【託された想い】9

【託された想い】9

以前8まで公開していた「託された想い」の続きで、出産まで2章分です。Hシーンとか無いです。
甘々な紫紺様です。




 医務室で二週間、その後館に戻らされてからずっと、アイルは安静を厳命されて寝具の上にいた。
 もっとも両脚共に脚は動かせず、手も固定されているようなものだ。もとより切断された腕も動かせば痛みが走り動かせない。
 褥瘡防止だと身体の位置を変えるのも難儀で、敬真が付きっきりで世話をしてくれているからものすごく助かっている。ずっと上向きだとお腹に卵があるせいか、寝苦しさが増すのだ。といっても横向きも四肢の痛みが増すので、それも長時間はできない。
 それでも竜人の医術は耳長族に比べれば雲泥の差ほどに進んでいて、痛みを取り除く技術にずいぶんと助かった。お腹に卵があるせいで強い薬は使えないアイルにとっては、それが無ければ治るのにもっと時間がかかっていただろう。痛みが和らげば充実した睡眠が取れ、食欲も増す。
 傷付いた身体を癒やすための薬だと思えば、苦い薬湯も苦手な料理もきちんと食べた。
 そのせいか痛めた筋が早くに治り、右肩も脚の股関節も完全ではないが可動域が広がった。
 ただそこからが大変だった。
 今度は萎えた筋肉と関節の狭まった可動域を広げる運動が日課となったのだが、それがとんでもなく大変だったのだ。
 それでなくても自由に動けない状況でできることは少ない。それに動かそうとすれば痛みが走る。
 しかも左腕が肘から先が無いのと右も指がうまく動かないせいで杖が使えない。つかまり立ちも難しく、左足だけで右大腿部の骨折を庇えるほどではないために、寝具の上で簡単な体操をするぐらいしかできなかったのだが、思った以上に身体が動かなかったのだ。
 せめて右手だけでもと頑張っていたら、今度は無理をしすぎだと怒られる始末で、なかなか思うようにはいかない。
 傷は日々の療養で確実に良くなっていったが、柔らかかった関節がここまで硬くなるものかと、広が無い股関節に焦りが強くなる。ようやくうつ伏せができるようになっても、四肢で支えられないためにお腹が圧迫されると気付いて、すぐに上向きに戻るしかなかった。
 今まで当たり前にできていたことができない。
 何か一つやってみるたびにできないことが増えていく。もちろんできることもあるし、敬真は焦ることはないと言ってくれる。
 だがアイルは、少しでも早く動けるようになりたかった。
 動かさないでいれば回復後の行動にも、ひいては出産にも差し支えると聞けばさぼるわけにはいかない。
 アイルは紫紺の子のためにと、必死で回復訓練を頑張った。
 そんな無理をするアイルを敬真が止めるのが日常的に見られるようになるほどに。
 目覚めてすぐに訪れた紫紺から、まずは身体を癒やすようには言われている。アイル専用の介護の役目を負った敬真も、まずは身体を治すことが先決だとばかりに、卵のことは気にしなくても大丈夫だと言う。
 そのときはそうなのかと思ったけれど、その後からぱったり紫紺の訪れがなくなったのだ。
 仕事のほうで紫紺はたいそう忙しく、館にも戻ってくれない日々が続いているのだとも聞いている。それは理解しているアインだったが、ふとしたときに暗い感情が頭の中を埋め尽くすのだ。
 紫紺が来てくれないのは、アイルが役に立たないからじゃないのか。自分のせいで卵を諦めてしまったのではないか。動けないアイルなど、お腹の卵もろとも必要ないと思ってしまったのではないか、と。
 そんなことが頭の中を支配して、とにかく早く動けるようになりたいとばかりに気ばかりが急いた。
 だからか、そこまで頑張らなくても子どもは大丈夫だと言われても、アイルを労るための気休めではないかと勘ぐってしまう。本当に大丈夫なのだろうか? このままでは卵はきちんと成長できずに弱い子が生まれてくるのではないか?
 単なる性欲解消のためならば、満身創痍のアイルよりも都合の付く相手の方が良いのだろうが、強い子を育てるためには一日一回以上の肛門性交が必要なはず。
 けれど紫紺が訪れない間ずっと敬真が腹へのマッサージはしてくれているのだが、今までのあの激しさを思えば、その程度で足りるのかと不安は尽きない。
 そんなことをアイルが口にするたびに、敬真が何も心配する必要がないと優しく伝えてはくれる。
「それに、刺激を与えないからすぐにどうこうなるものではないのですよ」
 確かに医務室にいるときに医師の貞宝が診察しているときも、中の子は元気だと言っていた。けれど、紫紺にとって腹の子は元気なだけでなく強い子である必要があるはずだ。
「紫紺さま……もうこの卵のこと、諦められたのでしょうか?」
 堪らず敬真に零してしまうと、彼はくすりと笑みを零して頭を横に振って言った。
「アイルさまがお守りした卵ですから、決して諦めたなどということはございません。今はアイルさまの回復をお待ちしているだけですよ」
「けど……」
「大丈夫です。紫紺さまを信用なさってください。それにお腹の中の卵のことも」
 そう言われると、それ以上何も言えない。
 不安は尽きぬけれどアイルが心配してもしょうがない。しょうがないと思いつつも不安は残る。それでもそこまで言われては口に出すこともできなくて、アイルは促されるがままに寝具の上に座って日課の運動を始めるしかなかった。
 握って広げて、伸ばして曲げて。
 肘や膝関節、四肢の筋肉をゆっくりと動かしては休みを入れる。だがそんな簡単なことすら、筋肉が落ちてしまったせいでその動きはおぼつかないうえに疲れるのも早かった。
 これでは身体が治っても満足に紫紺のお相手ができないのではないか、受け入れることなど――いや、こんなぼろぼろの身体では紫紺のやる気すら削ぐのではないか。
 お腹の子も強くなれないのでは。
 時折無いはずの左の指先がひどく痛んで庇えないそれに呻きながら蹲っていると、嫌な考えばかりが頭の中を支配する。
 気分転換のためにと先ほど敬真が開けてくれた窓から、暖かい春の空気が鳥の歌声と共に入ってくるけれど、ほっと息をつけるのは一瞬だけだ。そのうちにきれいな青い空と自分を比較して、何の役にも立たない存在ではないかと不安が増していく。
 昨日も来なかった、おとついもなかった。紫紺の訪れがない日が増えるにつれて、暗い感情は大きく膨れ、敬真の言葉も受け入れがたくなっていく。
 貞宝も敬真も子が順調に生育していると言うが、それは本当だろうか。優しい人たちだから誤魔化しているのではないか。
 本当はもう死んでるんじゃないだろうか……。
 疲れた指で探るように己の少し膨らんだ腹の上に置いてみる。
 ぽこりと、明らかにそこだけが前とは違う腹の膨らみに、耳長族の胎児のような胎動は感じない。だが死んでしまった卵は腹の中で冷たく、外からでも明らかにわかるという。実際アイルが触れたとき、ただ「ああ、生きている」とそれだけを感じた。それは本能なのか、それともそう思い込みたかったのか。
 だが腹の中のただその存在を感じるだけでも、アイルはほっと安堵の息を吐いた。
 だがそうなると気になってくるのは、「元気に、強く」育てることだ。
 強くて、賢くて、優秀で。
 竜人族は強いこと、優れていことに敬意を表すから、この子もちゃんと強い子にしてやりたい。
 紫紺のように強くて、逞しくて、優れたあの方の子らしく、この子もそうなって欲しい。
 この子こそが、紫紺の子なのだから。
 そう思い始めると、やはり紫紺の訪れがない日々の期間だけ、この子のためにはならないのではないかと疑心暗鬼は強くなる。
 そんなことの繰り返しで、アイルは精神的に疲弊していた。
 紫紺が来てくれない。あんな事件の前はしょっちゅう感じていた紫紺の熱が感じられない。
「紫紺さま……」
 ぽつりと呟きながら、アイルは運動するのも疲れて身体を横にした。
 だんだん気力が無くなっていくアイルに、敬真も困ったように何かを言いかけたけれど、結局は窓を閉めてカーテンを引いて。鎮痛剤のせいで睡魔が襲いやすいアイルのために、午睡の準備を整えるとそっと隣室へと退出していった。
「ごめんなさい……」
 敬真が悪いわけではない。それどころか前以上によく世話をしてくれて申し訳ないほどだ。
 けれど今は、紫紺が来てくれないことが気になって、うまく対応できないのだ。
「もう、いらないのかなあ……?」
 こんなケガまみれの孵卵器なんて、もう不要だって、切り捨てられたのかもしれない。でも紫紺は優しいから、こうやって面倒を見てくれる。でもそれだけ。
 そんな言葉をいつかけられるのか、最近特に考える。とたんに身のうちに湧き起こった悪寒に晒されて、いつもならやってくるはずの睡魔すらどこかに去ってしまっていた。



「何故にっ! 王よっ、何故こんなやつが皇太子などとっ、皇太子は俺であったはずっ!!」
 密かに進めていた国王との会談と、腹心となるべき大臣達の根回しと。
 なんとかことが落ち着いて、国王が会議の場ではっきりと紫紺を次期王、皇太子の地位へと任命した時の第一王子の顔は見物だった。
 生まれの順番だけで自身の地位は安泰だと安穏と構えていた第一王子。確かに一時期は皇太子としての地位を持っていたかもしれない。
 だがそれが仮であったことに気が付いていたのだろうか。第一子として当然の権利だと好き放題していた第一王子は、実のところ数多の貴族の反感も買っていたというのに。
 竜人族は優れた者にこそ敬意を表す。
 だがその「優れた」に血筋は関係ない。恭順するのはこの国を繁栄させるだけの力を持っている相手にのみ。たとえ一人の力はそれほどでなくても、統率力が優れていて、結果総合値が上回るのであれば優れた者と認められる。腹心である臣下の力をいかに有効活用するか、有力者への根回しや賛同の意を得ること、そんな彼らの忠誠をどれだけ得るかも重要だ。
 だが第一王子は自らが強者であるという勘違いの元にすでに地位を得たかのような振る舞いと強権の発動を行い続けた。現時点で臣下が従っているのは国王であって第一王子ではないと気付かぬ振る舞いをすれば、いかに己の地位が大事な貴族であろうと忠誠心は育たない。
 何よりあれの目に留まれば、大切な御曹司であろうと大事な娘であろうと、第一王子の側近や召使いに否応なく召し抱えられ弄ばれてしまう運命が待っている。せめてそれ相応の待遇で迎えてもらえたり、実家への潤沢な褒美でもあれば親達も諦めはついただろう。
 だが与えられるのは、いずれ王になると自称している第一王子の寵愛を受けた名誉だけで、飽きて捨てられて戻された者は、竜人族の誇りである強さどころかその身体を壊されている者すらいたのだ。地位に縋り付いたあげく何も得られぬままに、期待の子を壊された親の嘆きは強かった。
 第一王子の毒牙に晒された者は多い。
 執政を担う大臣の御曹司、裕福な商人の娘、近衛部隊の優れた騎士。積もり積もった鬱憤は、第一王子の側近の笑顔の下にも積もり続けていた。
 結果、味方になるのはごく僅か、それも欲に駆られて先の見えない愚かな者ばかりで、今や十三席の大臣のほとんどが紫紺の傍らでその忠誠を示し、老いた数人が真っ青な顔で無様な表情の第一王子の横にいる状況。しかも彼らは、権力を子に取られた役にも立たない輩ばかり。知らぬは本人達ばかりで、すでに当主交代の手続きは済んでいた。
 その場で激高し、暴れて剣を振り、国王にすら暴言を吐いた名ばかりの王子は、直後満場一致で幽閉された。
 紫紺にしてみれば、そのまま己の刃で切り捨てたい気は満々だったが、そこまでやれば後々まで遺恨が発生する。残党どもを片付けて、正式な裁判で確固たる証拠を並べて罪状を突きつけ、断罪するのであればみなも納得しようものだと、そういう理由で無理矢理自身を納得させていた。
 そんな紫紺の忍耐溢れる命の元、すべてを失った元王子は城の地下奥深く、厳重な監視の下に置かれた。
 そんなドタバタ劇がようやく終わり、久しぶりに館に戻れることになった紫紺は、どこか浮き足だった足取りで自身の館に向かっていた。
 いずれは城に居を移す必要があるが、まだ国王は元気なのでもうしばらくはこのままでいたいと伝えてある。
 何より卵を抱いたアイルが館では静養中であって、今はゆっくりと心身共に休めるにはあそこが一番だ。あの館の紫紺の腹心達だけならば耳長族にも好意的だが、城ではそうはならない。
 そんなことをつらつらと考えながら歩いていると。
「おめでとうございます、紫紺さま」
 にこりと底知れぬ笑顔で出迎えた江連に、肩を竦め黙したままに礼を返す。
 いずれはこの手にやってくる地位ではあったが、この男がいなければこんなに早く手中にすることはなかった。そう思えばこの男の慇懃無礼な態度にも怒りは湧かぬ。沸かぬが掌で弄ばれた感は多少なりともあって、素直に感謝の意を表することもできない。それに。
「大変なのはこれからだろう?」
 この男が紫紺に付いている目的はそう簡単には達成できないのはわかっていた。できないからこそ、それが達成するまではこの男は紫紺のそばに仕え続けるのは確かだ。
 それは紫紺の願いとも同じものであるからこそ、江連の期待を裏切る気は毛頭なかった。
 それでも時間がかかるのは仕方がない。100年もの間に根付いた風習は一朝一夕に変わる物ではないのだから。
 けれど、江連は首を振った。
「少しずつでも変えられれば良いのです。差し当たって腹に卵があっても毎日の刺激など必要ないという啓蒙活動からですか。耳長族が幸せであること、それこそが優れた子を産むのに必要であると言うこと。それに関しては現在貞宝医師のご協力身も得て、統計処理を始めております。貞宝が育てた医師達も賛同しておりますので、こちらの活動はじわじわと広がりつつあります」
「……そうか」
「何より紫紺さまというはっきりとした結果がありますしね。あの碌でなしとの差は非常に大きい。すでに元王子と紫紺さまとの育ちの違いを知っているものも多いために激しい性行為と優秀さに有意性は無いと結論づけても良いぐらいです」
「それを言ったら、おまえの父親もだろう」
 後から知ったところによれば、江連の父である第六騎士団の副団長は、実質そこの団長代理で団長会議にも出ており評価も上々らしい。病気を患った団長との交代はすでに決定事項で、すぐにでも団長の中で頭角を現すだろうということだった。
「それはまあ。ただ父は紫紺さまと同じ腹ですからね。そこ限定じゃないかと反論されたら終わりなので、できれば違う案件が欲しいところです」
 だったら江連自身が、と言いかけて。
「私が優れているのは内緒ですからね」
 そのほうが暗躍しやすいと己の優秀さを自信満々に言い切る男に、紫紺も苦笑しか浮かばない。
「紫紺さまの子だと親が優れているからと今一つ説得力がないのですが、紺頼さまの子が優れていれば良いですね。同じ親を持つとはいえ、やはり卵を産んだ親に似るのは今までの傾向として広く認知されております。あの方も優秀ではありますが、それ以上にあの方々の相思相愛っぷりは有名ですから。あの方に対して表だって文句を言う者はいませんが、耳長族狂いと富裕層にはバカにされているのはご存じのとおり。その子どもを期待しているものはおりません、我々のような一部を除いて」
 紫紺の子ではあるけれど、外腹の子であるからということ。
 バカにしていたのに優れた子が生まれれば、ということ。
「……だが、確実では無いだろう? それに結果が分かるのはずいぶんと先のことだ。もっと庶民での優れた者が育っていれば良いのだが」
「まあ……その辺りは何とでも。ちゃんと我が育ての親テイラの直伝の英才教育方法をお教えしますから。それに庶民出身についてはすでに見当をつけています」
 ニヤリと、意味ありげな笑みを見せる江連に薄ら寒いものが込み上げる。
 優れた子が育つのは良いがこんな性格の子には育って欲しくない。どこの親も話していて悪寒が走る子などあまり欲しくはないだろうが。
 それでもまあ。
「紺頼以外のところにそういう子がいるなら、その子の能力も調べる必要があるな、それも任せる」
 他に案があるわけでも無く、そういうことは江連の真骨頂であるために任せる方が得策だと理解していた。
「かしこまりました。ところで、アイルさまはお元気ですか?」
「ケガはかなり回復して、後は骨折と麻痺した部分の訓練だと聞いている」
 右腕は切り落とす必要はなかったが痛んだ神経に麻痺が残ってしまったのだ。その回復訓練は長い時間が必要だし、まだ骨折があるから自由には動けない。
「ただ最近少し元気が無いと聞いている」
 敬真の報告に、なぜかと問えば明確な答えは返ってこなかった。心当たりはあるのだろうが、直接アイルに聞いて欲しいと言われている。
「うーん、もう一ヶ月は経ちましたか、あれから」
「そうだな」
「抱卵中は神経がまいりやすいのにあんなケガですからね。考える暇もない場合は別なんでしょうけど、何しろ今は寝具の上だけで考える時間だけはたっぷりとあるわけですか」
 意味ありげに紡がれた言葉に胡乱な視線をやれば、返ってきたのはどこか責められているようなものだ。
「何だ?」
「紫紺さまは言葉が少ないので、少しお気を付けなさった方が良いでしょうね」
「何のことだ?」
 言われた言葉が理解できず疑問を投げかけても、江連はただ黙って歩く紫紺を見送るだけだ。そうなったらてこでもしゃべらないのは経験上知っていて、紫紺は特に問いただす気にもなれずに、そのままアイルの部屋へと向かったのだった。




 アイルの部屋は静寂に満ちていた。
 しっかりと閉められた窓の向こうでは、庭の木々がそよ風になびいており、穏やかな晴れの天気の下で小鳥が声高く鳴いていた。そんな音がかすかに入ってきたとしても、それすらもこの静寂を助長しているかのようだった。
 その静寂を破らないようにと静かに扉を閉めた紫紺ではあったが、その静けさの中にかすかに響く音に知らず眉間のしわを深くした。
 敬真の報告で、鎮痛剤の影響で眠っていることも多いとは聞いていたから、午睡の時間なのだろうと思っていたのに、広い部屋の中央にあるアイルが寝ているはずの寝具がかすかに揺れていた。
 小刻みのそれに合わせて、漏れ聞こえるすすり上げるような音に胸の奥が苦しくなる。
 不意に身体を支配しようとした、駆けつけたい、抱きしめたいという欲求を寸前で堪えたのは、何よりもアイルを驚かせたくないというのが一つ。あれ以来不意の人の気配にひどく怯えると知っているからだ。それになぜ泣いているのかも知りたいとも思ったのだ。
 そんな己の冷静さに呆れる自身もいたけれど、何より、あの感情豊かなアイルがこんなふうに声を押し殺して泣くなど、ここにいる限りあってはならないのだと、冷静な己が指摘する。アイルを苛む何かがあるならばそれを解消しなければならない。
 そんなふうな考えに捕らわれたまま、静かに丸まった寝具へと歩み寄る。
 そんな紫紺の姿を、敬真が隣室との窓越しにどこか安心したような表情で見ているのに気付き頷き返せば、その姿は奥へと消えていった。
 それを見送り再び寝具の山へと視線を戻す。
 すぐそばまで近寄れば、すすり泣きの中にアイルのか細い声も聞こえてきた。それを聞き取ったとたんに、紫紺は熱い何かに全身を絡め取られたかのように動けなくなった。
「ひ、く……し、紫紺、さまぁ……んぐっ……ん……も、いらない……のかな……、ぼく、も、この子、も、もう……、らない?」
 いらないのか、と。
 アイル自身も、お腹の子もいらないのか、と、何度も繰り返される言葉にこもる悲痛な感情は確かに紫紺の心に深く入り込み、堪えきれないほどの衝動が込み上げてきた。
 そんなバカなことを考えるアイルが腹立たしいという思い。だがそれと同時にアイルにそんなことを考えさせているという事実が紫紺を責め苛む。
 聡明な紫紺の脳はアイルがなぜそんなことを考えるのかということを即座に理解した。そして先ほどの江連の言葉がこれを示していたのだということにも気が付いた。
 その腹立たしさはとって返して江連を殴りたい衝動を生んだが、よりもアイルへの思いが凌駕した。
「あ、紫紺さま……紫紺さまぁ」
 切ないほどに狂おしい欲求にかすれた声音が加われば、それはあまりにも甘い蜜を隠れ蓑とした毒となりたやすく紫紺の脳に入り込む。思考を司る場所よりももっと奥深く、人が生きるための根幹であるところにまで深く染みこんで支配していったそこから湧き起こるのは、生物が相手を欲する本能的なものだ。性欲を根幹とした凶暴なまでの支配欲、独占欲。だが紫紺のそれは外に溢れ出る前に、庇護欲とでもいうような愛情に包み込まれ、衝動を抑えつけてくれた。
 泣かせたくない、こんな悲痛な声を出させたくない。
 今すぐにでも抱きしめてあやしたい。
 なのに初めてとも言える感情の坩堝に嵌まり込んでしまったせいか、腕が、脚が動かない。だが、視線をぴたりと固定したままの紫紺の口だけは、震えながらでも動いた。
「……アイル……」
 湧き起こる衝動を抑えることなどできないのだと、言葉が口を吐いて出る。そして、それは確かにアイルに届いたようで。
「え……」
 途切れたすすり泣きに、丸まった山の動きも止まる。
 認識したというその事実に、強張っていた身体がなんとか動いた。今度はもっとスムーズに名を呼ぶ。
「アイル」
 再度の呼びかけに、びくりと震えた山。今度はそれが止まらずに、もぞもぞと蠢き続ける。
 寝具の中央部にあった山が、右に左に出口を探しているのがわかって、紫紺は知らず口元を綻ばせた。抱きしめたい、かわいがりたい、優しくしたい。そんな自分の感情に戸惑いを覚えながらも、それを否定する根拠も何もなく、紫紺は自身にそれらを受け入れるしかなかった。否──そんなことを考えている暇などなかったというのが正しかった。
 その腕が伸びるより先に。
「紫紺、さま?」
 ぴょんと飛びだした薄桃色の耳。傷痕の残るそれが忙しなく動き、遅れて薄桃色の頭がはねるように振り向いた。
「紫紺さまっ」
 それはさっきまで泣いていたとは思えないほどに喜色に充ち満ちていて、さっき聞こえた泣き声は気のせいだったのかと思わせるほどだったけれど。その頬を濡らす涙と、赤く染まり腫れた目元が現実にあったことだと知らせてきた。
 未だ回復仕切れない飛びつく身体を受け付けて、途切れた腕を刺激しないようにそっと抱きしめる。耳長族の小さな身体はその腹に卵を抱えていても軽い。
 何よりアイルがそんな行動を取ったことなどなく、それが不快ではないことにも驚く。というよりとても嬉しいのだ。
「あ、す、すみませんっ、ぼ、ぼくっ」
 不意にアイルが身体を離そうとした。どうやら意識しないままの行動だったらしく、自分が抱きしめられてることに、慌てたように身体を離そうとしたけれど、その温もりが離れるのが嫌だと支える腕の力を強くした。さらに、片手で抱き上げるように支え、視線が合う高さに持ち上げる。
「なぜ泣いていた?」
 伸ばした指に触れた頬はまだ濡れていた。薄桃の瞳を取り巻く白目はいつもより赤い。
「えっ、あっ、あ、それは、その……」
「いらないのか、と言っていたな。私がおまえをいらないのか、と」
「えっ、あっ、その、あのっ、いらないって、そんな、お、おこがましくって……じゃなくてって、その」
 問いながらも、聞こえていた言葉を口にすれば、誤魔化す気だったのかアイルが意味のなさない言葉を繰り返し続ける。
 その慌てた様子に、それ以上の言葉はいらぬとばかりに頭を抱き寄せる。目の前で気に入りの耳が感情豊かに揺れ動き、アイルの動揺を伝えてきた。
 その耳の動きを目で追いながら、紫紺は言葉を紡いだ。
「おまえは私の卵を育てるためにここにいる。その卵はまだおまえの腹の中だ。なのになぜ、いらないなどと考える?」
「あ、それはっ、あの違う……え、と、あの」
「私が不要だと思うものはこの館にはない。ここは私の気に入ったものだけがいるところだ。おまえもその中の一人だ」
 暗に不要ではないのだと、いらないはずがない、と、言葉の裏に隠した意味は、それでもアイルには伝わったのだろう。
 同様に蠢いていた耳の動きがぴたりと止まり、じっと紫紺の言葉を待っている。
 薄い桃色に彩られた耳は未だ痛々しい傷痕を残してはいて、あのとき感じた怒りを呼び起こす。だが腕の中にある、竜人族にはない温もりがそれをかき消す。
「これから卵はもっと大きくなるし、大きな卵を産むという行為は体力がいる。そのためにも今のうちに身体を治せ。それにおまえには卵から生まれた我が子の養育係も務めてもらわねばならぬからな、勉強も始めなければならない」
 紡ぐ言葉に耳が跳ねた。
 一瞬震え、動揺したかのように揺れて。けれどすぐに一言も聞き漏らさぬとばかりに紫紺へと向いてくる。
 その耳の動きに知らず紫紺は微笑んで、抱きしめる腕に力を込めた。
「そうだ、おまえは一生を私の子のために捧げるのだ。私の子が、強く逞しく賢い子となるかどうかは、おまえ次第だよ、アイル」
「ぼ、ぼく、次第?」
 震えた頭が、むくりと起き上がる。
 その濡れた瞳が、紫紺を映していることに喜びを感じた。
「そうだ、私の子のために、私はおまえを一生手放さぬ」
 これほど愛らしい存在を、どうして手放すことなどできるというのか。
 紫紺の言葉を噛みしめるように口内で呟いていたアイルが、ゆっくりとその表情を変えてきた。
 戸惑いを滲ませる表情が緩み、ゆっくりと笑顔になっていく。
「ぼく、がんばりますっ、紫紺さまの卵、ちゃんと育てて、産んで……。紫紺さまの子どもも……頑張って育てます」
 さっきまでの泣き顔はもうどこにもなかった。明るく、決意に満ちたその表情に、紫紺は内心で安堵した。泣き顔すらかわいいと思うが、同時に胸の奥が痛むのだ。そんな表情はさせたくないと、させないようにしなければと強く願う。
「あ、あの、だったらぼくもう大丈夫ですっ、あの、卵への刺激しないと、強い子が生まれないんですよねっ」
 だがほっこりと甘い気分に浸っていた紫紺に向けられたアイルの言葉に、思わず目を瞠った。
「あのずっとそのしてないから、だから紫紺さま、お願いしますっ」
 強い決意を秘めた瞳はまっすぐに紫紺を見つめている。その瞳の色は本当に美しいと思うのだが、アイルの言葉に紫紺はすぐには頷けなかった。 アイルからのお誘いに腹の奥が熱く疼く。自分はこんなにも節操が無かったのかと思うが、未だ包帯の巻かれた身体を抱くほどに切羽詰まってはいないはず。
「いや、まだ身体が治っていないのだから無理をする必要はない」
「それは完全ではありませんけど、でももうずっと卵への刺激をしてないし……」
 しないと言えば、見る間にアイルの耳がしおれて、その愛くるしい表情が悲しげに歪んでいく。
 思わず江連を振り返ればそっぽを向かれ、奥の部屋に射るはずの敬真は顔を見せてこない。
「伝えていないのか?」と江連に問うても、「さあ」とふざけた返事をするばかりだ。
 仕方なくアイルを抱きしめたまま寝具の端に腰を下ろして、彼と視線を合わせた。
「アイル、聞いて欲しいのだが」
「紫紺さま?」
 紫紺の真剣な声音に、何事かとアイルが見つめてくる。顔の傷はかなり薄くなっていて、痕も残らないだろうと言われていた。それでもまだ残る傷に思わず口付けた。
「ひゃん、あっ……」
 それだけで真っ赤になるアイルは、もじもじと腰を揺らめかせた。膝の上のその刺激がことのほか心地よく、紫紺の背筋にしびれのような疼きが走った。思わず顰めた顔をアイルが気付かないように戻したが、視界の端で江連が笑いを堪えているのは丸見えだ。
 後で仕置きが必要だと頭の片隅に怒りがよぎるが、嬉しそうに微笑むアイルにこちらが先だと意識を切り替えた。
「卵に関する新しい研究結果によると、毎日の性交は必要ない」
「え……?」
「必要なのは生み親や育ての親がどう卵や子どもへの対応であり、そのほうがより重要と言われ始めている。だからアイルが無理に私を受け入れる必要はない」
 話しかけながらそっと触れた耳は治療した場所の毛がまばらだ。剥き出しの皮膚の範囲は少なくなっているが、薄い桃色の美しい毛並みが途切れて見える傷痕は痛々しい。
 内心、あの我が王家の汚物となった輩を今ここでその身を引き裂いてやりたい激高にとらわれかけるが、未だ不安げな表情を見せるアイルの表情にあっという間に鎮火した。
「毎日せずともアイルが腹の子を産み大事に育ててくれは良いということだ。今はケガのこともある故に、無理はしないほうがいいからな」
「本当に……本当にいいんですか?」
「ああ、大丈夫だと爺や――敬真が教えてくれなかったか? 産んだ後のほうが大事だということだ」
 だから今は休めと伝えたつもりだったが、アイルの表情は晴れない。それでも眉間にしわを寄せてぽつりと呟いた。
「……そういえば、敬真さまが毎日しなくても卵は大丈夫だと言われていました。でも、不安で。あれだけ毎日してたのに、しないでいいと言われても……。しかももうずっと一ヶ月以上してない。僕ずっとお腹のマッサージはしているけど、本当にこれだけでいいのかずっと不安で、怖くて……」
 大切にお腹を抱えるアイルは本当に不安そうで、紫紺はそっとアイルの頭を抱え込み、胸へと抱き込んだ。
「大丈夫だ。問題ない。それよりもアイルが元気になるほうが、卵のために良いのだ」
「本当に……、本当に? しなくてもこの子は強い子になりますか?」
「なるさ。この私が良い例だ」
 大きくて長い耳に囁けば、大きな桃色の瞳が紫紺を見上げてきた。長い薄桃色の耳が、大切な言葉を逃さないとばかりに震えている。
 その耳先に口付けを落とした紫紺は、言い聞かせるように紫紺を育てた耳長族のことも。
「私が良い例だろう?」
 言われて思わずと言ったようにアイルは頷き返してきた。
「ならば今は無理をするな」
 その言葉にもアイルは頷く。その表情未だ強張ってはいたが、さっきのような不安は薄れているように見えた。
「わかったな?」
 再度問えば頷きは深くなり、意を決したようにアイルが口を開いた。
「僕、敬真さまからも、貞宝さまからも大丈夫ってずっと言われていました。だけど不安は消えなかったんです。お腹の中の卵が、このまま弱くなっちゃうんじゃないか、もう要らなくなっちゃうんじゃないか……」
「私の言葉も信じられないか?」
「いいえっ!」
 自嘲気味に呟けば、それは違うとばかりの勢いでアイルが否定してきた。そこまでの強い言葉に珍しいものを見た気がした。
「僕はアイルさまを信じます。僕にこの卵を預けてくれて、あんなひどい有様の僕を助けてくれた紫紺さまの言葉なら、ほかの誰よりも信じられて……すごく安心できます」
 その言葉に、紫紺は得も言われぬ感情が胸の奥から込み上げるのを感じた。
 身体の奥から感じるこの温かな感情は、知らないものではない。ずっと昔、幼いころだろうか。
「おまえはバカだな。おまえをさらって無理矢理抱卵させた私のことを信用するなどと」
 いつかもした似た言葉を再度口にしたのは、罪悪感というもののせいなのだろう。
「耳長族の母性本能ときたら……たいしたものだな」
 繰り替えした会話は、きっとこの先も何度も口にするだろう。
 だがそれに縋ってしまう。
 今の私は私を信用してくれるアイルが愛おしく仕方がない。
「だったら、今はアイルの身体を労れ。それが卵のためだと思え。今からでも間に合うだろう。アイルの卵を大切にしたいという優しい心が、私の子を強くするだろう」
 そう言ってやれば、安堵したように強張った頬を緩めてくれた。