【闇夜の灯火】  3

【闇夜の灯火】  3

 すでに用意されていた救急車の横で本職の消防士により応急手当を受ける。
 邪魔なズボンが切り裂かれ、露わになった下肢に服の代わりに毛布が掛けられた。矢崎が誠二のヘルメットと法被を脱がせる。
 さすがに手慣れた本職の手によって、傷は清められ清潔なガーゼが当てられる。かなり落ち着いてきた出血はそれでもあっという間にガーゼを血に染めていった。

 三角巾でつくった包帯でややきつめに巻かれた状態で担架に乗せられ救急車に乗せられる。
 当然のように矢崎が付き添っていた。ちらりと窺った視界の中にいる分団長が心配そうにこちらを見ている。
 その姿になんでもないとばかりに笑いかけ、誠二は救急車の中で体を横たえた。
 人の視線から外れてしまうと気が緩んだのか、痛みが酷くなってきた。それでもここにはまだ矢崎がいる。
 だから、声は出せない。
 誠二はきつく奥歯を噛み締めてガマンするしかなかった。

 救急車はそう遠くない救急外来のある病院へと誠二を搬送した。
 そこで医者に引き渡された誠二はさらに念入りにチェックと消毒を施された。
 何せ、川の水を消火に使っていたのだ。それをさんざん浴びた服とともに傷がついている。それを知った医者が、ここぞとばかりに念入りに消毒をしたのだ。
 消毒薬が傷口に触れるたびに引きつり焼けるような痛みが走る。
 それを歯を食いしばって堪えた。
 待合室にいる矢崎に聞かれたくなかったのだ。
 それでなくても誠二の怪我は自分のせいだと思っているはずだ。矢崎はそういう性格をしている。他人を責めることは滅多にしないくせに、ひたすら自分を責める。
 恋人としてつきあう前、頼んだことをしてもらうために交換条件のように体をつなげていた時、誠二が言い出した契約破棄の一方的な条件を矢崎は呑んだのだ。その後、誠二を思ってずっと思い悩んでいたと言うのに、それを誠二に言うことなく自分の胸の内に納めていた。
 幸と智史のお節介がなければ、今こうして恋人同士でいることは叶わなかった。
 そんなふうに自分でけりをつけようとする矢崎だから、少しでも負担はかけたくなかった。
 ようやく治療が終わり、ほっとして診察室を出た誠二に矢崎は杖代わりのように体を支えてくれる。
「足、縫うだけでよかったんだ。10日もすれば抜糸だと。ただ、化膿するかもしれないから、薬はたっぷりくれたけどな」
「そうですか……良かったです」
 何を考えているのか、矢崎はにこりともしないでそういうと黙りこくった。
 その強張った顔を盗み見ながら誠二は矢崎に体預ける。ぺたんぺたんと病院の薄暗い廊下を歩く音だけが独特のリズムをもって響いた。
 触れた腕からじんわりと冷たさが伝わってくる。
 ずっと着替えていない矢崎の服は、法被の中まで濡れていた。
「とりあえず、俺んち行って着替えよう。お前のも少しは着替えあるだろうし……」
「はい」
 短い返事が返ってきたが、その後は苦しいまでの沈黙が二人を襲う。
 矢崎が落ち込んでいるのは、誠二の胸を締め付ける。


「分団長さんから連絡があったわ」
 玄関に入った誠二を幸が開口一番そう言って出迎えた。
 右足に力を込められない誠二を矢崎とともに両脇から抱えて玄関のたたきから上がらせる。
「濡れてる?」
「ああ、放水していたから」
「矢崎さん、シャワー浴びるといいわ。着替えは出しておくから」
「ありがとうございます」
「そうだよ。先に浴びてこい。俺もその間に着替えるから」
「はい」
 気遣わしげな矢崎の視線に誠二が笑いかけると、表情の変えないまま矢崎は勝手知ったる誠二の家の浴室へと行った。
 それを見送る幸が心配そうに眉をひそめる。
「随分と落ち込んでいるわね」
「自分のせいだと思っているんだ……違うのに……」
「そう」
 幸の視線が誠二へと移る。
「ったく、あなたが怪我なんかするから……」
 それを聞いて誠二はムッと口を尖らした。

 矢崎がさっぱりと汗と川の水を流して出てきたとき、誠二もなんとか着替えが済んでいた。背が高い矢崎に合う服があるかと心配だったが、誠二には大きすぎると着ていなかった貰い物のスウェットの上下がちょうど良かったらしい。
 誠二自身もシャワーを浴びたかったが、さすがにこの足ではどうしようもない。
 仕方なく、体を拭くだけにとどめて服を着替えていた。
「矢崎、みんな機庫で待機しているらしいから、行ってみよう」
「誠二さん、休んでいてください。俺、行って来ますから」
「俺も行くって言っているの」
 誠二を無視して通り過ぎようとする矢崎の腕を捕まえる。
「誠二さん……無茶しない方が」
 ため息混じりの台詞を吐くその顔が、青ざめているのに気付いているのだろうか?
 誰が無茶だ。
 今のお前を放っておく方が気になってしようがない。
「俺が行くって言っているんだよ」
「矢崎さん、誠二、言い出したら聞かないから……連れて行って」
 幸が可笑しそうに笑いながら言うと、さすがに矢崎も苦笑を浮かべた。
「しようがないですね。じゃあ、機庫に行くだけですよ。出動命令があったら機庫に置き去りにしますからね」
「判ってるって」
 この足で付いていっても足手まといなのは判るからそこまでは要求できない。
 ただ、今は矢崎の傍にいたい。
 俺が平気だと言うことを、気にしなくて良いって事を矢崎に見せたいのだから。
「ちょっと先に荷物を積んできます」
 着替えた服を抱えて、矢崎が車に走る。
 それを見送っていると、幸がそっと世辞の隣に座った。
「落ち込んでいるあなたを救えるのは矢崎さんだけだけど、落ち込んだ矢崎さんを救えるのも誠二、あなただけなのよ。どうすれば、彼が元気になるか判っているんでしょうね」
 どこかからかうように幸が言う。
 その笑みの含んだ瞳から逃れるように誠二は俯いた。
「判っている」
 今更幸に言われなくても、そんなことは判っている。
「ったく、こんな美人で理解のある奥さんに可愛い子供達。それに世話好きの申し分のない旦那様まで持って、うちの旦那はなんて果報者なんでしょう」
 おほほほほ
 そんな笑いが語尾につきそうなほど揶揄を含んだ幸の言葉。
「幸……なんだよ、その旦那様……ってのは……」
 がっくりと脱力する誠二の頭をこつんとたたくと、幸は立ち上がった。
「いいじゃない。たっぷりとまた矢崎さんに世話して貰わなくっちゃいけないんだし。そのためには、まず矢崎さんに元気になって貰わないとね。まあ、奥様の心得てしては、まずしっかりとご奉仕するのね」
 その言葉の意味が示すところに、誠二はかああっと火がつくほどに顔を赤らめた。
「ほ、奉仕って……何だよっ、それ!」
「あらあ、素敵な旦那様にはきちんとご奉仕するものでしょう?」
「誰が素敵だって?だいたい幸、お前だって俺になんか奉仕してくれているのか?」
「あらあ、私はちゃんとあなたに素敵な旦那様をご用意してあげたじゃありませんか」
 ほほほほほ
 手の甲を口に当てて笑う真似をする幸に、誠二はがくりと肩を落とした。
「だから、旦那様って言うな……」
「何で?ほら、ちょうど旦那様のお迎えよ」
 くすくすとした笑いを納めない幸と何事かと憮然としている誠二の様子に、玄関先まで戻ってきた矢崎が目を丸くしている。
「どうしたんです?」
「な、何でもないっ、行くぞ!」
 教えられるか、んなことっ!
「行ってらっしゃいっ!矢崎さん、この我が儘な人、頼みますねえ」
 けらけらと笑い転げている幸はかろうじてそう言うと、再びお腹を抱えて床に崩れ落ちた。
「あ、あの?」
「良いからっ!」
 痛む足を無理矢理動かして、矢崎を引っ張る。
「はあ……あ、背負いますっ!」
「いいよ、歩ける」
 歩き出した誠二にさっと背を向けてしゃがむ矢崎に、首を振ると、その誠二をいつの間にか立ち直った幸がとんと押した。
 バランスの失った体は、力の入らない右足で容易に立ち直れない。そのまま矢崎の背に倒れ込んだ。
「さ、幸っ!」
 慌てて立ち上がろうとした誠二の体は、矢崎に捕まえられ背負われてしまった。
「おい、おろせよ」
 先程の幸の旦那様発言と奉仕発言が頭の中にぐるぐると飛び交っている。
「それじゃあ、誠二さん、預かりますね」
 矢崎がぺこんとお辞儀をすると、幸は必死で笑いを堪えながらそれでも言葉を紡いだ。
「ほんとうにいつも迷惑ばっかりかけているけど、よろしくお願いしますね」
「誰が、迷惑かけてるって?」
「あなたが。ちゃんと自覚しなさい」
 ぴしゃりと言われては心当たりが有りすぎる誠二は黙るしかない。赤くなって矢崎の背で俯いている誠二に、幸がひとりごちる。
 まったく、素直に甘えられないんだから……世話の焼ける人……
 それは誠二の耳にはかろうじて聞こえて、誠二はさらに真っ赤になった。


 機庫に行くと、智史がいた。
 壁際に降ろされた誠二の顔が思わず引きつるのは、その顔が険しいのを見て取ったからだ。
「兄さん……」
「怪我したって聞いたから一応様子をな」
 むすっとしているその様子は、普段なら一番近寄りたくない状態の智史だ。
「縫っただけ……他に異常はないって」
「ああ、それは聞いたけどな」
 ちらりと智史が分団長の方へ説明に行った矢崎の後ろ姿を見遣る。
 誠二の隣に腰を下ろすと、声のトーンを落として内緒話でもするかのように話し掛けてきた。
「状況は聞いた。矢崎……落ちこんでんだろう?」
「あ、うん……」
 一見疲労のせいで表情のないように見える。
 だが、誠二にはそれだけではないと判っていた。
「ったく、お前、何とかしろよ。あの矢崎が落ち込んでいるなんて、仕事がやりづらいじゃないか」
 智史の部下でもある矢崎。だからこそ智史は言っているのだろうが……。
「判ってる……」
「ほんとにか?あいつが元気になるのはひとえにお前の努力だぞ」
 言われなくても……。
 そう言おうと智史を見た途端、その言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
 何となれば、智史の顔に意味ありげな笑みが浮かんでいるのだ。
 ぞくりと伝わる背筋の寒気に、誠二は思わずずりっと尻で後ずさろうとして壁に背中を打ち付ける。
「に、兄さん?」
「何やってんだよ、お前は」
 くつくつと喉の奥で笑う智史に、誠二はごくりと息を飲む。
 智史が何を意味して言っているのか、ようやく判った。
 つまり幸と同じ事を言っているのだ。そして幸よりはるかにたちの悪い智史の言葉は、誠二を完璧に揶揄している。
「来週、仕事が始まったときに矢崎が落ち込んだままだったら、お前の責任だからな」
「ら、来週って……この足じゃあ無理だよ」
 慌てて言い返す誠二に智史はさらににやりと嗤った。
「この足だと何が無理って?お前、何をするつもりだ?」
「!」
 しまった……。
 言い様に誘導されてしまったことに腹が立つ。
 自分を睨みつける誠二の視線など全く意に介さない智史は、よっこいしょっと立ち上がると分団長に向かって声をかけた。
「やっぱり誠二は残るそうだから」
「おい、大丈夫なのか?」
 分団長の心配そうな声に、誠二は慌てて笑顔を取り繕った。
「大丈夫ですって」
「本当か?」
 疑い深げな視線に、誠二の表情が苦笑へと変化する。
「こいつは、賑やか方が好きだから、家で大人しくするのが嫌なんですよ。ま、何かあっても放っとけばいいですから、いさせてやってください」
 一応、兄として誠二の意向に添ってくれようとはしているんだろうけど……。
 誠二はそんな智史の様子を窺いつつ、ちらりと矢崎に視線を移した。
「まあ、大丈夫ですよ。世話好きな奴がそこにいますし」
 智史の声に分団長までもが矢崎を見遣ったのが判った。
 も、もしかして……ばれてる?
 そんな筈はないと思いつつそれでも分団長の様子を窺ってしまう。
「そうだな、矢崎もいるし……誠二、出動があったら置いていくぞ」
「……判っています」
 そう言いつつもひきつる顔は元に戻らない。
 ばれて、ないよなあ……たぶん。
「じゃあ、俺は本部に戻りますから」
「ああ、ごくろうさん」
 その言葉に智史が誠二のためだけに抜けてきたのだと判った。
「兄さん?」
 智史の手が誠二の頭を掴むように置かれる。僅かな重みを感じたと思う間もなくその手が離れていった。
「じゃあな」
 その声が先程とは打って変わって優しく思えた。


 結局、日付が変わる前に待機は解除になった。
 雨が降り始めたのだ。
 天気予報によると明日降るはずの雨が、皆の願いが効いたのかかなりの雨足で降り始めた。
 それが1時間も続いた頃、本部から連絡が入ったのだ。
 解散。
 ただし、明朝8時までに茶筅山に設置された本部へと集合のこと。
 その指令に皆がほっとして、それぞれの家に帰っていく。
 降りしきる雨の中、誠二も矢崎の車で自宅に送られていっていた。
「今日は帰って休めよ」
「……はい」
 解散命令が出たというのにただ一人浮かない顔をしている矢崎。機庫にいる間ずっと誠二の世話をし続けていた。
 もういい、と何度言っても体を休めようとしない。
 いつだって誠二の動向を見守っていて、何かにつけ世話をしようとするのだ。
 矢崎の傍にいて、様子を見たいとは思ったが、これでは逆効果だと誠二は今更ながらに気付いていた。
 それに、何より傷口が痛むのだ。
 ちょっと身を捩っただけで痛むそこは、熱を持ったようにうずうずとし続けていた。だが、矢崎がいると苦痛を訴えることはできない。
 傷を冷やす冷たいタオルを用意することもはばかられた。
 鈍い痛みに耐えながら、それでも矢崎に笑顔を返す。それが限界だったから、だからこそ解散になったとき、矢崎に冷たく言い放った。
 それでなくても今日は一番働いているから疲労の方も限界の筈だ。
 まして、矢崎達は明日も出動しなければならない。怪我で免除されてしまった誠二とは違う。
 ゆっくり寝て疲れをとらないと、明日ぶっ倒れるかも知れない。
 自宅の玄関先まで車を入れて貰った誠二は、なんとか一人で車を降りるとさっさと玄関へと入っていった。
「じゃあ」
 簡単に手を挙げるだけの別れは、雨のせいにできそうだった。
 もの問いだけで、切ないまでに見つめてくる矢崎の目から、誠二は早く逃れたかった。


 朝、会社にいくために玄関先に出て空を見上げた。
 どんよりと灰色の雲で覆われた空から、いくつもの雨粒が落ちてくる。
 その雨の勢いこそ落ち着いたものの、ずっと降り続けたそれはかなりの雨量になるだろう。
 今日は……集合しても早々に解散かな?
 足を引きずりながら自分の車に乗り込んだ誠二は、会社へと出発した。
 この程度の怪我で休むわけにはいかない。

 事務所に入ると、同僚達が朝の挨拶もそこそこに火事の様子を聞いてくる。
 対岸の火事……というけれど、直接関与しない人達にとって、火事というのは好奇心を刺激する。
「原因は?」
「さあ、今頃本職が調べていると思いますけどね」
 それでも昨夜消防団員達の間では、憶測に過ぎないうわさ話ではあったが、原因がタバコの火だということが伝わっていた。
 出火元と見られる場所が道路沿いであること。
 そのノリ面から駆け上がるように火が上がっていること。
 焚き火や火を放つような場所ではないこと。
 それらがそういう判断をさせるのだ。
 どうしてタバコの火がついたまま投げ捨てるのだろう?
 夜などに時折見かける、道路上を跳ねていく赤い光。それが前の車が投げ捨てたタバコだといつも苦々しく見ていた。
 どうして火が勝手に消えると思うのだろう。
 それが道ばたの枯れ草に引火するとは考えないのだろうか?
 山火事の大半の原因だと言われるそのタバコの投げ捨てを見るたびに不快な気分になる。
 山が緑を失ったら、それを再生するのに何十年もかかる。
 その貴重な財産をあっという間に消し去るのは、たった一本のタバコの火なのだ。
 はああと大きくため息をついて、胸の中に凝り固まっている不快なわだかまりを吐息とともに吐き出す。
 考えても仕方のないことだと思いつつ、それでも考えてしまうのだ。
 ましてや、今日の気分は最悪で、どうしても頭が暗い方向へと向いていく。
「あれ、滝本君?」
 やってきた課長が誠二の姿を認め、驚いたように目を見張る。
「どうしたんだ?今日も出動じゃなかったのかね?」
 深山からの連絡を受けたのだろう。
 きっと消防団員で今日出勤できているのは誠二だけの筈だから。
「ちょっと怪我をしてしまって、お役後免になったんですよ」
 怪我をした足を撫でる。
「ああ、そうか。じゃあ、新聞に載っていた怪我人一名というのは滝本君のことか?」
「え?載ってました?」
 そういえば、火事の状況は新聞でざっと見たけれど、そんな細かいところまでは見ていなかった。
「名前は載っていなかったけどね。軽傷ってあったけど?」
「はあ、ちょっと切っただけですので……」
「そりゃあ、大事にしなさいね」
「はい、ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げ、席に戻る。
 今ごろみんな何をしているかな?
 ふっと見た時計は集合時間が過ぎて随分立っている。
 状況を確認して、見回りして……鎮火が確認できたら、解散かな?
 ふうっと息を吐く。
 せっかく仕事に来たのだが、それに集中できない。
 ふと燃えていない時の茶筅山の姿が頭に浮かんだ。
 そういえば、公園。
 だが、うろ覚えのその場所は、どう考えてもあの火に覆い尽くされた場所だ。
 子供の頃から知っている山の緑が消えてしまった。それが胸を打つ。
 ああ……今日は仕事にならないな……。
 何度振り払おうとしても暗い気分から抜け出せない。
 これは……。
 原因は分かっている
 どうしてもどんなに仕事に向かおうとしても頭から離れないのはあの矢崎の暗い顔のせいだ。
 明日休みなんだから、明日様子を見に行けばいい……。
 そう思ってなんとか仕事に集中する。
 それでもいつもよりその作業スピードは格段に遅かった。

 昼過ぎに深山が出勤してきた。
「ご苦労様です」
「ああ、やっと解散になったよ」
 やや疲れた表情はそれでも全てが終わった安堵に満ちている。
「終わったんですか?」
「うん、雨のおかけで鎮火したんだ。そうでなかったら、もっと時間がかかっていたかもしれないけどね。今日は大垣地区の分団は残って引き続き警戒しているけれど、他の地区はもういいってことになったんだ。それで、矢崎君から伝言を貰っているよ」
「矢崎から?」
 その名を聞くとあの顔が浮かぶ。
「日曜日にホースを干すんだって。その後、食事会をするから、それだけでも出て来れないかって」
「日曜日?ああ、そうか。そりゃ、行きますよ」
 さすがに食事会と聞くと楽しい気分になってにっこりと笑う。
 何かの用事に集合したとき、誠二達の地区の消防団は慰労も兼ねて食事をするのだ。それは今回のように出動した手当や地区からの補助金を貯めていたものを使う。
 それが唯一最大の楽しみとも言える。
 それに行かないわけがなかった。
「あれ、ということは矢崎と逢ったんだ?」
「ああ、随分と疲れているようで、顔色が悪かったな。それにしきりに滝本さんのことを心配していたよ。足の具合はどうだろうって。そういえば、どうなの?」
「んな心配されるほどじゃないですよ。あんな切り株みたいなもので切ったから、裂けたみたいになっちゃって、見ようによっては酷い怪我に見えたけど、その実は大したことないって医者に言われましたし」
「そっか……あんまり矢崎君が気にしていたからそんなに酷いのかと思った」
 そんなに心配していたのだろうか?
 その言葉に胸の奥がちりちりと痛む。
 気にするなって、おまえのせいじゃないって言ってるのに……それでもお前は気にするんだな。
 誠二は、一刻も早く帰りたくてしょうがなかった。
 それでも昨日の分もあわせてやるべき事はたくさんある。それが終わらないと帰れないし、病院にも行かないといけない。
 誠二は、とにかく目前の仕事をこなすことに専念した。
 まあ、明日は休みだから……絶対に矢崎の所に言ってみよう……。

続く