アベック鬼ごっこ 2

アベック鬼ごっこ 2

「家城さん……」
 手を伸ばし、その躰に触れようとした指先が、家城の手に絡め取られた。
「ったく……あなたの行動はいつだって私を混乱させる」
 ぐいっとその手が引っ張られ、不自然にねじられた躰が悲鳴を上げる。それに顔をしかめながらも、啓輔は逆らおうとはしなかった。
 引っ張られるままに動くと、家城の頬が啓輔の頬に触れた。手が解かれ後ろから抱き締められる。
「ほんとうにいつもあなたは私を翻弄する……」
 家城の吐息が耳元をくすぐり、啓輔はくすぐったさに身を捩った。
 だが、その吐息の中に含まれるアルコール臭に気付いた途端、背にはぞぞっと寒気が走った。
 酔ってる……。
 飲みにいったのだから酔っているのは間違いない。だが、問題は量だった。
 家城は酔うと本音が出やすい。いつだって落ち着いた雰囲気をかもし出す役目をしている態度が無くなる。それは……啓輔に対して遠慮のない行為へと結びつく。
 その事を考えただけで躰が一気に熱くなった。
 一言喋るたびにぞくぞくとした疼きが耳元から全身へと飛散する。
「判ってはいたのに……ねえ」
「え?」
 その言葉に啓輔ははっと首を捻った。
 途端に耳朶を甘噛みされ、ぞくりと走った疼きのせいで手の力が抜けてしまった。
 再び突っ伏した啓輔の躰に家城がやんわりと躰を被せた。
「服部さんが嫌がってたし、その前後の会話も聞いていたから……」
「じゃ、じゃ、何でさ!」
 聞いていたなら、判った筈だ。あれが服部のためのものだったって事は。
 なのに、こいつは!
 きっと睨みつけようとした啓輔は、家城の首筋への口付けから来る刺激にその目を閉じて堪えるしかなかった。
「ん……」
「それでも嫌だった。あなたが……啓輔が他人を抱き締めている姿はね。許せないとすら思った。彼は可愛いから……そんな彼を抱き締めている啓輔がひどく立派に見えて、私の官能を高めるに十分だったこともね。ね、私はあの時、あなた達に欲情したんだ」
「…ふっ……くっ………」
 家城の手が服の上から躰の線をまさぐる。
 その普段と違う言葉遣いとその内容が啓輔を耳から犯す。
 俺達に欲情……って……
「んくっ」
 柔らかなその手の動きは、まどろっこしさを持って啓輔の躰を熱くする。
 その手の動きに感じる明確な意志。それを感じ取った啓輔の心臓はどくどくと激しく高鳴っていた。心が期待している。
 家城に触れられることを。
「それが悔しかった。あなたは私のものだ。それなのに……はたから見ているのが私なんて……許せなくて、悔しくて……私はあの場から立ち去ることしかできなかった。胸の中にあるわだかまりを抱えたまま、今日一日過ごすことになった私は……あなたと話をすることすら辛かった……。だから、これ幸いと、飲みに行ったんですよ。元から約束がありましたしね」
「あ……ご…めん……っく……」
 言葉が絶え間なく耳に入ってくる。手が休みなく動く。
 絡められた下肢が、ぐいぐいっと啓輔の股間を押し上げていた。すでにジーンズの中であることがきついと訴えているそこ。だが、家城の手は未だに上半身のみを責め立てていた。
 彼を不安にさせた。
 彼を混乱させた。
 家城さんを……。
 それは、自分が取った軽はずみな行動にあるのだから……。
 啓輔は家城の行為を受け入れるしかなかった。
 酷く念入りな愛撫に晒された躰の疼きに堪えかねて、啓輔の目尻から涙が流れ落ちる。
「あ……」
 シャツの下から入ってきた手が、胸をきりっと掴んだ。ずきりと痛みと共にそれ以上の疼きが走る。肘をついてかろうじて胸から上を起こしているが、今にも突っ伏してしまいそうだった。
 だが、躰が意に反して半身を起こそうとする。
 家城の手が自由に動けるようにと躰が無意識に動いていた。
 抜けかけている腕の力を回復させるほどに……躰が家城の動きを待っていた。
 意識が家城の手の動きだけに向けられる。
「あ……家城…さん……」
「純哉じゃないんだ」
 揶揄され、くっと唇を引き締める。だが、一瞬後には熱い吐息を吐くことになった。
 たゆまなく動く手が執拗に動き、感じるところだけを刺激していく。
 背中側の服をたくし上げられ、露わになった背筋に、家城が口付けた。
 すすすっと背筋のラインを舌でなぞられる。
「あ、……くっ………んふう……」
「判ってる?もう二度とあんなことはしないこと」
「……う…ん……」
 こくこくと頷く啓輔に、家城はくくくと躰を揺らして嗤った。
「私は……あなたの喘ぐ姿を見たい。可愛いですからね。あなたがとても可愛く見える。だけど、そんな姿、誰にも見せたくないから……」
 肌をきつく吸い上げられる。その痛みがいくつもいくつも繰り返される。
「んあっ……はあ……」
 ごろっと躰をひっくり返された。
 涙で潤んだ視界の向こうに家城がいる。
 黒々とした髪が胸の上で動き、くすぐったく感じた。
 だが、しっかりと押さえつけられた躰を動かすこともできない。啓輔は、その両の手で家城の頭を掴んだ。
 腹のあちこちも多数吸い付かれる。
 舌でつつかれる。
 そのどれもが、啓輔を高める。
「い……えき……ん」
 だが、一向に触れてくれない下肢側。
 ただ、不規則にぐぐぐっと圧を加えられるだけ。
 しかしそれだけとは言え、啓輔は我慢の限界が来ていた。
「な、もう……」
 熱い吐息と共に、家城に訴える。
 自分で触れたくても、家城の躰が邪魔で手が届かない。
「今出したら、ジーンズ濡れるよ。我慢しなさい、もう少し……」
 へその辺りで声が響く。
「んくっ……」
 躰がまどろっこしいと疼く。くしゃりと掴む髪の毛を引っ張ってみるが家城は一向に意に介さない。
「な、離せよ」
 触れてくれないなら自分から触れたくて、押しのけようとするがそれすらも許してくれない。
 ふっと躰を起こした家城と目が合った。
「触って欲しい?」
 その口元に浮かぶ笑みに羞恥を覚え、それを隠すかのように啓輔はきっと睨み付けた。
「意地、悪ぃよ、あんたは……」
「意地悪したい気分なんで……ね」
 くくくと嗤う家城に啓輔は為す術がなかった。それどころか普段見られないその姿に、ぞくりと半身が反応すらする。
 激しい行為ではない。
 ただ、柔らかく丁寧な愛撫がしつこい位に繰り返される。いつもの家城ではない。それが啓輔をさらに高め、いつもより早く限界を迎えていた。
 劣情を隠そうとしない家城の目が啓輔を捕らえ離さない。
「うっ」
 いきなり触られた。
 ジーンズの下で苦しく張りつめているモノが、触れられた途端弾けそうになった。
「んくうっ!」
 家城の腕を握りしめ、歯を食いしばって暴発寸前で堪える。
「いい顔……だ……」
 熱い声が啓輔の喉元でし、そして仰け反った喉元に熱い舌が触れた。
「んくっ……あっ」
 ぎりぎりと爪が立つほど握りしめているというのに、家城は僅かに顔をしかめただけだった。それどころか、うっとりと欲情色でその目元を染めている。
 啓輔はもう考える事ができなかった。
 躰が刺激を求めていた。
 まだほとんど服を着たままの行為だというのに、躰が泣き叫びたいほどに家城を求めている。
 触れられたくて……そして入れて欲しいと切に願う。
 ぞくぞくと伝わり、時に一気に飛散するその刺激は、必ず全てが下半身の一点に集中する。弾けたいと願うそこを、必死で我慢する。
 まだ服を着たままだという、その意識だけが啓輔を堪えさせていた。
「あ、も……な……もた…な……くっ!」
 なのに家城は啓輔を嬲るかのように躰を固定し、決してそこを露わにすることはしない。
 仕返し……。
 ふっとそんな言葉が浮かんだ。
 やっぱ……怒って……るんだ……。
 酒に呑まれた家城は……啓輔の敵う相手ではなかった。
「あ、ああっ……だ、からっ!」
 啓輔の声に悲壮さが混じる。
 ぼろぼろと流れる涙がこめかみを伝い、床へと流れ落ちた。
 もう快感から逃れる事ができそうになかった。
「た、のむ……から…な」
「我慢…できない?」
 喉元で囁かれるその触れる吐息すら、啓輔の躰を刺激する。
 啓輔は必死で頷いた。
「脱が……て……」
 そう訴えた途端すっと躰が軽くなった。
「あっ」
 温もりが離れることにふっと不安になる。伸ばした右手が家城を追いかけた。
 その指があやすように絡め取られ、頭の横で押しつけられた。
「もうちょっと待って」
 先ほどまでとはうって変わって優しい声が響く。
 程なくして衣服で締め付けられていた腰が解放された。
「啓輔……」
 欲情に掠れた声が耳朶を打つ。
「あ……」
 直に触れられたそこは見なくても判るほどに濡れそぼっていた。
 ぬるりと動く家城の指が軽く先端を爪弾く。
「ああっ!」
 我慢などできなかった。
 さんざん煽られ続けたそこは、ただそれだけで吐き出してしまう。
 急速な解放感が、激しい快感を伴って啓輔を責め苛む。
 びくびくと震える躰を止めることができなくて啓輔は家城にしがみつくしかなかった。
 突っ張った足が邪魔になっていた大きなソファを無意識のうちにずるっと動かした。
「あ……はあ……」
 何度も大きく呼吸を繰り返す啓輔を家城がそっと抱き締めた。ぐったりとした啓輔の半身を起こさせ、あやすように背中をぽんぽんと叩く。
 ……気持ちいい……
 うっとりと身を委ねていると、家城が優しく言った。
「我慢……させすぎました?」
 その言葉に啓輔が虚ろな視線を向けた。
 ここまで我慢したことはなかった。
 意志だけで我慢するのがこんなにも辛いことだとは思わなかった。だけど、家城が我慢しろと言うから……啓輔は我慢した。
 従わなければならないような……気がしたから。
「可愛いよ」
 囁かれる言葉に、躰も心も反応する。
 口付けられ、舌を絡め取られる。
 音を立てて舌を吸い上げられ、ただ貪られるのをなすがまま受け入れていた。
 自分が達っただけなのに……躰も心もどこか満足していて、気怠さだけに支配されていた……。
 が。
「まだ私が満足していないからね」
 どこか冷ややかな言葉が聞こえた。
 あっ!
 ぐいっと握られた自分のモノを扱かれ、啓輔の口から再び喘ぎが漏れ始める。
 向かい合うように向きをかえ、足を開かされ、その間に家城の躰が入ってきた。
「んあっ!」
 躰の中にめり込むように入っていく感触に、啓輔は漏れる声を止められなかった。
 慣らされたとはいえ、それでも最初は苦痛が勝っている。
「んくう……はあっ……」
 息を大きく吐いて、痛みを逃す。
 家城は啓輔が達った後、休む暇なく啓輔を再び追いつめた。
 一度覚えた快感を啓輔の躰がさらに欲するようになるのを、楽しげに見つめている。
「あ、ああ……も……動か……はあっ!」
 ずんと突き上げられ、制止する言葉は喉から発する事すらできない。
「可愛い…から……離したくない。いつだって手の中に置いておきたいのに……」
 耳元で受ける告白は、啓輔の理性を崩壊させる。
「ああっ!」
 突き上げられるたびに、嬌声が喉から迸る。
「啓輔……ね、気持ちいいだろ?」
「んっ……あ……いい…!」
「啓輔が望めばいつだってこうすることができるのだから……だから……」
 微かな声だった。
 啓輔は快楽に流されながらも、のろのろと瞼を開き、家城に視線を送る。
「な…に?」
「もう二度と他人に抱き付いたりするな……」
「ああっ!」
 ぐんと突き上げられた途端に、激しい快感が飛散し、背を大きく仰け反らせる。
 開いた口を閉じることすらできなくて、涎が顎を伝っていた。
「啓輔……お願いです……」
 何度も何度も家城が呟く。
 襲ってくる快感に晒され、啓輔はかろうじて頷くことしかできなかった。
 

「無茶ですね」
 見上げる先にいる家城が素っ気なく言い捨てる。
 啓輔はじとっとその表情を恨めしげに見つめた。
「だってさ、約束したんだ」
 気怠げにソファの上で身動ぎながら、なんとも言えぬ痛みが落ち着くのを待つ。
 啓輔はいつも家城が座っているソファに身を委ねていた。
 動かないのだ、躰が。
 力を入れようとすると痛む腰。だるい体は未だ熱を持っているようだった。
 目覚めても自らシャワーを浴びることすらできない啓輔を、家城が運んでシャワーを浴びさせ、着替えさせた後、ここに連れてきた。
 夕食も食べずに家城を待っていた啓輔は、そのまま事になだれ込んだせいで昨夜は何も食べていない。
 啓輔の体内では、性欲や睡眠欲より、今は食欲が満たしてくれと暴れていた。
 家城が用意したトーストにコーヒー、目玉焼きをかき込みながら、服部のことを話したのだが……。
「でも?、服部さんが可哀想なんだよ。だって、やっと好きになったんだぜ。好きになったから抱いて欲しいって言ってんのに、その相手に拒否されるんなんてさ。それを言うのだって、すっごい勇気いったと思うのに……なのにさあ、あんな結果なんて……可哀想だよ」
「それでもそういうことは当人同士が何とかしないといけないことですよ。他人がちょっかい出しても、上手くいかないかも知れませんし……こじれるかもしれませんし」
 確かにそうだとは思う。
 だが……。
「俺、あの二人の悩み事相談係なんて嫌だよ。なんでか、梅木さんも服部さんも俺には話すんだよ、そういう事。俺、そーゆーの、やだ」
 それでなくても自分の事で手一杯だというのに、何で他人のことまで面倒見なきゃいけないんだ。
「ですが、なかなか難しいですよ。もしそれで拒絶されたら、服部さんはもっとショックを受けるでしょうし……話を聞く限りでは、彼は精神的に弱いところがあるようですが……」
 首を傾げる家城。
 口では気乗りしなさそうでも、結構真剣に考えてくれているのが嬉しい。
 俺しか知らない家城さん。
 ふと、その頬に向かって手を伸ばす。
「でもさ、こと梅木さんのこととなるとあの人凄いよ。必死なのかも知んないけど、すっごく感情的になる。怒った服部さんって怖いんだけど、その原因ってたいてい梅木さんなんだ。他の人が何しても、何言っても、いっつも笑っているような人だからね。それだけ梅木さんにだけは心許しているって感じするし……。俺、間近であの二人見ているからさ、だからかな助けてあげたいって思う。だからさあ」
 伸ばした手で家城の頬のラインを撫でる。身じろぎ一つしない家城は、黙って啓輔を見下ろしていた。
「手伝ってよ。俺、あの人達何とかしたいんだ。だってさ……」
「何です?」
 掠れた声が家城の口から漏れた。それに気付いて啓輔はくすりと笑みを漏らす。
 家城が慌てて口を噤むが、啓輔ははっきりと気付いてしまった。
 遅いって……。
 頬に添えた手に力を込める。
 その手の意志に気付いた家城が頬を赤らめる。
 なんでだろう……こいつって、今俺が動けない原因を平気で作った人なのに……なのにこんなことで赤くなる。
 俺が触れただけで、赤くなる彼を可愛いと思うのは、もうどーしよーもない。
 だから……入れたいって思うのに……。もっと朱に染めて、俺の下で悶えさせたいと思う。
 啓輔の手に引き寄せられるように家城が腰を屈めた。
「純哉……」
 呼びかけた途端にふわっと上気する顔に、昨日の鉄仮面が重なる。昨夜は名前で呼んでもこんなことにはならなかった。それだけ、怒っていたんだ。
 啓輔は家城の唇にそっと口付けるだけのキスをした。 
 あんたってさ、ほんと……俺だけには感情的になるだろ。
 そんな所、結構服部さんも似ているんだ。だから……判る。
 それだけ、家城さんが俺に心を許してくれているってさ。そんで、服部さんもそれだけ梅木さんに心を許してるって判るから……。
 俺、あの人のこと、好きだよ。
 恋人とか抱き合いたいとか言うんじゃない。人として好きだ。
 傍にいるとほっとする。
 だから、いつだってあの人には笑顔でいて欲しいって思うんだ。
 啓輔は、至近距離の家城の顔に笑いかけた。 
「服部さんは、結構世話になってるから。俺としては、梅木さんの意志より服部さんの意志の方を優先したいわけ。それに、これで上手くいけば、あの人達に借りを作れるんじゃねーの」
「借り、ですか?」
 ふっと家城が何かを探るように啓輔の目をじっと見つめた。
「な……」
 言葉を発しようとした途端、家城の口に塞がれた。 
 今度は触れるだけではない。
 するりと入った舌が、口内を探り啓輔の舌を捕らえる。絡み合った舌がせめぎ合い、口の中を暴れ回った。
「ん……」
 だが、啓輔の喉から声が漏れた途端、すうっと家城の唇が離れた。
「嘘つき……」
 その口から囁かれた言葉に、目を見張る。
「何?」
「借りを作ろうなんて気、ないですよね、啓輔は」
 きっぱりと言われた。
 何で?
 視線で訴えると、その先で家城がふっと口元に笑みを浮かべた。
「啓輔は服部さんを気に入っているでしょう?だから、彼にあなたが味わった失恋っていうものを味あわせたくないんですよね」
 くすりと笑う家城に、嫉妬に狂った様子は微塵もなかった。
 酒を飲んだ家城の姿が本音だとしたら、これは仮面を被った姿なのだろうか?
 だとすると、俺はひどい事を頼んでいるのかも知れない。
 だけど。
 啓輔は苦笑いを浮かべて、家城の胸に頭を預ける。
「……ばれた?」
 苦笑いを浮かべる啓輔の頭を家城はそっとなでる。
 子供みたいだとは思うが、でも心地よいからそれにうっとりと身を委ねる。
 目を閉じていると、そのまま眠ってしまいそうな心地よさ。
「ま、私としても、彼が梅木さんとひっついてくれた方が安心できますからね。確かに彼は可愛いですから、啓輔が惹かれるのも判る気はするんですよねえ……困ったことに。ですから、手伝います」
 突然家城が手を止めた。
 啓輔の顔を覗き込む。
「その代わり、私が何をしても信じてくださいね。一つだけ案があるんです」
「何?」
 信じて、という言葉に、何をするのだろうと不安になる。
 だが、家城はそれに応えず僅かに微笑むだけだった。
「なんだよ、それ?」
「それは当日のお楽しみと言うことで……ま、啓輔に言うと反対されそうですし……」
「そんな……」
 くすりと笑う家城。
 だが、啓輔は面白くない。
 俺が反対するようなことって何するつもりだ?それに信じられなくなるようなこと?
 なんだかひどく不安で、気になって仕方がない。
「そんなの嫌だ……気になってしようがないじゃないか」
「それでも、啓輔が言い出したんですよ。服部さん達を仲良くさせたいってね。それなのに文句を言うんですか?」
「だってさ……」
 俺、家城さんみたいに頭良くねーから……それがどんなことなのかぜっんぜん判らねー。
 むすっとして家城を上目遣いにして睨む。
「そんな顔して見られても困ります。なら、服部さんの件、止めましょうか?」
 別にかまいませんよ。
 目がそう言っていた。
 啓輔はぐっと言葉を飲みこむ。
 服部の泣き笑いのような表情が脳裏に浮かぶ。
 家城にはああ言ったものの……実は、結構欲情してしまったのだ。あの表情に。
 やばいじゃねーか……俺って。
 すっかりホモの道にはまってしまった啓輔は、やっぱり男に対してしか欲情しなくなってしまっていた。これはこれで厄介なことで……。
 やっぱり、俺って欲求不満……なんだろうなあ。
 こんな腰が立たなくなるほど犯られてるっていうのに……それなのに……外の男に欲情してしまうのだ。
 まじーから……だから、やっぱり、服部にあの表情をさせてはならないって思う。
 まあ、失恋させたくないってのもあるけれど……啓輔の場合、自分自身をも助けたかった。
 あんな昨日みたいな家城さんはごめんだ。
 ちらりとキッチンに視線を移すと、片付けられた床には破片はもう転がっていない。
 すっげー、意地悪……。
 啓輔はため息を付くと、家城に向かって頷いた。
「判ったよ……家城さんに任せるから」
 啓輔の言葉に家城はその口元に微かな笑みを浮かべ、言った。
「信じてくださいね」



 家城が一体何を企んでいるのか、啓輔にはとんと見当がつかない。
 だが、もう時間がない。何とかしないと……。
 焦りが湧き起こるのは、目前の服部の様子のせいだろう。
 服部の目の下にあるうっすらとした隈。その疲れ切った表情は、眠れていないせいだろうか?
 そのせいかも知れないが、朝からずっとぼーっとしているようだった。
 それに気付いてから、密かに様子を窺っていると、確かにその作業の手は何度も止まっている。作業の手が止まっているから、ディスプレスも同じ画面から動かない。しばらくして、ふっとスクリーンがブラックアウトする。省電力モードか働くからだ。それに気付いて、ようやく服部の手がキーボードやマウスを操作する。さっきから、それの繰り返しだ。だから、作業効率がすこぶるつきで悪い。
 いつもならとっくの昔に終わっている事務処理がいつまでたっても終わらない。
 まじーわ、これ。
 前にノイローゼにまでなったと聞いている。
 それからも判るが、服部は考え込んだらどつぼにはまるタイプだ。
 普通だったら、そういうストレスは何かで発散すればいい。
 過去の啓輔にとって、繁華街でのいろいろな行動だった。それが今や、家城とのセックスになっているような気がするのは……おいといて……。
 至極真面目な服部はどうやらぱーっと発散するような趣味は持ち合わせていないらしい。
「服部さん、俺これを配布してきますね」
 このまま服部の指示を待っていると仕事が一向に進まないので、啓輔はがたりと席を立った。その手に特許公報の配布用紙束を持ち上げて、服部の目前でひらひらとさせる。
 さすがにそれには気付いて服部が顔を上げた。
「ああ、いってらっしゃい」
 だが、視線があわない。
 ぼそぼそと呟くその姿は、見ているだけでこっちの気分まで暗くなる。
 もともと明るいとは言えない。だが、啓輔の冗談にくすくすと声を押し殺して笑う姿は、ほっとするような和やかな雰囲気を持っている。
 そんな所が気に入っていたのに、それが今はない。
 啓輔は、ふうっと息を吐くと部屋を出ていった。
 多量の紙の束を抱え直し、開発部へと向かう。
 困ったな……。
 はっきり言ってあの状態は、啓輔の場合よりひどい。
 啓輔とて、悩みや苦しみを抱えた高校生活を送ってはいた。だが、事の善悪は別として、たまった鬱憤をはらす場所を持っていた。
 だが、服部は……。
 とにかく何とかしないと……。
 だが、いい案は浮かばず、ため息しか漏れない。
 てくてくと歩いていくと近い位置にある開発部の部屋はすぐに辿り着いてしまった。工場の中でも大所帯を抱える開発部。しかもその仕事上の関係で事務所に席が必要な人間が多いせいで、もっとも広い事務所を保有している。
 だが、実質的には、そこにいる人間は少ない。
 医療材料チームのエリアに向かってみたが、そこには誰もいなかった。
 梅木の席も、空いている。
 文句の一つもいってやろうと思っていたが、いないのならしょーがない。
 ふと気がつくと、スケジュールボードに1日の会議予定が貼ってあった。
 どうやら今日は医療材料チーム全員参加の月度報告会らしい。そうなると、梅木を捕まえるのは今日は難しいだろう。
 しょーがねーな……。
 啓輔は諦めて、他のエリアへと向かった。
 服部は、なんとかして慰めるしかないのだろう。
 とにかくあれ以上どつぼに陥るのだけは何とかしないといけない。
 つぎつぎと配布していき、電気化学チームの席へ順番に配布していって終わり。
 と。
「あ、隅埜君、ちょっと待って」
 突然声をかけられて振り向くと、滝本が机の上をがさごさとひっくり返していた。
「はい?」
「これ、ついでに持っていってくれる?」
 差し出された書類を受け取ってみると、配布した資料の返却分だった。
 それもここに来る目的だったので、頷き返す。
 だが、それを渡した後も滝本が眉間に皺を寄せて啓輔の事を窺っているのに気が付いた。
 一瞬、逡巡しているかのように視線が彷徨う。だが、すぐに啓輔をじっと見据えると、手招きした。
「はい?」
 それに従って近寄ると、滝本が声のトーンを落として話し掛ける。
「あのさ……家城君さ、今日どんな様子?」
 様子?
 質問の意味が分からなくてきょとんとしていると、滝本が苦虫を噛み潰した様子で言葉を継いだ。
「ほら、金曜日にね、同期で飲みに行ったんだけど……家城君、ひどく荒れていてさ。う?ん、荒れているというか、誰彼構わずつっかかるっていうか……で、どんな様子なのかなあって」
 金曜日……って、あの日か……。
 あの日の事は苦笑いを浮かべるしか表現のしようがない。
「特に、安佐君がこてんぱんにやられていてさ……家城君、口は達者じゃない?だからね何の反論もできなくて……とうとう、傍観を決め込んでいた竹井君までさすがに割り込んできて大喧嘩だよ。も、ね、酷かったんだから……。隅埜君は何か知っている?」
「え、ええ、まあ……でも今日の機嫌は良かったですから、もう大丈夫なんじゃないですか?」
 あの時の問題は、その日の内に解決してしまったのだから。
 けど……あの家城の攻撃に曝された安佐さんって……気の毒。
 さすがにそんな事を思ってしまう。
「機嫌治ってた?そりゃ、良かった。だけど、竹井君達はかなり怒っていたから、そっちの方が心配でさ。笹木もそっちが心配だって言ってたし……。家城君の方から謝るんならなんとかなるかも知れないけど……家城君ってそういうタイプじゃないだろ?」
 確かに……なかなか自分から折れそうにはない。
 俺のせいなんだよなあ。
 まあ、仲が良すぎるのも嫌だけど、だけど、友達なのに仲違いってのも申し訳ないかなあ。
「笹木が言うには、家城君の荒れている原因って、その……相手のせいみたいだって言ってたから……それで、君なら何か判っているかなあ、と……」
 ちらりと上目遣いに啓輔を見る滝本に、啓輔は何のことだと首を傾げ、はたと気づく。
 え……あれ?
「あの……ご存じで?」
 いっつも休憩に一緒だから、その様子を聞かれたのかと思っていた。
 だが、滝本の言葉の様子はどうもさらに奥まった部分を突っ込んでいるような気がする。
「ご存じも何も……新人歓迎会の時に酔っぱらって眠った君を家城君と一緒に介抱したのは私なんだ。その時に家城君が言っていたからね。まあ、それが無くても、最近の家城君見ていたらねえ……いくら私でも気づくよ」
「は、はあ……」
 って……ちょい待て。
 あの歓迎会って……緑山さんにばれちゃった日だよな。
 ああっ!そう言えば、この人、傍にいたっ!
 も、もしかして。
 啓輔の引きつった顔を見て取った滝本が、ため息をつく。
「何もかも知った上で家城君が君がいいっていうんだから、私は別にいいんだけど。というより、彼が片づいてくれて心底ほっとしているんだ。決して悪い奴じゃないんだけど、あの言動にはついていけないところがあって……実を言うと困っていた。だから君みたいな人が現れて、しかも受け止めてくれてるみたいだから、少しは落ち着いてくれるかもって思ったんだけどなあ」
 はああっと大きく息を吐かれても、啓輔には苦笑いを浮かべるしかない。
 だいたい、あの家城に敵う相手がいるのか?
 俺が制御できると思っているこの人の方が不思議だった。
「でもね、普段落ち着いているように見えたんだけど、なんかこの前みたいに荒れているときの家城君が情け容赦なくなっているというか……はっきり言って、ああいう家城君とは付き合いたくないくらいだったよ」
「はあ……」
 まあ、あの調子だとそうとう迷惑をかけたんだろうけど……しかも原因は確かに啓輔にある。
「でも、そんな事言われても……俺だってどうしていいか判らないんですよ。それはまあ、原因を作らないようには出来るかも知れないけど……でもさあ、家城さんって気が付いたら怒っているというか……」
 しかも静か?に怒るから、最初気づかない。
 金曜みたいに、家を尋ねて初めて変だと気づいた位だ。
「あの……それで安佐さん達は大丈夫だったんですか?」
 あの家城の攻撃をまともに受けたという相手が気の毒にすら思える。
「どうかな?今日はまだ逢っていないけど、生産技術の部屋にでも行ってみたら様子が分かるんじゃない?竹井君って不機嫌だと態度にすぐ出るから」
「はい」
 頷いてはみたものの、そんな藪をつつくような真似はしたくない。
 どうも竹井って人は怒っているところしか見ていないような気がする。
 あんな相手とは関わりたくないって思うのは、普通だろうって思うし。でもま、家城さんも、あそこまではっきりと態度に表してくれると、楽なのに……。
 黙ってしまった滝本が僅かにその顔を歪めた。
「あの……」
「家城君のこと……頼むよ、ほんと。君の方が年下だから、うまく操る、なんてこと無理かも知れないけど、たぶん君にしかできないことだからさ。あいつ……君以外心を許せる奴がいないんじゃないかなって、私たちは思っているんだ。だから、ね」
「俺しか?」
「そう」
 その言葉を信じて良いのだろうか?
 心を許せる人間が一人でもいるってことが、どんなにも気を楽にしてくれるか、啓輔は経験で知っている。
 自分が、家城にとってそういう役目を負えるのなら、こんなに嬉しいことはないと思う。
 だが、果たしてあの家城を受け止めきれるのだろうか?
 なんだかいろいろと言われて頭が煮詰まってきた。
 頭ん中が飽和状態になっている。
 ちょうど滝本宛の電話が掛かってきたこともあって、啓輔は滝本にぺこりとお辞儀をすると、その場を離れた。
 

 気が許せる相手。
 それが、家城にとって啓輔なら……服部にとって、それは誰なんだろう?
 ふつーに考えれば梅木になるだろう……だが梅木がああいう状態である以上、服部が完全に気を許せるとは思えない。少なくとも、気を許しかけているのは事実なのに……。
 ということは……啓輔が知っている範囲で、服部が気を許せる相手というのはいないと言うことになる。
 それって辛いよな。
 啓輔の口からため息が漏れる。
 気を許せてなんでも話せる相手がいなければ、自分でどうにかするしかない。
 それができる人間なら、放っておいてもいいが。服部はきっとそれができない人間だと思う。
 啓輔にとって、高校の三年間がまさにそうだった。
 誰にも頼れず、気を許せず、他人を騙すことしかできなかった。
 自分のことしか考えていなかった。
 それでも乗り切ることができた。どす黒く歪んだ感情はあったし、発散する場所は決して知られてはまずいところだったけれど。
 それでもどうしても普通に働きたかったから、それだけは必死になった。それがある意味、良かったのかも知れない。目標があるからがんばれた。自暴自棄になっていた自分を、かろうじて押さえつけた。それでも……してしまったことはあるけれど……。
 幸いにして、無事会社に入れたし、しかも家城に逢えた。
 だが、服部は……。
 コンピュータールームの扉の前で佇む啓輔。
 いつもなら気兼ねなく入れる自分たちの小さな事務所。たった二人だけの開発部からすれば、滅茶苦茶小さくて閉鎖的な事務所だけれど……それでも、啓輔はここが気に入っていた。
 それがこんなにも敷居が高いと感じてしまう。
「どうしたもんかな?」
「どうしたんです?」
 ドアノブに手をかけ、それでも躊躇っている啓輔に声をかけてきた人がいた。
 背後を振り返らなくても、それが誰かは判る。
「服部さんが煮詰まっちゃってさあ……この前より酷いんだ……もうあんまり時間がないかも知れない」
 振り向かないまま、じっと目前の扉を見据えながら言った。
「困りましたね。今日、梅木さんは1日会議ですよ。それが終わるまで位は大丈夫ですか?」
「まあ、いきなりぶっ飛ぶことはないだろーから、今日くらいは大丈夫だと思うけど。でもあの様子だと寝ていないみたいだからさあ……見てて、辛いね。ああゆーのは」
 ため息と共に吐き出した啓輔は意を決してドアを開けようとした。
 が、その手を背後の家城が押さえる。
「今日は休憩、一人で行って貰えますか?もう休憩時間ですから……」
「え?」
 信じられない言葉を聞いたような気がする。
 啓輔は驚いて振り向くと、そこには真剣な顔をした家城がいた。
「何で?」
 確かに、別々の行動をとるという話はしていた。
 だが……。
「服部さんと話をしてみます。だから、ね」
 そう言われると納得するしかない。
 頼んだのは、啓輔自身だ。
「判った……」
 家城に頷き返すと、とぼとぼと食堂に向かって歩き始めた。
 後ろ髪を引かれるってこーゆーことなのかなー。
 家城が何をするつもりなのか気になってしようがない。だが、聞いたところでどーせなにも言ってくれないだろう。
 ずきんと痛む胸の内。
 ちらりと振り向く先で、家城が部屋へと入っていくところだった。
 一体、何をするつもりなのだろう?
 自分から言い出したこととは言え、ひどく気になる。
 家城が、誰かのことを構うのがこんなにも辛いとは思わなかった。
 啓輔は、休憩に行くつもりなど毛頭なかったのだが……それでも事務所を占領されては時間つぶしの場所が必要で……結局、食堂に行くしか思いつかなかった。

 賑やかな食堂で、啓輔はぽつんと一人で座っていた。
 自販機で買ったコーヒーをちびちびと飲む。
 入社以来、ずっと家城とともに休憩してきた啓輔にとって、家城と離れると他に休憩を一緒に取る人間がいない。家城がいないときは、服部と行っていたのだがその服部もいない。
 となると……。
 回りが賑やかな分、ぽつねんとしている自分が酷く惨めな気分だ。
 はあああ
 こうしてみると如何に自分の中の家城の存在が大きいか、こんなところでも気付いてしまう。
 ったく……どうしろっていうんだ……。
 毒づいてみるがどうしよーもない。
 家城の傍にいるのが心地よいと思ってしまっている今の状況で、誰か別の人間を見付けたいとは思わないのだから。
 することもなく、ただぼうっと外の緑を眺めていた。と。
「一人なんだ?」
 知らない声が頭上から降ってきて、びくりと顔を上げる。
 げげっ!
 頭の中だけで毒づけた自分を褒めたくなった。
 今もっとも会いたくない相手。生産技術の竹井と安佐の二人。
 何せ、金曜の惨状を滝本から聞いたばかりだ。
 今一番会いたくない相手に同じテーブルにつかれて、啓輔は及び腰になった。が、今席を立てば、いかにも逃げました、と言っているようなモノだ。
「今日は、家城君は?」
 にこりともしない竹井に、啓輔は視線を合わせることもできない。
「用事があるとかで……」
 言葉少なに答える啓輔に、竹井は「そう」と呟くと、手に持っていたコーヒーを飲み始めた。
 ちらりと窺うと、その隣に座った安佐が困ったように二人を見比べている。
 何か用事だろうか?
 時間が少し遅くなったせいで、食堂は空席が目立つ。
 わざわざ啓輔と相席しなくてもいい筈なのにここに来たと言うことは、何か用事があるからだろう。
 だからと言って啓輔から何か話しかける内容もなくて、ただじっとコーヒーを睨む。
 竹井もあえては何も言わない。
 沈黙だけが3人の間を漂い、居心地が悪いことこの上ない。
「あれ?」
 と、唐突に安佐が小さな叫び声を上げた。
 その声に啓輔と竹井が反応した。
「どうした?」
「あれ……」
 竹井の声に安佐が食堂の入り口を指さす。
 啓輔もつられるようにそこへ視線を移した。
「あ……」
 微かな叫びが喉から漏れた。
 そこにいたのは、家城と服部だった。
 何故かとても仲良さそう見えるのは気のせいではない。
 あ……何で……。
 茫然と見入る。
「あれ、服部さんだね」
 竹井がぽつりと言う。それが啓輔に伺っているように聞こえたので、啓輔はただ頷いた。
 別に話をした後に二人揃って休憩に来ただけのことだろう。
 気にすることはない。
 そうは思うのだが……。
「調べモノがあるとかで、服部さんに聞きに来られたんです。それが終わったんだと思いますけど。何か家城さんに用事ですか?」
 何でもないように言う。
 言い訳の口調にならなかったのかが心配だった。
 上目遣いに窺う先で、竹井が納得したのかしていないのか……じっと家城を見つめている。
 なんでこんなに気まずい休憩を取らなければならないんだ?
 わざわざ啓輔のいたテーブルを選んだのは何か理由があるのだろうとは思うが、竹井の方からは何のリアクションもない。
 もしかして、家城が来ると思ってここに来たのだろうか?とすると、それはあてが外れたと言うことだ。
 家城と服部は、ここよりずっと離れたテーブルに向かい合うように座ったのだから。

「家城君……なんで金曜日は機嫌が悪かったんだ?」
 コーヒーを飲み終えそろそろ事務所に戻ろうと紙コップを握りつぶした瞬間、竹井がその瞬間を待っていたかのように声をかけてきた。
「はあ?」
 ここまで、何もいわなかった竹井が声をかけてくるなんて思わなかったから、啓輔は茫然と竹井を見つめた。
 そんな啓輔に、竹井は特に表情を変えることなく、もう一度同じ質問を、ゆっくりと繰り返した。
「なんで家城君は金曜日に機嫌が悪かったんだ?」
「それは……」
 二人が金曜日にとんでもない目にあったのは滝本から聞いている。
 その原因を作ったのが自分のせいだということも知っている。
 だが、それを正直に言うのは、はばかられた。
 どうも竹井という男の印象が悪い。
 今だって、にこりともせずに啓輔に質問を浴びさせる。
「君が家城君の相手だと言うことは知っている。ということは、君が原因を知っていてもおかしくはない筈だよな」
 何が、ということなんだ?
 俺が家城さんの恋人でも、だからと言って家城さんの行動、全部知っているっていうのは間違いだろうっ!
 とは思うのだが、それが言い出せない。
 傍らの安佐に助けを求める視線を送ると、安佐が苦笑いを浮かべて返した。
 それでも、竹井に言葉をかけている。
「竹井さん……隅埜君困っていますよ。そんな責めるように言わなくても」
「別に責めている訳じゃない」
「……竹井さん……眉間に皺が寄っているの、気付いています?」
 安佐がそう言った途端、竹井がぐっと口元を結んだ。
 安佐を見上げるような視線は気のせいだろうか?
 しばらくそのままの状態が続いた。
 はっきり言って啓輔はさっさとこの場を離れたかった。
 だが、動くに動けない状況で、泣きたくなる。
「あの?」
 仕方なく啓輔は口を開いた。
「家城さん……ほんと機嫌悪かったけど……今はもう治っていますから。すみませんでした」
 何で俺が謝らなきゃいけないんだっ!!
 とは思うのだが……。
「……別に……君が謝る必要はないんだけどね」
 苦笑混じりの声に啓輔は顔を上げた。その先で竹井が困ったように苦笑いを浮かべている。
「ごめん……君に文句を言ってもしようがないんだよね。ちょっとさ……あんまりにも金曜日は酷くて。それで……」
 躊躇いがちな言い訳。
 ひどく言いづらそうにしている。
「いいえ……」
 啓輔は首を横に振った。雰囲気が変わったせいだろうか?言えなかったことが口をついて出てくる。
「原因、確かに俺だったみたいだし。それで、迷惑かけたことは事実だから。責められたってしようがないといえばしよーがないとは思うから……」
「ごめん……」
 啓輔の言い訳に、何故か竹井が謝ってきた。
「え?」
「俺……すぐかっとなるから、君を責めてしまったから……ごめん」
 すうっと頬を染めてはにかむように笑みを見せる竹井がそこにいた。
「気をつけようとはしているんだけど……ついね。そんな風に素直に謝られるとさ、……そのどうしていいか判らないって言うか……」
 竹井がちらりと隣の安佐に視線を向ける。
 それに気付いた安佐が、むっとしたように竹井の方へ顔を向けた。
「俺は、いつだって素直ですけど」
「お前は、いつも唐突なんだよ。どうしていいか判らないくらいにな」
 ふんっとそっぽを向くその姿がなんだか妙に可愛くて、啓輔の口元に笑みが浮かんだ。
 この人って……。
 今まで持っていた印象ががらがらと音を立てて崩れる。
 あの家城が惚れた相手。
 そうかも知れない。
 なんだか、面白い……。
「なんて言うかさ、家城君、君と付き合ってから結構大人しくなっていて、俺達も安心していたんだけど」
 あれ……同じ台詞をどこかで聞いた?
「だから、金曜日は油断していたというか……もう、酷かったよ」
 あ、そうか……滝本さんから聞いたんだ。
 しかし、この人たちってそれでも家城さんとずっと付き合っていたんだ?
「もしずっとあんな家城さんだったら、もうつき合えないですか?」
「あ、ああ……」
 竹井はふっと小首を傾げると、頷いた。
「そうだな。前の家城君は、それでもどこかさ優しさがあったんだ。なのにこの前はそれが無くて、切羽詰まっていた感じすらした。あんな事しょっちゅうされたら、付き合いたくはないかもね」
 そっか……。
 あの家城さんにそんな事をさせてしまったのか。
 申し訳ないと思う前に、何故か顔がにやけてしまう。
「何だか嬉しそうだね」
 ムッとしたのか、睨むように言われ、慌てて口元を引き締める。が、口元がひくついてしまった。
「ま、いいけどさ。家城君が大人しくしてくれればそれでいいよ。今更こっちが何か言って墓穴は掘りたくないし。機嫌が治ったんだったらいいさ」
 不承不承っていう感じだったが、竹井はこの前の事は不問にしてくれるって言っているらしい。
 ラッキー……なのかな?
 啓輔が上目遣いに窺っていると、竹井がちらりと別の方向に視線を向けた。
「で、あれはどういう状況か説明してくれない?」
「え?」
 竹井を見ていたので、家城達が何をしているのか見ていなかった啓輔は、そちらに視線を向け……固まった。 
 

 服部の耳元に家城が口を寄せ、何か話し掛けている。
 その触れんばかりの所で、家城が随分と楽しそうに笑みすら浮かべているのが判る。
 鉄仮面とすら評される家城だ。啓輔と休憩に来ている時ですら、そんなことはしたことがない。
 なのに今は、周囲に見せつけるように随分と親しそうだ。
 それに対して俯いている服部の仕草は、啓輔からすればどきりとするような可愛らしさで……。
 竹井のみならず、それに気付いた数人が密かに窺っている。
 ひそひそと漏れ聞こえる言葉が二人の事を揶揄しているように聞こえた。
 何やってんだよぉっっ!!
 叫びたくなった言葉を必死で飲みこむ。
 少なくなったとは言え、まだ10人ばかりの人間がいる。少なくとも、家城は男がいいんだよーなんて思わない人達ばかりとは思う。だから、ただ異常に親密だなとは思う位だろう。啓輔と同じテーブルについているメンバー以外は。
 そんな中で叫べば、次の日までに今まで以上にやばい噂が一斉に広がるだろう。
 やば……。
 ふうっと躰の中にある苛立ちを消し去るように大きく息を吐くと、そんな二人から視線を外した。
 家城が何かを企んでいるのは知っているのだから、目くじらを立てることではない。だいたい家城自身がそう言っていたじゃないか。なのに、それに動揺してどうする?
 信じろ、と言われたじゃないか? 
「いい雰囲気だね」
 吐き捨てるように言った竹井にちらりと視線を送ると、啓輔は何とも答えようがなくて曖昧な笑みを浮かべる。
 しかし、まさか会社で仕掛けるとは思わなかった。
 何かをするのは知っていた。
 あの信じろと言う言葉から、ある意味想像できたことかも知れない。
 だけど、こんな衆目を集める場所で……よりによって、この人達を相手にしている前で……。
 まあ……俺と竹井さん達と一緒に休憩取るはめになるなんて、家城さんだって気づきゃしないだろーけどさ。
 タイミング……最悪……。
 がくりと落ちる肩。気怠げに頬杖をついて家城からも竹井からも視線を外す。
 さっき言われたばかりだ。あの金曜日のメンバー方から。
 俺と付き合いだしたから、大人しくなったって。その歯の根も乾かない内に、それ否定するようなことされちゃ、彼らだってまあいい気はしないわな。
「隅埜君、何かあったのか?」
 安佐が心配そうに問いかけてくる。
 ああ、もう。放っていて欲しい。
 無視したかったが、また何か突っ込まれると嫌なので適当に言い放つ。
「何かって?別に何もないですよ」
 ちくしょっ!損な役回りだ……。
 にしても……。
 どこかざわざわと不快な感情が湧き起こるのは止められない。
 家城の心が自分にあって、服部の心は梅木に向けられていると判っているのに。
 つまらぬ嫉妬だと……判っていた。
 家城が信じろと言ったのだ。信じる……彼の心は啓輔のモノだと信じてはいる。
 金曜日に啓輔が取った軽はずみな行動が、他人を巻き込む家城の嫉妬となったのだから。それを思えば、彼が啓輔から心を移すことはないと信じられる。
 だけど、理性と感情は別物なんだと、こんな所で気付いてしまった。
 あんまりあんな二人を見ていると自分が制御できなくなりそうだ。
「まあ、何かあったなんて当人同士の問題だとは思うけど……あれは会社で取る態度じゃないだろ?」
 相変わらず竹井が毒づいている。確かに見ている分には当てつけられているようでいい気はしないからその言葉には頷かざるを得ない。
 そうだよな?これって酷いよな。後でたっぷり文句言って良いよな。
 啓輔はぎりりと奥歯を噛み締めた。
 こんな所でする態度じゃないってさ。
 そりゃあ、俺達は家城さんが男もOKって知っているから、そういうふうに勘ぐってしまうのだけど、あんたらの雰囲気って普通の人たちにも何となく判るんじゃないかって思う。
 と、ふと頭に浮かんだ考えに啓輔はぞくっと背筋に寒気が走った。
 もしかして……実は仕返しが続いている?
 ……。
 やっぱ家城さんをコントロールなんて俺には無理。
 なんか、こえーよなあの人。頭いい人ってこんなにも何するか判らんものだろーか?俺なんかには家城さんが何考えてるか読めねーもん。
 ああ、もう好きにやって貰うしかねーよな。
「当てつけているみたいだ」
 安佐がぽつりと言った。
「あてつけるって誰にさ?隅埜君にかい?」
「ほら、金曜日の不機嫌な理由が実は解消されて無くて、それで当てつけているのかも……」
 ちょうど思っていたことを安佐に言葉にされて、どくんと心臓が高鳴った。
 それを誤魔化すように笑う。が。
「目が笑っていない」
 竹井がにきっぱりと言われた。
 こ、この人は……。
 どうにかして誤魔化したいと思うが、なぜか執拗に拘ってくる。
 もーいいじゃん。
 俺が割り切っているというのに。
「隅埜君、心当たりがあるんだ。だから誤魔化そうとしているだろ」
 うっ……。
「竹井さん……隅埜君困っていますよ。二人の問題なんだから、放っとけば……」
「ばかっ」
 押し殺した声ではあった。だが啓輔ですら、びくりとその言葉に反応するほど声音がきつい。
「お前、あんなにぼろくそにあいつに言われたのに、元をただせばこいつらのせいなんだぞ。それで放っとけるのか?また、あんな目に遭いたいって言うのかよ」
「それは嫌です。でも、隅埜君だってこんな事で責められてもどうしようもないでしょう?問題は家城さんの態度なんだし。彼だってショックなはずだし……」
 ショック?
 誰が?
 というか、何でこの二人はこんなところで言い合いを始めるんだ?
「何だよ、じゃあ安佐君はこのままでいいのか?それでなくても家城君に会う機会が多いのに、いっつもそうやってびくついていたら仕事にならないだろ?今日だって、何だかんだといって行かなきゃならないのを引き延ばしているじゃないか」
「あ、あれは、わざとじゃなくて、ほんとにデータがまとまらなくて……。中途半端に行っても家城さんは引き取ってくれないから」
 さすがにムッとしたのか、安佐の声音もきつくなってきた。
 うっわ?、やだよ、これって。
 どこか険悪なムードが3人の周りに漂っている。
「またかよ。いつだってそんなんだから、いつまでたっても家城君に舐められるんだっ!」
「くっ!」
 それまでなんとか竹井を宥めようとしていた安佐の表情が見る間に強張った。
 きつい視線が竹井を一瞥すると、ふいっとそれを外した。
 窺った横顔が悔しそうに歪んでいる。
「俺、仕事戻りますから」
 食いしばられた歯の隙間から漏れたような言葉が竹井に向けられた途端、竹井の顔が歪んだ。だが、安佐はそんな表情に気づかない。さっさと席を立つと食堂から出て行ってしまった。
 竹井の視線が茫然とその後ろ姿を追いかける。
 ひどく後悔しているようで、奥歯を噛み締めているのだろう。 
 その歪んだ口元からぎりりと音がしそうなほどだった。
 ここもかよ……。
 どうして、こうトラブルが多いのだろう?
 梅木に言わせれば、服部がこんなふうに思い詰めたのは俺達のせいだという。
 竹井達がこんなことになったのも、それは自分達のせいだとは理解は出来る。
 もしかして……やっぱ俺達がトラブルメーカーなんだろうか?
「はあ……またやった……」
 ぽつりと漏らされた言葉にはっと竹井を見遣ると、伏せられた目がまるで泣きそうに見えた。
「どうしてこうなんだろう。あ、ああ、君のせいじゃないから。どうもさ、ここんとこぎくしゃくしていたから、余計に家城君に突っかかられただけだとは判っているんだ。どうして、俺達ってこう乗せられ易いんだろう」
 さっきまでの怒っていたのは一体どこに消えたんだろう。
 呟く言葉も啓輔に聞かせると言うよりは、独り言に近い。テーブルの上にある二つの拳がきつく握りしめられていた。爪の色が白くなっている。
「ごめん」
 何か言おうとした途端、竹井が席を立った。
 そのまま踵を返すと、あっという間に去っていく。
「あっ、ちょっと!」
 泣きそうじゃんか!
 歪められた横顔からそう思った啓輔も慌てて席を立った。
 足早に去っていく竹井の跡を追いかけて食堂から出ようとした。と、はたと足が止まった。
「っ」
 漏れかけた言葉を、口を掌で塞ぐことで慌てて口の中に閉じこめる。
 梅木、さん……。
 梅木は、眉間に皺を寄せその細められた目は食堂の中の家城達を睨むように見つめていた。
 そこに啓輔がいるのに気づいていないようだ。
 ど、どうしろっていうんだよお!
 竹井も気になるが今の梅木もやばい。やばいついでに、声もかけたくない。
 啓輔は一瞬の逡巡の後、竹井を追いかけることにした。
 どっちもできれば放っておきたい雰囲気だったけど、それでも無視するわけにはいかないだろう。
 あんな怒りも露わにしている梅木など、相手にしたくなかったから。

 ちょっとした間に、竹井の姿は消えていた。
 階段の踊り場で啓輔は所在なげに佇む。
 竹井って人、結構感情的なんだな。
 さっきまで怒っていたのに、安佐が怒った途端、泣きそうな表情へと変化した。
 あんな顔、見せられるとは思わなかったから、思わず追いかけてきたけど……でもこういうのって追いかけてもとうしよーもないんだよな。
 俺なんかが何言ったって駄目だろうし。
 二人の問題か……。奇しくも安佐が言っていた言葉が脳裏に浮かび上がる。
「安佐さんに連絡だけしとこーか。竹井さんが泣きそうだったの気づいていなかったみたいだし」
 はああ
 どうしてこう厄介事ばっかり起こるのか?
 啓輔は自分の方こそ泣きたい気分だった。

続く