【バレンタイン】 1

【バレンタイン】 1


 誕生日、クリスマスはまだいい。
 いや、良くはないが、まだしようがないかという気になる。
 だが……。
 土曜の昼に出かけたスーパーで、明石悠人はげんなりと肩を落とした。
 2月に入る前から目立ち始めたそのコーナーは、今はもうこれでもかという程に面積を取っている。

 メインは赤。それにピンク。明るい色合いのせいか否応なく目に入る。
 そういえば、つい先日の新聞広告もそうだった。
 後二日。
 月曜日までに売り切ろうと、前より派手になっているような気がした。
 思い出しただけで零れそうになったため息を飲み込みながら、悠人は無視した。それでも傍らを通り過ぎる時、視界を横切った鮮やかな包装紙に、どうしても苛立ちが増していく。少し前までは、たとえ視界に入ったとしても気にすることの無かった代物。
 なのに、今はこんなイベントを考え出した輩に怒りの鉄槌を下したい、とすら思う。
 本命に贈る、なんてちゃちな宣伝に煽られて、数千円もするチョコレートを買う奴らが信じられない。
 いくら高級とはいえ、しょせんはチョコレートじゃないか。
 新聞に入っていた広告は、確か高いものなら、5000円。ヨーロッパ直輸入とか書いてあった。
 本命なら、そのくらい当然だとばかりの広告の文章に、憮然とした事も思い出す。
 さすがに、こんなスーパーではそんな高価なチョコはなさそうだったが……。
「ちっ」
 いつの間にか値段を目で追っていた。
 こんなもの、どうでも良いっていうのに。見ているだけで甘ったるくなってくる。
 嫌な物から逃れるように、踵を返した悠人が向かうのは、買い物の目的である牛乳の棚だ。特にこだわりがないから、一番安い物を手に取る。
 1リットル、168円。
 なのに、5粒ほどしか入っていないチョコレートが、2000円。
 一体この価格差は何なのか?
 高けりゃ良いってもんじゃないだろう? 相手がチョコが嫌いなら、ドブに捨てるようなものだっていうのに。
 それに。
「値段より相手の好みに合わせるものだろう?」
 思わず口の中で呟いて、僅かに視線を彷徨わせた。特設コーナーは、他のディスプレイの影になって見えない。
「好み……」
 繰り返した単語に、眉間のシワが深くなる。
 同時に脳裏に浮かんだのは、すっかり見慣れてしまった男の顔。
 そういえば、ここ一週間ほど声しか聞いていない。
 悠人も忙しいが、健一郎はもっと忙しいらしいのだ。その健一郎はたいそうイベント好きなのだ。
 何が楽しいのか、イベントが近づくと忙しくても楽しそうにしている。
 あのお調子者。
 そんなにイベントが好きなら、同じように好きな奴とひっつけば良いものを……。
 何を好きこのんで、イベントと名の付く物に全く興味のない自分を付き合わせようとするのか。
 その、人の言うことを全く聞かない男は、事もあろうに悠人からのチョコレートを欲しがっていた。バレンタインデーの当日に。
 全く、冗談じゃない。
 思いっきり嫌そうな顔をして見せたのに。
 自慢ではないが、不愉快な顔なら幾らでもできる。その最たるものだったはずなのに。
 だが、会社きっての営業マンは、老若男女を問わず好感度100%のその笑顔と巧みな話術で、悠人を籠絡した。
 一体何がどうなってこんなことになったのか?
 その辺りは、流されたんだ、としか思えないが。とにかく、増山健一郎は悠人にとっては恋人の位置にある。
 付き合いだして、早一年以上が経った。
 最初のバレンタインは部下達の策略によって、渡してしまうハメになったが。
 あれは、自分が渡したものでないと、悠人は未だに言い張っていた。
 確かに、チョコのプレートには自分の名前が入っていた。
 宛名は、健一郎だった。
 しかも、文句は「I Love You」。
 そんなものこの自分が用意するわけ無いではないか。
 よって、ただ単に部下達からの品を仲介しただけ、と悠人は思っている。
 なのに、ことあるごとに嬉しそうにその話をする健一郎を、何度殴りつけただろう。
 さすがに営業であるから、顔を殴るのは遠慮しているが、それすらも愛だとほざく。
 今度こそ、その頬が腫れるほど殴りつけてやろうか……。
 思い出すだけで腹立たしさが込み上げる。
「恋人から貰うのは当然だろう?」
 何が当然なのか?
 そう断言された時、嫌な予感はした。なんとか撤回させようとしたのだが、相変わらず聞く耳を持たない健一郎は笑いながら言った。
「これはゲームだよ。どっちが相手の好みに合った物を見つけるか。まだまだ先は長いし、忙しいと言っても十分余裕はあるだろう?」
「ゲームなんか……」
「何だ最初っから負けを認めるのか?」
 ニヤリと笑うそのふてぶてしさときたら。
 負けるつもりなど端から考えていない様子に、むかっ腹が立った。
「負けやしない」
 つい言ってしまって、すぐにマズイと思ったけれど。
「OK。14日……は月曜だから、一日早いが13日にしようか。日曜だからな、楽しみだ」
 期限はバレンタインデー前日だと決められる。
「おいっ」
「悠人の好みは難しいからな。何が欲しい?」
 抗議の声は質問で返される。
「誰が教えるかっ」
 つい、苛立ちのままに返して。
「聞かないと判らないだろう?」
「教えるもんかっ」
 言い合いながら注がれたビールを口に運んだ。
 そんなふうに邪険に返しても、健一郎は悠人の怒りをきれいに脇に流してしまう。
 突っかかっても相手が反応しなければ、苛立ちも衰えてしまうものだ。それに、悠人自身もバツが悪くなっていた。本音を言えば、こんなふうに反発ばかりをしたい訳ではない。
 まがりなりにも付き合っている相手だ。
 感情の赴くままに反発してしまうと、次は激しい後悔しかない。
 いつか、嫌われるだろう。
 繰り返す暴言を自覚するたびに、普段は気にしていないことまで浮かび上がってくる。
 そのたびに、胸の奥が痛くなるほどに苦しくなる。
 イヤだと、心が叫び声を上げる。
 なのに。
「貴様の思うとおりにはならない」
 高飛車にいうしかできない自身がいた。


 ガツンとした衝撃に、はっと我に返った。
 持っていた牛乳パックの冷たさに手が痺れてきていた。衝撃はカゴが、棚にあたったせいだ。
 どれほどぼんやりとしていたのだろう。
 カゴの中に牛乳を入れて、冷え切った手をもう片方の手で温める。
 と、不意に脳裏を過ぎった記憶に、かあっと体が熱くなった。
「くそっ」
 顰めた顔が罵りの言葉を吐き出した。
 いつも冷え気味の手足を、健一郎が気にしていたことを、思い出してしまったのだ。
 そういえば、健一郎の手はいつも温かい。冬のさなか、凍える外気の中にいても、触れられると必ず温かいと感じた。まして、素肌が触れあう時は、もっとはっきりと感じる。
 その温もりはひどく心地よく、抱き込まれてじっとしていると睡魔にすら襲われる。
 そんな事を臆面もなく思い出して、悠人は握りしめた拳を見つめた。
 健一郎の温かさは自分にはない。
 冷たい……人間。
 結局は、心根の差が体温にまで影響を与えているということだろうか?
 いつだって人と触れあって、和んで。彼がいればその場に笑顔が湧き起こる。自分では決して持ち得ない性格だ。
 優しく、温かい。
 心根そのままの体温──。
 離れがたい相手……。
 だが。
「ふん」
 不意に、悠人は鼻を鳴らした。
 考えていたこと全てを払うかのように頭を振り、視線を店内に巡らす。
 バカな事を考えている。
 第一、そんなことを考えている場合ではないのだ。二月は、会社説明会などの会社側の行事が多く、どうしても人手が割かれる。加えて年度末、忙しさは最高潮だ。その間を乗り切るための備蓄食糧や消耗品を買いに来たというのに。
 たまたま時期が、バレンタインデーに重なっただけ。
 健一郎が一方的に言ってきたゲームなど、関係ない。迷惑千万だ。
 もっとも、健一郎がどうしても欲しいというなら、その辺のチョコ菓子でも買って与えれば良いだろう。
 そう思い至って、悠人は口の端を歪めた。
 踵を返して、先ほどの特設コーナーに向かう。一瞥してすぐにオーソドックスな板チョコを選ぶ。手作り用とかで、いつもより多めに入っているそれがお似合いだと、脈絡もなく思って無造作にカゴに入れた。
 なんだって良いんだ、こんなもん。欲しけりゃやる。こんなおもしろみのない男からチョコを欲しがる事自体が間違っている。どうせ、女性達からたくさん貰うクセに。
 紙袋一杯のチョコの消費に、いつも何日かけているんだ?
「どうせ食べ飽きるほど食べるんだろうが」
 呟いた言葉は、奇妙な痛みを胸の内に起こしたけれど。
「ざけんな……」
 罵ることで何もかも消し去った。

 たくさん買った食材を冷蔵庫に入れる。
 もっともほとんどが冷凍食品やレトルト食品で、冷蔵庫に入れる物は数が少ない。
 料理ができない訳ではなかったが、忙しくなるとどうしても面倒くさくなってしまうのだ。それがこの時期には簡単に予想できる。
 一通り収めると、最後に場違いな鮮やかさを持って、チョコレートが現れた。
 普段は茶色の単なる箱だというのに、このときだけはハートマークが乱舞している。しかも、いつもと違うのはそこだけではなさそうだった。
「……トリュフ……?」
 中表にレシピが書いてあるらしい。
 どんなチョコレートだったろう? 
 気にし出すとやたらに気になって、悠人は気付いたら上げるつもりだったチョコレートの外装を取った。どうせ中は個包装してあるから、バラバラになっても問題はない。
 それこそ、一つだけあげても、それはそれ。チョコレートには違いないだろう。
「ああ、これか」
 丸く、表面にココアや粉糖を使ったものだった。これならば、何かの折に貰って食べたことがあった。どうやら中にはそのレシピがあるらしい。
 開けたついでだと、中を広げる。
 転がり出たチョコは流しの横のスペースにばらまいた。
「ふ……ん」
 簡単、なのだろうか?
 一通り読んで首を傾げる。
 どこぞのメーカーと結託しているような商品名が並んでいるが、レンジを使うせいか確かに簡単に見えた。
 生クリームなどという高尚なものはないが……。
 後は、無塩バターにココア?
 そんなものあるわけがない。
 舌打ちして、箱を放りだした。
 簡単とは、材料がどこにでもあることから言うものじゃないのか?
 無塩バターが普通に家にあるはずもないだろう。
 そうそうに諦めて──。
「何をやってるんだ、俺は……」
 諦めると言うことは、作るつもりだったのか?
 自分の行動が信じられなかった。呆れ果てるのは自分の行動の方だ、とばかりに悠人は眉間のシワを深くする。
 転がる板チョコの銀の包装が蛍光灯の灯りに乱反射していた。
 思わず一つ手にとって、包装を解いた。
 欲するがままに口にすると、ビターな味が広がった。
 甘くないチョコの方が好みに近い。
 かりっと口の中にかじる音が響く。
 健一郎もスイートよりもビターな方が好きだろう。コーヒーに砂糖を入れるところは見たことがなかった。
 普段は、砂糖漬けかと思うほどに甘ったるいセリフを吐き続けるくせに。
 苦みと甘みが絡み合って広がる口を、悠人は微かに綻ばせた。
 もう一つチョコを手にとって、隣の部屋に移動した。
 夕食を作ろうかと思ったが、今ひとつやる気が起きない。人の多いスーパーの熱気に疲れたのかも知れない。
 一日くらいどうでもいいやと言う気になって、そのまま座り込んだ。
 残りのチョコレートを口の中に放り込んで、咀嚼しながら持ってきた分の包装を解いた。
 健一郎の分にするつもりだったが、このまま食べてしまうのも悪くない。そういえば、最近はチョコレートなど食べていなかった。
 瞬く間に二本目も口の中に消えて、悠人は脱力したように壁に背を預けた。
 ぼんやりと中空を見やる。
「ゲーム……」
 そういえば、勝ち負けの約束を決めていなかった。
 今頃になって気付いたその事に、首を傾げる。
 健一郎は何かというと賭けようと言う。そして、いつだって賭には約束がつきものだった。
 それは、悠人からのキスであったり、セックスであったり。
 戯れのように持ちかけて──けれど、健一郎にとっては本気の賭け。
 反発ばかりの悠人を大人しくさせる手段と考えている節があった。もっとも、悠人だってそんな賭けに負けたくなど無い。
 時には、悠人が勝つことだってある。
 けれど、今回のように最初に約束事が提示されなかったのは珍しい。
「……なんだろう?」
 確認すべきだろうか?
 気になり始めると、止まらない。
 たいていキスが約束になるのだが、今回もそれだろうか? だから、健一郎が言い忘れたのだろうか?
 けれど、わざと言わなかった可能性もある。
 想像もつかないとんでもないことを要求しようとする時は、健一郎は適当に誤魔化すから。
「……」
 口内のチョコレートがすっかり無くなって、舌先に甘い味だけが残っていた。
 その甘みを取るように、ぺろりと舌先で歯の先端をなぞった。
 健一郎もよくする仕草だ。
 ゆっくりと口付けてきて、舌を隙間から差し入れる。
 歯先をなぞり、悠人が緩めるのを待って、ゆっくりと侵入してくるのだ。時折、強引に押し入ることもある。
 犬歯の辺りから前歯に。そして反対側の犬歯に。
 ゆっくりと動く舌先は、本当に器用で……。
「んっ……っ!」
 思わず零れた喉の音に、はたっと我に返った。
 何を……。
 一気に体が沸騰した。
 覆った手の下で、口元が大きく歪む。耳まで熱くなり、信じられないほどに、体が熱くなる。
 意識した途端に走った疼きは、下腹部を直撃する。
 相も変わらずの反発ぶりで、ここしばらく健一郎と触れあっていない。
 もともとそういうことは好きでもなかったから、平気だと思っていたけれど。
「こんな……の……」
 甘い疼きが、欲しくて堪らなかった。
 最初の痺れが、次の波を作った。
 波は、また波を作る。
 こんなはずではなかったのに。淡泊だと思っていた。なのに、こんな単純なきっかけで、どんどん欲しくなっていく。
 総毛立った肌が、触れることを望む。
 視線の先で、股間がゆっくりと膨らんだことに気が付いて、羞恥はさらに増した。
 誰もいない。
 けれど、自分のおかしさについていけないのだ。
 手が勝手に動く。
 健一郎が辿るように、悠人の手も同じ場所を辿っていった。
 最初はキス。
 次に、手が全身を愛撫する。
 震えが来る場所は、肩から背を通って脇腹。
 繰り返された快感の源は、自分でも場所が判ってしまっていた。健一郎は、本当にその場所を見つけるのが巧かった。
 そっと脇腹を辿り、そこから太股へ。
 焦れったくなる行為は、健一郎の意地悪さそのものだ。
 だが……。
「ん……っ」
 服越しとはいえ膨らんだ場所に触れれば、甘い疼きが駆け上がる。
 唾液がいつも以上に溢れそうになり、ごくりと飲み込んだ。
 これが健一郎相手なら、飲む暇など無い。口腔をくまなく探られ、余った唾液は吸い取られる。反対に、健一郎の唾液が、渡される。
 体が疼くたびに、前にされた記憶が鮮明に甦った。
 逃れようと暴れても、いざ事が始まったら健一郎は離してくれない。
 しっかりと両の手首を抑えつけ、悠人を封じ込める。
 繰り返される深いキスでいつしか、悠人が脱力するまで続くのだ。
『欲しい……』
 熱い言葉が、悠人の熱も上げ続けた。
 巧みに侵入を果たした手が、悠人の逸物を難なく捉える。
 このときばかりは、健一郎の手と同じほどにそこは熱い。
 交じり合う熱と熱に、先走りが溢れ流れる。溢れた先走りは手に溜まり、潤滑剤としての役目を十分果たすほどだった。
『こんなにも……」
 感極まった声は、もう欲情に満ちている。
 液体が音を立て、完全にいきり立った逸物を覆い尽くす。
 大きな手の平がすっぽりと包み込んで服の中で扱く。衣服の締め付けが、鬱陶しくて堪らない。
 手が動くたびに、ずきずきと腰から脳天まで快感が駆け上がった。
「は、あぁ……んくふ」
『ここがいいんだろう?』
 後孔深く穿かれて、感じる場所を突き上げられる。
 そんな時の悲鳴ははっきり覚えている。
 けれど、あれは、思い出すだけ赤面物の代物だった。悲鳴とは言ったけれど──あれは、歓喜の声でもあるのだ。
 抑えようとしたのに、勝手に零れた──嬌声。
 健一郎がその声にいちだんと激しく腰を使い出して、もうその後の記憶は曖昧だけど。
 ただ、激しい解放感と悦び、そして流れた涙だけははっきりと覚えていた。
 忘れたい。
 けれど、忘れられない。
 ズボンの前を大きく広げ、両手で包み込んだ逸物は、もう限界まで勃起していた。
「あっ……はあっ……んあっ」
 荒い息と音が交じる。
 小さな爆発が腰の辺りで弾け、目の裏でも弾けた。繰り返していくうちに爆発の度合いがだんだん大きくなるのは、限界が近いからだ。
 そして。
「んっくうっっ!!」
 五指で先端部を嬲った途端に、体内奥深くから熱い塊が迸った。
 どくんっ!
 背が仰け反り、壁に突き当たる。
 びくびくと全身が痙攣もした。それすらも甘美さを伴い、快感を助長した。全てが快感に連動する。
「んっ……」
 詰めていた呼吸が、再開したのは達ってからしばらく経った頃だった。
 同時に、全身が弛緩する。崩れ落ちそうになった体が、壁にもたれることでかろうじて支えられた。
 吹き出した白い塊は、点々と素肌や服、畳の上に散っている。
「あ……」
 目が捉えたその惨状に、悠人はさらに肌を赤く染めた。
 とろりと手の平からも流れる欲望の塊が余計に羞恥を煽る。
 誰もいない部屋とは言え、やってしまった事柄に悠人は呆然とする。しかも、思っていたのは健一郎のこと。健一郎に愛された前回の出来事が、悠人の意識をトリップさせたのだ。
 吐き出された欲望は、十分な刺激であったことを伝える。
 けれど。
 物足りない。
 そう思うことも、悠人を落ち込ませた。
 足りないのだ、何かが。解放感は十分にあったのに、足りない。
 その何かのせいで、体がこれだけでは満足していない。
「……ちくしょうっ!!」
 欲しい。
 けれど、そんなもの欲しくない。
 物足りない原因が判っているからこそ、悠人はきつく唇を噛みしめた。
 歓喜は一瞬でなくなって、身のうちにある欲望に捕らわれる。
 そのせいか、何もかもが悠人には気に入らない。
 それこそ、何ももうする気が起きなかったほどだった。



 淡い色の中、白い液体が自分を彩る。汗ともローションともつかない滑りが肌を覆っている。触れあうたびに粘着質な音を立て、流れる感触が肌をくすぐった。
 欲するのは、体内を深く穿つ健一郎の行為。もっと、と縋り、自ら腰を擦り寄せて、熱を吐き出したいと乞う。
 もっと、もっと──。
 けれど、すうっと意識が曇る。
 次の瞬間、びくりと体が震えた。思わず見開いた目が、今まで見ていた景色を映さない。
 その急激な場面転換に、悠人は呆然と硬直した。が。
「あっ……」
 掠れた悲鳴が意識をさらに明瞭にする。
 ──ちが……う……。
 明るい日差しが目に眩しい。
 数度目を瞬かせ、視線をゆっくりと巡らせた。見覚えのある景色に、今までの出来事は夢だったのだと気付く。
 けれど、腰に残る甘い疼きは現実だ。
 身動いだ拍子に、下着が擦れた。
 途端に、触れたい欲求が込み上げる。
「こ……んな……」
 変な夢を見てしまった。
 後悔が込み上げて、意識して目を背ける。
 昨夜自らしてしまっただけでも激しい後悔に襲われたのに、今のこの状態はそれ以上だ。
 まさか立て続けにこんなふうに欲情するとは思ってもみなかった。
 いつもならそんなに良くない寝起きなのに、今は衝撃のせいか意識がはっきりしてしまった。
 せっかくの休みなのに、もう眠れない。
 明けたばかりの時間に気が付いて、ため息を吐く。
 それに、と、悠人はカレンダーを見て、再びため息を吐いた。
「今日……か……」
 10時には来る、と言っていた。
 祝日だった金曜日と土曜日は、実家に行ったらしい。
 ずいぶんと残念そうに、言われたことを思い出す。もっとも、悠人にとってそれは幸いだ。あんな奴に、三日間ずっとついていられると鬱陶しくて仕方がない。
 その時はそう露骨に悦んでやった。
 だが。
 ──放っとくからだ。
 こんなふうに体が疼いて仕方がないのは。
 この体をさんざん慣らしておいて、挙げ句の果てに忙しいからと放置する。
 だから、一人でやるハメになったり、夢にまで見たり。
 言葉にならない侮蔑の対象はすべて健一郎だ。
 どちらかといえば淡泊で、自慰すらもほんの戯れのようにしかしていなかった自分が、こんなふうに欲情してしまうなんて。
「何が……贈り物だ……、何がバレンタインデーだ……」
 そんなもの、何でやらなきゃならないんだっ!
 怠い体を起こして、枕を壁に叩き付ける。
 欲しい、なんて思ったことすら、口惜しい。
 俺をこんなにして……。
 こんなになるまで放っといて……。
 最低だっ!
 怒りは、ここにいない男に向けられていた。

つづく