【託された想い】8

【託された想い】8

 城の中は広いが、知られてはならぬ者を監禁する場所は限られている。
 何しろいたるところに警備兵や召使い達がいて、王族の居住区に近いほどに親衛隊や騎士団の護衛までもが控えている。執務室付近も貴族達の護衛がいるし、下男がいるような城の裏側の部分ならばなおさら昼夜を問わず人の出入りがある。
 となれば、滅多に人が通らず、あるいは仲間内だけがいる場所を通る先にある場所。
 紫紺にとって明確でしかない犯人像からして、選民思想の強いあれが、賎民と蔑む輩が巣くう地下牢や監禁所、汚らしい物置や倉庫のようなところに入る訳も無く。
 少なくとも、あの貴種が飼われていた下人達の倉庫など、様子見でも足を向けないはずだ。
 そうなれば。
「まあ、もっとも安心安全な場所は己の手の届く範囲っていうのは道理です」
 正体がばれて役職をもらったとたんに、却って不遜な態度を取るようになった江連(こうれん)は、けれどその判断も行動もいつも正しい。
 一分の隙も無い格好はひどく好青年に見えるらしく、城の者達も一様に彼の礼儀正しい態度に好感を抱いているようだ。上位の執務官から下層の召使いまで、彼の嫌みと紙一重のおだてに気をよくして、難なくいろいろな情報を漏らしてきた。
 その見事さに胡乱な視線を向けていれば、それに気が付いた江連はニヤリと口角だけを上げて返してきた。
「私の育ての親仕込みですよ」
 自慢げに言いながら、さらに通りすがりの一人を笑顔でたらして。
 ほんとうに楽に、最近兄王子が『後宮近くの物置小屋で何かを飼っていて、下男たちが世話をしているようだ』という噂を引き出した。
「ああいうのは、痛めつけるときには近くに見に行くってのが多いですよ。ああいう有名人はお忍びなんて無理だって言うのにねえ」
 温い笑みを見せて肩をすくめた江連は、けれどすぐに真剣な面持ちで言葉を継いだ。
「遠くまで自分が行くのは面倒だから、適当に近場を選ぶ。そういうところは居場所を突き止めるには楽なんですが、問題はね、命令すれば後はどうでもっていう……。あの捨て駒の存在と一緒で、ばれようが後はどうでもいいって臭いがぷんぷんします。拉致されたのがばれても、自分に何も害が無いって、あるはずも無いって思い込んでる輩は、どんな悪事も罪悪感無しにやりますからね、下手な犯罪者よりもやっかいですよ」
 ぼそぼそと小さな声でぼやくように言う江連の言葉に、紫紺の眉間のしわは深くなる。
 もしアイルを壊せと兄王子が命令していたとしたら。
 あれの性格と単純な思考回路からして、たぶん、あの貴種の耳長族と同様な目に遭わされているだろうことが容易に想像できて。
 進める足が速くなる。
「確か、後宮の第一王子が遊ぶ部屋の近くに、外部との連絡門があります。その近くに客を待たせる部屋があるはずです。場所が場所なので、最近はあまり使われていない、ね」
 さらりと超重要機密事項である城内の配置を諳んじてみせる彼を一睨みし。
「邪魔が入ると思うか?」
 問いかけに、返された答えは簡潔だった。
「そんな無駄なことはしないでしょうね。それに紫紺さまなら、いても邪魔にもなりませんよ」
「だろうな」
「ついでに申しますと、残念ながら、第一王子はこの時間、後宮ですよ。先日北部山岳地の農村から拉致したばっかりの領主の末っ子を閉じ込めて、懇ろにお楽しみの最中ですので。残念です」
 どうせなら、不慮の事故扱いでまとめて始末したかったところですよね、と、気軽に言い放つ男の、そのやけに詳しい情報の、出所も子細も気になったけれど。
 目的地さえ判れば、問い正すより早く、その場所へ辿り着いてしまった。


 江連の言葉通り、問題の部屋には兄王子はいなかったけれど。
 未だお楽しみにの真っ最中だった三人の竜人など、確かに紫紺の敵ではなかった。忍ばせておいた短剣一降りで、あっけなく物言わぬ骸と化している。
 何より、状況を理解したとたんに、紫紺からは全ての言葉は消え失せて、明確な殺意しか湧いていなかった。
 そのゴミでしかない竜人達の身体を蹴り飛ばせば、その影に探し求めていた存在が横たわっていて。
 けれど、紫紺が傍らに跪いているというのに、ぴくりともしない。
 あの感情をよく表す長い薄桃色の耳もだらんと垂れ下がったままで、うち捨てられた屍のごとく生気が感じられない。
「アイル?」
 紫紺お気に入りの薄桃色の髪が血にまみれて、茶褐色になっていた。それが切り捨てた輩の血では無いことは確かで、その血の色にも目の前が眩む。
 深い傷が幾重にも入った背は動かず、投げ出された四肢はぴくりともしない。腕には深い縄目のアザができていて、そこから先は身体よりも白いほどだ。
「アイルっ」
 傷に障らぬようにそっと抱え上げて、耳元で強く呼びかけても、意識は戻ってこない。
 尻の狭間から溢れるように汚らしい白濁が溢れている。けれど、そんなことよりその身体が、紫紺よりも冷たいことが気になった。
 色を喪失し、乾いてしわが深くなった唇から、かろうじて微かな吐息の音色が聞こえるけれど、それだけだ。
「こりゃ、まずい」
 ここまで飄々とやってきて、ためらいも無く一人を斬り殺した江連が、始めてその顔色を変えた。
「すぐに医者へ」
 上着を脱いでアイルの身体にかけてすぐに、その力強い腕がアイルを抱え上げる。それを衝動的に奪い取ろうとした時。
「紫紺さまは侍従医までの道を。紫紺さまが先導し命令されましたら、だれも邪魔はできません」
 宥めるようなその声音よりも、その言葉に我に返る。
 このときばかりは己が第二王子であることがひどく僥倖に思えた。確かに、紫紺が求めるものを、この城の誰が止められるだろうか。
 アイルを抱き上げた彼を先導するように扉を開き、すぐに走り出す。背後に聞こえる足音を確認しながら、たまらない焦燥感に追い立てるように、城の中を疾走していった。
  
 
 頭部裂傷、右大腿部骨折、右肩関節脱臼、股関節脱臼。数多の裂傷に打撲痕と脱水症状。鼓膜は両耳とも破れていて、聴力も今は落ちているだろうとのこと。
 背の鞭の打痕は深く、回復には時間がかかる。さらに傷跡にはもうキレイには毛は生えないから、治ったとしてもも裸になればひどく目立つことになる。
 膣口も肛門も、無理な挿入で傷だらけで、裂けた部分もあった。
 何より、未だ意識不明なアイルの身体は回復に使う体力すら無くて、特別に調合された薬液で、なんとか生きながらえている状態なのだ。
「卵は無事でございます」
 貞宝が診察したところによれば、子宮も卵殻も無事で、中の子どもの心音も確認できるのだという。
 その心音は力強く、胎児の成長に問題は無いらしい、けれど。
「けれど、意識がこのまま回復しないとなると……」
 濁した言葉の先は容易に想像できた。
 一度子宮に馴染んだ卵は、子が生まれるまで取り出せない。借り腹が死ねば、子も死ぬのだ。
 けれど、紫紺の頭の中にすでに卵のことはなかった。
「アイルの回復を優先しろ。必要ならば卵は除け」
 その言葉に貞宝がひどく驚いたのが判った。けれど、紫紺にとって必要なのは、卵では無くアイルなのだ。
 卵はまた産めば良い、けれどアイルは、失えばもう二度と戻ってこない。
 返事の無い医師にじろりと冷たい視線を送れば、貞宝が深々と諾を返した。
 ここでは王族である紫紺の命令は絶対だ。だが、頭を上げた貞宝の顔色はまだ冴えない。
「紫紺さま、別の問題が一つございます」
「何だ?」
「実は……」
 紫紺の許可を受けて、貞宝が躊躇いがちに口にした言葉に、さすがに紫紺も、そして隣で控えていた江連も、唖然と口を開いたまま、二の句が継げなくなる。
「彼の肘から先は、壊死しかけております。どうやら緊縛された後に長時間吊られていたためか、血流が滞っていたようなのでございます」
 その言葉があまりにも信じられなくて。
「今のところ回復は五分五分。生命を優先するならば、最悪の場合切断することになるかと」
 視線が、今は上掛けの下にあるはずの手に引き寄せられる。
 確かに助けた直後、色が濁っていた腕はひどく冷たかったことを思い出す。
 その腕が、抱いている最中は縋るように背中に回されていたことも、同様に思い出して。
 くっと喉が嫌な音を立てた。
 飲み込むのは、後悔にも似た感情だ。けれど、一度きつく目を瞑った紫紺の緑水晶の瞳が開いたとき、その口は平坦に言葉を紡いだ。
「それならば仕方が無い。必要があるときは……貞宝の判断に任せる」
 背後の貞宝にそう答えながらも、紫紺はゆっくりとその手を伸ばして、今は見えない身体の線を辿る。身体の横にあるはずの腕には、なぜか触るのが躊躇われて、少し離れたところを辿っていく。
 紫紺よりも小さな身体は細くて華奢だ。竜人に合わせた寝具の大きさも相まって、ひどく小さく感じられる。
 その手が上へ、触ると心地よかった髪は今は包帯から少し覗くだけ。その合間にあるうなだれた左の耳を手に掬い上げて、指先でそっと撫でた。
 いつもはピンと立っていて、紫紺が近づくと最初に反応していた耳。
 きれいな形だったそれは、今や何カ所かに切りかけができていて、縫い合わせた後が痛々しい。
 貞宝が一通り上げた大きな傷よりも、こういう小さな傷のほうが、なぜだかひどく気になった。
 治療のために短く刈られて、一部は剃られてしまった髪。腫れた頬に、傷の入った唇。腫れたまぶたの下の薄桃色の瞳はまだ見えない。
 直接手を下した男達は問答無用で斬り殺したから、あの部屋でどんな目にあったのか子細を語る者は今はいない。けれど、それらの傷の一つ一つが、アイルが受けた暴行の内容を紫紺に知らせてきて、込み上げる怒りとも後悔ともつかぬ衝動に、今この場で抜刀し、手の届く範囲以上のすべてを切り捨てたかった。
 それは目覚めぬアイルに手をこまねくしかない貞宝も、何より自分自身すら入っている。
 そのせいで目の前が真っ赤に染まり、今にも弾けんとしたその瞬間。
「紫紺さま、このたびの城内での刃傷沙汰の件、私の独断で処理したいと思いますが、よろしいでしょうか?」
 むやみにかしこまった江連の低い問いかけに、我に返った。
「紫紺さまにはお疲れのご様子でございますが、ここでアイルさまに付いていてくださいませ。後のことは私と館の者で処理いたします。あちらも治療は全員終わっておるようで、幸いに命を落とした者はいないとのこと。すでに動き始めておるとの連絡が祖父から入っております。また今回館に侵入者があった点は、城内警備の問題点として上げられ、第六騎士団が紫紺さまの警備に入るとのことでございます」
 一拍遅れて、その騎士団の副団長のことを思い出した。
「騎士団が警備とは、大事だな」
 城内の専属警備員ではなくて、騎士団員を別途手配した理由は明白だ。
 大事な話が続きそうで、貞宝に手を振って下がらせて、紫紺は江連へと振り返った。
 と、その彼の表情は獲物を捕らえた蛇のごとく鋭く、けれど愉悦に満ちている。
「私は……紫紺さまに期待しているのです。あなたさまが、アイルさまを大切にされていると知ったその時から」
「アイルを大切に?」
「少なくとも、精神を壊すような暴行を与えていないこと、人らしく生活させていること、それだけでもこの国の、貴族に飼われている耳長族にしてみれば、大切にされていると思っています」
「それがどうかしたのか?」
 その言葉の裏を謀りかねて、戸惑いのままに言葉を口にすれば、彼は頷いて。
「私は……私たちは……耳長族を使い捨てする風潮を憎んでいます。何せ、俺も父も、育ての親は、耳長族ですし」
 重々しく続いた言葉が、不意に後半になって軽さを取り戻した。
「紫紺さまの借り腹もされた父の育ての親は、勉強と努力、優しさと強さと、そしていろんな大切で必要なことを全部教えてくれたとのことです。だから父は借り腹だった俺の育ての親でもある耳長族のテイラを亡くすまで大切にしました。そして俺も、たくさんのことを俺を産んでくれたテイラから教えてもらいました。もっとも、あのテイラは、けっこういたずら好きで頭が良くて、狡猾で、けっこうな策略家だったんですよね。……祖父も父も騙されてましたが。いや父は気付いていたかな、時々一緒になって地図を広げて戦術練ってたりしてたし。俺にもいろいろ教えてくれました、生きる術っていうか、人の裏をかく方法とかも含めて」
 どこか誇らしげに、育ての親のことを語る彼に、なぜか湧いてきたのは信頼感だ。
 そして、弱いと蔑んでいた耳長族を見直そうとする己の心境の変化も感じていた。いや、それはもうずいぶん前に芽生えてきていたのだと思う。それはたぶん、アイルをこの手にしたときから。
「そんな私の力の全てをもってして、私は次期王位継承者たる紫紺さまにお仕えしたい」
 未だ決まらぬ王位継承の行く末を口にした江連の覚悟が嘘で無いことは、その瞳を見れば判る。
 力ある者が上位に立つ竜人族の掟の中で、いつかは労せずして手中に収められるだろうと思っていたけれど。
 けれど、あの愚かな力無き者がこんな嫌がらせを続けてくるというなら、紫紺として手をこまねいているつもりはなかった。
 苛烈にして、その報復は凄惨。愚か者に情けなど必要ない。
 そんな紫紺の性質を見抜けぬ輩など、国を治める資格など無い。
「だったら、その育ての親の教育のたまものを見せてみろ」
「御意」
 嗤い返すこの男の、底力はまだまだありそうで。
「手紙を書くから、紺頼に渡してくれ。あいつならおまえ達に協力するだろう」
「紺頼さまですね、もちろんあの方もご協力していただく予定です」
 すでに算段していたのか、抜け目の無い男のやることはそつなど無く、怒りに満ちた江連に、紫紺もまた凄惨な笑みを返したのだった。


 最初に知覚したのは、痛みだった。
 鋭い痛み、重苦しい痛み、鈍い痛み。それらがありとあらゆるところにあって、いてもたってもいられなくて。
 動こうとしたのだと思う。
 けれど、まるでひどく重い重りが乗っているかのごとく、身体を動かすことは叶わない。それでも訳がわからぬままに動こうとして。
『アイル動かないでいいんだ、もう大丈夫だ』
 宥めるように、うまく動かない二の腕を撫でられたような気がしたけど、そのどこか遠い感覚は、自分の物で無いよう気がする。何より、それだけで消えた感覚がもどかしくて、自分の手を動かそうとしたのに。
『動くな』
 怒られたと思い震えた身体を、今度は抱きしめられた。
 ああ、これは紫紺さまだ。
 気が付けば視界は暗く、何も見えないのに、鼻孔をくすぐる匂いは、確かに紫紺のものだった。
「し、こ……ま……」
 喉も痛い。声が出ない。自分がしゃべっているのかどうか、うまく聞こえなくてよく判らない。
 それに少し冷たくて、寒い。
『アイル、まだお休み』
 優しい声が遠く聞こえる。
 どうして何も見えなくて、こんなにも聞きづらくて、そしてあちらこちらが痛いのか?
 それに。
『た、ま……、たま、ご……』
 お腹の中、どうなったのだろう?
 こんなに冷たかったら、お腹の中で温められない。
 なぜか大切な卵の存在をいますぐに確かめたい衝動に囚われて、込み上げる激しい不安にいてもたってもいられない。
 いますぐに確認したくてお腹を確認しようとした手は動かず、鈍い全身の痛みがさらなる不安を呼び起こす。
『しこ……さまっ、卵……卵が……』
 守らなければ。
 絶対に守らなければ。
 ああ、どうしてこんなことを思うのだろう、どうしてこんなに不安なのだろう。
 怖くて、不安で、助けて欲しくて。
 動かない手を動かそうとして、痛み呻く。そんな身体を、また紫紺の匂いが包んでくれて。
『大丈夫だ、卵は生きている』
『卵……たまご……』
 何度も何度も、訳もわからず呟く声に、何度も何度も同じ言葉が返ってくる。
『大丈夫だ、大丈夫、卵は生きている』
 それを何回繰り返されたのか。
 しばらくして、不意に言葉の意味が理解できた。
『卵、生きてる?』
 理解できた言葉を返したら、『そうだ』と答えが返ってきた。
『良かった……』
 ほおっと身体から力が抜けた。
 ああ、ほんとうに良かった。守った甲斐があったんだって。
『ちゃんと……お腹の中……いる?』
『ああ、大丈夫だ。ほら、もう少し寝ていなさい、寝ていれば回復も早く、元気になれる』
『うん……元気にならないと……。卵が、強い子になる、ように……守らないと……』
『……そうだな、だったら早く元気にならないと駄目だな」
 何を言われたのか判らぬままにこくりと頷き、不安から解放された意識がまた沈んでいく。
 ちゃんと休んで、早く元気にならないと。
 また卵を温めてあげらないと。
 ほんわりと暖かくなった精神のとともに、あれだけ冷たかった身体も暖かくなっていって。
 心地よい温もりに、一気に意識が深いところに引きずりこまれていった。


 腕が痛かった。足も、背中も……いろいろなところが疼き、痛んで、もっと深く眠りたいのに邪魔されて。
 心地よい眠りを邪魔するそれに、小さく、長く呻く。時折あやされるように撫でられていた手の感覚に、少しは痛みが和らぐけれど、また痛みに引きずり起こされる。
 そんなことを繰り返しているうちに、ぼんやりとした意識のままに、まぶたが薄く開いた。
 そのとたんに感じた明るい色に、数度瞬きをして、ああ、眠っていたのか、と意識が浮上する。
 白い部屋に白い灯り。
 質素な色合いながら清潔感が溢れる部屋で、アイルは自分が寝ていたことに気が付いた。けれど、ここは少なくとも見慣れた自分の部屋では無くて。
「どこ……?」
 ぼんやりと呟いて、きょろきょろと辺りを見渡すけれど、視界の半分ぐらいが何かで覆われているようで良く見えない。無意識のうちにそれを取り去ろうとして、右腕が動かないことに気が付いた。
 何で、と疑問に思いながら視線を向けるけれど、上掛けに隠れてよく見えない。けれど左手は動くようなので、持ち上げてみて。
 はらりと上掛けが肩から落ちて。
「!!」
 思わず視線を動かして、確かに自分の左肩から上がったはずの二の腕の肘から先が。
「あっ、あ──っ!!」
 叫んでいた。
 動かしたせいか、鋭い痛みが襲う。けれど、それ以上に、アイル自身の身に起こったことが奔流のごとく襲いかかってきたのだ。
 縛られた痛み、二ヶ所同時に犯されて、引きずり回され、むち打たれ。
 痛みが、苦しみが、恐怖と悪寒が一気に襲ってくる。
「いやあぁぁっ!!!」
 喉が裂けそうなほどの悲鳴を発し、アイルは過去から逃れようと抗った。
「アイルっ!」
「アイル様っ!」
 誰かが身体の上に覆い被さってきて、それがたまらない恐怖を呼び起こす。
 押さえつけられ、足掻く腕を取られて、縛られる。
「いやあぁぁっ、やああっ!!」
 また襲われる。また犯られる。
 お腹の中に卵があるのに、大切な卵があるのに。
「アイルっ、アイルっ」
 呼ぶ声も耳に入らず、襲う者から逃れるように身体を曲げて。
 その硬直した身体を、逞しい身体が覆い被さり、全身で押さえつけてきて。
「アイルっ、私だっ、紫紺だっ、紫紺だっ!」
「アイルさまっ、助かったんですよ、紫紺さまが助けられたんですっ」
 繰り返し、繰り返し、大声で耳元で叫ぶ言葉が、最初は判らなかった。
 くぐもっていて、誰か判別できなくて、それが陵辱者たちの声にしか聞こえなくて。
 けれど。
「アイルさま、ああ、アイルさまっ。……紫紺さまですよ、こちらは紫紺さまなのですっ」
 優しい手のひらが、肘から先を失った腕を抱え込みながら撫でさすってきて。
「お労しい……なんで、こんなことに……、申し訳ありません」
 その頬が肌に触れて、濡れているのに気が付いたとたん、脳が声音を理解した。
「あ……れ……」
 はっきりと見えない視界とくぐもった音の世界の中で、それでもその声音を識別することができたのだ。
 それは、いつも物静かにアイルにいろいろなことを教えてくれた傍仕えの。
「敬真、さま……?」
 そうだ、いつもアイルの傍にいて、世話をしてくれていたあの竜人の声だ。
「おお、アイルさまっ」
 聞き慣れた呼びかけに、強張った身体から力が抜けた。
 敬真がここにいるということ、そして敬真は大切な卵を抱いたアイルには決して危害は加えぬ事実。何より敬真は、やり過ぎだと紫紺を戒めることすらあって。
 そんな彼がいるならば、ここはきっと。
「たす、かった……の?」
「ええ、そうでございますとも」
 柔らかな物言いで、はっきりと、けれどゆっくりとしゃべられて、きちんと理解できることにすうっと恐怖も不安も消えていった。
 と、安心したとたんに。
「おい」
 不意に顎を取られて、敬真に向いていた顔を反対側に引き寄せられて。
「助けたのは私なんだがな」
「ひっ」
 思わず息を飲んだのは、明らかに不機嫌そうにむすりと口元を歪ませた紫紺が、至近距離で睨んでいたのだ。
「おい」
 さらに声音を低くした紫紺に、引きつった表情がますます強張り、身体が勝手に仰け反って。
「何で逃げる?」
 むすりと口元を歪ませて、強張ったままのアイルの身体を引き寄せる。
「あ、の、その……」
 だって怖いから、などと言える雰囲気でも無く、と言っても、普段から思っても言えない言葉だったけれど。
「紫紺さま、アイルさまはまだ麻酔から覚めたばかりで、混乱されているだけです。それに耳もまだ鼓膜が再生できていませんから、はっきりと大きくお話になりますように」
「……」
 敬真が庇ってくれて、紫紺がようやく手を離してくれて。
 ほっと息を吐いたのも束の間、ようやく先ほどの紫紺の言葉が頭を理解した。
 ちらりと見やれば、腕組みをして粗末な椅子に腰をかけている紫紺は、どこか疲れた風情を見せていた。
「あ、あの……助けて……いただいたって……」
「ああ」
 そっぽを向いていた紫紺が、ちらりとアイルに視線をやってきて。
「私があの場から救い出した。ここは城の侍従医が詰める医務室で、治療をしてたのだが、おまえはその腐った腕を早急に切り落とす必要が出て手術したところだ。今さっき鎮痛剤を入れたから、痛みはさほどないだろうが、動くと酷くなるから動くな」
 淡々と一気に説明されて。ゆっくりではなかったが、明瞭な物言いで、きちんと聞き取ることができた。
「それは……ありがと……っ、えっ?」
 理解するのに数秒かかった最後の言葉に、慌てて左腕の先を探す。
 さっき、見えたあの途切れた肘から先の姿は、あれは。
「縛られ血行が悪く腐っていたとのことだ。右腕はなんとか残っているが、後遺症が残っているかも知れないらしい、その検査はこれからだ」
「腐って……って、その……」
 堪らず持ち上げようとした右手はいまだ動かず、左手は敬真に押さえられたままだ。
「動かしてはなりません。今は麻酔が効いているでしょうから動かせますが……まだしばらくは。右肩は脱臼もしておりましたので、安静のために固定していますし」
 敬真が首を振るのを見て、慌てて動かすのを止めて。
「う、腕……。それに、あ、あの……なんか、足も……動かな、い、よう、な……」
 身を捩ったときに、下半身の動きも悪かったと思い出して聞いてみれば。
「大腿骨の骨折に加え、股関節も脱臼して筋を痛めておりますし、他にも傷がありますので、念のために固定しております。そちらは月日が薬で、回復いたしますのでご安心を。その間のお世話が私が詰めております。ご用がありましたら、お申し付けください」
「股関節……骨折……」
 想像がつかないほどの満身創痍状態に、痛みが薄いことが怖かった。鎮静剤なんて高級な薬、アイルだけだったらもらえなくて。それ以前にそれたけの傷を負っているというのなら、普通なら今頃死んでいるはずで。
「なんで……なんで、助かって……」
「おまえの国より我が国の医療ははるかに進んでいるからな」
 紫紺の言葉に、敬真が言葉を継いだ。
「それはアイルさまが生きたいと思われたからですよ。どんなに医術が進んでも、当の本人が生きたいと願うことが一番の薬になります故に」
 敬真の手が、優しく先の無くなった腕をさする。体温が低いはずの竜人の手なのに、けれどなぜかそれが暖かくて。
 その温もりに既視感を感じて視線を彷徨わせれば、ふと紫紺のそれと交わった。
「紫紺さま……」
 視界に紫紺の手が入ってくる。
 大きくて、力強くて、時に乱暴で。
 けれど、優しいときもあって。
 ああ、この手だ。あの時、教えてくれたのはこの手だ。
「夢……見ました……」
 不意に思い出したままに、言葉を紡いでいた。
 それに、紫紺が片眉上げて、続きを促す。
「思い出しました」
 そう呟いて、目を瞑る。
「卵……生きてるって、教えてもらったこと……」
「ああ、覚えていたのか」
 何の気負いも無しに返された言葉に、あれはやはり紫紺だったのだとうれしくなった。
「……ありがとう……ございます」
「事実を教えてやっただけだ」
 だけど、あの時感じた温もりも同時に思い出していた。
 あれはとても優しい暖かさだった。
 そんなことを考えたせいか、引きつる口元が、それでも柔らかく綻んだ。
 優しくしてもらえるとうれしい。
 とんでもなくうれしい。
 それは身体に響く痛みすら忘れさせてくれるほどだ。
「……落ち着いたら館に戻る。しばらくは静養すれば良い」
「……あの……」
 淡々と事実だけを教えてくれる紫紺は、いつもと変わらないけれど。
「ありがとうございます」
 今の心境に押されるように、礼の言葉ばかりが口を吐いて出てくる。
 助けてくれてありがとう。
 教えてくれてありがとう。
 優しくしてくれてありがとう。
「敬真さまも……ありがとうございます」
 みんな、きっと助けるために何かをしてくれた人たちに。
「とんでもありません。お守りできなくてお詫びせねばならないほどですのに」
 首を横に振る敬真の言葉に、それでもアイルは「ありがとう」と繰り返した。
「でも、助けて、もらいました……。卵が、助かったから……」
 大切な卵。
 助かったのだと口にしたとたん、手が動かないのが悔しいくらいに、頑張ってくれた腹の卵を抱きしめたくてたまらなくなった。
「……良かった……」
 動かない腕の代わりに、涙腺が一気に緩んで、多量の涙が湧き出す。
「生きてて……、良かった……。卵が無事で良かった……」
 冷たくて痛くて苦しくて。
 腹も何度も殴られたし、中も激しく突き上げられて。もう駄目かと思っていたのに、けれど。
「良かった……良かったぁっ!……んぐっ、ひくっ……良かった……生きてて……無事でぇ……」
 ヒクヒクと痙攣するかのような嗚咽を漏らして泣き出したアイルに、紫紺も敬真も驚いていたけれど。拭うことも止めることもできなくて、ただ「良かった」と繰り返し泣き続ける。
 そのうちに紫紺が呆れたようにため息を吐いた。
「腕が無くなって、満身創痍だっていうのに、何が良かったんだ?」
 呟いて、そっぽを向いて。
 それでも、助かったことに、卵が無事だったことがうれしてたまらない。
「卵、無事だったぁ……良かったぁ」
 泣きじゃくりながら言葉を繰り返す。それしか知らないように何度も何度も口を突いて出る。
 そんなアイルの様子に、紫紺と敬真が顔を見合わせて。
「バカだな、おまえは……無理矢理卵を抱かされて、そのせいでこんな目に遭ってるのに」
 考えられんと肩を竦める紫紺に、アイルは泣きながら笑みを浮かべた。
「だって、今預かっているのは紫紺さまの卵だから。大事な紫紺さまの卵だから……」
 無理矢理でもなんでも、それでももうこのお腹の中にいるのだから。
 大切な卵、何よりも大切な卵だから。
「……ほんとに耳長族の母性本能ときたらたいした物だな」
 呆れた風情で言い捨てられた紫紺の言葉だったけれど、アイルはそれでもうれしかった。そこに侮蔑の感情は全くなくて、それどころか悦んでいるように見えたから。
 痛みに顔を顰めながらも、思わず口元を綻ばせて悦んでいたら。
 不意に紫紺が俯いて大きくため息を吐いて。
「一週間後には館に戻るために、今はしっかりと休め。しっかり休んで、早く治せ」
 それは先ほどまでの淡々とした言葉とは違っていて、やけに優しく響いたような気がする。
 何より、いつも冷たく引き結ばれた紫紺の唇が僅かとはいえ弧を描いていて。
「卵を守りたいなら、まずはおまえ自身が元気にならないと……」
 額に触れてそっと下りた手が、腫れた目を覆う。
「眠れ、今は。休め、何も考えなくて良いから、自分の傷を先に治せ」
 良く聞こえぬ音の世界にいてさえも、その声音に込められた優しさは、今のアイルにもしっかりと感じ取ることができたのだった。  

【了】

ここでいったん一区切りつけます。続くどうかは気長にお待ちください。