BL/ML鬼畜小説
【落花流水】(2)

【落花流水】(2)

 お年玉って……。
 完全に忘れていたが、そういえば今はお正月なのだ。
 甥達にすら渡していないこともついでに思い出して、優司はきつく顔をしかめた。
「お年玉って……新札だよな……っつうか、千円札そんなにないぞ?」
 母親はともかく、4人の甥達には、必要だろう。
「去年幾らだっけ……」
 財布にはそんなに入っていない。
 となれば秀也にでも借りるしかない。
「でも、ずるい」
 部屋に入りながら呟く。
 そこにはすでにぜんざいの椀を持って食べ始めている面々がいた。
「何が?」
 聞きとがめた智史が問うてくるのを無視して、秀也の横に座る。
「母さんのお年玉って、私にも言ってくれればいいのに」
 開口一番責めると、秀也は「ごめん」と苦笑した。
「篠山さんから相談受けて。まあいいかなと思って」
「まあいいかなって……私は別に請求されちゃったじゃないか」
「請求って?」
「くれないのは薄情だって責められた」
 本気で言ったわけではないだろう。けれど、罪悪感には襲われた。
「いいじゃないか、あげれば」
「そりゃそうだけど……」
 金がない。
 小さく呟けば、くつくつと喉の奥で笑われた。
 そんな秀也をきつく睨み付ける。
 昨夜の強張って落ち着かない様子はすでにない。
 そして、そんなふうに笑う秀也に昨夜の可愛さは感じられなかった。
「いいよ、もう」
 悔しさが声音を低くする。
 それ以上話をする気も失せてしまって、ちょうど出されたぜんざいを口に運んだ。
「怒るなよ」
 宥める口調も気に入らない。
 ますますふてくされる優司に、秀也は苦笑しながら肩をすくめていた。なにより、その場にいる誰もが、笑いを堪えている。
 そのことがますます優司のかんに障った。
 けれど、子供もいる場で喧嘩するのも気が引けて、とりあえずとばかりにぜんざいを掻き込む。
「おい、ゆっくり食べないと喉に詰まる」
 智史の忠告を無視するほどに、この場にいたくなかった。
「ごちそうさまっ」
 食べ終えた椀を台所に運ぶふりをして席を立った。
「優司?」
 背にかけられた秀也の声が、僅かに震えたことに気がつかなかった訳ではない。
 けれど。
 どうしても言葉を返す気にはならなかった。



 団らんの場から離れて、誰もいない部屋に座り込むと、いきなり罪悪感が襲ってきた。
 先ほどの秀也の心細げな声が、何度も脳裏で繰り返されて優司を責める。
 構えた様子もなく馴染んでいたと思っていたのに。
 きっと堪らずに出てしまっただろう呼びかけ。
 背を向けていたから、どんな表情をしていたか判らない。
『あの子は脆いよ』
 落ち込みかけた優司をさらに落ち込ませるように母親の言葉が甦る。
 泣いたはずの、その理由も聞いていない。
「私ってバカだよな……」
 言葉にするとますます落ち込みが酷くなった。
 と。
「優司……ありがと」
 突然背後から声をかけられて、びくりと体が震える。
 慌てて振り返れば、秀也が優司を見下ろしていた。
「ありがとう……」
 その口がもう一度同じ言葉を呟く。
「何で……」
 礼を言われるいわれはないのに。
「だって、ずっと心配してくれただろ?」
 そう言いながら歩を進めて、傍らに同じように座り込む。
「俺は何も言わなかったのに。話した内容も、お年玉のことも。それにさっきは笑ったのに──。なのに、優司は俺のこと気にして、心配してくれてる……。ごめんな。それとありがと」
「そんな礼を言われることじゃ……」
 気まずい。
 勝手に怒って、放置して。
 後悔して気にしたとしても、それは遅かった。
 本当なら、秀也はずっと付いていて欲しかったろうに。
 口惜しくて、唇を噛みしめた。そんな優司に秀也は小さく笑みを浮かべて、尋ねた。
「昨夜、俺に触れた?」
「え、何?」
「夢、見たんだ。すっごく暖かくて、穏やかな夢」
「夢?」
 伝わった言葉の意味が判らない。覗き込んだ先で、秀也の笑みはひどく嬉しそうに見えた。
「優司の暖かさ、優しさ、穏やかさ──そんなものに包まれている夢……」
「な、に?」
「優司が俺に触れていてくれたから、そんな夢が見れた」
 そういえば、夜中に起きて秀也の寝顔を見ていたような……
 寝ぼけていた訳じゃないから、言われれば鮮明に思い出す。
「あっ、ちょっとだけ……」
 可愛くて、握りしめている手に口づけた。
 自分のそんな行動を思い出して、顔が熱くなる。
「優司が俺に可愛いって、言ってて。恥ずかしかったけど、嬉しかった」
「へ? あっ!」
 途端に全身が火照る。
「秀也、寝ていたはずじゃ……」
「一度眠って、すぐに目が覚めたんだよ。と言っても、その時には優司はもう寝てて。布団敷いた時に、隣になって。けどいつまでも眠れないから、優司の寝顔じっと見てた」
「げっ」
「可愛かった」
 くすりと笑う秀也に、優司の顔がさらに赤く染まった。
「でも、優司、何かの拍子に目を覚ましてね。寝たふりしてたらどこかに行きそうだったから、つい掴んでしまって」
 何を、とは問わなくても判っている。
 秀也もその行為を思い出したのか、頬を赤く染めていた。
「でも、優司は優しくて……すごく心地よくて……。ほんとはもう眠れないって思っていたのに、あっという間に寝入ってしまった。ほんとに、ようやく眠れた……」
 だから、ありがとう。
 繰り返される謝辞に、優司は口を噤んだ。
「なんか嬉しかった。すごい幸せだった」
 秀也の言葉が胸に突き刺さって泣きたくなる。
 ──あの子は脆くて壊れそうなのよ。
 聞いた言葉が脳裏を占める。
「……私は……こんなんだけど……。何にもできなくて、付いてあげなきゃいけない時に、怒ってて役に立たないけど……」
「でも、心配してくれた。俺のために、ここから出て行こうとすらしてくれたんだろ」
 金属がぶつかり合う音がして、優司の手のひらに人肌に温もった鍵が落とされた。
「あれ、これ?」
 ポケットに入れていたはずだったのに?
 思わず探ったポケットに義隆の車の鍵はない。
 不審に思い首を傾げた優司に、秀也が教えてくれた。
「布団を敷く時に、座布団を除けたら落ちてたんだ。優司が座っていた場所だったよ」
「あれ、落としてた?」
「俺が見つけて、篠山さんに渡したら、優司に預けたからって」
「えっと……」
 そういえば、秀也を連れて帰るつもりだったんだった。
 今更ながらに思い出す。
「だから、これは滝本に返してくれって言われた」
「でも……もう遅いよな」
 帰ろうとした理由は、もうない。
「でもな、嬉しかったよ……」
 秀也の顔が近づいて、優司の肩に埋められた。
「ありがとう……。ほんとに、優司を好きになって……良かった」
 肌に直接響く声音に、胸が締め付けられる。
 堪らずに、震える頭をきつく抱きしめた。宥めるように背をさすり、髪の毛に口付けを落とす。
「私も、秀也を好きになって良かったって思うよ。こんな私でも秀也の役に立てるのなら、こんな嬉しいことはない」
「こんな、とか言うなよ。優司は、俺にとって憧れなんだ。俺は優司みたいになりたかった」
「私みたいに?」
 驚いて声音が高くなった。だが、秀也はこくりと頷いて。
「優司、優しいし」
「それは秀也だって……」
「傍にいると安らぐし」
「……」
「優司の周りってみんな優しいだろ。優司を助けようと、みんな精一杯の事をしようとする。それって、優司の人徳なんだよな」
「……」
「すごいって思うよ。いつだって──そう思ってて……。だから、優司が俺の恋人になってくれているの、ほんとは、声を大にして自慢したいくらい……だ」
「そ、それはっ!」
 あまりの賛美に、顔が火照り、絶句する。
 そんなたいそうな人間じゃないっ。
 一瞬、呆然としたが、それでも絞り出すようにして言いかけた言葉は、不意に顔を上げた秀也に堰き止められた。「ありがと……俺を好きになってくれて」
 出なかった言葉の代わりに、そんな言葉がもたらされて。
「秀也?」
 触れただけの唇がすぐに肩口にずれていった。
 縋り付く指の力は変わらない。けれど、呼びかけても反応がない。
「秀也……寝てる?」
「う……ん、まだ……寝てない……けど」
 けれど、その声音は力がない。
「でも、なんか眠くなってきた……」
「秀也?」
「なんか、すっごく……気持ちいい……」
 ずるりと秀也の体がずり落ちる。体勢を整えようともがいた秀也の頭がちょうど太股の上にきた。途端に、もがくのを止めた秀也が、規則正しい寝息を立てる。
「うそ……ほんと寝たんだ……」
 なかなか寝られなかったと言っていたけれど。
 しっかりと優司のシャツを掴んだ秀也は、少々揺すったくらいでは起きないほどで。
「まあ、仕方ないか」
 昨夜思ったことはやっぱり間違いなんかじゃなかった。
 縋り付くように甘えてくれる秀也がなんだとても愛おしい。思わず笑みを浮かべてしまうような優しい気持ちになれる。
 可愛くて、守りたくて。
 まして、こんな表情で寝いってしまったら、どかすこともできない。
 そう思うほどに、秀也は子供のように無邪気な笑みを浮かべていた。



 その日の夕方、結局恵達と共に予定通り帰宅することになった。
 もう帰るんだ、と思うと、優司の心も浮き足立つ。
 なのに。
 優司が、「もういいだろ」と遮っても、秀也の手にたくさんの土産物が渡されていく。
 白菜をはじめとした野菜の山と新米。
 どこかの土産のお菓子からコーヒーやジュースの詰め合わせ。
 恵の方と合わせると、軽く大人二人分の重量を持つ物品で、あっという間に車の後部はいっぱいになった。
「また来なさいね」
 母親の言葉に、秀也は恥ずかしそうな笑みを浮かべて頷く。
「ええ、また」と、そつなく返す義隆と比べれば、慣れていないのが際だつ。
 けれど、そんな姿も女性陣の心を引きつけるようで、幸や理恵までが「もっといればいいのに?」と残念がっていた。
 それは嬉しいことなんだろうけど。
 そんな義姉達に愛想を振りまく秀也に、胸の内のざわめきが治まらない。
「秀也、いこ」
 結局、優司の方が痺れを切らして、秀也を車に押し込んだ。
 今はとにかく早く帰りたかった。
 前のように、帰りにくい所ではなくなっているとは思う。けれど、それでもやはり、秀也と二人で自宅で自堕落に過ごすのが性に合っている。
 何より、明日には秀也は帰ってしまうのだ。
 あんな秀也を見てしまったせいか、前よりもっと一緒にいたいという気持ちが勝ってきていた。
 離れたくないのに。
 それでも離れなければ行けないのは判っている。
 だからこそ一刻も早く触れあいたいのだ。
 いつもはそこまで欲することのない優司だったが、何故か今は強く感じた。
「じゃあ」
 そんな事を考えて気もそぞろな優司の別れの挨拶に、みんなが苦笑を返していた。
 けれど、優司だけ気付かない。
「優司……」
 秀也の手が優司の袖を引っ張る。その顔がほんのりと朱に染まっていた。
 なんで? 
 と、首を傾げれば、秀也が小さな声で「バカ」と呟いている。
「え、何で?」
「いいから……」
 治まらない秀也の頬の火照りと困惑の表情に、ますます訳が判らなくなった。
 なのに、くすくすと笑い続ける運転席の義隆と助手席の恵達の態度に腹が立ってくる。
「なんで笑うんだよ」
「優司が悪い」
 なのに、文句は秀也の方から返ってきた。
「何が?」
 ムッとして返せば、深いため息がその口から零れる。
 しかも、前席からはさらに楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「何だよ……」
 何で笑われるのか、何で秀也の機嫌が悪いのか。
 帰る時間が来るまでは、ようやく仲良く過ごせるようになっていたのに。
 だが、秀也の向けた視線が自分を責めているのは判る。
「……うう」
 不愉快さに喉の奥で唸っても、秀也には無視されて。
 恵達は顔を見合わせて笑っている。
「前、見てっ」
 ひやりとするほどに揺らいだ車に、ふらついた体を支えて叫ぶ。
「すまん……くくっ」
「何なんだよ、もう……」
 楽しい気分など、どこか遠くに飛んでいった。
 ただ、自分が何か言えばみんなが笑うと気が付いて、体を座席に深く沈めて目を瞑る。
 どうしてこんなことになっているのか、原因が判らない優司は、不機嫌も露わに口を噤んでしまった。


「じゃあな」
「失礼しますっ」
 礼儀正しく頭を下げた恵に秀也がにこやかに同じように頭を下げる。
 きれいな立ち居振る舞いに一瞬見惚れた。が、すぐに我に返って、さっさと部屋へと向かった。
 両手一杯の荷物が重いから。
 秀也を放った理由を口の中で呟いて、玄関前に荷物を置く。
 鍵を取り出そうとした時には秀也も追いついていたけれど、優司は振り返りはしなかった。車の中での気まずい状態をまだ引きずっているのだ。
 乱暴に開いたドアの向こうから冷気が零れてくる。さっきまで暖かい車の中にいたせいか、それがやけに体に堪えた。
 残っていた荷物を入れた秀也の背後でドアが閉まる。その音と共に、優司の体がふわりと温もりに包まれた。柔らかなジャケットが大きく広げられて優司を包み込んでいる。
「寒いだろ?」
 同時に秀也の吐息が首筋を擽る。
 ぞくりと全身が総毛立ち、体が細かく震えた。
「寒く、なんか……」
 応える声も震えている。
「うそ……だな、寒そうだ」
 くすりと吐息が震えて、ますますきつく抱きしめられた。
「震えてるじゃないか……」
「違うっ、これはっ」
「寒いよな、俺も寒いし」
「えっ……」
「早く暖まろう?」
 そう言われて、優司は慌てて秀也を振り返った。
 切なそうに細められた秀也の言葉がなんだか弱々しい。
「何っ、秀也、熱でもあるんじゃっ」
 風邪でもひいたんじゃっ!
 途端に脳裏に浮かんだのは床に伏して熱にうなされる秀也の姿だ。
「すぐ、ベッドにっ!」
 こじらせると厄介だと、優司は慌てて秀也を引っ張った。
 だが、秀也は従わないどころか、口元をひくつかせて優司を見つめていて。
「……なんか……判ってはいたけど……」
 深く長いため息の果てに、そう呟いていた。
「な、何?」
 元気はなさそうだけど……風邪ではなさそうで。
 どうやら、何か違うらしい。
 何か失敗をしたらしい自分に気が付いて、羞恥に体が一気に熱くなる。
「あ、あの?」
「……まあ、目的地は一緒なんだから、良いのかな?」
「目的地?」
 きょとんと首を傾げて、自身が言った言葉を反復していって。
「……まさか……?」
 場所と呼べる物は一カ所しか言っていないような気がしてきた。
 途端に、寒いはずの体がどんどん熱くなっていった。
「その、まさか。……欲しがっていたのは優司の方だと思ったんだけど……」
「ほ、し、がっていたって?」
 全く覚えのない事柄に、頭が空転する。
「何か、言ったっけ?」
「言っていないけどな」
「何で私が欲しがるって……?」
 目的地がベッド。
 その場合の欲しがるものと言えば、この場合決して睡眠のための温もりではないだろう。
 さすがにそのことは判っていたのだけど。
 欲しがった記憶はない。
「……」
 そんなことは絶対にない、とばかりに首を横にぶんぶんと振る優司を、秀也はたっぷり一分間は凝視してから、長く深いため息を吐いた。


「とにかく……」
 気を取り直したように、秀也が優司の腕を引っ張る。
「しよう」
「へ?」
 ぐいぐいと引っ張る力のあまりの強さに、畳の上でけつまずく。
 その拍子に、巧みに腕を引っ張られて。
 気が付けば、優司の視線の先には天井があった。
 痛みはない。
 ただ、何が起きたか判らない。
 首を回せば、秀也は優司を見つめながらエアコンのスイッチを入れていた。
 その視線が情欲に満ちているのは幾らなんでも判る。
 いつだって秀也が優司を抱く時に見せる瞳の色だ。
「えっとぉ……?」
 このシチュエーションに体の熱がどんどん上がる。
 まだ冷たい室温の中で、優司はうっすらと汗を掻いていた。
「欲しがったのは優司だって言うのに。あんなところで欲しがるから……。俺の忍耐力でも試しているのかと思ったんだけど?」
 覆い被さる体はもっと熱かった。
「あんなとこって……っん」
 触れるだけの口付けがどんどん深くなる。
 なんでこんなに性急なのか、聞きたいのに聞けない。
「あっ……ちょっ……とっ!」
 引き剥がされるようにジャケットが奪われ、シャツがめくり上げられた。
 胸に直に唇を落とされて体が跳ねる。
 記憶が快感の源を揺さぶり、追って神経が現実の快感を連れてきた。
「んっ……くっんんっ……しゅーやぁ、あ……んっ」
 エアコンがようやく本格的に動き始めた時には、優司の着衣はあらかた剥ぎ取られていた。
 だが、寒いとは思わない。
 密着した肌が互いの熱を伝えて、熱いほどだった。
 絡まり合う四肢に、うっすらと汗が浮かぶ。
 二人分の荒い吐息が、名を呼ぶ声とともに室内に響いた。
 柔らかな舌がなめらかに肌を這い回る。
 擽ったいのに、同時に快感が下肢に向かって走っていった。
「あ、ぃっ── しゅうやっ、あっ」
「優司……もっと感じて?」
「んくっ、もっ、やだぁ……」
 いつの間にか移動した秀也の頭が、股間近くに見える。太股を擽るのは艶のある髪。指が柔らかな肉に食い込んでいるのに、それすらも気持ちいい。
 ぺちゃ
 水音が響くたびに、優司の全身が小刻みに震えた。
 喉から意味のない声が何度も零れた。
 柔らかく包み込まれた自身から、絶え間なく快感が押し寄せる。
「は、ああっ、あっ──やっ」
 じわじわと肌が痺れるような疼き。
「んっくぅぅっ!」
 きつく吸い上げられて、息が止まる。
 目の奥で、白いスパークが何度も弾けた。
 堪えきれなくて、強くシーツを掴んで跳ねる体を支えようとする。けれど心許ない布地では支えきれない。
 シワだらけでよじれたシーツがベッドから剥がれかけていた。
 だが、そんなことに気付く余裕は優司にはない。
「しゅ、しゅうやあっ、もうっ」
 執拗な秀也の責めに、優司は限界が近かった。このままでは秀也の口に出してしまう。ヤバイ、と必死になって、秀也の頭を動かそうとしたが。
「だめ」
 拒絶の言葉は笑っていた。揶揄とも言える言葉なのに、それも優司を刺激する。
 そして。
「あっ、あぁぁっ!!」
 我慢したことがさらなる快感を生む。
 何度も下肢が震えて、意識せずに突っ張った。
 びくびくと数度に分けて吐き出された精は全て秀也の口の中に吸い込まれて。
「あ……しゅーぅやぁ?」
「ん」
 その喉が動く。
 決して美味くはないものなのに。
 眉間に深くシワを寄せて上半身を起こそうとした優司の視線の先で、秀也はくすりと笑うと。
「可愛かった」
 尖らした舌先で、その先端をぺろりと舐めた。
「んあっ」
 達ったばかりの屹立から新たな愉悦が湧き起こる。
 肌がざわめき、起こしかけた体がまたベッドに沈む。
「……もうっ」
 荒い息でなんとか抗議の言葉を吐こうとしたけれど。
「まだ……だろ」
 のしかかってくる秀也に、そんな余裕はすぐになくなった。それに。
「おもい……だした……」
 達ったというのに、どこか物足りなさがあった。だから、欲しい、と思って。
「ん?」
「思い出したんだ……欲しがったこと……」
 車に乗り込んだ時。
 早く二人きりになりたいと願った、あの時。
「ああ」
 呆れたように小さく笑って、手が優しく優司の前髪を掻き上げた。
 体を起こして、優司と目を合わせてくる。
「あんなにも欲しがってくれるんだから、な。俺の忍耐力を試しているのかと思ったんだよ」
 性急なまでの秀也の行為。
 その原因が自分であれば、何で逆らうことなどできるだろう。
 それに、欲しかった。
 あの時の思いは、今だって変わらない。思い出したから余計にだ。
「秀也ぁ……きてよ……」
 物足りなさが体の奥にある。それを正直に伝えた。
 とにかく解消したい。
「もっと……」
「……優司」
「しゅーや……欲しい……」
 きっと叶えてくれると判っているから、ためらうことなく縋り付いて、乞うことができる。
 そして秀也も。
「俺も……優司の熱が……欲しい」
 熱い吐息とともに乞うてきて。
 繰り返される甘い口付けだけでは物足りないほどに、体は激しく相手を欲していた。
 


 長いようで短い。
 長期の休みを嬉しく思うのは初めのうちだけだ。
 気が付けば、後何日、後何時間と指折り数えてしまう。
 優司は、さっきからちらちらと壁の時計を窺っていた。
 昼前まで惰眠を貪っていて、順番にシャワーを浴びて済んだ時には、1時を過ぎようとしていた。
 まだ秀也が出発するまでには間があるからと、お昼を軽く食べて、また二人で転がって過ごす。
 後二時間。
 けれど、時は規則正しく刻まれていく。
 休みの間、普段できないことをする。
 優司にとってそれは、ずっと秀也とぼんやり過ごすことだった。だが、予定通りだったとは言え、実家に行っていた時間がひどく惜しい。
「何?」
 不機嫌な表情を隠しもしない優司に、秀也が訝しげに問うてくる。
 秀也はさっさと帰り支度を終わらせていて、今はぼんやりと土産物の山をどうしようか考えているようだった。
 普段なら、ぎりぎりまで優司にひっついて過ごそうとする秀也なのに。
 なんだか、早く帰りたさそうなのだ。
 こんなふうに優司の気持ちにも気付かない。
 なんだか悔しくて、黙っていようと思ったけれど。
「明日帰ればいいのに」
 ふて腐れてつい出てしまった言葉だったが、悔いる間もなく秀也が笑う。
「笑うな」
 ますます不機嫌に口元を歪めれば、宥めるように秀也が優司の頭を抱き込んできた。
 優しい仕草にほっとして傾いだ体を、秀也の胸に預ける。
「だって、優司の愛を感じるよ」
「なんで……って」
 心地よい声音とともに、髪が秀也の指によって梳かれる。
 起きてから、まだきちんと解いていない髪は、時折指に絡まって引っ張られた。そのもつれを丁寧に秀也は解いていく。
「俺も、もっといたいから」
「え?」
「優司が引き留めてくれるとすごく嬉しいから」
 思わず笑みが浮かんでしまう。
 帰りたさそうな仕草だと思ったのはきっと勘違いなのだ、と思ったけれど。
「でも、いろいろと準備もあるし。仕事のこともあるし。仕事はきちんとするって、約束したしね。だから今日は帰らないとね」
 甘い睦言が変化して、同じ口が現実を指摘する。
 気がつけば、秀也はまっすぐに優司に視線を向けていた。
「誰と、約束?」
 不快なざわめきが胸の奥にする。嫌な予感が、優司の口調を固くした。
「優司のお母さんと」
 淀みなく答えた秀也が、少しだけ優司から視線を逸らす。
 そこには、優司の母から渡されたたくさんの土産物があった。その中には、秀也自身に渡されたものもたくさんある。
 それらを見つめて、秀也は嬉しそうに微笑んだ。
「優司に依存しないようにしなさいって──最後にそう言われた」
「依存……って、え?」
「どうしても優司とともにいたい。優司を俺から取らないで欲しいって願った。絶対に不幸にしないし、何があっても守るって言った。今から思うと、すごく恥ずかしいことしたような気がする。けど、その時は必死だった……」
「それって、母さんと二人でいた時の?」
 そういえばずっと聞こうと思っていたのに、聞けていなかったのだ。
 自分の家まで帰ってきたら、すっかり忘れていたと今更ながらに気がついた。
「えっと……それで?」
 気まずげに上目遣いに問いかければ、秀也の口元がひくりと震えた。
 相変わらず、とその目が言っているのがさすがに判る。
 だてに恋人をしている訳ではない──とは、思うけど。
 さすがにバツが悪い。
「ごめん、その……なんかどうでも良くなってて」
「終わったことだもんな」
 笑いながら言ってくれて、安堵した。
 それに秀也の言葉は嬉しいものばかりだ。必死になってくれた、その事実も嬉しくて堪らない。そう思って、口の端を綻ばせたが。
「その時にね、言われた言葉。確かにそうかもなって思えたから。俺、優司にかなり依存していたところがあるから、だからちょっと落ち着こうと思って」
「え?」
 何で?
 依存されているとは思ったことはない。
 だが、秀也がそうだと言うのならそうなのかも知れない。
「別に……いいけど?」
 それはとっても嬉しいことだと思う。
「でも、ダメだよ。優司に依存しすぎるのは、さ」
 何で……?
 何で?
「彼女に言われたよ。たった一つにしか目が向いてないから、肝心なことを忘れているって」
「何、それ?」
 訳が判らないままに胸の奥にひやりとした風が通る。
 なぜだか、考えがうまくまとまらない。
 小刻みに震える体を抑えるようにぎゅっと力を込めて、秀也を見つめた。
「言葉通りだよ」
 だが、秀也は何でもないことだと苦笑を浮かべている。
「俺はね……本当に、優司にのめり込んでいたんだよ。依存しきっていた。それは否定できないんだ。優司を思うことで、記憶の片隅に追いやっていたことが一つある。そんなものがあることすら忘れていた。今が楽しくて、辛い事実から逃げていた。その逃げる手段に優司を使っていたのかも……」
 少し夢見心地なのか、秀也の視線は優司を見ていない。
「秀也?」
 そんな秀也の様子が不安で堪らない。
 いつだって、秀也は優司のことを考えてくれていた。
 だが、秀也は珍しくもそんな優司に気がつかず、淡々と言葉を継いでいた。
「忘れたいと願う時には、別の何かに熱中するだろう? のめり込むことができたのは、俺にとってそれは優司だったんだ。休みの度に会いに来て、優司を独占したくて堪らなかった。それは、心の奥深くでずっとくすぶっているものに目を向けたくなかっからなんだって、それを優司のお母さんに指摘されて……」
 一体秀也は何を言っているんだろう?
 その言い方だと、優司自身はまるで代用品のようで……。
「目を背けたいから……私の元に来る?」
 最後まで言い切ってから、自分がどんなに抑揚のない言い方をしたのか気がついた。
 目の前の秀也が、虚を突かれたような顔をしている。
「忘れたいから……私を抱くのか?」
 違う。
 秀也が言いたいことは判っているはずだ。
 なのに、口が勝手に動く。
「くすぶっていたものに気がついたら、もうのめり込まなくて良いんだ。依存しなくて良い? 私は……もう、用済みって?」
「違うっ!」
 焦っている秀也に、優司は知らず冷たく笑いかけていた。
「だって、気がついたから、逃げる必要なんてないんだろう? それだったら、ここに来る必要ないじゃないか?」
 声が震えていた。
 判っているのに。
 秀也がそんなことだけで優司に会いに来ることはない。
 なのに、感情が暴走する。
 滅多にない爆発に、秀也の顔がみるみるうちに歪んだ。
「違う……そういう意味じゃない……」
「だから、帰るんだろう? のめり込む必要なんてないから」
 ああ、そうか。
 秀也が離れていこうとしているんだ。
 優司にだけ甘えてくれる秀也。
 優司にだけ本音を見せる秀也。
 そんな秀也を見るのが優司は嬉しかった。
 けれど……。
「もう……私は、不要?」
 空っ風が胸の中を通り抜け、全身が総毛立つ。
 のめり込んでいたのは秀也?
 それは違う。
 のめり込んでいたのは、優司自身の方──そんなことに今気がついた。
 ぼんやりと待っていればいつだって秀也は来てくれた。
 せっぱ詰まってどうしようもなくなっていても、いつの間にか秀也は来てくれていて。──そんな姿に何度励まされただろう。
 それに秀也がくれる熱は、優司に悦びを教えた。
 秀也の温もりが嬉しくて、待ち焦がれるようになったのはいつからだったろう?
 忙しくて、怠惰に過ごすことを望んでいても、想像の中にはいつも秀也が一緒にいた。
 なのに、その秀也が来なくなったら……。
「や……だ……」
「優司っ」
 秀也が母親と話をする時、堪らなく不安だったのは、このことにうすうす気がついていたから?
「嫌だ……」
 秀也が離れていってしまう──その事実を。
「優司っ、俺はただ依存しすぎないようにするって言っているだけで、会わないとは言ってない」
 依存していてくれれば、秀也は優司だけを見ていてくれたのに。
「依存して……私だけ……見て欲しい……」
「優司?」
「私だけを見て欲しいのに?」
 他に目を向け始めたら、秀也は他に行ってしまいそうだ。
 そして、いろんな人と付き合いだして。
 優司よりずっと素敵な人と出会ってしまう。
「やだよ……」
 帰さない。
 ずっとずっとここにいて欲しい。
 手を伸ばして、秀也の両腕を掴む。びくりと震えた体。顰める顔に、秀也の拒絶を感じた。それが堪らなく優司を不安にさせた。
 ずっとずっと胸の内にあったもの。秀也によって、奥深くに埋め込まれていたもの。それが、顔を出してきて瞬く間に優司を支配した。
 我が儘だと、子供じみたかんしゃくだと判っているのに、今の優司を支配する。
「だって、私なんてこんな何の取り柄もないのにっ!」
 容姿も男にしては今ひとつで。
 仕事も結局他人に頼ってばかりで、うまくこなせなくて。
 出不精で何も知らなくて。
「こんな私なんてっ!」
 何も判らなければ、気がつかない劣等感。なのに、いつも気付いてしまう。
 今取っている行動が、大人として恥ずべき事だと言うことも判っている。
 なのに、制御できない。それすらも、優司の劣等感を煽った。
「秀也が離れて当然なんだっ!」
 感情の赴くままに怒鳴った、刹那。
 室内に乾いた音が鳴り響き、優司は呆然と痛みの走った頬を手で押さえた。



 ひりつく痛みが、荒ぶる感情に水を差した。
 気がつけば、ベッドに座ったままの優司の目の前に、秀也が右の手首を左手で掴み立ちつくしている。
 指の関節が白くなるほどに掴んだ先で、手のひらは赤く染まっていた。
「ど……して……」
 俯いた顔から、滴が落ちてくる。
 一滴、二滴と続いて、瞬く間に床に水たまりを作った。
「なんで自分をそんなに……卑下する……」
 震える低い声音と共に向けられる目は、溢れる涙で濡れている。けれど、きつく寄せられた眉間のシワを見るまでもなく、秀也が怒っているのが判った。
「優司は、俺にとって何もかもが羨ましい存在なのに……。なんでそんなことばっかり……」
「だって……だって……」
「俺は優司に会わないなんて言っていない」
「でも……もう依存しないって……」
「依存しすぎることが良くないことだって気付いたからだ。だが、離れるなんてひと言も言っていないっ! 俺が優司から離れるわけがないだろうがっ!!」
 ひと言喋るたびに秀也の声が大きくなる。最後には怒鳴っているのに等しくなっていた。
 こんな秀也は見たことがない。
 いつだって秀也は落ち着いていて。
 もちろん怒らせたことはある。怒りのままに無理に抱かれたことだってある。けれど、ここまで露わに感情的になったことは記憶にはないような……気がした。 
 しかも、怒っているのに涙が止まっていない。
 秀也の涙が一粒落ちるたびに、優司の胸に激しい後悔が湧き起こる。
 判っていたのだ、秀也がそんなつもりで言ったのでは無いことは。ただ、ずっと持っている劣等感が、秀也の言葉を曲解させた。
「だって……秀也はいつだってモテるから……私だけを見てくれないのなら……誰かに取られそうで……」
 言ってしまって、その言葉の恥ずかしさに耳まで熱くして、俯いた。
 我に返れば、爆発したこと自体も恥ずかしくて堪らなくなる。
「ごめん……。判ってる……けど」
「……だったら、二度と言わないでくれ」
 震える声が意外に近く、耳元から伝わった。包まれた匂いの元を、見ないままに手を伸ばせば、すぐに秀也の胸にかき抱かれた。
 心臓の鼓動が直接耳に届く。それは、いつもよりずっと激しい。
「俺にとって、どんな立派な人がいたとしても、一番は優司でしかないんだ。容姿も、性格も、仕事の仕方も……俺にとっての理想は優司なんだから……そんなこと言うな。まして、離れるなんてことあり得ない。嫌だよ……もう二度とそんな事言わないでくれ……」
「……」
 秀也が言うほど自身がそんなに立派だとはとても思えない。そういえば昨日もそんなことを言われた。けれど、信じられない物は信じられない。昔からずっと根付いてきた劣等感は、そう簡単には消えない。
 だが優司を離さないとばかりに抱きしめている秀也に、反論などできなかった。言えば、秀也はもっと荒れそうだった。
 何も言わずにただ抱きしめ返す。
 優司の怒りは長続きしない。怒っていることにすぐに疲れてしまうからだ。人が気付かない間に落ち着いてしまうことも多いから、他人から見れば穏やかに見えるだけ。そんな性格だから、爆発しても鎮火するのはひどく早い。
 だから今あるのは激しい後悔だけだ。
「ごめん、ごめんな」
「優司……優司……」
 秀也もさっきまでの激高はどこに言ったのか、しゃくりを上げ、ますます優司を抱きしめてくる。
 まるで子供のようなその仕草に、悔いはますます激しくなる。
 抱きしめてあやすように触れる。
「秀也、ごめんな」
 繰り返す言葉に、秀也もまた同じ言葉を繰り返す。
「ゆーじ……優司……離れ…るな……」
 ずっと泣き続けて、時に縋るように指先に力を込める。食い込む爪が、優司の肌に痛みを走らせた。だが、それほどまでに傷つけたとのだと思うと、苦痛の声を上げることすらできなかった。
 それに、秀也の様子がさっきから変なのだ。
 まるでさっきまでの優司のように、感情を制御できていないようで、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
「優司……嫌わないで……俺のこと……嫌わないで……そんな事言わないで」
「秀也、ごめん。嫌いになんか絶対にならない。好きなんだ、好きだから……怖かっただけで……」
「……離れないで……なんでもするから……嫌わないで……」
 何を言っても優司の言葉など耳に入っていない。
 これは……。
「……俺から離れないで……」
 震える声音に、泣きながら縋る甘えた仕草。
 そんな光景を、いつか前に見たことがある。
 優司は、思わず体を離して秀也の顔を覗き込もうとした。なのに、それすらも嫌だとばかりに、秀也の手が強く掴んでくる。
 まるで、我が儘を言って困らせた幼い子供が、機嫌の悪くなった母親に必死に縋る様子。
 ──ごめんね──ごめんね……もうしないから。おこんないで……ねえ…………。
 甘えて縋って──これが大人なら媚びを売っているように見えるだろう。
 けれど、子供なら。
 そして、前にも見たことのある弱った秀也なら。
 そう。
 弱ってしまっているのだとしたら。
「ごめん……大丈夫……。大丈夫だから、ね」
 弱くて脆い。
 判っていたはずなのに。
 優司は強く秀也を抱きしめて、頭の中に直接言葉を吹き込むように、耳元で何度も繰り返す。
「どこにもいかない。私は秀也と共にいるから。秀也とずっと一緒にいるから……。……その、……大好きだから」
 言い慣れない言葉に全身を熱く染めながら、それでも繰り返した。
「大好きだ──秀也のこと、……愛している」
 秀也を宥める言葉は、もうそれしか思いつかない。


「愛してる」
 ただ闇雲に繰り返す。
 けれど、ひと言ごとに秀也の震えは弱くなり、縋り付く爪の痛みも小さくなった。
 時間にしてどれくらい経ったのかは判らない。
 唇がからからに乾ききって、舌で湿らせなければならなくなった頃、ようやく秀也の体が少しだけ離れた。
「秀也……」
「ごめん……」
 掠れて弱々しい声音ながら、それでも意志が感じられた。
「秀也、大丈夫か?」
 思わず表情を覗き込もうとしたけれど、深く俯いていてそれは叶わなかった。
 ただ、耳まで真っ赤になっているは判った。
「俺……なんか……」
「私がバカ言ったから、秀也、切れちゃったんだよ……それで」
 秀也の想いなど、つい昨日聞いたばかりだというのに。
「いや、俺もちゃんと説明しなかったから」
「あ、いや、その……改まって説明されなくても、判ってはいるんだよ……うん」
 優司だって、ただ一つのことに依存しすぎることが良くないことだとは判っているのだ。
 それに、秀也は優司と別れるなどとはひと言も言っていない。
 優司と付き合うことを認めて貰うかわりに、それ以外にも目を向ける。そう言っただけなのだ。
「なんか、変なふうに曲解しちゃったみたいで……」
「優司の早とちりはいつものことだもんな」
 未だ顔は上げないけれど、くすりと肩が震えて笑っているのが判る。その様子に安心して、優司はいつものように拗ねた口調で返した。
「悪かったな」
「うん、優司も悪い。けど、俺も悪かった。優司が劣等感を持っていることは判っていたけど、それでもそんな深刻に考えているなんて思っていなかったしね。だから、他に目を向けるってことが、そんなふうに取られると思ってもいなかったんだ」
「あ、まあ、それは……その……」
「でも、俺が言ったことは本当だよ。優司が自分を卑下する必要はないんだ」
 ようやく上げた秀也の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。しかも、いつもよりはるかに赤い。なのに、そんな秀也もきれいだと思う。思わず見惚れる先で、秀也はじっと優司を見つめていた。
「俺が本気で離したくないって思ったのは優司だけだ。他の誰にもなびくことはないから、安心しろよ」
「でも……」
「何?」
「秀也、モテるから……」
「結局、またそこに戻るわけ?」
 呆れたようにため息を吐かれても、こればっかりはどう足掻いても頭の中から消えていかない。
「でもな」
「優司だけなのに?」
「え?」
「俺が人前でこんなにも泣くのって、大人になってからは優司だけだよ。なんかあったらすぐに混乱する困った性格っての、知っているのも優司だけ。俺も他人にそんなところ見せるつもりはないし。しかも、混乱した俺をすぐに癒すことができるのも優司だけだし。そんな優位な立場は、たとえ何があっても覆せないよ。それでも、自信ない?」
「あ……」
 そういえばそうだった。
 何故かいつもあっという間に忘れてしまう秀也の力。そのことを指摘されて、優司は視線を泳がせた。
「また、忘れてた?」
「え、っと……」
「不思議だよなあ……なんで忘れられるんだ?」
「だって」
 それが秀也だったから。それだけのこと。
 口籠もった優司に、秀也は微笑んだ。
「そんな優司だから、俺は好きになったんだよ──愛してるんだ」
 言葉と共に、きつく抱きしめられた。


 ──愛しているんだ。
 その言葉にこくりと頷く。
「秀也……」
 包み込まれるその温もりが気持ちよくて、優司はそっと目を閉じた。だが、耳元に続いて呟かれた内容に、目を見開く。
「俺ね、今度の三連休に家族に会いに行く」
「家族?」
 思わず問い返した。秀也の緊張が伝わったのかも知れない。優司の声も固かった。
「そ、俺の両親」
 小さな呟きに似た反応に、それ以上聞いて良いのか判らなくなって、腕の中でただ黙する。その沈黙をどう取ったのか、秀也の抱きしめる力が強くなった。
「俺ね、もう10年近く……親に会っていない……」
「っ!」
 あまりのことに息を飲んで、びくりと体が震えた。
 10年、と簡単に言うけれど、つまり会社に入る前からずっとということだ。十年一昔というたとえだってある。それほどまでに長い年月、親に会っていなかった事実は、優司にとっては信じられないことだった。
 そんな優司を抱きしめたまま、秀也は淡々と事実を述べる。
「大学に入る時に引っ越した時からかな。それからなんだかんだ言って帰っていない。たまに来ようとした時も、出かけると言って……無理に会わなかった……。そのうち、向こうも会おうとしなくなって……。雅人さんと同居した時には、引っ越したことは教えたけど……。こっちからそれ以上の連絡はしなかったし。就職で引っ越した時には、もう転居の連絡はしなかった。携帯の番号は変えていたしね。きっと最低5年は連絡つかない状態だったと思う。で、それも含めて10年……になっちゃったかな」
 強く抱き込まれて、秀也の表情を窺うことはできない。
「なんかさ、忘れてた。そんなにも長く会ってなかったんだな。今が楽しくて……優司といることが楽しくて。いつだって、優司と会いたいとだけ思っていたから。仕事も、優司と会える機会を増やしたくて、頑張ったから」
 代わりに仕事の量も増えちゃったけどな。
 小さく笑いながら言った言葉に呆然とする。
「全部……私?」
 言葉通りだとするならば、会社でエリートだと言われているのは、全て優司に会いたいという秀也の思いからきていることになる。
 のめり込む……その意味合いが、ようやく判った。
 秀也の今は、全て優司が中心になっているのだ。それは、確かに嬉しいことなのだけど、同時にすごく怖くなった。
 そこまで、思われていることは嬉しい。嬉しくて堪らない。
 だが、それではダメだ。今更ながら、母が言った意味が理解できた。
『……あんなに頼られてしまって。一回懐に入れちまったんだから』
『引き離すのが遅かった……。だから、あの子がいつかちゃんと生きていけるようになるまで……』
『きっと優司より弱い』
 今朝方、聞いたばかりの言葉。
『なんか、あんたを今引き剥がしたら、あの子、壊れそうなんだよ』
 もし今、優司が何かの拍子にこの場からいなくなったら。
 途端に背筋がぞくりと震えた。
 その可能性は皆無ではない。
 ずっと二人だけで生きていけたら……。
 最悪の可能性など考えなければ良い。だが、この先何が起きるか判らない。秀也にも優司にもそれぞれの道がある。今更離れることは考えられないが、いつも道が添っているとは限らないのだ。それに優司の家族のように納得してくれる人ばかりではない。
 だが、もっといろんな事に目を向けて、ちゃんと周りの状況を知っていれば、対処はできる。篠山のようにそのつもりで動いていけば、ずっと簡単に事が済むことだってある。
 互いのことだけを見ていては──それだけではダメなのだ。
 そのことに、秀也は気付いていて──そして、優司も今気がついた。
 いつの間にか、秀也のことだけしか目に入っていなかった自分に。
 秀也のちょっとした言葉に、あんなにも取り乱してしまうほどに。
「ごめん……私も、きっと秀也にのめり込んでいた。そうすると楽しくて……きっと楽だったんだね」
「ああ、楽だった。けど優司の場合は、俺のせいかもね。俺がずっと優司を虜にしようとしてきたから……だからだよ」
「でも、それで私も嬉しかったから」
 だから、きっと深くは考えなかった。
「まあ、そんなことすら、ずっと俺は気付いていなかった。そうすることが当然だと思っていたから。だけど、実家に連絡を取らされて……気がついた。ずっと逃げていたこと。ずっと目を背けていたこと。それじゃ、ダメだって……優司のお母さんが教えてくれたんだ。だから……一度会いに行ってくるよ。もしかしたら、もう逃げる必要はないかも知れないから」
「どうして、逃げたんだ?」
「嫌われたくなかったんだ……もう」
 不審に思ってかけた問いは、寂し気な声音で返された。
 その言葉だけで、今の優司には判ってしまった。
 優司だって、会えば嫌われると思ったら、もうその人には会わない。その方法が一番楽だからだ。
「そっか……」
 だから、それだけ言って、秀也を抱きしめた。



 怯えた目が嫌だった。
 小さな頃の記憶にある優しい母がいつも見たかった。
 なのに気がつけば、誰もが秀也のことを怖々と見ていた。
 小さな妹だけが傍にいる時、母の表情は何のてらいもなく優しいもので、秀也はいつも妹が羨ましくて仕方がなかった。
 ほんとうは、いつまでもみんなと一緒にいたかった。
 けれど、それは叶わぬ夢なのだと、諦めてしまったのはこの家を出ると決めた時。
 それからずっと。
 会わない以外の方法を考えるのを、止めていた。



 10年ぶりに見た実家は、過ぎた年月相応に古びていた。
 門柱には、幾度もペンキを塗った痕があり、小さな庭にあった木は、記憶にあるより大きかった。
 だが、家よりも周りの変化が大きすぎて、秀也は思わず近くの電柱の住所を確認してしまった。
 住所に間違いはない。
 だが、かろうじて二車線だった道路が、歩道までついてずいぶんと広くなっている。家の右隣は同じような民家だったのに、今はコンビニ付きのマンションだ。そのせいで、秀也の実家は太陽の高い昼間の時間しか陽があたらないだろう。それも左の家が平地の駐車場になっているからだ。
 ざっと見回しても、民家より店の方が多いような気がする。
 背の高いビルも増えていて、のどかな街並みは、どこを捜しても見えない。
 交通量が昔と全く違う。
 勢いよく通るトラックから逃れるように、秀也は門扉の中に歩を進めた。
 途端に、激しい既視感に襲われた。懐かしさに、熱い塊が胸の中を迫り上がってくる。
 変わらない。
 周りがあんなにも変わったのに、家だけは古くなっただけで変わらない。秀也が出て行った時のままに、ただ時を経ただけの姿だった。
 その姿は、秀也を待っていたのだと思わせる。待っていたから、変わらない。伝わる暖かさがそう思わせる。
 玄関に向かえば、いきなりドアが開いた。
 人の気配に気付いたのか、ずっと待っていたのか、中には三人の姿があった。
 母と父と、そして妹の由岐。
「あ……」
 ここに来るまで何度も繰り返したシミュレーションは、この瞬間全て消え失せた。
 目の前で、母の表情がみるみるうちに歪んでいって。
「秀也……、お帰りなさい……」
 溢れる涙を止めようともせずに、縋り付いてきた母を、秀也はたたらを踏んで堪えた。
 見下ろすほどに小さくなってしまった母。
「秀也……立派になって」
 どうして良いか判らなくて、困惑の表情のままに、父達を見る。
 記憶にあるよりずっと老けた父。
「バカが……」
 呟く声音はこんなにも弱いものだったろうか?
 自分よりは一回りは小さい体から節くれ立った手が伸びて、秀也の頬に触れる。
「この親不孝もんが。年に一度くらい、帰ってこい」
 言葉も顔も怒っているのに、心が泣いているのがはっきりと判った。
「ったく……音信不通なんて……、二度とするな」
 ぎゅっと頬をつねられた。
「いた……」
 懐かしい。
 記憶を揺さぶる痛みに、秀也は呟いてから口元を歪めた。
 そういえば、小さな頃はこうやって怒られた。
 ずっとずっと小さな頃。
「何笑ってるんだ、こっちは怒っているって言うのに」
「うん、ごめん……」
 懐かしいだけ。懐かしくて、嬉しくて……。
「まあ、いいっ。とにかくさっさと上がれ」
「……うん」
 涙が止まらない。
 促されるままに、靴を脱いで上がりながら、秀也はなんとか呟く。
「……ただいま」
「お帰り」
 極日常的な、簡単な挨拶なのに。
 どうしても涙が止まらなかった。



 その夜、秀也は携帯の新規メール画面を開いた。
 宛先は、優司の携帯のアドレス。
 
 優司、ありがとう。
 優司と会えたから、優司のお母さんに会えたから、俺は家族を取り戻せた。
 今度会った時には何があったか全部教える。
「こんな格好良い人が、兄さんだなんて……なんでもっと早く教えくれなかったのよっ」
 なんて、妹に絶叫されたことも、全部。
 まだいろいろあるかも知れないけど、優司がいると思うとなんだってできる。
 いつか、優司のことも家族に紹介したい。
 その準備もちゃんとしていくよ。
 根回しはこれでも結構得意だから。
 そんなことも全部、直接会った時に、いっぱい話をしたい。
 だから、来週行くよ。
 水曜日の出張の時に泊まるから、残業入れるなよ。
 それじゃあ。

 打ち終えて、送信ボタンを押す。
 まだ時間は早いから、きっとすぐにこのメールに気付いてくれる。
 一刻も早く問題なかったことを伝えたかった。ただ、直接言うには恥ずかしかったし、親に聞かれるのもまだマズイ。けれど、早く伝えたかった。
 ありがとう。
 ずっと心の中で繰り返す。
 優司に会えたから、この幸いがある。そう思うと、感謝の言葉はどんなに繰り返しても言い足らない。
 この家が昔のままだったのは、秀也が帰ってきた時のためだと聞いた時には、また泣いてしまった。
『秀也を邪険にしたつもりはなかったけれど、それでもどう扱って良いか判らなかった。その態度に敏感なお前が気付かないはずはないのに』
『そのことに気付いた時にはもう連絡が付かなくなっていた』
 そう言って謝る両親に、秀也は何も言えなかった。
 もう一生分の涙を使い果たしたかと思うほどに、泣き続けたような気がする。
 そんな秀也と両親の溝はあらかた埋まってしまった。けれど、全てが埋まったわけではない。こうやって一人になると、ひどく疲れていることにも気がついた。それはまるで他人と一緒にいる時と同じような疲れだった。
 どこか残る違和感はきっと消すには時間がかかる。
 そんなことも全て、優司になら話したい。話して、聞いて貰いたい。
 優司がどう返して良いか苦慮しながら言う拙い言葉を聞きたい。
「優司……まだまだきっと俺はお前に甘えてしまうけど……いいかな?」
 依存することは悪い事じゃないと思う。けれど、依存しすぎは良くないことだという事も判っている。
 けれど、優司の傍らは心地よい。
 ここよりもずっとずっと心地よい。
「優司……」
 本当はいますぐ会いたい、と、願った途端、手の中の携帯が震えた。
 着信の知らせに、優司の名が入っている。慌てて、受信ボックスを開けば、見慣れたアドレスが映っていた。
『よかったね』
 たったそれだけの返信。
 けれど。
「うん……」
 秀也の頬に新たな涙が滴り落ちた。
 
【了】