今日の夜空は、雲一つ無い星空だと、天気予報が知らせていた。
だが、もはや深夜と言って良い時間でも、瞬く星を見ることは叶わない。代わりに原色系のネオンが空を明るく照らす。
それでも、と目を凝らした笹木秀也だったが、視界には星の微かな瞬きすら目に入らなかった。
だからこそ余計に思い出す。
満点の星空と澄んだ空気。
けれど、ここではそんな穏やかな夜は望めない。
秀也は空から視線を外し、伏せた顔から細く長い息を吐き出した。今聞こえるのは蛙ではなく明るい女性達の嬌声だ。酒に酔い、雰囲気に酔った今夜のお客達はかしましい。よっぽど気に入ってくれたのか、高級な酒を惜しげもなくオーダーし、対価の甘い言葉に浸っている。
数ヶ月前に改装したせいか、前より明るい雰囲気になった店内は、昔より若い女性客が多かった。
そんな昔の仕事先のイベントに、先輩である明石雅人に呼び出されて否応なく手伝わされるにはブランクが有りすぎた。
煌びやかな衣装に身を包み、終始笑顔でいるのは結構疲れる。
忙しさにかまけて飲まないうちに、少し弱くなっているようだ。
手順を忘れ、困ったことも一度や二度ではない。
だが、客が離れないから、なかなか外れることもできなかった。
「さっさと帰りたいのにな」
再度明るい夜空を見上げて、ため息を吐いて。
秀也は店内へと踵を返した。
「今夜だけなんてもったいないわ」
閉店まで残っていた最後の女性客がそう言い残して帰って行くのを、雅人と共に見送る。
タクシーの姿が見えなくなったところで、ようやくタイを緩めて息を吐き出した。
「疲れたか?」
笑いかけてくる雅人も、疲労の色が濃い。
「雅人さんこそ」
「ん?、俺はまだブランクが短いから、な」
苦笑に、「そうですね」と笑い返す。
けれど。
「秀也の敬語なんて久しぶりだな」
言われて初めて、言葉遣いが変わっていたことにも気が付いた。
昔に戻ってしまったことに、苦笑いを深くする。
「まあ、でも……」
視界の中で雅人が店の近くにあった誘蛾灯を見上げた。
ジジッ
バチッ
紫外線の強い光の中で、繰り返される音が耳まで届く。
秀也もぼんやりと誘蛾灯を見つめた。
その時、一際大きな蛾が、誘い込まれて。大きな音がした。
──捕まえられたか……。
二人の間に、沈黙が漂う。消えてしまった蛾の代わりに、次の虫が幾らでもやってきた。性懲りもなく、と思うけれど、それが誘蛾灯だ。命を失うとも知らず、光に誘い込まれてしまう。
「もう夜の仕事はやりたくないね。やっぱ、疲れるし」
ホストも、有る意味誘蛾灯に近いと思う。
商売と割り切った男達の手管に惹かれ、集まる女達。
甘い言葉は表面上のものだけでしかないのに。
今日店に落とされた金は、秀也が普通に働いた時よりもはるかに多い。それこそ、ある女性客など、秀也の今の月収と同じだけの金額を払っていった。
昔はそんなことなど気にもかけていなかった。
それが普通だと思っていた。
けれど今は昼間の仕事が良い。建物の中に大半いるとしても、明るい陽光の下で起きていることが嬉しい。
「そうですね」
だから、秀也も頷き返す。
客に偽りの言葉を吐き続けて、今ようやく本音を呟いて。
その瞬間、ひどく心が安らいだ。
バチッ!
また一際大きな音がして、思わず視線を動かした。
ひらりと何かが舞ったように見えた。だが、灯りの影に落ちたそれはもう見つからない。
しばらくして、雅人が何かをぽつりと呟いた。
視線を向ければその横顔の口元が歪んでいた。
「ヘタに固定客なんて付いた日には……浩二に何されるか……」
掠れた声音がかろうじて聞こえた。さすがにその言葉は聞こえないフリをしたけれど。
その言葉に誘われるように、恋人の事を思い出した。
正月に行った優司の実家は、田舎の一軒家だった。こんな都会には無い星空一杯の夜空はひどく澄んでいて、怖いほどだと思った事も思い出す。
季節が変われば蛍も見られるし、カジカ蛙の鳴き声も聞くことができるよと、教えてくれた優司の母。
聞いてみたいと呟けば、『いつだって来れば良いんだよ』と笑って言ってくれたから、また行きたいと思い出すたびに考える。
そこには、誘蛾灯なんか無いだろう。
自然の光が蛾どころか、人を誘う。
自分の郷里でもないのに、なんだかひどく懐かしい。
「雅人さん……」
「ん?」
「優司の田舎……行きませんか?」
「ん、え?」
驚いて目を見開く彼に笑いかけた。
「すっごい田舎ですけど、ゆっくりできますよ」
「……あの優司のねえ」
呟きながら考え込んで、くすりと一瞬笑ったようだが、その顔がすぐに歪んだ。
「でもさ、あの、智史さんがいるんだろ?」
その表情の意味はさすがに判って、秀也も曖昧に頷いた。
確か、雅人達はそんなたいした被害は受けていないと思ったが、それでも本能的には判るのだろう。
雅人とて、人を相手にする仕事をしてきたのだ。
相手の質が見抜けないようでは、ナンバー1などにはなれない。
しばらくして、肩を竦めながら雅人が答えた。
「……今度浩二に聞いてみるよ」
「良い所ですから」
行ってしまえば気に入るだろう。
根っから都会の人間である二人にとって、長く住みたい場所ではない。だが癒される場所であることは間違いない。
特にこんな疲れた夜には、行きたいと切に願う場所なのだから。
「じゃ、お先に」
疲れた体をタクシーから引きずり出す。まだ中にいる雅人に手を振ると、向こうもずいぶんと怠そうに返してきた。
しばらく店で休んでから始発の電車で帰ろうかと思ったけれど、疲れ切った体は駅の階段を思っただけで動けなくなった。それに、雅人がどうしても帰りたいと言ったのだ。
便乗させて貰って、実際助かったのは事実。
自室の前に立って鍵を取り出す。
カチリと金属音が静かな空気の中に響いた。
ぼんやりと習慣の通りに鍵を回す。けれど、手応えが違う。
「あれ?」
首を捻って、もう一度差し直そうとして。それより先に、ドアが勝手に開いた。
「お帰り」
驚くより先に眠そうな顔に気付く。いや、不機嫌なのか。
伝わる気配に思わず顔を顰めた。
というより、今日来るなんて聞いていない。だから、バイトの事なんて言っていなかったのに。
秀也は小さく息を吐き出すと、小さな声で呟いた。
「……ただいま」
窺うような声音で返したのは、後ろめたさからだ。
「遅かったね」
けれど、優司の声音はいつもと同じになって、言われた「遅い」という言葉に、少し安堵した。だから、口の端を上げて笑い返す。
遅いどころか、遅すぎる。
深夜よりは夜明けの方が近い時間だ。
「寝ていれば良かったのに」
「う?ん……ビデオ見てたんだよ。秀也の、借りてた奴、いっぱいあったし。ついさ」
「ああ、近くに安いレンタルできたんだよ、ほんとは今日見るはずだったのに」
安いけれど、期間も短い。
明日には返す予定のそれらを秀也が見る暇は無いかもしれない。けれど。
「でも、優司が見てくれたんなら、元は取れたかな」
台所から隣の部屋に移って、スーツの上を脱ぐ。
「タバコ臭い」
くすんと鼻を鳴らして顔を顰めた優司に、「ごめん」と返して自分の腕を匂ってみた。
「麻痺してんのかな、凄かったから、タバコの煙」
「副流煙てのがあるんだからね」
「ん?、もう無いと思うし」
優司がどこまで知っているのか判らない。けれど、責める様子はないから、事情は知っているのだろうと思う。
となると、情報源は浩二だろうか。
自分と雅人以外でそんな連絡を取ってくれそうな人物は彼だけだ。それとも連絡の付かない秀也に焦れて、優司の方から浩二に聞いてみたのかも知れない。
取り出した携帯に残った着信履歴に、そう推理した。
疲れ果てて、マナーモードで放り出した携帯をチェックするのも忘れていた。
けれど、そんな事はどうでも良い。
優司が怒っていなくて、ずって待っていてくれたというその事実が嬉しい。それこそ疲れた体が一気に元気になったほどだ。
「ごめんな、留守で」
「いきなり来たからな」
「で、何で来たんだ? 休みなんて聞いていないし……?」
「ん、と……最近会ってなかったら」
そんな言葉を耳まで赤くなって、しかも上目遣いに言われたら、秀也の理性は意図も簡単に音を立てて崩れ去る。
抱きしめて、その首筋に鼻を埋めて「俺も」と呟いた。
「疲れてんだろ? 明日も泊まるからさ」
秀也よりずっと冷静な声を出しながら、優司の手が押し退けてくる。けれど、切なく震える優司の唇を見れば、そんな事は嘘だと判る。
「疲れてない」
「嘘」
嘘つきはそっちだ、と言いかけて、別の言葉を伝えた。
「ほんと。優司に会えたから元気になった」
「う、そ……」
「本当だよ、試してみる?」
その問いかけに返事はなかった。
淡く染まった頬に口付ければ、二人の視線はベッドへと向かう。
「ああ、片づけてくれたんだ」
ここの所忙しくてムチャクチャだった部屋が整頓されているのを見て、どれだけの時間待たせたのだろうと思う。
「簡単にね」
嘘つきな恋人は、今もまた嘘を吐く。
そんな事全部バレているのに、いつまで経っても学習してくれない。
「そう、簡単にね。でも良かった、これならすぐにできるね」
綺麗に整えられたベッドを見やって笑いかければ、途端に火を噴いたように赤くなる優司の内心は感情を読まなくてもはっきりと判る。
「あの、それって……そんなつもりじゃ」
しどろもどろの言い訳を聞きたい訳じゃない。
「ありがと、嬉しい」
素直に礼を言ったつもりだったが、優司の顔がさらに真っ赤になって、それこそ熱でも有るんじゃないかと思えた程だ。
「優司?」
ひどく焦っているのに、その視線は秀也の顔に固定されている。
「どうした?」
問いかければ、わたわたと何か言いかけては止めて、今度は視線までもが落ち着かなくうろうろしている。
何か変なこと言ったっけ?
礼を言っただけの筈なんだけど?
ひどく動揺している優司の頬を捕まえて、じっと見つめると、「あの……」とようやく口を開いてくれた。
「なんかさ……今日の秀也って……すごく……」
「すごく?」
「なんて言うか……その、格好良くて……」
「え?」
そんな筈はないと思って、秀也は視線を落とした。
今の服は仕事にも着ていく普通のスーツだ。派手さはなく、化粧だって店で落としてきた。
何も変わらないと思うけれど。
だが、優司は不思議そうに窺う秀也から視線を外している。
晒されたうなじまでもが、赤くなっていて、優司の動揺を伝えては来るけれど、その原因までは判らない。
「俺、何か変?」
「いや、その、変とかじゃなくて……。その表情とか……なんか」
表情?
優司の言葉は要領を得ない。
首を傾げる秀也に、優司はどこか陶然としているようだ。
「んと……、こう、雰囲気がさ……凄く、そそられるっていうか……その、なんか私が変なのかも……」
呟いて、慌てて自分の様子に気付いたように首を強く振って離れようとする。その腕を強く捉えて引き寄せた。
「雰囲気?」
「あ、ちょっと」
ぺろりと首筋を舐め上げれば、すぐに優司の息が荒くなる。
強く抱きしめれば、腰に当たるのは確かに優司のすでに立ち上がりかけたモノ。
「俺見て、興奮したんだ?」
「あっ……その……」
「俺も優司見て、興奮してるよ」
教えるように腰を擦りつければ、すぐ近くで息を飲む音が響いた。
その音に、さらに煽られて。同時に、漂う匂いに目の前が白くなる。
──ああ、そうか。
ここまで来て、ようやく気付いた。
これはフェロモンなのかも知れない。
虫がつがいを求めて撒き散らすフェロモンと同じく、互いを求めて止まないもの。
今日はやけに優司が恋しいと、バイト中もずっと思っていたから、欲しくて堪らないと垂れ流しているのかも知れない。だからバイト中も、ブランクがあると言うのに女達が寄ってきてしまったのかも。
それに優司もだ。
腕の中の優司もさらに秀也を引きつける匂いを撒き散らしているのだ。秀也を捕まえようと、何よりも効果のある匂いをだ。
そんな事を考えた瞬間、脳裏に浮かんだのはあの誘蛾灯だった。
優司の匂いはいつだって好きだ。汗をかいていても、シャワーの後でも、どんな時の匂いだって優司の匂いは秀也を煽る。
蛾は灯火につられて寄ってくるけれど、秀也にとっての灯火は優司の匂いかも知れない。
優司がいるだけで、ふらふらと近寄りたくなる。それこそ付き合う前の頃、本当に何度も危なかったのだ。誰かを好きになることがこんなに辛いなんて思わなかったほどだ。
優司より先に帰った部屋で、優司のベッドに顔を埋めるだけで、体が熱くなった。
あのころと優司の匂いは変わらない。
『どうやったらあなたをものにできるのかしら?』
問うたのは誰だったろうか?
笑って誤魔化した時には自分でも気付いていなかったけれど。
「俺を捕まえるには、優司の匂いが一番良いかもな」
「何、それ?」
「ん?……俺が蛾だったら、誘蛾灯なんかじゃなくて、優司をそこに置いとけば良いって話」
「はあ?」
要領を得ない優司に、もうお終いとばかりに口付ける。
途端に顔を顰めて、微かに零す甘い忍び声を含んだ吐息に体はどんどん熱くなった。
「優司……」
「んんっ……」
繋がる瞬間、蒸気になった汗が優司の匂いを濃く伝える。
もうそれだけで達ってしまいそうな自分を叱りつけ、優司の良いところを攻め立てた。
誰よりも愛しい唯一の存在。
こういうことで溺れるのは、許されるよな?
不意に浮かんだ考えに思わず苦笑した。だがすぐに、与え、与えられる快感に心を奪われた。
心が交じり合い、体も強く繋がっている状態。
「しゅーやぁ……」
「ゆうじ……」
求められることが嬉しい。
求めて応えてくれることが嬉しい。
いつまでも、こうしていたいと思うほどに。
「でも……その手のバイトは、ほんと言うと辞めて欲しいんだけど……」
まばゆい昼の陽光が差し込む室内で、気怠そうに枕を抱えていた優司が見せた拗ねた表情に、秀也は苦笑を浮かべながら頷いた。
やっぱり怒ってたか。
それを覆い隠すほどに餓えていた昨夜の状況を思い出すにつれ、優司のそんな頼み事など幾らでも叶えてやりたいと思う。
そんな秀也も優司の隣で怠惰に寝っ転がって、情事の疲れを癒していた。
【了】