「で、これがそのメールって訳ね」
受け取った資料を、誠は訪ねてきた梅木に渡した。
梅木は、笹木を滝本の家まで送っていった後、誠の家までやってきたのだ。
「そうなんだ。けっこうつっこみどころ満載みたい。統計は専門外だけど、その評価データの所もたぶんまともなデータじゃないよ。文章で誤魔化しているけどさ」
真剣な表情が格好良いと見惚れながら自分の感想を述べて、彼にコーヒーを出す。
「お前が読んでそう思うのなら、そうなんだろうな」
ニヤリと笑んで、パンと資料を弾く。
そういう彼も、もう半分までは読解しているのだろう。
ペンを取り出して、一つ一つメモしていく。
「いっつも思うけどな。うちの翻訳はレベルは高いんだろうけど、丁寧すぎるな」
「そうだね」
頷いてはみたものの、彼女たちがそうしなければならないのは判っている。
苦笑を浮かべて少しだけ同情して。
「不幸中の幸いだけどね、今回は。相手が、ちゃんと対応していないのが良く判るから、そのメールなら」
「だね。どうして、他の連中は、ああもアメリカとの遣り取りに慎重になるのか、俺には判らなかったが……」
英語でネイティブに喧嘩できる男の言いぐさに、誠は肩を竦めるしかない。
「こんな誤魔化しに騙されるのなら、慎重にならざるを得ないよな。しかも、それでも騙される」
「まあ……それで十分だったんだろうけど」
「だから舐められるんだよなあ……」
ひとしきり仲間相手に毒突いて、けれど手は止まることなく家城が欲したデータを書き込んでいった。
相手の不誠実な回答は、そこに気付かなかった事を指摘されればデメリットにはなるが、アメリカ側がその程度の対応しかできないというのであれば、日本側のメリットとなる。
日本の企業の品質の煩さは、アメリカの比では無いのだから。
「はい、終わり。後は滝本次第だな」
ぱさりとテーブルに放り出された資料を誠は拾い上げ、原文がどこに行ったのかと思うほどの書き込みを見やる。
不真面目な態度は相変わらずだけど。
「さすが」
この人は、本当に凄い。
開発部の中でも医材部はその仕事が特に難しい。
アメリカメインの開発で、こちらの開発は開発という名の営業に近い。
東京の営業と一緒になって、製品の売り込み、使用方法の説明、国への申請手続きにその維持。そして、学会での対応。 そのために、アメリカまで行って研修を何度も受けて。
臨床実験のための手術にすら立ち会う。
医学的知識に営業の知識。
体力もないとやっていけない。
そんな医材部でもトップレベルの持ち主。
「で、笹木さんはどうだった? 滝本さん家まで送ったんでしょ?」
悲壮な面持ちをしていた笹木は、あの後も危なかったらしい。
これからは、必ず誰かが一緒にいようと、皆で話し合ったばかりだ。
今日の帰りも、接待に参加しないからという理由で梅木が選ばれた。
「ああ、昼間よりは顔色は戻っていたな。まあ、滝本もあんな状態の奴を責めるつもりはないらしいし。明日になったら、もうちょい良くなんじゃないの?」
「そっか、良かった」
「まあ、なんで、あんな野郎をあそこまで怖がるのか判らんけど……。笹木は結構敏感だからな。あのジェイムスってのが、来生曰く、針みたいな男ってらしいから、かなり神経に来たのかもしれん」
「そんなに神経質って感じじゃないけど」
「人の機微に敏感だよ、あいつは。だからじゃねえの? ああいう棘だらけの危ない男にかかると、呆気なく組み伏せられるってのは。俺みたいにでんと構えていられるタイプじゃないんだろうよ」
「でん……って……」
言った言葉を口にして、くすりと微笑む。
「何だ? 何か言いたそうだな?」
見上げる梅木が、言葉ほど豪胆だとは思わない。
不審げに見上げてくる梅木の傍らで、誠は肩を竦めた。
「だって、梅木さん、僕の時にはそんなにでんと構えていなかったでしょう?」
「あ……それは……」
「あんなことするくらいに、テンパってたんですよね」
神経を病んで、そのことすら気付いていなかった誠を梅木は強姦という手段でもって、正気に戻した。
あれはどう見ても、デンと構えて対応したとは思えない。
「あれはなあ……。お前のことだったからな。俺自身のことなら、どうとでもしたさ。つうか、俺ならあんなことにならねえし」
「まあ、そうですね」
一時期は恨んだこともあったけれど。
今は気が付いてくれたのが梅木で良かったと心底思っている。
何より、梅木の言葉に、どれほど誠を大事に思ってくれているのかが判るから。
「梅木さんなら、僕が笹木さんと同じ目にあったら、絶対に助けてくれそうだな」
冗談のつもりでぽつりと呟いたのに。
「あ、あぁぁぁっ! そう言えば、誠ちゃんもコロッと奴の手玉に取られそうだっ。うわぁっ、誠ちゃん、絶対にあいつに近付くなよっ」
血相変えて、誠の胸ぐらを掴み上げるその瞳の真剣なこと。
「梅木さん……」
「あいつがいる間、ずっとコンピュータールームに閉じこもってろっ! いや、俺がずっと張り付いて……」
「え、でも……」
なんだかとんでもないことを考え出しているような……。
「いっそのこと、病欠ってことで家にずっと……」
「だから……それは無理……」
たらりと流れる冷や汗と、込み上げるため息を飲み込んで、誠は絞り上げるような声音で梅木を制した。
「僕だって仕事あるんだから、休むなんて無理。それに、笹木さんと僕じゃ、全然タイプが違うでしょうが……」
「いや、誠ちゃんの可愛さだったら、好みかどうかなんて関係ないっ!」
と言われても。
ひくひくと引きつる頬をかろうじて押さえて、誠は梅木の顔を両手で押さえた。
空中を見つめていた顔をぐいっと無理に引き下ろし、目を合わせる。
「だから……それ止めてって言ってんのに……」
「でも……、……誠ちゃんは可愛いし」
「そんな事言うのは…梅木さんだけ……」
「ん、俺だけが思っているなら良いんだけどな」
「だから……梅木さんだけだって」
こんなふうに心配されて、挙げ句の果てに四六時中監視しようとするのだから、堪ったものではない。
だからこその反論だったけれど、梅木の真摯な瞳を見つめていると、その声音は小さくなった。
「俺を狂わせるほどに可愛いクセに……」
何より、梅木の声に熱が隠ってきていた。
それは、彼が欲情している証だ。
「……誠ちゃん」
ふざけた呼び名だ。
会社で呼ばれるたびに腹が立つ。
でも今は、この人に求められる証拠だと思えるから、嬉しくて堪らない。
「……梅木さんってば、明日も会議でしょう?」
こうやってこの人がここに来た以上、おとなしく帰るなんて思っていないけれど、それでも明日の予定を口にする。
「体力には自信があるんだけどな」
ニヤリと不敵に笑う梅木に、知らず苦笑が浮かんだ。
やはり、この人は……。
「やっぱ、やるんだ?」
「やりたくないのか?」
「……そんなの……」
この人が来ると言った時から、この体は期待に疼いている。
梅木を見下ろす誠の瞳が潤んで、その頬が熱を持って染まっていた。
それに梅木が気付かない筈がない。
「いい子だ」
するりと伸びた指に頬を撫でられて、誘われるがままに頭を下げた。
ちゅっと、音を立てて唇を吸われ、至近距離で微笑まれる。
男らしい、誠の惚れた顔。
「ん……」
どきんと胸が大きく高鳴り、胸の奥深くから込み上げる熱に息を飲んだ。
「……良い顔……」
「梅木さんこそ」
見つめられるだけで、裸にされているような感覚。
梅木に抱かれるのは好きだ。
いろんな柵から解放されて、心の中に塵積もったドロドロが全部消えてしまう。
心までもが暖かく軽くなる。
「こんな僕……でも良い?」
淫乱だと思う。
見つめられるだけで欲情し、梅木に抱かれたくて仕方が無くなる自分。
普通だったら、嫌われてもおかしくないはず……だけど。
「誠ちゃんが良い」
笑いながら返してくれる梅木の首筋に手を伸ばす。
熱くなった体。
服の生地が擦れるその感触にすら、疼きが増していく。
本当に──この人の全てが、媚薬と同じだ。
見つめられて、囁かれて。
「誠ちゃんが一番だな。他の奴なんかいらねえよ」
心にまで響く言葉をくれるのはこの人だけ。
愛おしい人。
「梅木さん……」
名を呼ぶだけで、体の奥で熱が湧き起こる。
強く強く、解放を求める熱が。
それを解放するための手段はただ一つ。
きつく、きつくしがみついて、その首筋に唇を押しつけて。
「して」
強請る。
「僕、梅木さんでいっぱいにして」
「了解」
期待を裏切らない言葉に、誠はうっとりと微笑んで酔いしれた。
【了】