【漫ろ心】

【漫ろ心】

 年に一度企画されるミーティング。参加のために工場に向かおうとした秀也は、冷気を纏う男と会ってしまう。秀也の受難、陵辱、リバ。


 外人が多いな。
 工場に向かう飛行機に乗り込んだ時、笹木秀也は違和感に気が付いた。
 いつもは、地味なスーツばかりの飛行機の中が、今日はやけに煌びやかに見える。
 髪の色というのはほんとに多種多様なんだな、と思わせる程に、ある一区画に日本人でない人種の比率が高い。
「……あれ、……もしかして同じ飛行機になっちまった?」
「って……やっぱり?」
 舌打ちする同僚──来生平(きすぎたいら)に、秀也はその眉目秀麗な顔を顰めた。
「ああ、あっちの奥に座ってんのに見覚えがある。ポリグロ(ポリグローバル社)のデンバーだ」
「俺は、その向こうのヘイスさん知ってます」
 こそこそっと囁き合い、諦めにも似たため息を吐く。
 よりによって、明日からの会議に顔を会わせるメンバーと同じ飛行機に乗り合わせるハメになるとは。
「ま、おとなしくしてようぜ、一時間ほどだし」
「そうですね」
 視線を絡ませて、苦笑して。
 それぞれの指定席へと別れる。
 とは言ったものの……。
 辿っていた座席番号の下。
 その隣の席にすでにいた人物が、ブロンドの髪を持っていることに気がついて、秀也はこっそりとため息を吐いた。
 平均的な日本人よりは立派な体躯。
 けれど、太っている感じはない。
 横文字が並んだ本を見つめているその横顔は、彫りが深く俳優ばりに整っていた。
 きっと、まだそれほど年は取っていない。
 失礼にならない程度観察しても、その彼が、関係者かどうかは判らなかった。
 もともと今回の会議の列席者の名のうち半数は知らないものだった。顔を知らないからと言って、関係者でないと言い切れないのだ。かと言って、関係者であるとも言い切れない。
 こんなことがあるから、前もって関係者のフライトスケジュールは把握していた筈だったが、どこをどう間違ったか、この体たらく。
 それもこれも、二転三転したスケジュールのせいだ。
 心の中だけで毒突いて、通路側の席だった幸いに感謝しつつ、秀也はそっと腰を降ろした。
 途端に仄かな甘い匂いが漂う。
 同時に彼の顔が上がり、窺うような視線を感じた。何気ないフリをしてちらりと上げた視線に、彼のそれが絡む。
 空の色の瞳。
 誰かに……似ている?
 そんな瞳の知り合いなどいない筈なのに、唐突に感じた。
 同時に、ぞくりと背筋に悪寒が走る。
 何故?
 判らぬそれに秀也は焦った。けれど、答えが出る前に、彼が視線を逸らしてしまう。
 そうなれば不躾に眺めるなどする訳にもいかず、秀也も自分の手元に視線を落とした。
 変だな?
 知っている筈ないのに、まるでどこかであったような気がしてならない。
 知り合いの誰かに似ているのか?
 けれど、記憶の奥底を探っても、似たようなタイプは見つからなかった。だいたい、隣の彼は映画俳優ばりに整った顔立ちをしているのだ。
 にこりとともせずに手元の本を見つめている彼は、秀也と視線が合った時にもにこりともしなかった。
 秀也自身、何故か彼が笑うところなど想像できなかった。
「……ん?」
 不意に冷たさを感じた。
 物理的な物ではない。
 機内の空調は程良くて、寒いこともなかった。
 なのに。
 冷たい……。
 体の芯に向かって、ひんやりとした冷気が染みこんでくる。
 しかも、隣のその男がいる側からのみ。
 これって……?
 ぞくりと背筋が震える。
 奥歯を噛みしめて、体が必要以上に震えるのを必死で堪えた。
 寒いわけではないから。
 この冷たさを感じているのは秀也自身だけだから。
 それが判っているから、秀也は誰にも気取られないように、全身を緊張させて堪えた。
 ──なんて……。なんて冷たい心を……。
 冷徹さを隠しもしない。そのうえ、はっきりと判るある種の軽蔑。
 それは隣の男の紛れもない感情だ。
 しかも、それは秀也だけに向けられたものではなく、この場にいる全ての──日本人へと向けられていた。
 東洋人蔑視の西洋人を知らないわけではないけれど、それでもこんなふうに冷たさを感じたのは初めてだった。
 傲慢さとか、思いこみのような悪感情とは違う。
 ただ、彼は何も評価していない。
 人として、価値あるものと感じていない。
 ぞくぞくと伝わる冷たさは氷点下のそれ。
 このままでは凍えてしまう、と、秀也は固く目を瞑ると同時に、心を遮断した。
 途端にそれ以上の冷気の浸食はなくなって、秀也はシートを体を預けるとほっと息を衝いた。
 ここまではっきりと遮断しなければならなくなったのは久しぶりだ。
 意識しないと剥がれる壁を、維持し続けるのは難しい。
 むしろ普段無意識に遮断している状態の方が楽なのだ。けれど、それでは彼からの浸食は止まらない。
 常ならば、さっさと離れるのだが、狭い機内ではそうもいかなかった。
 ──まあ、一時間だし。
 本でも読むフリをしていれば良いか……。
 ゆったりと過ごせるはずのフライトが、とんだことになったものだと心の中でごちて、秀也は興味もない機内誌を手に取った。


 意識して集中していると、外界からの反応に遅れを取る。
 今の秀也がその状態で、彼は一見一心に雑誌を読んでいる状態になっていた。
 けれど、雑誌の中身はあまり頭に入っていない。
 定期的にページをめくっているが、ではその数ページ前がどんな記事であったか、問われても答えられないだろう。
 それだけ壁を作るのに集中してしまっていたのだ。
 だから、気付かなかった。
 隣の男が、そんな秀也の手元をじっと凝視していたことを。
 ページ毎に文章量がどんなに変わっていても、めくられるスピードはひどく規則正しい。
 ぴくりとも動かない表情は、彫刻に柔らかさを加えたような秀麗さを持っていたが、少し辛そうに歪んでいる。
 そして、秀也は意識して男を見ようとはしなかった。
 彼が何をしていても、体を動かして微かに腕が触れあったしても。
 意識的にではなく、完全に無意識である無視。
 それらのことに、男が気が付いたことに気付かないほどに。
 男が気付いて──微かに笑んだこともすら。
 それは秀也でなくてもぞくりと悪寒を覚えるほどの冷酷な笑みだった。
 そんな中、秀也は消えないどころか強さを持ってきた冷たさに戸惑っていた。ちょっとでも気を緩めると、じんわりと浸食してくる。
 一体どうして……。
 いつかは消えると思ったのだけど。
 こんなふうに冷たさを持つ男とは一体どういう輩なのか?
 気にはなかったが、意識されるのも嫌だ、と秀也はそんな好奇心を心の奥深くに押し込めた。
 より強い壁を作り、自分の世界に閉じこもる。
 そうなれば、この冷気も消えるだろう、と。
 けれどそんな風な慣れない集中は、激しい疲労を与える。
「……当機はこれより着陸態勢に入ります」
 待望の機内アナウンスが出た頃には、頭の芯に重い痛みすら感じるほど疲れてきていた。



「笹木、ホテルまで一緒することになった」
 飛行機を降りるのに少し手間取った。
 先に降りていた来生が出口で待っていたのだが、その隣にデンバーが立っているのに気付き、秀也は顔を顰めた。
 嫌な予感がした。
「……一緒って?」
 それでも、なんとか笑みを浮かべる。
「彼らとね」
「やあ、笹木。久しぶりだね」
「こちらこそ。お久しぶりです」
 デンバーにそつなく挨拶を返してから、来生に視線で、何故? と窺う。
「彼に乞われてね」
 苦笑が浮かぶそれは、まさしく秀也にも判っていたこと。
 相変わらず判りやすい人だと、秀也も微かに口元を歪めた。
 ラルフ・デンバーは親会社であるプログローバル社の開発のキーマンの一人だ。もう50は越えた男は、その立派な体格に似合ってとても元気だ。アメリカからの長旅の疲れは微塵も感じられなかった。
 来生の席は、そのデンバーの近くだったから降りる時にでも見つかってしまったのだろう。
 親日家でもあるデンバーは、何度も日本に来ていて開発・営業のメンバーとも仲が良い。
 嬉々として話しかけられる様子は簡単に想像できた。
「一緒って、タクシーですよね?」
「そうだよ、笹木。けれど、せっかくだから君たちと夕食でも思ってね」
 日常会話程度なら問題ない秀也が英語で問えば、楽しそうにデンバーが返してくる。
「久しぶりだから、笹木もな」
 来生がどこか拝むように問う。
 その表情を見なくても、すでに了承してしまってるのが容易に想像できてしまう。
 それにいくら親しいとはいえとはいえ、お偉方を来生一人に任せるのは酷というもの。
「……そうですね。ご一緒します」 
「それは良かったっ」
「いいえ、こちらこそ……」
 さすがに会議の前日にたいそうな宴会にはならないだろうし。
 そう思って、秀也がにっこりと微笑んだその時。
「ああ、ジェイムスっ。こっちだっ」
 デンバーが秀也の背後に向かって合図した。
 思わず視線を向けた秀也の目に、さっきまで隣にいた男の姿が映る。
「まさか?」
 口の中で呟いた言葉は幸いにして誰にも聞こえなかったけれど。
「お待たせしました」
 静かな声音の綺麗な英語は、さっきと同じ冷たさを持って秀也に届いて。
「紹介しよう。今度開発チームで電気化学部門のリーダーをすることになったジェイムスだ。ジェイムス・バーム・キナセ。ジェイムス、こちらがジャパン・グローバルのビジネス部門の笹木と来生だ」
 ──ジェイムス……キナセ……。
 楽しそうに紹介された名を、秀也は半ば呆然と口の中で転がした。
 知らない名ではない。
 だが、名以外は僅かなことしか判らない。
 今回のグループ企業こぞってのテクニカル・ミーティングで初めて現れた男だからだ。
 しかも、秀也の恋人である滝本優司のチームと同じ開発テーマを持つ部門のリーダーの名。
 ──どんな人なのか判らないと、対策しようもないよな。
 先日電話で交わした優司の愚痴を思い出す。
「始めまして」
 そつなく来生とは握手をしていたけれど。
「あ……こんにちは。先ほどは隣でしたのにご挨拶もしませんで」
「知らないのでしたら当然です」
 にっこりと微笑むその瞳が笑っていない。
 寒くもないのに震える背筋の不快感に、秀也は眉根を寄せて堪えた。
「今日これから一緒に夕食しようかと思ってね。ジェイムスもどうだ?」
「夕食?」
 ジェイムスの視線が来生と、そして秀也の顔に落ちる。
「彼らと?」
 その口元に浮かんだ笑みに、来生がちらりと秀也に視線を走らせた。
 無言の問いかけに、秀也も黙ったまま賛同を表すように微かに目線を伏せた。
 彼の笑顔は作り物だ。
 心の中は一つも笑っていない。
 彼にとって、何もかもが侮蔑の対象であった。だが、だからと言ってそんな相手に嫌悪を露わにすることは無駄でしかない。
 だからごく普通に相対はしてはいるようだが、それは本当に表面的なのだ。
 こちらが何をしても彼が悦ぶことはない。
 何も気に入っては貰えない。
 だから──冷たい。
 どんな人間でも少しは人を思う心があったなら暖かい。けれど、それが一つも感じられないから、冷たくて堪らない。
 人の本当の感情が判ってしまう秀也だからこそ判る事実を、けれど来生も気付いたようだ。 
 開発営業という難しい部門で、次々と新規顧客を得ている来生。その手腕を助ける獣じみた勘の鋭さを、笑い話にされることがよくあるが、秀也にしてみれば彼のそれも能力の一つだ。
 人とは違う、けれど誰でも持っている第六感が非常に優れているのだと、思う。
 そんな二人のそれぞれの本能が、このジェイムスという男に警報を発する。
 だが、その響きには差があった。
 秀也のそれは恐怖と寒気を伴い、来生のそれは闘争心と熱気を増長させる。
「明日からの会議もありますからね。簡単にホテルのレストランにしましょう。苦手な物はありますか? 和食は食べられないという方が多いですからね」
 物怖じせずに真っ向からぶつかる来生を、ジェイムスは一見静かに見下ろしていたが。
 途端に冷気が増したような気がして、秀也の背がぶるりと震えた。
「あいにく、好き嫌いは無くてね」
「では、お泊まりのホテルに和食の美味しいお店があるんですよ」
 にっこりと誘う言葉に、うんうんと頷くのは傍らのデンバーのみ。
「美味しいよねえ。そういえば、豆腐料理のあそこはまだあるのかね?」
「ええ、もちろん。そちらにしますか?」
「おや、ということはお薦めの店は、また別に」
「はい。デンバーさんをご招待しようと思って、リサーチしておきました」
「それは楽しみだ」
 感情表現豊かなデンバーに、場は一気に和んでいたけれど。
「じゃあ、早速。ああ、笹木と来生、それにジェイムスは私と同じタクシーで。会議とは別にいろいろと話がしたいしな」 一見陽気な外国人──けれど親会社の開発のキーマンであるのは間違いない。
 抜け目なく腹の内を探ろうとするそのセリフに、来生は苦笑を浮かべたけれど。 
 ──止めてくれっ!
 秀也は、空港という公共の場で、叫びたい気分だった。
 この男は鬼門だ。
 秀也にとって、できるだけ避けて通らなければならない──感情が鋭い牙のような男。
「私は構いません」
 ジェイムスが抑揚のない声音で答えれば、デンバーが嬉々として先頭を進み出した。
 そうなれば、来生も苦笑して追いかけるしかなくて。
 秀也も小さく息を衝いて、幾分諦めの境地に陥りながら、足を進めた、が──
「笹木……何という名だ?」
 いきなり声をかけられて、たたらを踏む。
「え?」
 話しかけられるとは夢にも思っていなかった相手が、秀也をじっと見つめていた。
「ファーストネームだ」
 たったそれだけのこと。
 だが、見つめられるその視線の強さに、治まっていたはずの寒気が復活する。
 思わずジェイムスを見返すが、その本心は判らない。それでなくても、彼の前にいる時は壁が厚くなってしまう。
 いつもの力などほとんど使えやしない。
「しゅ、秀也……です」
 それでも、戸惑うままに答える。
「シューヤ?」
「はい」
 頷くと、ジェイムスは数度その単語を口の中で転がしたようだ。
「言いにくい。シュウにする」
 それは断定だった。
「え?」
「デンバーが行ってしまった。早く行け」
 さっきまでの丁寧な物言いは無く、全てが命令となって秀也に下される。
「あ、はい」
 何なんだ、この男は?
 憤るより先に、戸惑いが激しい。
 変わらない冷たさといい、この態度といい……。
 こんな男を明日から相手にする優司が気の毒になってくる。
 自分ですら疲労困憊で、できれば一刻も早く離れたい、と願う相手なのに。
 零れそうになるため息を飲み込んで、足を速めようとしたその時。
「シュウ」
「はい?」
 思わず振り向いた先で、ジェイムスが嗤っていた。
 口の端だけを上げて、楽しそうに嗤っていた。
 その口が言葉を紡ぐ。
「お前は、ずいぶんと敏感だな──」
「あ……」
 体が動かなかった。
 その『敏感』という単語が、ひどく深い意味を持って秀也には伝わっていた。
「来生という男も面白いが……。だが、シュウの方がもっと面白い」
 それは獲物を捕らえた猛禽類の愉悦。
 ひしひしと重みを持って伝わるそれは、驚愕して己を失いかけている秀也の壁など意図も簡単に突き崩す。
「こんなアジアの片隅で、こんなにも面白いものが見つかるとはな」
 さっきまで冷たさしか感じなかった心が、今は喜色に満ちている。
 手が伸びて、秀也の垂れた髪を元のように撫で上げる。その指が、微かに頬に触れた。
「っ!」
 激しい悪寒に、足がずり下がる。
 さっきとはうって変わって楽しそうな気配。なのに──秀也の背筋の震えは止まらなかった。
 寒くて──冷たくて──凍えそうで……。
「退屈で無駄な会議を一週間どうしようかと思っていたが、シュウのお陰で楽しめそうだ」
 その言葉には、さすがに意識が警報を鳴らした。
 この男の会議の相手は優司だ。
 その会議を退屈で無駄と酷評した男が、一体何を企もうとしているのか?
「どういう……意味だ?」
 さすがに臆してばかりはいられなくなって、視線を上げた。
 途端に、空色の瞳がくすりと笑む。なのに彼にまとわりつく雰囲気はさらに温度を下げ。
「なるほど」
 不可解な言葉がさらに秀也を混乱させる。
 しかも、一人納得したジェイムスは、そんな秀也の状態など意に介さず踵を返して傍らを通り過ぎた。
 な……に?
 背を向けた男の喜悦が増しているのは判る。
 そのきっかけは秀也の返したたったひと言だ。
 それの何があの男を悦ばせてしまったのか……。
「な……ん、なんだ……」
 まるで何もかもが男の手のひらにあるような想像をしてしまって、秀也の全身は総毛立ってしまった。

 

 秀也にとって、狭い空間と言うものは同席する相手次第ではひどく苦痛な物になる。
 それは相手の感情を敏感に感じてしまう力のせいであったけれど、本当なら今は意識することなく乗り切れるようになっていたはずだった。
 だが、今は。
 タクシーという狭い空間にジェイムスがいるという状態は、未だ動揺が治まれ切れていない秀也にとっては最悪だった。
 まして何の因果か秀也とジェイムスは隣り合わせ。
 ぜひ一緒に、というデンバーの無理な注文のせいで、タクシーの中はぎゅうぎゅう詰めだ。当然、二人の体は密着していた。
「っ!」
 カーブにさしかかるたびにジェイムスの体が秀也にのしかかってくる。
 そのたびにぞくぞくと寒気が生まれ、びくりと筋肉が緊張する。
 その動きを押さえなくてはダメだ、と思うのだが、本能に根ざした嫌悪感を押さえ込むことはできなかった。
 まして、秀也の体が緊張するたびに、隣から嬉々とした感情が肌を介して伝わってくる。
 それが嫌で、何度も壁を厚くした。
 飛行機の中ではきっちりと遮断できた壁が、けれど今はうまく遮断できない。
 壁のあちらこちらにひび割れが走っているような状態で、漏れてくる。
 零れそうになるため息を飲み込もうとするが、それでも何度目かカーブの拍子に、深い息を衝いた。
 その音を聞き取ったデンバーが、勘違いをして頭を下げたのはその直後だ。
「笹木、狭くて済まないね、私が幅を取っているから」
 苦笑まじりにデンバーに言われて、秀也も苦笑で返す。
 そんな他愛もない会話でも、今の秀也にとっては救いだった。
「カーブですからね、しょうがないですよ」
「一応節制はしているんだが、一度付いた肉はなかなか落ちないもんだよ」
 けれど、返す言葉が難しい質問は、それはそれで疲れる。
「前に来られた時よりお元気な感じがしますよ」
 どう返そうかと、疲れた頭が必死に回転しても起きてしまったタイムラグを、すかさず来生が埋めてくれた。そうでなければ、会話は嫌な空気で途切れただろう。
 それに心底ホッとして、同時にガチガチに強張った全身の筋肉に気が付いた。
 動かせば音がしそうなそれを、そっと解す。
 続いている二人の会話が楽しそうなのも手伝ってくれたのだけど。
「……私も幅を取ってるからね」
 途端に耳元で囁かれ、体が跳ねた。
 虚を突かれた。
 呆然と目を見開く秀也の耳元で、さらにジェイムスが日本語で囁く。
「もっと寄ってくれても良い。そんなに緊張することは無い」
 二人の会話に隠れて囁かれるそれは、言葉の内容だけで言えば、優しい。
 けれど。
「い、いえ」
 ごくりと息を飲む秀也の肩にジェイムスの腕が回る。
「気にすることは無い」
 それは命令であった。
 抗うことを許さない彼の強い思考が秀也にまで伝わってくる。
「私はこの方が楽しい」
 その意味が判らない。
 ただ、自分が獲物として狙われているのは判る。もっとも、この男が一体何を企んでいるのか、までは秀也には判らない。
 困惑に宙を彷徨わせる秀也を、助手席にいた来生がちらりと窺ってきた。
 心配そうな瞳に、微かに口の端を上げる。
 来生も何か不穏な空気に気付いているのだろう。
 それでも、確信はない。
 秀也とて、変だと思っても確信はないのだ。
 相手は、優司との会議を控えた厄介な大物。邪険に扱うわけにはいかない。
 真面目な恋人は、どんな相手だろうと誠心誠意頑張るだろうから、秀也の方で台無しにする訳にいかなかった。



 来生が、「疲れているようだから先に帰れば良い」とは言ってくれた。
 その願ってもない提案を、だが秀也は笑って拒絶した。
「いいのか?」
 問う視線の先にいるのは、あのジェイムスだ。
 彼とて、その持ち前の勘の良さでジェイムスのうさんくささに気付いているのだ。
 けれど、秀也は再度首を横に振った。
「会話するとひどく疲れる相手ですよ、彼は。ですので、席は離れます。俺が他の方々の相手をしますので、あの二人はよろしくお願いします」
「それは良いけどな」
「大丈夫です。でも、この二時間が終わったら速攻で離れるようお願いします。正直、参っているのは事実ですから」
 来生は本音を隠す必要のない相手だ。
 正直な物言いに来生も納得したように頷く。
「ああ、任せておけ」
 きっぱりと頷いた来生の言葉は、決して違えられることはなかった。


「それでは、明日からお手柔らかにお願いしますよ」
「ああ、また明日ね」
 上機嫌のデンバー達が、綺麗な鈴の音を奏でるエレベーターの中に消えた途端。
「終わった?」
 どちらからともなく肩を叩き合う。
「いやあ、災難だったな」
「ええ、ほんとに」
 本当なら、明日の会議に備えてホテルでゆっくり過ごすはずだったのに。
「そういえば、笹木はこれから滝本ん家か?」
「いいえ、今日はホテルです。ほら、明日の彼らのピックアップ(お迎え)、私もメンバーの一人なんで」
「ああ、そういえば。んじゃ、ホテル帰ろうか。どこ?」
「駅前のガーデン・ホテルですよ」
「へえ、リッチじゃないか。俺はアグリーズだよ」
 秀也のよりツーランクほど落ち、しかも駅からそこそこに距離があるホテル名を出した来生に肩を竦めた。
「こことあんまり離れていると朝辛いですから。明後日からは、ピックアップしなくて良いんで、滝本さん家に行きますけどね」
 ホテル代は決まった金額の支給だから、安いホテルが見つかればそれだけ余る。
 その分食事に回したり、小遣いに回したり、お土産代に回したりと、多少不便になろうとも結構皆頑張るのだ。
「じゃ、俺は行くわ。また明日な」
「はい。お疲れ様でした」
「お疲れ?」
 ひらひらと後ろ手で手を振る来生に、秀也も笑って返した。
 だが。
 秀也の口元に浮かんでいた穏やかな笑みが、一瞬後ひくりとひきつり、消えた。
 背後からしんしんと染みいるような冷気が秀也にまとわりつく。
 何故?
 と自答するまでもなく、かつんと傍らで靴音が響く。
 降ろした視線の先にあるのは、黒いエナメルの靴先。
「どうして……?」
「上がってすぐに階段で降りてきた」
 聞きたくもない冷たい声音の男が、先よりはっきりと喜悦を滲ませている。
「シュウと話がしたくてね」
 言うより先に、背を押された。
 それに逆らおうとした。だが。
「明日の会議で、私は日本での開発など無駄だと発言するつもりなんだが」
「え?」
 明日の会議?
 そのセリフに浮かぶのは、秀也にとって誰よりも愛おしい相手。
「そうじゃないかね? 日本とアメリカ、二カ所で同じ開発をするなど無駄なことだ。だったら、よりカスタマーに近いアメリカでの開発を優先させるべきだ、と私は思うわけだよ」
 ジェイムスの言葉が、正論だと頭の中では判っている。
 けれど。
「日本で行うことのメリットはあります。彼らとて、他の競合よりはかなり進んでいる。無駄だとは思えません」
 それも事実。
 アメリカにいる顧客だけが、顧客ではない。
 日本でもたくさんの顧客があって、そこと密接に結びついて頑張っているのは、優司達、こちらの開発メンバーだ。
 恋人がいるから、という事だけではない。秀也にとって、彼ら全てが仲間だ。その仲間達がどんなに頑張っているか、知っている。それを無駄になどさせたくなかった。
 だが、この男は開発の重要人物──キーマンの一人。
「そのことも含めて、シュウと話がしたい。どうだね?」
 ジェイムスが顎をしゃくった。
 くいっと指差すその先は、エレベーター。
「こういう重要な話は、他人の目のあるところでできるものではないからね」
 その言葉の意味を違えるほど、秀也も愚かではない。
 意味深な視線をわざと送ってくる男の意図がなんなのか、秀也でなくても判るだろう。
 体の線を辿る視線の不快さに、肌は総毛立ち、ぞくぞくと震えが走る。
 けれど。
「私の出方次第で、そうも簡単に方針を変えることはできるのですか?」
 簡単には負けられない秀也の、地を這うような声音に、ジェイムスが嗤う。
「先ほどの意見は、まだ案の段階だ。私には日本人に大事な開発を任せるなど無駄なことだと思っているが、実を言うとシュウと来生の二人に出会って、その認識が揺らいでいる。お前たちのような面白い人間がいるのであれば、認識を変えてしまうのもやぶさかではない」
 流ちょうな日本語だ。
 けれど、彼はその口で日本人ではダメだと言う。だが、来生と秀也は別だとも言う。
 何故?
 奇妙な違和感があった。
 何故、彼は二人が面白いというのか?
 その理由が知りたかった。
 秀也に限って言えば、ジェイムスはその特異な力にうすうす気が付いているような気がしていた。


 秀也の視線が、ジェイムスとエレベーター、そしてエントランスの出入り口を彷徨う。
 すでに秀也の心は決まっていた。
 けれど、その心の片隅で、誰かがあるいは何かが引き留めて欲しいと、願っていた。
 だがいくら探しても、ここには何も無い。
「無駄だよ」
 そんな秀也の落胆をジェイムスは嘲笑した。
「決まった事を思い悩むなど無駄なことをする。もっとも、お前がどうするかは自由だがね」
 その言葉に、秀也はゆっくりとジェイムスに視線を向けた。
 確かにもう決めてしまったことだ。
「行きます」
 この先、何が待っているにしても、秀也は自分のできることをしようと思った。
「私もあなたが何故そうも日本人を嫌うのか、知りたいです」
「嫌っているわけではない。日本人に限らず、役に立たない人間を使うのは無駄だとは思ってはいるがね。もっとも、日本人がそんなに優れているとは今のところ、私には思えない」
「その理由を聞きたいです」
「良かろう」
 秀也の足が、ジェイムスの後を追う。
 この先、何が起きるのか、判っていないとは言わない。
 ──ごめん……。
 口の中で呟く言葉は誰にも聞こえなかったはずなのに。
「愚かだ」
 視線の先で嗤う男はそれすらも気付いた。
 だがその動きが、秀也に違和感の答えを見いださせた。
「あなたは……?」
 信じられないとばかりに呆然と呟く。
 それに、ジェイムスは頷いた。
「まさか、こんな東の果てで同類に会うとは思わなかった」
 疑惑が確信に変わった瞬間だった。
 


 秀也達が普段使うホテルより数ランクは格式の高いホテル。
 ジェイムスに招き入れられるままに足を踏み込んだ秀也は、その部屋の様子に入ったところで呆然と立ち尽くした。
「何を臆している?」
「……いえ」
 揶揄の言葉に、首を振る。
 臆したわけではない。
 この部屋は何なんだ?
 親会社の人間が来た時に、秀也達もホテルの手配をすることもある。
 しかし、そう言う時でも取る部屋はスタンダードシングル。あるいは同じクラスの部屋だ。それは役員クラスでも無い限り、皆同じの筈で、グループ内の暗黙の了解でもあった。
 だが、この部屋には二つの幅広のベッドがゆったりと置かれている。どう見てもツインルーム。しかも部屋としてのクラスはかなり上だ。
「ああ、この部屋か? これは私自身のお金で払うからね」
 秀也の疑問にさらりと答えたジェイムスは、さっさと上着を脱ぎネクタイを緩めている。
「わざわざ?」
 ジェイムスの動きから目が離せないままに、秀也が問う。
「狭苦しい部屋は嫌いだ。旅先でこそゆったりと過ごしたい。それに」
 くすりと笑みを零した。
 楽しそうな笑みだ。だが、途端に秀也の背筋がぞわりと悪寒に震えた。
「狭いと思うように遊べない」
 十分な間隔はあると思った。
 けれど、伸びてきた手が逃れる暇もなく頬に触れ、びくりと体が仰け反った。
「ふむ」
 触れた指先を見つめ、満足げに頷くジェイムスを呆然としたまま見つめる秀也の顔からは血の気が失せている。
「東洋人の肌はきめ細かいと言うが、それは間違いないようだな。これは触れる楽しみが増えると言うもの」
 低く抑揚のない──レポートするような声音が、敏感になった神経を嬲るようだ。
「ふふ、動けないか? 過敏すぎる神経も考え物だろう? もっと鈍感になるよう訓練すべきだよ」
「お、俺だって……」
 これでも鈍感になったのだ。
 それに加えて壁も作れるようになった。
 けれど。
「壁を作るだけでは太刀打ちできないこともある」
 まるで心の言葉までもが読めるように、ジェイムスは秀也の言いたかった言葉を呆気なく否定した。
「私には、お前の壁など通用しない」
 同じだ──と言った。
 秀也と同じ力を持つ、同類だと言った。
 確かめた訳ではない。
 だが、最初に感じた恐怖は、このことだったのだ。だからこそ、飛行機の中で過剰に反応してしまった。
 そんな秀也に最初からこの男は気付いていたのだろう。
 必死で己を護っていた秀也を、ジェイムスはわざと煽っていたのだ。
「あ、あなたは……」
 悔しくて顔が歪む。
 きつく睨み付けると、ジェイムスが可笑しそうに嗤った。
「良い顔をする」
 長い指が秀也の顎を呆気なく捕らえる。
 くいっと上向かされ、至近距離で見下ろされた。空色の瞳は慣れない秀也には異質で、まるで何もかも見透かされるようなそんな恐怖が腹の内から込み上げて、慌てて目を逸らした。
「愚か者の感情など読むに値しない。その表情、瞳を見るだけで十分。ならば力など無いものとした方がよっぽど楽だ。だが、こういう楽しみもできるから、力を無くしてしまいたいとは思わない。なあ、シュウ。お前も楽しめば良いのだ」
「何を?」
 言われた意味が判らなくて、問う。
「こちらの意図した通りに相手の感情が動く様ほど、面白い物は無い」
「面白い、なんかっ」
「おや? 使ったことが無いなどと今更言わないだろう?」
 反論しかけた言葉を呆気なく封じられる。
 確かに、仕事の最中そんな風には使っている。けれど、面白いと言うよりはそれが仕事に役立つからだ。
 ジェイムスの言う、そんな人をバカにしたような使い方などできるわけがない。
 怯えの中にあって、心の中にはっきりとした苛立ちが膨れあがった。
 反感が、一瞬怯えを凌駕する。
 それを感じたのか、ジェイムスがほんの少し目を見開いた。だが、すぐにその双眸が眇められた。
「一筋縄ではいかぬのも好みだな。それにお前から伝わる感覚は非常に私と馴染む。とても楽しませてくれそうだ」
「やっ──めろっ」
 触れる唇から逃れようと顔を背ける。その唇に震える吐息が触れた。
「往生際が悪い。判ってここに来たのだろうが」
「け、けど、こんなのは……っ」
 それでもいざとなると体が拒否反応を示した。
 それに、この男とは相容れない。心までもが拒絶しようとする。
 だが、逃れようと身を捩っても、片腕で強く腰を引き寄せられただけで身動きできなくなった。その力は、意外なほど強い。
「甘いよ。ここに来た目的を忘れたのか?」
「っ!」
 ごくりとつばを飲み込む音がやけに大きく頭の中に響いた。
「明日からの会議……。大事な人でも関与しているのか? あの時、お前の感情は激しく動揺した」
「え……あ……」
 さあっと顔色が変わる秀也に、ジェイムスは満足げに頷いた。
「大事──肉親か恋人? あの動揺はその類のものだ。だからこそ、お前は私の誘いに乗るしかなかった」
 確かにあの時、優司の関与する会議が無駄で退屈な事だと言われて反応した。
 ただ、それだけのことを材料にして、この男はここまで推測したというのか?
「弱点が判れば罠を張るのは簡単なことだ」
 ほくそ笑む男は、あの時と同一人物とは思えないほどに楽しそうだ。
 冷気は変わらずに揶揄と愉悦が加わって、触れる肌から通して伝わってくる。
 それに──あろうことか、煽られる。
「や……めろっ……」
 ただ抱きしめられてるだけなのに、男が欲する感情が赤裸々に秀也を襲っていた。
 嫌だ、と逆らおうとするのに、その欲求に引きずられそうになる。
 これはっ!
 過去幾度も起きた現象の前触れに、秀也は激しく顔を顰めて抗った。
 ダメだ、これ以上はダメだっ!!
 一刻も早くこの場を離れようと、秀也は渾身の力を込めて相手を突き飛ばそうとした。
 だが、そんな秀也をジェイムスは嘲笑う。
「無駄だ。私からは逃れられぬ」
「うっ、んくっ!」
 逃れられぬままに深く口を合わせられる。
 そのままぐいっと体重を掛けられて、直後ぐらりと体が傾いだ。
「ひっ!」
 どすっと二度三度体がバウンドする。
 自重より重い体重にのしかかられ、肺の中の空気が喉から吐き出された。
「い……つ……」
 二人分の体重がモロにかかった左肩がみしりと軋む。
「抗えば、それだけ痛みを伴う。それでも良ければ、私もそのつもりになるが?」
「あっ!」
 視界が閃光で満たされた。
 言葉が映像を運ぶ。
 みしみしと音を立てて軋む肩の痛みだけでない痛みが、全身を走る。
「ひぃっ!」
 情けない悲鳴を止めることもできなかった。
 男の欲望が、流され引きずられた秀也の心を支配する。
「や、ぃやあっ!」
 振り下ろされるムチ。
 火のついたロウソクから垂れ落ちるロウ。
 目の奥で赤い点が幾つも瞬き、同時に痛みが全身を襲う。
 それは、男が想像した欲望だ。
 情欲と愉悦。支配と昂揚。
 それらが綯い交ぜになって秀也に流れ込み、男が想像したように脳が映像化してしまったもの。
 あまりにも鮮明なそれは、相手が同じ力を有しているからなのか?
 判っているのに、逃れられない。 
「こんなこともお前が望むなら、してやろう?」
 嘲笑に込められた言葉の意味を理解する事はできなかった。ただ、心を苛む欲望から逃れたくて、首を左右に振る。
「い、やだ……止めろ……止め……」
「それは、残念だ。では優しくしてやろう」
 嗤った男の手が、秀也の股間を服の上から嬲る。
「ひっ、そこはっ!」
 触れられた途端に衝撃が走った。
 堪えきれない快感に身震いし、きつく顔を顰めた。
 はあはあと荒い息を吐くのは、あまりにも衝動が激しかったせいだ。
 達ったかと思ったのだ。
 けれど、実際は秀也のそこは、勃起はしてたが達ってはいない。
「ずいぶんと敏感だ」
 嘲笑に羞恥して顔を背ける。
 さっきと同じだ──と臍を噛む思いだった。
 引きずられたままなのだ、心は。
 男の欲望が媚薬となって秀也を支配する。
「馴染む……って……」
 荒い息の中、ぽつりと呟いた言葉に、ジェイムスが頷いた。
「そうだ。私の欲望がお前の欲望を高め、快感により敏感にさせる。つまり私が欲しいと思えば思うほど、お前はさらに快感が高まる。それに、お前の快感は歓喜となって私に伝わるから、隠すのは無駄だ」
「そ、んな……」
 生理的な涙が滲んだ瞳が堪らずにジェイムスを睨み付けた。
 途端。
「あっ、はあっ!」
 全身の肌が激しくざわめいた。
 空気そのものが愛撫の手になったように、秀也を嬲る。
「なっ、何っ、これっ!」
「その顔……。その潤んだ瞳……。素晴らしい」
 秀也の涙目にジェイムスの欲望がさらに猛ったのだ。その強くなった欲望をダイレクトに受けてしまった秀也には為す術が無い。
 あまりの快感に身悶える秀也を、ジェイムスの熱の隠った言葉が落ちる。
「狂わせてやろう。お前が私の虜になるほどにね」
「あ……やあっ……」
 唇がこめかみに落ち、頬を辿った。
 肉厚の舌が、繊細な動きで耳朶を嬲る。
「やめっ……そこ……ひっ……」
 いい加減昂ぶった体に、ねっとりとした愛撫を施されるのは苦痛にも近い。
 その苦しさに、秀也が堪らずに涙を流す。
「素晴らしい」
「ひっ!」
 涙がジェイムスを煽り、それが秀也にも伝わる。
 頭では理解している。けれど、どうしようもないのだ。
 秀也にとっては屈辱の涙を、ジェイムスが美味しそうに啜った。
「お前はずいぶんと楽しませてくれそうだ」
「き、きつっ……やめ……っ」
「さあ、もっと楽しもう」
 快感に身悶える秀也を嬲りながら、ジェイムスは衣服を剥ぎ取っていった。



 嬲られるだけ嬲られた秀也のそれは、完全にいきり立っていた。先端から透明な滴がぷくりと溢れては流れていく。
「はあ……あっ……もう……」
 白人よりは黄色みを帯びた肌はしっとりと汗に濡れ、何カ所にも渡って朱印で彩られていた。
 その体が苦しそうに身悶える。
 どこか不自由は、両の手首を浴衣の帯で後ろ手に固定されているせいだ。
 ジェイムスの徹底した愛撫に堪えきれなくなって、自身に伸ばした手を捕らえられたのだ。
 触れることも許されないまま、そこはしとどに泣き濡れている。
「まだだ……まだ我慢しろ」
「あっ……ダメ……やめっ……」
 くちゅくちゅと淫猥な音が響く中、秀也の掠れた嬌声が重なった。白いシーツはシワだらけになり、枕は床に落とされている。落とされなかった照明が、閉ざされなかったカーテンの間にある窓ガラスを鏡にしていた。
 淫猥に蠢く二組が同じ動きをする。
 それを、ジェイムスは喜悦に満ちた笑みを浮かべながら眺め、長い指でずっと秀也の後腔を貫いていた。
「いや……だ……くるし……」
 男の指は巧みに前立腺近くを嬲る。
 達かないように、けれど気が狂いそうな快感を常に与え続けていた。
 それはもう、永劫とも言える長い時間だった。
 秀也は後からの快感を知っている。
 そんな秀也にとって、前立腺を嬲られ続けるのは快感地獄を味わっているようなものだ。
「まさか、シュウのような存在に会えるとは思わなかったからね。何も用意してなかったのが口惜しい。今度はぜひ私の自宅に招待しよう。いろんな楽しい道具がある」
「やだ……ひっ!」
 拒絶しようとした体がぴくりと跳ねる。
「お前に拒否権は無い」
「ああっ、ひぃっ……」
 だらだらと流れる先走りに濡れた陰茎を扱かれて、秀也は髪を振り乱して悶えた。
「ダメっだ、もうっ」
 だが、途端に手は離れる。
 代わりに痛いほどに根本を握られて、全身が硬直した。
「手で縛るのは限界があるな。これも帰れば、最適な道具が幾らでもあるんだが……。シュウにはゴールドのリングが似合いそうだな」
「嫌……や──っ」
 がくがくと揺れる頭が押さえつけられ、ねっとりと首筋を嬲られる。
「達きたいか? だが私の後だ」
「そ……んな……」
 呆然と見開く秀也の瞳に、見る見るうちに涙が浮かんでくる。
 ジェイムスは未だ挿入すらしていないのだ。
 そんな彼が達くのは一体いつになるのか?
 まつげに溜まり、滴となって流れる涙に、ジェイムスは喜悦の表情を浮かべた。
「ああ、良いよ、その顔」
「ひいっ! ……やだっ。……もう……やだぁ……」
 途端に激しい快感が痛みを伴って全身を流れる。
 ジェイムスの欲情は留まることを知らず、秀也を翻弄しているというのに、けれど、彼の態度は余裕綽々なのだ。
「もう……」
 気が狂いそうだ……。
「あ、あん……んん……。んっくうっ!」
 達きたい……達きたい……。
「あ……助け……て……。もう……助けて……」
 優司……。
 ゆうじ……。
 助けて……ゆうじ……。
「優司……ゆう……っ、達かせ……て──」
 けれど、今は遠い場所にいる優司が来るはずもない。
 それどころか、その名はジェイムスの燃えさかる嗜虐心に油を注いだようなものだった。
「可愛いね。そんなふうに恋人の名を呼ばれると──もっと楽しませてあげるよ」
「あっ、はあっ!」
 ずぷりと音を立てて、後孔の指が増えた。
 三本の指が勝手気ままに暴れる。
「ひっぃ! ──あぁぁっ、達くっ!」
「ダメだと言ってる」
「あっ……あああぁぁ……」
 後少しの刺激を与えられない。昂ぶるだけ昂ぶらされて、呆気なく放り出される。
 このまま達けれど、どんなにか気持ちよいだろう。けれど、痛みと快感を交互に与えるジェイムスの手管に、秀也の快感は完全に支配されていた。
「もう……無理……。達かせ……て──。おねが……、達きたっ……」
 絶望が気力を萎えさせ、快感が思考を奪う。
 ジェイムスの手管と欲望に翻弄され、秀也の理性は崩壊した──。
 ただ、快感だけしか考えられなくなって。
 達かせて……。
 欲望のみが秀也を支配し、淫らなお強請りを譫言のように繰り返していた。



「お、ねが……っ。達かせて……。もう……達きた……」
 双丘を高く掲げて腰を揺らす淫猥な誘いのダンスに、さすがのジェイムスもごくりと生唾を飲み込んだ。
「おねが……」
「挿れて欲しいか?」
 それはあまりにも甘い誘い。
 満たされる悦びを秀也は知っているから。それはもうずっと前の記憶だったけれど、はっきりと思い出せる。
「ああ……挿れ……て」
 幸いだと信じていた行為。だからこそ体内に迎え入れたあの頃。
 それがどんなに心地よい行為だったか……否定はしない。
「自分で挿れて見ろ」
 言われたことのない言葉に、秀也の瞳に戸惑いの色が浮かぶ。
 けれど、すぐに前立腺を指先で叩かれて、意識が弾けた。
 促されるがままに、腰を上げる。
「そうだ、そのまま腰を降ろせ」
 ジェイムスに背を向け、揺らめく男の長い逸物に手を添えて、ゆっくりと腰を降ろした。
「んっくっ……」
 痛みなど無かった。
 さんざん嬲られた後孔は、苦もなくジェイムスのそれを飲み込んでいく。
「あっ……ああ、ん……」
 満たされていく。
 あの時は、それが幸いだと信じていた。
 今も嬉しい。
 言われるより先に腰を動かす秀也に、ジェイムスは満足げに頷きその腰を捕まえる。
「もっと激しくだ」
「あっ、あっ、あっんっ、くうっ……」
 幸いだったはずなのに。
 激しく揺さぶられ、上半身が崩れる。
 けれど下から突き上げられ、腰を揺さぶられて、何度も白く意識が弾けた。
 だが、解放できない。
「やっ……きっ……ついっ……。あっ、はあっ!」
 どんと奥深く抉られて、体内の空気全てを吐き出す。
「っ痛っ!やめっ」
 激しすぎるそれは痛みを伴う。
 けれど、ジェイムスはそんな訴えなど意に介さず、さらに秀也を激しく責め立てた。
 これは……。
 違う……。
 飛んでいた理性が、不意に頭をもたげた。
 こんなのは違う……。
「あ……やだ……ぁ──。雅……あ……」
 ──違う……。
 雅人さんじゃ……ない。
 知らない。
 これは……誰?
 ぼやけた視界に金の髪が煌めき、空色の双眸が見下ろしている。
 あ……、この男は……。
「止め……」
「おや、理性が戻ったか? 少々苛めすぎたか?」
 くすりと揶揄する声。
 これは……?
「まあ、良い。ほら、鳴けっ!」
 どすんと前倒しに倒された。
「ひぐっ!」
 体内をぐるりと抉られる。
 止まった息を飲み込む暇はなかった。
「ひあっ! あっ!」
 パンパンと激しく肌が打ち合う音が響く。
「やあっっ、止めっ! きつっ!」
 遠慮も何も無い激しい抽挿に、秀也は身も蓋もなく泣き叫んだ。
 なのに、伝わる欲情がさらに秀也を敏感にする。
 ジェイムスが、秀也の涙に歓喜しているのだ。
「や……あっ……ああっ! はあっ……んくうっ」
 痛みが快感に変わり、意識が真っ白に何度も弾け出す。
 戻った理性が呆気なく消え去る頃。
 どくんと体内で大きく膨らんだそれに全身がぶるりと震える。
 意識せず締め付けたそれが、何度も脈動した。
 同時に、全てが真っ白に弾ける。
 びくびくと震え跳ねる体から濁流のように迸った精液が、シーツと下腹を濡らしていく。
「あっ! はぁ……っ」
 待ち焦がれた解放は、けれど苦痛と綯い交ぜになって秀也の意識を混濁させた。
 その様に、背後の荒い息が一瞬途切れる。
 そして、響く悦に入った笑い声。
「くくっ、私と同時に達ったか。やはりお前とは相性が良い。最高だよ!」
 


 誰かが嗤っている。
 不快な相容れない男の声。
 けれど、今はもうどうでも良かった。
 秀也は気付かなかったが、押し倒されてからもう4時間が経っていたのだ。
 その間ひたすら嬲られ続けた秀也に、もう体力も気力も残っていなかった。
 ただ、眠りたくて──。
 指先一つも動かす事のできないまま、秀也は放り出された姿勢のまま意識を手放した。



 平静なフリをするのにも限度がある。
 目覚めた時の最悪な気分を、それでも秀也は心の奥底に封じ込めたが、顔色までは戻せない。
「健気なものだ」
 揶揄する声音を無視するのが精一杯。
 逃れるように部屋を出て、結局使うことの無かったホテルの部屋に戻る。
 集合場所に出向いた途端、皆が口々に声を掛けてきた。
「どうしたんだね?」
「大丈夫か?」
 そう言われるほどに、秀也の顔色は悪く、体に力が入っていなかった。
「本当に大丈夫なのか?」
 同じピックアップ要員である同僚に声をかけられて、力なく笑む。
 体も辛いが、精神がかなり参っていた。この場に辿り着いた時から、ジェイムスの視線がずっとまとわりついている。圧迫感のあるそれは、終始秀也を苛んでいた。
「風邪を引いたようで……。薬を飲みましたので、すぐに良くなると思います」
 口からでまかせのその言葉を誰も疑わなかった。それほどまで声の掠れは酷い。
「どうする? ホテルで寝ているか?」
「そうもいきませんでしょう?」
「そうだなあ……よりによって」
「ああ、でも。みなさんに風邪をうつすと拙いでしょうし、俺だけ電車で行きますよ。少し遅れますが、必ず辿り着きますので」
「え……、ああ……」
 その方が辛いだろうと言いかけた言葉は飲み込まれる。
 VIPも交じるこのメンバーに風邪をうつすのは拙い。
 同僚の気遣わしげな視線に笑んで、彼らを送り出した。


 彼らが乗った車の姿が消えた。途端、秀也の顔色が少しだけ戻る。
 安堵の吐息を吐き出して、傍らの壁にもたれかかる。
 精神は楽になったが、今度は身体的な苦痛が頭をもたげてきた。
 ずいぶんと執拗な行為は、秀也の体を痛めつけていた。あらぬ所の筋肉がみしみしと悲鳴を上げ、後孔は未だに違和感が残る。しかも、行為の後そのまま放置されたせいで、軽い下痢すら起こしていたのだ。そのせいで食欲もなく、朝食は取っていない。
 それでも、秀也の顔色は先ほどより格段に落ち着いていた。
 体の痛みは薬を飲めば抑えることができる。
 落ち着けば食欲だって戻るだろう。
 今の秀也にとって、あのジェイムスと離れられるなら、こんな体で電車に乗る事など辛くも何ともなかったのだ。
 

 秀也が会社にたどり着いた頃、すでに会議は始まっていて、アジェンダ(議事日程)の確認が行われていた。
 カンファレンスルームいっぱいの机の最後尾にそっと付くと、ちらりと背後を振り向いた滝本優司の心配そうな視線と合う。
 きりっと胸の奥深くで軋む痛みをそっと押さえつけ、大丈夫だと笑みを返した。
 ほっと安心したように表情に、胸の痛みが強くなる。
 どうしようもないことだったのだ、他に手段など無かったのだ、と自分を正当化しようとして──けれど罪悪感という名の痛みは、小さくなるどころかますます大きくなっていった。
 大事な会議だというのに、司会役の人の言葉が頭に残らない。
 少し微熱も出てきたのか、熱っぽい吐息が喉の奥を焼いた。
 ぼんやりとしながら、それでも会議に集中しようとしたけれど。
 今度は、痛み止めが効いてきたのか、まぶたがだんだんと落ちてきた。
 電車の中でも少しだけ眠ったのだが、それだけでは睡眠時間は補えなかったらしい。
 こくりと落ちそうになる頭を肘を付いた手で押さえて、秀也は懸命に目を凝らして、前方を注視していた。──が。
「あ……」
 我に返った時には、説明はもう終わっていて、人々の移動でざわめいている最中だった。


 こんなところで記憶を途切れさせた自分を叱咤し、立ち上がろうとした秀也に声を掛けてきたのは来生だった。
「笹木、大丈夫か?」
「はい……?」
 心配そうな来生の表情の中に、けれど、はっきりとした疑念を感じて、秀也は頷きかけたまま硬直した。
「お前、さ……。昨日ホテルに戻っていないだろう?」
 問いかけではあったが、確信を持って秀也に尋ねていた。余裕のないせいか、ひくりと頬が強張るのが止められなかった。そのせいで、来生がますます眉間のシワを深くする。
「笹木に何度か電話したんだよ。けど、出ないし。それでホテルの部屋に……行ってみた」
 ぎりり。
 噛みしめた奥歯が嫌な音を立てる。
「……何か、用事が?」
 携帯に幾つか着信履歴があったのは気付いていたが、それに返す余裕も気力も無かったのだ。
「用事なら、伝言メモにでも……」
「そういうことじゃないっ」
「っ!」
 怒鳴られて、息を飲む。
 来生もそんなつもりではなかったのか、口の端を歪めて黙りこんだ。


 しばらくして、再度息を飲んだ来生がゆっくりと口を開いた。
「話がある。こっち来い」
「しかし、会議が」
 秀也も来生も同じ会議に出席予定だった。けれど、来生は黙ったまま首を振ると、秀也の腕を掴んで強引に引っ張る。
 力の入らない体は、それだけでぐらりと傾いだ。
 慌てて壁に手を付いて支えるが、さらに引っ張られてしまう。
「来生さんっ」
「会議なんてクソくらえだ。どうせ、俺たちのはテクニカルメイン、ビジネスはオブザーバーで聞いているだけなんだからどうにでもなる」
 冷たく言い放った言葉はあまりにも来生らしい。だが、本当にさぼろうとしてる姿は、全くらしくなかった。
 そんな来生の心が伝えるのは、怒りだ。
 静かな凪のように動かない水面。
 なのに、その内側から今にも水流が吹き上げてくるのではないか、と思えるほどに、静かな怒りだ。
「来生さん……」
「……ここだ」
 ドアを開ければ、たくさんの書籍が整然と並んでいた。
 普段は滅多に入ることのない工場の図書室。普段ここを良く利用するメンバーは大半が会議に出ているせいか、人の気配はなかった。
 来生がわざわざここを選んだ意図をに気付いて、秀也もきつく口元を引き結ぶ。
 来生は自分に向けられた感情──特に好意に対してはとことん鈍い。だが、敵意と言った悪感情、自分以外に向けられた好意、それにビジネスチャンスにはめっぽう勘が鋭いのだ。
 だからこそ、来生はジェイムスのうさんくささに気付いていた。
「笹木、何があった?」
 明確な回答が判っての質問を誤魔化すのは難しい。それでも言葉尻を濁すしかなかった。
「別に、何でもありませんよ」
 何も無い、とは言えない秀也の、それは少なくとも事実だ。
 そう、こんなことは何でもない。浮かべた笑みは、苦笑でしかなかったけれど。
「何でもない奴が、そんな、今にも死にそうな顔をするか?」
「疲れただけですよ」
「何をされた?」
 手が伸びて秀也のシャツの襟首を掴む。
 何も──とは言えない怒りの視線に、唇を噛み顔を背ける。
 引っ張られ緩んだネクタイの隙間から、白い肌が露わになった。
「や……めて……ください」
 性的意図を持たないと判っている。だが、そこにある証を暴かれる恐怖に秀也は渾身の力を込めて抗おうとした。
 だが。
「痛っ」
 忘れていた筋肉の痛みに、力が抜けてしまう。
「ずいぶんと激しい痕だな」
 緩んでしまえばすぐ覗く鎖骨の上。
 羞恥に顔を赤らめて、緩んだ襟首を引き寄せた。
「……目敏いですね」
「上からだと見えたんだよ、さっきな」
 それはカンファレンスでのことだろうか?
「声が掠れているのは、さんざん喘がされたってことだろう? お前はてっきり攻かと思ったけど、受もいけるわけ?」
 露骨な表現に、秀也は視線を泳がせた。
「……別にそう言う訳じゃあ……」
 厄介な男だ──と、秀也は、来生に持っていた印象を改めた。
 こんなふうに来生はいつも仕事をしているのだろうか?
 はっきりとした物言い。だが、勘とはいえ侮れない彼の才能。加えてその自信。
 畳みかけられて、どうして反論できるだろう。
 彼の相棒である坂木が、いつだって絶賛しているのは聞いていたけれど。
「坂木がな」
 ふっと声のトーンを落とした来生が、苦笑まじりで言葉を落とす。
「やった後はそんなふうに声を枯らすんだよ。あいつ、その……痛いのが嫌だって暴れるからな……」
 いきなりの暴露は不意打ちで、秀也は驚愕に目を瞬かせた。 
 二人がそんな関係だとは知っていたが、こんなふうに話をされたのは始めてだった。
「何驚いているんだよ。笹木は気付いていたくせに」
 苦笑する来生に、秀也はそんなことまでバレていたのかと内心驚きながらも頷いた。
「笹木の相手も、滝本だしな。だったらバラさないだろうし」
「……知ってました?」
「笹木は巧いんだけど、滝本、隠すのヘタだからな」
 さすが人を見る目の確かな来生には、優司はとうてい敵わない。
「もしかして、他の人達の事も気付いているんじゃないですか?」
「まあ、うすうすには」
 微かに笑んだ瞳は、けれどすぐに眇められた。
「それはともかく、お前だよ。坂木がいきなり声を掠れさせると、会社では風邪だって嘘付くんだ。今のお前のように」
「本当に風邪ですよ」
「そんな痕をつけてか? 少なくとも先週はこっちにきていなかったろう?」
 勘の鋭い相手との会話は、通常なら楽しめるが、今は無理だ。秀也は重く深いため息をつま先に落とすと、がくりと書棚にもたれかかった。
「判りましたよ……。ええ、昨夜はあの男の所でした」
 何故来生に浮気を責められなければならないのか、という気もしたが、来生の狙いは別だ。
 それが判るからこそ、秀也も喋ってしまったのかも知れない。
 あの男は、秀也の手に余る。
 アメリカの自宅にまで来い、と命令する男。
 捕らえられると二度と自由にはさせて貰えないような恐怖心が常につきまとっていた。
 だったら、今何とかしないといけないのだ。
 そう思わせるだけの男なのだ、彼は。
「で、何をネタに脅された?」
 その瞳に浮かぶのは怒り。
「……電気化学の新規分野。開発をアメリカ一本にするとか」
「……ふ?ん……面白いネタを出してくる。笹木には一番効果的だな。だったら、俺の場合は何を出してくるかな?」
 それっきり口を噤んだ来生の怒りはすさまじい。
 ふつふつと込み上げる怒りを、頭の中でこねくり回し、凝縮させ、解放する時を狙っている。
「気付いてたんですか? 来生さんも狙われているってこと」
「なんつうか、あいつに見つめられるとぞくぞくと寒気がしてな。あそこまで来ると、いくら俺が鈍感でも判る」
 嫌そうに顔を顰めている来生は、けれど、やる気が失せているようには見えなかった。
「怖くは……ないですか?」
「怖い? いや、腹が立つな。ああいう奴はいけ好かない」
 きっぱりと言い切った来生をしばらくじっと見つめ、秀也はくすりと笑った。
「凄いな……。来生さんは強いです」
「は? そうか?」
「俺は……最初っからあの男に負けてて……。逆らうことなんかできませんでしたから……」
 来生の強さがあれば、あんなふうに思うように嬲られなかっただろう。
 制御できない奔流に飲み込まれた力すらねじ伏せて、相手に立ち向かっていたかも知れない。
 だが。
「また同じようにされたら……、やっぱりきっと逆らえない」
 理性が飛ぶほどの快感。
 自ら強請った記憶は、とぎれとぎれに残っていた。
 遮ることができない以上、あれから逃れるのは難しいだろう。
「きっと、今日も……」
 そう思った途端、ぞくぞくと激しい悪寒が秀也を襲った。
 思わず両腕を掻き抱き、その震えを止めようとする。けれど、震えは止まるどころかますます大きくなって。
「笹木っ」
「嫌……だ……」
 昨夜の記憶が、秀也を責め苛む。
 何一つ逆らえなかった自分。
 男の嘲笑。
 巧みな愛撫に翻弄し、強請ってしまったことを。
 一度自覚すると、ぞわぞわと肌を嬲る快感と、身の竦むような恐怖心に飲まれそうになる。
「笹木、大丈夫だっ、何とかしてやる。こんなこと、許されるもんかっ!」
 苛立ち交じりに吐き捨てられた言葉が、そんな秀也を支える。
「けど……」
「とりあえず、あいつと二人っきりにならないことだな。それに──えっ!」
 来生がびくりと顔を上げたのに気付いた。
 慌ててその視線を追えば、先ほどまで閉じていたはずのドアがいきなり大きく開いていて。
「脅しのネタを無くす方が先決ですよ」
 見慣れた人物が微かな苛立ちを漂わせて立っていた。
「笹木くんだけを犠牲にするわけにはいかないですね」
 呆然と見つめる先にある感情の窺えない顔。
 けれど、秀也には彼が激しい怒りを内包しているのが判った。
 それはとても珍しいことで。
「い、えき……くん」
 無意識のうちに呟いた言葉が、静かに図書室内に響いた。



「い、えき……くん?」
「盗み聞きかよ」
 来生が開いたドアを見つめ、剣呑な視線を送る。
 けれど、家城はひょうひょうと肩を竦めた。
「人聞きの悪い。隣にある情報部のコンピュータールームに用事があっただけです。ただ、扉がしっかり閉まっていなくて、こちらの声はとてもよく聞こえましたが」
 確かに図書室の隣はコンピュータールームで、そこを事務所にしているメンバーもいる。
 だが、家城は品質保証部の人間だ。常ならば、こんな時間にいる筈もない。
「ああ……」
 ドアから覗くその隣の部屋の主達。
 その姿に、秀也は諦めの交じったため息をつま先に落とした。
 服部と隅埜。
 それに加えて、開発部医材チームの梅木。
「梅木さんは……会議中だろ?」
 見知った顔に、来生が眉間のシワを深くする。
「それを言ったらあんたらもだろうが」
 軽くいなした梅木が、するりと家城の横をすり抜けて、秀也の腕を取った。
「……酷いな」
 導かれるがままに上げた腕の動きに合わせて、シャツの袖がずれる。
 そこから覗く青黒い痕に、梅木が顔を顰めた。
 それはちゃんと袖の下に隠れていたはずなのに。
 どうして判ったのだろう、と暴かれた痕を呆然と見つめていると。
「あわっ、それって縛られた痕?」
「ここまでくっきりと……。かなり暴れたんでしょう?」
 恐る恐る近付いてきた隅埜と服部までが心配そうに覗き込んできた。
 どうして、見ただけでそんな事が判るのだろうか?
 回らない頭の中で、一カ所だけ冷静な部分がそう突っ込む。けれど、大部分は呆けたままで、何と答えて良いのか判らない。
 それでも、しばらく経って、陵辱の痕を見られているのだと気が付いた。
「あっ……やめっ」
 慌てて腕を引っ込める。
 よりによって……。
 秀也のことを全く知らない人間にバレたわけでないことは不幸中の幸いだが、あまりにも良く知ったこの面々にはもっと恥ずかしかった。。
 俯いて唇を強く噛む秀也に、隅埜がごくりと喉を鳴らし、家城がその頭をこづく。
 その様子は、いつもなら苦笑ものはずなのに、秀也は何故隅埜が喉を鳴らしたのか全く判っていなかった。
 ただ、この場を逃げ出したい気分でいっぱいだったのだ。
 そんな秀也に、家城がきっぱりと言い切った。
「笹木くん、あなた程の人が負けるような相手。野放しにすると他のメンバーまで被害を受けます。それを防ぐためにも、何が起きたか正直に話してください」
 家城の強い口調に誘われるように、秀也の頭がのろのろと上がる。
「……家城くん……」
「起きたことはしようがありません。しかし、この先起きないようにすることはできます。反省も対策も、事情を知ってこそできることです。ですから、必要なことはきちんと話して貰わないと困ります」
 それは正論で。
「笹木くん、人を脅すような輩は、言うことを聞いたからといって、本当にその約束を守ってくれるとは限りません。その位、判っているでしょう?」
 それも秀也には判っていて。
「……そのさ、こんなところで喋っちまった俺も悪いけど、これって渡りに船だと思うぜ。どうやら、みんな笹木の事は良く知ってるみたいだし。それに俺も家城くんの迫力は良く知ってるし、梅木さんもいざとなったら口では負けやしない。しかも、医材の連中は英語は通訳なみだから、反論も自由自在。それに何より、これだけ人間いたら笹木が一人になることは少ないだろう?」
 割り切った来生の言葉が、酷く頼もしく聞こえたのも事実。
 何より。
「三人寄れば文殊の知恵とも言うでしょう? 何より、これ以上笹木くんに何かあったら滝本さんが哀しみますよ」
 その言葉が決定的だった。



「それはね、滝本さんに話すのが一番ですよ」
 力云々の話は抜きにして、かいつまんで状況を説明した秀也に、家城は事も無げに言い放った。
 場所はコンピュータールームに移っていて、席が足りないから全員床に車座になっている。
「優司、に……? それは……」
 言えるわけがない。
 抱かれた事実を、このメンバーに言うのすら嫌だったのだ。たとえバレていたとしても。
 それをよりによって、優司に言うなど、とは。
 唇に食い込む歯の鋭い痛みに、顔を顰める。だが、その痛み以上に胸の奥が痛かった。
「しかし、必要です。きっかけを詳しく話す必要はありませんが、笹木くんに起きたことはいずれ滝本さんの耳にも入ります。たとえその時には何もかも解決していたとしても、後から聞いたと言うことは、今聞くより、もっと激しいショックを受けますよ。何より、彼を傷つけることになります。」
「それは……そうとも限らない──けど」
 口籠もりながら返しては見たものの、家城の言葉通りになるだろう事は、秀也にも容易に想像できた。
 まして、伝わり方次第では、自分のせいだと落ち込んでしまうだろう。
 そんな事になるのは嫌だった。
 だが、やはり優司に伝えるのが嫌で、秀也は結局首を横に振って拒絶しようとしたけれど。
「このまま黙っていて、事が終わった後に知ってしまったら、彼はいつまで経っても『一番大事な時にあなたを守れなかった』と落ち込むのがオチです。その方が大変ですよ。それこそ、トラウマにでもなってしまうかもしれません」
「……トラウマって……」
「彼の最大の欠点は自分に自信がないことです。そんな彼だから、自分が弱いから相談もしてくれなかった、と思いますよ? そんなトラウマを作れば、仕事の方も自信がなくなって支障を来すかもしれません。そうなれば、その男の思うツボではありませんか? 滝本チームの開発ペースが落ちれば、相手にとって有利です。いずれ吸収され──いえ、開発チームそのものが消滅して……。結局、相手の思うがまま。貴方は抱かれ損になってしまいます」
「……そんな……」
 あまりの言い様に、思わず言い返そうとしたが、家城に一睨みされ口を噤んでしまう。
「ですので、滝本さんには何を聞いても、落ち込む暇はないんです」
「滝本くんを落ち込ませないように、話を持って行く必要はあるけどな……。けど、そんな事できるのか?」
 呟く梅木に頷いて、家城が言葉を続けた。
「滝本さんにもプライドはありますよ。恋人を寝取られたまま黙っているような彼ではありません。それに……滝本さんだけではない。私もその男には言いたいことはありますからね、我が社は負けませんよ」
「そうなの?」
 純粋な隅埜の問いかけに、家城は微笑し、秀也は答えられないままに俯いた。
 家城がそれほどまで優司のことを信用しているのが悔しかった。
 優司が持つプライドが、そんなに強いのか秀也には判らない。けれど、家城は自信満々で、間違いないときっぱり言う。
 そう言われれば、そうなのかな、と改めて心当たりがあることに気付いた。
 そのことが恥ずかしい。
 ついでに、家城の言う『寝取られ男』という言葉もやたらに恥ずかしい。
「善は急げです。何とかして滝本さんを会議から引っ張り出しましょう。服部さん、滝本さんが関わっているアジェンダがサーバーに入っています。梅木さんのIDを……」
「判りました」
 皆を聞く前に服部が動く。
「ブレイクタイムに入る時が良いですね」
 否──という暇はなかった。
 気が付いた時には、皆が動いていて。
「笹木くん、滝本さんなら大丈夫ですよ」
 内包した怒りを押し殺して、家城が微笑む。
「う?ん、そうだねえ。何か頼りなさそうだけど……でも、あの人ならやるんじゃないの?」
 隅埜の曖昧な笑みが苦笑を誘う。
 そのどこか素直さのある感情は、結構快い。
「ああ──、また呼ばれた。そろそろ限界かも……」
「かも知れん……」
 来生と梅木が、さっきから呼び続ける放送に顔を顰める。
「ですから、後は僕たちがやっときますよ。さっさと行ってください。──あっ、でもこれは没収ですから」
 服部が梅木のポケットから何か小さな物を取り出した。手の中に収まる小さなもの。その手から黒いコードがこぼれ落ちる。
 そんな彼が内包する怒りは、明るい怒り。
「あ?あ、またバレちまった」
 ぶつぶつ呟く梅木も、それほど悔いてはいないよう。
「じゃ、梅木さん、行きましょっか。ということで、実は梅木さんに頼まれて、資料庫の奥深くで一緒に探し物していましたって──理由にしようかな?」
「俺とお前じゃ、無理だろう?」
「そうかなあ?」
「無理無理」
 さっきまでの深刻さはどこにも無くて、いつもの風景が戻ってくる。
 そんな何事もなかったかのような中にも、彼らが秀也を気にしてくれているのが判る。
 それが、秀也をどんなに元気づけるか彼らは気付いていない。
「そんなに心配することはないですよ」
 家城にとんと肩を叩かれて、秀也は今にも泣きそうに顔を歪めながら、こくりと頷いた。


 家城の指示で優司のスケジュールをチェックした後、家城達もコンピュータールームから出て行くことになった。彼らとて仕事がある。それに、自分達がいては込み入った話もできないだろうという配慮もあった。
「はい、鍵です。僕たちが出て行った後は、鍵をかけておいてくださいね」
 サーバーという重要な装置があるこの部屋は鍵がかけられる。
 その鍵を、服部は躊躇いもなくにっこりと笑みを浮かべて秀也に渡した。
「帰るまでには返してくださいね」
「でも、君たちの仕事は?」
「僕たちはこれから、ミーティングします。ちょうど、情報教育についていろいろと詰めなければならないことがありますから」
 そう言いながら、資料一式とノートパソコンを抱えている。
 傍らの隅埜も山のような資料を抱えていた。それを家城が手伝っていて。
「笹木くん、滝本さんなら大丈夫ですよ。そうでしょう?」
 家城のその言葉に、秀也は息を飲む。
 そんなふうに無条件に信じられるところが、優司にはあって。
 家城の言葉は、それを秀也に思い出させた。
「そうだね、あの滝本さんだもんな」
「そうですね」
 皆が苦笑しながらでも頷くところが、優司にはある。
 仕事だって、優司は自分のことは自分でしようとするだろう。
 相手が何を言おうとも、時間はかかっても優司はやり抜き通す。
 どんなクレームも、客先の無茶な要望にも、上司の我が儘にも、やりにくいメンバーとの仕事も、結局は全部こなしてきていた。
 そんな優司の仕事で脅されたからと言って、逆らうことができなかった己の方が愚かなのだ。
 もっと優司を信じていれば、こんなとこにはならなかった。
 後悔が胸いっぱいに広がる。
「彼は間違いなくうちの社のリーダーですからね」
 家城の念押しする言葉に、頷く。
 その単語の意味を、秀也は良く知っていていた。



 なかなか、優司は来なかった。
 アジェンダ通りに会議が進んでいないのか、それとも伝えられなかったのか、抜けられなかったのか……。
 それが幸いだと思う心が、秀也には確かにあった。
 誰もいなくなった部屋で、あれからずっと秀也は椅子を借りて疲れの癒えない体を休めていた。
 サーバーの動作音。
 時折、警告音のような音が鳴る。
 それ以外では、秀也の小さな息遣いの音だけが響く。
 静かで、世間から隔離されているような部屋だ。
 今の秀也にとっては心を癒すのに最適な場所な筈だっだ。だが、実際には静かすぎて──何にも気を取られることが無くて。
 つい家城の言葉を反芻してしまい、後悔がどんどん膨らんでくる。
 どうして優司を信用しなかったのだろう?
 自分は何故、あの男について行ってしまったのだろう?
 時が巻き戻せるならば、戻したい。
 もっと優司の力を信じて、あんな男の誘いなどに乗ることなどしないだろうに。
 相手の態度と言葉に動揺して、流されてしまわないようにできただろうに。
 けれど、時はどんなに頑張っても戻せるものではなくて、結果としてその行為が優司を追いつめるのだ。
 事実を知ったら優司は秀也を責めるどころか心配するだろう。
「優司……ごめん……」
 後悔が浮かぶ度に秀也の心は苛まれ、心の傷は癒えることなく広がっていた。
 そのせいだろうか?
 家城に諭されたとはいえ、優司に会うのがだんだんと躊躇われ始めたのだ。
 けれど、言った方が良いのも事実で。
 あまりにもゆっくりと考える時間ができたことが、余計に秀也を混乱させた。
 言うべきか、言わざるべきか。
 結論が出ないままに思考がぐるぐるとらせんを描いて深く落ちていく。
 苛々と落ちてきていた前髪を掻き上げ、唇に触れた指先を衝動のままに強く掴んだ。


 結局。
「はあっ……」
 大きなため息を落とし、秀也はゆらりと立ち上がった。
 優司がいつ来るか判らなかったが、ここにじっとしているのが堪えらくなってきていた。
 そんな秀也がふらりと部屋を出てしまったのは、衝動でしかなかった。
 これだけ時間が経ったのだから、会議から抜けられなかったのだと考えるしかない。それも秀也の行動を後押しした。
 かちりと閉まったドアの外には、誰もいなかった。
 通路に出て、とくにあてもなく歩いていく。
 けれど、会議室の並ぶ棟に近付くことはできず、工場の生産棟にはスーツ姿の秀也は入れない。となれば、行く所など無くて、結局途中トイレによって、それから食堂に行くくらいしかできなかった。
 食堂では、遅い休憩を取っている社員達がいて、少しだけざわいついた雰囲気があった。少なくとも、会議に出なければならないような開発部のメンバーの姿は無い。
 それにホッとして、食堂に入る。
 前なら、疲れた時には一人になりたかったのに、今日は他愛もない話をしているざわめきが嬉しい。
 彼らに紛れて、そっと席に着いてお茶を飲むとふわりと体から力が抜けた。
 普段はあまり美味しいとは思わないティサーバーの苦みのあるお茶が、さらに秀也の心を落ち着かせた。
 清涼感のある芳香。窓の外には紅葉が始まったばかりの自然の木々。
 ふわりと舞うのは、トンビだろうか?
 普段なら何でもない風景が、ひどく心地よい。
 二度目に吐いた深い息は、さっきのより安らかで秀也の口元に僅かな笑みすら浮かんでいた。
 やはり……言おう。
 あれだけぐるぐるして結論づけられなかった事柄だったが、心が軽くなるとすうっと納得してしまう。
 家城達の言う通りなのだから。
 もう起きてしまったことを幾ら後悔してもどうしようもない。
 言ってしまおう。
 優司に。
 いつだって優司と共に在りたいのだったら、こんな隠し事など愚かなこと。
「戻ろう」
 せっかくお膳立てしてくれた場所に戻って、優司を待とう。
 秀也は席を立つと、空になった紙コップをくしゃりと潰した。それがゴミの圧縮を歌う工場の張り紙のせいで付いたクセだと気が付いて、なんだかそんなふうに染まっている自分が微笑ましくてくすりと笑む。
 やっぱりこの会社は好きだ。
 自分が働く東京本社も好きだが、それ以上にこの工場が好きだ。
 優司がいるというだけでは無い。
 ここの風景も、働く人全ても、何もかも好きだ。
 潰れた紙コップをゴミ箱に放り込み、食堂を出る頃には、秀也の心はずいぶんと軽くなっていた。


 コンピュータールームに戻り、ドアの前で鍵を取り出す。
 部屋には二つのドアが在って、秀也が鍵を差したのは通路側のドアだった。
 事務棟と工場棟を繋ぐ渡り廊下の途中にある通路。どちらかと言えば、メンテナンスの時のためのドアだ。
 図書室に回れば人がしるかも、と思う心が、そのドアを選ばせたのだけど。
「あっ……」
 最初に感じたのは微かな気配だった。
 誰か人が近付いた気配だ。
 優司かと思ったが、すぐに違うと否定した。優司なら判る。
 だが、この気配は……。
 心当たりがある気配に、秀也は鍵をドアに差したまま、ずりっと後ずさった。
 ぞくぞくと肌が粟立つ。
 慌てて周りを見渡すが、ここには他に部屋は無い。気配は確実に事務棟がやってくる。しかももう近い。
 体が逃げろ、と警告するが、この服装で工場棟へ行くことは禁じられている。
 躊躇いが、秀也の行動を遅らせた。
「どうして……」
「具合が悪いと聞いたが、どうかね?」
 秀也を見つけた空色の瞳が嗤う。
「……大丈夫です」
 威圧感とも違う。
 だが確実に秀也を縛り付ける強い視線から逃れるように、顔を背けた。
 何故?
 何故、この男がここにいるのだ? 優司と同じ会議に出ているはずだ。
 ジェイムスがここに来ることができるというのなら、何故優司が来ない?
 ぐるぐると巡る頭の中の疑問に、ジェイムスが気付いて嗤う。
「先ほど食堂から出て行くのを見かけてね」
 簡潔な答え。
 途端に沸いた後悔に、秀也は臍を噛む。
 どうして部屋を出て行ってしまったのか?
 食堂は、人がたくさんいると同時に、親会社からの来訪者も訪れることがある。
 初めてあった時よりも笑う回数の増えたジェイムスが、ゆっくりと秀也に近付いてきた。
 もっとも、彼の笑みは秀也に悪寒しかもたらさない。
「会議も欠席しているとか? 君がそんなに柔だとは思わなくてね、申し訳ないことをした」
 罪悪感の欠片も無い態度に、秀也はようようにしてきつく睨み返した。
「そんなことでしたら、お気遣い無く。午後にでも会議には復帰します。あなたも、お忙しいでしょうからお戻りになったら?」
「そうだな」
 けれどジェイムスは歩を緩めず、秀也の目前までやってきた。
 危険信号を発する心に従って秀也はこの場から逃れようとしたけれど。
 その視線が秀也を絡め取る。
 ぞくぞくと粟立つ肌は、悪寒でしかない筈。
「君のその憂いの含んだ表情は、堪らなく良いね」
 言葉に含められた熱。
 負けないと誓ったはずなのに。
 けれど、心が支配される。
 相手の感情に引きずられた心に体までもが支配され、ぞくぞくと走る悪寒が甘い疼きに変わった。
「や……ぁ……」
 零れる吐息がやけに熱い。
 足下に奈落の底が口を開き、秀也を誘っていた。
 逃れようともがくのに、そこから溢れる甘美な誘いに誘われるように秀也の足は勝手に動こうとする。
 落ちたら二度と逃れられないと判っている穴へと向かって。
「や……め……」
 錯覚に恐怖し、固く目を瞑る。ジェイムスから逃れようと後ずさった秀也の背に押されて、鍵を開けていたドアが開く。
 その肩をジェイムスの手が押した。既にに支えを失っていた体は、簡単にドアの中へと押し込められた。
 急に大きくなった作動音。
 照明が秀也を照らすのを自覚し、慌てて目を開けた。途端に間近にあったジェイムスの視線に捕らえられる。
「良いね、その顔」
 うっとりと囁くその言葉に乗った熱が、秀也を縛めていく。
 恐怖を伴う怯えが、動きを封じる。
 理性は逆らおうとしているのに、感情が相手に支配されているのだ。
 欲しがるようにし向けられていると判っているのに。
「止めろっ」
 嫌だと首を振る秀也の顎が捕らえられる。
 泣きたくなるほど悔しいのに、口付けを甘んじて受け入れてしまう。
 両頬に流れて落ちた涙が、スーツにまで流れて染みを作った。
 開いてしまう口。
 深く絡められ、引きずり出され。
 口内を蹂躙される。
「んぁ……あっ……」
 一晩嬲られた体は未だに敏感に反応し、秀也に快感を引きずり出した。
「良い子だ。何もかも投げ出して私に支配されろ。そうすれば、快楽で天国を見せてやろう」
 甘い誘惑。
 その言葉の裏に隠された恐怖にも気が付いているのに。
 秀也の体はその言葉の甘い誘惑に打ち震えた。
 流れる涙を掬い取られ、首筋に顔を埋められる。
 明るい照明の下、秀也の肌が少しずつ晒されていく。
 こんなところで……。
 と理性が言う。
 こんな力が無かったら……。
 過去何度も思った願いを、さらに強く願う。
 けれど、ジェイムスの力は圧倒的で、秀也の理性をねじ伏せた。
「ひっ!」
 胸元に入ってきた手が、嬲られ続けて敏感になったままの胸の突起を弾いた。
 電気が走ったような痺れに顔を顰めれば、それすらもジェイムスの歓喜を誘う。
 執拗になった刺激に、秀也は堪らなくなって膝を崩した。
「時間が無い。だが、ここは大丈夫だろう?」
 ジェイムスの手が秀也の臀部を服の上からなぞった。指先が目指すのは、その狭間。
「だ……め……」
 嫌だと振る首は押さえつけられ、ドアを背にずり落ちた体に、ジェイムスがのしかかる。
「言ったろう? シュウに拒否権は無いんだよ」
 深い口付けに言葉すら封じられて、秀也は服を脱がそうとするジェイムスの手を、為す術もなく受け入れるしかなかった。



「秀也っ!」
 悲鳴にも似た叫声が響いた。
「止めろっ!!」
 ジェイムスの重みが消える。
 遮るものがなくなった視界に照明が眩しくて、思わずまぶたを閉じた。その耳に届いた怒りを含んだ声が誰かなど、見なくても判った。
 嘘だろ……。
 判ったからこそ、顔を上げられなかった。
 ただ、崩れ落ちた体勢から何とか半身を起こすと、震える手で露わになった肌を隠す。
 どうしよう……。
 噛みしめた唇に血が滲む。
 そんな秀也の耳に次の怒声が届く。
「貴様っ! よくも秀也をっ! 私の秀也をっ」
 それは、いつも穏やかな優司から出たとは思えない言葉だった。
 しかも、独占欲に満ちた言葉だ。
 思わず顔を上げれば、怒りに顔を真っ赤にさせた優司が、ジェイムスを睨み付けていた。
 対するジェイムスは余裕綽々に笑みを浮かべている。
「お前の? そうかな?」
 その左の頬にくっきりと残る赤味。だが、そんなことは些細なことととばかりに、笑みが浮かべ、優司を見据えていた。
「私のものだっ」
 だが、優司も負けない。
 きっぱりと言い切って、秀也の傍らに跪いた。
 痛ましげな視線が、今の秀也には痛い。顔を逢わせることもできなくて、深く俯いた。
 その視界に優司の手が伸びる。秀也のシャツを引き寄せていた手にその手が被さって。
「秀也、大丈夫だよ」
 ゆっくりと宥めるように言う。
「もう怖くない」
 優しく癒される心が、伝わってくる。そこからは怖れていた怒りも嘆きも感じられなくて。
「……ゆ……じ?」
「ほら、大丈夫だから。怖かったよな?」
「ゆう……じ……?」
「後は任せて」
 幼子を慰めるような純粋な優しさだけがあって、秀也を癒していく。
 こんなのは知らない。
 こんな優しさは知らない。
 じんわりと染みいる優しさが、萎えることなく体の芯まで届く。暖かい心が、強張った秀也の心を解し、やんわりと守るように包み込んでくる。
 その胸の内に広がった熱い塊に、堪えきれずに双眸から涙が流れ落ちた。
「優司……」
「ん……判ってる」
 何が言いたいのか自分でも判らないままに呼びかけた言葉は、優司の頷きで返された。そのことにほっと安堵してしまう。
 ああ、優司は強い。
 心底思う。
 こんなにも強い優しさは他の誰からも感じたことはなかった。


「こんなにも秀也を怯えさせるなんて……。私はあなたを許さない」
 秀也に笑みを向けた優司が、セリフと共に再びジェイムスと対峙した。
「ほお……。お前になどに、シュウを守れるのか?」
「守ります。私にとって秀也は一番大事な相手ですから」
 澱みない返答に、ジェイムスの心が僅かに揺らいだ。
 呆れた、と言わんばかりに双眸が見開かれる。しかし、それはすぐ嘲笑に変わった。
「だが、シュウは私の手を拒まなかった。私の愛撫に、もっとと自ら喘いだ」
 ひくりと体が強張る。
 言葉が、思い出したくもない記憶を引っ張り出した。
「何度も達きたいと願ったよ、私の手で達くことを望んで。自ら腰を揺すって私のものが欲しいと強請ってな。それでも、シュウの心が自分にあるとでも言うのか?」
 甦る記憶が間違いないと教える。
 羞恥と後悔と、そして激しい罪悪感に、秀也は体を掻き抱いた。
 そうだ、この体は、ジェイムスに抱かれて悦んでいた。
 優司に対しての申し訳なさに、涙を溢れる。
 ごめん……。
 唇が、音もなく動いた。
 ごめん……ごめん……優司。
 ジェイムスの言葉による優司の動揺が判る。だからこその罪悪感は強まっていった。
 ただ、ごめん、と呟くしかない。
 優司は何も悪くないのに、こんな嫌な体験をさせてしまった。
 嘲笑など、優司が受ける物ではないのに。
 落ち込み、ジェイムスの嘲笑など聞きたくなくて、耳を塞ぐように頭を抱える。
 幼子が身を守るように、体を丸めて小さくなって。
「……や?」
 俯き涙を流す秀也に、優司が声を掛けたのは、そんな時だった。
「秀也……大丈夫だよ?」
 優しく頭を撫でられ、涙を拭かれる感触に視線だけを動かす。
 視界に入るのは、優司の優しい笑み。
「何を言われても秀也が私の恋人であることには変わりないから。それに、秀也が何でこんなことになったのかも判るつもりだよ? 私は、いろんなことに鈍感だけど……、秀也の心が悲鳴を上げているのは判るんだ」
「え……?」
 初めて聞いたその言葉に、秀也の顔が上がる。
 耳を押さえていた手が離れると、それを優司がそっと握った。
「だって、秀也が泣くなんて。こんなふうに泣くなんて……」
 くしゃりと優司の顔が歪む。
「私にまで伝わるよ。秀也が痛がっているのが」
 だから、私が守るからね。
 頬に当たる柔らかな熱。
 そこから伝わるのは無条件な優しさだ。
「優司……」
「後は任せて。秀也をこんな目に遭わせるのは、誰であろうと許さない」
 顔を上げた優司が視界にジェイムスを収めた途端、凛とした強さが優司に宿る。
「あなたの言ったことが嘘だとは言いません。しかし、秀也のことは諦めて貰います」
 きっぱりと言い切る優司に、ジェイムスの目が眇められた。
「二度と秀也に手は出させません。それに、私はあなたに負けるつもりもありません。あなたが秀也に出した愚かな条件を、私は知っています。しかし、それは条件にはならない」
「ならない?」
「はい」
 優司は今ジェイムスと向かっているために、秀也には背を向けていた。
 だから、その表情はうかがい知ることはできない。だが、優司が笑っているのが判った。
 普段あまり感じられない優司の自信。
 それが全身に満ちている。
「日本での開発を撤退するつもりは我が社にはありません。親会社のキーマンであるあなたが何を言おうとも、私たちは従いません」
「言うだけなら、何とでもなる」
 せせら笑うジェイムスに、優司はきっぱりと言い切った。
「事実ですよ。日本での開発チームの撤退は、アメリカにとっても不利です。アメリカだけでは世界有数の日本の市場を取ることは不可能です」
「ほぉ……?」
 あまりにもきっぱりと言い切った優司のその自信にジェイムスも気付いたのか、声音に含まれていた嘲笑が消えた。
「それは、データでも証明できますよ。第一、あなた方アメリカ側で開発したシステムの日本市場でのクレームの多さをあなたはご存じないのですか?」
「……」
「あなたの──この部門の担当者に何度申し入れしたか……。だが、どうやら彼は前の上司にはその話をしていないようですね。この機会に参考になるかと今までのメールをメンバーが確認しましたが、CCにすら入っていませんでした。そして、あなたはこの地位についてまだ間がない。その辺りの話がどこまで伝わっているか甚だ疑問ではありますね」
「ほお……」
 空気が替わった。
 ジェイムスの目が細く眇められ、その口元から嘲笑が消えた。
「その話が今日の午後には品質保証を交えてあります。日本の市場の品質の厳しさはアメリカ以上。良い解決方法があるのであれば、その場でご提示願いたい。我が社の品質保証部が、手ぐすね引いてお待ちしていますから。その解決案すら提示できないのであれば、我が社の開発チームの撤退など論外です」
 その言葉に、さすがのジェイムスも返す言葉もないようだ。
 そういえば……。
 ──我が社は負けない。
 そう言ったのは家城だ。
 彼は、ジェイムスの言う開発の一本化が為されないのを知っていたのだ。
 こちらにジョーカーを握っている状態だからこそ。
 呆然と成り行きを見守るしかない秀也だったが、優司の次の言葉には目を剥いた。
「それでも、秀也を狙うというのであれば、あなたの上司にでも相談しましょうか? あなたのせいで、こちらの優秀な社員が仕事できなくなったとでも、何とでも」
「優司?」
「私は、秀也を守るためなら、何でもします」
「……何でも?」
 ジェイムスが嗤う。だが、優司は毅然とした態度で頷いた。
「何でもしますよ」
 ジェイムスの視線からも守るように優司が動く。
 その様子に、ジェイムスが呆れたように肩を竦めた。
「では……。お前がシュウの代わりをしろ、と言ったならば、どうする?」
「え?」
「何をっ!」
 きょとんと返した優司を押し退けるように秀也が返した。
 立ち上がり、守られてた背から出ていく。
「そんな事、許さないっ!」
 あれだけ怖かった相手だった。
 だが、優司がこの男に何かされるかと思うと、いても立ってもいられなかった。
 渡さない。
 何があっても渡さない。
「秀也っ!」
 そんな秀也を、優司がそっと抱き寄せる。
「大丈夫」
 耳元で囁いて、鋭い視線を相手に向けた。
「秀也を守るために、その手段しかないのであれば、私は構いません。けれど、秀也がこんなにも嫌がるから……。それに、そんなことをしなくても、あなたは諦めるしかないですよ。何しろ、今からずっと秀也には私か、他の私たちを知っている誰かが守りますから。さっきはたまたま隙がありましたが、もう二度とありません」
 きっぱりと言い切らる優司は、今までになく格好良く、思わず見惚れてしまう。
「さて、そろそろお戻りください。まずは、仕事の話を片付けましょう。アメリカと日本の開発のあり方。みんな待ってますよ」
 PHSを取り出し、ボタンを押す手は躊躇いがない。
 そのディスプレイに表示された番号は、秀也も良く知っていた。
「滝本です。この後の会議、開発関係の位置づけもやるからね。資料、持って行っておいて欲しいんだ。うん、そう。ごめんね」
 短い遣り取りの末に切れた相手は、滝本チームの真の支配者といわれる高山。
 けれど、漏れ聞こえた彼の返事には驚きはなかった。
「私たちだって、予測していなかった訳ではないんですよ」
 浮かぶ笑みに、圧倒される。
 あのジェイムスすら、息を飲んだほどだ。
「ブレイクタイムは終わりです。会議室に先にお戻りください」
 時計を示して、目線で扉を示す。
「そうだな。後は会議の場で……」
 嘲笑は消えていた。
 探るような視線を秀也と優司に交互に向け、一瞬後背を向ける。
 黙って部屋から出て行く彼は、敗北だなどとは、思っていない。
 ただ、時間が着たから出て行ったのだ。
 まだ……終わっていない。


 いつまでもドアから視線が外せないでいる秀也に気が付いたのか、優司がくすりと微笑んだ。
「大丈夫、私は負けないよ」
 きっぱりと言い切る優司は、あまりにも格好良くて、凄くて。
 これも優司なんだ。
 と、秀也は泣きながら抱きついた。
 優司は強い。
 間違いなくジャパングローバル社の将来有望なリーダー、そして、優しい秀也の恋人。
 知ってはいたけれど、改めて実感する。
「秀也も、会議室に行った方が良いよ。みんなが心配している」
 そっと涙を拭われて、赤くなった瞳を心配そうに覗き込まれて。
「大丈夫だって。何があっても秀也を守るって決めてるんだ。それって今がその時だと思うよ」
「守ってくれる……?」
「ああ、守るよ」
 ──母さんと約束しているからね。
 肩口に顔を埋めて、抱きしめられて。独り言のように呟いたその言葉の意味ははっきりとは判らなかった。
 それよりも。
 暖かい……。
 体が、芯まで冷え切っていたのだと気が付いた。
 その冷えが払拭される。
「なあ、笑って?」
 優司の言葉に。
「大丈夫、みんなが付いていてくれる」
「ん……。ありが…と……」
 なんとか微笑んだ拍子に、ぽろりと涙が流れ落ちる。
「ほら、泣くなって」
 困惑に歪む優司もいつもの優司だと、秀也は泣きながら微笑んで。
「ありがと」
 そっと囁いて、掬い上げるように口付けた。
 


 秀也の担当するチームは全体会議の場でも無いとジェイムスとの接点は無い。だから、あの後、優司がどうやったのかは全く判らなかった。
 自分が担当するチームの会議には出ていたけれど、実際には会議の間中気もそぞろだったのは間違いない。
 それなのに、会議自体も長引いて、終わった時には他の会議はもう終わっていた。
 廊下に出てきょろきょろと辺りを窺っていると、接待に出かけるのか、帰り支度をした優司が、喜色満面の笑顔で近寄ってきた。 
「大丈夫だったよ」
 満面の笑顔で言い切って、それに何かを問う間もなかった。
「ああっ、もう行かなきゃっ! あっ、家城君が帰る時には送ってってくれるって。一人になるなよっ!」
 言いたいことだけ言って走り去る優司を呼び止める事などできない。
 呆然と見送るその視界に、ジェイムスが入った途端に顔がひくりと引きつって、肌がぞわりと総毛立つ。
 けれど、ちらりと視線を向けただけで彼も出て行ってしまった。
 表面上は何ら変わらない。
 けれど、はっきりと伝わる悔しそうな思い。そして、強い挑発。
 負けたのだと──けれど、負けていないと……。
 その瞳が宣言する。


 強張った表情を崩すことなどできずに立ち尽くしていた秀也の肩を、家城がぽんと叩いた。
「巧くいったようですよ」
「家城くん……」
 振り向けば、家城は微かな笑みすら浮かべていた。
 けれど、まだ何も知らない秀也にはどう判断して良いか判らない。
「……まだ聞いていなくて……判らないんだけど。少なくとも会議に戻る前の優司は自信満々だったけど……」
「滝本さん、がんばっていましたよ」
「そんなに勝算があったのか? 優司はずいぶんと自信が合ったようだけど。家城くんは知ってる?」
「私たちは一部しか出てませんからね。ただ、高山さんにも聞きましたが、ブレイクタイムから戻ってきた滝本さんはいつもと違う迫力で、相手側の言い分を退けて、こちらの開発テーマのほとんどを優位な立場に持って行ってしまったようですよ」
「……ゆ……優司が?」
 目をぱちくりと瞬かせると、家城は苦笑を浮かべた。
「高山さんが、いつもその調子でやってくれたら問題ないのに、と、ぼやかれていましたよ。なかなか自信持ってくれないから、困る、ともね」
「あ……」
 その言葉の意味を反芻して、秀也は息を飲んだ。
「優司、ずいぶんと自信持っていたけど……。 いつもよりずっと頑張ったんだ?」
「滝本さんは強いですよね」
「ん……」
 知っている。
 優司は強い。
 けど。
「なかなか表には出ませんけどね」
「……ん」
 そうだ。
 そんな姿も良く知っている。
「頭が良いだけでは、うちの会社のリーダーは務まりませんよ」
「……そうだね……」
 それも……知っている。
 人を率いる力。
 開発の方向性を正しく持って行き、なおかつ周りを説得する力。
 ジャパン・グローバル社は役職が少ない故に、その仕事は多岐にわたる。
 しかも、己の開発テーマもこなさなくてはならなくて。
 対外折衝も含まれるリーダーとしての仕事は、はっきり言って向かない人間は潰れるしかない。
 そんな中、優司はなんだかんだあってもやり遂げている。
「まあ、彼の場合はあまりにも周りに恵まれすぎて、なかなか本来の力を発揮できないってところがまた困った所なんですよね」
「……ん……っ」
 俯く秀也に、家城がそっと寄り添って背を押した。
「ここでは目立ちますよ。コンピュータールームでも行きましょう」
「……」
 今日は何度泣いただろう。
 溢れる涙を必死で堪えようとするけれど、ぽた、ぽたっと床が濡れていく。
 最高の恋人。
 最高のパートナー。
 秀也にとって優司は、誰にも代え難いもの。
 助けて助け合って、決して離したくない相手。
 そんな相手に許されて、助けられて、嬉しくて堪らない。
「っく……」
 小さく嗚咽を繰り返す秀也に、家城が苦笑まじりの声音で零した。
「泣くのは構わないんですけどね、さっきの会議でも皆さん困っていたそうですよ。色っぽい姿を晒すのは時と場合を選んでくださいね」
 けれど、その言葉は必死で嗚咽を堪える秀也には届いていなかった。



「お帰り」
「え?」
 ドアを開けた状態で固まる優司の頬にキスを落とす。
 慣れた仕草なのに、なんだか照れくさいと思ってしまう。
 その上、優司がまた恋人になったばかりの時のように、ぎこちない対応を見せるから。
「ほら、早く入りなよ。雑炊作っといたけど食べるか?」
 呆然としている優司から鞄と紙袋を取り上げ、羽織っていたコートを脱がす。
 それまでして、ようやく優司が目をぱちくりと瞬かせた。
 こんな姿を見るのも楽しかったあの頃。
 思い出して、くすくすと笑みがこぼれる。
 優司は秀也がここにいる状態がまだ把握できていないようで、きょとんと小首を傾げて考え込んでいる。
 その姿はいつもの優司で。
 ああ、結局は変わらないのだ。
 どこか呆けた──けれど可愛い仕草にそう思う。
 そして、慣れてしまっていた。こんな優司に。だからだ、高山の話を聞いた時信じられなかったのは。
 それに、ジェイムスに啖呵を切ったあの様子も、目の当たりにしたにもかかわらず今でも夢だったのではないかと思ってしまう。
 けれど。
「明日のピックアップ、来生さんに変わって貰った。っていうか、デンバーさんが明日のお迎えは来生さんが良いって言い張るもんだからさ。だから、ホテルキャンセルしてこっちに泊まることにしたんだよ」
「あ、ああ、そっか」
 納得した途端に浮かべた笑みに、秀也の心も温かくなる。
 あれもこれも、実際に合ったよう事。
 それでも変わらない優司の態度も、それも優司だから、と思うと納得できてしまう。
 こんなふうにいつだって歓迎してくれるから、ここに来るのは、本当に心地よい。
「そっか、良かったね」
「ん……ところで、何、この紙袋?」
 優司から受け取った紙袋がやけに重くて中を覗いて見ると、菓子折のような物が見えた。
 途端に、優司の顔が顰められる。
「……今日行ったホテルの中にあるケーキ屋さんのお菓子の詰め合わせ。なんか、美味しいんだって」
「へえ、でも、何でこんなに?」
 家で食べるにしてはやけに大きい。
「それ……家城くん達のリクエスト」
 少し不機嫌そうに唇を尖らした優司が、じとっと秀也を睨む。
「え、何? リクエストって……あ?」
「そう。今日助けて貰っただろう? その件で、お礼を言ったらこれが欲しいって」
「……へ、え……」
 ひくりと喉が震える。
 そういえば、お礼なんてすっかり忘れていた。
「秀也が最初っから私に相談してくれたら、家城くん達にバレる事なんてなかったのに。よりによって、秀也が抱かれたなんて……。それでなくても、秀也ってばやっている時って、ムチャクチャ色っぽいのにさ。今日なんて、気怠げな雰囲気が凄いっなんてみんなに言われてたし……」
 ブツブツと呟く優司に、秀也の頬もひくひくと引きつった。
 怒られなかったと思っていたのに、妙なところに優司の怒りは残っていて。
「もうっ、あんなのごめんだよ。みんながちらちらと秀也見てるから……」
「あ、あの、ごめん」
「判ってる? 秀也って疲れている時は、色気垂れ流しなんだよ? しかもそういう時ってみんな見惚れてるし……。だから、そんな姿晒さすのは止めろよな」
 きっぱりと言い切られて、困ったことに心当たりがない訳ではない秀也も頷くしかない。
「だから、これはついでに口止め料。家城くんはともかく、こんなことがあったなんて篠山さんや、あの穂波さんには絶対に知られたくないし。あの連中にバレたら、絶対にみんなにバレるし……。ああっ、来生さんにも買って来なきゃっ!」
「あ、いや、来生さんは、俺が何かするから」
「あ、でも来生さんは坂木くんにお願いすれば何とかなるかも」
 ぼそりと言われた言葉に、秀也は今日何度目かの目を剥いた。
「優司、おい、坂木くんって……?」
「あれ、知らなかったっけ? 来生さんって坂木くんの言うことなら何でも聞くんだって」
「え?」
「だから、来生さん絡みのお願いは坂木くんにすれば、絶対聞いて貰えるんだ。これって、開発部では有名な話だよ」
「……そうなのか?」
「そうなんだ」
 そういえば、最近坂木経由で来生への頼み事が増えていると思ったけれど。
「だから、頼んでおくよ」
「そう……」
 なんだかんだ言って、優司も根回しが巧くなっているようだった。
 成長していると言えばいいのだろうが、なんとなくもの寂しいと思ったなんて、口が裂けても言えない。
 苦笑を浮かべて見つめる秀也に着替えた優司が寄り添う。
 視線は、秀也が作っていた雑炊に向かっていた。
「ああ、これ。美味しそうだな」
 秀也がよそった雑炊をくんくんと嗅ぎ、嬉しそうに微笑む。
「秀也の手料理って久しぶりのような気がする」
「そうだね。ここに来るのも久しぶりだ」
「ほんとは昨日から来てくれるかと思ったんだけど?」
 ちらりと上目遣いに見つめられた。
 目の縁が赤く染まっているのは、酒が入っているせいなのか、それとも……。
 深く考えるより先に、体が甘く疼く。
 それでなくても昼間のキスに煽られてはいたのだ。
「ちょっとだけなら……できるかな……って思ったんだけど?」
 今度は視線を伏せて、両手で持ったお椀に口を付けていた。
 ちらりと上目遣いに向けた視線は明らかに誘っている。
 温もりが体内に入ったせい、だけではない頬の色の変化に、鼓動が激しくなる。
「優司?」
 疲れていないと言えば嘘になる。
 だが、こんなふうに優司から求められてしまうと、秀也だって堪らなかった。
 けれど。
「……なんか、悔しいよなあ。私だって抱かせて貰えないのに。……他人ばっか、秀也を抱いてて」
 零されたため息と、低くなった声音。
 窺うようなその視線。
「え?」
「私も……して……みたい……」
 真っ赤になって俯いて。
 掠れた声音で強請られて。
「……優司……」
「ダメ、かな?」
 それでなくても可愛いと、盲目的に思ってしまう己を自覚している秀也にとって、それは反則にも近い。
 まして、罪悪感のある秀也にとって、それを拒絶できる立場でもなくて。
「悔しいんだよ。それに、したこと……ないし……」
 雑炊の汁を飲み込んなだのか、喉が上下に動く。
 唇を舐める赤い舌の動きが誘っている。
「ダメ?」
 いつもより欲情を誘う優司の仕草に息を飲みつつも、秀也は諦めたようにこくりと頷いた。
「……一回だけなら……」
 思わず呟いたのは、仕方のないことだった。
 
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 優司の愛撫は焦れったいほどにゆっくりだった。
 慎重と言うより、これは躊躇いだ。それが随所に窺えて、妙な間が空く。その間に、熱が少し冷める。そしてまた高められて──それを繰り返す。
「ゆ、優司……もうっ」
 早く先に、と思うのだけど、優司の動きは拙い。
「ん?、もうちょっとした方が」
 しかめ面なのは、真剣な証拠。楽しそうとはとても思えない優司が、ごそごそと肌の上を頭が動く。それがまたくすぐったくて身を捩って堪える。
「優司っ、くすぐったいっ」
「だ、だって……よく判らなくて……ん、ここ?」
「あっ──ひっ」
 後孔に入り込んだ指が、いきなり抉ったのは前立腺。
 息を飲み、脳髄を貫いた快感を堪える。
 狙ったわけではなさそうだが、いきなりそこを刺激されるとも思っていなくて。
 荒い息を吐いて、ざわめく体を宥める。
「ここ、だよね」
「そう……だけど……。ちょっ、そこ止め──んっ」
 生理的な涙が浮かぶ瞳で背後の優司を見据えても、必死になって後孔を解している優司には届かない。
 一生懸命なのは判るけれど。
 だが、こんなにも質が悪い愛撫は無い。
 こんなふうに脈絡なくいきなり責められては、辛い。けれど、優司だって一生懸命だと判っている。
 初めてなのだから、どうしようもないと思ってはいるのだけど。
 けれど。
「んっくぅ……痛っ」
 何かの拍子に滑った指が勢いよく入りすぎて、引き裂くような痛みが走った。
 堪えきれない悲鳴に、優司がぴたりと動きを止める。
「あっ、ごめん……」
「ん……いや、大丈夫だから」
 怯えたの含んだ侘びの言葉に首を振った。
 だが、優司は動かない。
「でも……」
 戸惑っている優司を見つめて、手を伸ばしてその頭を引き寄せた。
「大丈夫……だって」
「……ごめん……」
 けれど優司は再度首を振って、自分の体を起こしていた。拍子に、ずるりと体の中から指が抜けて、ぞくりと身震いした。
「ゆう、じ……?」
 両手をついて上体を支えた優司が、情けなく顔を歪めて秀也を見下ろしている。
「どうした?」
「やっぱ……ダメかな……」
 にへらっと笑う優司が、ゆっくりと体の上から離れていった。
「優司?」
 慌てて追うように体を起こして、傍らに座り込んだ優司を見つめる。
「なんかさあ、怖い。人の体の中に指を入れるっての……」
「大丈夫だ……っ」
 言葉を否定するけれど、真摯な優司の瞳に息を飲む。
 伝わるのは、恐怖心よりも戸惑い──そして。
「ん、判ってる。いっつも挿れられてて、大丈夫だって……判ってるけど……。違うな、これってきっと相手が、秀也だから、だ。だから、余計に怖い。」
 そして、何よりも強い、愛おしさ。
 優司の手が伸びて、頬に触れる。
「秀也を傷つけたくない」
 頬の手がゆっくりと後に回って、両手が首に回る。そのままそっと引き寄せられて、唇が触れてきた。
「それに、秀也……まだね、そこ、辛そうなんだよ」
 言葉と共に腰に下りた手がそこに触れた。
 軽く叩かれた、そこ、に、全身が一気に沸騰した。
「ゆ、優司っ」
 がばっと両手を突っ張って体を離す。
 引き剥がされて優司の手が泳ぐ。
「秀也、そこ、まだ赤い。ちょっと腫れているみたい……」
「あ、それは……」
 その意味を悟った途端に、音がする程の勢いで血の気が失せた。
 他人との情事の名残。
 そんなものを優司に晒すつもりはなかった。けれど、優司の視線は、今は奥まって見えないそこから離れない。
「優司……」
 情けなく、くしゃりと顔が歪む秀也だったが。
「なんか、痛そう……。こんな風になるんだね、やりすぎると」
 けれど優司は秀也の動揺など気が付かず、呟く。
 痛ましげに見えるけれど、どこかのほほんとした感じがあった。
「した後に、たまに熱く腫れぼったい時があるんだけど……。こんなふうになるんだったら、しょうがないよな……」
 思い当たるとばかりに、うんうんと頷いて。
「こういう時って、無理しない方が良いんだよ? 秀也も辛いだろ?」
 眉根を寄せて、小首を傾げて問われても、何とも答えようが無かった。
「だからさ、もう良いよ」
 吹っ切ったように笑う優司が、再度手を背に回してきた。
 吐息が、耳朶を擽る。
 心地よいその刺激に、体は自然に目を閉じて、より強くそれを感じようとする。
 けれど、心は心地よさに浸る事はできなかった。
「優司……やらないのか?」
 ホッとしていないとは言わない。それでも、優司の背に腕を回し、その熱を感じながら問いかける。
 したいと言った優司の意思は尊重したい。それに、優司に抱かれれば、嫌な記憶を曖昧にさせることもできるかも、とも思っていた。
 目の前の鎖骨を啄めば、びくりと震えあの男には感じなかった熱が伝わってくる。
「優司……、俺に……」
「……秀也……、良いんだ」
「だって、痛いだろ……?」
 ぽつりと呟く優司に、秀也は微笑んで首を横に振った。温かな熱と優しさに包み込まれ、愛おしげに撫でてくる手は癒しの力をも持っていそうだ。なんだか、痛みなどすっかり忘れていた。
「痛くないよ」
 けれど、優司も首を振って、そっと額を胸に押し当ててきた。
「ここが……痛いって言ってる……。それに、今秀也に挿れたら私はあいつと同じ事をしてしまう。それも嫌だ」
「……優司……」
「私がやれば、きっと体の痛みが強い。でも、秀也の熱は感じたい。なあ……気付いているか?」
 くすくすと意味ありげに吐息で笑われたが、その問いかけの意味が判らない。
 くすぐったさに身を捩りながら首を傾げると、優司が得意満面の笑みで教えてくれた。
「秀也を抱いた奴は他にもいるけれど、秀也に抱かれているのは私だけだ」
「……」
「私だけなんだよ」
 嬉しそうに、誇らしげに、笑う。
「秀也みたいに格好良い人に、料理を作って貰えて、抱きしめて貰えて。自分がどんなに不釣り合いなんだろうっていっつも思うけど」
 惑う視線に、慌てて首を振った。
 そんなことは無いっと強く言いたくて。けれど、言葉にする前に、優司が秀也を見上げながら微笑んだ。
「こうやって、腕の中にいると凄く誇らしくなる。今、愛されているのは自分なんだって……思えて」
「……優司……」
 じんわりと熱い塊が胸の内から込み上げてくる。
 何かを言いたくて、けれど、何も言葉にはならなくて。
 呼びかけて、口を固く噤んで。
 ぎゅっと瞑ったまぶたの縁から、大粒の涙が溢れ出る。
「こんなふうに泣くのも私の前だけだもんな。こんなに……嬉しそうに……泣いて……」
「っく……ゆう……じ……」
 ひくっ。
 しゃくり上げて、必死に優司に伝えたい何かを言葉にしようとした。
 だが、できたのは抱きつくことだけだ。
 きつくきつく抱きついて、何度も何度もしゃくり上げる。
 その背を、優司が何度も何度も宥めるように撫でていた。
 
 
 どのくらい時間が経ったのか。
 体の震えが止まっても、ずいぶんと長い間秀也はずっと優司に抱きしめられていたままだった。
 胸に押しつけた頬に鼓動を感じ、優しさの中に浸っていたのだ。
 だが体勢を直そうとした優司の動きに、意識がすうっと覚醒をした。
 瞬きした拍子に、目覚ましのデジタル時計の数字が視界に入る。
「……もう……」
 思わず呟いた。
「何?」
「ごめん……もう12時過ぎてる」
 明日もまだ会議があるのに。
 眠りにつかないと明日が辛いはずだ。特に優司は、あのジェイムスと相対するというのに。
「ああ、ほんとだ……」
 くすりと肩を竦めて、けれど優司は困ったように頭を掻いていた。その視線がもの問いだけに揺れる。
「そのさ……」
「何?」
「寝なきゃいけないのは──判ってんだけど……」
「優司?」
 あはは、と小さく笑いながら、それでも、言い淀む優司が何を言いたいか。秀也ははっきりと気付いていた。
 何より、優司の考えていることだ。
「欲しいのか?」
「……」
 覗き込んだ瞳の奥で、情欲を伝える炎が揺らぐ。
 言葉よりも雄弁に伝えてくるそれ。
「まだ、誤魔化すのか?」
 黙っている優司の顎を捕らえて、引き寄せた。
 逸らされた視線を追って覗き込む。
「良いだろ……別に」
 唇を尖らせて拗ねる様子に、余計怒らせると判っていてもくすくすと笑ってしまう。
「笑うなっ」
「だって、可愛いから」
 堪らずについからかって。
「ううっ」
 落ち込む優司の頬にそっと口付ける。
「明日辛いかも……」
「……さっさとやれば?」
 そっぽを向いたままの優司の頬は、見事なほどに紅潮していた。


 熱い。
 突き上げるたびに絡みつく優司の肉壁に、爆発しそうな予感を何度も感じた。それでも、今ここで解放するのはあまりにももったいなくて、秀也は肺いっぱいの空気と一緒に熱を吐き出した。
 それでも、優司から伝わる熱で満たされてしまう。
「あっ……はあっ……」
 さっさと終わらせた方が良いのは判っていた。
 明日にはまだあの厄介な相手と会議をしなければならない優司。
 できれば、もう休ませてやりたい。
 けれど。
「しゅ……や……っ」
 奥深くを抉るたびに優司が喘ぐ。
 荒い呼吸すら愛撫となって肌をくすぐり、密着した肌は二人分の汗で濡れそぼっていてた。
 その肌以上に濡れているのが、優司の下腹部で天を仰いで揺れているもの。
 たらりと流れた滴が、体が揺すられるたびに腹に塗り広げられる。
 淫猥な模様の広がりに、ぞくりと肌がざわめいた。
 理性を保った状態でなお、ここまで欲しいと思わせる相手は今までいなかった。
 雅人よりも、ジェイムスよりも。
 誰よりも愛おしい故に欲しい。
「優司……」
「あ、あぁんっ……んっ、あっ」
 指の腹で震えるそれを掴み、えらの張ったそこを擦る。
「んんっ、くはっ──。も、もっと……」
 前と後と、二重に伝わる刺激に、優司が激しく頭を振り乱した。
「あっはぅ……。イイっ、そこっぉ」
 乳首に吸い付き、陰茎を扱き、後孔を深く抉って。
「やあっ──はっ」
 薄膜のかかった瞳がぼんやりと宙を彷徨い、体が震えるたびにきつく引き寄せられる。
「優司、優司」
 快感にとろけ、理性を飛ばした優司の痴態は、秀也を歓喜させる。
「良いっ、──すごい、優司。ん、その表情っ」
「あ、あぁぁ」
 舌先で涙を掬い、何度もその顔を啄んだ。
「あっはぁ……」
 強弱をつけて押し寄せる快感という名の波。
 体はとろけ、さらに強い波を欲して縋り付く。
 腰が勝手に動いて、腕が優司を抱き留める。
「きつっ……すご……」
 零されるため息は、ひたすら熱い。
 優司の辛そうに顰める表情に、一際高く心臓が鳴った。。
「だっ……て……あっ」
「……そんな……締め付け、たら……」
「だって……あっ、んふぅ……」
 ぐちゃぐちゃと、後孔から響く湿った音。
 同時に耳に届くのは、荒く喘ぐ息遣い。
「優司……愛してる」
 誰よりも。何よりも。
 うっとりと秀也が言えば、優司の顔がひくりと強張って。
「うっ……あっ!」
 ぎゅうときつくまぶたが閉じられて。
「んっ……くぅ……」
 びくびくっと何度も腕の中の体が震え、下腹に熱い滑りが流れ落ちた。


「優司……優司……」
「秀也……」
 白い肌が朱に染まり、ところどころに花が咲く。
 絡まる舌に、どちらのともつかぬ頬を伝った塩辛い味が乗った。
 そんなものでも、相手の体液かと思えば嬉しくて、秀也はもっとと欲張った。
 嬉しくて。
 愛おしくて。
 何にも代え難い。
「秀也……まだ?」
「ん……もう……」
 優司の中。
 そう思うだけで、暴発しそうになる。
「ん……イイ……」
 ジェイムスの時のように連鎖的に爆発するような快感は無い。あの時は、理性を失い、快感を追うだけの生きものだった。あれは、どんなに気持ちよくても、後悔しか生み出さない行為だった。
 けれど、優司とは違う。
 触れあうだけで優しく、心地よいのだ。
 泡が弾けるような快感。パチパチと泡だって、いつの間にか全身がそれに包まれる。
 ざわざわとした感触に自然に顔が歪み、堪らずに湧き出す唾液を飲み込む。
 そんな些細な感触が脊髄と脳髄を侵す。
「い……いよ……」
 静かに染みこみ、いつしか虜になる。
「あっ、ふぁっ……」
 ぎゅうっと全身が緊張する。
「んっ」
 優司の体も呼応するかのように震えた。その固く閉じたまぶたに口付けて。
「優司」
 口付けを請えば、すぐに返された。
 視界が白く弾け、震えて崩れる体を抱きつくことで堪えて。
「んあぁぁっ……」
 解放感に打ち震えながら甘い吐息を零す。
「優司……」
「ん」
 ふわりと優しい笑みで返されて、秀也も知らず微笑んだ。
 ぐたりとしどけなく肢体を放り出し、優司の横に横たわる。
「さすがに……疲れたな……」
 心地よい解放感にうっとりと浸っていると、すぐに睡魔が押し寄せてきた。
 昼間の疲れが今になって出てきたのだ。
「眠い……?」
「ん……」
 問われても、頷くしかできない。
 その体を温もりが包み込む。
「良いよ、寝て」
 優しい言葉。
 優しい心。
 優司の行為は睡魔を煽るものばかりで、逆らう気力など最初から潰えていた。


  
 一晩ぐっすり寝たとは言えない朝。
 それでも会議は待ってはくれない。
 眠い目を擦りつつ、気分を変えて会議に臨んだ。だが、二人の仲睦まじさは隠してもみんなにはバレバレだった。
「仲良いことは良いことだよ」
「けどさあ、熱くて熱くてやってられない」
「無茶、色っぽいし」
「どっちもね……」
 代わり番こに秀也の傍らに付いてくれる皆が皆揃って言う。
「はあ……」
 暗に責められても何の反論もできるものではなく、秀也は黙ってお茶をすするしかなかった。
 その目の前には、昨夜優司が買ってきたお菓子──クッキーの詰め合わせが広げられていた。
「このクッキー旨いんだよな。けど、高いからなかなか買えなくって、なっ」
「うん、高山さんも美味しいって言ってくれるんだ。さっきもなんかくすくす笑いながら食べてたよ」
 会議室から出てきた秀也と合流した隅埜とその友人の里山櫂が教えてくれる。
 三人が囲んでいる机の上には、それに加えてどこかの和菓子の詰め合わせがあって。
「これも美味しいよな」
「あっ、これね。康永堂の酒蒸しまんじゅう」
「櫂はこういうの、好きだよな」
「それは啓輔だって」
 若い子達の食欲はすさまじい。
 さっき昼を食べたばかりだと言っていたのに、あっという間に箱が空になっていく。
 秀也の倍は食べた彼らがごくりとお茶を飲み干し。
「あっ、やべっ。あんまり食べ過ぎるなって念押しされてたんだった」
 誰に、と言わなくても相手が簡単に頭に浮かぶ。
「啓輔、最近太ったんだろう?」
「なんか最近菓子の差し入れ多いんだもんっ」
「もっと運動しろよ?。気をつけないと家城さんより重くなるんじゃないの?」
「まだ、大丈夫っ!」
 けらけらと明るい笑い声に誘われて、秀也もくすくすと笑みを零した。
 まだ二日目の会議は、後二日も日程を残している。
 問題のジェイムスは今は、優司達と最後のアジェンダをこなしているはずだった。
 気を抜くのは早いかも知れないけれど。
「なんか今回家城さんもやる気満々なんだよな。昨日なんて、ぜっんぜん相手してくれねえんだもん……」
 むすっと不機嫌そうにぼやく隅埜に里山がまあまあと宥める。
 その原因が自分にあると判ってはいるが、何と言って良いものか判らないのは、彼が望んでいるものが判るからだ。
 けれど。
「でも、ほら、グリーンノードのケーキも食べたくねえ?」
「あっ、食べたいっ!」
「……まだ食べたり無いのか?」
 性欲が呆気なく食欲に変わったことに苦笑していた秀也の顔がひくりと引きつる。秀也でも知っているそのケーキは、東京でしか売っていない。
「だって……」
「あれ、美味しいよな」
「うんっ」
 若い二人の期待に満ちた視線が秀也に向けられる。
 それに立場が弱い秀也がどうして断れよう。
「……そうだね。今度時間がある時に買ってくるよ……」
 ため息を零して頷けば。
「あっ、催促した訳じゃなかったんだけど?」
 満面の笑みで言われても、とても信じられるものではなかった。


 ちょうどその頃。
 無事両国の開発チームの存続が決まった優司達の部屋で静かな攻防が繰り広げられていた。

「私は諦めたわけではありませんから」
 最初より格段に冷たさが消えたとは言え、それでもにこりともしないジェイムスがじっと優司を見据えていた。
 その真の意味が判っているのはここでは優司だけだ。
「絶対に諦めさせますよ」
 今までにないほどに不愉快さだけが増す相手に、優司の口調できつい。
 そんな優司に嫌味のようにジェイムスは日本語と英語、二つの言語で同じ言葉を繰り返した。
「いろいろと問題が山積みだと言うことは判りましたので、早急に全ての件は処理します。後顧の憂いなど全て無くして、もう一度相対致しましょう、次のミーティングの場で。こちらとしてもぜひ欲しいですからね」
 ぴんと張り詰めた会議室の中で、もともとのアメリカ担当者が蒼白な面持ちで硬直していた。
 彼のクレームへの対応の遅れが、アメリカ側の今回の会議の敗因となったといっても過言では無いからだ。
 きっと彼は、次のミーティングには現れないだろう。それよりも、会社に席は無くなっているかも知れない。
 手柄のために隠匿した情報があったことは、優司の手持ちの札をずいぶんと強固なものにしてくれた。そのことに十分感謝している。
 だが、俯くその姿を見ても僅かな憐憫の気持ちしか湧かない。
 それもこれも、このジェイムスという男のせいだ。
 たった一人の男の不愉快さが、優司の感情をマイナスにしか持っていかない。
 けれど、今は仕事中だ。
 絶対にこの男に揚げ足を捕らえられないように、と、慎重に言葉を選ぶ。
 本音を言えば、自信は無い。
 怖いとも思う。
 けれど、そんな事は言っていられないのだ。
 今優司の肩には、ジャパン・グローバル社の仲間達の想いがのしかかっているのだ。
 この状態に持って行くために、家城や高山、そして鈴木、三宅──たくさんの人達が資料を揃えてくれた。
 秀也の件があってからは、服部や隅埜までもが、手伝っていた。
 そんな皆の思いを、怖いなどと言って無にするわけにはいなかった。
 何より、こんな時だからこそ秀也を守りたかった。そのためには、今の優司のできることを全て出し尽くすつもりだった。
「問題が解決するのはこちらとしても歓迎すべきところです。しかし、当然ながらこの技術の進捗は早い。もっと多くの課題もあります。その件についても早急に事を進める必要があります」
「ええ、こちらとしても件のテーマを頂くためなら、尽力を尽くしますよ」
 何より、暗に伝えてくる秀也の事はもっと譲れない。
 だから言う。
「こちらとしてもまだまだ先を進ませて貰いますよ。次回にはもっと多くの成果を示すことができるでしょう」
「それは次回が楽しみだ」
「はい」
 互いの視線は一度として逸らされなかった。
 そんな優司の態度は、今まで彼を評価していなかった他のメンバーの目にも頼もしく映ったという。


 おまけ──最終日の出来事

 優司達滝本チームの満面の笑顔というのはそう拝めるものではない。
 だが、クローズドミーティングが終わった彼らは、皆一様に晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。
 それだけ、今回のミーティングが成功であったということだ。
 その勝因は、家城によれば、思った以上にジェイムスの担当するチームはぼろぼろの状態だったということだ。
「ほら、心配すること無かったでしょう?」
 微笑む家城に、最初から教えてくれれば、とも思ったけれど。
「まあ、あそこまで上司に状況が伝わっていなかった、というのが一番の勝因ではありますから、こちらとしても絶対に、とは言えなかったんですよね」
 その言い分ももっともだと思うから、彼を責めることはできない。
 それよりも、彼が優司に伝えてくれたからこそ、あの時助かったし、何より、優司の格好良い姿を見ることもできた。
「あ、他も終わったようですね」
 現れた来生が秀也を認めて、近付いてくる。
「笹木。そっちも終わったか?」
「はい、来生さんも?」
「今日の接待は笹木も参加だろ? 開発からは梅木さんが行くから一緒にいろよ」
「あ、はい。ありがとうございます。あ、でも今日はあちらさんは半数は先に帰るんですよね」
 確か、ジェイムスも先に帰るメンバーだ。
 すでに玄関先に出ている様子がここからでも見える。
 そちらを皆の視線が向かい、くすくすと明るい笑みが空気を震わせた。
「そうそう、だから今日は気が楽だと思うよ」
「そうですね」
 接待の場と聞くと、実はまだ緊張する。だが、こうやってみんなが助けてくれているのだ。いつかまた慣れてしまうだろう。
 そんな和やかな雰囲気に浸っている時、最後の会議が終わったのかぞろぞろと人が廊下に溢れてきた。
 途端に、中の一人がとことことこちらに向かって駆けだしてきた。
「?」
 たたたっと秀也に駆け寄る人の姿を視認して、家城も来生も秀也の前へ出る。
 それは体格からして、ジェイムスではないと判っていたけれど。
「デ…ンバーさん?」
 その特徴ある体格に、ぎくりと顔を引きつらせた来生が、何故かずりっと後ずさった。
「いやあ、笹木、元気になって良かったよ。で、今日は一緒に食事に行けるんだろうね」
 パワフル全開のデンバーが秀也に嬉々として擦り寄って、ばんばんと思い切りよくその背を叩く。
「はい、今日はご一緒します」
「そりゃ、良かった。君がいないと、来生が他の連中に取られてしまうんだよ。せっかく一緒に飲んでんのに、行っちゃうから……。だから、笹木がいてくれると嬉しいんだ。何しろ来生ほど私の好みの人間はいないんだよ。ほんと、いいねえ、可愛くて。ん、今日も一緒に飲もう、な」
 豪快な笑顔とは裏腹に、どこかうっとりとした口調は、その場にいた大半の社員は彼特有のジョークだと思ったらしいけれど。
 秀也を含む一部の人間は、揃ってその顔を強張らせていた。


【了】