電話で依頼された資料。
了承するのは簡単だった。──否、拒絶できなかっただけのことだから、簡単も何もないだろう。
本来なら、時間や手間を考えれば絶対に拒否すべき依頼だったのだが、営業が一度了承してしまったものをこちらの立場だけではどうしようもない。
ただ、いつもならここまで酷くなることはない。
何に対しても準備万端な優司の部下の高山が、そういう気配があればいつも下準備はしているし、営業サイトも無茶な要望をやんわりと断るだけの技量はもっている。
けれど、高山ですら読めなかった緊急すぎる要望──普通なら今の段階では必要ないはずだからだ。そして、珍しくも断り損ねた営業という、相手の動向を読めなかった営業・開発双方のミスだと言ってしまえばそれだけだった。
隣席から聞こえる低いため息に、優司は申し訳なく唇を噛みしめる。
人気のなくなった静かな事務所の一角だけ、ぼんやりと蛍光灯が点いている。
ブラインドが下ろされた窓は、外の景色など窺いようもなく、今の時刻は腕時計かパソコンのディスプレイの右隅でしか判らない。
その時計が、11時を指していた。
本当なら、隣席にいる高山も、コンピュータールームで作業を手伝っている鈴木も、明日の出張に備えて帰宅していなければならない。このチームのリーダーである優司としても、不眠のままでの出張など認められるものではなかった。
けれど。
相手は客だ。
ぎりっと噛みしめられた奥歯が嫌な音を立てる。
無茶を言われて困らせられ──いったい何度目だというのだ。
手はキーボードを叩き、並んだリストを並び替え、件数を計算させる。
年度毎の数値は、折れ線グラフに変わり、3Dのグラフで色を変えた。
それらは過去に一度集めていたデータだ。もし今回調査したデータが間に合わなかったら、これを持って行くことになる。だが、それはやはり要求された資料としては不完全なものでしかない。
──こんな資料、別に明日すぐでなくても良いはずなのに。
一連の作業は頭を使うはずなのに、優司の頭の中は堪えきれない憤りで渦巻いている。
何に対してもおっとりと良い所を知らずに探してそればかりを見てしまう優司だから、ここまで怒りが湧くことはそうそうない。だからこそ、その怒りは強く根付いて、優司の仕事に向けなければならない思考を邪魔するのだ。
集中できないから、ミスをする。
「ちっ」
珍しい優司の舌打ちは、とても小さな物であったけれど、高山が聞きとがめて顔を上げた。
「何か?」
いつもと変わらない、と思う。けれど、それを聞いたとたん、優司は怯えたようにびくりと肩を小さく震わせた。
「あ──えっと、ちょっと数字間違って……」
口ごもりながらの言い訳は、要領を得ない。だが、そのまま高山は黙ってしまって、気まずい沈黙が沈鬱な雰囲気をさらに暗くさせた。
だから、つい。
「ごめん」
謝罪の言葉が口を吐いて出た。
「……」
それに僅かに高山は顔を上げたが、だが返事はない。
言うんじゃなかった……。
覆水盆に返らずという言葉を身をもって経験して、優司は情けなさに顔を歪めた。
毎度毎度同じミスを繰り返す優司は、高山の不機嫌さを知っている。
こんな時、言葉などせずにただひたすら作業をしている方が、高山の機嫌は悪くはならないのだ。けれど、つい、いつもよけいなことを言ってしまう。
どちらかといえば苦手なこの手の特許データのとりまとめは、優司の集中力を奪う。まして、不機嫌な高山というもっとも苦手で忌避すべき事柄が隣席に存在していた。
──ああ、嫌だ、嫌だ。
口にすることができない愚痴が、よけいに集中力を邪魔するというのに止められない。慣れない感情の荒々しさも、同様だ。
口を利くことなく、与えられたデータを確認し、ランク付けして──。数百件に及ぶ該当特許を紙に出力する暇はないから、画面を凝視するしかない目が疲労を訴えてきた。
細かな文字が、ぼんやりと濁って見づらくなる。だからよけいに凝視して。
悪循環は高山も同じようで、目を強く押さえる動作をしているのが横目で窺えた。
このままでは間に合わない。
焦りがさらに募って──けれど、いくらがんばっても疲労のせいでどんどん効率は落ちていった。
と──。
「休憩したらどうですか?」
爽やか、とも言えるほど綺麗に響く声が耳朶を打ち、脳裏に染みる。
その声を聞いたとたん、優司はまるで金縛りにでもあったように全身が硬直して動くことができなかった。
──なぜ?
ただ、その疑問詞のみが頭の中を駆けめぐる。それは高山も同様のようで、視界の片隅に大きく目を見開き声の主を見つめている様子が入っていた。
「おにぎりとパンとコーヒーと……後はガムとか、買ってきましたから。あんまり根を詰めすぎるとミスが増えますしね」
空いていた三宅の席から椅子とサイドテーブルを移動させてきて、座りながら手に持っていた袋をテーブルの上に置く。
「ここに来る途中、鈴木君達にも渡してきたから、かなり数が減ってますけど、十分でしょう?」
穏やかな笑みが、ほんの少し苦笑に変わる。
「あっちは賑やかでしたよ」
そんな表情の変化に、優司はこんな時だというのに見惚れてしまっていた。
「さ、笹木さん、何で?」
ようようの体で、高山が口を開く。
驚きに吃音する高山などひどく珍しいのだが、問いかけられた秀也はただ静かに答えた。
「真野くんが、電話口で泣きついていたんで後で聞いてみたら、客の無茶な要望に振り回されているんだって知ったからですよ」
何でもないことのように言う秀也に、高山は訝しげに首を傾げた。
それはそうだろう。
だからと言って、なぜ秀也が来るのか、高山には判らない。
秀也の担当はこの滝本チームではないから、まったく関係ないのだから。
「まあ、どうせ明日早朝にはこちらに来る予定でしたから。ですので今夜中に移動しても問題はなかったんです。新幹線もとれましたしね。この差し入れは真野君からの依頼です。どうぞ、食べてください」
ついでだから。
そう言っている秀也が、ちらりと優司を見つめてきた。
だから、いくら鈍いと自他共に認める優司でも判る。
秀也が優司を気にして来てくれたことに。
そして。
「はい、目薬も。二人とも目が真っ赤ですよ」
可笑しそうに笑う秀也の労りが優司のみならず高山もほっとさせる。
沈鬱な雰囲気は瞬く間に消え去って、あれだけ鳴り響いていたキーを打つ音の代わりに、包装を破る静かな音が響く。
「ありがとうございます」
高山がふわりと笑って、秀也に礼を言っていた。
「どういたしまして。もともと営業のミスでもありますから、フォローするのは当然ですし」
「でも」
高山が口を挟みかけたけれど、それより早く秀也が言う。
「この際、担当が違う、などというつっこみは無しにしてくださいね。真野君自身が来たがったんですけど、彼は彼でまだすることがあったんですよ」
「いえ、とんでもありません。特許調査は本来工場側の責任ですから、気にして頂くことではありませんし」
相変わらずだな、と、優司は高山の言葉を聞いていて、ふっと苦笑を浮かべた。
高山の抑揚のない平坦な声音は、こういう時にはあまりにも冷たく相手に伝わってしまう。そのせいで、誤解を受けやすい。かくゆう優司も最初のころはその誤解をして、酷く傷ついたりした。それは、上司の須藤の言葉より深いものであった。
それも、ここまで長くつきあえばそんなことはない。ないけれど、やはり堪えることあった。
けれど、秀也は高山の言葉を違えることはない。
「そう言って頂くと、真野も安心するでしょう。かなり無理を言ってしまったと落ち込んでいましたから」
「真野君は……まじめだから」
優司がぽつりと呟けば、秀也も頷いた。
だからこそ、秀也が予定を繰り上げて来のだろう。彼の心的負担はそれだけで軽くなったはずだ。そして、それは優司も高山も。そしてここにいない鈴木達もだ。
こんな話をしている間に、持ってきて貰った食料は胃に収まり、指した目薬が聞いたのか、少しは目が楽になる。
何より、秀也がここにいると言うだけでこれだけ和んだ空気が、心も体も穏やかにしてくれた。
普段はつっけんどんなところもある高山が、ぽつぽつではあるが秀也と穏やかに話をしている。時折、笑い声すら零れる様子は、こんな状態に陥った時の高山の姿からすれば珍しいというものではない。
こそもそれも。
「ありがとう」
本心から零れた礼に、秀也は黙って頷いてくれた。
「先に帰ってください。後は私たちがします」
高山と鈴木が言い出したのは、それから一時間ほどしたときだった。
「でも」
確かに一番大変だった該当特許の解読とランク付けという主だった作業は終わったけれど、まだそれを報告書にして、持って行けるようにしなければならない。
やることはまだあって、高山も鈴木も、そして特許検索を担当してくれた隅埜も、きっと朝まではかかるだろう。こんな状態で帰れと言われても、優司は頷くことなどできなかった。
そう思うのは、リーダーとしての責務だけでなく、優司としては自分の方が楽をしたいと思わないからだった。
「しかし、滝本さんが帰らないと笹木さんが帰れないでしょう?今からだと電車もありませんし。タクシーで帰ると言っても、自腹になるんじゃないんですか?本来の出社じゃないですから」
冷静に高山に指摘されて、優司も二の句が継げない。
確かに普通電車を使用するはずの新幹線降車駅から工場側の駅までの道。だが、こんな時間に電車などあるはずもない。来るときが最終だったと、今は医務室で仮眠している秀也が言っていたことを思い出す。
「それに、滝本さんは明日、いえ今日の朝一から開発部会議があります。笹木さんもそのために来られたんでしょう?そこで二人揃って居眠りでもされたら大変ですから」
「居眠りなんか……」
完徹して、その後に下手すればひたすら長くなる須藤の訓話付き会議をこなすのは、苦痛としかいいようがない。
それを思い出して、優司の眉間のシワは深くなった。
「気にしないでください。もともとこの出張の資料は僕たちでしなきゃならなかったものですから。滝本さんに手伝って貰ってすごく助かりました。それに、笹木さんも来てくれたから……。早く帰って休ませてあげてください」
控えめな物言いで鈴木も勧めてくる。
二人とも、滝本は帰るべきだと思っているのだ。
この資料は自分達の責任だと。
それが判るから、優司は渋っていたはいたけれど、ようやく頷いた。
「判ったよ。じゃあ、帰るから」
「明日、隅埜君の上司に話を通してください。できれば明日は終わり次第帰して、休ませていただければ」
「ああ、そうだね。すぐに話をしておくよ。大丈夫、紺野さんはその辺り心得ているから」
それは、須藤よりはずっとだ。
メンバーが貫徹しようがどうしようが、その者の責任だという須藤だと、彼からの指示は出ないので、当の本人は少しでも仕事があれば帰りづらい。下手すると昼すぎに、「まだいたんだ?」と声をかけられる始末にもなる。
さすがにそんなことを彼にさせる訳にはいかなかった。
滝本の受諾に、鈴木がほっとしたように顔をほころばせる。
「それじゃ……」
ほんとにいいのか?と再度問いかけようとして、けれど、優司は寸前でその言葉を飲み込んだ。
きっと返ってくる言葉は「大丈夫だ」というものだけ。
だから、さっきのようにいらない言葉を言っても、よけいに気を遣わせるだけだろう。
そう思って、優司は「お先に」と、軽く言葉をかけただけだった。
着替えて荷物を持って、医務室を訪れる。
途中コンピュータールームに寄ってみたら、隅埜はまだまだ元気いっぱいで取り組んでいた。
そういえば、10歳以上違うんだよな、とふと思って、その若さが少しうらやましくなる。
あのころの自分なら、こんな時間でもまだまだ元気だったろうと思うからだ。
「秀也、帰ろう」
スーツの上着とネクタイを取っただけでベッドに横になっていた秀也を、優司はつついた。
「んんっ……」
明かりをつけると眩しそうに腕で目を覆い、片眼で優司を窺い見ている。
疲れているな、と思った。
眠そうだというだけでなく、吐いたため息や緩慢な動き、そして少し落ち込んだ目元がそう思わせる。
それも無理はないだろう。
新幹線で4時間弱の道のりは、たとえ寝ていたとしても疲れるのだから。まして、乗り継ぐ労力もいる。しかもこんな時間になっても着替えもない今はくつろぐこともできない。
「もう、帰って良いのか?」
その秀也が体を起こして優司を訝しげに見上げた。
「いや……。でもさ、高山君達が帰れって言うんだ……」
そう言うと、すうっと秀也の目が眇められた。
「もしかして、俺のせい?」
「え……?あ、いや」
慌てて首を振るけれど、秀也の目は誤魔化せない。
「マズかったかな?俺が来たのは……」
「あっ、そうじゃなくて……。あの、明日の会議に居眠りしたら駄目だから……とか……」
なんだか言っていて情けなくなって、優司の声が小さくなっていった。
「別に秀也のせいじゃないから……」
口ではそう言っていても、はっきりと違うと言えない。
高山も鈴木も、秀也がいるから優司を帰らせようとした訳ではない。そんなことは判っているのだけど。
理由の一つにされたのは間違いないことだった。
「とにかく帰ろうか……」
促してから秀也の上着とネクタイを取り上げた。
バックを持ち上げれば、ぐっと手のひらに持ち手が食い込む。
「重いな」
「ああ、パソコンに、明日の資料も入っているから。優司は……できてんのか?」
「え?」
「資料……。ほら、営業は営業経費の割り当ての解析資料で、開発は原価に付加する償却費の割り当てに関する資料出せって」
「へ……」
原価の資料……。
そういえば、そんなことを言われていたような気がする。というより言われていて。
優司の記憶が言われた時点までさかのぼった。そして、その資料を準備しようとしたことまでは思い出す。
だが。
「やばい、できていない……」
その資料を作成したのは確かだ。
だが、それはまとめているとは決して言えないものだ。
両手に秀也のスーツやらバックを持ったまま、呆然と立ちつくす優司を秀也も言葉が出ないようだった。
「……どのくらいかかりそうだ?明日朝だけでできるか?」
営業の参加者のために、会議は9時からだ。8時始業だから、一時間はある。
「できないことは……ないけど……」
不安は消えないけれど。
「とりあえず帰るよ。たぶん大丈夫だから」
「いいのか?」
「ん……。会社にいてもあっちが気になって集中できないと思うから」
「そっか、そうだよな」
優司は、もうどうでもいい気分になってきた。
運転している間、秀也は何も言わなかった。
優司も特に言葉をかけない。ただ、放り出したはずの資料のことが頭の中を占めていた。
部屋に入ってバックを置くと、そのまま風呂場に向かう。
考えなくても覚えた手順でスイッチを入れると、しばらくして給湯器の音とともに湯が落ち始めた。
その様子をぼんやりと見つめる。
いいんだろうか?
もういい、と言った資料が気になってしようがない。会社に残った高山達の事も気になる。
いっそのこと、帰らなければ良かった。
時間が経つにつれて、後悔が大きくなるのだが、今更どうしようもないこともあって、優司は浴槽の端に腕をかけて、ぼんやりと溜まり始めた水を見つめていた。
今できたところで諦めようと思っても、どうしても頭の片隅で引っかかって思い切れない。
「どうしよ……」
やることはあるのに、真綿が詰まったように頭が働かない。それでなくても読み続けた特許のせいで、脳が疲れ切っていたのだ。
それに。
人には、いろんな事が重なると、発憤してよけいにやる気が起きるタイプと、やる気が起きなくなるタイプと二種類あるけれど、優司はどちらかというと、後者のタイプだった。もっとも、さぼるのは性に合わない。それでもやらなければならないという思いでやるから、最終的にはちゃんと終わらせることができる。
だが今日は時間も遅いことがあって、かなりやる気が削がれていた。
明日、一時間だけでもあるという思いが、それに拍車をかける。──けれど。
「少しだけでもやろうかな」
さんざん惑うても、結局はその結論に至るのだ。それこそ、悩むだけ無駄だったと、それすらも後悔してしまう。
もう休むことができる秀也を先に風呂に入れて、その間に少しだけでもすれば良い。
そう判断して、優司は部屋に戻った。
「秀也……っ、あれ?」
ところがね休んでもらおうと思った当の本人はくつろぐどころかテーブルにパソコン置いて、睨むように数字の列を見つめていた。
「どうした?まだなんか残っていた……って、それ……」
よく見れば、それは優司の作りかけの資料だった。
慌ててよく見れば、秀也が開いていたのは優司のパソコンだ。
「だいたいできてるな。もうちょい整理しとけば明日の朝だけでも間に合うだろ?」
「あ、うん」
手招きされて、薦められるがままに秀也の代わりに優司は椅子に座った。
「この数字はこれで良いと思う。ほら、新規の装置の償却費はどこ?」
「あ、それは、こっち」
鈍い頭の働きでも、秀也が巧みに誘導してくれるから考えられる。
自分でしなきゃいけないことなのに。
と、頭の片隅で思ったのだが、疲れのせいか今は秀也に頼りたかった。
それでも、つい口を吐いて出た。
「ごめん」
とたんに、秀也がくすりと笑う。
「下心もあるんだよな、これでも」
「え?」
「いいから、ほら、続けて」
言われるがままに、優司は次々とデータを表に入れていった。もともと準備だけはしていたから、できあがるのは早い。
10数分続けて、秀也が大きく息を吐いた。
「もうこのくらいで良いだろう?後は明日でも十分間に合う」
「あ、ああ、そうだな」
時間にしてみれば、あっという間だ。けれど、これも秀也が手伝ってくれたからだった。
一人でやっていたら、きっともっと時間がかかっただろう。
「ありがと……」
悔しさとうれしさ。
微妙に入り交じった笑みは、わずかに苦笑じみていた。
「ちゃんと前準備できてたからだよ」
「うん……」
ほめられても嬉しくないのは、疲れているせいと、そしてそのせいで卑屈になっているからだ。
それは判っている。
怠くて、集中できなくて、優司はくらい感情を吹っ切るように頭を振った。
だいたい、もっと早くにできていたものをちゃんとしていなかった自分が悪いのだから。
「ほら、風呂入って」
ぼんやりと保存した後の画面を見ている優司を、秀也が立たせた。促されるがままに、風呂に向かう。
やっぱり呆けているんだよなあ……。
別の仕事にかまけて、肝心の自分の仕事を忘れていた。
もっといろんな事に目を向けて、周りを見ないと……。今日は秀也に助けられたとはいえ、今度があるとは限らない。いつだって、みんなに助けられてきたという自覚はあった。
だから。
そろそろ自分でちゃんとやらなきゃいけない。
会社の中でも中堅といえる優司。何より、開発部でもチームリーダーとしてもう何年かやってきた。
いつまでも誰かに助けられるばかりじゃ駄目なのだ。
──と、いつも思うのだけど。
「って……何で?」
気が付けば、二人揃って浴室に入っていた。
慌てて振り向けば、背後からそっと抱きしめられる。
「何でって、お礼貰いたいから」
肩口にびりっとした痛みが走る。
「ちょっ、ちょっと」
「言ったろ、下心ありだからって」
「あっ……」
そういえばそんなことを言われたような気がする。
だけど、疲れているのだ。
しかも、もう二時が過ぎようとしていた。
「もう寝ないと」
逃げようとすれば、捕まえられる。逃れられないように背後から抱きしめられ、あろうことかきゅっと股間を握られた。
「もうこんなになっているのに?」
甘く声音のせいだけでなく、優司の股間はそそり立っていた。
「若い……な」
くすりと笑うその揶揄に、全身が熱くなる。だが、呆然とみやるその先で、確かにそれは持ち主の意に反してとても元気になっていた。
「嫌……だっ」
羞恥に慌てて逃れようとしたけれど。
「言わせない。手早くするから、な」
いつの間にか泡立った石けんが、秀也の体と優司の体双方を白く彩っている。後ろから抱きしめられても、その石けんの滑りで肌が柔らかく擦れ合う。しかも泡を広げるように動く手が優しく優司の体をまさぐっていた。それは洗うと言うより、愛撫そのものだ。
知らず息が荒くなり、込み上げる快感に身を震わせる。
堪えきれなくて、がくりと膝をついてしまうと、ますます秀也の腕の中に捕らわれた。
「っ……もっ、やめっ」
怠かったはずの体も、萎えていたはずの気力も、何もかも凌駕して体の中を快感が暴れ回る。
下手なローションよりも滑りの良い石けんは、秀也の手の中に包み込まれた優司のものを覆い尽くし、淫猥な音を浴室に響かせていた。
その度に、優司の喉からも乱れた吐息と、息を詰める音が零れる。
ぬるりと指先が動くたびに背筋を痺れにも似た快感が駆け上がった。びくびくと震える体を愛おしげに抱きしめられて、優司はもう逆らう気力もなくなってなすがままになっていた。
「っ……ふぁぁっ……はぁ…やっぁぁぁ」
「優司……」
秀也の掠れた声が、耳から脳を冒す。
熱気のこもった浴室に煽られて、額に幾筋も汗が流れた。それでなくても煮詰まっていた頭は快感と熱気に晒されて、もう何も考えていられない。
優司は自分がどんな声を出しているのかも、どんなふうに身もだえているのかも判らなくなっていた。ただ、快感の渦に飲み込まれそうになって、必死になって秀也に縋り付こうとする。なのに、白く彩られた体は滑って、指先は何も掴めない。
まるで溺れているかのように必死になって呼吸をして、指に触れる何かにしがみつこうとしているのだが、それも叶わずにがくりと上半身は床に落ちた。だが、掴まれた腰は浮かんでいて。
「あっ、あ──っ、しゅうやぁっ」
貫かれる痛みが、脳を覚醒させる。けれど、すぐに全身に広がる快感にとろりととろけていった。
崩れた体は後からしっかりと抱きしめられ、起こされる。
「優司……そんなに締め付けるなよ」
欲情に晒された声音に、ぞくりと肌が粟立った。
「だっ…て……」
激しくはない。
座位で貫かれたまま、秀也は軽く動くだけだった。
それなのに、体の芯で弾けるように快感の泡が弾ける。その淡い刺激を逃さないように体が勝手に刺激を追うのだ。
それだけが縋るべきもののように。
そして、その焦れったい動きでは物足りなくて、優司は無意識のうちに乞うていた。
「ほしっ……、もっと……」
熱のこもった蒸気に包まれて、息も絶え絶えの中で、それでもその先を求める。
肩越しに振り返って、涙目のままに懇願していた。
その表情に、秀也が苦笑を浮かべた所までは優司も覚えている。
だが。
「あ、はあっ!」
より深く、力強く抉られて、意識が白く弾けた。
全身が総毛立つような快感が、濁流となって全身を駆け巡る。体内から全ての酸素を吐き出すほどに、嬌声を上げて──それでも足りないと激しく喘いだ。
抽挿の繰り返して、何かの拍子に抜けそうになるのを必死になって体が止めようとする。
「っく!」
「あっ……やだぁ……」
甘い舌っ足らずの声と息を詰める音。
淫猥な音が微妙な音を奏でて、絡み合う。
勢いよく一気に駆け上がれば、それを止める手だてはない。
その勢いのまま、優司は一気に弾けた。
そして、激しく収縮する内壁に、秀也もきつく顔をしかめて、優司の体内に欲望を吐き出したのだった。
静かな室内に響くのは、すうすうと規則正しい寝息だけだった。
その中に、ぱたりとノートパソコンの蓋を閉じる音が響く。その意外に大きく響いた音に、秀也はふっと優司の様子を窺った。
だが、ぴくりとも反応を見せなかった優司は、かなり深い眠りについているようだ。その傍らに立ち、秀也は優司の顔を覗き込んだ。
本人は気付いていなかったようだが、目の下にうっすらと浮かんだクマは眠っている今も残っている。
ずっと忙しかったのは知っている。電話もメールも、そんなことは一言も伝えてこなかったけれど、営業の仲間から聞いていた。優司の情報を伝えてくれるルートも確保しているから、かなり疲労が溜まっているのも知っていた。そのうえ、今回の騒ぎだ。
状況を聞いた時点で、絶対に優司が会社に居残っているだろうと──それはすぐに気が付いた。
ほんの少し、手を止めて休むことをすれば、効率は格段に良くなる。
頭を真っ白にして、もう一度考え直せば、優れた打開案が浮かぶこともある。
なのに、そんなことすら思い至らないほど、時に優司は仕事に溺れてしまうから。
そのクマの辺りに指先でそっと触れても、優司は身動ぎ一つしない。
だが、その表情はどこか満足げで安らぎに満ちたものだった。
浴室で息も絶え絶えになった優司を運んでパジャマを着せるのは大変だっだか、この様子ではその苦労をした甲斐があるというものだ。
気がかりなことがあると、いつだって無駄に悩んで寝不足になるから。だから、思いっきり運動させて、眠らせてやりたかった。
「……でも、ちょっと遅かったかなあ……」
はふっと大きなあくびをして時計を見やれば、もう三時がこようとしてる。
本当なら、帰ってからすぐになだれ込みたかったのが、あの資料の件は秀也も気になった。それでも無理に済ませようとしたのは、明日朝寝坊しても大丈夫なように、だ。
秀也自身、新幹線や工場で仮眠は取ったけれど、それでも睡眠不足は否めない。
明日の会議は大変かも知れないと、くすりと笑って、秀也はちらりと自分のバックに視線をやった。
その中には、二人分のスタミナドリンクや、眠気覚ましのハードミント系のタブレットがしっかりと詰まっている。
重かったのは実はそのせいだったのが、さすがに優司にはそれは言えなかった。
もっとも明日になればバレることだけどな。
肩を竦めた秀也は、もう一度あくびをすると、傍らに敷いた布団に潜り込んだ。
朝になれば、不機嫌きわまりない優司を相手にしないとならないから。
部屋に物音がしなくなった頃、その代わりのように二つの寝息が交互に響き始めた。
【了】