【後悔よりも】

【後悔よりも】

 優司の母へのお年玉である歌舞伎観劇旅行。それに、秀也の母親も一緒にいくことになっていて……



 疲れた体を引きずって家に帰り着いた途端に鳴った携帯電話。
 その画面に表示された名に、無表情だった顔に笑みが浮かんだ。
「秀也……」
 ほっとする名前。
 その安堵感に浸ってから、滝本優司は電話に出た。
「もしもし」
『優司?』
 判っているだろうに、それでも語尾の上がった問いかけに、「ん」と軽く返す。
「久しぶりだね」
 電話での会話は久しぶり。
 そんなつもりで軽く返したら、秀也が申し訳なさそうに返してきた。
『ごめんな。最近、忙しくって』
「いや、私も忙しかったからね。秀也も、大変だったんだろう?」
 この冬、何年ぶりかで実家に帰った秀也は、両親との関係も修復できたと聞いていた。そのせいで、今まではずっと空いていた休みの幾日かは、その実家通いをするはめになったのだ。
 それに、年度が替わって、仕事もかなり忙しい。
 同じ会社だからこそ判るそんな事情と、もともと電話を積極的にはかけない優司。
 それに、会社では会えているし、メールなら幾らだってしている。
 しばらく電話が無かった事が、辛いとは思わなかった。
『俺よりも、母さん達がなんだか舞い上がっているみたいで……。先日は一緒に買い物だって言って……』
「いいじゃない? たっぷり親孝行すれば」
『けど、一日かけてショッピングセンター巡りだよ。疲れたよ』
 ——女ってのは……どうしてこう……。
 続けられた言葉に、苦笑する。
 最初はどうなることか思ったけれど、秀也も家族とうまくやっているようだった。
「あ?、それとさ、この前の写真、頼まれた通り送っといたけど?」
『ありがとう。どうしてもって……言われていたから……』
「喜んでいたよ」
『ん……知ってる』
 そんな仲睦まじい様子を見たいと欲したのは優司の母だ。
 携帯のメールに添付されていた写真を、頼まれるがままに、兄である智史の携帯に送った。
 その写真を見て母もたいそう喜んで、さっそく秀也と電話したのだろう。
 たぶん、自分よりはるかに頻繁に秀也に電話しているらしい母。そのせいで、秀也から優司への電話が減ったと彼女に苦言をしたとしても、きっと聞き入れてもらえない。
 それに、秀也を気に入ってもらえたことが嬉しい。
 やはり家族に、何より母に受け入れてもらえたことの嬉しさと安心感は、何物にも代え難いものだ。
「でも、母さんの言うことなんか、適当に聞き流せば良いからね」
『ああ』
「ほんとに、あれやこれや。あの母さんがあんなに我が儘だとは思わなかった。なんか父さんが死んでから、兄さんも変わったけど、母さんも変わったみたいだ」
『そう?』
 くすくすと笑う秀也に、むすっと唇を尖らせる。
「あれって、きっと篠山さんが甘やかすからだよな?。はいはいって何でも言うこと聞くから、秀也も同じ様に見られてるんだよ」
『そう? だったら、光栄だけど』
「秀也までそんなことを……」
 半ば絶句しかけて、口の中でもごもごと呟く。
 そんな優司を悟ってか、秀也の優しい声が耳元で響いた。
『でも、優司のお母さんのお陰だから……。少しくらい何ともないんだよ、ほんとに』
 切なく響いたそれに、胸の奥が熱くなる。
「……ほんと、秀也も甘いんだから」
 かろうじて呟いた。
 文句は言うけれど、実際そんなに怒っている訳ではない。
 秀也がそう言ってくれることが嬉しい。
 なんだかんだ言っても、優司にとって母は大切で、その母に優しくしてくれる秀也はもっと大切で。
 ふんわりとした幸せな気分は、どんな言葉ですら言い表せない。
 黙ってしまった優司の心は、電話越しでも秀也に伝わったのか、かすかな笑い声が響いた。
 優しさと労りと共に。
「もう、笑うなよ」
『ごめん』
 秀也といると揶揄混じりに交わされるいつもの会話。
 電話越しなのが、少し悔しくなってきた。
 傍にいれば、きっと秀也はするだろう。
 まるで癖のように、何気ない仕草で秀也はいつもくしゃりと優司の髪を掴んで、地肌を優しくマッサージするように、梳いていく。
 その感触を思い出して、途端にぞわりと全身が総毛だった。
 あわわ……と、内心で慌てて、かあっと頬が熱くなる。
 体が、秀也を欲している。
 できれば、今すぐに彼に触れたい。
 望んでも今は叶わない願いが、優司を支配していく。
 ——秀也がここにいてくれれば。 
 そうであれば、もっともっと幸せなのに。
 困ったと、指に髪に絡ませた。
 少し引っ張って、痛みを感じるそれで記憶を誤魔化す。
『優司?』
 沈黙が続いたせいか、秀也が訝しげに問うてきた。
 それに首を振って。
「なんでも無い……。ん、それより、次はいつこっちに来る? 仕事で……」
『あ、ああ……次は……』
 本当は仕事ではなくて、プライベートで会いたい。
 高まった熱を沈めるためにも、この体に触れて欲しい。
 望みは際限なく高くなり、自身の熱を高めていく。そんな自分が恥ずかしいと思うのだけど、どう足掻いても頬の赤みを消すことなどできない。
「秀也……いつ……」
 会いたい。
 言葉にできないままに、期待を込めて問いかける。
『次は……その……』
 けれど、どこか曖昧な返事が返ってきて、優司は首を傾げた。
「秀也?」
『次……たぶん、優司がこっちに来ると思う』
「え?」
『まだ……聞いていないかな?』
「は、あ? 何を?」
『再来週の連休……』
 連休?
 慌ててカレンダーに視線を向ける。
 何の予定も記されていないそれから、何かを読み取ることは無理で、必死になってパソコンの中の予定表を思い出す。
 連休というのだから、仕事の予定ではないと思うけれど。
 けれど……。
「それって……なんか、仕事か何か?」
 何かを忘れているのかも、と、むうっと眉間にシワを寄せて考え込む。
 けれど、耳に伝わる秀也の苦笑が邪魔をする。
「秀也?」
『たぶん、まだ聞いていないんだろうなあって思っていたけど……、その……優司のお母さんに』
「え……?」
 なぜそこに母が出てくるのか?
 きょとんと返す優司に、秀也が言葉を継いだ。
『ほら、正月のお年玉の件。ずっと予定が合わなかったんだけど、実行することになって』
「お年玉……お年玉って……えぇぇっ!」
 素津頓狂な声を上げて、まじまじと携帯の画面を見つめる。
 お年玉といえば、あの件しか思いつかなくて。
『俺と優司の分も含めてチケットの手配済んでいるんだけど、聞いてなかった?』
「聞いてないっ」
 知らず大きくなった声が、部屋の中に響く。
『もっとも、手配の方は恵君達がしていて、俺が聞いたのもつい先日。でも、その前に予定のない日をいろいろと聞かれはしたけどね』
 用意周到な弟のこと。
 こっそりと手配を全てしてしまってからの報告らしい。
 唸っているとため息と苦笑が電話から漏れ聞こえてきた。
『でさ……俺の母さんも行くことになってるらしいんだ』
 さらりと何でもないことのように言われて。
「ふ?ん」
 と答えて。
 あれ? と頭を捻った。
「さっき、私の分のチケットって……言っていたよな」
『ああ』
「それで、秀也のお母さんも……っていうと?」
 なぜそこに、その名前が?
『正月以来、優司のお母さんが俺のところと頻繁に電話をしているらしくて。それで、話がまとまったらしい』
「ってことは……」
 最悪の状態が脳裏に浮かぶ。
「私と秀也と両方の母親と?」
『そういうことになるな』
「ってっ!! 落ち着いている場合かっ!」
 思わず怒鳴ってから、その滅多に出さない大声に堪らずに咳き込んでしまった。



 時々そうじゃないかと思うことがあった。
 優司が子供の頃から、母はテレビで芝居をよく見ていた。けれど、これほどまでとは思っていなかったのだ。
 目の前の光景は、それを実感させるのに十分で、優司は目を眇めながらため息を飲み込んだ。
 そこには、さっきからとっても賑やかな女性が二人。
 出会った途端に、初めてにも関わらず数十年来の友達のように手を取り合って、喋りまくっているのだ。
 今日は誰が出るだの、どんな芝居だの……。
 もともと母は物怖じしない性格で、実家周辺でも友人達が多い人だ。
 父が亡くなってから、その交際範囲はさらに広がったという噂も聞いていた。
 そんな彼女の性格を一番受け継いだのは弟の恵だろうと思っていたけれど。この社交性を見ていると、絶対そうだと確信する。
 兄弟の中で、もっとも父の性格を色濃く受け継いだ優司としては、とても羨ましいものではあったが、ここまで賑やかだと、少し逃げ出したくなってきた。
 と、母と話し込んでいた彼女が顔を上げて優司を見やった。
 途端に綻んだ顔は、どこかで良く見た顔だ。
「本当に、滝本さんのお陰で息子が帰ってきてくれまして……」
 その瞳が見る見るうちに潤んでいく。
 慌てて首を振って、戸惑いも露わに秀也を見やる。けれど、秀也は肩を竦めて見せるだけだ。
 その顔に浮かぶ微笑みは、彼女と本当に良く似ている。
 ——秀也ってお母さん似なんだな……。
 第一印象はそれに尽きる。
 穏やかな優しさと美しさ。
 もっと若い頃だったら、きっとずいぶんともてたことだろう。
 ふとそんなことを考えてしまったせいか、言葉が出てこない。よけいに慌てて、さらにドツボに嵌った優司を救ったのは、実の母親だった。
「こちらこそ、愚息がどんなにご迷惑をかけているか。今回のことも、うちのはてんで役に立ちませんで……」
 謙遜とはとても思えないほどにこけにされ、優司の顔はますます歪んだ。
 もっもと、ここで何か口を挟むほど優司も愚かではない。
 秀也と同じく、貝のように口を閉ざし、一区切りがつくのを待つだけで、ともすれば、じりじりと後ずさりたくなるのを意思の力で押しとどめるので精一杯だった。
 けれど、挨拶はすぐに終わり、また始まった二人の話はいっこうに途切れることが無い。
 そろそろマズイかも……と思ったのは、この後の時間が差し迫ってきたからだ。
 もともと今日は、母を歌舞伎座に連れて行くのが優司の役目。
 その開演時間が差し迫ってきていることを、優司が気付き、そして秀也も気付いた。
 ちらりと視線を交わし、秀也が片眉をあげて頷く。
「お母さん、そろそろ時間なんだけど?」
 話が途切れる絶妙のタイミングで、秀也が割って入った。
「え、あら嫌だ」
「あらあら、私も気付きませんで。こんなところで立ち話なんて……」
 我に返ったような二人に、知らず苦笑が零れる。
 確かに、駅の改札の横という井戸端会議をするには不向きな場所だ。もっとも、彼女たちなら、どんなところでも些細な話に盛り上がるだろう。
「だからさ、そろそろ移動しよう。むこうに着いたら、また始まるまでに話ができるだろう?」
「そうね。では、行きましょうか?」
「そうですね。でも、私って、ほんとに田舎の人間でしょう? 東京はほんとに人が多いんですね?」
「多いからって良いものではありませんよ。私は、東京でずっと育ってますから、田舎って憧れるんですよ」
「あら、田舎なんて不便なもので……」
「東京も、物騒ですし……」
 移動しながらも、結局、話は尽きることはない。
 自身の住処をけなしながらも、それぞれに誇らしげな二人。
 下手な口など挟めるものではなく、優司はただ黙って着いていく。二人を案内するのは、完全に秀也に任せていた。

 もともと、歌舞伎が好きな母のために、恵達が企画したこの旅行。
 その事を、母が電話で秀也の母に言ったことから、この企画がとんでもないものになったのだ。
 何しろ、優司の母以上に歌舞伎が大好きな秀也の母。秀也自身は、そんな母の趣味など知りもしなかった——というより、完全に忘れていたのだ。
 歌舞伎座に近いという地理的条件も有って、年に数回は歌舞伎座を訪れるという彼女は、もちろん歌舞伎座の会員になっていて、優先的にチケットを手に入れられるという。
 その結果、チケットの手配は彼女任せになり、そして当然、彼女も行くのだと言い出して。
 と、後から詳細を知らされた優司は、もはや逃げ道の一つも残されていなかった。
「ほんとうに奥様のお陰ですわ。よりによって、海老様襲名披露公演が見られるなんて……」
 うっとりと宣う母から思わず視線を逸らす。
 優司は、歌舞伎などてんで興味が無く、海老様と言われてなんのこっちゃっと思ったくらいだ。
 だが、それを飛行機の中でぼそりと呟いたのが運の尽き。ここに来るまでの間、母からひたすら説明され続け、すでに食傷気味になってしまっていたのだった。
 それでも。
「……面白いのか、そんなに?」
 堪らずに傍らにいた秀也に囁きかける。
 久しぶりに会うプライベートの秀也だったが、母達の手前、まともに話したのはこれが初めてだ。できれば、二人でこの場から逃げ出したいし、当然秀也もそう思っているのだろうが、今はじっと我慢するしかないのも事実。
「演目によっては知らない人でも面白いものもあるらしいし……。特に今回はその襲名披露があるしね。と言っても、俺も良くは知らないんだけど……」
「ふ?ん……」
 ほんとに何が面白いんだか……。
 内心深いため息を吐いて、のろのろと元気な二人の後を付いて歩く。
 どうせどこかに行くなら、山手線に乗って……。
 と、頭の中だけは秋葉原の電気街へと向かっていた。



 演目は、「口上」と「勧進帳」と……。
 名前だけは知っていたそれらは、やはり聞くと見るとでは大違いだった。
 初めて見たにもかかわらず、確かに面白い。
 たまたま花道の近くにいたものだから、優司は知らない役者が自分たちの傍で颯爽とした演技を見せてくれたのだ。
 バンと床を踏みならし、声を張り上げる。
 その凛とした姿は、優司ですら思わず見入ってしまうほどだから、もともとの大ファンである母達の感動は並のものではなかった。
 まさにその瞬間、視界に入った母の顔は忘れようとしても忘れられないだろう。
 ぽかんと半開きになった口と、ハートマークと言っても過言ではないほどの両目。
 両手は知らぬうちに指が絡まり、それはまるで夢見る乙女のポーズ。
 母のみならず周りにいた誰もが演技をしていた役者に見惚れている、という未だかつて経験したことのないその状況に、優司は別の意味で呆然となった。
 隣からくすりと笑う秀也の掠れた吐息が耳元に聞こえなければ、今度はそんな間の抜けた顔を母にさらす事になったかもしれない。
 それが判っていたから、眇めた視線を秀也には送ってはみたものの、口元には苦笑が浮かんでいた。
 確かに、これは母達なら嵌るかも……。
 周りには、若い女性もちらほらと見かける。
 「口上」の時に思ったが、女形をしているような役者はやはり顔かたちも綺麗で、彼女たちがファンになるのも判るような気がした。その上、あんな演技を見せられたら……。
「凄かったわ?」
 ようやく我に返ったのか、母の声が聞こえてきた。ちらりと視線を向けると、母のそれと絡む。
「ね、すてきでしょ?」
「あ、ああ……」
「でしょう……。もう、ほんと何度でも見たくなるの、判るでしょ?」
「え、うっ、まあ……」
 ここでうんと頷けば、きっとまた連れて行けと言われるのは目に見えていて……。
 優司は曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかった。
 もっとも、年に一二度くらいなら母一人連れてこれないわけではない。それ以上にこっそり東京に来ている優司だ。ただ。
 ちらりと秀也に視線を向けると、気が付いたのは苦笑で返された。
 母が来れば、その分、秀也との逢瀬が減ることになる。
 まさか、母一人ホテルに放っといて、秀也の元に行くわけにはいかないだろう。それに、母が泊まるとなれば、格安のビジネスホテルとも行かないだろうし。
 頭の中でありとあらゆるシチュエーションが展開され、やはり嫌だ、と思ってしまう。
 せいぜい年に一度。
 金は出してもいいけれど今度は恵に任せよう、と固く決意する。
 もうすっかり母より恋人が大事で、とにもかくにも早く秀也と二人っきりになりたいとその算段へと思考が向く。
 そんな優司の考えを聡い秀也が気付かないわけは無かった。
 そっと触れる手が、宥めるように動く。なのに、優司にとっては、それは愛撫と変わりない。
 指の間に秀也の指が入り込んだ途端に、体が熱くなる。
 だが、ここは衆人環視の場で、何よりすぐ横には母がいて。
 思わず零しそうになった甘い吐息を慌てて飲み込んで、優司は名残惜しげにその手を振り払った。
 今日は、ホテルに一泊だが、母と同じ部屋だ。
 ホテルの手配をかけたのが恵だから仕方がない。初めてにも近い東京旅行で、母を一人にさせたくないという弟の思いは優司にも判る。
 けれど。
 容易に消えない熱は、ずっと体の奥底でくすぶることになる。それを消せるのは、秀也だけだというのに。
 ——後、一日……。
 一泊した次の日は、仕事の都合だと誤魔化して、母一人朝の飛行機に乗せて先に帰って貰うことになっていた。それまでの我慢だ。
 そうすれば、秀也と一緒にいることができるのだ。
 それまでは……。
 と、まだ熱の残る指をぎゅっと反対の指で握りしめ、優司は意識を逸らすように、舞台へと視線を向けた。
 弁慶が舞を舞っている場面だ。
 そういえば、さっきの花道も弁慶だったな……。
 主たる義経を守るその姿はひどく誇らしい。
 あんなふうに守りたい。
 母と出会うと、いつも守りたいと思う。母に、弱い子——と称された秀也を思い出して、そう思う。
 まるで幼子のように涙を流して混乱する秀也。
 そんな秀也を見てしまったから。
 秀也と良く似た彼の母は、そんな秀也を守れなかった。守れなかったからこそ、秀也は離れてしまったのだ。
 だからこそ、守りたい。
 自分の傍らにいさえすれば大丈夫なのだと思って貰いたい。
 そんなふうに思うほどに優司は秀也が好きで。
 秀也もまた優司のそんな想いを感じて嬉しそうに微笑む。その笑みもまた大好きだから、優司はますます秀也への想いを強くするのだった。



「……ありがとう……ございます」
 夕食を取るために入った店は、秀也が予約をしていた和食会席の店だった。
 個室へと案内され、料理が揃うまでの間、母達二人は余韻に浸っているかのように無言だった。
 だがそれが、少なくとも秀也の母にとっては間違いだと優司が気が付いたのは、料理が出揃い店員を下がらせた後のことだったのだ。
 まるでそのタイミングを見計らったように——いや、彼女は他人がいなくなるのを待っていたのだろう——優司の母に向かって、深々と頭を下げたのだった。
 続いて、今度は優司にもだ。
 面食らっている二人の前で頭を上げた秀也の母のまなじりにはうっすらと涙すら浮かんでいた。細い指が伸びて、その滴を掬う。それでも、一滴ぽたりとテーブルの上に落ちていった。
 そんな彼女を見据えて、秀也がきつく唇を噛んでいる。
「え……あっ……」
 ただごとではない雰囲気に、優司はぱくぱくと口を開き、けれど結局は意味のなさない問いかけしかできない。
 そんな優司に、彼女は微かに口元を綻ばせた。
 それが合図だったかのように、秀也の口元も綻ぶ。赤く色づいた唇にくっきりと残った痕だけがその名残だというように、場がいきなり和んだ。
「笹木さん?」
「すみません、ちゃんとお礼を言おうと思っていたのに、いざその時になると……なんだか言葉が出てこなくなっちゃって……」
「お礼だなんて、そんな……。愉しませて貰ったのはこちらですのに」
「いえ、今日のことではなく……秀也がこんなにも元気で……、立派になっているのは、優司さんのお陰だと聞いたものですから……。ですのでぜひお礼を言いたかったんです。。ほんとうにどんなに感謝しても、感謝しきれなくて……」
「え……私?」
 尊敬の視線を向けられて、戸惑う。
 自分は何もやっていないという自覚があったからだ。
 なのに彼女の視線は外れることはなく、微笑みすら見せて優司に感謝の言葉を捧げた。
「秀也から聞きました。この子の大学から会社に入ってからの話。明石さんという方と優司さん……あなたのお話。たくさん聞きました。あなた達二人が、秀也を助けてくれたのだと。優しくして見守ってくれたから、今の秀也が有るのだと。それは私たちにはできなかったことです。そして、あの時の秀也に一番大切なことだったのだと、私はその話を聞いて初めて知った次第です。誰か、この子のことだけを考えて、優しく見守ってくれて——拒絶しないこと。私には……できなかったこと……」
 彼女の口元が不意に歪んだ。
 苦笑とも自嘲ともつかぬ笑み。
 そんな笑みを向けられて、優司は一瞬呆気にとられた、が何かが琴線に触れた。
 ひやりと全身が総毛立つ。
「……それって?」
 浮かんだ思考を否定したいと思いつつ、優司が戸惑い気味に言葉を返そうする。だが、その視界の端にいる秀也が、困ったように視線を逸らしていた。それが、よけいに優司を不安にさせて。
「しゅ……や?」
 問う声に、母の声が被さった。
「お聞きになられたんですね。この子達の関係……」
「……ええ」
 はっきりと頷いた彼女を目の当たりにしても、優司の頭はまだ認めようとはしなかった。
 嘘だ——と思おうとしていた。けれど、視線を逸らしていた秀也が、意を決したように優司を見つめてきて。
「俺が言いました。いつまでも隠し通せるものでもないし、俺が今の俺を確立できたのは優司のお陰だから。その過程を話す以上、優司との関係は避けて通れないことでした」
「……驚きました。最初は、否定しました……」
「そう、ね」
 ふっと吐息を吐き出すように母が頷く。
 その様子を視界に映してもなお、頭は否定する。
 だが、もうそれも限界だった。
「……関係って……まさか?」
 戸惑いも露わにした優司に、秀也ははっきりと頷き返した。
「え、……って、それじゃ……え、あ?」
 呆然と秀也だけを見つめる優司の傍らで母がため息を零す。
「ほんとに、こんなふうにはっきりしなくて鈍い子なんだけど。どこか良かったのか……」
「……そういうところが良いんです」
 にこやかな秀也の言葉。
 じわじわと首から上が熱くなっていく。
「それに、とても真面目な方だとか。それでも最初は、そんな関係なんか理解できるものではなかったけど……」
「な、なんで……秀也……、なんで……」
 言わなくてはならなかったことは、理解できる。
 きっと秀也は間違ったことはしていない。
 けれど……。それだったら、何か言ってくれれば良かったのに。
 秀也一人矢面にさせることなんかしなかったのに。
 それに、聞いていればこんなとこ……来なかったのに……。
 って……?
 ぴくっと上がった視線が、秀也を捕らえる。
 私が逃げないように?
 じっと見つめていると、秀也も視線を合わせてきて——こくりと頷いた。
「秀也……」
 じわりと頭の中を怒りが成長する。
 けれど、その怒りが爆発することは無い。
 判っているのだ——と納得している理性と、店の中だという世間体が、優司を縛って大人しくさせていた。それに、続けられた彼女の言葉に、優司は思わず息を飲んだのだ。
「一晩……話をしたんです。けれど、秀也が……幸せだと、今が幸せだから、壊したくない——と泣いて……」
「あ……」
「まず私が……そして夫が……。この子は特別な配慮が必要な子だから……、それも有りだろうかって……」
 まっすぐに向けられた視線は強い。
 どこか値踏みするかのような、けれど、その根底にあるのは縋るような視線。
 彼女は、子供を守ろうとしているのだ。
 その手段として優司がいるというのなら、二人の関係が常識とは思えなくても、それでも良いと割り切ろうとしている。
 それが、その瞳の中に強い力となって込められていた。
「私は……そんな……」
 彼女から向けられる期待と信頼が苦しくて、咄嗟に首を横に振った。
 そんな重い信頼を向けられるようなたいした人間ではない。
 だが、首を横に振っても彼女の視線は揺るがない。
「まだ幼い頃のこの子は、ああいう劇場のような人の多いところに連れて行くと決まってパニックを起こして……。幼稚園には、結局行けなくて。小学校に行くのにも、最初の頃は一時間と教室内にいられない状況でした。ずっと特別教室で、勉強していたんです」
 突然始めた昔話に、優司は目を瞬かせ秀也と顔を見合わせた。
 そんな優司と秀也の様子に秀也の母が目を細める。
「なんとかふつうに授業を受けられるようになったのは高学年になってから……。それでも、友達と呼べるような相手はいなくて。学校以外ではずっと家に閉じこもっていたんです。病院に行っても、はっきりとした事はずっと判らなかったんです。ですので、私も夫も……この子はもうずっとこんなふうに過ごすしかないのだろうか……と諦めて……」
 ふっと言葉を切った彼女が、辛そうたにため息を落とした。
「諦めて……。私たちはこの子の妹の方に逃げてしまった……」
 ふるりと言葉が揺れた。
 ぽたりとその手の甲に滴が落ちる。
「母さん……。仕方が無かったんだよ。俺はほんとにそのころは酷い状況だったから……」
 慌てたように、秀也が母を庇う。
 もうずっと長いこと触れていなかったようにどこかぎこちない手つきではあったけれど、そこに込められた思いは優司にも十分伝わってきた。
 大好きだ、と、秀也の瞳も、手も、全てが物語っている。
 そして、そんな想いは触れられている彼女こそよく判るもので、そして辛いのだろう。
「でも、判っていたのよ……私には。あなたが、いつも私を見ていたのを」
 深い後悔を滲ませて、彼女は言う。
「助けを求められていると判っていて。けれど私は何もしなかった。だから……あなたが次第に私たちからも離れていくのが判っていても……。私は自分の罪を認めることができなくて、何もしなかった」
「けど……俺が、ほんとに酷くて……」
「楽だったから……。由岐は大人しい、育てやすい子だったから……あなたから逃げたの。それは間違いないのよ。そして、あなたが一人暮らしすると言った時も私は止めなかった。止めようもなかった」
「だけどさ、できるはずがないって言ってくれたよ、あの時は」
 ふっと過去に戻ったように秀也が頼りなげな言葉を紡いだ。
「あれは、本当に俺を心配してくれて出てきた言葉だった。そんなふうに、母さんは、いつも気にかけていてくれた。こんな俺にどうして良いのか判らなくて……戸惑いながらも、それでも決して邪険にされた訳でも、無視した訳でもないよ。忘れずにお弁当を作ってくれたし、参観日も必ず来てくれた。ただ……会話が無くなっていただけ……。顔を合わせようとしなかっただけ。どう話しかけて良いのか判らなくて、俺も判らなくなっていて……。ちゃんと俺も知っていたんだよ。けど……何かあったら、この関係すら壊れるんじゃないかって……怯えていたのは俺の方。俺が、離れていったんだ。怖いから……母さんのせいじゃない……」
 ほろりと流れる涙を、秀也が手で覆い隠す。
 その肩が震えていた。
「俺は、好きだったよ……自分の家族。けど、自分が怖かったんだ。今は落ち着いてきているけど……また何か起きたらって。混乱するのは少なくなっていたけど、なくなっていた訳じゃなかったから……。だからいつか壊れていた。大切な家族を自分の手で……壊していた」
「私たちも……もう無理だって……諦めていた。なのに、帰ってきたあなたは……こんなに立派になっていて。劇場にも一緒に行ってくれるって自分から言ってくれて……」
「ほんとにもう大丈夫になっていたんだ。どんな時に自分がおかしくなるのかも、しっかりと把握できていて……。だから、本当ならもっと早く帰っていれば良かったんだけど……」
 呟くように伝える秀也の視線が、戸惑いながら優司へと向けられた。
 良いか?
 と言われているような気がして、優司は反射的に頷いていた。
 深く考えなくても、それで良い、と思ったのだ。
「……俺は……忘れていたんだよ。なぜ自分が離れたのかを忘れて、今の楽しさに酔ってしまっていたから……」
「秀也」
 視線が絡む。
 知らず手が伸びていて、気が付いた時にはもう彼の手に触れていた。
 それでも離そうとは思わなかった。
「私は……鈍くて……。秀也の想いに気付くのにもずいぶんと時間がかかったけれど……。今では、とっても秀也が大切で……」
 今、言わないと行けないと思った。
「こんなふうに秀也の過去の全てを知っている訳じゃないけど……。秀也が大切だから、守りたいって思うし、一緒に痛いって思う。気が付いたら、誰といる時よりも秀也といる時が一番大切になっていた」
「ものすごく優司の傍らにいるのは、心地よいんだ。自分を自分で守らなくても、良いんだ。それが本当に楽なことだって気が付いて。気が付いたら、いつだって暇さえあれば優司のところに行っていた。だから……帰らなかった……」
「私も秀也が一緒にいてくれるのが楽しくて、秀也の実家の事など考えもしなかった」
 それが罪だというのなら、自分が矢面になっても構わない。
 強い決意の元、秀也の母を見つめる。
 と。
「まあ、息子ってのはそんなもんじゃない? うちなんて四人子供がいて、みんな息子なんだけどねえ……。もう自分たちの家族が一番。一緒に暮らしている智史はともかくとして、誠二なんて近所のくせしてちっとも顔を出さないんだよ。かえって、嫁の方がよっぽど私の事を気にかけてくれるんだから」
 しみじみと、しかし幾ばくかの揶揄をも込めた言葉を放ったのは優司の母だった。
「それがちぃっと早かっただけだって事よ、秀也君の場合は」
「滝本さん……?」
「秀也君は良い子だと思うけど。そんな秀也君を育てた奥さんは、きっと間違った事はしていないのよ。誰だって戸惑いながら子育てはしていて、それが間違っているなんて誰も判断なんかできないからね。大人になった子を見て、ようやく判るんだって私は思うから……。だから、そんなに悔やむ必要は無いと思うのよ。秀也君は、こんなにも親思いの良い子なんだから、ね」
 にこりと微笑まれて、秀也の母は戸惑う。けれど、ふっと何かに気が付いたかのように、口元を綻ばせた。
「は、い……。優しい子です……」
「だったら、良いじゃない。今時、優しい子ってのは結構貴重ですよ」
「はい……はい……」
 泣き濡れた瞳を瞬かせ、彼女が笑う。
 優司の母も、きっぱりとした口調の割にはその口の端がひくひくと震えて、瞳には大きな水滴が溜まっていた。
 それをハンカチで拭い、崩れた化粧に手を当てて、困ったように笑う。
 それは、優司の目にはあまりにも母らしく映って、胸の奥がひどく熱くなってきた。
 今日は、いろんな母を見たような気がする。
 それでも、結局はそれら全てが母の一面で、ただ知らなかっただけ。
 強くて、優しくて。
 自分の子供をけなしてはいても、褒められると嬉しく微笑んで。
 そんな彼女は照れたように視線を泳がしていて、優司の視線に気が付くとむすっと視線を逸らしていた。



 認められたってことなんだろうな。
 自分たちの前を話ながら歩いていく母達の様子を見やりながら、優司は店での会話を思い返していた。
 ただ、考える時間が十分あったせいか、なんだか自分が除け者になっているような気がしてならない。
 自分の母の時は、秀也一人が頑張って、秀也の親の時は秀也一人頑張って。
 私は……何もしていない。
 せめて前もって相談してくれていれば良かったのに。
 そんな詮無いことまで考えて、自己嫌悪に唇を噛む。
 たぶん秀也は、修羅場になるかもしれないところに優司を連れて行きたくはないのだ。
 そんな優しさを秀也は持っていて、何かの折りに優司はその恩恵に預かっている。
 けれど、やはり二人のことなんだから……。
 役に立たないのは嫌だ。
 頼りないままでは嫌だ。
 だからこそ、一緒にいたいのに……秀也は、優司が手を出すよりもっとうまくやってのける。
 考え出すと、秀也の良いところばかりが浮かんできて、優司自身の良いところが何も思い浮かばなくなってくるのだ。
 それは、嫉妬という醜い感情で、けれど、そんな事は考えたくなくて。
 浮上できない場所で、思考がうじうじと無限ループを描くのが止められない。


 タクシー乗り場まで辿り着いて、前を歩いていた二人の足が止まる。そのすぐ後ろで、優司達も立ち止まった。途端に無意識のため息が足下に落ちた。
「優司?」
 どこか不安そうな秀也の声音に気付いて、慌てて首を横に振る。
「なんでもないよ」
 作った笑顔で、頬が引きつった。
 そんな優司に、ますます秀也が当惑したように眉尻を下げる。
 そんな顔をさせるつもりはないのに。けれど、もし今秀也と二人っきりになったら、きっと秀也を詰ってしまうだろう。そんな自分が情けなくて、けれどきっと止められない。
 とにかく今は、さっさと別れてしまう方が良い。
 一晩経って明日になれば、きっと優司の頭の中も落ち着いて考えられるようになる。
 今の激情は、いつまでも続かないのが優司で、それを自分でもよく判っていた。
 だから、ある意味、もう別れる場所であることに安堵していた。
 だが。
 優司の母が意味深に秀也の母に話しかけたのはその時だった。
「それで…良いのかしら、本当に?」
「あ、ええ」
 最初は訝しげであった秀也の母が、不意に相好を崩して頷いた。けれど、どこか照れたような笑みがその口元に浮かんでいて、違和感を感じる。
「何ですか?」
 秀也も不思議そうに、問うている。
 それに返す彼女が、しばらく視線を泳がしてからようようにして口を開いた。
「せっかく優司さんがこっちに来られたんだから、お前一緒に泊まってって良いのよ?」
「泊まって?」
 その言葉の意味が理解できなかったのか、秀也が眉間のしわを刻んでいる。
「泊まるって……優司は、お母さんと……」
「あら、私の部屋はね別に取って貰っているのよ。優司、聞いていないの?」
「え?」
 突然向けられた矛先に、ぶるぶると頭を振る。
「ツインだって、恵は言っていたっ」
「そうよ。でも、私はシングル。広い部屋にも泊まって見たかったんだけど……。でも、一人でゆったりと寝るのも良いかもね」
「それって……」
 ツインもある。
 それプラス、シングル?
 つまり、泊まる予定は三人。
「……それ、いつ……?」
「あら、恵が、そうしたら良いって」
「っ!」
 言い返そうとして、喉につっかえて出てこない。
「あ、の……ビジネスホテルのシングルだから……凄く狭いですよ」
 どこか呆けた様子の秀也が、窺うように母に話しかけている。
 その珍しい姿は見物だが、優司としても似たようなものだ。
「もしかして……謀った?」
「謀ったなんて人聞きの悪い。滅多に会えないあなた達のために、部屋を一つ用意したって言うのに……」
「そうよ。秀也、だから後はお願いね。私はそろそろ帰るから」
「え……でも……」
 おろおろと、優司と自分の母を交互に見やって立ち尽くす秀也に、彼女はふっと微笑んだ。
「あなたが幸せであるなら、私たちは何も言わない。そう決めたの。あなたも聞いていたでしょう?」
「それは……」
 小さく頷いた秀也の腕を取り、彼女はずいぶんと高い位置にある秀也の頭をそっと撫でた。
「私たちにはできなかった。でも、あなたは自分でそれを見つけた。だったら、あなたがそれを守るのを、私たちは見守ることにしたのよ。だから、好きにしなさい」
「でも……」
 煮え切らずに、頼りなげな子供のように俯く秀也の手を取って、彼女は優司の方に差し出した。
「もう、しゃきっとしなさい。あなたはもう良い大人なんだからね」
 強い口調なのにその声音は震えていて、引っ張る力は弱い。
「今まではどこにいるかも判らなくて……いつ帰ってくるかも判らなかったけど……」
 長い親不孝を笑いながら責めて、彼女は、その手を離した。
「もう住んでいるところも、働いているところも判っているんだもの。こうやってたまに帰ってきてくれればそれで良いのよ。由岐も喜ぶし、ね」
 自慢のお兄さんだしね。
 とんと叩かれて、秀也はそれでも躊躇いがちに歩を進めた。
「それじゃ、よろしくお願いしますね」
 ぺこりと頭を下げる彼女の顔は、確かに笑顔で。
 泣きそうに顔を歪めている秀也とは、ずいぶんと対照的なのに、何故だかとても良く似ていた。


 きらめく灯りが眼下に輝いていた。
 それを見下ろしていると、控えめな部屋の灯りがともる。
 振り返ると、まだ前髪から滴を滴らせた秀也が、タオルを片手に優司を見つめていた。
「風呂、入りなよ」
 少し上気した頬に、まだどことなく潤んだ瞳は、思わず見惚れるほどだ。
 ごくりと喉が鳴った様は、様子を見ていた秀也には筒抜けのようで、苦笑がその優美な口元に浮かぶ。
「……秀也、お母さんにそっくりなんだな」
 慌てて口を開けば、誤魔化しにもならないような言葉。
「ん……。父さんにも似ているんだけどね。ああやって並ぶとそっくりだって言われる」
 それでも秀也は、乗ってくれる。
「でも、ほんとそっくりだった。綺麗だった」
「……ありがと」
 一呼吸遅れた返事に、視線を向ければ、秀也の目元が紅を差したように赤くなっていた。さらに視線が逸らされ、中空を彷徨っている。
「秀也?」
「……いや、その……恥ずかしいっていうか……。変だな、結構聞き慣れた言葉なのに……。優司に言われるとどう対応して良いか判らないって言うか……」
 まさしく照れているとしか言いようが無い秀也に、優司は大きく目を見開いた。
 昔ホストをしていた秀也は、そういう言葉など確かに聞き慣れているだろう。今でも、工場に来れば女性達にため息混じりに見つめられているというのに。
 なのに、なぜそこまで照れるのか?
「何で?」
 素朴な疑問を向ければ、返ってきたのは苦笑だ。
「優司の場合は……掛け値なしに賛辞だって判るからかな……」
「え……?」
「優司の想いはいつも優しくてまっすぐで……」
 秀也の手が伸びて優司の頬に触れる。
 そっと優しく触れて——離れる。
 たったそれだけの接触に、優司は全身が震えて膝から力が抜けそうになった。かろうじて足を踏ん張ったその時。
「俺の心を和ませる」
「あっ……」
 頬に柔らかな唇が触れ、完全に膝が砕けた。がくりと崩れ落ちる体を秀也の腕が支えてくれる。
「しゅ……や……」
「愛している」
 責める優司の言葉を無視して、甘く囁いてくる。それは甘い毒で、ますます優司から力を奪うのだ。
「会いたかった……。ずっと両親といて……、けれど考えるのは優司のことばかりだった。今は仕方がないと思って我慢していたけど……優司とこうやって二人っきりになると我慢できなくなった……」
 熱い吐息が耳朶をくすぐる。
 触れた全ての場所から秀也の熱が伝わってくる。
 これは……。
 歌舞伎座で触れられた時全身に走った熱と同じそれに、優司の体は呆気なく高まっていく。いや、あの時伝わった熱は、紛れもなく秀也の欲情だと判ったからだ。
 あの僅かな触れあいで伝わってしまうほどに求められていたのだと思うと、止められなくなる。
「しゅう、や……あっ……」
「……だから……ごめんな」
「え? あっ、何……が?」
 伝わる熱が優司の頭も呆けさせる。何に対して秀也が謝っているのかが判らない優司は、次の行動すら思いつかなくて、ただ秀也に縋っていた。
「……シャワー抜きで……、このまま……」
「え……はあっ、あっ」
 ふわりと体の向きを変えられて、抗う間もなくベッドに押し倒される。
「ちょっ! 幾らなんでも、やばいっ!」
 一日外にいて汗だって掻いている体だ。
 いくらなんでもシャワーくらい浴びたかった。
 しかも、覆い被さる秀也からは清潔な石けんの香りが強くして、よけいに自分の体の匂いと比べてしまう。
「や、やだよっ! 風呂入るっ」
 まして、準備も何もしていない体に、秀也を受け入れるのには抵抗があった。
「ごめん……」
 なのに、飢えた狼のように秀也の動きは止まらない。
 そんな——と必死になって抵抗する優司がきつく秀也を睨む。が——。
「しゅ……や?」
 その瞳のあまりに頼りなげな色に、優司の腕から力が抜けた。
 潤んだ瞳は今にも涙を零さんばかりで、触れる体も小刻みに震えている。
「なんで……泣いて……」
 指が触れた途端に、溢れ出た涙が頬を伝う。
「わか……らない……」
 こんな頼りなげな秀也を見ていると、胸の内が苦しくなる。堪らずにぎゅうっと彼の体を抱き締めて、震えを押さえつけた。
「けど……なんだか……力が抜けてきて……。優司がここにいるのが嬉しくて、触れたくて……堪らなく苦しい……」
 はあっと吐き出された熱に、優司はぞくりと体を震わせた。
 けれど、同時に堪らなく切なくなる。
 こんなにも疲れているのだ、秀也は。
 緊張して、双方の母達の相手をして。
 ずっと余裕のある態度を見せていたのは、演技でしかなかったのだ。
「秀也……お母さん達に私のことを話した時……大丈夫だったのか?」
 未だにこんなにも緊張するのなら、そんな修羅場だったらどんなことになったのだろう?
 不安に駆られて、思わず上半身を起こしながら秀也に問うた。
「秀也?」
「……良く覚えていない……」
「え?」
 掠れた声音で小さく呟かれたそれは、けれどはっきりと聞こえて優司は目を見張った。
 覚えていない?
 その言葉に激しい不安が湧き起こる。
「……ん……そう……。途中で、おかしくなった……また……」
「しゅ……秀也……大丈夫だったのか?」
 つい自分でもおかしいと思う質問をしてしまう。
 大丈夫だったから、秀也はここにいるのだ。
 それでも記憶に残らないほどの混乱が、秀也にダメージを与えないはずがない。
 けれど。
「大丈夫だったよ……さすが俺の両親だよな」
「え……」
 力ない笑みではあったが、確かに秀也は微笑んで、彼の体を起こした。
「大丈夫だったよ……。だからここにいる」
 はかなげな笑みを浮かべた秀也が、じっと優司を見下ろしていた。



 秀也にひどく真摯に見つめられ、優司が息を飲む。
 そんな優司の緊張が伝わったのか、秀也は微かに頬を緩めた。
「どんな、状態だったんだ?」
 そんな秀也に気になっていたことを問いかける。
「最初は、驚愕で、継いで怒声だった。さすがに怒るだろうなって思って……覚悟はしていたんだけど……。そのうち、悲しみとか憤りとか、悔いとか……。いろいろな感情が溢れ出して……。俺は必死で自分を保っていたんだけど……なんだかすごく引きずられやすい状態に陥って……。ヤバイって思った時から……記憶が無い。けど、それも僅かな間だった見たいなんだよな。気が付いたら、自分の布団で寝ていて……。起きたら、母さんも父さんも笑っていた。優しくて……。もういいって……言っていた」
 だから、二人の間で何が話し合われたのか判らない。
 呟くように言葉を舌に乗せて、優司に触れてくる。
「ん……、判らないって……」
「さっき母さんが言っていたように、俺が目を覚ましたら母さんも父さんも言ったんだ。俺だから……こんなのも有りだろう……って」
「そう、なのか?……っあ」
 肌を伝う指に身悶えて、優司は喘ぎながら秀也にしがみついた。そのせいで、よけいに秀也の囁くような声が近くなる。
 熱い。
 感じる熱よりさらに高い熱が湧き起こる。はあはあと大きく喘いで、熱を逃そうとするけれど、次々と与えられる熱はもっと多い。
 逃げられない。
 ぞくりと粟立つ肌はさらに敏感になって、優司の熱をさらに高める。
 際限ない快感の増幅を思って、優司は震えた。
 怖い——けれど、嬉しい。
 ここまで愛する相手に求められることが堪らなく嬉しい。
「秀也……ぁ……っ、秀也ぁ……」
「でも、きっと……優司だから……。優司のお母さんがいたから……。きっと母さん達も納得したんだと思う。母さんが出てきたのも、きっと優司を見るためだから……」
「えっ、あっ……でも、私は……んふぅっ」
 いつ観察されていたのか記憶にない優司が訝しげに問おうとして、けれどその拍子に服の中に入り込んできた秀也の手が、ぎゅっと優司の敏感な男根を握り込む。甘い快感の衝撃に、言葉が途切れた。
「ダメ……だ……そこは……っ」
 くちゅりと早々に濡れた音がして、羞恥に身を捩った。手を伸ばして阻もうとするが、秀也がそれを許してくれない。
「嫌だ……きたな……いっ」
 開かれた衣服の合わせ目から淫猥な匂いが漂って、優司は今さらのように秀也から逃れようとした。が、上半身で乗りかかられ、下肢は絡め取られている。動くことも叶わず、ただ、手は縋り付いていることしかできない。
「優司の匂い……だから……構わない……」
 熱でうなされたような声音に、首を振る。
 優司とて、このまま秀也の熱に溺れたい。けれど、これもまた優司のプライドなのだ。
 相手が堪らなく好きだからこそ、汚れたところなど見せたくない。それも含めて好きだと言われてもだ。
「嫌だって……っぁっ! やっ…せめて……シャワー……行きたい……」
 汗を流したい。
 胸元で弾ける快楽に溺れそうになりながらも、優司は乞うた。
「その……くらいの時間は……あるよっ、今日は……」
 一晩たっぷりと明け渡された秀也の時間。
 どんなに抱き合っても、きっと時間は幾らでもあるはずだ。
「秀也ぁ……」
 どくんと震えた体を、秀也に押しつけながら、それでも乞う。
 必死な声音に、秀也がふっと体の力を抜いた。
 優司の顔を覗き込み、快感の滲んだまなじりに口付ける。
「判った……良いよ……。でも、俺も一緒にだよ?」
 ぐいっと力強く腕を引っ張り上げられ、上半身を抱き込むように起こされた。乱れた衣服の合わせから素肌の胸に頬を押しつけられる。
「良いよね……一緒に……」
 もう堪らない。
 こんなにも乞われて、どうして断ることなどできよう。
 性急な秀也に、優司も白旗を揚げるしかなかった。
 たぶん、秀也の心を静めるためにも彼の頼みは断らない方が良いのだ。
「……もう……判ったよ……」
 拗ねたように彼の胸に顔を押しつけながら頷く。
 その顔は耳まで真っ赤になっている。
 熱くて、堪らない。
 それでももっと熱が欲しくて、優司はため息のような吐息を零して秀也に縋り付いた。


 流れ落ちる水音が響く。
「いや、ああっ……やあっ……」
 バスタブに両手をついて体を支えて。
 けれど、それだけでは崩れ落ちそうになって頬をもそれに押しつける。
「すご……んっ、締め付けるな……」
「無理ぃっ……あぁっ……」
 押し殺しても艶めかしい声が、狭い室内に響いていた。それと同時に、肌を打つ音も、水音とは違う湿った音も規則正しく響く。
「やっあっ……」
 シャワーを浴びるため連れて行かれたホテルの狭い浴室で、優司はバスタブに状態を預けた状態で後から秀也に貫かれていた。
 洗うことすら秀也が自分でやりたいと言い出して、押し問答の末、切ない表情に負けて許したのが運の尽き。
 全身くまなく泡立った素手で嬲られて、昇り詰めたのは早かった。
 その余韻も冷めぬうちに、深く穿たれ、ずっと揺さぶられている。
「あっ……ああっ……」
「優司っ……優司……」
 優司の声が甘く響く。そのせいか、優司もそして秀也も、よけいに煽られるのだ。
 苦しい体勢に、優司も嬌声も途切れがちになる。
「優司……ゆう…じ……」
「熱い……あつ……くるしっ……あぁぁっ」
「ごめん——けど、良いんだ、優司の中。堪らないっ」
「はあっ、もうっ……もうっ……」
 いきり立った男根は、もう限界だと言わんばかりに滴を溜まった湯の中に落としている。
「しゅうやあ……もうっ……」
 限界を訴える声に秀也は水滴とも汗とも着かぬ滴を振り払い、小さく頷いて。
「達くよ、優司」
 後ろから覆い被さって、甘く囁いてきた。
「愛してる、優司……。何があっても離さない」
「え、あっ……ああっ!」
 心臓が跳ねた。
 全身が硬直し、小刻みに震えた。
「好きだ、優司」
 真っ白になった頭でも、体の中に迸った熱を感じる。
 熱くて、狂おしいほどに愛おしいそれ。
 一滴残らず自分のものにしたい、と常に無い欲求を覚えて、優司はそれを銜えている場所を締め付けた。
「あっ……」
 掠れた小さな悲鳴に潜む甘さに、涙が滲む。
「しゅーや……」
「優司……、まだ欲しい?」
 苦笑混じりで囁く声音に、ただ頷く。
 もっと欲しい。この男を。
 自分だけを頼って欲しいと切に願う。そのためなら、彼の全てを受け止めよう。
「秀也が欲しいのなら……。でも、今度はベッドに……。なんか……ふらふらする」
 上半身を起こそうとして、視界が急激に狭くなる。唸りながら、しばらくじっとしているとすぐに治ったけれど。
「ごめん、のぼせた?」
「ん……少し……。シャワーを浴びるだけのつもりだったのになあ……」
 ため息を零して、引っ張られるがままに体を起こした。
「あ、く……」
 ずるりと抜け落ちる感触に、全身が総毛立つ。
「ん、ごめんな。けど、欲しかったんだ」
「ああ……判ってる」
 はあっと吐息を零した優司の体を支えて、うなじに口付けを落としてきた。
「何でだろう……、ほんとに欲しくて欲しくて溜まらなくて……」
 ほんの少し訝しげに首を傾げる秀也に、優司は振り返ってその頬に手を添えた。
 首を伸ばして赤く色づいた唇に自身のそれを押しつける。
「いいよ、欲しがってくれて。今日は、時間はたっぷりあるから」
 朝は、まだまだ先なのだから。
 

 太陽が黄色い。
 窓越しに夜明けの太陽を見上げながら、優司は重いため息を吐いた。
 仕事で徹夜してもこんなにも疲労を感じることは無いだろうな、と思うほどに、体が重い。
 思った以上に最初の風呂での行為が疲労を呼び、なのに、秀也は何度でも優司を求めてきた。
 決して激しくはない。
 穏やかで、優しくて。
 拒むのが悪いと思うほどに切なく求められて、流された。
 やりすぎた後悔は、決して秀也だけを責められるものではないと判っているし、後悔なんかするつもりもなかった。 けれど、疲労は容赦なく優司を襲う。
 さすがに昨日一日出歩いた疲れも合わせての行為は、優司の体に負担をかけていた。
「大丈夫か?」
 そっと耳元で囁かれて、優司は力なく頷いた。
「なんとかね」
 それでも、座り込んだ椅子から動くことはできない。労るように世話をする秀也の手から、缶コーヒーを受け取ってごくりと飲んだ。
 今日は、昼前には羽田空港まで母を送って行かなくてはならないのだ。
 東京モノレールに乗せてしまえば空港までは一直線とは言え、一人で行けとはさすがに言えなかった。
「俺が送ってこようか?」
 この疲労の要因たる秀也が心配げに提案する。
 それには、首を横に振って。
「いいよ、行く」
 動くのもおっくうだが、また秀也に緊張されて疲れられては敵わない。
 穏やかな秀也が、野獣のように優司を求めたのは、きっとストレスから来るもの。パニックを起こす代わりに、安らぎを求めて優司を頼った結果が、あれだと想像できた。
「もうちょい休んだら、行ける。なんか、ちょっと眠いだけ」
「判った。ぎりぎりまで寝ると良いよ」
 促されて、睡魔に誘われるままに目を瞑った。
 髪に秀也の指が触れる感触がする。
 優司の柔らかな髪の間に秀也の指が蠢いて、それが心地よくて堪らない。
 そうされると甘やかされて、子供扱いされているように不快に思うことも多かったけれど。今は、ただ気持ちよくて、心がゆったりしてくる。
「秀也……」
 夢うつつに呟く。
「何?」
「気持ち……良い……」
「そうか……」
 くすりと頭上で響いた苦笑に優司はつられたように微笑んで、そのまま深い眠りに入っていった。

【了】