矢崎の住んでいるコーポは、誠二と同じ地区にあるにもかかわらず車で5分ほどかかる。その地区が東西に長いせいだ。
ちなみ自転車で近道すれば5分ほどなのだからどっちでいっても同じなのだが、今の足では自転車に乗ることのできない誠二にとって車で行くしかなかった。
まさか、幸に送って貰うわけには行かないし……。
車をコーポ脇の路上に止め、矢崎の部屋を見上げる。
矢崎は高校の頃、親が転勤して一人暮らしを始め、そのまま就職して以来ずっとここに住んでいる。
ここは矢崎の亡くなった祖父が所有していたもので、今の名義は父親だと言っていた。家賃の心配のないこのコーポで矢崎は半管理人でもある。
唯一1階と2階が中で繋がっている右端の部屋が矢崎の部屋で、誠二はそのドアノブに手をかけた。
と、がちゃりと音を立ててドアが開いた。
鍵がかかっていないのだ。
幾ら田舎とは言っても不用心な奴。
そう思いつつもドアを開けて中の様子を窺った。
たいてい2階で寝泊まりしているという話を聞いていたから、2階の玄関から入ったのだけれど、人がいる気配がしない。
「矢崎?」
不審げに声をかけると、視界のスミで布団がごそごそと動いていた。
「まだ起きていないのか?」
昼でも一緒に食べに行こうと思っていたから、もう昼が近い。
何を無精しているんだよ、こいつは。
誠二は矢崎がいるのだと思うと、遠慮なく上がっていった。
が。
「矢崎?」
布団からぼんやりとした目を向ける矢崎は、ただ単に寝起き悪いだけではなさそうだった。顔色が悪く、その目に生気がない。
「どうした?」
「誠二さん?」
二三度瞬きした矢崎が、ようやく誠二に焦点を合わせた。
「風邪でもひいたのか?」
その額に手を当てると少し熱い。
「ああ、すみません……昨夜から熱が出てて、ずっと寝てました」
手をついて体を起こそうとした矢崎は、ふっと顔をしかめて額に手を当てた。
「おい、大丈夫か?」
「……大丈夫。少し目眩がして……でも、昨夜よりは動きやすいですから、もう治ります」
って、おい!
「昨夜から熱って、何で俺に連絡してこないんだよ」
知っていれば、何があってもここに来たというのにっ!
「すぐ治ると思っていたから……」
「治ってないじゃないかっ!」
よく見れば、矢崎は仕事に着ていったのであろうワイシャツ姿だった。さすがにズボンは脱いでいたが、パジャマに着替える余裕もなかったことが判る。
「あああ、もう!とりあえず着替えよう。服どこだよっ!」
だが見回しても何がどこにあるのか判らない。
誠二の家で誰に聞かなくても誠二のものを取り出してくる。そんな矢崎の行動を思い出して、誠二は下唇を噛み締めた。
自分はどこに何があるのか全然判らない。
そういえば、矢崎の部屋にすら滅多に来ない。
「服は、そこのタンスの下2つに入っているんです」
申し訳なさそうな矢崎に、誠二は余計苛々してきた。
どうしてそんなに遠慮するんだよ。
俺の家では結構我が物顔の癖にっ!
かあっと血が上る頭を必死で冷静にと落ち着かせようとしながら、ふと矢崎の額に汗が浮かんでいるのに気が付いた。
「ああ……それより汗かいただろう。先に体拭かないとな。拭いてやるよ。風呂場、お湯は出るんだろ」
確か、下水道が通ったのを機に数年前に改築して全室シャワー付きにしたという話を聞いたことがあった。
「え!」
その言葉に矢崎が心底驚いたように目を見開いた。
それには誠二も動きを止める。
「何驚いているんだよ」
「い、いえ、あの体くらい自分で拭けますから。そんなことはいいですって。それより傷に負担がかかりますから休んでいてください」
なぜか上擦った声の矢崎の言葉に誠二はますます苛つきが増した。
「なんでだよ。俺がするのがそんなに嫌なのか」
「嫌じゃないですけど……ほら、誠二さん、足怪我しているのに、そんなことで負担かけちゃ……」
「もう普通に歩けている。体拭くのに、足なんか使わないだろう?」
「ほんと、いいですって。自分でやりますからっ」
いくらか矢崎の頬に血の気が戻ってきているのか、色が付いていた。
なんだ、元気になってきたのか?
とは思うのだが、人の好意を素直に受けようとしない矢崎に腹が立つ以上に情けない。
俺は、お前の何なんだよ。
むすっと唇を尖らして、誠二は矢崎の傍らにぺたりと座った。
情けなく歪んだ顔を覗き込む。
「なんで、そんなに遠慮するんだよ。いっつもおまえにばっかり世話されているから、今日は俺がしてやるって言ってるんだ。だいたい、熱が出たってのに一言も連絡がしないし、俺は……怒っているんだからな……」
だんだん声が震えてくるのは何でだろう?
目の奥がじんと熱くなってくる。
「俺は……お前の何なんだよ……。怪我のこと、お前が気にしているみたいで、気にするなって言っているのに俺の言うことなんか聞かないんだもんな……まあ、それがお前の性格なんだけど……だったら、俺が世話しようって思ったときくらい世話させろよ。だいたい、その熱だって疲れが溜まったせいだろう?なのに、あの時だって俺ばっかりお前気にしてさ……」
ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出すのを必死で堪えようとして失敗する。
言葉とともに溢れ出した感情は容易には止まらない。
「な、泣かないでください」
おろおろと矢崎が誠二の顔に手を当てて上向かせる。
「そんなつもりじゃなかったんです。ただ、その……ガマンできなくなりそうで……それでなんです」
ガマン?
その言葉に熱くなっていた感情が一気に冷める。
何のガマンだ?
なんとなく判るような気がした。だけど、つい問いかける。
きょとんと目線を上げて矢崎を見ると、矢崎がふいっと顔を背けた。その頬が赤い。
「俺……すっごくガマンしているんです。あの誠二さんが怪我した時、俺背負ったじゃないですか?」
「あ、ああ」
「あの時、背中に誠二さんを感じた途端、俺……もうしばらくしていないなって思っちゃって……、いつだったか、ヤッっている最中にふざけて誠二さんが俺の背に乗ったときのことなんか思い出して……それでその……まあ、その時はすぐに怪我のことが気になって忘れていたんですけど……怪我の手当が済んでしまうと、やっぱり思い出しちゃって……でその……抱きたいって思いが募って。だってあの時……家を出る頃って、誠二さんもなんだか俺のこと気にしてませんでした?なんかその目見た途端、俺、抱き締めたい気になったくらいで……でも、まだ傷も痛そうなのにそんなことして、俺途中やめってできそうになかったからガマンして……もうずっと……。家に帰ってから、一人でしたんですけど……やっぱそれって今ひとつで……」
真っ赤になって俯きながら話す矢崎を誠二は呆然と見据えていた。
何がガマンだって?
で、何をしたいって?
いや、俺だっておりにつけ、矢崎に見惚れて、しばらくしていないなって思ったけど……。
「で、結局あの日寝られなくって、そのまんま出動して仕事にも出かけたら……帰ったら疲れて動けなくなっちゃって……。あははは、情けないですよね。だから誠二さんのせいじゃないんです」
誠二さんのせいじゃないんです。
その言葉が頭の中を飛び回る。
じゃ、何か?
ひどく無口で考え込んでいたあの顔は、もしかしなくても必死でガマンしていたっていうことか?
深山さんが見た矢崎の疲れた様子ってのは、こいつが勝手に欲情してもんもんとしたまま寝られなかったせいだというのか?
俺の怪我を気にして寝られなかったとかそういうことじゃないのか?
辛そうだ、苦しそうだ……って思ったのは全部?
だいたい、あれだけの重労働した後に、どうしてこいつはそんな気になるんだ?だから、体が付いていけなくて、熱が出るんだよっ!!
「ほんと、怪我がなかったら無理矢理にでも呼び出したいくらいなんか抱きたくしようがなくなって……だから、その体拭かれるなんて事になったら、幾らなんでもガマンできそうになくて。だから、なんです。……あはは、これって火の勢いに煽られちゃったんですかねえ?」
煽られちゃったんですかねえ、じゃねー!
あはははと空笑いしている矢崎を見据える誠二の視線は激しい冷気を含んでいた。
それに気付いた矢崎がひくりと頬を引きつらせる。
「あ、あの……誠二さん?」
「誠二さん、じゃねーっ!!」
ぶちっと音を立てて何かが頭の中で切れた。
握りしめた拳がふるふると震えている。
「てめーっ、俺が、俺がどんなに心配したかっ!お前が俺の怪我を自分のせいだと思いこんでいるって思って……だから、そんなに疲れているんだと思って……な、の、にっ!!」
すうっと大きく息を吸う。そして思いっきり言葉ともに吐き出した。
「てめーっ!このバカっ!!」
「俺のせいだって思ってますっ!ほんとなら今日だって世話しに行こうって思ってたんですっ!」
「ヤリたいからだろうがっ!」
「ち、違いますっ!」
「も、もう知らんっ!勝手に熱でも出して唸ってろっ!」
な、情けねーよお……。
こんな奴、心配して心配して仕事まで手が着かなかったというのに……ちくしょーっ!
縋り付く矢崎の手を振り払い、痛む足など無視して部屋を飛び出る。
そうだよ。
痛いって言うのすらガマンしたのに……。なのに、こいつと来たら、そんな俺の心配じゃなくて自分の下半身の欲望で眠れなかったなんてっ!
俺は、何なんだよっ!
誠二は車に飛び込むと、急いで発進させた。
ばっかやろーーーっ!!
怒りでもう何も考えられなかった。
【闇夜の灯火】 8
矢崎の所を飛び出して、行く宛もなく車を走らせた。とにかく胸を締め付けるような怒りを何とか静めたい。
闇雲に車を走らせて、ふと気が付くとそこは茶筅山の麓だった。
すでに鎮火宣言が出されたので、その周りには人はいない。
ただ、山から流れ出した雨水が溝を流れる音が勢いよく響いていた。
その裾の小さな空き地に車を入れる。
そこから、一本の細い道が通っていた。その道を中心にして左側はほとんどの木々が焼けてしまっている。だが、右側は上の方はともかく中腹から麓にはまだ多くの緑が残っていた。
どうやら、この道で消火活動をしてそれ以上の炎の浸食をくい止めたのだろう。ここから西には集落があったから。
微かに覗く家々の屋根を眺めていると、懐かしい記憶が込みあげ来た。
間違いない。
この道を上がったところに幼い頃連れてきて貰った公園がある。
子供の頃の記憶って、意外によく覚えていたりするんだな……。
誠二は傷ついた足を庇うように、山道をゆっくりと上がり始めた。
ずっと漂っていた焚き火の後のような灰の匂い。
それが周りの緑が増えるにつけ消えていき、木々の匂いに取って代わる。
湿気の多い空気のせいで幾らでも噴き出す汗を腕で拭いながら、誠二はゆっくりと登った。
ゆるやかな山道だから、怪我した足もなんとか動いてくれる。
小さい頃、4人の兄弟と一緒に両親に連れられてこの道を登っていった。
一番下の弟の恵はまだ幼稚園くらいだったろうか。
小学校に上がったばかりの優司は、近くに流れる沢に降りてずっとそこで眺めていた。
その間に誠二と智史は、岩肌に据え付けられたクライミング用の鎖を使って、岩肌登りをした。
まだあるのだろうか?
てっぺんまで直線で10m位。鎖がなくてもなんとか登れる岩肌ではあったが、誠二達は時間も忘れて遊んでいたという記憶があった。
中学に上がるまでは何度か来たことがあったが、その後は何故かそれっきりになった。
山道はなだらかなものではあったがさすがに200mばかり進むと息が切れてきた。
確か、そろそろ……。
あやふやな記憶が、やはりあやふやな距離感と雰囲気からそう伝える。
「あっ……」
あった。
足を止め、広場になったその場所を見渡した。
こんなに狭かったかなあ……。
当時ですら、そこにあった僅かな遊具はぼろぼろであったが、今でも同じ遊具がそこにある。相変わらずぼろぼろではあったが、それでも修繕した後が見られて、使用できるようにはなっていた。
その奥の岩肌には鎖がぶら下がっているのが見える。
ふっと胸の内に宿る暖かい塊が大きくなっていった。
何故かじんわりと目の奥が熱くなる。
まだ、あったんだ……。
ひどく懐かしい。
ぽとぽとと足をゆっくり進めて、遊具に近づくと、それが思ったより小さいことに気が付いた。
手を伸ばして馬飛び用の遊具に触れると、手を付くところが随分と低い。
それに岩登りした岩山も随分と低く感じた。
そうか、子供の頃の記憶だものな……。
それに手をついたまま、辺りを見渡すと明るい陽光の中、木々の緑が目に眩しい。
時折りざわざわと木々がざわめき、何かの羽ばたきの音が聞こえた。
鳥の声や虫の声に覆われた世界。
記憶を辿って奥に進むと、そこにやはり沢があった。
雨が降った直後なので勢いよく流れるそれは、砂防ダムの裾から流れ出していた。ごろごろとした石の間を流れる水は澄んで綺麗だ。
「気持ちいい……」
誠二は、その砂防ダムに背を預けて岩に腰を下ろすと、目を瞑って水音を聞いてみる。
矢崎とのことでささくれ立っていた神経がすうっと落ち着き癒されていく。
少し暑いくらいの日差しは、そよそよと触れては通り過ぎていく風とちょうど顔にかかっている木の影のお陰でで気持ちいいくらいだ。
そういえば、矢崎は知らないと言っていたな……。
やんちゃ盛りの滝本家4人兄弟を家で遊ばせるには大変だと、父親はよくいろんな公園に兄弟を連れて行ってくれた。そうすれば、4人が勝手に遊ぶからだ。
それで知ったのがここなのだから。
なんか……眠いな……。
飲んでいる薬のせいか、それとも傷のせいで疲れやすいのか、昨日、今日とどことなく気怠い。
座っていると、さらにそれが加速度的に増していく。
誠二は、比較的大きな岩があるところを選んで寝っ転がった。
「矢崎……どうしているかな?」
怒りにまかせて飛び出してみたものの、矢崎と同じ事を実は誠二も考えていたのは否定できない。
あの温もりに、あの真面目な横顔に、常に欲情し続けていたのは……自分の方だった。
火に煽られた。
矢崎がそう言っていたのを思い出す。
確かに、尋常ではない火の勢いは、精神を昂揚させた。闘争心を煽られるついでのように征服欲を駆り立てる。だからだろうか……体が熱く火照り、相手を欲してしまうのは。
あの時の矢崎の姿を脳裏に思い描き、途端に誠二の体におこりのように震えが走った。
矢崎の額に流れる汗が赤い炎に照らされ光る。食いしばられた口元が歪み、その隙間から白い歯が見え隠れする。
普段では見られない睨み付けるような目が、目前の炎をどうしようかと値踏みしている。その瞳にすらその炎が写り込み、矢崎が矢崎でないような雰囲気を醸し出していた。
それを思い出すにつれ、誠二の体の震えと熱が一点に集まってきた。
下肢の付け根が明らかに反応する。
体が欲しいとざわめきたっている。
別に良かったのだ。
あのアパートでの出来事に、矢崎に流されたとしても。
だが、あの時は怒りが勝った。怒りをぶつけた瞬間の矢崎の悲壮な顔が目に浮かぶ。
あの家に行った時、自分でもそうしてもかまわないと思っていたくせに。
したい、と思っていたくせに。
どくん、と高鳴る鼓動とともに、熱が集まる。
ずきずきと疼く自身が触れてくれと訴えるのを、誠二は躊躇いもなく直接握り込んだ。
ここには、誰もいない。
こんな明るい中の外での行為に、背徳感が湧き起こる。だが、それも一瞬のことで誠二は、わき上がる快感に堪えられないとばかり乱暴に手を動かした。
あっという間に硬度を増したそれは、手の動きに歓喜するかのようにびくびくと震える。
いつもより早い高まりは、誠二の心から躊躇いを消していた。
先端から漏れる透明な液が全体を覆い、それが淫猥な音を立てる。滑りが良くなったことで、射精感は一気に限界近くまでに達していた。
「う……くう……うっ!」
背筋から脳髄で響くぞくぞくとした疼きに、堪えきれない声が漏れる。
「あ、……や…ざき……」
脳裏に浮かぶのは、真剣な眼差しで炎を見据える矢崎。
目に宿った炎に操られるように、誠二を乱暴に抱く矢崎を想像し、誠二は一気に限界に達した。
「やざきっ!」
言葉とともに吐き出された想いが煌めく水面へと散った。
ぐったりと身を投げ出す誠二の視野の中で、それがあっという間に流れて消えていく
激しい昂揚感から一気に冷めた体は、動くのも億劫な怠さを伝える。
汚れを水で清めた矢崎は大きなため息をつくと、四肢を投げ出した。
全身に噴き出した汗が、風に晒され、ひどく気持ちいい。
誠二は目を閉じて、それを感じていた。
ヒンヤリした冷気に晒されて誠二はぶるっと身震いをした。
「あれ……」
目を開ければ、うっすらと闇のせまった空が見える。
体の下に感じるの、ごつごつとした岩肌。
「もしかして……寝てた……」
働かない頭に手を当てて、周りをゆっくり見渡せば鬱蒼と茂った向こうに空を突き刺すように立っている燃え残りの木々が見えた。
よっとかけ声をかけて起きてみれば、不自然な姿勢と寝るには不適切な石だらけの河原のせいで、体が痛い。
むうっと眉をひそめて、怠い体を動かしていく。
その間にも確実に闇がせまってきていた。
宵闇に包まれた山は、灯りがない。
「マジッ……」
手元に何ら灯りのない状態で、山道を降りるのは至難の業だ。ましてや、月明かりすらなさそうな宵闇の刻。
誠二は舌打ちすると、完全な闇が支配する前に山を下りようと足を動かした。
道自体は迷うようなものではない。
ただ、先程から少しずつではあるが、足が痛み始めた。それにひどく腹が減っている。
考えてみれば、矢崎と昼を食べようと訪ねていって飛び出したのだから、それから何も食べていないことになる。しかも、昼から薬を飲んでいない。
傷のある足で山道を登ったせいで、引いていたはずの痛みまでもがぶり返したらしい。
そういえば、あまり動かすな……とは言われていた……。
立ち止まり、傷のある辺りをさする。
と、体をかがめた途端、かしゃりとポケットから携帯が落ちた。
慌てて、それを拾い上げる。
「あれ……電源が……」
いつのまに切れたのか電源が入っていないそれに、訝しげに首を傾げながら誠二は電源ボタンを押した。
が、つかない。
「もしかして……バッテリー切れか?」
そういえば……と思い出すのは昨夜のこと。
電池マークが残量が残り少ないと表示していたから、充電しようとして忘れていたのだ。
「ああ、もうっ!」
電池がなければ、無用の長物でしかないそれを、誠二は苛々とポケットに突っ込んだ。
たかだか300m程度の行程。
だが、痛む足をひこずりながら、岩がごつごつした道を灯り無しで歩くのは、ひどく辛い。
それでなくても久しぶりに来たこの道の特徴は朧気で、今自分がどこを歩いているのかも判らなかった。
心細さが闇とともに体の中に染みこんでいく。
「ちくしょう……あいつが……あんな事言い出すから!」
判っている。
あんな所で寝てしまった自分が悪いのだと。
足の都合も考えずに登ってしまった自分が悪い……と。
だが……考えれば考えるほど、矢崎を責めようととしている自分がいる。
そんな自分が情けないとは思いつつも、それでも毒づくことは止められなかった。
続く