
 まだゆーか!
 啓輔は新しく注いだビールを飲み干した。
 もっ、こいつ、無視だ!
 ぐいぐいと飲み干す。
 家城は何かを言いかけたが、ふっとその口を結び、席を立った。
 歩いて別の場所に向かう姿に啓輔はほっとして空になったグラスを置いた。
 本当に困ったことになった。
 言いふらすような人ではなさそうだったが、何だか根ほり葉ほり聞いてくる。
 大人しくしているつもりだったのにな……。
 どこか朦朧とする頭で、これからの対処法を考える。
 家城は、だれか別の人と話し込んでいた。研修の時に見たことのある人なのだが、名前が出てこない。
 と、その家城と相手の人の所に、緑山が向かうのを見て、息を飲む。
 随分と親しそうなその様子に、啓輔の背筋に冷や汗が流れた。
「おい、隅埜くん、飲んでいるかい」
 3人の様子を窺っていたらその3人を遮るように目前に誰かがやってきた。その人のせいで3人が見えない。
「ほら飲んで飲んで!」
 なみなみと注がれたコップをぐいっと口元に持っていかれる。啓輔は苦笑しながら、それを煽った。
「見事だねえ。最近、あんまり飲まない子が多くって面白くなかったんだ。さ、次どうぞ」
 また、なみなみと注がれる。
 先ほどまで家城対策で結構飲んでいた。
 いい加減ビール腹になっている。だが、新人としては断るわけにもいかない。
「はい、いただきます」
 さすがに一気に飲む元気は無くなっていた。
 とりあえず半分ほど飲む。
 と、そこに別の人がやってきた。
「俺のも飲んでよ」
 と、半分しか空いていない所にビールを注ぐ。
 げっ……。
 さっきから心臓がばぐばくいっている。そろそろ限界だと躰自身が喚いているようだ。
「ほら、飲んで飲んで」
 二人かがりでコップをぐいっと口元に持っていかれた。
 仕方なく口をつけた。
「ほら、最後まで飲みなって」
 じっと見つめられる。
 啓輔は仕方なく飲み干した。
 それで気が済んだのか二人とも次の獲物を探して去っていった。
 た、助かった……。
 どこかベールがかかったような気分。
 ふわふわとした浮遊感があった。
 うっわー、結構きてるわ、これ。
「……じょーぶか?」
 どこかで声がした。
「へ?」
 顔を挙げる。間近に心配そうな家城がいた。と、その傍らに緑山がいる。
「大丈夫?みんな、君のこと大卒だと思っているみたいなんだ。未成年って気付いていなくて。ひどく赤くなってる」
 緑山の手が額に触れる。
 冷たくて気持ちいい。
 だが、心臓もどくんと跳ねた。
「緑山さん……」
「何?」
 首を傾げる緑山。
 こんな顔、夢には出てこなかった。いつだって怒っているか、泣きそうか。こんな優しそうな顔はしてくれなかった。
 今なら思える。
 あんなことをして、あんな風に遊んで、苛めて……。
 自分の苛つきをあの時、この人にぶつけた。
 そしてオレは、この人を妄想の対象にして……。
 だがそんな事、緑山さんはついぞ思ったことが無いだろう。
 知らないからこの人は、オレにこんな顔をしてくれる。
 もし、知ってしまったら……。
「大丈夫?顔色悪い、飲み過ぎだよ」
 オレ、あんたに心配されるような輩じゃない。
 ごめんなさい。
 不意に胸の中からどろどろしたものが溢れ出した。
 すまなくて。申し訳なくて……。
 今、ひどく自分が素直になっているような気がした。
 ごめん……。
 ふうっと視界が狭くなった。
 緑山だけが視界に残る。
「ごめんなさい。あの時……どうかしてた……ごめん……なさ……」
 ぐらりと視界が歪んだ。
「隅埜君?それって……まさか!」
 悲鳴にも似た声が聞こえた。
 だが、その直後、啓輔の意識は飛んだ。



 あれはクリスマスイブの前の日だった。
 前日遅く帰ったことを珍しく問いつめられた。
 ひどく頬を叩かれ、口の中に滲んだ血が気持ち悪かった。
 そのまま家を飛び出して。
 ひどくむしゃくしゃした気分のまま、いつも連れだっているタイシとゲームセンターにいく。
 昨夜遊びすぎて金があまりない。それすらも苛々が募る。
 したいゲーム機は空いているのだが、する事がてきなかった。
「どうする?」
 タイシの言葉に啓輔は首を竦めた。なんだって金がないと何もできない。
 ジャンパーのポケットの中にある折り畳み式のナイフを手の中で弄ぶ。
 まだ使ったことはなかった。だが、それを手にした途端、使ってみたい衝動に駆られる。
 暗く澱んだ思考が啓輔を支配している。
 人が犯罪を起こす時って、こういう時なんだろう。頭の片隅にふっと浮かんだ考えも、一瞬後には立ち消えた。
「ケースケ。あれなんか、カモじゃない?」
 タイシが指さした所を何気なく窺う。そこにいたのは、何の変哲もなさそうな若そうなサラリーマン。
 だが。
 啓輔は訝しげに眉をひそめた。
 彼は、何かが気になるのかずっと考え込んでいて、ゲームしている手も止まりがち。一心不乱にゲームをしているようで、どこかその目は虚ろにしか見えない。だからか、序盤はともかく少し難しい場面になると、必ずポカをしてゲームオーバーになる。
 それが、どこか流されて生活している自分を写しているように見えた。
 その自暴自棄に陥っているその様子に捕らえられた。
 単なるひ弱そうな男だ、よな……。
 彼が啓輔の視線の先で、長めの前髪が落ちてくるのを鬱陶しそうに掻き上げる。
「!」
 その細められた瞳がふっと啓輔を見たような気がした。
 いや、たぶん彼は啓輔には気づいていない。ただ、瞳がそう動いただけ。
 なのに、啓輔の心臓がどくんと高鳴った。
 な、何だよ、これ!
 自分の反応が信じられない。だが、躰の芯が意に反して熱く熱を持ち始めていた。
 この反応は覚えがあった。
 タイプの女の子を落とすことができたとき。その悦びとこれから起こるであろう期待に満ちた躰の反応。
 ちょい待てよぉ──、あいつ、男じゃねーか……。
 くっと奥歯を噛み締める。すうっと細められた目が剣呑な表情を作り出した。
「何?やるの?」
 タイシがその表情に気がついて、楽しそうに声をかけてきた。
 やる?
 金を奪う。
 タイシはそう言ったのだ。だか、啓輔にはそれ別の意味に聞こえた。
 犯るの?
 途端、さらに激しく鼓動する心臓。
「……」
 どうして……。
 オレは男に欲情してんのか?
 何だよ、これ……。
 呆然とする啓輔をタイシが訝しげに見つめる。それに構う余裕が啓輔にはなかった。今までこんな事はなかった。たいてい欲情する相手は女だった。
 と、啓輔の視線の先で彼の手が止まった。
 じっとゲーム画面を見つめている瞳。だが、それが違うモノを見ているような気がした。
 ゲーム機がゲームオーバーの音楽を奏でる。
 だが、それでも彼の手は動かなかった。
 どこか虚ろな瞳に、ゲームのカラフルな色が写り込む。
 綺麗だ。
 ふと、そう思った。
 気がついたら、先程より彼の近くに寄っていた。
 タイシが楽しそうに彼の背後に立ち、頃合いを見計らっている。啓輔が何も言わなかったのを肯定と取ったのだろう。タイシは、カツアゲを得意としていた。
 だが、啓輔はそんなつもりはなかったのだ。少なくともその時までは。
 と、彼の口元が笑みを形作った。どこか自嘲めいたその笑み。
 この人は、一体何を考えいるんだ?
 なぜだかとてつもなく知りたい。その欲求が沸き凝る。
「!」
 その途端だった。
 啓輔の視線の先のその男の瞳が、輝いたと思った。
 それはゲーム画面の反射だったのかも知れない。だが、今までどこか生気のなかったその瞳が急に輝いたと。生気を取り戻したかのように見えた。
 まるで何かを決意したように見えた。
 凄い……。
 なぜだかそう思った。
 あそこまで瞳に意志を持たせる人がいるなんて知らない。今までどこか頼りなげな雰囲気だった。自分に似ているとさえ思った退廃的な雰囲気。
 それが消し飛んだ。
 だが、同時に啓輔の脳裏に別の思考が宿った。
 この人はいってしまう。
 オレが今いるこの場から……そして二度と逢えない。
 そんなの、嫌だ。彼をここに引き留めたい。このまま立ち去るなんて許せない。
 それが出来ないなら……壊したい。
 どんな決意をしたのか判らないが、それがここを立ち去る理由だというのなら、それを壊したい。壊して、滅茶苦茶にしたい。
 オレのいる世界から出ていけないように。
 いい加減心の中を占めていた苛々に後押しされるように破壊的な思考が脳を支配する。止められない衝動に支配される。
 彼が立ち上がろうとするタイミングで、タイシが隣の椅子に座る。
「お兄さん、強いね。オレと勝負しない?」
 気さくそうに笑いかけるタイシに、彼は露骨な視線を示した。
 正直だね、あんた。でも、こんな所でそんな目をしない方がいい。
 啓輔は、立ち上がりかけた彼の肩を押さえた。
「いいじゃない。一回くらい」
 不快な表情を露わにして、啓輔達を睨む。
 その途端、ぞくりと背筋から尻にかけて甘い疼きが走った。
 こいつの瞳。ぜってー、そこらの女の持ち物なんかよりいい。
 セックスアピール……こういうのって、そういうんだっけ?
 何よりもオレを捕らえて離さない。
 こいつの目を見るたんびに、オレが狂う。
「離してくれ」
 ゲーム機に手をついて力任せに啓輔の手を振り切り、足早にゲームセンターを出ていってしまった。
 しょうがない。ここではまだ派手にはできない。人目がある。幾ら、その手のたまり場とは言え、騒げば警察だって来る。啓輔にとってそれは絶対に避けなければならないことだった。
「逃がすものか」
 タイシと目で合図を交わし、裏通りに出たところで背後から近寄り同時に彼の両手を掴んだ。
 露骨に嫌そうな表情を見せる彼はまだ自分の運命を知らない。だから、強いその瞳。
「ひどいな。せっかく誘ってんのにさ」
「離せ!」
 離すつもりなら、こんなことしていない。
 タイシが笑いかける。
 タイシもオレも、こういう時の言葉は荒くない。
 和やかな雰囲気で話しかければ、まかり間違ってその様子を聞いた外野は、ただのじゃれあっていると思うことだってある。それに相手が油断しやすい。それが狙いだ。
「せっかく遊ぼうって言ってんのに逃げることはないだろう。どうせあんたも独り身なんだからさ。オレ達と仲良く過ごそうって……」
 掴んだ腕を振り払おうとしているが、最初の印象通り力は弱そうだ。捕らえた腕は外されることがなかった。
「俺はもう帰るから」
 その言葉に啓輔達はせせら笑う。
「何言ってんの、夜は長いんだからさ」
「そうそう、あんた金持っていそうだし、つき合ってよ」
 だが、それで大人しくするたまではなかった。
 しょーがねーな。
 なおも逆らおうとする彼の手の甲に啓輔はナイフを突き当てた。その触れた感触に視線をやった彼が目を見張る。
 明らかな怯えがその瞳によぎった。
 思わず動いたのであろうその手。途端に、啓輔の手に僅かな違和感が伝わった。
 はっと気がつき、そこに視線を落とすとぷつぷつと浮かんで来る血の塊。
 見上げた先で、彼の瞳が細められていた。
 驚きと衝撃。激しい動揺。
 いいな、あんた。
 ずきずきと血流が股間に集まる。
 激しく高ぶる高揚感。もっとそんな目、させてみたいよ。
 この時のオレは完璧にまいっていた。
 離したくない。
 遊びたい。
 一緒にいたい。
 壊したい。
 自分のモノにしたい。
 できないなら、壊れてしまえ。
「もう、動くからだよ」
 タイシがハンカチを取り出すと、血の上に巻き付ける。血は目立つ。他人の目に触れたら、さすがに誤魔化しが利かない。だから、なおも抗おうとする手を押さえつけて、タイシに巻かせた。
「なあ、どうする。このお兄さん、意外に大人しくはしてくれそうにないタイプみたいだよ」
「そうみたいだな」
 タイシの言葉に啓輔は頷いた。
 瞳に浮かんだ色は間違いではなかった。
 彼は決して退廃的ではない。さっきまで何かに悩んで、躊躇っていただけなんだ。だが、だからこそ、もう一度その状態に陥れてやりたい。
 その瞳を見ているとそういう嗜虐心がうずうずと沸いてくる。
 蒼白になった顔。それをもっと青ざめさせたい。
「離せ!」
 睨む瞳の力はまだ強い。
「はん。このお兄さん、自分の立場がわかっていないみたい」
「ったく……おとなくしく金だけでも出せばいいのにさ」
 タイシに合わせて言っているが、金だけで離すつもりはなかった。タイシがどういうつもりかは判らないが、啓輔の衝動はもう消せないところまで来ている。
「ね、あそこ行こうよ」
「そうだな」
 タイシの言葉に啓輔はピンと来た。
 あそこなら。
 どうとでもできる。
 彼の腕にナイフを突きつけたまま、啓輔達は歩き始めた。
「離してくれ」
 ああ、諦めの悪い奴だ。
 啓輔は、彼を引き寄せるとその耳元で囁いた。
「俺、あんたの顔、傷つけたっていいんだぜ。せっかくの綺麗な顔、醜くなってもいい?」
 怯えの走った顔。
 それが啓輔をさらに興奮させる。
 啓輔はにやりと口元に笑みを浮かべると、彼を引っ張っていった。
 
 駅裏にあるコンテナ製のカラオケボックスが啓輔達のたまり場だった。やる気のない管理人は滅多に顔を見せることはない。警察沙汰さえ起こさなければいい、と言った感じの場所。警察が見回りに来れば、要領の良い従業員達が、即座に全室に伝える。その従業員達ですら、過去にここをたまり場にしていたような奴らだった。
 タイシが受付に行き手続きをすませる間、啓輔は彼にナイフを突きつけたまま待っていた。彼はさすがに自分の立場が判ったのか、大人しい。
 やってきたタイシとともにカラオケボックスに入るのも素直に従う。
 最初からこんな様子だったら、ここには連れてこなかったかも知れない。
 今の彼の瞳は、暗く澱んでいた。
「コート脱げよ」
 その言葉に従った彼のコートでドアにある唯一の窓を塞ぐ。次にソファを移動し、ドアを塞いだ。電話してからでないと絶対に従業員が来ないのは判っているが、だから言って警戒を怠るわけにはいかない。
 力無くソファに座り込んでいた彼に啓輔は問う。
「さて、金はどこだ?」
 だが、彼はナイフを目の前でちらつかされても決して口を開かなかった。
 怖いくせに……。必死で耐えているその様子。
 ふとタイシと目が合った。タイシの目が、長くとぐろを巻いているマイクのコードに移された。
 なるほど……。
 二人揃ってにやりと嗤う。
「あんた、そんなひきつった顔してるくせに、目だけは睨み付けるんだな。なんか、結構そそられるね」
 タイシの言葉はオレ自身の言葉。
 やっぱりタイシですら、そう思ったのだ。オレだけが変なのではない。こいつのせいなんだ。
「全くね、壊したくなるような感じだ」
 ぽつりと出た本音。
 それが理解できないといったように彼が見つめる。
 それに啓輔の理性が飛んだ。
 壊れろ!
「っ痛」
 捻り上げた腕の痛みに漏らされた言葉を無視して、ソファに俯せになるように押しつけた。タイシが引っ張ってきたマイクのコードで両手首を拘束する。途端に跳ね起きようとする躰を捕らえ、手に巻いていたハンカチを叫ぼうとした口に押し込む。
 それを出されないよう口元に猿ぐつわのようにコードを巻き付けた。
「ううっ」
 くぐもった声が、その口から漏れる。
 二人で躰を探り、財布と携帯をとりだした。
「入ってる。10万か……儲けっ!」
 タイシが嬉々として札を取り出す。
「やったな」
 なんて金もってんだよ。やっぱ会社津勤めしていると持っている金額が違う。
 オレも早く働いて、金稼ぎてー。
 啓輔にとって、今何よりも欲しい物は金。
 崩壊しきった、ただ寝るためだけの家から離れたかった。
 啓輔がこんな事をしていても、何の関心を持たない奴らから離れたかった。
 就職先が地元だから、家から通うことになっている。だったら、さっさと金貯めて家を出ていく。そして、二度と帰らない。
 ふと気がつくと、彼が悔しそうに睨み付けているその目元から涙がこぼれ落ちていた。
「ううっ、あやえっ!」
 返せと言っているのだと判った。
 諦めが悪い。
 苛々と啓輔はその腹を蹴り上げた。もっともそんなに力は込めていない。だが、鍛えていない腹のようで、ひどく柔らかな感触がした。
「ぐっ!」
 彼は躰をくの字に折って唸っていた。
「最初っからおとなしく渡してくれればこんなことにはならなかったんだよ、ねえ」
 けらけらと嗤いながら、足先で唸っている彼の躰をこづく。
 きつく閉じられた瞳。それをもっと壊したい。涙でぐちゃぐちゃにしたい。
 芯から沸き起こる興奮。
「おい、見て見ろよ」
 タイシの言葉に、そちらを見やると携帯を操作しているのが見えた。それを覗き込む。
 『愛している』
 一つだけそんな件名があった。
 中を表示すると、日付と場所。
「愛しているだってさあ。しかもここに書かれている日付って今日じゃん」
「ほら、次のメール……今、こいつが来ている服のことだろ」
 女に着ていく服まで指示されて、それに従ってきているのか、こいつは。はん、思ったより情けない。
 ちょっと拍子抜けした。
「へー、今日はデートだったんだ。それなのに、何でこんなとこにいるのかなあ、一人で」
「彼女に振られたんじゃない?」
「こんな熱烈なメールもらっといて?でも、そんな感じだったよなあ」
 その言葉に今まで青ざめていた顔が朱に染まった。
「これ……でもさあ、男の名前じゃないのか?」
 タイシが不審そうにその部分を指さす。
 穂波幸人……。
 ほんとだ。
「あんた、男とつきあってんのか?」
 なんだこいつってホモなわけ?
 だが彼は蒼白な顔で首を振る。
「メールに書かれたとおりの服を着て、今日待ち合わせしたってことだろ。それでつき合っていないってよく言えるよな」
「で、その男と喧嘩でもしたって?」
 びくりと震える様子を見ると図星らしい。
 だが、その怯えにも似た動きに、萎えかけていたはずの嗜虐心がむくむくと沸き起こる。
 男と付き合う奴か。だから、このオレが煽られたってことだよな。
 てことは、やっぱりこいつが悪いんじゃん。
「ま、確かに可愛い顔立ちをしているよな。あんた目を開けな」
 顎をぐいっと引き起こすと、痛みに顔をしかめながらも彼は僅かに目を開いた。
「なあ、男同士でやったことあるんだ?」
 その言葉に慌てて首を振ろうする気配が掴んだ顎から伝わった。
「それって、やっぱ尻に突っ込むんだよな」
「あんた、突っ込まれる方?」
 啓輔の言葉にタイシも楽しそうに加わる。
 男と男がどうするかっていうことくらい知識としてはあった。だから、興味があった。
 なおも逆らおうとする彼の躰をぐいっとねじ伏せる。
「どうするんだよ」
 タイシが言う。啓輔は、にっと嗤うとわざと彼に言い聞かせるように言った。
「尻につっこむ趣味はないけど、口でしてもらおうかなって、な」
「へえ、そりゃあいいや」
 タイシが嗤う。
 その言葉に彼の躰が大きく震えた。逃げようと身を捩る。
 その目前にナイフをちらつかせた。
「その可愛い顔に傷つけたっていいんだけどな。ここから逃れたかったら、おとなしく言うこと聞いた方が良いんじゃない?」
 それだけで、動きが止まった。
 タイシが口に巻いていたコードを外し、布を取り外す。
「あんたが口で達かせてくれたら離してやるよ。嘘じゃないぜ。ほら」
 タイシに目で合図し、財布と携帯をコートのポケットに戻させた。
 オレ達も必要以上の犯罪者にはなりたくない。
「俺達もさ、人殺しにはなりたくないしね。ただ、楽しめれば良いんだ。あんたが、俺達を楽しませてくれればそれでいい」
 ナイフの切っ先で彼の顎のラインをなぞる。
 一カ所僅かな引っかかりを感じたと思ったら、ぷくりと血の塊が膨れあがってきた。
 ぞくぞくと沸き起こる劣情。
 啓輔は自身をジーンズの中から引っ張り出した。それは既に半勃ち状態だ。
「ほら」
 彼の頭を掴み、口元に彼を突きつける。
 だが、刃を食いしばり一向に開けようとしない。
「口を開けろって」
 するとタイシがけらけらと笑い出した。
「もう強情だねお兄さん。あのさ、俺の携帯カメラ付きなんだよね」
 タイシの言葉にピンときた。
 啓輔は彼の頭を掴み、位置を変えさせる。
「撮れたよ」
 にっこりと笑みを浮かべたタイシが、彼に携帯の画面を見せた。
 そこには小さかったが、それでも誰かははっきり判別できる顔と、そこに突きつけられているモノが写り込んでいた。
 相変わらずこういう悪知恵は働くんだからな。
 その画像はどう見ても、銜えているようにしか見えなかった。
「これね、さっきのメールの人に送ろうか?」
 決定打。
「止め、ぐあっ!」
 叫ぼうとした口に自身を捻り込む。
 歯が当たり、きつい痛みが走るが、それ以上に脳裏を支配する愉悦。
「ぐっ」
 苦しいのか、その目尻に涙が浮かぶのですら興奮する。
「舐めろよ」
 発した言葉が興奮のあまり震えているのに気づき、啓輔は苦笑を浮かべた。
「やっぱ、さっきのメールの人、彼氏なんだ?じゃあさ、しっかりと俺達を楽しませてくれないと、写真を送っちゃうよ」
 けらけらと嗤いながら、タイシが携帯を向ける。
「うう」
 涙に潤んだ目がどんよりと曇っていた。
 絶望に打ちひしがれたその瞳。
 壊れろ。
 もっと!
 滑らかな感触が自身をなぞった。
 とうとう彼が舌を這わし始めたのだ。だが、その動きがどこかもどかしい。気持ちはいいのだが、じわじわとしかそれが伝わらない。
 なんだ、こいつ。したことないのか。
 啓輔は肩を竦めた。
「じれってーなー」
 仕方なく、その口から自分のモノを抜いた。
 顎を伝う唾液の痕にぞくぞくと興奮する。 
「舌を出して舐めな」
 虚ろな目が啓輔の物を捕らえ、その口から赤い舌が出てきてぺろぺろと舐め始めた。それがひどく艶っぽい。ずくんと背筋を走るきつい刺激。直接舐められるより、その顔の方が啓輔を煽る。
「いいなあ、その顔。それだけで興奮しそうだ」
 その舌先が、くびれた部分をなぞり、舐めあげる頃には啓輔も溜まらず声を上げた。
「う、いいぜ……」
 彼の目尻から涙が流れ落ちた。
 それを指で掬い取り、ぺろりと舐める。
 征服欲、破壊欲、その全てが性欲へと繋がる。
 くくくと喉から漏れる嗤い。
 その笑いの意味に気づいたのか、彼の動きが早くなった。急いで達かせようとしているのか、再度自ら口に含んだ。
 ああ、達ってやるさ。
 啓輔は女の股間に突き刺すかのように大きく抜き差しした。遠慮なく突き指せば、喉の奥にぐっと押し当たる。
「ぐっ、ううっ」
 その衝撃に吐きそうになったらしい彼が、急いで抜こうとした。その時、当たった歯の刺激が啓輔を一気に高みへと昇らせる。
 びくびくっと震えるモノを抜かさないように頭を押さえつける。
「うううっ」
「飲めよ」
 啓輔の口元には笑みが浮かんでいた。
 ごくりと喉が動く。
 飲み干し終わったらしいと判ってから、啓輔はその手を離した。彼はごほごほとせき込みながらその場に踞った。
 その後、タイシのモノを含まされた彼の躰を弄んだ。
 前をはだけ、萎えていたそれを取り出し揉みしだく。
 そうしたくて堪らなかった。
 嫌だと身を捩りながらも、そこは啓輔の手の動きに合わせて着実に反応した。喉の奥からくぐもった音が漏れる。
 先に爪を立てるとぴくんと躰が震えた。
 耐えるようにひそめられた眉。
 何もかもが啓輔を煽る。
 タイシの吐き出したモノを飲み込む頃には、抗う動きも止まりなすがままになっていた。
 壊れた……。
 そんな感じだった。
 強い力を持っていた瞳は力無く臥せられ、生気なんかなかった。
 自らの半裸の姿を写真に撮られても、何の反応もない。
 ただ、啓輔が与える刺激にだけに翻弄され、悶える表情は今まで抱いたどの女よりも色っぽかった。
 それにぞくりと反応した。
 ぞくぞくと腹の底から痺れる。
 犯したい……。
 そう思わせる。
 もし、あの時タイシがいなければ、本当に犯していたかもしれない。あの時は、就職の事を忘れていた。先公にきつく言われていた事も忘れていた。
 啓輔の手の中で達した彼の顔を見た途端、啓輔は再び自分も達ってしまったのだから。
 あんな快感はなかった。
 男相手にあんなに興奮するなんて……。
 ぐったりと倒れ伏す彼のモノに出された精液を塗りたくる。
 何を自分がされているのか判っていないようだ。
 ただ、無意識の内に逆らうように動く手足を押さえ込む。
 啓輔がキスをしたことも気づいていない。
 啓輔の舌が彼の口内を蹂躙する。どこか苦みのあるのはタイシのもののせいだろう。だが、それが不快とは思わなかった。
 貪るようにそのキスを味わった。
 離したくない……。
 このまま自分のモノにしたい。
 啓輔ははっきりと自分が彼に魅入られてしまったことを自覚した。
 その瞳に魅入られたのだと……。
「ケースケ、もう時間だって」
 ふと気がつくとタイシが電話に出ていた。
 もう時間……。
 啓輔が彼から口を離すと、ぐったりと彼が崩れ落ちた。その躰を支える。
 最後だから……。
 もう一度キスをし、そして彼に服を着せた。
 朦朧として夢うつつな彼を外に連れ出す。
 うつろな表情。
 あの生気ある瞳はもうない。
 だから信じていた。
 彼は壊れたのだと……。

「ケースケ、この画像どーする?」
「送ってやれよ、彼氏にさ。あんたの恋人は男のモノを銜えて遊んでましたって。それを知ったらあいつもっと壊れるんじゃない?」
「へえー、おもしろそう」
 タイシの手が携帯を操作する。
 だが、それを見つめる啓輔の心はどこか寒々としていた。
 オレは、何をやっているんだ……。

 だが。
 その日の内に再び逢った彼は男連れだった。しかもあれだけ力を失っていた瞳に力が戻っていた。怯えはしていたが、それ以上に強い信頼がそこにある。
 それが悔しかった。
 オレが壊したモノ。それを取り戻させたのが傍にいるこいつだと言うことが無性に悔しい。
 もう一度、取り戻す。
 そして、また壊す。
 あの時のオレの頭の中はそれだけだった。
 だが、相手の男は大層強くて、一撃でのされた。
 免許証の住所と名前を書き取られた。
 警察に訴えようか?嗤いながら言われた。
 だがその言葉より、その傍らにいたあの彼が啓輔のナイフを握って睨んだその瞳から目が離せない。。痛みで呼吸困難な状態なのに、啓輔の股間のモノは張りつめていた。
 逆らえない事はなかった。だが、躰が動かない。その怒りに満ちた瞳に魅入られた。
 ぞくぞくする感触。
 恐怖ではない。
 快感。
 彼が見ている。そのことに。
 
 結局、あの人達は何もしなかったのだろう。実際には警察が来ることはなかったし、内定取り消しの連絡も無かった。
 考えてみれば、あれはちょうどいい経験だったのかも知れない。あれ以上羽目を外したら、とんでもないことになっていた。だからあれ以来綺麗さっぱり足を洗った。
 タイシにもあれから会っていない。
 家にいるとストレスが溜まるから、街中をうろつくことには変わりはなかったけど、それでもあの場所には二度と近づかなかった。



 無性に熱くて目が覚めた。
 額に滲む汗を手でふき取る。
「ああ、またか」
 自身が高ぶっているのに気がつく。朝勃ちとはちがう。
 またあの夢を見た。
 出さなかったのが不思議なくらいだ。
 もういい加減、忘れてしまえればいいのに。
 だが、寝返りを打とうとして啓輔は、はたと気がついた。
 オレの部屋じゃない……いや、家じゃない。
 完璧和風建築の啓輔の家。
 だが、今見えている天井はフラットで壁紙が貼ってある。どうみても洋風の雰囲気。
 慌てて躰を起こした。ずきずきする頭を押さえながら、辺りを見渡す。
「どこ、ここ……」
 シンプルな部屋。クローゼットと小さな整理ダンス。そして本棚が一つ。
 部屋の中央に置かれたベッドに啓輔は寝かされていた。全く見覚えがない部屋。
 ベッドから降りる。
 と、スラックスが脱がされているのに気が付いた。上もシャツが脱がされ、見覚えのないTシャツが着せられている。
 驚いて周りを見渡すと、ベッドサイドの机にスラックスが畳まれて置いてあった。
 ほっとしてそれを手に取る。
 ここ、どこだろう。
 スラックスを履きながら、思い出そうとする。
 だが、記憶にあるのは、宴会の最中に開発部の二人から飲まされたという所までだった。その後の記憶がない。
「酔いつぶれちゃったんだよな」
 情けねー。
 ほおっと盛大なため息を付きながら、啓輔は目に付いたドアを開けた。
「あ、ああ、起きましたか」
「あんた……」
 リビングとおぼしき部屋で新聞を広げて読んでいたのは、家城だった。
「じゃ、ここはあんたの部屋?」
 ぐるりと見渡す。
 先ほどの部屋と同じくシンプルな部屋だった。ど真ん中にあるソファとテーブル。壁際のオーディオセット。テレビそしてパソコンのセット。
「一次会で酔いつぶれてしまったので、みんなでどうしようという話になったので、私が連れて帰りました」
 言われて顔から火が吹き出るような感覚に陥る。
 恥ずかしい。だけど、やっぱこういう場合は、礼を言うべきなんだよなあ……。
「ありがとうございます」
「そうそう、先輩への言葉遣いはそうでないといけませんね。君は悪すぎますよ」
「うー」
 いきなり説教かよ。
 だいたい、こいつとの出会いは最悪だった。いまさら、いい子ぶろうって気が起きないのも事実。
 オレってば会社で大人しくするんじゃなかったのか……。自分の決意ががらがらと崩れていくのに戸惑いを隠せない。
「まあ、最初に飲み過ぎたのは私のせいなんでしょ?連れて帰るのに異論はなかったのですが。それに……」
 何かを言いかけた家城が新聞を畳んで、テーブルの上にあった小瓶を持って啓輔に近づいた。
「薬ですよ、飲んでおきなさい。二日酔い、でしょ」
「あ、ああ」
 ずきずきとする頭にしかめていた顔に気付かれたのだろう。
 啓輔は大人しく受け取ってそれを一気に飲み干した。
「それから、食べられますか?もう、朝9時過ぎなんですが」
「え……そんなにオレ寝てた?」
「食事、トーストと珈琲でいいですか?」
「……あっ自分やる」
 キッチンに向かった家城を追いかける。
「頭痛は?」
「大丈夫。それより、これで入れんのか?」
「ええ」
 示されたコーヒーメーカーに必要量のコーヒーの粉を入れ、スイッチを入れる。
 その後、家城が取り出した食パンをオーブントースターに入れた。
「何分に設定すればいいんだ?」
「2分がちょうどいいんですよ」
「OK」
 タイマーを合わせると、今度は食器棚からコーヒーカップを取り出した。
 それにしても、こいつの家、きちんと整理されていて何がどこにあるのかすっげー検討つきやすい。
 啓輔の家の滅茶苦茶な状態と雲泥の差がある。母親が家事すら放棄している状態で、家にいないこともしばしばだった。
「随分と手慣れているんですね」
 家城がその口元に笑みを浮かべて啓輔をじっと見ていた。
 それがからかっているようで啓輔はムッとする。
「ああ、からかっている訳ではありませんよ。褒めているんです」
「褒められてるように見えねー」
「でも手際いいですね。自宅から通っているんでしょう?家でもやっているんですか?」
「誰もやってくれねーよ、自分でやらねーと!」
 自嘲めいた口調で、さらに吐き出すようにいった言葉。つい、出た。
 その言葉に家城が息を飲む。
 その言葉が持つニュアンスに気が付いたのだろう。
 啓輔は、言い過ぎたと気付いて顔をしかめた。
 この人は聡い。
 不用意な言動は、自らの秘密をばらす羽目になる。
 家族のことを他人に言ったことはなかった。言って同情されるのが嫌だった。
「それで手慣れているんですか?」
「……ああ」
 仕方なく頷く。
 だが、心配していた家城の次の言葉がなかった。
 キッチンに湯が沸くこぽこぽという音だけが響く。
 チーン!
 その音にびくりと反応した。
「あ、焼けたんだ……」
 慌ててオーブントースターの扉を開ける。
 用意していた皿にパンを乗せると次の食パンを入れた。
「バターと……ジャムもあります。隅埜君は、何つけます?」
「あ、オレ、ジャムがいい」
 何となく脂っこいものを食べる気にはなれなかった。
 それに甘いモノが嫌いなわけではない。
 家城が冷蔵庫から出したジャムをパンに塗っていく。
 そっちの方が馴れた手つきって思うんだけどな。一人暮らし長いんだろうか……。

 皿と珈琲カップをテーブルに運び向かい合って食事を取った。
 食べながら、ちらちらと周りを見渡す。
 たぶん、ここはマンションの一室。ちゃちなコーポやアパートじゃあないのは判る。
 部屋が2つ。リビングにキッチン。
 家賃、幾らなんだろう。
 こいつ、どの程度の給料貰ってんだろう……。
 よっぽど、うろうろと周りを見ていたのか、家城が訝しげに聞いてきた。
「何です?」
「え?」
「さっきから部屋の様子を窺っているようですが、何か気になりますか?」
「いや……その、ここって家賃幾らくらいかなって……」
「ここですか?」
 そう言って、家城が示した数字は、オレの貰えるであろう給料の半分だった。
「うえっ、そんなの生活できねえ」
 やっぱ、こういう所は、10年くらい先の話だなあ。
 だが、そんなに待てない。
「家を出たいんですか?」
「あ、うん……ちょっとね」
 やばっ。
 たったこれだけの質問で、こんなにも的確にオレの心をあてやがる。
「いろいろと事情がありそうですね、君は」
 ほっとけ!
 啓輔はじろっと家城を睨み付けると、黙々と目の前の食事を平らげ始めた。
 食欲がある訳ではない。
 ただ、食べていないと間が持たなかった。
 もっ、これ食べ終わったら、さっさと退散しよ。
 固く決意する。


 帰ると言うと、家城が首を振った。
「10時に来る人がいるんです。それまで待ってください」
「誰?」
「君がよく知っている人。だから、それまで風呂にでも入ったらどうです?」
「風呂ったって……」
 確かに汗はかいている。
 だけど、余所の家で風呂って……。
「はい、どうぞ」
 渡されたのはバスタオルとTシャツ、スウェットのパンツ。んで、何でかブリーフまで……。
「新しいのですからどうぞ」
 って用意がいい奴。
 結局啓輔は促されるまま、風呂場へと向かった。
 汗を流し、ゆっくりと湯船に使る。
 なんだか、凄く気持ちが良かった。
 他人の家だというのに、何でこんなにリラックスできるんだろう。
 まったく……自分の家より、ほんと他人の家の方が楽だ。
 あの嫌な音を聞かなくて済む……。
 ふと気が付くと、家城が喋っている声が微かに聞こえる。
「ああ、客が来たんだ」
 誰だろう。オレが知っている人だって言っていた。
 あいつが知っていて、オレも知っているって人だったら、会社の人なんだろうな。
 それにしても……入社二週間。
 しがない製造作業員で会社勤務を大人しく過ごすはずだったオレなのに、今の状況は一体どういう状態なのだろう。
 だいたい配属先の情報処理部の面々との顔合わせも済んでいない状態で開発部研修に放り込まれたから、配属先に誰がいるのかも判らない。しかも、何故か品質保証部のあいつと知り合いになってしまった。なおかつ、もっとも逢いたくない人は親しげに声かけてくるし……一体どうなっているんだ。
 はああ
 大きなため息が漏れる。
 やっぱ、会社勤めって大変だな。ストレスを発散する場所もない。
 高校時代がなんだかんだと言ってもまだストレスが発散できる場所があった。
「出よっ」
 会社の人だったら待たせるわけにも行かない。
 何せ一番の下っ端なんだから。
 躰をバスタオルで拭きながら、鏡の中の自分を見る。
 黒く短い髪。
 違和感が大きい。
 脱色したから染めているのだが、いつまで黒髪でいる必要があるのか……。
 一通り伸びて染めなくても良くなったら、ちょっとだけ色つけてみるかなあ。目立たない程度。
 あの人に気付かれない程度に……。
 啓輔はため息をつくと、着替えをさっさと済ませた。
 リビングに向かうとソファに2人座っているのが見える。その傍らに家城が立っていて、啓輔を見て取り、その口元に苦笑を浮かべた。
「来ましたよ」
 その言葉は2人に発せられたもの。
 2人が啓輔に視線を移す。それより早く、家城が啓輔に近づきその腕を掴んでいた。
 啓輔は……固まっていた。
 まさか……。
「大丈夫ですから」
 耳元で家城が囁く。 
 何が大丈夫だって!頭がパニックを起こしていた。あんたに何が判るって?
 硬直した躰を無理矢理動かす。
 ずっと後ずさった足。
 だが、家城はさっと背後に回り、啓輔の逃げ場を塞いだ。
「あんた……」
「いつまでも逃げられるものじゃないですよ」
 その言葉で、家城が知っていることが判った。
 啓輔が茫然とそちらを見やる。その視線の先にいるのは、逢いたくて、だけど絶対に遭いたくなかった人達。
 その一人、緑山がソファから立ち上がった。足を進め、啓輔の真正面に立つ。
 そこにはあのにこかな笑みはなかった。深い皺が入った眉間、睨み付けられる細められた目。
 それだけで、気付かれたと判る。
 いや、この二人が揃ってオレの前にいる。
 それが何よりもばれたって言う証拠。
「どうして……」
「君さ、昨日俺に言ったこと覚えてる?」
 緑山のきつい口調に啓輔は力無く首を振った。
 昨晩の飲み会で緑山と話をした記憶はなかった。
「君ね、寝てしまう直前に、俺に向かって言ったんだ。『ごめんなさい。あの時』って。『どうかしてた』とも言ったよ」
「それは……」
 なんてこと。オレ、酔っぱらってそんなこと……。
「最初、何のことか判らなかった。だけど、よっく見たら君の顔、覚えがあるんだ。そうだよ、もっと長かった髪……俺にとって、あの時ってのは、あの時でしかあり得ない」
 緑山の伸びた手が、啓輔の髪をぐっと引っ張った。
 抜けそうな位引っ張られ、その痛みに顔をしかめる。
「まさか、俺の会社に入ってくるなんて……どういうつもり?俺が気付かないのが面白かった?」
 髪を引っ張られ、顔が自然に彼に近づく。
 そのきつい瞳が啓輔を射る。
 啓輔は、かろうじて首を振った。
「し、知らなかった……オレ、あの時はもう内定もらってた……けど、緑山さんがその会社の人だなんて知らなかった」
 くっと下唇を噛み締める。
 怒りをぶつけられているのに、オレの心のどこかはこうやってこの人が傍にいることを喜んでいる。それを隠し通さないと……まずい……。
「それで、俺と会って、辞めようとは思わなかったのか?それとも辞めさせられるのを待っていた?俺が気付いて、総務に君の素行を教えれば、君はきっと辞めさせられるだろうね。少なくとも君はカツアゲに関わった。それって犯罪だものね」
 会社を辞めさせられる?
 そんなこと……困る。
 啓輔は、血の気が失せた顔を横に振った。
 嫌だ。
 今は辞めたくない。せめて、もう少し稼ぐまで。
 就職できなかったら、バイトでもなんでもするつもりはいた。だけど、まだ未成年だから、何をするにも親の承認がいる。一人暮らしの部屋を借りるにも、何をするにしても保証人がいる。啓輔の周りには親の代わりにしてくれるような人がいなかった。親戚は、啓輔達親子を見限っていた。それにもともと頼るつもりもなかった。
 だから、正規の社員でないと駄目だ。
 啓輔は頑なにそう思っていた。
 この不景気に、不安定な職業にはつきたくない。
 少しでも優良と言われる企業を選んだ。
 それなのに……。
「会社、辞めさせられるのが、そんなに嫌なんだ」
 緑山の手が髪から離れた。
 いや、いつの間にか近づいた穂波の手が緑山を制していた。
「敬吾、止めろ」
「だって幸人さん、こいつ!」
「敬吾は許せないだろうけど、だからと言ってどうする。こいつを殴るのか?今のお前なら、その位訳ないだろうが」
 それに敬吾はくっと口元を引き締めた。
 殴られる。
 それもいいかも知れない。
 だが、緑山は啓輔をじろっと睨むと、ソファに戻って腰を下ろした。
「もういいさ。済んだことだから」
 吐き出された言葉。
「俺はあのことは許せない。だけど今の君に何をしても、あの時の記憶が消せる訳じゃない」
 ああ、やっぱり嫌われている。
 当然だ。
 それだけの事はした。
「それに敬吾に嫌われているという事実が、どうやらこいつにとって、一番辛いようだしな」
 穂波の言葉に緑山がえっと顔を上げた。
 途端、啓輔の顔がさっと紅潮した。
 この場を逃げようとしても、腕が家城によって拘束されている。
 啓輔は仕方なく緑山の視線から避けるように俯いた。
「いつから?」
 緑山が問う。
 だが啓輔は俯いた顔を上げることが出来なかった。
「答えろよ、いつからだ?」
「たぶん……最初から」
 仕方なく答えた言葉に、緑山が目を剥いた。
「最初からって……君は好きになった相手にあんなことをするのか!」
 怒りを含んだ声に啓輔は思わず首を振った。
「あの時は!あの時は……オレ、もうすっごく何もかも嫌で……そんな時に緑山さん見かけて……すごく暗い目だったから……自分と同じだと思って見ていた。なのに」
「なのに?」
 家城の声が耳から入ってくる。それに促されるように言葉を続けた。
「急に生き生きとしたんだ。さっきまでの生気のなかった目が急に生き生きと。きっとこの人は、生き甲斐があるんだ。何か楽しいことがあるんだ。オレとは違う。そう思った。そしたら……壊したくなった……」
 先程の夢がリアルに脳裏に甦る。
 手に入らないものだろうから……。
「ガキの思考だ。自分のモノにならないなら、壊してしまえ、か」
 まさに啓輔が思ったことを穂波が代弁する。
「惚れられやすいっていうか……敬吾は。ったく。だが、諦めろ。敬吾は私の恋人だ。お前に渡すつもりはない」
 穂波のドスの利いた声。啓輔はこくんと頷いた。
 そんなこと、判っていた。あの時の様子を見ていれば……。
 これ以上、嫌われてたまるか。
 いつか、他の人を見つけるまで……できれば、想い続けたいから……。
 熱いモノが胸の内から込み上げてきた。それを必死で堪える。
「ご……めんなさい……オレ、あの時、どうかしてた……ごめんなさい……」
 ほんとに些細なきっかけ。
 あそこでタイシがこの人に気付かなければ。
 逢ったのがあの日でなかったら……。
 オレと緑山さんはこの会社で普通に出会えた。
 オレは普通に女の子に恋をして。
 なのに……。
 下唇をきつく噛み締める。
 それを見た緑山がほっと息を吐いた。
「もういいよ。今まで通り、会社では普通に接するから、君も心得といてよ」
 その柔らかな物言いに茫然と顔を上げる。
 啓輔の目前に緑山と穂波が並んで立っていた。
「返事は?」
 穂波が揶揄する口調で啓輔に言う。どこかその口元は笑っていた。
「はい……
 それ以外なんと言えよう。
「いい、返事だ」
 穂波がいい、緑山がこくりと頷く。
 そこには先ほどまでの険しい表情が消えていた。
「実は、ここに来る前に幸人さんと話をしてきた。自分の気持ちに整理をつけるために。君と再会した途端に思い出していたら、こんな許す気分になれなかったかも知れない。だけどね、君と一緒に研修した時の事を俺は覚えている。真面目だったよね、一生懸命だった。高卒の君が学卒の人たちと一緒に研修を受けているんだ。判らないことだらけだろうに、それでも必死だったのは知っている。そんな君だから、思い出したけど許す気になっていたんだ」
「え……」
 じゃあ、さっきのは……。
「ま、さっきのはちょっとした意地悪。これ位したって罰は当たらないだろう」
 くすりと笑われ、啓輔はさらに赤くなった。
「まさか高校生とはね。気が付かなかったよ、ほんとに。俺もほんとあの時は非力だったんだよなあ。何か今となったらそっちの方が情けなくてたまらない」
 くすくす笑う緑山を穂波が引き寄せる。
「もう大丈夫さ。だいぶ鍛えたからね」
「幸人さんって容赦なかったもんなあ。俺、身の危険感じてたから必死にならざるをえなかったよ」
 くすくすと笑い続ける緑山に答えるように穂波がその耳元で囁いていた。その途端、すうっと彼の顔に朱がさした。
「じゃ、私たちの用事は済んだから、帰るよ」
 その二人の仲睦まじさに、胸にずきんと痛みが走る。
「あの時、あんな事があったから私達の仲は進展した。憎いのもあるが、ま、多少は感謝してるんだよ。な、敬吾」
 その言葉に、引き寄せられた緑山が先程よりさらに朱に染まっている。
 そこには、一分の立ち入る隙もなかった。
「じゃあな」
「失礼します」
 二人が出ていく。
 啓輔はただその二人を見送ることしかできなかった。


 諦めなければならない。
 簡単には無理かも知れない。
 だけど、いつかは絶対に諦めないといけない。
 そうしないと、きっと会社を辞めなければならなくなる。
 それは駄目だから……せめてある程度の生活が出来るようになるまでは勤め続ける。辞める前に資格をとって、次の足かがりを作ってからでないと辞められない。
 だから、諦める。
 だけど……。
 この込み上げてくるモノはどうしようもなくて……。
 と。
 ふんわりと抱き締められた。
 後頭部に回された手が啓輔の顔を肩に埋めさせる。
「あんた……」
「言いましたよね。大丈夫だって」
 家城の声が優しく響く。
「あんた、知ってたんだ?」
「昨日君が言った言葉を聞いた途端、緑山君がひどく取り乱してね、一緒にいた滝本さんと一緒に君と緑山君をあの場から引っ張り出したんです。彼が穂波さんとつき合っているのは知っていましたから、彼の携帯から穂波さんを呼び出して……すぐ来てくれた彼が君のこと一目で気付きましたから。穂波さんからだいたいの事情を聞いて、それで彼を引き取って貰って、君だけをここに連れてきたんです」
「そうだったんだ……。オレ、馬鹿だよな。絶対隠そうとしていたのに、酔っぱらって喋ってしまうなんて……いや、あの時、あんな事をしてしまったから……あんな事……」
 くっと唇をきつく噛み締める。
「泣きたいんでしょ?」
 家城の手が背中をとんとんと叩く。
「泣きたいときには泣いた方がいいですよ。君は失恋したんですから、泣いたって誰も文句は言いませんよ」
 その言葉にかろうじて堪えていた堰が切れた。
「お、オレ……ちくしょー!、何でだよ!何で!」
 男に一目惚れして、だけどその相手に言い訳のできないひどいことをして、だけど結局忘れられなかった。そしてその恋い焦がれていた相手に、遭ってはならないのに再会したときには当然のように嫌われた。
 馬鹿だ、オレ……。
「どうして……違う出会いをしなかったんだろう……ひくっ……オレ、オレ……」
 家城に取り縋って、ぼろぼろと溢れる涙をただ流す。涙でぐしょぐしょになった顔を擦りつけているというのに家城は嫌がる風でもなく、ただ啓輔の背を優しくあやすように撫でていた。それが心地よくて、さらに涙が溢れる。
「ひくっ……オレ……もう……」
 ただ嗚咽だけが漏れる。
 オレは……馬鹿だ……。
 判っていたことじゃないか。
 あの人がオレを受け入れるなんて事、絶対にあり得ないって……。
 それでも、諦めきれなくて……今まで持ってきた想い。
 だけど、もう吹っ切らないと……。
 少しずつ、涙と共に吐き出された想い。
 嗚咽が小さくなり、流れるように溢れていた涙が止まる頃。啓輔ははたと気が付いた。
 って……オレ、何してる?
 この時になってようく啓輔は自分が家城に抱き締められていることに気が付いた。
 かっと全身が熱くなる。
 慌てて手をつっぱり躰を離そうとしたが、躰に回された腕は緩まない。
「あんた、離せって!」
「……相変わらずの言葉遣いですね」
 ぽつりと呟かれた。
 って、そんな事言ってる場合じゃねえ。
「もういいって、離せって」
「そういう場合は、家城さん、離してください、でしょう。ほら言ってみなさい」
 ……。
 こいつは!
 だが、そうでも言わないと離して貰えそうにない。
 啓輔は仕方なく、
「家城さん、離してください」
「嫌です」
 必死で言った言葉は難なく否定された。
「てめー!あんたが言えって言ったろーが!」
「言い方を教えただけで、言ったから離すとは言っていません」
「うー」
「慰めてあげているんだから、もう少し大人しくしなさいね」
「だから、もういいって」
「先輩の親切は、素直に受けるものですよ」
「だーから、もーいいって言ってるんだろ」
 だんだん腹が立ってきた。
 ちくしょ!
 どうして、こいつはいっつも人のことからかうんだ!
 だが、怒りに見上げたその視線の先の家城はひどく優しげに啓輔を見つめていた。
「ねっ、一人では堪えられそうにないことでも二人いれば忘れられることも早いんですよ。あの二人だって、心に深い傷を追ったかも知れませんが、二人で歩んでいるから、あんなにも簡単に諦めをつける事ができたんです。君もそういう人を見つけたらどうですか」
 どこか優しく、だけど寂しく聞こえるのはどうしてだろう?
 啓輔は家城の横顔を見つめた。
 それに気付いた家城が、微かに笑みを浮かべる。
 そして、すっと啓輔を解放した。
「とりあえず、相手が見つかるまでは私が話し相手でもなんでもなってあげますよ」
「冗談!あんたと喋っている方が疲れる」
 そう言いながらも、啓輔は少し心が軽くなっているのを感じていた。
 あれだけ苦しくて張りつめていた心が少しだけ解放されているような気がする。
「まあ、気がむいたらでいいですよ。どうせここは私の一人暮らしですし。いつでも来て、何をしていても構いませんから」
「え?」
 彼の言葉がよく判らない。
 啓輔は茫然と家城を見つめた。その視線の先で、家城がキーホルダーから一つの鍵を外すと、啓輔の掌にそれを乗せ、握らせた。
「これは?」
「この家の鍵です。下でフロアから入るのに、キーワードがいりますけど、それは0463ですから。覚えて置いてくださいね」
 0463。
 無意識の内にその数字を舌の上を転がす。
 ……0463……。
「何で?」
「ここが、君の家だと思えばいいんです。帰りたくない家なんかより、ここの方が居着きやすいと思いますから、ね」
 家城はやはり気付いていたのだ。
 だが、それは……。
「その鍵をどうするかは、君がきめればいいことです。だけど、ここからは持って帰ってください。いいですね」
 掌に包まれた鍵。
 ここが居心地がいいかどうかは別にして……いや、たぶんいいだろう。少なくとも嫌な気分ではなかった。それに、どんな場所であろうと、家よりはいいはずだ。
「判った。とりあえずもっとく」
 その言葉に家城が満足げに頷いた。
「今日はとりあえず帰るよ……、オレ、疲れた」
 確かにあそこは居心地の悪い家だけど、ここは他人の家であることには変わりない。結局、今帰る家はあそこしかないから……。
「そうですか。送りますよ」
 ひどく疲れていたから、その言葉に素直に従った。
 あの家に帰ったからって、リラックスできるわけではない。
 それでも、自分のテリトリーはあそこにしかないのだから。
 とにかく今は、ゆっくりと休みたかった。

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「てめー、何送ってくるんだ!」
 駆け込んだ部屋の中で怒りの矛先を向けられた家城は悠然と本を読んでいた。
 怒り心頭の啓輔の手に、携帯が握られている。
「相変わらず言葉遣いがなっていませんねえ」
「てめーが丁寧すぎるんだ……じゃなくて、誤魔化すな!これなんだよ!」
 家城の目前に携帯の画面をつきつける。
「それですか?面白そうでしたので」
 突きつけられた携帯を目にすることなく、平然と答える家城に啓輔はこめかみの血管がぶちきれそうだった。
「だからって送るか、てめーは」
 わなわなと震える手に握られている携帯に表示されているのは、男の丸裸の画像。しかも局部のアップ。
「気に入りませんか?」
「気に入るか、んなもん!」
 いや、ちょっとは気になったけど……いや、そうじゃなくて!
「そうですか?変ですねえ……」
 あくまで落ち着き払っている家城に啓輔はがっくりと肩を落とした。
 変じゃねーよ……ったく。
 あれから一ヶ月。
 休みの度にこの家に来ていた。というより来さされていた。
 用事があるからと来て見れば、たいした用事はない。ここに来るのは別に嫌ではなかった。が、今はゴールデンウィークで、ひたすら休みがある。だから、一日位と気分転換がてら街に行ってみようと、今日は家城の誘いを断って出かけていた。
 店で半袖の服を物色していると、そこで携帯のメールの着信に気づき、開いてみたならば……。
 思わず携帯を落っことしそうになった。
 驚きに硬直した啓輔を店員が不審そうにじろじろ見る。
 啓輔は慌てて店を出……速攻でここへ来た。
「あんた……どうしたいわけ、オレを?」
 啓輔はソファに座っている家城を見下ろした。
 一体、こいつは何を考えているんだろう。
 優しいかと思えば、厳しかったり、楽しそうにからかってみたり……まるでおもちゃにされているみたいだ。
 と、家城がぱたんと本を閉じた。
「君が勝手に出かけるからですよ」
 その声がどこか不機嫌なのに、啓輔は目を見開いた。
「勝手に……って、オレだってたまには買い物とかしないと駄目だから」
「だから……なんで一人でいくんですか?私は暇なんですけど」
 じっと見つめられる。
 えーと、これってもしかして……もしかしなくても、拗ねてるんだろうか……。
 あまり表情がかわらない人だから、よく判らないけど……これは……。
「あの、じゃー、家城さんも一緒に行く?」
 だから試しに聞いてみた。
 そうしたら、家城の不機嫌そうな顔が少しだけ綻んだような気がした。
 やっぱ、そうなんだろうか?
 だが。
「そう。行ってもいいですよ」
 しれっとした言葉が家城の口から出る。
 こ、こいつ!
 誘われて、嬉しいんじゃねーのか?
「なんだよ、それ。行きたいんじゃないのかよ」
「別に、行ってもいいですよって言っているんです」
 ああ、もう!
「だから!」
「用意してきますから、私の車でいきますか。隅埜くんはバイクでしたね」
 啓輔の怒りをかわし、家城がソファから立ち上がった。その手には既に車のキーが握られている。
 結局行きたいんじゃねーか……。
 ああ、もう、しょーがねーなあ。
 ぜってー、こいつ、素直じゃない。
「んじゃ、昼は家城さんの奢りね」
「いいですよ、何がいいですか?」
 かっんぺき、機嫌が治っている家城がそこにいる。啓輔はにっと笑うと、家城の腕にしがみついた。
「え?」
 驚く家城の手から、鍵を奪う。
「車までに鍵を取り返せたら、ラーメン。駄目だったら焼き肉な」
 脱兎の如く走り出してドアへ向かう。
「ずるいですよ、私はまだ用意していないのに」
 ため息混じりの声が聞こえるが、啓輔はそれを無視した。
 嘘つけ、どうせ出かける用意はできているくせに。
 その考えを裏付けるように、そう時間をおかずに家城が出てくる。
「家の鍵、それについているんです。返してください」
 差し出された手に、渡されていた合い鍵を放り投げる。
「じゃあねー」
「ああもう、しょーがないですね」
 背後のため息を聞き飛ばして、啓輔は階段を一気に駆け下りていく。
 エレベーターの動く気配がする。
 それで家城は降りてくるだろう。
 それまでには、車につける。
 啓輔は駐車場に走り出、そこではたと足を止めた。
 2つの兄弟マンションの共通の駐車場。そこに見慣れた人がいた。
「緑山さん」
 会社では確かに今まで通りに接してくれる。だが、啓輔はできるだけ会わないようにしていた。
「隅埜くんは、家城さんの所に行ってたんだ?」
 ごく普通の声音。
 何も変わりがない。
 だからこそ、啓輔は話ができない。自分が普通に接することができないから。
 どうしよー……。
 何を言おうか逡巡していると、後ろから伸びてきた手に鍵を奪い取られた。
「あっ?」
「では、今日はラーメンですね」
 慌てて振り向くと口の端をあげて笑いかける家城がいた。その家城が緑山に視線を移す。
「こんにちは。篠山さんのところですか?」
「はい。会社に忘れ物をしたとかで、休出ついでに取ってきてくれって頼まれまして」
 その顔に苦笑いが浮かんでいた。
「相変わらず、面倒なリーダーですね、あの人は」
「いつものことですから」
 緑山がくすっと笑うと、もう一つのマンションの方へと歩いていく。
 すれ違いざま、彼が啓輔の方を見た。
 どこか面白そうに、二人を見比べる。
 その視線が気になって、ずっとその後ろ姿を見つめていた啓輔の頭を、家城がこつんと殴った。
「ってー!」
 結構効いた。
 痛みに涙目になったその目で家城を睨む。
「何だよ」
「別に」
 怒っているのはこっちなのに、家城がなぜかムッしている。
「何、怒ってんだ?」
「別に」
 別にって感じじゃないじゃないか。
 ああっもう!
 啓輔はさっさと車に乗り込んでしまった家城を追いかけ、助手席に乗り込む。
「何怒ってんだよ!」
「怒ってなんかいません」
 それは静かな口調だったが、啓輔には不機嫌さがありありと判った。だてに休みの度に転がり込んでいたわけではない。
 もしかして……。
 ふっと、家城を見る。僅かに細められた目が前方を凝視している。
 そうなのかな……。
 そんな気はしていた。さっきのことだって、その前のことだって、啓輔が家城を放っておくと、てきめん家城の機嫌が悪くなる。
 今までだってそんな事があった。
 それに啓輔の方も。
 啓輔が家城の家に行きだしてから、あの夢を見ることが減ってきていた。それでもたまに見る。だが、最近はその相手が違うことがある。
「家城さん?」
 だから呼びかけて見た。
「……」
 何も言わずにちらりと視線だけを向ける家城に啓輔はくくっと笑いを漏らした。
「何です?」
 僅かな戸惑いが見られるその顔に手を伸ばし、そして、座席の上に膝をつき、躰を伸ばす。
「隅埜くん!」
 驚いて窓際に逃げようとする家城を捕らえ、引き寄せた。
「あんたって、ほんと、素直じゃない」
 そう言うと、僅かに開かれたその唇に自らの唇を押し付ける。
 家城の目が驚きに見開かれた。
「す、みの……くん……」
「あんたって、言いたいこと言ってくれるくせに肝心なこと、言わないんだよな」
 その言葉に家城の顔が赤く染まった。
 初めてだ、こいつのこんな顔。
 なんか始めて勝った気がする。
「なあ、返事くれないのか?」
「返事って……」
 ますます赤くなり狼狽えている家城に再度口付ける。
 男なんだよな、こいつも、オレも。
 だけど欲しいと思う。
 自分が始めて男にしか勃たない躰になったと知ったときは本当に狼狽えた。
 どうしようかと思った。今だって、変だとは思っている。
 それでも、好きになってしまうのはどうしよーもない。
「なあ、聞かせろよ」
 再度問いかける。それに家城は不承不承といった感じで、ぽつりと呟いた。
「好き、です」
「あー、何だよそれ?ぜっんぜん心がこもってねー!」
「煩い!」
 思わず言ってしまったらしい言葉に、家城が慌てて自らの口を手で塞ぐ。
 啓輔は思わず吹き出した。
 その砕けた言葉遣いから本当に家城が焦っているのが判るから。
「なっ、今日はやっぱ焼き肉な」
「何でです?賭は私の勝ちですよ」
 かろうじて元に戻った家城が、それでもまだ赤みの残った顔を向ける。
「じゃあ、オレ、やっぱ一人で出かける!」
 そう言い捨てて、ドアを開けようとしたら、いきなりドアロックがかかった。
「家城さん……あんたって大人げない……」
 運転席でロックを操作した家城を睨む。
「……焼き肉、食べましょうか」
 顔を背けた家城がぽつりと漏らした。それに啓輔は吹き出す。
 笑い転げる啓輔に、家城がため息をつきながら車を出発させた。


 啓輔の脳裏に開発部の滝本って人が教えてくれた言葉が思い起こされる。
 家城の家によく行くという話を聞いて、忠告してくれたのだ。
『家城くんは、酔うと性格悪くなるから気をつけて』
『悪くなるってどういうことですか?』
『本音で動くんだよ。抑圧されているのが一気に吐き出されるっていう、したいことをするっていうか……』
 おもしれーじゃん。
 一度酒、持ち込んで一緒に飲もうっと。
 そしたらこの仮面が剥がれて本音が見られるかもしれない……。
 
【了】