【悩める悠人のVALENTINE DAY】

【悩める悠人のVALENTINE DAY】

 どうしてこの世にはバレンタインなんてものがあるんだ?
 明石悠人がちらりと窺う先で、雑誌の特集記事が『VALENTINE DAY特集』といういかにもというようなピンクでポップな文字を躍らせていた。
 悠人の部下達が、お昼の時間に拡げて見ていた雑誌が何故かこれ見よがしにすぐ傍の席に放り出されているのだが。
 今、彼女たちは、役員会議のための会議室のセッティングにかり出されている。
 一人、悠人が留守番というわけだった。

 柔らかさを持つ端正な顔立ちは、一文字に結ばれた口元と滅多に消えることのない眉間のシワで酷くきつい印象を周りに与える。実際、性格も男相手には幾分苛烈なところがあった。
 その悠人が、最近頭を悩ましているのがそのバレンタインという行事なのだ。
 はあ……
 誰もいないということが、悠人の口から滅多に吐かないため息を零させる。
 こんな浮かれたイベントを一体誰が流行らせたと言うんだ……。
 愚痴りたくなるのは、こういうイベントが実は誰よりも好きな恋人のせいだ。
 彼の期待に満ちた顔を実際に見た訳ではないが、今までの経験上どういう期待をしているかはなんとなく判る。
 だが、何故そんなことをしなければならないんだ?
 チョコレートなんて、食べたきゃ自分で買ってくればいいんだ。
 何も14日だから買って渡さなければならないということはない。
 と……何度も思って……。
 彼の邪気のない笑顔は、悠人をほっとさせてくれる。そんな笑顔でもし欲しがられたりしたら無下には断れない。いや、断りたくないのだ。
 なのに、今まで培ってきた性格が、素直に”判った”なんて絶対に言わせない。最近の健一郎なら、それでも悠人の真意を汲み取ってしまうだろうが、それはそれで恥ずかしいなんてものではない。
 だいたい、女性達に混じってそういうイベントに参加する気にもなれない。
 となると、その日が過ぎるまで逢わないようにして、電話やメールでもその話題が出ないように気を遣わなければならないということで。
 憂鬱げに視線を彷徨わす悠人は、2月に入ってからもう1週間、健一郎に会っていなかった。
 悠人の恋人である増山健一郎は意外にもマメな男で、同じ社内とは言え営業職の彼は忙しい身の上だというのに一日一回の何らかの連絡は欠かさない。
 いい加減鬱陶しいとは思うのだが、悠人の携帯の着信履歴は健一郎からのもので一杯だった。
 恥ずかしいから止めろと言っても、一向に止めてくれないラブコール。
 だがもし本当に入ってこなくなったら、自分はどうするだろう?
 最悪の事態を予想すると、ひどくいたたまれない思いにとらわれる。
 傷つくことを怖れて作った殻をいとも容易く破って侵入してきた健一郎。
 彼を拒絶できなくなった時点で、悠人の心は健一郎に捕らわれているというのに。
 好きだと素直に言えない悠人を、いつか健一郎が拒絶したら……。
 世間は賑やかで華やかな恋人達のイベントに向かっているというのに、悠人の心は深く暗く沈んでいた。
 しかもそれがもう1週間続いている。
 そう、健一郎に会えない今の状況が、実はひどく辛いものなのだと自覚してしまうほどに、悠人は健一郎に会いたくて仕方がなかった。



 結局逢えないままにもう一週間過ごして、今帰り支度をしている悠人の手にはチョコレートが一杯詰まった紙袋がぶら下がっている。
 それ事態は毎度の事だったのだが。
『これは、お願いなんですけれど』
 そう言って、渡された包みが一番上に乗っている。
『お願い?』
 不審に思って問う悠人の前で、揃いも揃って全員がくすくすと意味ありげに互いに目を合わせて笑っている。
『何?』
 ますます気になって言葉を継げば、その返答に驚愕するハメになった。
『それ、増山係長の分なんです。係長から渡してください』
 代表して北沢が言った言葉は、自分でも呆気にとられる程すんなりと理解してしまって、途端にその名に顔が熱くなった。
『お、おい……』
『余所の係長がですね、冬眠し損ねた熊の如く物欲しげに事務所の前を行ったり来たり。それが一週間も続くと、こちらとしても鬱陶しいんです。ですから、係長にお願いなんですが、しっかりと”今日”文句を言ってきてくださいね。そのチョコレートは手みやげと言うことで』
 それが誰のことを言っているのか、深く考えなくても判ってしまう。
 にっこりと温和な笑みを浮かべる北沢は、実は内心相当苛々している状態だと長年のつきあいである悠人はよく知っていた。
 常であればさすがに余計な世話だと突っぱねる北沢の言葉に、だが悠人は条件反射的に頷いていた。
『……なんとかするよ』
 言ってから、視線を逸らして机上のチョコレートを見つめてしまう。
 シルバーのメタリックな包装紙にゴールドのリボン。LOVEの字も鮮やかなハートマーク。
 こんなものを持って……。
 考えた途端に、この場を逃げ出したいほどの羞恥に襲われてしまう。
 だが、頷いてしまった以上、北沢達の機嫌をこれ以上損ねたくはない。彼女たちが、本当に心配しているのだけは判ったからだ。たとえ、半分ほどは面白可笑しく様子見なのだとしても。
 ちらりと窺う先で、北沢が満足げに頷いていた。
 彼女の言にこの場は従うしかない。
 ったく……。
 いつまでもわだかまる羞恥を払拭するように、悠人はこの場にいない諸悪の根元を頭の中で罵る。
 こんな恥ずかしい目に遭うのも健一郎のせいだ、と。
 あいつが事務所の前をうろうろするからだ。
 それにしても冬眠し損ねた熊?
 一体あの男は何をしているんだ?
 その挙動不審の原因が実は自分にあるのだという自覚は全くない悠人は、今の羞恥の原因が健一郎にあるのだと怒りを露わにして、どうしてくれようと、そればかりを考えていた。
 

 カギは持っていた。
 無理矢理健一郎が悠人に持たせた物だ。
 弟たちの住むマンションに比べれば、狭さは比べようもない。だが、やり手の営業マンである健一郎の部屋は同世代のものにしてみれば、充分なものだろう。
 現に悠人のものよりは広いそこは、しかしそれが感じられないほどにひどく雑然としていた。
 手に持っていた紙袋を悠人がどこに置こうかと思案するほどだ。
 洗面所を覗けばランドリーバスケットに洗濯物が山となっている。台所のシンクは綺麗な代わりに、コンビニ弁当の空き容器がゴミ箱に山となっていた。
 忙しいのか?
 いつも整頓されていた部屋のあまりの乱雑さに、悠人は立ち竦んだままどうしたものかと顔を顰めていた。
 悠人はここに来ることを健一郎に伝えていなかった。
 いつものように入っていたメールには、”今日は定時上がりだ”と一言だけ返信はしておいた。それ以外、言葉が思いつかなかったのだ。
 未だに、この部屋にはいる時には緊張するというのに。
 今日は金曜日なんだよな。
 年度末のドタバタに健一郎が早く帰れないのはこの部屋の惨状を見るだけで想像できた。ましてや、金曜日だ。悠人と逢わないときは同僚達とよく飲みに行っているということも知っている。
 ふうっと大きく息を吐いた途端、体を強張らせていた緊張までもが抜けていって、思わずその場に座り込んでしまった。
 ドンと意外な大きさで紙袋が倒れた音がした。袋の中から幾多ものチョコレートが溢れ出す。
 ホワイトデーには倍返しとは言わないまでもそれ相応にお返しをする悠人には、女性達も手を抜かないようで、毎年食べ切れないほどのチョコレートや酒、プレゼントが贈られていた。
 今年は、健一郎との仲が少なからず噂になっているせいで、多少は量が減ってはいても、それでも結構な量だ。
 面倒だな……とは思う。
 それでも、せっかくだから、と思う心が受け取らせる。
 もちろん、今まで受け取ってきたのは女性からだけでまかり間違って男からのものなどは、速攻で突き返していた。それこそ、怒りの鉄拳を受けてその場で蹲って動けなくなった輩を見捨てたことだってある。
 そんな自分が、こんな日に男の部屋に来て待っているというのは一体どういうことだろう?
 しかも……。
 零れたチョコの中でも一際目立つそれは、嫌が上でも目に付いてしまう。
 そろそろとそれに手を伸ばして取り上げる。
 渡してくれとは言われけれど、別に自分からだと言わなければいいんだよな。
 実際に買ったのは、北沢達なのだ。
 ガラステーブルに、ことりと小さな音を立てて置いて、指先でつつく。
 こんなものを、何故あんなにも女性達は躍起になって相手に送るのだろう?
 多数は義理だと言っているが中には本命だって混じっていて、どうやって渡そうかと噂しているのは知っている。 チョコレートを渡すということは、好きだと伝えるようなもので──どうしてそんなことができるのだろう?
 好きだと、言葉にするのはもちろんのこと、態度で現すことすらできない悠人にとって、そんな彼女たちの強さが最近では羨ましいとさえ思っていた。
 それにしても二週間ぶりなのか……。
 ここまで逢えない日が続くと、何らかのアクションを起こすはずの健一郎が、梨の礫だったのはこの部屋の有様を見れば、それどころではなかったのだと想像はつく。
 にしても……。
 これはないだろう、という現状に、きれい好きではなくても苛々してくる。
 まして、いつ帰って来るとも判らない相手を待つというのは暇でしょうがない。
 悠人はぐるりと部屋を見渡して、呆れ気味に立ち上がっていた。


 部屋に入って来た健一郎の表情がめまぐるしく変化するのを、悠人は動揺を押し隠して横目で窺っていた。
 最初は鍵が開いているのに警戒心丸出しで、次に部屋中にぶら下がっている洗濯物に何事かと驚いて。そして、その中に佇む悠人に気がついて、目を見開いて。
 本当は平然と迎えたかったのに、少しやりすぎたせいでぼおっとしている矢先だった。だから取り繕う暇もなかったのだ。
 久しぶりに見る健一郎は、やはりひどく疲れているようだった。
「来てるんなら教えてくれればいいのに」
 驚きが去った健一郎の満面の笑みを見ないように視線を逸らす。
「ちょっと頼まれたんだ。それより、貴様は……何だこの洗濯物の山は?あまりにみっともないので洗濯したら、酷いことになったではないか?」
 引っかけられるところにはすべてハンガーをかけて、なおかつ家捜しして出てきたヒモを洗濯ロープ代わりに部屋に渡して、洗濯物をぶら下げた。そのせいで、どうにも落ち着かない。
 頭を屈めなくても良いところは部屋の中央くらいしかなかったから、悠人も困っていたところだったのだ。
「すまん……最近忙しくて。だが、悠人が洗濯してくれたのか?」
 その喜色満面な顔など見たくもない。
 見れば顔が熱くなりそうだと、悠人は決して健一郎の方を見ようとはしなかった。
「暇だったんだ」
 ほんとうにあれから3時間。
 気がつけばこんな時間だった。それにも気付いて呆然として……。
 そんなところに帰ってきた健一郎は、ただただ悠人の行動に悦んでいるようだった。
 別に悦ばせるつもりではなかった。
 ただ、暇だったから。それだけの行為に悦ばれては、いたたまれないような気分になる。
「それでも、嬉しいよ。そろそろ着替えが無くなりかけていたんだ」
 とんでもないことを言いながら、するりと伸びてきた手が頬に触れた途端、悠人の体がびくりとひきつけを起こしたように強張った。
 それでも次の瞬間にははね飛ばすようにその手を払い、背を向ける。
 それは半ば無意識の行動だった。我に返った悠人は振り回した手を、ぎゅっと固く握りしめる。
 なぜだかひどく緊張していて、全身から嫌な汗が噴き出していた。
 来なければ良かった。
 そう思わせるほどに、心が悲鳴を上げる。
 逢いたい……と、あれほど思っていた相手なのに、実際に逢うと、この場を逃げだしたくなる。
 こんな素直でない自分が嫌だと思うのに、治せない。
「で、用はなんだ?」
 聞こえてきた健一郎の声音に、諦めのような物が混じっているのは気のせいではないだろう。
 いつもいつもそうなのだから。
「うちの課の連中が……貴様が冬眠をし損ねた熊のように、事務所の前をうろうろするので気になってしようがないというんでな。それを止めろと言いに来ただけだ。それと、それ」
 ついっと顎をしゃくってチョコレートを指し示す。
「北沢さん達からだ。預かった」
 悠人を見ていた健一郎の視線が外れてチョコに移る。それだけで、気が楽になったような気がした。
 小さく息を吐いた悠人は、足下に転がっていた自分の荷物を手に取った。
 やはり……帰ろう。
 洗濯をしていたせいか、ひどく疲れてしまった。
 それにこれだけの会話だけで、精神もひどく疲れている。
「じゃ、それだけだ」
 じっとテーブルの上のチョコレートを見ていた健一郎の手が、通り過ぎようとする悠人の腕を捕らえる。
「帰さない」
 微かに聞こえた声に身構える間もなく、悠人の体は健一郎に抱き締められていた。
 手に持った荷物が音を立てて床に落ちる。
「帰すものか」
 強い意志を持つ言葉とその腕が悠人を縛る。
「か、帰る……」
 それに対抗するには弱々しい言葉が悠人の口から零れた。
 ドキドキと甲高く鳴り響く鼓動は、重ねられた胸から相手に伝わっているだろう。悠人自身も健一郎の鼓動を感じ取っているのだ。
 それが早い。
「何日ぶりだと思っているんだ?せっかく来たお前を俺が帰すわけはないだろう?」
 その言葉も、触れあった体からも、狂おしいほどの熱が伝わってくる。
 反論も何も許されないその強さに、悠人は抗うことなどできなかった。
 掴まれた顎も背に回された腕も痛みを覚えるほど強いのに、きつく触れあった唇から麻痺剤でも含まされたのかと思うほどに痺れるような感覚が広がっていく。
 そのじんじんと疼くような痺れは、時が経つに連れて全身へと広がり、しかも脱力させる。
 逃げる舌は奥深くまで探られて引っ張り出され、熱く包み込まれてしまった。
「……んっ……んあ……」
 息苦しさに空気を求めて離そうとしても、それすらも許されない。
 がくりと膝から力が抜け、背に回された腕が無ければその場に崩れ落ちてしまいそうで、悠人は必死になって健一郎のシャツに縋っていた。
 注ぎ込まれた唾液が溢れて喉を伝い、緩めていた襟元からシャツの中へと入っていく。
 それすらも肌を嬲られているような快感を呼び起こさせて悠人を煽る。
「悠人……今日は帰さない……」
 僅かな休息の時は、今まで以上の熱い呟きに吹き飛ばされる。
 立て直そうとした体は、その言葉が耳に入った途端に力が抜け、もう健一郎に引きずられるしかなかった。


「ここには洗濯物は干さなかったんだな。ま、あんなものが目の前にあったら興ざめだからな」
 悠人に覆い被さった健一郎がいきなりくすくすと笑いだした。
 一体何のことだと健一郎の視線の先を見渡せば、ベッドの周りには干さなかった洗濯物の事を言っているのだと気付いた。
 このベッドは、悠人とつきあいだしたから健一郎が買ったものだ。  それこそ……するために……。  途端に、かあっと顔が熱くなる。
 流されかけていた頭に、冷たい風が入り、一気に意識が覚醒した気分だった。
 一体こいつは何を勘違いしているんだっ!
 怒りそのままに、真相を口にする。
「こっちに干したら布団までが湿気てしまいそうだからだっ!」
 だが、悠人の怒りを無視して、健一郎は頬や首筋に幾度も口付ける。
「そういうことにしておこうか」
 などと、ふざけたことを言う健一郎を蹴り上げようとしたが、その足はしっかりと絡め取られていた。
 襟元から入ってきた手が鎖骨から肩をなぞっていく。触れられるたびにぞくぞくと肌が粟立って、思わず眉をひそめてしまう。
「いいな、その顔……」
 健一郎の熱い吐息が頬をくすぐる。
 何を言っているんだと、眇めた視線を送れば、健一郎は悠人の目尻に口づけを落としてきた。
「ん……」
 ざわめく体に堪えきれなくて零れる声。
 それがひどく甘く誘うようだったと慌てて息を飲むのと、下肢の付け根に触れられるのが同時だった。
「んくっ!」
 電流のような痺れに、息が詰まる。
 びくりと跳ねた体は、健一郎の体が押さえつけていて、もどかしいくらいにいうことを聞いてくれなかった。
「ったく……お前の一挙手一投足が俺を刺激してくれる」
 そんなつもりはなかった。
 ただ、悠人にしてみれば普通に振る舞っているだけだ。
 だが、言いたい文句は、食いしばった歯を緩めた途端に喘ぎ声に代わりかけ、慌ててまた食いしばるしかない。
 服の上からやんわりと揉みしだかれて、ぞくぞくと震える体が思考を邪魔する。
 そんな悠人の反応を楽しむように、健一郎はゆっくりと焦らすように手を動かしていた。
「くっ……」
 しばらくぶりの行為は、悠人の意志に反して簡単に体に火をつけた。
 こんなことをしに来た訳じゃない。
 どこか冷静な部分が訴えているというのに、大多数を占める部分が歓喜に震えている。触れられるたびにそこからとろけるような快感が脳までをも溶かしているようだった。
「冬眠し損ねた熊か……北沢さんも言ってくれるな……。逢うな、と言ったのはあの人だというのに……」
「え?」
「最近のやけに冷たいメールの返信が気になって……何度も行った……逢いたかったからな……。なのに、逢わせて貰えなかった。今は逢うな……って……総出でせき止められるんだ……。それを熊とはいってくれる……。だが、お前の部下は、もしかすると俺よりお前のことが判っているのかも知れない……」
 はだけられた胸元に健一郎の柔らかな唇を感じながら、聞こえた言葉に何もかも見越した北沢の影を感じた。
 やってくれる……。
 まるで狙ったかのように渡されたチョコレートは単なる飾りに過ぎなくて、冬眠を逃してエサにありつけずに飢えてしまった熊に差し出されたのは悠人自身だったのだと、今ならそれが判る。
「まるで全身で誘われているみたいだ」
 うっとりと歌うように囁かれ、背筋にずきんと激しい疼きが走る。
「……んん……っ……」
 粟立った肌にいくつもの朱色の痕跡が残り、それが少しずつ下肢の方へ向かっていた。ちりちりとした痛みを伝える鬱血の痕。それがいつもより熱くそこから犯されているようだと感じるのは気のせいではない。
 焦らされた体は、さらに焦らされていた健一郎の熱を貪欲に吸い取ろうとする。
「っああっ!」
 ぎゅっと敏感な部分を直接握られた。
 激しい刺激に、手近にあったものに縋ろうとする。
 力の加減をすることなく握った健一郎の腕に爪が鋭く立っていて、顰める健一郎の顔がぼんやりとした視界に入っている。
「……あっ……」
 緩めなければ、と思うのに、緩められない。
 開いていた瞼も次の瞬間にはきつく閉じられる。
 予測のつかない波のような快感が幾重にも襲ってきて、体が言うことを聞かなかった。
「うっ……あっ……」
 頑なになっていた悠人の心を唯一解放した健一郎に、悠人は逆らう術など持ちようがない。
 気がつけば、狂おしいまでに彼を欲していて、そんな自分が信じられなくて、拒絶してきた。
 なのに、そんな態度が健一郎の怒りを買うのではないかといつも怯えていて。
 だが健一郎は悠人の意に反して、いつも笑って迎えてくれるのだ。
 それが嬉しい。
 こんなにも傍若無人な相手だというのに、受け入れたいと思ってしまう。
 つまりはこれが好きだという感情なのだろうか?
 好きだから、許したいと思ってしまうのは。
 好きだから、嫌われたくないと思うのは。
 簡単に高められる体が信じられないと思う心は、これが健一郎だからだと、幾ばくかの諦めと多大なる悦びに一瞬にして封じ込められ、悠人は抗うことを完全に放棄していた。
 ただ、ただ、健一郎の手を感じたくて。
 その唇に触れていたくて。
 その腕で、熱く、きつく抱き締められたいと……願い……。
「んあぁ!」
 堰き止められなかった奔流に流されるように、悠人は健一郎の手の中に熱い精を吐きだしていた。


 初めて抱かれたのはいつの時だっただろう?
 朦朧とした意識がふと浮かんだ疑問の答えを求めて快感から逃れようと足掻く。だが、それも瞬時のことだ。
「いっ……やあっ……あぁぁぁっ!」
 完全に掠れてしまった声が薄明かりの室内に響く。
 最初の頃にあった痛みなどもう感じない。すっかりと馴染んだそこは解け合ったかのように絡みついている。
 もうずっと、そうであったかのように悠人は健一郎に抱き締められていた。
 はち切れんばかりの熱い塊に何度も穿かれる。
 もう意識が何度飛んだか判らない。
 力無く制止する言葉は、無視するかのように突き上げられて、艶やかな嬌声へと変わった。全身から噴き出す汗は、より肌の密着性を上げる。どちらのものともつかない体液が、ぬるりと密着した肌の間でぬめっていた。
 体は限界で、自分の力では指一本動かす気力がないというのに、快感を伴う痺れに全身が歓喜の波に震える。
 深く抉られるたびにきつく締め付けてしまって、その塊を露わに感じてしまう。
「もう……」
「まだ……欲しい……」
 その言葉に体が震える。
 悠人を幾度も抱き締めて口づけながら、悠人自身をたかめていく。
 もう無理だと思っているのに、それは呆気なく健一郎の手に反応した。
 悠人の性格を考慮しているのか、健一郎がこんな暴挙に出ることはそうそうなかったが、今日ばかりは我慢ができないようだった。 
 尽きることがないのではないかと思うほどの健一郎の欲が、体の奥深くを穿つ。
 もう何も考えられない。
 ただ快楽だけに飲み込まれ、悠人は完全になすがままだった。
 そして。
「ゆうと……」
 呟くように囁かれた自分の名に反応して……。



 寝返りを打つのもままならないくらいに酷く気怠い体が鬱陶しくて目が覚めた。
 どこか息苦しさすら感じて辺りを窺うと、健一郎の顔が間近にあって、息を飲む。
 疲れている。
 と、一目見て気付かされるほどに目の下の隈が濃い。
 洗濯ができなかったと言うことは、帰る時間がそれだけ遅かったということだ。
 それなのに……。
 同情した方がいいのだろうが、悠人の心の中は呆れる方が先に立っていた。
 それほど疲れているのなら、何故こんなにも自分を抱き続けたのか? 動きたい欲求に襲われているのに、動けない程の疲労。
 それは回された重い腕のせいだけではない。
 身動ぐだけできしむ体を持て余しつつも、悠人は歯を食いしばりながらベッドの上に身を起こした。
 はらりと毛布が落ちると、綺麗にはなっている裸体が日の光に照らされる。その全身には、明け方まで続いた情事の名残が目にも鮮やかに入ってきた。
「……ったく……」
 呟かずにはいられない愚痴は、それでもそれ以上言葉にはならなかった。
 そうされることを拒否できなかったのは判っているからだ。
 それでもゴミ箱の中で山となっいてるティッシュとゴムの残骸を見つけてしまうと、激しい羞恥心に顔を顰めてしまう。
 いつから抱かれることをすんなり許してしまえるようになったのだろう?
 それほど遠くない過去は、もう朧気ではっきりと思い出せなかった。
 悠人以外にも経験がある健一郎は、最初から巧みに悠人を煽って快感を引き出してくれた。
 だから怖い。
 いつかは飽きられて、離れていってしまうのではないかと。
 すっかり健一郎に馴染んでしまった体は、いつだって彼に抱かれることを望んでいるようだった。
 彼に依存してしまっているということが嫌で……嫌で堪らないと思うのに、でもこうして傍にいることは望んでしまう。
 求められたら、結局は許してしまう。
 今回のように激しいことはそうそうなかったが、もしかすると健一郎はずっとこうしたかったのかも知れない。
 そんなことになったら……体が壊れてしまいそうだ……。
 山となったゴミ箱から視線を外した悠人は、とにかくさっぱりしたくて這うように浴室へと向かった。 
 綺麗になっているとはいえ、どことなく汗くさいのが気になった。
 拭くだけでは取りきれなかった汚れもあるのだろう。
 わだかまった思いも何もかも、すべて洗い流したかったから、全身を隈無く洗って、さっぱりさせた。
 鏡に映る体はあえて目を向けないようにしていた。洗うために見下ろした途端に入ってくる痕跡だけで、いい加減赤面物なのだ。
 これをつけた当人は、未だ惰眠を貪っているのだろう。
 もともと疲れていたというのに、体力の限界に挑むような抱き方をした健一郎は、まだまだ目が覚めることはない。
 帰さない……と言った言葉が耳にこびりついている。
 その途端に感じた躰の芯から悦びも覚えている。
 今や自分にとって安らげる場所は健一郎の元だけなのだと気付いてはいたけれど、それを考えないようにしていた。
 これ以上溺れたくないと思っていたから。
 だが。
 悠人は大きく息を吐くと、シャワーを止めた。
 鳴り響いていた水音が消え、静寂が訪れる。
 その中で悠人は見ないようにしていた鏡の中の自分を見遣った。
 その口元がきゅっと歪む。
 今自分が何をしたいのか?
 それを思うと自然に苦笑いが浮かんでしまう。
 悠人は今戻りたかった。
 綺麗にして、もう一度ベッドに潜り込みたい。
 あの温もりを味わいたい……と。




 一つのベッドで抱き合うように寝倒した二人。
 宵闇も迫る頃になってようやく起き出した二人を襲ったのは、すさまじい空腹感だった。
 ところが、買い物もろくに行かずに外食を続けた健一郎の冷蔵庫には何もない。
 劣悪な食環境に、仕方がないと手を伸ばしたのは”あの”チョコレート。とりあえず食べてから、買い出しに行こうとしたのだったが。
 きらきらと煌めく包装紙を外して箱を開けた途端、健一郎の手が止まった。
「へえ……」
 随分と嬉しそうな呟きに、半ば乾いていた邪魔な洗濯物を取っていた悠人がふっとその手元を見下ろして。
 ぴきっと全身が強張った。
 それは何の変哲もないプレート状のチョコレートだった。この時期のおきまりの文句がホワイトチョコで描かれているというだけの。
 だが。
「嬉しいなあ……こんなにも愛されてるなん……っ痛!!」
 何を言いたいのか判った途端に手が出ていた。
 ひりひりする拳を翻して、テーブル上のチョコレートを取ろうとした悠人の手は、すんでの所で空を切る。
「何するんだ、お前はっ!」
「返せっ!」
 耳の後まで赤くなっているだろうと自覚できるくらいに顔が熱い。
「何でだ?お前がくれたんだぞ?」
「それは、北沢さん達から!」
 わなわなと震える口元が言葉を紡ぎ出す。
「でもどう見たってこれはお前からだろ?」
 わざわざ見せびらかすようにチョコレートを悠人の前にかざす。
「違うっ!」
 取り上げようとした手は、再び掴み損ねてしまった。
 それどころか、バランスを崩した体が床に崩れる寸前、健一郎に抱き締められてしまう。
「俺も愛しているよ」
 口付けられた耳元で囁かれては、悠人も力無くしがみつくしかなかった。
「さすが悠人の部下ができるだけのことはあるなあ」
「どういう意味だっ!!」
「そのまんまさ」
「煩いっ!!」
「ああ、ほらお前も食べろよ」
 喚く悠人の口を塞ぐかのような口づけは、たっぷり甘いチョコレート味だった。


『Kenichiro I Love You!! Yuto』

【了】