【託された想い】7

【託された想い】7

 二日前に相談を受けた、商団長曰くやっかいな揉め事は、けれど紫紺の手腕にかかれば数度の交渉でたやすく処理できて、こんな簡単な問題を早々に処理できなかった商団長に厳罰を与える。
 そのまま馬の踵を返して館に帰還したのは、出発から四日後のことで、我ながら素早く処理ができたことにほっと一息吐きながら、ふっとアイルの様子が気になった。
 毎日の性交は、強い子のために必要とは言え、こんなふうにいきなり出かける時にはやっかいな習慣だ。だからこそ、他者に相手をさせる者も多いのも道理だとは思うが、なぜかアイルを他に任せる気はしなかった。
 だから淫具を渡し自分でするように言っておいたが。
 それにしても、本当に毎日性交しなければならないほどに激しい刺激が必要なのだろうか?
 ふと、そんな疑問も湧いてくる。
 その昔地熱を利用してた頃も、胸に抱いて温めていた頃も、一日に一度程度回転させていただけだと聞いたことがある。少なくとも振り回したり、突き上げたりなんてことはなかったはずだ。
 強い子になるには必要とは言われているが、その根拠はいったいどこにあるのか。
 そう思うようになったのは、1ヶ月程前に親友と会ったときの会話が発端だと判っている。
『私は毎日していない。しないときは散歩をさせて、適度な運動をさせているが、それだけだ。だが腹の子は順調に大きくなっていると貞宝は言っていたぞ』
 紫紺の精を受けて卵を産んだ親友の紺頼(こんらい)は、昨年手に入れた耳長族をなぜかひどく可愛がっていた。
 強い子が欲しいから紫紺の精を受けたのだと思っていたけれど、そうではなくてただその子に卵を預けたかっただけだということを、この前始めて知ったのだ。
 竜人族では、子は卵を産んだ側の家に所属する。片親が王族であってもだ。だから親友が産んだ卵は、紫紺の卵と兄弟であっても、彼の家のものでしかないのだけど。
 それでも、血の繋がりは多少なりとも子どもにも影響する。
 同じ才覚ある者が二人いたとき、出世するのはやはり血統が良いほうになるというふうに。
 だが、彼はそんなことはどうでも良いらしい。しかもより強い子が生まれることにも興味がないと言い放つ。
『おまえと私の子であれば、そこそこの力を持つ子が生まれるのは確実だ。それで十分だと思ったんだ』
 そういえば、家柄も良く才覚もあるくせに出世欲の薄い妙な男だったなと思い起こす。もっとも薄くても要職に就いてしまうほどに、優れてはいるのだけど。
 その妙なところが気に入って、いつの間にか親友になったのだ。
 その紺頼が、任務の一環で覗いた昨年の競売所で、耳長族の子を一目惚れして買い付けたのだ。その子は特に目立ったところのない黒色種で、耳が常時垂れているところが変わっていると言えば変わっているだろうけれど。
 競売の場で怯えて硬直しているのが多かった耳長族の中で、たまたま視線が合ったらしいけれど。
 すでに運命を受け入れるぐらいに聡かった彼は、他の誰よりも静かな瞳をした紺頼に気が付いて、きょとんとした表情で心持ち首を傾げてしまったらしく、その様子が紺頼には存外にかわいいと思わせてしまったのだと。しかも、不意に穏やかな笑顔を見せられて。
 紺頼は一目惚れだと言っていた。
『なんかさ、この子が欲しいって思ったら止まらなくなった』
 卵を産む予定などなかったから競売への参加資格など無かったけれど、地位とコネと大金を使って無理に手に入れたと、はにかむ笑顔で告白してきた紺頼は、あまりにも似合わなく、紫紺ですら言葉を飲んだ。
 紫紺だからと連れて見せてくれた耳長族の彼を、愛おしそうに抱き寄せるのも、似合わない。
 何しろ彼は仕事柄、強盗も避けて通るほどに眼光鋭い強面で、そんなでれたところなど目にする者などおらず。
 けれど、そんな紺頼に対して、耳長族の彼が見せた微笑みは確かに穏やかで優しくて。
 垂れた耳がふるふると動く様も合わせて、ひどく可愛らしく。しかも、どこかアイルがたまに見せる笑顔に似ていて、暖かな気分になってしまった。
 色は黒だれど、その笑顔の暖かさが同一なのだ。
『ただ、二人でまったりと過ごしていたら、次の競売の時期がきてな』
 苦笑交じりで教えてくれたところによれば、いまだ卵が孕まされていないのは欠陥品だったのだろう、だから廃棄しろという話が親族から出て、慌てたあげくの受精要請だったらしいけれど。
 そんな似合わぬ告白は、似合わないからこそ信じられた。
『私がいる部署は殺伐としているだろう。せめて家の中くらいゆったりと過ごしたかったのさ』
 犯罪者を取り締まる警邏隊の総司令である紺頼の言葉には実感がこもっていて、そんな考え方もあるのだなと意外に思ったのも事実だ。
 それを聞いたとき、不意に、竜人族と耳長族の関係に疑問を思い始めたのだ。
 あの兄王子に与えられた貴種のように、それこそ休む間もなく性交させられたとしても、実のところ今年6歳になる子の能力は、王族の中ではどちらかというと凡庸なのだ。一般貴族からすれば優れているとは言えるけれど、あれは紫紺の同時期から比べても、たいしたことがなさ過ぎる。
 実のところ、兄王子より第二王子である紫紺のほうが優れているのは、皆公言しないだけで周知の事実だが、親である現国王は、紫紺の時には一人目ほど熱心に性交していなかったというのを、アイルの傍仕えにつけた敬真から聞いている。彼は若い頃、紫紺の托卵先である耳長族の世話係もしていたからだ。
 兄王子が生まれた後、念のためにと産んだ卵のために用意された耳長族に対しては、国王はもう義務感しか無くて。かと言って、兄王子のように完全に他者に任せることなどもせずに、どちらかいうと性欲解消のための道具のような扱いだったらしい。それでも国王の卵を託されていたからか、きちんとした世話はされていたらしく、乱暴もされなかったのだと。
 それに第一王子より優れた子は後々の災いになることも考えられて、だからこそ性交による刺激は必要で無いと思われていたらしい。
 その耳長族は、紫紺を生み出した後も、ある意味放置状態だった第二王子の授乳係、世話係として過ごして。
 記憶に無い頃のほとんどを、その耳長族とともに過ごしていたらしいのだ。けれど、記憶に残っている頃になると、もう敬真が世話をしてくれていて、今の紫紺の記憶には彼しかいない。
 そのため、敬真は紫紺にとって、今も大切で煙たい爺やなのだけど。
『彼は病にかかり、紫紺さまより離されました。すでに授乳期間も終わっており、役目は終わっておりました故に』
 敬真に問えば、答えはそんなもので。
 それはともかく、生まれた紫紺は毎日励んでいた兄王子より優れていたということになる。
 そんな話を昔聞いたことがあって、今回敬真に再確認をしてみたのだが。
 そうしたら、無言になってしまったのだ。そんな姿は珍しくて、ただ黙って彼が口を開くのを待っていたら。
 ようやく教えてくれたのは。
 紫紺を温めてて生み出した耳長族は、敬真の元に下賜されて、その後彼の卵を抱いた後、そのまま彼の元で暮らし数年後に死んだのだと。
 ただ抱卵させたその頃、ちょうど敬真自身が侍従としての仕事が増えてろくに帰宅できない日々が多い時期と重なり、そんなに性交をする暇も無く、週に一度しかできなかった。だが、生まれた子は長じるにつれ親よりもできる子だったのだという。
『彼は、不在がちの私に代わり、熱心にその子を育ててくれました。ええ、紫紺さまのときと同じように、慈しんでくれたのです。その様子に、私も紫紺さまの時と同様に授乳期間が過ぎてもそのままあの子を預けていました。もとより、彼の人柄は紫紺さまの時によく存じておりました故に。結果、三歳になって教育機関に預けることになるまで実の親の私よりも熱心に育ててもらえて。その関係か、彼の価値観は彼の教えそのものです』
 それが原因かどうか判らぬけれどと前置きして。
『長じた子は、穏やかなところはありますが、剣技、戦術に特に秀でており、今は第六騎士団で副団長をしております』
 その言葉に目を剥いたのは、我が国の軍事の要である10の騎士団の20人の副団長のうちの一人と言えば、相当に優れている部類に入るからだ。剣技、体術、戦術、戦略、人格、ついでに事務処理能力にその他もろもろ、どれが欠いても務まらない仕事だ。
『精を提供した者もそれほど優れているわけではありませんでしたから……。実のところ他にもそういうものを数人知っております。最近頭角を現している竜人たちは、ほとんどが耳長族に長く世話をされていたという庶民の者たちです』
 言われて、この館にいる者達も、幾人かは一般庶民の出から採用された者達だと気が付いた。
 確か、腕の立つと評判の警備官の一人もそうだし、執事見習いの若者もそうだった。
『それに、そのように育てられてた記憶が息子には残っておりますので、彼ら自身も托卵した相手を大事にし、授乳期を過ぎても任していました。そんな孫は気配りが利いて、そこそこの才覚はあるようです。まあ性格的に少し癖があって……ちょっと困るところはあるのですが』
 珍しく言いよどむ様子が不思議に思ったが、ごまかすように敬真は首を振って言葉を続けた。
『もっとも、中には劣ってしまったと言えるような事例もございますので、絶対とは言えませぬ』
 その言葉に、確かにこれだけの例であれば、明言できないのも当然だけれども。


 そんなことをつらつら考えているうちに、アイルがいる抱卵部屋に辿り着く。
 けれど、扉を開けて、すぐに異変に気が付いた。
 いるはずのアイルがいない。
 浴室にもいない。隣室に傍仕えとして離れることのないはずの敬真もいない。
「アイルっ」
 堪らず声を上げて呼んだが、応えなどあるはずもなく、同時に館の様子が変なことにも気が付いた。
 紫紺の鋭敏な気が、館の人の気配が少ないことを察したのだ。
 さっきまで深く考え事をしながらここまで来たから気が付かなかったが、そういえばと思い出せば、出迎えも少なく、見知った者達が足りなかったような気がする。
 足早に部屋を出て、階下のホールへと向かう。
 うろうろと所在なげにしていた館の召使いに執事を呼べと伝えれば、なぜか彼はしどろもどろに言葉を紡ぎ、ひどく怯えていたのだ。
「あ、そ、の……ああ、い、いないのです、執事も……みんな……」
 そのままガクガクと震えて、床へとへたり込んでしまった。
 その酷い怯えようにも驚いたが、何より執事がいないとはどういうことなのか。主人不在の今、彼こそがこの屋敷の要だというのに。
「い、ない……? ならば警備長はっ」
「け、警備長、さまも……いないんですぅぅっ」
 ほとんど泣き叫ぶように、彼が言い放つ。
「みんな、いないんですっ」
 いるはずの者がいない。
 それに、この彼も、こんなふうに意味も無く怯えるほどに弱い輩では無かったはずだ。
 あり得ない状況が起こっていることは確かで、何よりアイルの姿が見えないことにひどく苛立った。
「ここへ皆を集めろっ、今すぐにだっ!」
「は、はいぃぃっ」
 館中に響きたるほどに声に、召使いが走り、去った方向から蒼白な面持ちの者達が集まってくる。
 一人二人、集まるのにたいそう時間がかかったのは、彼らがのろのろと歩いてくるからだ。
 急げと言ったのに従わぬ彼らを叱咤する前に、皆が一様に怯えて、背後を窺っているのにも気が付いた。
 それに、いずれも知っている者ばかりだが、特に主要な者達が見当たらない。
 執事長と執事たち、秘書官たち、警備長に警備兵。何より、爺やがいない。執事長とともに、この館を取り仕切っている彼すらもだ。
 いつもなら率先して集まり、紫紺に代わり彼らを束ねるべき者たちがいない。
「いったい何が起こった?」
 問うても、皆顔をつきあわせ黙りこくったままだ。しかも何かにたいそう怯えている。
 どうやら相当な脅しをかけられていると、どうしたものかと苛ついたけれど、ふと最後尾にいた一人が、やたらに視線を一カ所に向けていることに気が付いた。
 それが他の者であったならば気にもしなかったろうけれど、最近その才覚を気に入り始めた者だったのだ。
 2ヶ月程前、自ら使って欲しいと商売で街に出てきたときに声をかけられて、その物言いといい、弁舌といい
態度といい。どこか心惹かれて、他の者と相談すること無く連れてきた男だった。
 執事長の判断でまだ召使いの一人でしかないが、使ってみれば頭が良く、機転も利く。腕っ節も案外強そうだと思うのは、その皮膚の下に感じる筋肉の力強さだ。しかもその鋭い洞察力は紛れもなく、鍛えれば、いや今でも十二分にも使えそうだと思っていたのだ。
 どうやら親族に騎士団の者がいるらしい話しぶりに、それが真であれば氏素性も問題ないのだろう。騎士団に入る者はその素性を徹底的に調べられて、許可された者しか入れないからだ。
 その話が真かどうか、そのうちに調べようとは思っていたのだが。
 そんな彼の視線が向かっているのは、集まった十人の中でただ一人、帯剣している警備の者であることが判った。と同時に、その意味を理解する。
 何しろその顔を、紫紺は未だかつてこの館で今まで見たことが無かったのだ。
「おい、おまえ」
 その男を指差し、皆の行方を言うように促せば。
「皆、休みを取るとか言って、一気にいなくなりましたんで。そんでその間だけでもってことで、俺が警備の代わりに雇われたってことでして。ええ、あの執事のじいさまも、さすが紫紺さまにお仕えされてる身で、お目が高いですねえ」
 そのぞんざいな物言いに、眉間のしわが深くなる。
 少なくとも、こんな輩を採用するなど、あの執事長や警備長からすると考えれない。
 まるで人を小馬鹿にしているような……。
 これを知らせた男も、同じように小馬鹿にするにことはあったけれど、それとこれとはその示す意味も底も違う。
 この男からするのは、下手な丁寧語がよけいに不遜を露わにする愚かな犯罪者の臭いだけだ。
「ただねえ、一人では大変だって思ってたら、紫紺さまが早々にお戻りになられて、本当に良かったって思ってたところなんすよ」
 ニコニコと、この非常時に零すなど信じられない笑みに、じわりと怒りが込み上げる、それでも。
「ほお、おまえは、私が認めた執事や警備長、それに私を子どもの頃から世話してきた爺やまでもが、不在中に勝手に出歩いてると言いたい訳か」
「え、あ、いや、でも、それがほんとのことなんで……」
 それだけ言えば良いとでも言われていたのか、反論の仕方までも教えてもらっていなかったのか。
 しょせん使い捨て程度の愚かな大根役者は、黒幕がそれだけ紫紺を愚弄しているのだと教えてくれる。
 自分の絶対的地位に慢心して、笑いものにしている相手が何をしようとも無駄だと思っているだけなのだ。
 それもこれも、面倒だから放っておいたからこその、相手の慢心なのだろうけれど。
 その面倒さも、今この時点では立ち消えている。
 鋭く男を見据えれば、あたふたと戸惑う輩に、苛つきは増し、すでに言葉を取り繕う気もなくて。
「言えっ、皆はどこだっ! 言わぬとここで断ち切ってやろうかっ」
「ひっ、そ、そんなん、言われてもっ! ああ、あぁ、俺は知りませんって、あっ、あの耳長族がみなをたぶらかして、外に連れ出してもらって。ああ、そう言ってたっ、って……ひぃ!!」
 その言葉を聞いたとたん、ぞわりと全身の鱗が逆立った気がした。
 まさしく逆鱗に触れた、と、紫紺を知るその場の誰もが感じたのだろう。
 この館の誰もが、アイルが他人をたぶらかすような者ではないと知っているからだ。
 あれは、紫紺の卵を育てている、大事な存在。
 耳長族であろうと、そのことがアイルの立場を位置づけていて、たとえ耳長族といえど、だれもが「さま」付けで呼んでいるのだから。
 しかも、彼がそんなことで驕り高ぶっていないことは、皆よく知っている。
 紫紺が絶対的信頼を寄せる爺やである敬真が、あれは、控えめだが、自分の役目に忠実で、立場をよくわきまえた聡い子だと言っているのを、皆は知っている。
 それを知らぬということは、これは敵だ。
 紫紺の怒気をまともに浴びた男が後ずさる様に、背後の彼に目配せして。
「ひっ」
 いきなりの体当たりに体勢を崩した男に一足飛びに近づいて、一気に男の剣を引き抜いた。
 そのまま、剣の腹で膝辺りを力任せに叩いてやれば、ボキッと小気味良い音と無様な悲鳴を上げて男が崩れ落ちる。
「こいつだけか」
 崩れた男を組み伏せるのは任せて、短く問えば、平坦な声が返してきた。
「それが監視役でございます。我々はその男含めて数名に監視されていたのですが、外からお戻りになられるという連絡があって、他の監視役は館より出て行きました。ただ……」
 一気に緩み、泣き出す者までいる中で、江連(こうれん)という名の彼が凜とした様子で報告する。
「秘書官さまがっ、俺庇って切られてっ!!」
 その言葉に被されるように、興奮しきった泣き声がホール内に響き渡った。
「みんなっ、どっかに連れてかれたっ。あんなにケガしてんのにっ。お、おれたちだけっ、いつものようにしろって、いつものように館を動かせって。でないと、みんなを殺すってっ!!」
 もっとも年下の下働きが紡いだ舌っ足らずの言葉からは、必要な情報が欠けている。
 けれど、何者かが明かな悪意をこの館に寄せたことを理解するには十分だった。
「そうか」
 彼らは竜人族の中では弱い。弱い故に、強い者の庇護下で働くしかない者達だ。
 だからこんなことで震えて怯える彼らを蔑む思いがあるのは、嘘では無い。だが、彼らが無事で喜ぶ心もあることは事実だ。
 弱くても彼らにもできることはある。それは紫紺がする必要が無い事ともいえるが、だからこそ彼らがいないと生活が成り立たないものでもある。それこそ料理であり、洗濯であり、庭の手入れであり。
 耳長族も弱い。だが、彼らがいないと竜人族の人口は救いようが無いほどに減じていたのは確実だ。
 ならば耳長族だからというだけで、あんな目に遭わせるのは間違っているのではないか。
 最近、考え始めた思いが、またぞろ頭の中を締めていくけれど。
 胸につかえていたものを吐き出したかのように、泣き出した下働きを、庭師である男があやすように抱きしめる。
「昨日昼過ぎ頃、10人ぐらいのものが押し寄せてきて、逆らう者に切りつけ、アイルさまを人質に取り、主立った者をどこか別の所に監禁しました。ケガした者の傷は浅いようには見えましたが、今は判りません。その後すぐにアイルさまは館から一番に連れ出されました……」
「アイルが……」
 これ以上に無い驚きが、けれど一瞬で冷めたのは、激しい怒りで支配されたからだ。
 紫紺の卵を孕んだアイルに危害を加えると言うことは、卵とは言え王族に連なる子に害を与えるのと同様で、反乱にも等しい。そんな大罪を犯す輩などそういるものでは無く、まして城とは別とは言えここは王城の敷地内だ。こんなところに賊が入る事など普通ならば考えられない。
「紫紺さま、推測ですが……」
 鋭い眼差しを隠した江連の、そこで途切れた言葉が、ひどく悪い予感を引き起こす。
「襲撃の目的は、卵以上に、紫紺さまが気に入っておられるアイルさま。もっとも相手にしてみれば、単なる嫌がらせなのでしょうが、あの方の嫌がらせが度を過ぎているのは言うまでもないこと故に……」
「そうだな」
 わざわざこんなところに忍び込んで、一部を監禁し、一部を脅して普段通りに動かせる。
 江連がその名を口にせず指摘したことは、きっと事実だろう。
 事件が発覚が数日遅れれば良いだけの、それだけのからくり。さすがに館の者を殺せば、後々面倒になるけれど、耳長族一人いなくなったくらいでは、誰も相手にしない。
 紫紺が騒がない限りは、誰も。
 その紫紺がこんなに早く帰るとは思ってもみなかったからこその雑なからくりの向こうで、すでに一日経っているだけでも、あれは高笑いをしているだろう。
「まずは残りの者を助け出す必要がある。皆で心当たりを探せ」
「承知いたしました」
 深々とした礼も一瞬で、すぐに彼の口から指示が飛ぶ。
「それとおまえは……」
「ひぎぃぃっ!!」
 縄で拘束され、転がされている男の折れた足に、体重をかけて、怒りを堪えて静かに話しかける。
「誰に頼まれた?」
 恐怖に彩られてはいても、その口は固く閉ざされた。言うつもりは無いのだろう。もっとも聞くまでもなく想像はついていたが、少しはその名を口に出させたかった。
 さすがに卵に手を出すなどと愚かでもないとは思っていたのだが。
 だが、今は。
 噛みしめた奥歯が嫌な音を立てる。
 口角から覗いた犬歯が、唇を深く抉る痛みすら、内心で暴れまくる怒りを鎮めてはくれない。
 もしかしなくても、油断をしたかもしれない。ここまで実力行使をするとは思っていなかったのは、今から考えれば明らかな油断だ。
「ぎあっ、あっ、あっ」
 ぎりぎりと怒りにまかせて踏みつけた太股が、ぐしゃりと嫌な感触でつぶれていく。
 散らばる血液に、肉食の血が騒ぐ。
 緑水晶の瞳が赤く濁り、込み上げる衝動にこのまま八つ裂きにしてやりたくなったけれど。
 まだアイルの確認ができてない。その思いが紫紺の凶行を引き留めていた。
 それでも嫌な予感はふつふつと湧き続けている。
 さきほどの彼の言葉は的を射ているはずだ。
 あれの目的は、紫紺を嘲笑うこと、紫紺が気に入ったものを奪い、壊すこと。そして……。
「紫紺さまっ、数名を見つけましたが、その者達によると、やはりアイルさまは別に連れ出されたとことです」
「……そうか」
 卵を孕んだアイルを奪い、その胎内の卵ごと壊すこと。
 この前、あの貴種が死んだという情報を得ていることが、内心の不安を駆り立てる。
「城に行く」
「はい、ではお着替えを。また秘書官どのは医者に診せる必要があります故に、私がお供いたします」
 その言葉に、進めようとした足が止まった。
 理由も何も聞かぬのは、彼もまた今回の犯人の目星がついているからだろうけれど。
「不要だ」
「王位継承の王子として登城されますのに、供の一人もお付けにならないのは足下を見られてしまいますので」
 くすりと笑って言ってのけた江連に視線を向けて、もしかするとこれは拾いものだったかと、その均整の取れた体つきを見やって。
「……確かに、こんな下郎の血にまみれた服で一人で登城するなど、論外だな」
 面倒でも、格式というものがある。
 下手をすれば王族が住まう場所まで入る必要があるかも知れず、その場合では少なくとも略装は必要なのだ。そんなことに拘るつもりはいつもならないが、揚げ足を取られるほうが時間の無駄だ。
 それを正確に理解していると思える男を振り返り、紫紺は手短に命令した。
「今この場を持って、おまえを私の秘書官に任命する。筆頭だ。」
 その言葉に、さすがに面食らったようにその鋭い目が見開かれる。けれどすぐにいたずらっぽく、崩れた。
「謹んでお受けいたします……。もしかして、最速出世かな?」
「本気を出さねば、最速降格かもしれぬな。元筆頭も決しておまえには劣らぬ故に」
「それはがんばらなければなりませんね」
 気負いなく、衣装の指示を出す彼の姿は、昔からやってきたように慣れていて。少なくともそういう教育を受けていたか、それとも見ていたかのように思える。しかも、その横顔に古い過去の記憶が重なって。
「おまえ、まさか……爺やの孫か?」
 騎士団副団長の息子で、敬真の困った癖があるが才覚のある孫の話と、親族が騎士団にいるという頭が良くて機転は利くが、どこか得体の知れない男の話が合致する。
 何より。
「あれ、何でばれちゃいましたか?」
 あっけらかんという男の横顔は、確かに敬真の若い頃にそっくりだったのだ。