ふと左手首の時計に視線をやる。
明石悠人の、男にしては幾分細い腕に巻かれた時計が、あと5分で就業時間が終わることを示していた。。
別に時計を見なくても、課の女性達がそわそわと落ち着かなくなるからおおよその時刻の見当はつくのだが、なんとなく視線が時計を探してしまった。
その理由に思い当たる節がある悠人は、それを見てしまったことを後悔するかのように眉をひそめ、手元の書類に視線を戻した。
仕事が終わっていないのに、何が終業時間だ……。
心の中でごちると、それを振り切るかのように持っていた書類に目を通す。
数日後に行われる会議の資料であるそれは、今目を通した限りでは満足のできるものだった。
それの確認がすめば、さしあたって急ぎの仕事はない。
だが、悠人は急ぎでない他の書類にも手をつけ始めた。
端末に向かい、フォルダを開いてメールに添付する書類を探す。
それは、急ぎではない。
だが、気が付けばそうやって急ぎでない仕事を終業間際にやっている。
特に最近それが顕著だ。
そして、その理由も実は判っていた。
時間がきて、用事のない社員達が帰っていく。
それに挨拶を返しながら、悠人は端末を操作していた。
といっても、たいしてすることもないそれは、結局手が止まってしまってディスプレイを所在なげに見つめるだけになる。
結局、ちょうど手が空く時期でもあることから終業から1時間もすれば残っているのは悠人だけになってしまった。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
それでなくても不景気の折り、用がなければさっさと帰れと言われている。
用はつくればあるのだが、そこまで切羽詰まっていないのも実状だ。
悠人は、普段滅多につかないため息をつくと、諦めるかのように机を片付け始めた。
帰りたくない訳ではない。
実をいうと、悠人は待ち合わせの約束をしていたのだ。
その時間までに帰れるようであれば逢おう、という。
それに……悠人はできれば間に合わないようにしようと…した。
相手と逢いたくないわけではない。
相手から待ち合わせの連絡が入るたびにどきりと心臓が高鳴り、メールを確認する手が汗ばむ。
その文面で時間や場所を確認するたびに、いつも硬い表情がふっとわずかに緩む。
だが、その時間が近づくと、妙な恥ずかしさと期待している自分に対する戸惑いが、悠人を躊躇わせる。
行きたいと思う心と、行きたくないと思う心がせめぎ合い、精神がひどく疲れるのだ。
その結果、いつもいきたくないと思う心が勝ってしまう。
逢いたいのに……逢いたくない。
それでも……。
今日くらいは逢わないと駄目だろう……。
ここのところ、そうやってずっと約束を反故にしていた。
そのせいか、ここのところ煩雑にメールが入る。
『今日も駄目なのか?』
そんな簡単な文面に、心が痛む。
嘘なのだ。嘘なのに……。
『いけない』
そう打つ手がいつも震える。
本当は行きたいのに、行く勇気が出ない。
逢いたいのに逢う勇気が出ない。
それも限界だ。
たまには、行くのもいいかも知れない。
悠人は鞄を持つと、誰もいなくなっていた事務所の電気を消した。
待ち合わせの場所で、遠目に見ても相手がいるのが判った。
その姿が時計を見つつ、周りに視線を巡らしている。
そう遠くないうちに彼は自分を見つめるだろう。
もし、見つけなければそのまま帰ってしまえばいい。
だが。
「悠人っ!」
見つけられた……。
ほおっと息を吐く。
それは幾分安堵の色を含んでいた。
見つけなくてもいいのに……。
見つけてくれて安堵しているのに、なぜか心は違うことを考える。
このまま黙っていってしまおうか……と。
だが。
「今日は、来れたんだな」
無視しようとした悠人の手を痛いぐらいに掴んで引き寄せる相手に、悠人はようやく視線を向けた。
「今日はな……」
目前に喜色溢れた表情で悠人を見つめる相手、増山健一郎は、悠人が無視しようとしていたことに気付いている筈だ。
だが、そんなことは関係ないとばかりに駅に向かう人混みから悠人を引っ張り出す。
少しだけ悠人より背が高い。
はっきりした男らしい顔立ちのそれは、悠人にしてみれば羨ましいくらいだ。
その健一郎が、今日の…いやここのところずっと待ち合わせをしていた相手だった。
「ここのところずっと駄目だったから、今日もどうかなっと思っていたけどな。駄目だっていうメールが来ないから、期待して待っていた」
可笑しそうに笑みを浮かべ、悠人の顔を覗き込む。
「今日は来てくれたんだな」
ふっと優しげに和らぐその表情に、捕らわれそうになって、悠人は慌てて首を振った。
「今日はたまたま暇だっただけだ」
そっぽを向いて、言い放つ。
その視線の先には流れるように一方向に向かう人の群。
あのままあの流れに乗って帰りたい欲求もある。
だが。
「さてと、今日は何が食べたい?」
とんと背中を叩かれ促されるように歩く頃には、悠人はそれでも帰ることなどできない自分に気付くのだ。
こうして、健一郎と食事にいくのは嫌いではないと思う。
いや……望んでいるのだ。
今まで、ずっと一人で何もかもこなしていたから、一人でいるのがあたり前のようになっていた。
女性っぽい目鼻立ちのせいで、小さい頃から嫌な思いを繰り返していた悠人は、気が付いたらそんな邪な連中をはね除ける程度には強くなっていた。
そのせいだろうか?
気が付いたら、他人と……とくに男性相手の友人と呼べるような相手ができなかったが、それはそれで不自由などと考えることはなかった。
そこに健一郎が割り込んできたのだ。
煩いくらいにつきまとい、邪険に扱っても諦めようとしない。
たくみに悠人の課の女性達を引き込んで味方に付けている。
その手腕に呆れつつも、興味をひかれた。
それでもその手に落ちるつもりはなかったのだが……。
いつからだろう。
ふと気が付けば、彼のことを考えている自分に気が付いたのは?
彼の一挙一動が気になってきたのはいつのことだったろう?
彼が誰かと話をしているのを遠く眺めるとき、胸に僅かな痛みが走るようになったのは……。
まずい……と思った。
このままでは彼のペースに巻き込まれる。
その危機感があったというのに、気が付けばやっぱり彼のペースに巻き込まれ……。
決定的だったのは……やはりキスされたからだろう。
必死で抵抗しつつも、それでも離された瞬間嫌だとは思ったから……。
もう、止められなかった……。
弟の部屋を出たとき、あのまま逃げ帰ることができたなら良かった、と今でも思う。
あそこで捕まって、彼の車に乗らなければ……。
自分の気持ちに気付かれることなく……自分から曝露することもなく……。
そうすれば……。
「どうした?」
声をかけられはっと我に返る。
気が付けば、道ばたでぼーっと立ち止まっていた。
先に進んでいた健一郎が気が付いて、戻ってきたらしい。
心配そうに覗き込まれ、首を振った。
いらぬ事を考えていたことを気付かれたくなくて、眉間のシワを深めふいっとそっぽを向く。
「何でもない。それよりどこまでいくつもりだ?」
「う?ん、日本料理の気分なんでその先の店に行こうと思うんだが。悠人、魚料理好きだろ。そこのは旨いんだ」
「そうか」
そう言われて、健一郎が悠人の好みを知っているということにひどく心が喜んでいるというのに。どうしてこんなそっけない返事しかできないんだろう。
その自分の心のギャップが悠人を苦しめる。
「今日は、契約が成立したんだ。だから奢るよ」
「増山さんの奢りか。じゃあ、良いモノが食べられそうだな」
こんなに愛想のない自分。
どうして素直におめでとうと言えないんだ?
こんなふうに思い出したのは、先日弟の部屋に行った時からだった。
健一郎が同じ課の女性と話をしていたからだというだけで、むしゃくしゃして弟に当たりにいって……情けないとは思ったが、何かあるといつも弟の所に向かってしまうのはくせのようなものだった。
だがそこで、愛想のいい弟が健一郎に楽しそうに接するのを見て……自分と比較してしまった。
なんで俺はこんなにも愛想が悪いんだろう。
嬉しいことを嬉しいと……いえない。
いつだって、文句ばかり言って素直に接することができない。
それに気付いて……逢うことが苦しくなった。
その内、むこうから愛想をつかれそうだ……そう思ってしまったから。
いや、それでもいいかもな。
そうしたら、いちいちこんなことで悩むことがなくなるから……。
そんな事を考えるたびに胸の奥が熱くなって、きりりと心臓が掴まれたような痛みを感じるというのに、それでも考えてしまう。
もし愛想をつかれたら、自分がどんなにショックを受けるのか……たぶん判っている。
それなのに、それを期待する自分がいる。
どうして、こんなに二つの相反する心が自分の中にあるのか?
なんでこんなにもそれで心で苦しまなければならないのか?
それが判らない……から。
健一郎が薦めるだけあってそこの食事は旨かった。
営業用に情報を集めているのであろうか、健一郎が連れて行ってくれる場所に外れはない。
それに健一郎は悠人以上に悠人の好みを把握しているようだ。
「それで、明日映画に行かないか?ほら、例の」
店を出た後、駅に向かって歩きながら健一郎が口にしたタイトルは悠人でもよく知っているもの。
「明日、10時に迎えに行くよ」
こちらの返事を聞く前に段取りを決める。
悠人は一瞬逡巡したが、結局頷いた。
「……ああ」
行かない理由が思いつかなかった。
行きたいとも思った。
食事をした後で、リラックスしているせいなのか……。
だが、それを聞いた健一郎がひどく嬉しそうに顔を綻ばせた。
「良かった」
それを眩しげに見つめる。
どうしてそんなに喜ぶんだろう?
俺なんかと一緒にいくだけなのに。でもまあ、喜んでくれるのは嬉しい。
自然、自分の顔がほころぶ。
だけど、次の瞬間にはそんな自分が変だと思って慌ててその笑みを消す。
恥ずかしいじゃないか。
悠人はふいっとそっぽを向いた。
「もう帰る」
気が付けばいつものように素っ気ない言い方。
「ああ、そうだな」
そして健一郎はいつだって無理強いはしない。
悠人が望むようにしてくれる。
でも……本当は帰りたくない。まだこの時間が続けばいいと思っているのに……。
足は駅へと向かう。
「明日、楽しみにしているから……きてくれよ」
「え?」
思わず立ち止まり健一郎を見やった。
そうせざるを得ない雰囲気だった。
その口調に込められた雰囲気が、悠人を健一郎に向けさせた。
「俺……嫌われるようなことしたか?」
振り向かせるほどの真剣さはすでに消えていて、苦笑が健一郎の言葉に宿る。
その意味に気付かないほど、ぼんくらではない。
悠人は、びくりと躰を震わせると慌てて視線を外した。
「何で?」
何のことか判らないと、肩をすくめる。
「ば?か。気付かないとでも思っているのか?」
からかうように言っているのに、その視線はまっすぐに悠人を見ている。
悠人は答えようとして口を開き……結局、そのまま閉ざした。
営業をしているせいか、健一郎は人の機微に聡い。
ばれていたのだ。
わざと残業して、わざと断り続けていたことに。
悠人は、それでも健一郎の言葉を無視した。
今更……ばれていたからと言って何を言えばいいのか……。
「言わないつもりか……ったく、そのつもりなら、今度からはもう少し巧い言い訳を考えろよ。お前の仕事の状態なんか、お前の課の人たちが教えてくれる。そんなに忙しいわけではないのに、俺が誘った日に限って遅く帰るらしいな。どうしてだ?そんなに俺と逢うのがいやか?」
その言葉に内心ため息をつく。
そうだった。
こいつは、すっかりとうちの課の連中を手懐けているんだった。
「……あの日からだったよな。弟たちの部屋にお前が不機嫌丸出しで押し掛けた日。もう2週間か……。今日は、あれ以来だ」
もう……2週間も経っていたのか。
「気のせいだ。やりたいことがあったから、仕事をしていただけだ」
そうだ、と言ったら……こいつはどうするのだろう……。
悠人はちらりと健一郎を見やると、再び視線を足下に向けた。
交互に動く足。
こんな話をしていても止まることはない。それどころか早くなっている。
悠人は早く駅に着くことを願っていた。
そうすれば、こんな会話は終わらせる。
が。
「そうだな……あの日にあのまま別れたから……キスしかしていない。しかもそれすら、もう2週間していないのか……」
いきなり聞こえたその台詞。その意味にかああっと躰が熱くなった。
「き、さま……」
こんな往来で……。
制止しようとした呼びかけた言葉は、健一郎の顔を見たとたん飲み込んだ息とともに立ち消えた。
「お前は……いつもそうやって自分の中にすべてを取り込んで、自分だけでどつぼにはまる」
ひどく真剣な瞳をした健一郎の手が悠人の腕を掴む。
その手がひどく熱く、そして力強い。
痛みに顔をしかめた悠人を無視して、健一郎が引っ張る。
今まで歩いていた駅に向かう道から外れる。
あと僅かで駅の構内に入るところだった。
そちらに視線を向け、そして再度健一郎を見据える。
「どこにいくつもりだ」
冷静にいったつもりだった。だが、その声がかすかに震えている。
「二人だけになれるところさ」
揶揄するように口の端をあげて健一郎が言う。
それにどくんと心臓が跳ねた。
その意味がわからないほどウブではなかった。
握られた所から伝わるのは熱い熱だけではない。
かああっと顔を赤くした悠人を、健一郎はちょうど空車だったタクシーへと押し込んだ。
真っ赤になっているであろう顔を運転手に晒したくなくてそればかりに気をとられている間に、健一郎がどこか行き先を告げる。
そして、すぐさま携帯でどこかに電話をしだした。
「増山ともうします。急なんですけれど、部屋を一つ。ええ……ツインは?……いえ、かまいません。それではお願いします」
短いやりとりで携帯を切る頃、タクシーは大通りに出て快調に飛ばし始めた。
「ま、すやま…さん?」
電話の内容の想像はつく。
しかし……本気か?
「やっぱり…理由は聞きたいからな」
健一郎の手が悠人の手をぎゅっと掴んだ。
驚いて目を見張り、慌てて振り払おうとして……ここがタクシーの中だということを思い出す。
ちらりと見やった運転手は、運転に専念しているようだったが、こんなところで喧嘩などすれば何事かと様子を窺うだろう。
それは嫌だから……結局、悠人はその手を振り払えなかった。
逃げられない……。
握られた手は決して悠人を逃がさないだろう。
そんな決意がその手から伝わってきた。
1時間ほど乗ったタクシーを降り、ホテルに入ると健一郎は悠人をロビーに残してフロントに手続きに行った。
その後ろ姿を見送り、ふと入ってきたばかりの玄関に視線を移す。
ちょうど出張者がつく時間なのか、先ほどからスーツ姿の何人かが通り過ぎ、フロントへ向かっている。
ビジネスホテルよりは少し格のいいホテル。
チェーン展開しているホテルで会社もここと契約している。
だから、健一郎の突然の電話でも簡単に部屋が取れたのだろう。
再度、健一郎の姿を探すと、まだ手続きに手間取っているようだった。
このまま、帰ってしまえば……。
ふとそんな考えが脳裏に浮かぶ。
逢わなかった理由を聞きたいと言う。
言いたくない……そんなことは……。
もし言ってしまえば、健一郎はどうとるだろう?
そんなこと、恥ずかしく言える物じゃない。
帰る……か。
そんな考えが、頭の中でどんどん大きくなる。
足を動かして、ホテルを出てタクシーを捕まえて……。
「お待たせ」
結局足は動かなかった。
その言葉に俯く自分がいる。
どうして帰りたくないのに、帰ろうなんて思ってしまうのか?
もしここで帰れば、健一郎との仲が終わってしまいそうでそれがたまらなく嫌だと思っている。だから、足は動かなかった。
促され、歩く。
食いしばり堪えるような表情の悠人に、健一郎は声をかけようとして止めている。
もし今何か言われたら……。
きっと心と反対のことを言ってしまう。
また……言ってしまう。
『もう帰る』
その言葉を言ってしまいそうだ。
「で、聞こうか」
スーツの上着をソファの背に放り投げ、冷蔵庫からビールを取り出した健一郎はどさりとベッドに腰を下ろした。
セミダブルサイズのベッドが二つ。
部屋も広め。
「話を聞くだけにしては、豪勢な部屋だな」
言いたくないから違うことを呟く。
「空いていなかったんだよ。で……ここまできて誤魔化すつもりか?これでも俺は結構怒っているんだ」
吐き出される言葉が少しずつ怒りを増していることくらい悠人は気付いていた。
このまま、愛想つかれて……終わりになれば……。
嫌だと叫ぶ自分と、もうこれで終わりにしようと叫ぶ自分がいる。
ここで、なんと言えばいいんだ?
もういい加減、健一郎のことで振り回されるのはまっぴらだ。
そう言えば、それで終われるのか?
「悠人っ!」
苛々と健一郎が叫ぶ。そのいつもの余裕ぶっている姿からは想像できない姿に、悠人は苦笑を浮かべた。
「別に……なんでもないさ」
視線をあわせずにそう言うと、悠人は自分もビールを取り出す。
素面でいられる雰囲気ではなかった。
一気にビールを空ける。勢いよく飲んだせいで伝った顎のビールを袖でぬぐう。冷えたビールが火照った躰を冷やしてくれてどこか爽快さをもたらした。
缶を握った手に力を込めると、あっけなく缶がつぶれた。
ぐしゃりとしたつぶれる感触が苛々としている悠人の心をそちらに向けさせる。手の中にあるつぶれた缶に気をとられることで、今の現実を忘れようとした。
もっと飲めば……。
もっと飲んで何もかも忘れるくらいに飲めば……素直になれるのだろうか?
ぺこりとへこんだ缶は自分の歪んだ心のようだ。
悠人は空になった缶をテーブルに放り出し、新たなビールを冷蔵庫から取り出そうとした。
とたん、その手首を捕まれる。
力強い手のひらが手首を包み、ぐいっと引っ張り上げる。屈み込んでいた躰が伸ばされた。
呆然と顔を上げた至近距離に健一郎の顔があった。
その表情がひどく硬い。何かを決意したかのような視線を浴び、悠人はぴくりと躰を震わせた。
「ます……っ!」
規制しようと呼びかけたところで、掴んだままの手首をぐいっと引き寄せられ、その勢いのまま乱暴に唇を合わせられる。
慌てて突っ張ろうとした腕ごともう一方の手できつく抱きしめられた。
「…んっ!」
それでも必死で身動ごうとした途端、バランスを失った躰が背中からベッドに倒れこんだ。
柔らかいベッドの上とは言え、上からのしかかられた健一郎の重さに一瞬息が詰まる。
だが、健一郎はそれでも悠人を離さなかった。
「んくっ」
顔を背けることすら許してくれないほど強く押さえつけられ、躰の上に乗った重さが、動くことを拒絶する。
いや…だ!
何が?
暴れながら、それでも触れられた唇の感触が嫌ではないと思っている自分にも気付いている。
2週間ぶりのそれは決して忘れることのなかった感触だった。
弟の部屋で、自ら受けいれた時の心は……あれは本気だった。
本気で欲しいと思ったのだから……。
たったこれだけの行為が、なかなかできない自分たち。
「んんっ!」
何とか顔を横に向け振り払うことに成功した悠人は、堅く目を瞑り歯を食いしばっていた。
それは、拒絶するためではなかった。
判らない……自分はどうしたいんだ?
この部屋に入ったときから、そうなるのは想像がついていた。それでも帰ることはしなかった。なのに……。
結局、決心がつかないのだ。
健一郎を再び受けて入れてしまうことが怖い。
それでなくても弱くなっている自分が、またあの感覚を味わうことで、もっと弱くなるような気がした。それは、今まで培ってきた経験を根底から覆すモノだから……。
だが、そう思っているのが理性だけなのだということも判っている。
本心は……欲しい……と。
躰が求めている。
酒のせいだけではないじんわりとした熱さが、躰を支配している。
キスがそれをさらに煽ったのだから。
と。
躰の上にあった重さとぬくもりが消え、その隙間に入った空気がひんやりとした冷たさを与える。
え?
ふっと離れたそのぬくもりに、慌てて閉じていた瞼を開ける。
視界に入った健一郎の顔にそちらを向くと、目前に熱に潤んだ健一郎の瞳があった。
とたんにずきりと全身を襲う疼きに、顔をしかめる。
「悠人……」
欲情に支配され掠れた声に耳から犯され、悠人は顔を背けることで拒絶しようとした。
だが、意志に反して躰が動かない。
まわされていた手が抜かれ、悠人の顔の両側にその手がつかれている。
「嫌か?」
「……」
その問いに答えられない。
ここで嫌だと言えば……健一郎はしないだろう。
だが……。
いつの間にか、触れられるのが嫌ではなくなっていた。
健一郎が遠慮して、よほどのことがない限り、触れないようにしてくれるのは知っていた。
そう仕向けたのは他ならぬ自分自身なのだから。だが、それなのに自ら触れて欲しいと思う時さえある。キス……して欲しいと…思うことがある。
なのに……言えない。
なのに、拒絶する。今だって……。
それが辛い。何もかもが……辛い。
目の奥がじんわりと熱くなり、堰を切ったようにあふれ出す涙。
「悠人……嫌じゃないんだろ?」
「……っ!ち、がっ……」
健一郎の指が、涙の流れた後を辿る。
「嫌じゃないんだよ、お前は」
「いや、だ……だいたい貴様は……乱暴だ……」
違う……。そんな事を言いたいのではない。なのに……。
「どうして、俺の意志を、無視する?」
違うっ!自分を無視しているのはいつも俺だ。
「……お前は、少し強引にしないと駄目なんじゃないかって気がしてきたからだ……」
僅かに口の端を上げ、苦笑混じりでいうその言葉に、悠人は目を見張った。
「なぜ?」
「すぐ考え込むだろ。一体何を考えて……そして俺を避ける?弟たちの部屋で、嫉妬に襲われた事を話したお前が、なぜ急に俺を避けだしたのか?結局、悠人は、自分の気持ちについていけていなんだって気がついた」
それは……。
「俺が好きなんだろ。それは……はっきりしているよな。女の子に嫉妬して、俺のキスに答えたお前はひどく積極的でこちらが煽られたくらいだ。それほどお前は俺が好きなんだ……」
そう言いながら、健一郎は触れるだけのキスを優しく唇に落とす。
そんな優しいキスに脳髄まで痺れるような感覚に襲われ、掴んでいた健一郎の腕をぎゅっと握りしめた。
「なあ……お前の躰は正直だぞ。俺に触れられたいと、全身で言っている」
恥ずかしいことを言われて、悠人は慌てて首を振った。
「そんな事、ないっ!」
その声すらも震えているというのに、否定する自分が滑稽だとすら思える。
「さっきの無理矢理のキスでも、お前の躰は反応している。泣きたいほど嬉しいって反応しているのに、それなのに嫌だという。拒絶しようと暴れる。その力が弱いって事に気付いているか?躰は正直だよな。お前の本当の心を俺に教えてくれる。こうやって触れあっているととにかくよく判るんだ」
「そんな……こと、あるもんか」
羞恥心に襲われて顔が火を噴きそうな程熱い。
「ば?か、判るって。それでも否定するんだ?でも、そんな素直じゃないお前……それが悠人、お前なんだよな。ずっと最初に逢ったときからこんな感じだったよな」
えっ……
その言葉に驚いて目を見開くと、健一郎がくすりと笑みを漏らしていた。
「ずっと気付かないとでも思っていたのか?ずいぶんと天の邪鬼なお前の性格。お前な……嫌だ、止めろって素っ気ない返事をした後に、いつも眉をひそめるんだよ。こんな事を言いたいんじゃないのにって感じで。いつもだ。今日だってそうだ。お前、通り過ぎようとしただろ。なのに、俺が声をかけるとほっとしたようにほんと少しだけ顔を綻ばしたんだ。それに映画に行くと素直に答えたあのときだって、ほっとしたような笑みを浮かべたんだよ。それを見たから、今日はここに連れてきた」
気付いていた?
健一郎は自分のほんとの気持ちに気付いて……こんな……愛想のない素っ気ない返事の中から?
「増山さん……」
呆然と呟くその唇に、増山の自分よりは太い人差し指が触れる。
「いろいろと教え込んでやる。お前は嫌がるかも知れないが……それでお前がもっと楽にすごせるようになるまでな」
「何を?」
不審感が増して眉をひそめた悠人に、健一郎は可笑しそうに笑いかける。
「いい加減、悠人に名字で呼ばれるのは嫌だ。健一郎……まずはそう言うんだ。それからだな」
健一郎……。
弟の雅人が、そう呼ぶたびに自分は嫉妬していた。
自分が呼べない名を、弟があんなにも気軽に呼ぶ。
それが……今回の始まりだった。
この人は……そんなところまできづくのか……。
細められた目に涙が溢れる。
歪んではっきりとしない視界の先で健一郎が嗤ったような気がした。
「ほら、言ってごらん、俺の名、健一郎って」
子供に言い聞かせるように言われて、ムッとする。
「怒るなよ、言うだけだろ」
間髪入れずに言われて、怒りの言葉は口の中に消えた。
健一郎……もうずっと心の中だけでは呼んでいた。
ただ……言葉にするのはひどく難しかった……。
「健一郎だ」
その言葉に誘われるようにおずおずと口を開いたが結局その口は閉じられた。
息を飲んで視線を逸らす。
「悠人、そんなことも言えないのか?」
揶揄する言葉に視線を戻し、気がついたら再び口を開いていた。
「けん…いちろ……」
伸ばした指の先に健一郎の顔がある。
その顔が満面の笑みを浮かべる。
「やっと呼んでくれた」
その顔が近づいて、唇が重ねられた。
言ってしまうとほっと心が楽になった。
伸ばした腕を健一郎の頭に回す。
お互いにきつく重ねられた唇がよりいっそう深く交わろうと、向きを変えて何度も重ねられる。
「好きだ……」
唇が離れた途端に、そんな言葉がふっと口について出た。
悠人が自分のその素直な言葉に驚いて目を見開くと、健一郎が喉の奥でくくっと笑う。
「俺もだよ」
そう言いながら……健一郎が笑う。
ずいぶんと嬉しそうだな。
そんな事をふと思ったが、悠人は再び降ってきたキスに心を捕らわれていた。
名前を呼んだときから、心を縛っていた何かが外れたのかも知れない。
だがそんな思いも迫りくる愉悦に飛んでいく。
「んっ…あっ」
息苦しくて開いた口に、健一郎の舌が滑り込んできた。
それを迎え、自ら絡める。
「ん……ふ……っ」
健一郎の舌が口内をまさぐるだけで感じてしまうこの躰。
びくびくと震える躰を、健一郎が抱きしめてくれる。
どうして……
こんなにも健一郎の腕の中は心地よいのだろう……。
「あっ……」
ふと気がつくと、ワイシャツのボタンが外され手が素肌に触れてきていた。
その手がゆっくりと肌の上を上下する。
「あ、もう……やめっ……」
さすがに恥ずかしくなって、その手を止めさせようとしたが、健一郎は至近距離でにやりと笑うと、そのまま胸元に顔を埋めた。
「んくっ」
とたんにぴりりとした痛みとともに全身に広がる疼きに晒され、躰が跳ねる。
「な…に?」
だがその問いの代わりのように、もう一方のほうからの刺激に晒される。
「んあ……」
どう足掻いても、これは途中で止めてくれそうにない。
それでも……いいか……
悠人は、涙で潤んだままの瞳を健一郎の頭へと向けた。
手を伸ばし、その黒々とした髪に指を梳き入れる。
そっと動かすと、意外にさらりとした髪が指の間を流れていく。その指に触れる髪の肌触りすらもくすぐったく官能の色を高めてくる。
「ふう……ん……」
その間にも、絶え間なく襲ってくる快楽に手が止まりそうになる。
それでもなんとか手を動かした。
あの日、悠人にとって性行為は怒濤のように流されたあの日しか知らない。
気がついたら、流されて……終わっていた。
だから自分が何をすればいいか判らない。
だけど……。
無意識の内に手が動く。
悠人の肌に吸い付いている健一郎の頭から頬に向けてゆっくりと指を辿らせる。
「悠人……」
肌の上で喋られて、その吐息がくすぐったく悠人は身動いだ。
「くすぐったい?」
「ああ……もう、いい加減にしろ……」
あ……まただ……。
どうしてこう否定の言葉が口をついてでてくるのか。
そう思い顔をしかめていると、健一郎が顔を上げ、悠人を見つめていた。
その頬に触れたままの指をそっと動かす。
尖った顎に向かい、そして……唾液に濡れた唇に触れる。
それが開いて、言葉を紡ぎ出す。
「お前の嫌だは……良いって解釈するからな、今度からは」
くすりと笑うその口元を見つめながら、悠人は熱のこもった息と共に言葉を吐き出す。
「じゃあ……今度からは嫌なときにはどうしたらいいんだ?貴様は……強引だから……」
「嫌だなんて思わせないさ。嫌だと思っても、最後にはそれで良かったって思わせてやる」
「そんな……んっ」
健一郎の手が、悠人の股間に触れていた。
そこは服の上からでもはっきりと判るほど形を変えている。
それに気づき羞恥の色で全身を染めている悠人の頬に、健一郎は口付けた。
「俺といることが楽しいことなんだって、いつだって思えるようにしてやるよ。天の邪鬼な悠人がそれで悩むことのないように」
「ばっ……か…………っ!もっ、やめっ!」
だが、拒絶の言葉は健一郎の耳を通り過ぎて宙へと消えていく。
それにほっとしていることに悠人は気付いた。
気付いて……ひどく安堵する。
ほんとうは、やめてほしいなんて思っていないのだから……。
触れて欲しくて……もう、堪らない。
そして、きっと健一郎は何を言って否定しても答えてくれるだろう。
それに気付いたとき、悠人の沈んでいた心は、解放されたかのように軽くなった。
「けんいちろ……」
呼びかけると、顔が持ち上がり悠人に向かって笑いかける。
「何だ?」
それに口ごもり視線を逸らすと、何が可笑しいのか健一郎はくつくつと笑っている。
「笑うなっ」
語気を強めると、「ああ」と言ってそれでも止まらない笑いに苦労しているようだ。
「す、すまない」
悪いとは思っているのか、必死で堪えようとはしているらしいが、何がツボにはまったのかなかなか笑いが止まらないようだ。
何より、この姿勢で笑われるのは悠人にも辛いモノがある。
躰の中に健一郎に深く入り込まれているのだから。
笑いに震えているせいで、躰の中のモノまで小刻みに震える。
体内からぞわぞわと刺激が込みあげて、怒る気力が萎えていく。
「……はあ……」
入ったばかりのそこは、まだ受け入れるのにきついばかりでいくら解したからと言ってもそれなりの痛みがあった。
その痛みを逃すために、じっとしているというのに健一郎が動くせいで痛み以外の妙な感じが湧いてくる。
それを息を吐いて逃した。
「お前……さ、そうやって照れていると可愛いんだよな」
ようやく笑いを収めた健一郎が言った言葉はそれで、悠人はきっと睨み付ける。
「何が可愛いだっ!」
「可愛いさ、何もかも」
「なっ……ぐっ」
抗議の声は、いきなり動かれたことで息と共に飲み込まれた。
「い、いきなり、動くなっ」
「動きたいから動くんだよ」
「だっ…あぁ……」
悔しいくらいに手慣れた健一郎は、すぐに悠人の感じる場所を見つけてそこを突き上げる。
「ん、あっ」
「きついな、悠人の中は……それに熱い……」
触れあった部分が汗でしっとりと濡れている。それがさらに肌と肌の密着度を上げる。
健一郎が大きく息を吐くと、その熱い熱が胸をくすぐっていく。
突き上げられるたびに意識すらもどこかへ飛んでいく。
ただ、背筋を走って頭の中まで駆けめぐる快感に、考えることなどできない。
それが余計に愉悦を増してくる。
考えなくていい。
それだけで、快感を何倍にも増してくれる。
「…もっと……」
その口からついて出た言葉は無意識だった。
もっと何も考えさせないで欲しい……だから、もっとこの快感が欲しい……。
「けっ…いちろ……っ!」
「ゆうとっ!」
健一郎のモノが悠人の躰の中で、悠人のモノが健一郎の手の中で、確実に硬く大きくなっていく。
総毛立ち、背筋を駆け上がる快感にどこかに飛んでしまいそうな躰を繋ぎ止めたくて、必死で健一郎にしがみつく。
そして、名を呼ぶ。
「けんい……ろっ」
ぱああっと頭の中が白くなり、躰が小刻みに震える。
力の入った躰が、当然のように健一郎のモノを締め付けた途端、健一郎の躰が大きく震えた。
体内に感じる熱い迸りに、虚ろな視線を悠人は動かした。その先には力無く弛緩して悠人の横に躰を投げ出している健一郎の横顔があった。
全力疾走の後のように大きく息をし、その額はしっとり汗ばんでいる。
その汗の匂いに悠人は誘われるように指を伸ばした。
頬に触れたとたん健一郎が視線だけを悠人に向ける。
その目の優しさに誘われるように指を動かした。
「吹っ切れたみたいだな」
布団に吸収されくぐもって聞こえるそれに、「何?」と首を傾げる。
「眉間の皺が消えている」
言葉と共に健一郎の手が伸びて、悠人の額に触れた。
躰を捻って俯せだった躰を悠人の方に向ける。途端に、熱い塊がずるりと抜けた感触に悠人は大きく身震いをした。
足を伸ばすと、それに健一郎がすかさず自分の足を絡めてきた。まだ硬いそこがぐいっと押し付けられ、悠人は顔を赤らめた。
「ばかやろ」
罵る言葉が弱い上に、重ねられた唇の中に吸い込まれてしまう。
その手の動きに、健一郎がまだ満足していないことに気付いてたから、悠人は避けさせようとした手を健一郎の背にまわすことしかできなかった。
「おはよう」
目が覚めていきなり声をかけられた悠人は、しばらくぼおっとすぐ目の前の人物を眺めていた。
自分と同じベッドで横になっている相手。
「おい」
あまりに見つめていたせいで、相手が苦笑を浮かべる。
途端に、自分の状況を思い出した。
昨夜、三度もイカされ、挙げ句の果てに躰を洗いに連れて行かれた浴室でも喘がされた。
自分が曝した痴態をまざまざと思いだし、かああっと全身が一気に熱くなる。
ぎゅっと握りしめたのは、抱えるように持っていた枕。
「……ずいぶんと色っぽいよな、その姿。朝から襲いかかりたくなる」
本気でそう思っているのか、その口元が嗤っているというのに目が舐めるように自分を見ているのに気が付いた。
「えっ?」
慌てて、視線を自分に向けると……。
枕を抱えるようにしていた悠人は、何も身につけていない上半身を健一郎の目の前に晒し、足もなかばはみ出している状態だった。腰から足にかけて肌布団がからみついてる。
「ひっ」
慌てて、頭から被るように覆い被さる。
「何、恥ずかしがっているんだよ。昨日さんざん俺に見せてくれたくせに」
健一郎の揶揄する言葉が余計に羞恥を煽る。
「ばかやろっ!朝っぱらから欲情してんじゃないっ!」
しかも裸のままの健一郎の股間は、しっかりといきり立っている。
「しょうがないだろ。お前が傍にいる限り、俺のここは欲情しまくりだ」
「ば、ばかやろうっ!」
こ、こいつは……!
じりじりと布団を抱えたまま、後ずさる。
「くくっ、冗談だよ」
「お前の場合は、冗談に聞こえないっ!」
悠人のその声が上擦って裏返っていた。
「もうしないって……だいたい今日は映画に行く約束をしているだろう?これ以上やったら動けなくなるぞ」
「映画って……」
そういえばそんな約束をしていたな……。
逃れようとしていた躰がふっと止まって、健一郎に視線を向ける。
「行くって言ったよな。だから、行こう。着替えて食事をとって、な」
「本気か?服だってスーツのままなんだぞ」
会社帰りに拉致されたから、昨日のスーツのままだ。映画に行くにしては、合わない服装だ。
「服なんか、適当に買ってこよう。俺が見立ててやる」
「いらない」
健一郎が自分の服を選んでいる光景が頭に浮かんだ途端、口について出ていた。
「そうか、いるのか。よし、任せろ」
「ちょっと待て!」
随分と嬉しそうに話を進める健一郎の腕を掴む。
「お前に見立ててもらうつもりはないし、買う必要もないっ!」
「だから、俺が見立ててやるって。欲しいんだろ?」
拒否する言葉が全部健一郎で変換されていく。
「貴様……」
「貴様じゃない、健一郎だ。言ったろ。お前の嫌は全部良いという意味に取るって。あれ、嘘じゃない」
「なっ」
あまりの言葉に呆然と健一郎を見遣ると、彼は悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「それとも、昨日のスーツのまま映画に行くのか?放りだしていたから、結構シワになっているぞ」
言われて見ると、どこかくたびれた感じのシワがベッド上からも見て取れた。あの服を着て、街中をうろうろするのは気がひける。
「じゃ、いかなければいいだろう」
残念だけど……。
ため息とともに漏れてしまった言葉に健一郎は首を振った。
「行きたいって言っているよ。お前の顔は」
「なっ!」
ばれてる……。
映画なんてもう随分長い間行っていなかったから、それだけは少なくとも行きたいという気にはなっていた。それは否定できない。
それに……。
「何が問題があるんだ?行きたいんだから行けばいい。誰もそれを否定できないだろ」
くしゃりと健一郎の手が悠人の髪を掴む。
引っ張られる痛みに顔を歪ませるが、健一郎は構わず髪を掻き回していた。
「これから素直になる方法をたっぷりと教育してやるよ」
「何が教育だ!」
「嬉しいだろ?」
「嬉しくなんかあるか!」
「ほら、嬉しいって」
そんな言葉まで変換されて、悠人は言いかけた言葉を飲み込んだ。
そして、別の言葉を吐き出す。
「……貴様……は……もう……」
がっくりと肩を落とす悠人に、健一郎はそっと手を回して抱き寄せる。
「言いたいことがあったら何でも言え。何を言ったからって、俺がお前を嫌うことはないからな」
その言葉がじんわりと胸に染みいる。
「どうしてそんなに自信満々なんだ?」
ちらりと向けた視線の先で健一郎はくすりと笑い、再び悠人の髪をくしゃりと掴む。
「ああ、もう……痛い」
「……好きだからさ。お前のことが堪らなく好きだから……お前が何を言おうとも、可愛いとしか思えない」
「きさまっ、可愛い、っていうな!」
「あ、嬉しがってる」
くくくっ
声を押し殺して笑う健一郎の頭を思いっきりどつく。
その拍子に被っていた布団がはらりと落ちた。
慌てて拾い上げる。
「悠人、ついでに出かける用意しろよ。いつまでもそうやってる訳にはいかないだろ」
「行くかっ!」
「行きたいくせに」
「行かないって言っているだろっ!」
「映画、おもしろかったろ」
「……ああ」
何となく頷くには躊躇われたが、それでも面白くないわけではなかった。
それにここで、おもしろくないと言えば、健一郎のことだから、そんなにおもしろいのならもう一度見よう、とでも言いそうな雰囲気だった。
が。
「じゃあ、もう一回見るか?」
「……おい」
額に手をやり顔をしかめる悠人に、健一郎は悪戯っぽく嗤い返した。
【了】