緋色の窯変2

緋色の窯変2

 八木和宏の肌は、肌理が細かく色味も良いと恋人の井波英典が言う。
 その肌が羞恥に染まる瞬間を、英典は好んでいて二人きりの時は油断がならないのだ。
「今日も綺麗だね、吸い付きたくなるよ」
 ぼんやりテレビを見ていたらいきなり耳元で囁かれて、和宏はびくりと体を震わせた。振り向く先には悪戯っぽく笑みを浮かべた英典。何を企んでいるかは、さすがに判った。
「英典ってば……」

 ため息交じりに呟いて俯く和宏の顔は、その言葉の内容とそれに反応してしまった事への羞恥のせいで淡く桜色に染まっていた。
「だって、綺麗なんだよ、本当に」
 うっとりと囁かれて、ますます居心地悪く身を捩った。
 こんなことはいつものことなのに。
 なのに、慣れることはない。
「でも……明日仕事だし……」
「ん、だから挿れないから、ね」
「だって……」
「俺、我慢できないよ」
 英典の我が儘に和宏は再度ため息を吐いて、伏せていた顔を上げた。
 至近距離の英典が、さらに顔を近づけてくるのを待って、目を閉じる。
 熱い吐息が唇を擽り、柔らかく啄まれて、和宏は肩の力を抜いた。
「んく……」
 喉がひくりと動き、甘い声が零れる。
 それが英典を狂わせると判っていても、止められない。
 畳の上に押しつけられ、もっとと深く求められて、和宏の全身は歓喜に震えた。
 まだできたばかりの新築のマンションの一室。英典と和宏が休みを過ごす場所に、甘い吐息と淫靡な音が響く。
「んあっ……」
「綺麗……ね、もっと色づかせてあげる。ここももっと」
 胸の突起を啄まれ、もう一方を指でこねられる。びくんと跳ねる体は容易く床に押さえつけられ、込められた力にすら感じてしまう。
 顔の側にある畳が青臭い匂いを放つ。洋室よりも和室を好む英典のために、リビングの一角に畳を入れたのだ。
 その二畳のスペースに、二人の裸体が絡んでいた。
「ひっ、あぁっ!」
 二人分の陰茎が英典の手で擦られて、濡れた音が響く。
 敏感な先端部が指の腹で弾かれ、互いが互いを高めていく。
「あっ……もう……」
「ん、俺も……」
 一際強く擦られて、まず和宏が、ついで英典が達った。
 白い液が二人の腹を汚し、下になった和宏の腹に液溜まりを作る。ぽたっと零れた英典の液が和宏のものと交じり合う。その様子をうっとりと眺める英典に、和宏はいたたまれなくて、視線を泳がせた。
「ふふっ、恥ずかしいんだ?」
 まだ滑っている指が、和宏の頬に戯れに触れる。
「当たり前だろ……」
 小さく返せば、くすりと笑われた。
 本当に英典は、和宏をからかうのが好きだ。こんな情事の後は、それでなくても恥ずかしいのに、それをさらに煽ってくれる。でも。
「意地悪だよ」
「だってさ、恥ずかしがる和宏って、ほんと綺麗なんだよ、俺、大好き」
 臆面もなく言われて、ますます赤くなった和宏だったが、悪い気がしないのも事実だった。
 
「ふ?ん……」
 月曜の朝、いつものように出勤した途端に、上木に捕まってしまった。
 まじまじと見つめられ、何事かと落ち着かない。
「何ですか?」
 いつまでも黙って見つめられるのも堪えられなくなって問うと、にっこりと笑った上木が、きっぱりと言い切った。
「相変わらず色っぽい。ますます惚れてしまいそうだ」
「えっ」
 まさか会社でそんな事を言われるとは思わなかったから、驚愕のままに数歩後ずさる。
「ほら、そんなふうに恥ずかしそうにしてんのもそそられるしな」
「じょ、冗談はやめてくださいよ」
「冗談なんかじゃないって」
 それだけは、ときっぱりと言われて、マズイと思いつつも、和宏の肌はますます熱を持つ。
「ほら、綺麗だ」
「だからっ」
「昨日もあいつに抱かれたんだろ?」
 何気なく続けられた言葉に、息を飲んだ。何か言い訳をと思い、何とか開けた口だったが、声が出ない。
「お前って、バレバレなんだよ。すっげえ、悔しい……」
 途端に眉間にシワを寄せ、剣呑な視線を送られて、羞恥と同時に悪寒も走った。
 マズイ……。
 前から和宏に言いよっている上木が敏感に察するのは、それだけ見られているからだと頭では理解していた。だが、そんなにも判るのか、と思うと、他人の目が怖くなる。
 昨夜は流されるがままに一緒に達ったが、やはり止めた方が良かった、と臍を噛む思いで、下唇を噛んだ。
 それは和宏のクセだ。
 悩みが有る時、悔いる時、傷ができるほどに強く噛んでしまう。
 時に、指摘されないと気付かないほどで、英典が気にするから治そうと思うけれど、なかなか治らない。
「俺は、まだ諦めていないんだがな。だから、俺を煽るような事はするなよ」
 先程の怒りはすでに鳴りを潜めてはいる。だが、上木の言葉に、和宏はこくりと頷いた。
 上木が和宏達の関係を誰かにバラすと言うことはないが、これ以上、上木に迫られるのは勘弁願いたい。前ほど、露骨に迫っては来ないが、それでもその視線が熱を持っていることはさすがに気付いていた。
 自分がそんなにもモテるなんて事だけは信じられないが、それでも複数の人間に言いよられているという事実は、もう否定できるものではなかった。その内の一人、上木は、まだ常識人だから良いけれど。
「すみません……」
 ため息を吐くのは、もう一人の常識人と呼ぶのがはばかられる相手が脳裏を過ぎったからだ。上木が気付くと言うことは、彼にも気付かれるということだ。
 それだけは避けたかった。
 ようやく安堵できる住処を作った二人だから、そこに乗り込まれるのだけは勘弁願いたい。
 だが、住所がバレている。
 思わず零したため息に、上木の声が重なった。
「……二人暮らしだから、ハメを外すのは仕方ないか」
 自嘲めいた言葉に、曖昧に笑って返した。
 英典が牽制だと言って、上木に同居の件も、はては結納の件までバラしているのだ。バラした時の上木の愕然とした顔を、英典は今でも思い出すたびに笑っているけれど、会社に来れば必ず顔を突き合わせる和宏にしてみれば、勘弁願いたいことだった。
「別にハメを外したいわけじゃ無いんだけど……」
 二人暮らしをする事になったのは、英典の部屋にその非常識人が監視カメラを設置していたからだ。しかも、レンズが向けられていたのはベッドの上。
 誰もいないと油断して始めてすぐに、和宏の視界にレンズの反射光が入った。それは本当に偶然だったけれど、怒りまくった英典にその相手──英典の兄、隆典は悪びれもせずにのたまった。
『だってよ、見たかったんだよ。和宏くんのその時の肌の色。お前がさんざん綺麗だって言うからさ』
 卒倒するかと思ったあの時の恥ずかしさは、もう味わいたくない。
「……お願いですから、会社では……」
「判ってるけど……。……だけどな……」
 後半言葉を濁した上木に、嫌な予感が走る。
「あの?」
「お前らは幸せかも知れんがなあ……。ついでに何とかならないか、あいつ……」
 しみじみとぼやいた上木に、それが本題だと気がついた。
「もしかして、また?」
「ああ、昨日家まで押しかけて来て、連れ出された……」
「家?」
「……先週、俺が帰るのをつけたんだと。んで家がバレちまって……」
「つけた……」
 くらりと一瞬目の前が暗くなった。
 ついにストーカーか?
 隆典の非常識ぶりは、好みに対する執着心から来ている。
 何故だが知らないが、和宏が手に入らないと思った隆典が見つけたのが上木だったらしい。
「なんとかしてくれよ、お前の義兄になるんだろ」
「そんな事言われても……僕も苦手で……」
 近寄りたくない相手の最たるもの。
 彼に敵うのは一体誰なのか……。
 どうやら上木もダメらしいと、しみじみと問い返す。
「で、昨日は何かあったんですか?」
「それがさ……」
 ぽつぽつと就業開始のチャイムが鳴るまで続いた話は、同情に値するものだった。
「げえ……」
 英典に上木の話を伝えた途端に、嫌そうに顔を顰めてひっくり返った。
「いいじゃん、放っとけば。兄さんがあっちに興味が有るんならさあ、そしたら、こっちに来ないし」
「けど……」
 接点など無いはずの上木を隆典が知ったのは、どうやら八木の家かららしいと話もある。そうであれば、責任がないわけではなく、放置するのもどうかと思ってしまう。
「なんか対策案とか無いのか? 隆典さんの苦手なこととか……」
 少しでも何か無いかと思って尋ねてみたが、英典はきっぱりと首を振って否定した。
「ないよ。あったら、俺達だってなんとかしているだろう?」
「でも……」
「強いてあげれば、好みでなくなればいいんだよ。上木さんの何が気に入ったかは知らないけど、それが兄さんの好みと合致しなければ興味が失せるはずだけど?」
「そう……だよね」
 上木の話では、県中南部にある温泉旅館で懐石料理をご馳走されて、その後温泉に浸かってから帰ってきたと言うけれど。
 気味が悪いほど見つめられて、寒気がしたとか言っていたけど……。
 隆典が何を期待して上木を連れ出したのか、何となく想像できてしまって、ぞくりと背筋が震えた。
 もしかするともう手遅れかも。
 上木には決して言えなかった言葉を飲み込む。
 英典だって判っているのかも知れない。
 和宏よりもっと隆典のことを良く知っている英典ならば。
 そう思って、じっと英典を見つめれば、彼もじっと和宏を見つめていた。
「な……に?」
 不機嫌そうなその表情に、躊躇いつつ問う。
 その英典の手が、まっすぐに伸びてきた。
「ここ……また噛んだんだ?」
 触れられてゆっくりとなぞられる。
 そこに何があるのか、触れられて気がついた。英典が機嫌が悪いのも道理だ。
「少しだけど傷が入っている……」
「ごめん……ちょっと考え事してたから……」
「気をつけろよ。それにしても、痛くないのか?」
 眉を顰めた顔が近づいて、傷口を窺う。
「ん……」
 その先を期待させるシチュエーションに、和宏の心臓が大きく鳴り響く。
 堪らずに閉じた目蓋に、英典の柔らかな前髪が触れて。
「ダメだよ……傷つけちゃ……」
 微かな声音が耳にはいると同時に、唇が柔らかく塞がれた。
 舌先が、ちろちろと傷口を舐めていく。
「ひでの……り……」
 ぞくりと粟立つ肌。堪らず熱い吐息が零れる。
 それすらも英典は受け入れて、もっと熱い熱を和宏に寄越した。
 与えられた熱は下腹部に集まって、もっとと欲深げに反応する。
「平日……だけど」
「少しだけ」
 虚ろに呟いた拒絶の言葉は、英典には通じない。
 こうやっていつも流されて、快楽の海に連れて行かれる。
「最後まではやらないから……」
「んなこと、昨日も言ってて……」
「いいじゃん、気持ちいいことなんだし」
「だって……」
「そう思うんなら、自覚しろよ。傷のせいかいつもより唇が赤くなって、誘っているみたいに見えるんだから」
 ぺろりと舐められて、違うと息も絶え絶えに返す。
 いつだって、誘ったつもりなんかないが、和宏が何をしても英典は煽られると言う。
 そんな事、もうどうしようもない。
「何、やっぱり嫌? もう止める?」
 くすりと笑われて、呆然と見つめた後に、慌てて首を横に振っていた。
「いい、続けて」
 今更、こんなところで止めて欲しくない。
 自分がこんなにも快楽に貪欲になるとは思ってみなかったけれど。それでも英典の手が触れられるたびに、体はどんどん熱くなる。
 沸騰しそうなほどの熱は、もう脳を冒しているのだ。
「ふふ、可愛い和宏」
 英典の言葉に、先の期待に胸が高鳴る。
 堪らずにごくりと喉が上下した、と──。
 まだ耳慣れないメロディが高らかに鳴り響く。ぎくりと強張った顔が向いたのは、玄関近くのインターホンだ。
 英典の手が、和宏の肩に触れるか触れないかの距離で止まっている。
「誰だ? こんな時間に?」
 舌打ちして腹立たしげな英典が腰を上げて、インターホンに向かう。
 放り出された感の和宏は、ただ呆然としてその後ろ姿を見つめるだけだ。
「はい?」
 呼びかけに応える英典の、その不快そうな声音に、はあっと大きなため息を吐く。流されるところだったという悔いと、こんなところで止められたという恨めしさが、その吐息には入り交じっていた。
 だが。
「和宏?、母さんだったよ。これから上がってくるから」
 話し終えた英典が振り返りながら放った言葉に、「えっ」と硬直した。
「ん、なんかさ?、おでん作りすぎたからって」
「……そう」
 英典の母親に会った事がないわけではない。
 ただ、ごく普通に接して、普通に話をして。あまりに普通すぎて、だけどそれだけ。
「なんか、和宏、嫌そう?」
「そういう訳じゃ」
 英典の父である井波陶苑は、正月の結納以前から親しくしてくれていた。彼の父に対する想いも知っている。穏やかで、息子の幸せをいつも考えていて。そんな陶苑に対して抱くのは、父に対する親しみにも近い。
「母さん、さっぱりしているんだから話しやすいと思うけど?」
「うん、そうだね」
 英典の母──多恵子。
 英典の性癖は知っていて、結納の件も家の用事のせいで来なかっただけ。まだ英典が家にいる時も、和宏が訪ねてもすぐに呼んでくれて、邪険にはされた覚えがない。
 英典との関係を反対されたわけではない。
 けれど。
 和宏は緊張した面持ちを崩すことなく、英典と廊下の向こうに見える玄関のドアを見つめた。
 すぐにチャイムが鳴って、英典が嬉々として玄関へと向かう。
 英典は気付いていないのだろうか?
「いらっしゃい?、ありがと?」
 ドアが開く音と共に、明るい声音が響く。
 そんな後ろ姿を眺めて、『気付いていないのだろうな』と、知らずため息を吐く。
 彼女からは、未だ祝福どころか、許しの言葉すら貰っていないことに。
『こんにちは、どうぞ上がって待ってて』
『ごめんなさい、こんなものしか用意できていなくて』
『夕食をどうぞ、お口に合うと良いんだけど』
 考え過ぎなんだろうか?
 彼女の態度が客に対するそれと変わらないと思うのは。けれど、陶苑の親しみのある声かけと比べて固さが目立つ。それに、英典が家に出でるのを最後まで反対したのも彼女だった。
 やっぱり、許されてないのだろうか?
 そんな事を考えていると、下唇にぴりっとした痛みが走った。
 慌てて食い込んだ歯を外したけれど。探るように指先で触れたと同時に、英典の驚愕の声が響いた。
 驚いて顔を上げると、ずずっと英典が下がってくるのが判る。その彼が制止の言葉を叫んでいて。
「英典?」
 何事かと立ち上がった途端に、英典の向こうに天敵とも言うべき男の姿が見えた。
「……隆典……さん?」
 愕然と呟けば、「こんばんは」と明るい声が返ってきた。
「じゃあ、帰るわね。ちゃんとバランス良く食べなさいよ」
「え、えっ、ちょっと、母さんっ!」
 問題の多恵子は、声だけで帰ってしまったようで、英典が呆然と鍋を抱えていた。
 それより。
「隆典さん……何で?」
 思わず、じりっと尻で後ずさる。
 けれど、すぐ後は壁で、逃げようがない。
「やだなあ、可愛い弟の愛の巣を見に来ただけなのに」
「でも……」
「ああ、母さんが行くって言うから、便乗させて貰っただけ。母さん、最初は俺に行けって言ったんだけど、そうしたら英典の奴入れてくれないもんな。だから、母さんにチャイム鳴らして貰うようお願いしたのさ」
 あははと笑われて、ぎりっと奥歯を噛みしめた。もやもやと胸の内にあるわだかまりが大きくなる。隆典がここにいる怖れよりも、大きくなるそれ。
「……やっぱり嫌われているのかな……」
 ぼそりと零した言葉に、隆典の眉間が寄った。
「何?」
 近づく英典に似た顔を、思考に捕らわれていた和宏はぼんやりと見つめ返す。と、はっと我に返って手を突っ張った。
「兄さんっ!」
 手のひらに触れた肩を力強く押し返すのと、英典の怒声が響くのが同時だった。
 すぐに隆典の体が押し避けられる。
「ってえ」
 呻いて、腰をさすっている隆典が、剣呑な光を目に宿して、英典を睨み付けていた。
「何もしていないだろう?」
「和宏に近づいた」
「……お前の独占欲も相当だな」
「そういう問題じゃないだろっ!」
 今までの行動を考えると、それだけで済まなかった可能性は大きい。首を横に振って返すと、隆典は肩を竦めた。その顔が笑っているところを見ると、当たらずも遠からずと言ったところか。だから油断ならないのだけど。
 英典の怒りを軽く返しながらも、隆典の視線は和宏から離れない。その目が細められ、探るように視線が動いた。上から下へ、そして唇で、止まった。
「鈍感な英典気付かないってのにな」
 意味ありげな笑みと共に返された言葉は、先ほどの呟きに対する返答だろう。彼に気付かれたという悔いよりも、もっと激しい衝撃が胸の内に走る。
「じゃあ……」
 思わず開いた口から零れる問いを全て言わないうちに、隆典は頷いた。
「嫌われているって程じゃないにしろ、気に入られているとは言い難い」
 言葉としてはとても曖昧だったけれど。
「何、それ?」
 暗い和宏の様子に気付いたのか、英典の声音が低くなる。庇うように二人の間に入って、彼の背が視界を遮る。けれど、雰囲気で笑っているのが判った。
「こんな鈍感な奴捨てて、俺と付き合わない?」
 神経を逆撫でする言葉に、英典の全身に力が籠もった。
「誰が鈍感だって?」
「ふふふっ、ほら、判ってない」
「だから、何がっ」
 そんなふうに返すのを聞いていると、やっぱり判っていないんだと気付く。
 ただ一人、受け入れてくれていない家族がいることに、英典は気付いていない。
 堪らずに零れたため息に、英典が振り返って。強い視線に和宏は萎縮する。
「……また……噛んでる」
 英典は悔しそうに呟いて、その手を和宏の顎にかけた。無理に合わせられた視線を何とかして外して、小さく首を横に振る。英典が悪いわけではないのだ。自分が気にしすぎていて、しかも、自分で何とかしないと行けないことなのだから……。
「これか……気付かなかった」
「何でもないんだ」
 英典の顔を顰めて見つめる表情が辛そうで、慌てて否定する。けれど、どんなに否定しても、英典にはもうバレている。いい加減唇を噛むクセはなんとかしたいのに。
「兄さんが気付いて、俺は気付かなかった──なんてこった……」
 ぎりっと英典の歯が軋む。震える唇が悔しそうに歪んでいた。
 そんな顔をさせるつもりはなかったのに。
「違う、ほんと何でもないから」
「じゃあ、さっきのため息は?」
 問われて、返せない。
 気付いてしまえば、英典はどんなことでも見逃さない。
 それが英典の凄いところで、仕事でも尊敬に値するところだ。けれど。
「和宏、言って」
 ぐいっと攻め寄られれば、返答に窮している和宏にとっては、怖い存在となる。頭の中は、必死に回転して相応しい言葉を探し出そうとはしている。だが、焦れば焦るほど言葉は見つからなくて、和宏は口を閉ざすしかなくなった。それでも、英典は答えを待っているから。
「……何でもないんだ、気のせいだよ」
 誤魔化せるとは思っていないけれど、そんな言葉を口にする。
 途端に英典が重いため息を吐く。
 そのため息は、和宏の体温を急速に下げて、ひどく落ち込ませた。
「これは、別れるのも時間の問題か?」
 面白がる隆典の声にはっと我に返った。
 落としていた視線を上げれば、英典が肩越しに隆典を睨み付けている。
 それでもくすくすと笑う声がいつまでも響いて、英典の肩がすうっと落ちた。
「もう……」
 呆れた口調で呟いて、英典が和宏へと向き直っていた。
「和宏、あんな奴の言うことなんか気にしなくて良いから……。だから、教えろよ。言ってくれないと判らない」
 ──言ってくれないと判らない。言葉にしないと判らない。
 いつだって言われ続けた言葉を、和宏は何度も頭の中で繰り返した。
 それが基本なのだと、英典はいつでも言っていた。
 そして英典は、拙い言葉でもちゃんと聞いてくれる。
 それが判っているのだから。
「……英典のお母さんのこと……」
「母さん?」
 驚いて目を見開く様子に、躊躇いが生まれる。それでも、勇気を振り絞って続けた。
 英典の後からの笑い声はもう止んでいた。
「好かれていないって……」
「そんなことっ!」
 反射的に振り返った英典が隆典を睨む。
「事実だよ」
 けれど平然と答える隆典に、今度は英典が唇を噛みしめていた。
 きつい視線が隆典から外れ、中空に向けられ、そして。
「……そうかも……」
 今気がついたかのように、ため息を零す。
「いや、その……。嫌われてはいないっては思っているけど」
 その言葉に、今度は和宏が目を見開いた。
「知って?」
「知っていたかって言われると、そうだっていうしか無いね。でも、嫌われていないから良いかって思っていたけど……、和宏、気にしていたんだ」
「……うん」
 仕方なく頷けば。
「普通気にするだろう? 結婚相手の親に好かれていないって思えば。和宏くんは繊細だからね」
「……ごめん」
 悔しそうに顔を顰めて、けれど和宏に向けられる視線は優しい。
「ごめんな、母さんはきっとまだ割り切れていない。さっぱりとした性格なんだけど、やっぱり俺たちの事、認め切れていないみたい。せめて、兄さんが結婚でもしてくれれば良いんだけどねえ」
 ちらりと動いた視線の先で、隆典が激しく顔を顰めた。
「母さんはさ、兄さんの方を諦めている感じがあるんだよね」
「え……」
「兄さんの性格だと、結婚してもうまくいきそうにないって、前々から零していたし。だからさ、俺までってのが受け入れられない感じで。息子ばっかりだったから、嫁さん迎えるの楽しみにしていたみたいで」
 苦笑いを浮かべて、淡々と言う英典の言葉は初めて聞いたことばかりだった。
「だって、そんな事ひと言も」
「諦めたって口では言ってたんだけど……」
 そう良いながらも浮かべた苦笑に、実は信じていなかったとはっきりと判る。
「だから……」
 受け入れようとして、受け入れられなくて。
 諦めようとして、諦めきれなくて。
 その相反する感情に彼女は苛まれているから、和宏に対する態度が素っ気ない物にしかならないのだと、理解した。
「……だから……」
「ごめん……母さんのことだから、そのうちけりがつくと思ったんだけどね」
「英典が家を出たことで、よけいに酷くなったような気がするけどな」
「それは誰のせいだよ」
 じろりと睨まれても、くすくすと笑い返す隆典は、どう見ても堪えてはいなかった。
「見たかったんだよ」
 などと言われては、青かった和宏の顔も赤くなる。
「……そんなんだから……」
 だが、英典の責める視線を流して、隆典はきっぱりと言い切った。
「でも、もうしないよ。もっと綺麗なもの見つけたから」
「え?」
「見つけたのさ。綺麗なもの」
 自分の肌が綺麗だと、幾ら言われても信じられる物ではない。
 だが、きっぱりと言い切られてどことなく不愉快さが込み上げた。もっともそれは一瞬で、これで隆典から逃れられると思うと悦びが増してくる。
 執着心が強いと言う隆典ではあるが、忘れる時にはきっぱりと忘れるという話を聞いているからだ。
「何、それ?」
 英典の言葉に、隆典の目線が泳ぐ。どことなくうっとりと表情を緩ませているのは、思い出しているからか。
「上木って人。この前、温泉で見たんだけど、しっとりとした肌持っているんだよ。成人男子にしては珍しいくらいだね、あれは。和宏くんの肌も綺麗だけど、彼のは色合いも、それに肌触りも凄く良さそうで」
 蕩々と語るその表情は、今までの意地悪げな笑みなどどこにもない。
「う、上木さん?」
「温泉って……」
 上木から聞いていた話だと、二人が顔を見合わせる。
 デートコースにしては妙だと思ったが、やはり意図はそこにあったのだ。
「お母さんが東北地方の出身だと言っていたからね、いわゆるもち肌ってのかな」
「……そう」
 上木には申し訳なさはある。先日の困り切った表情を知っているから、可哀想な気はしている。それでも獲物ではなくなったことは嬉しい。複雑な思いが、和宏の口元を歪ませた。  
「で、もしかして今日来た理由って、手を貸せって言うんじゃないだろうね」
 胡乱な視線を向け低い声音で英典が問う。
「よく判っている」
 反して明るい隆典に、やはりと英典が肩を落とした。
「そんなの、できるわけ無いだろ」
「別にたいしたことをする訳じゃない。彼が逃げるのを捕まえていてくれれば良いんだよ」
「それって……」
 唖然とする和宏達に、隆典は何でもないことだと笑う。
「どうも警戒されていてね。訪ねていっても居留守使われるし、電話もね、電源切られているし。だから、逃げられない場所に連れて行って欲しいんだよ、彼を」
「……そんなこと……」
 そんな事が上木にバレた日には、どんなにか恨まれることだろう。
 ふるふると首を振って拒絶すると、隆典がすうっと目を細めた。そして。
「手伝ってくれたら、母さんに取りなしても良いよ。和宏くんがどんなに良い子か。頑張っているか。それに、英典が幸せそうにしているとか、母さんが安心して諦められるように、なんだって言ってあげるさ。息子二人に言われれば、母さんの諦めだってはっきりしてくると思うしね。けど……」
 それは、和宏にとっては縋り付きたいような提案であったけれど。
「けどって……兄さん?」
 英典のますます低くなった声音に、隆典はにやりと笑った。
「手伝ってくれないなら、有ること無いこと言ってみようかな。たとえば、英典が和宏くんに叩かれていたとか……っ痛」
「兄さん?っ!!」
 拳を振り上げた英典の目は怒りで吊り上がっていた。
「たとえば、だよ、たとえば。だけどねえ」
 性懲りもなく繰り返す言葉は、和宏にとってはどんな脅迫よりも恐ろしいものだった。
「隆典……さん」
 とんでもない事を言いはなった隆典を恨めしげに見つめれば、にっこりと返される。
「一回だけで良いんだよ。今度の金曜日の夜にでも内緒で彼を俺の所に連れてきて欲しいだけ。その後のことは自分で何とかするからさ」
「……何とかできるんなら、連れ出すのも自分ですれば良いじゃないか」
「それが難しいから、頼んでいるんだろ。この前もたいしたことはしていないのになあ……なんか警戒されちゃって。普通にデートしたつもりなんだけど」
 本心で不思議そうにしている隆典に、頭を抱えて唸ってしまう。
 上木の話に寄れば、強引かつ有無を言わせぬ迫力でもって車に連れ込み、そのまま旅館での食事。嫌だと言っても聞いて貰えず温泉に放り込まれて──のぼせかけて出るまで、その視線が離れなかったのだという。
 気持ち悪くて……怖かった、と自分の腕をかき抱くように震えていた上木の顔はひどく強張っていた。
 その恐怖が、和宏にはよく判る。そう思うと、うんとは言えない。
 けれど、隆典の提案にもそそられるものがあった。
 英典と視線を交わし、互いの戸惑いを確認し合う。
 隆典に手を貸したからと言って、英典の母の信頼を勝ち取ることができるかどうかは全く別問題だとは判っている。彼女との関係は、時間が解決してくれるだろうし、和宏だって怯えてばかりではダメだとは思っていた。
 別に隆典に手を貸す必要はないのだ。
 けれど、息子である隆典までもが和宏の味方になってくれれば、それはそれで助けになるかも知れない。
 そう思うと邪険にできないのも事実だった。

 

 困惑が和宏の視線をうろうろと彷徨わせる。
 天井を見上げ、床を這い、ちらりと隆典を見やってから、英典へと視線を向ける。縋るような視線を受けた英典がはふっと息を吐き出した。
「……兄さんがもう二度と和宏に手を出さないなら……」
 英典の言葉にびくりと肩が揺れた。英典の言葉は和宏にとっても魅力的なものだったからだ。
「出さないよ、今は彼の方に興味がある」
 きっぱりと言い切った隆典の言葉に英典は頷いた。
「じゃあ、一回だけ。一回だけ手伝う。それで良いだろう?」
「英典……それは」
 戸惑い気味に声をかければ、英典は大丈夫だと微笑んで答えた。
「兄さんは、一度興味を失ったら、もう大丈夫。それに上木さんの件も、彼には可哀想だけど……旨くあしらってもらうしかないだろ? 俺たちが手を貸さなくても、兄さんのことだから諦めることはないと思うし」
「まあ、諦めるつもりはないよ。和宏くんを可愛い弟のために不本意ながら諦めたんだからな」
 英典が言うように、自分達が手を貸さなくても、隆典はストーカーのように付きまとうだろう。それだったら、一回だけ手を貸しても。
 それに。
「母さんもさ、踏ん切りがつかないだけだから、巧く話を持っていってやるよ。母さんだって判っているしね」
 その事を持ち出されると、和宏もダメだとはとても言えなかった。
 一体どんなふうに話をしたのか。
 電話口での英典の母の口調はいつもより明るいように感じた。
 おでんが届いて、隆典と密約して、その次の日のことだった。
「和宏からお礼を言うと良いかもね。今はどっちも遠慮がちだけど、話をしているうちに互いに慣れてくるだろう? 和宏って、人と話をするのが苦手だから、それがやっぱり母さんを前にしても出ているしね。だから、まずは電話でゆっくりと慣れていったら?」
 英典に促されて、鼓動が高まっている中、英典の家の電話番号を押していく。
 数回の呼び出し音の後、聞こえた女性の声に、胸から心臓が飛び出すかと思った。それでも、必死に息を整えて、名を名乗って。
「昨日のおでん、美味しかったです。しかもわざわざ届けて頂いて、ありがとうございます」
 どうしても崩せない口調で、礼を言う。
 返ってきた彼女の口調も最初は硬かったけれど。
『和宏くんは、よく煮込んだスジ肉が好きだって聞いたけど、今回はどうだったかしら?』
「あ、とっても柔らかくて。時間かかったんですよね?」
 それがきっかけだった。
『そうなの。前の日からずっと煮込んでいたのよ。とろ火でゆっくりと』
「凄いですね、お店でお忙しいのに。ほんと、ありがとうございます。また食べてみたいです」
 当たり障りのない会話だと、和宏は思ってしていたのだけど、そう言った途端に、多恵子の声はさらに弾んだ。
『そうなのよね。なのに、うちの旦那も息子達もそんな事、何にも判ってくれなくて。食べたら食べてそれっきり。こんなふうにお礼なんて言われると、嬉しいものね。言ってくれれば幾らでも作るわよ』
「あ、ありがとうございます」
『昨日隆典が帰ってきた時にも、和宏くんが褒めてたって聞いて、なんか感動しちゃった。そういえば、和宏くんって、和食が好きなんですって?』
「あ、はい。父が好きなので、どうしても家での食事はそういう物が多くて。もともとあまりたくさん食べる方ではないのですが、それでも時々無性に食べたくなります」
『お母さんのお料理ではどんなものが好きだったの?』
 どんなのをって……。
 あまり考えることなく食べていたから、料理名としては思い浮かばない。けれど、電話口で返答を待っている気配がしていて、和宏は逡巡してから、口を開いた。
「ちらし寿司……」
『お寿司?』
「はい、祭りの日には必ず作ってくれて。でも、普段の日は面倒だからって、滅多には出なかったです。でも、面倒なんだって判るほどに、いっぱい具が載っていたんで、見てて楽しかったです」
『そうよね?、あれは面倒なのよね』
 少し沈んだ声音に、ドキッと心臓が跳ね上がる。
 もしかしたら、失敗したのかも。
 もっと簡単な料理を言えば良かったと臍を噛む思いで悔いる。それでも、せっかくの糸口だと、必死になって言葉を探した。
「あ、あの……その、ほんと面倒だから、普段はせいぜい手巻き寿司で……。自分で巻けって、テーブルに上の飯台にすし飯が入っていて」
『あら、それも楽しいわよね、美味しいし。和宏くんは、どんな具が好きなの?』
「あ……穴子?」
 思いつくままに口にして。
『あら、じゃあ、今度美味しい焼き穴子食べさせてあげるわね。だから、英典と一緒に食べにいらっしゃい』
「あ、はいっ」
 多恵子の口調にいつものような儀礼的な声音は感じられなくて、和宏は咄嗟に頷きながら答えていた。
 穴子が好きなのは事実だが、まさかそれがこんな話になるとは思っても見なかった。
『じゃあ、今度の日曜日なんてどう? 何か用事でもある?』
「あ、いえ、大丈夫です」
 期待に満ちた声音が判って、和宏も気がつくとひどく緊張していた。
 期待に応えたい。このひと言が全てだというような緊張感が、和宏の受話器を握る手に汗を滲ませた。
『だったら、お夕飯を手巻きにしましょうね』
「あ、はい、ありがとうございます。あ、でも、僕、何か買っていきましょうか? 材料とか、その……」
『あら、そのくらいは買いに行くからいいわよ』
「でも、その……」
 手伝った方が良いような気はしていた。
 けれど、一体何をすれば良いのか……。
 料理に関して全くの音痴という訳ではないが、それでも寿司系統は手を出したことはない。ただ、手巻き寿司でも大変なんだとは判っていた。
 躊躇い、口籠もる様子を、英典がじっと見守っていた。
 僅かな沈黙は、電話ではひどく長く感じる。話を続けなければと焦れば焦るほど、その時間は長くなっていった。
「あの……」
 言いかけて、淀む。そうなると、余計に言葉が出てこなくなってしまった。
 どうしよう……。
 泣きたくなるほどの困惑が和宏を襲う。と──。
『そうだわ……。和宏くん、朝暇かしら?』
 多恵子から切り出された内容に、「はい」と反射的に答える。実際、今のところ予定など無い。
『だったら、真魚市(まないち)行きたいのよ』
「まな、いち?」
『ええ、鰆(さわら)を買いに行きたいの。朝早いんだけど──7時頃には着きたいの。どうかしら?』
「あ、大丈夫ですけど?」
 そのくらいなら、なんとかなるだろう。
 そう言えば、母にも連れて行かれたことがあると、了承すれば、『良かった』と、嬉しそうに返された。
『うちの旦那さんも、隆典も、朝がダメなのよ。で、良いのって買いそびれちゃって。助かったわ』
「いえ、その……この位だったら、いつでも」
『うん、ありがとう。じゃあ、日曜の朝、お願いね』
 上機嫌な多恵子の様子にホッとしながら、和宏は別れの挨拶をしてから電話を切った。
 途端に、英典がどうだったとばかりに詰め寄ってくる。その真剣な表情に、和宏は安堵の笑みを浮かべた。
「初めてだよ、こんなにほっとしたの」
 いつだって緊張感で一杯で、今日も緊張しなかったとは言えない。いや、今まで以上に緊張したけれど、終わった後のこんな安堵感は初めてだった。
「なんか、どっかに行く約束していなかった?」
「うん、真魚市に行こうって。朝早いけど」
「ああ、真魚市……。そういえば、何回か運転手したけど、俺の車狭いから、母さん嫌がってたっけ」
「鰆買うって」
「時期だからね。ってことは、日曜は朝からあっちの家に行くことになるのか」
 残念そうな英典に、ん? と首を傾げれば、くいっと耳朶を掴まれ引き寄せられた。
「前の日、早く寝ないとダメだろ? 遅刻するわけにはいかないし、腰が立たなくてもダメだもんな」
 くすりと吐息で囁かれて、和宏はその肌を真っ赤に染めて俯いた。
 隆典の約束の日が、刻一刻と近づいてくる。
 仕事に集中している時は良いけれど、目の前に上木が来ると、否応なく隆典との約束を思い出す。
 金曜の夜、彼を何とかして隆典に会わせること。それが約束だった。少なくとも、和宏がその場にいること、も、頼まれたことの一つだ。その理由を問うても、隆典は笑うだけで答えてはくれなかった。
 けれど、いろんな事があったとはいえ、今は気の良い先輩だ。そんな彼を陥れるようなことは正直したくなかった。
 だが、すでに隆典は母親の懐柔をしていてくれているらしい。となると、約束を守る必要はある。
「何だ?」
「あ、いえ、何でも……」
 どうしようと隣席に着いた上木を窺っていたら、その視線に気が付かれてしまった。訝しげな問いかけに慌てて首を振って、和宏は自分の仕事に没頭するフリをする。
 そのぎこちなさに上木は不審そうに首を傾げ、それでも仕様書の作成に戻っていった。気配でそれを察して、内心で深いため息を吐く。
 せめて、上木が金曜に用事があると言えば、それで今回は先延ばしできる。だが、先日ちらりと聞いた話では、最近土日は暇でしようがないということだった。金曜日も同じで、彼女が欲しいとぼやく様も見ている。そんな会話の最中に、上木の意味深な視線が、和宏に向かっているのに気付いて、その時は慌てて俯いた。
 話題が逸れたことにホッとして、けれど、今がチャンスだったのだと、後から気が付いて、ため息が零れる。
 謀略というのは苦手だ。
 仕事上の駆け引きでもそれは同じで、特にややこしい客先の対応を一人でこなすのは難しかった。上木に言わせれば、慣れだ、と言うけれど。
 緊張すると顔が強張って愛想笑い一つできなくなる性格は、自分でも嫌だった。
 そういえば、日曜には英典の母とお買い物だ。
 そんな時に、愛想笑いの一つもできなかったらどうしよう。
 気が付けば、不安が不安を読んで、胃が痛くなったような気がした。
 マズイ、と顔を顰め、意識を仕事に集中させようとする。
 気にしすぎると、体調にモロに現れる自身を知っているから、酷くなる前に何とかしようとするけれど。そう思うことが、さらにストレスになっているのも事実だった。
「どうした? 難しい顔をして」
 上木が笑いながら問うてくる。
「あ、その……例のタサキの金型のことで……」
「ああ、ゲートの位置を変えるんだったな。樹脂の流れ方とか……その辺の見直しを忘れるなよ」
「はい」
 タサキの複雑な設計図を前にしたから、なんとか言い逃れはできた。しかも上木の指摘は本当に気にしなくてはならないところだったから、改めて見直した。
 本当に一時のことを思えば、上木の指摘は役に立つ。
 そんな上木を、あの隆典に……。
 考えを止めようとすればするほど、止められない。深いため息が零れてから気が付く始末だ。 
「おい?」
「あ、すみません……」
 痛いほどの視線を感じる。けれど、和宏はもう顔を上げることなどできなくて、ただ必死に図面とにらめっこだ。いつまでも、上木の視線を感じてはいたが……。それでも、無視し続けた。
 さすがに悩み事ばかりで一週間過ごすと、胃が荒れてしまったようだ。口の中も白く荒れて、食欲すら失せていた。
「大丈夫か?」
 いつもの畳の上で膝を立てて蹲っていると、粥の椀を抱えた英典が心配そうに覗き込んできた。
「うん……まだ吐き気ないし。食欲がないからかな、怠いけど。痛みも無くなっているし」
 実際英典といると気が紛れるのか、今回は思ったよりは酷くならなかった。
 英典が用意してくれた胃薬も効果があったようで、山は越えていると思う。
 けれど。
「明日……どうしよう?」
 痛みの原因である隆典との約束はもう明日だ。
「それだけどね、兄さんを会社近くで待機させといて、上木さんが帰る時に連絡するってのはどうかな?」
 粥を差し出しながら、英典が小首を傾げながら言う。
「ヘタに連れ出したって、俺たちも結託したなんて思われると、後々厄介だろ。どうせ、兄さん、情けないことにストーカーと同類みたいに思われているみたいだし……だったら、駐車場で上木さんの車の隣に付けさせといて、強引に連れて行って貰うってのも手じゃないか?」
「強引って……」
 その場面を想像して、ぞくりと背筋に悪寒が走った。
「怖いよ、それ……」
 変質者ではないのだけど。
 けれど、ターゲットに取っては、変質者よりは質が悪いと思う。
「まあねえ、上木さんって帰り遅いから、駐車場に人気は無いだろう? それに逃げるにしても、ただっ広いけどさあ、巧く回り込めば、そう逃げる場所もないだろう? その位、兄さんに苦労してもらっても良いと思うんだ。とにかくさあ、俺たちが関わっていると思われたくないし」
「うん……」
 それには同意できる。
 後々のことを考えると、上木に悪い印象など持たれたくはない。
「だからさ、和宏は普通にしてくれて良いんだよ。上木さんが帰りそうになったら、連絡をしてくれれば良いんだ」
「うん……その位なら」
 それすらもあまり乗り気にはなれないことだったが、しなければならないのだからどうしようもない。
 一度だけ、上木に何もかも言ってしまおうかと思ったこともあったけれど。
 それはそれで、問題を先延ばしにするだけのような気がした。
「この前、ちょっとだけ隆典さんの事聞かれて……。嫌がることとかないのかって」
「ふ?ん、で、和宏は何て?」
「判らないって答えた。実際、そんなこと知っていたら、僕だって何とかできていたと思うし。ただ、隆典さんは綺麗な物が好きで、すごく執着するんだっては教えといた。次にお気に入りが出てくるまで、ずっと。だから、隆典さんの好みに合うものが別に見つかれば良いんだけど……って」
 それを聞いた上木の不得要領気な様子を思い出して、ため息が零れる。
 上木は自分がなんで気に入られているのか判ってはいないのだ。先日の温泉で、ますます執着されているなどとは思ってもみないだろう。
「俺だって、判らないよな?、あの兄さんの好みなんて。綺麗って基準も、俺たちとは違うような感じがするし」
「うん……役に立たない助言だったなとは思うけど」
 二人揃って零れるため息。頭の中で、上木に手を合わせる。
 どんなに謝っても、もうなるようにしかならないだろう。
 それに。
「本音を言うと、実は上木さんよりももっと気になることがあって」
「母さんのこと?」
「うん……」
 考えれば考えるほどに、ちゃんと愛想良くできるだろうか心配になってくる。
「もう和宏ってば深く考えすぎ。兄さんのことだって、何とかなったからさあ、母さんのことだってなんとかなるよ。最初はぎこちないかも知れないけど、この前の電話だって話が弾んでいただろう? 少しずつでも接していたら、慣れてくるよ」
「う?ん」
 先日の電話のことを思えば、少しだけ気が楽になってくる。
 英典が楽しそうに教えてくれる。
「でね、母さんの好きな話題はね……」
「へえ……」
 終始楽しそうな英典に、和宏も次第に笑みが深くきた。気分も楽になって、用意された粥はあっという間に空になった。
 和宏にとって、どんな薬よりも効果がある英典の笑顔と言葉。
 きっと、大丈夫。
 和宏ならきっと。
 英典の言葉がまるで呪文のように心に染みこんで、和宏を珍しと言えるほどに楽観的な気分にさせてくれた。
 ごめんなさい。
 何度頭の中で手を合わせたか。
「な、何で……あんたが……」
 狼狽える上木の腕は、しっかりと隆典によって拘束されている。
 備前焼作家である隆典の力は強い。大きな壺を一人で抱え上げる隆典の手を、上木はどんなに嫌がっても振り払えないようだった。
「八木、八木っ!」
 助けを求める視線を、青ざめたまま拒絶する。首を振って、じりじりっと後ずさる和宏に、上木の瞳に絶望的な色が浮かぶ。
「だ、駄目なんで……。僕も」
「和宏くんでも良いんだけどね、俺としては」
 隆典の言葉が、演技だと気が付いていても和宏の身を竦ませる。
 その言葉に、上木も和宏の助けは無理だと悟ったのか、必死になって隆典の腕へと掴みかかっていた。
「は、離せっ!」
「別に、無理強いをしたくはない。けど、こうでもしないと来てくれないだろう?」
「だから、何で俺なんかっ!」
 必死の形相で詰め寄る上木に、隆典がふっと哀しそうな笑みを浮かべた。
「気に入ったから。だから、一緒に食事でもって思っただけなんだよ。ダメなのか?」
「食事って……この前もしたじゃないかっ! それに、それだけで済まないだろっ」
 その言葉に、目を見開く。
 食事と温泉。
 温泉が追加された事を言っているのかと思ったけれど。
「ああ、あれ? あのこと、和宏くんに言って良い?」
 隆典の言葉に、上木が蒼白な面持ちで首を振っていた。ということは、知られたくないことがまだあるということで。
「ということで、一緒に行こうね」
「だから、何で……。ちょっと押すなっ!!」
 強引に、隆典の車に押し込まれそうになって、上木が必死になってドアに縋っている。
 隆典の車は、4WDで車高が高い。
 その高さをものともせずに、隆典は上木を座席に押し込めた。
「畜生っ!!」
 それでも、逃れようと身を乗り出す上木を隆典はのしかかるように押しつけて、シートベルトを取り付けていた。
「離せっ!」
「嫌だよ。一緒に食事に行こう。その後、また一緒に温泉入ろうね」
 甘ったるい声が聞こえて、和宏は全身を悪寒で震わせた。あまりの寒さに全身が総毛立っている。
 それは上木もそうだったのか、頬がひくりとひきつって僅かの間硬直していた。
「お、降りる……」
 震える声音が、彼の恐怖を教えくれる。
「言ったろ。せっかくの機会なんだ。逃したくないよ」
 和宏の位置からははっきりと見えなかった。
 隆典の頭が上木の横顔を隠していたけれど、上木の体がびくりと硬直したのが判った。
「おとなしくしていないと、縛ってでも連れて行くよ。和宏くんにもお願いしようかな、あのこととか伝えて……」
「それはっ」
 二人が離れて、隆典の低い声音が聞こえてきて。泣きそうな上木の横顔が、ちらりと和宏に向けられる。
「俺は……」
「危ないから、逃げようなんて思わないで欲しいな」
 その会話を最後に、隆典は運転席に乗り込んだ。
 助手席には、俯き気味の上木が身動ぐことなく乗っている。
「た、隆典さんっ!」
 動き出した車に、思わず駆け寄った。
「あの……」
「食事するよな、上木さん?」
 満足げな笑みと対照的に、上木が躊躇いがちに小さく頷いた。その口から零れる吐息はため息と大差ない。
「でも……」
「じゃあね、和宏くん」
 意味深な笑みがその口元を飾っていて、和宏はもう何も言えなくなった。
 そんな和宏を駐車場に残して、隆典の車が去っていく。
 なんだか取り返しの付かないことをしたような……。
 不安に駆られて呆然と立ちつくしていると、しばらくして英典が車を寄せてきた。
「和宏?」
「大丈夫かな……」
「もうどうしようもないよ。和宏はできることをやったんだし……。逃げられる機会に逃げなかったのは上木さんの方だしね」
「うん……」
 何か弱みを握られているような態度だった。だからこそ、会うことすら避けていたのかも知れない。
 和宏がここにいなかったら、上木は逃げていたのかも知れないが、それすらも見越していたのだろう。隆典が、和宏が傍らにいることを要求したのは、そのせいだったのだ。
 そう思うと、ひどく申し訳なくなる。
 だが、ため息を零した英典の言葉に我に返った。
「和宏……帰ろ。明日は早いんだからね」
 暗に多恵子とのことを指摘されては、頷くしかなかった。
 
 
 清々しい春の朝。
 日差しが柔らかく降り注いでいる。
 海の側の建物にもそれは変わりなく、足下に柔らかな影が差している。
 その建物の傍らで、和宏はぼんやりと微かに見える白波を眺めていたが、背後から呼びかけられて慌てて振り向いた。
「和宏くん、手伝ってくれるかしら?」
「あ、はいっ」
 駆け足で近寄れば、こっちこっちと手招きされた。
 コンクリート敷きの建物内には足の踏み場がないほどの発泡スチロール製のトロ箱が積み重ねられていた。片隅には生け簀があって、カニやシャコ、サザエが網に入っていた。その横にはカレイが地を這うようにへばりついている。
「こっち、これなんかどうかしら?」
 指さすところにあるのは、1メートル近い一匹の魚。多分それが目的の鰆だろうとは思うけれど。
「これ、ですか?」
 いかんせん、魚のことは何にも判らない。
 曖昧に返せば、そう、と頷かれた。
「大きさも申し分ないのよね。これだったら、食欲ばっかりの男どもの刺身も十分だし。どうかしら?」
 向けられた笑顔に、「はい」と頷く。というより頷くしかない。
「……あ、でも魚のことはよく判らなくて……」
 慌ててつけた言い訳に、多恵子はにこりと笑い返した。
「まあ、若い人はそうよねえ。私も判っている訳じゃ無いんだけどね」
 嫌味のない言い方にホッとする。
「じゃあ、これ、運んでね」
 にこりと言われて、抱えようとして。魚と同じ量だけ入った氷の存在を忘れていた。トロ箱が歪んで、バランスを崩しそうになる。
「重い……」
 目を白黒させていると、朗らかな笑い声と共に、多恵子が店員を呼んでいた。
「台車、借りましょう。すみません?」
「はい?、これだけですか? こちらのガラエビなんてどう? それにこっちのイカも入ったばかりよ」
「そうねえ、エビも欲しいわね。イカは半分でいいんだけど?」
「いいですよ?。じゃあ、半分ね」
 この場合の半分はトロ箱の半分であって、数にして20ハイのイカが袋へと放り込まれていく。エビも一盛り1kgと書いてあった。
「すごい……量ですね」
 豪快な買い物に唖然としていると。
「うちはいっつもこの位よ」
 平然と言われて絶句する。
 和宏の家なら、一本分の鰆ですら当分食べ続けなければならないだろう。
「お客さんっ、寿司作られないの? サゴシも良いのがあるわよ」
「あら、ほんとっ。見せて」
「これなんですよ」
「あら、ちょうど良いわね。じゃあ、それも」
 瞬く間に荷物が山になっていく。
「サゴシって?」
「ちらし寿司用に酢魚にするのよ」
「え? 今日は手巻きって……」
 面倒そうな声音だった電話を思い出して問えば。
「ついでだから、作ることにしたの。うちも久しぶりだし」
 と軽く返された。
「それって……その僕が言ったから……」
「そうねえ、和宏くんが好きだって聞いて、で作りたくなったの。お寿司って面倒な割には、あんまりみんな悦んでくれなくて。でも食べて悦んでくれるなら、作ってみたいと思って」
「すみません……」
「あらあら、そんなにかしこまることないのに。その代わり、今日はたっぷり手伝ってね」
「はい」
 乞われれば、頷くしかない。
 けれど、和宏の頷きを見やった多恵子が、すうっと視線を逸らした。
「助かるわ。うちのバカ息子どもは、手伝ってくれないから」
 浮かんだその笑みが少し寂しそうに見えた。
「あの……」
「荷物、ちょっとだけ預かって貰って、休憩しましょうか?」
 誘われるがままに、建物の裏手に回る。釣り船が並ぶ横を歩き、外れに座る。
 そこで手渡されたのは、中で売っていた焼きたての穴子だ。
「好きなんでしょう?」
「はい、ありがとうございます」
 大きな穴子は一人で食べるには十分すぎて、礼を言いながらも少し引きつった。
「和宏くんは少食なのね」
「そう、ですね……。英典くんはたくさん食べられますよね」
「そうなのよね。だから、和宏くんが来た時も同じだけ注いでしまって、食べるの大変そうで……。食べられないって遠慮無く言ってくれれば良いのに、っていっつも後で後悔したのよね。穴子も、食べられるだけで良いのよ。残ったら、持って帰れば良いんだから」
「……知って……」
 確かに一苦労しながら、食べていたのだ。
 気付かれないように頑張っていたのだけど。
「うちの子達は、嫌なことは嫌だってはっきり言う子ばかりだったから、どうも和宏くんのようなタイプは慣れなくて……。どうして良いか判らないってのも事実だったのよね」
 しみじみと言われて、和宏は穴子のパックを両手で抱えたまま俯いた。
 視線の先は、どんよりと濁った海の中で、海草が波間に揺られていた。
「和宏くんのご両親は、はきはきしているのにね。どっちかって言うと、うちのお父さんの方に似ているって思ったわ」
 くすりと意味ありげに笑われるが、どう返事して良いか判らない。
「何を考えているのか判らないタイプって……扱いが難しいのよね。それでもお父さんとはねえ、大学の時からずっと見ていたし、美由紀さんにも手伝って貰ったし」
「え、母さんに?」
「昔の話なんで笑わないで聞いてね」
 恥ずかしそうに言われて、こくこくと頷く。
「お父さんが好きで、付き合いたくて。けど、さすがにこっちからってのは言えなくて。そんな時に、美由紀さんと友達になったの。美由紀さんは私の事に気付いていたみたいで……。あ、このこと、お父さん達には内緒ね。あのね、私たち結託したのよ」
 くすくすと笑いながら、言われて唖然とする。
 もしかして、と思うが、まさか、という思いの方が強い。
 なのに、彼女は、そのまさかを口にした。
「知っていたのよ。お父さんが、あなたのお父さんのことが好きだったことも。そして、あなたのお父さんも少なからず好意を持っていたことも、全部。それを邪魔して、手に入れたのよ私たち」
 どこか懐かしげに、そして誇らしげに口にした言葉は、既視感を持って和宏に届いた。
「母さんも……言ってたけど……。でも、おじさんの片思いだって……」
「そうね、好きだってはっきりとした対象じゃないかなと思ったけれど。今思い返すと、そうじゃなかったかなって……。だって、あなたのお父さん……祐輔さんって、他の誰よりもうちのお父さんに対しての時だけ、優しかったもの……」
 それは逆じゃないかと思ったけれど。
 それでも否定する要因もなくて、和宏は口を開くことができなかった。
「そんなふうに気が付いちゃうとね、英典が和宏くんのことを欲しがった時、きっばりとダメだって言えなかった。親の因果が子に報いって言うんじゃないけど、でも、運命ってのがあるなら、もう逆らえないのかも知れないって思っていた……」
 気が付けば、彼女の視線も波に向けられていた。
 寄せて返す波は、さっきから木ぎれをずっと揺らしていた。
「英典はね、最初から女の子には興味が無いと言っていた。でも、お父さんみたいに、男性に恋しても女性と結婚した人もいる。そう思って、いつかお似合いの女性が現れるんじゃないかって思ったけど……でも、私たちのようにそんな都合良い相手が出てくる筈もないのよね」
「僕が……会わなかったら……」
「でも、同じ会社になってしまったのよね。知っていたわけではないのに、同じ道を歩もうとしていたのを知って……もうダメかもって……ほんというと、それを聞いた時には諦めていたのよ。美由紀さんとも話をしたし、お父さんとも話をしたわ。だから、後は私が吹っ切るだけだったのよね」
 寂しい口調は、和宏の胸に痛みを与える。
 辛い思いを彼女にさせているのだと思うと、和宏はいたたまれなくてどうしようもなかった。
「けれどね?、なかなかできなくて……。こう、和宏くんと話をしようと思っても何を言ってあげればいいのか判らなくてね。そうしたら、隆典がね、今度一緒に買い物でも行ったら? って言ってくれてね。それで……いい機会だと思って」
「隆典さんに?」
 やはり隆典の助言のお陰だったのか。
 目を見開けば、彼女もこくんと頷いた。
「何もかも話してしまえば、良いんだよって。もうどうしようもない性格でねえ、和宏くんにもいろいろ迷惑をかけちゃってるけど……それでも優しい子だから。嫌わないでね」
「あ、はい……」
 優しいと言われて頷けるものではないけれど、否定すると今の穏やかな時間が壊れそうで、和宏は結局頷いた。
 それに、彼がこの時間を作ってくれたのなら、それは感謝すべき事なのだろう。だからと言って、直接会いたいとは思えないのだけど。
「それに英典のこと。もう思いこんだら一途な子だから、こっちも迷惑掛けるかも知れないけど……」
「そんなことないです……。英典くんには僕の方こそ、よっぽど世話になっていて……」
「どうかしらねえ」
 けらけらと笑う多恵子の瞳に浮かぶ涙に気が付く。
「あの……」
「あらやだ……、もう最近感動すると、つい涙が出ちゃうのよねえ……、困ったことだわ」
「僕は……」
「さて、帰ろうね。今日は忙しいわよ」
 目の前の彼女と、英典の姿が重なる。この二人は容姿も性格もよく似ていた。
 昔英典にも感じた苦手意識と同じモノを、和宏は多恵子にも感じてしまっていたのだ。だが、二人ともいつだって迎える準備はしていてくれていた。
 ただ、和宏の方がきっかけが掴めなかっただけで。
 立ち上がり預けている物を受け取るために背を向けた彼女に、和宏は堪らずに呼びかけていた。
「おかあ……さん……」
「なあに?」
 朗らかに笑って返されて、和宏は込み上げる熱い塊を堪えることができなかった。
「和宏くんは昔っから、泣き虫だったわよね」
 笑われて、頭をとんとんと叩かれて。
 けれど、なかなか止めることができなかった。
「うわっ、すっげえ」
 英典が興奮して騒ぐ。
「こら、はしたないっ」
 母親にこづかれて、すごすごと後ずさる様に、和宏も声を上げて笑った。
「笑うな、こらっ」
 手を挙げる英典に、慌てて多恵子の後に回る。
「ほらほら、暴れんじゃないの。和宏くん、汁椀取って」
「はい」
 一日台所にいれば、何がどこにあるのかだいたい把握した。
 食器棚の二段目から漆塗りの椀を取り出せば、英典がそれを受け取る。
「あ、ありがと」
「いいけどね?、なんかすっごく仲良くなってない?」
「ん……」
 何せ、朝からずっと傍らにいるのだ。
 一升は炊ける釜用に米をといで、ご飯を炊く間、ちらし寿司の中に入れる具を味付けしていく。ニンジン・レンコン・かまぼこ……。それらの山の中で、微妙に大きいのは、和宏が切ったものだ。
「不器用ではないから、やってれば上手になるわよ」
 笑われて赤面しながら、交代して。
 サヤエンドウのスジを取る役目に回った。
 その量も半端ではない。
 家中に漂う甘い匂いは、エビを色よく茹でた匂い。錦糸卵になる薄い卵焼きは、最初から手を出しようもない。まして、酢魚があんなふうに作られるなんて初めて知った。朝から漬けて、夜に間に合うかどうか言っていたけれど。それでも、今は綺麗に飾られている。
 市場で食べた穴子も美味しかったけれど、多恵子が冷凍庫から出してきた新鮮な穴子を焼いて冷凍していたという穴子は、蒸し器で蒸されてふんわりと焼きたての味を甦らせた。これもまた絶品で。
 ちらし寿司と共に食卓に出される鰆の刺身に至っては、巧みな包丁さばきに見惚れるばかりだ。
「凄いですね」
 思わず、と言った感じで褒め称えれば、「慣れよ慣れ。いろんな厚さがあるのはご愛敬って事で」と苦笑いを浮かべて返された。
 確かに、いろんな厚みがある刺身だが、綺麗な白身の魚は新鮮さも相まってひどく美味しそうだ。
「美味しそうです」
 素直な言葉に、悦んでくれる。
 そんなふうにして作られた料理が、テーブルの上に山と並んで、揃った家族も目を丸くしている。
「今日なんか祝い事だっけ?」
 隆典の言葉に、英典もさあっと首を傾げた。
 その言葉に、多恵子が可笑しそうに返す。
「そりゃあ、こんな素敵なお嫁さんが手伝ってくれたんだもの。頑張るっきゃないでしょう?」
 途端に、真っ赤になった和宏に、英典も唖然と二人を見つめる。
「……お嫁さんって……」
「あら、お嫁さんに手伝って貰って料理を作るって夢だったんだけど?」
「えっと……」
「まあ、確かにお嫁さんだろう? な、和宏くん、よく似合うよ」
 隆典に赤いエプロンを指さされ、和宏の方がさらに赤くなる。
 無理矢理着せられたそれは、シンプルではあったけれど、慣れない姿に自分でも違和感が大きかったのだ。
「さあ、食べましょう。家族揃って食べるのも久しぶりだわ。二人も、もっと頻繁にいらっしゃいね」
「はい」
「は?い」
 渋々と答えていた英典だったが、和宏にしてみればそう言って貰えるのが嬉しい。
 慣れだよ、慣れ。
 皆が言ってくれたその言葉は正しかったのだと、和宏はしみじみと感じていた。
「あ?、腹一杯」
 二時間にわたる食事とその後の雑談。
 ようやく終わった時には、テーブルにあった数々の料理はほとんど空になっていた。それでも一升作ったちらし寿司は残っていて、タッパに詰めて持たされた。それを台所のテーブル上に置き、鰆の切り身を冷蔵庫に入れる。
「明日の分も十分あるね」
「あ?そう」
 気乗りしなさげな英典の傍らに座り、和宏も壁に背を預ける。
「楽しかった……。なんか今まで悩んでいたのが嘘みたい」
「だから、大丈夫だって言ったろ?」
「うん」
 ずっと気になっていたことが片づいて、和宏はほっと安堵していた。
「英典のお母さん、ほんといい人だった」
 今まで気にしていたのが、嘘だったみたいに。
「母さん、さっぱりしているからさ、吹っ切れたらそれでお終い。いつまでも根に持つような人じゃないからね。和宏も気にしすぎているだけだったしねえ」
 確かに、気にしすぎていたのかも知れない。
 ただ、和宏が緊張していたから、多恵子もどうして良いか判らなかったのだろう。
「なんか、いっつも英典に助けられるよね。こんなことがあると、ほんと英典と出会えて良かったって思う」
「ふふ、感謝してる?」
「もちろん」
 こんなふうな人と付き合うこと、英典との関係、仕事でのこと、全てうまくいったのは、英典のお陰だと思う。
「じゃ、お礼ちょうだい」
「え?」
 眼下の英典が、意味深な笑みをその口元に浮かべた。
 誘うように、くいくいっと指を曲げる。
「英典……?」
 まさか、と苦笑いを浮かべたが、どうやら英典は本気のようで、掴まれた腕が引っ張られる。
「和宏……して?」
 甘い声が届いた途端に、びくりと電気が走った。
「ひで……のり……」
 この雰囲気はヤバイ。
 明日は仕事なのに、たぶんこのまま流されてしまう。
 そうすれば、また上木にからかわれるだろう。そんなことまで判ってしまうのに、「和宏?」と誘われると止めることなどできなかった。
 掠めるように触れた唇が、英典によって深くなっていく。薄く開いた唇から舌が入ってきて、探るように蠢いた。
「んっ……」
 舌先が上顎を探り、ざらりとした舌が舐め上げる。
 上から覆い被さるようにしている和宏は、英典を潰さないようにと腕を突っ張っていたが、油断するとがくりと力が抜けそうだった。キスだけで、全身ががくがくと震える。
「英典……」
 僅かに離れた瞬間に愛しい名を呼ぶ。
「ん……ベッドに行く? ああ、でも先に風呂入ろうか? 今日は暑かったろ?」
「……うん……」
 離れたくないと、一瞬思ったけれど、確かに汗くささも気になって名残惜しげに体を起こした。
 ぺたんと畳の上に座り込んで、立ち上がる英典を見上げる。
「おいで、汗を流してあげる」
 手を差し出す英典に、和宏は逆らうこともなく従っていた。
 暖かなシャワーの湯に打たれた和宏の肌はほのかなピンクに染まっていた。
 綺麗だと、絶賛する英典の言葉が、さらに色づかせる。
 手のひらで泡立てたボディシャンプーが、ゆっくりと和宏の肌の上に伸ばされていった。
「くすぐ……たい……」
 指先がやわやわと肌を擽っていく。ソープの滑りが英典の手を滑らかに動かし、いつも以上の刺激を与えていた。
「動くなよ、洗っているだけだよ?」
 笑いながら言われて、零れそうな喘ぎ声を奥歯を噛みしめて堪える。
 洗っているだけだと言うが、さっきから和宏の感じる場所ばかりを指がなぞっていくのだ。いつもいつも朱の花びらが散らされる場所。
 ここがベッドなら、堪えきれない嬌声が零れる場所だ。
 だが、あまりに響く浴室に、響くのは和宏の必死に堪える声だけだ。
「もっ……やっ……」
 体を起こしていられなくて、手をつくとその上からのしかかられるように手を動かされる。背に当たる肌は、英典の胸だろう。全身で洗われて、意識しなくてもはあはあと息が弾む。
「可愛い……こんなに綺麗になって……。ね、今度はどこを洗おうか?」
 手が、腰を辿り、太股の内側へと移動する。
 関節のくぼみを辿り、上下する度に、和宏は嫌々と身悶えた。
 その近くには、未だ触って貰えていない屹立が小刻みに震えている。その先から、粘りのある透明な液体が滴となって流れていた。
「あ、……ぁっ……英典……もう……」
「何?」
 意地悪げに耳元で返される。
 指先で戯れに胸の突起を弾かれ、耳朶の後をきつく吸い付かれる。
「やっ、そこ……」
 服を着ても隠せない場所に、びくりと体を震わせれば、くすくすと吐息が耳を擽った。
「大丈夫、痕はついていないよ。でも、こっちには良いだろう?」
 軽く流されて背にきつく吸い付かれる。
 そのきつさが与えるのは通常なら痛みの筈なのに、甘い疼きが飛散して和宏の肘ががくりと曲がった。
「どうした? こんなあられもない格好して?」
「んあっ」
 するりと指が後孔に触れる。
 ソープの滑りが、指先を難なく滑り込ませて、和宏はびくりと背筋を逸らせた。自分がどんな格好なのか改めて気付いて、慌てて上半身を起こす。だが、一度入った指先がさらに深く侵入して、堪えきれないままに英典の腕にしがみついた。
「やっ……こんな……」
「熱いよ、和宏の中。もっと、と言っているよ」
「ちが……んあっ……」
 深く挿れられて、ますますきつくしがみつく。
 慣れた体は、指だけでも熱くした。その先にある快感を期待しているのだ。そのせいか、知らず快感を貪ろうとする。
「和宏、顔上げて……」
 乞われるままに顔を上げ、落ちてきた口付けを受け入れる。指の抽挿によって荒くなった呼吸が、思うようにできなくなっているのに、それでももっと深くと英典の舌を貪った。
 全身がソープの泡で包まれて、どこを触られても敏感に感じてしまう。
 性感帯の上をかりっと軽く引っかかれただけで、びくびくと震えるほどの快感が走った。
 痕になった赤いラインを今度は指の腹で優しく揉まれる。
 息を吐かせぬほどの快感は、和宏の思考を奪っていく。
「和宏……どうする? ここでする? それともベッド行く?」
 だから、英典に問われても答えられなかった。
 ただ、離れていく様子に、必死になって縋り付く。
「あ、……英典……もう……」
 我慢なんかできなかった。
 浴室内に和宏の嬌声が響き渡る。
 バスタブの縁に掴まり、背後からの突き上げに必死になって体を支えていた。
 リズミカルに打ち付けられる肌に和宏の上半身も前後に揺れる。指先が使った湯が、時折ちゃぷちゃぷと波を作っていた。
 湯から立ち上る熱気と、体が発する熱とで、和宏はもう英典の為すがままだ。
 言われるがままに四つんばいになり、英典を受け入れる。
「あ、んあっ……イイ……」
 奥深く、前立腺を抉られるたびに和宏の喉が掠れた悲鳴を上げる。
「ここ?」
「ん、あっ」
 狙い違わず突き上げられ、びくんと白い背が大きく仰け反った。
 淡いピンク色の肌は、全身濡れそぼっている。今やもう、それが湯なのか汗なのか判らない。まして、和宏のいきり立った先端から流れ落ちているのが何かなどど、もう本人も判っていなかった。
 ただ、達きたいと願って、後孔を締め付ける。
「うわっ……きつ」
「だって……やあ……そんなに……」
 与えた刺激に途端に激しくなる英典の抽挿に体がついていかない。
 しっかりと抱きしめられ、逃れようとする体を抑えつけられる。英典の唇が届く範囲には、赤色の花びらがまんべんなく散りばめられていた。
「ああ、綺麗だ……、なあ、今度写真に撮ろうよ」
「え……なに……」
「写真、兄さんじゃないけど……でも、見たくなる気持ちって判るんだよね」
「あ、なんで……」
「だってこんなに綺麗なんだから」
 うっとりと呟かれ、手が和宏を色づかせるように動く。
 屹立を扱かれ、背筋を貫いた快感に、肌が熱を放つ。薄いピンクがほんのりと濃い色を浮かべ、花びらが淫猥に湯気が作る霞の中でぶれた。
「ああ、綺麗だ……」
 うっとりとした口調とは裏腹に、英典の抽挿はさらに激しさを増して。
「あっ、ああっ──。ひでの……もう、達きた……ねえ……」
 限界に苛まれて、もっとと腰を振って強請る。
 もう意識など快感を追うことしか考えていなくて、ただ、強請って。
「達きたいの?」
「ん……達きたい……もう……」
「じゃ、写真取らせてくれる?」
 このとき、何を言われたか判っていなかった。
 ただ、英典の知り尽くした愛撫に翻弄され、快感の源を解放したくて、必死だった。だから。
「んっ! もうして……おねがっ!」
「写真だよ?」
「んっ、お願いっ!!」
「じゃあ、達って」
「ああっ!」
 背後でにんまりと微笑んだ英典の様子などに気付くこともなく、和宏は一気に解き放った。
「和宏? 大丈夫?」
 気がついたら、ベッドに転がっていた。ぼんやりとした先に見えるのは、見慣れた天井だ。それを遮るように、英典が覗き込んでいる。
「あ……」
「ごめん、風呂場でなんかしたから、のぼせちゃった?」
「あ、そうなんだ?」
 達ったことだけは覚えているけれど。
 その先の記憶は曖昧だ。少なくもベッドに移動した記憶はない。
「ご、ごめん……重かったろう?」
 和宏よりは小柄な英典には大変なことだったろうと、謝れば、とんでもないとばかりに首を振られた。
「いいよ、良いもの撮らせて貰ったし」
 ずいぶんと嬉しそうな英典に、和宏はぼんやりとした視線を向ける。
 まだ頭の中に何かが詰まっているようで、はっきりとしない。何かを上げたのだろうか? とも思うが記憶になかった。
「英典?」
 嬉しそうな英典の様子が気になって問いかければ、英典がこれっと携帯の画面を和宏に見せてくれた。
「っ!」
 その画像を見た途端、和宏は大きく息を飲んだ。
 思わず手のひらで口を覆うが、その顔は、さっきよりさらに赤くなっていく。それこそ、火を噴くという形容が一番相応しいだろう。
「綺麗だろ?」
「こ、こ、こ……」
「撮って良いって言ったもんな。だからね」
 そんな記憶など無く、和宏はぶんぶんと音がしそうな程に首を横に振った。けれど、どこか恍惚と画面に魅入っている英典は、聞く耳など持っていない。嬉しそうに、何度も見つめて、感嘆の嘆息を零す。
「撮って良い?って聞いたら、良いよって言ってくれて、すっごく嬉しかったよ」
 そんな英典が嘘を言っているようには見えなくて、和宏は必死になって記憶を探った。けれど、どんなに頑張っても記憶を見つけることはできなかった。
「こ、こんな……の、消してよ……」
 取り上げようとしても、すいっと逃げられる。怠い体は、未だに機敏に動かなくて、執着を見せる英典の携帯は遠かった。
「ダメだよ、俺の宝物。もう、絶対人に見せないからさ。この綺麗な芸術品、いつだって拝みたいって思ってたんだからさ、良いだろ?」
 ねっとわざとらしくおねだりされて、和宏は眉間のシワを深くして、言葉に詰まった。可愛いと言えば可愛い。けれど、それに逆らうことが恐ろしいと感じるのは何故だろう。
 恥ずかしい写真など、英典にだって持っていて貰いたくないけれど。そんな物を持っていると思うだけで、恥ずかしくて堪らなくなる。
 だが、相手は英典で、しかも。
「俺の宝物」
 などとうっとりと言われると、もう嫌だとも言えなくて。
「……ほんとに誰にも見せない?」
「見せるわけないだろ、もったないっ」
 そこまで言われては、頷かずにはいられなかった。
 途端に悦んでいる英典に、それでも、和宏は羞恥に肌を染めたまま、小さく首を振った。もっとも、もう何を言っても聞いては貰えないだろう。
 英典が悦んでいるなら、まあ良いかという気持ちにもなる。
 それでも。
「何もそんな姿撮らなくても……」
 思い出すたびに赤面してしまう写真。
 バスタブに体を預け、正座で座り込んだ和宏の後ろ姿。その広い背中に散らばる花びらがくっきりと映っている姿。
 顔は見えないけれど。
 それでも恥ずかしい事には変わりなくて、和宏は真っ赤に染まった顔を枕に沈めた。

 

 正直言って会社に来るまで、上木のことを忘れていた。
 金曜日に隆典が連れて行って、日曜には井波の家で隆典には会っていた。だが、その時の首尾など怖くて聞けない上に、お手伝いに追われてそんな暇も無かったのだ。
 だから、病み上がりかと思うほどに青ざめた上木を見て、思わず回れ右をしたくなったほどの罪悪感が急に襲ってきた。
 それでも、逃げるわけにはいかない。
 和宏の部署は上木と同じで、席も隣同士。どちらかが会社を休むか出かけるかしなければ、会わないようにはできない。そして、月曜日はどちらも出社の予定だった。
「あ……おはようございます」
 恐る恐る声をかければ、こくりと頷くだけで声は返ってこなかった。
 これは怒っているのかも、と治ったはずの胃が痛くなるような錯覚を覚える。
 しずしずと席に着き、パソコンを起動させて、できるだけ上木の方を向かないようにしたけれど。
「八木……」
「は、はい?」
 ぼそりと呟かれて、びくりとあからさまに肩が揺れる。
「あいつは、一体何なんだ?」
 その声がひどく掠れていることが気になる。
「何って?」
 何が聞きたいのか? と問えば、「井波隆典」と返された。
「いや、その……それは判るんですけど……」
「あいつ、何で俺に執着するわけ? 俺のどこが綺麗なわけ? 一体何がどうなってんだ?」
「あ、その……」
「なんで、あいつは俺を……」
 勢いづいてそこまで言ったのだが、上木は急に口を閉ざした。しまったとばかり口を閉ざし、俯く。
 その横顔が、いつもより赤いのは気のせいだろうか?
「上木さん?」
「いや、何でもない」
 黙って、おもむろにパソコンを操作し始めた上木は、もう何も言わずに一心不乱に画面に見入っていた。けれど、集中しているとは言い難い。時々、不意に手が止まって、深いため息を吐いている。
 その姿は、あまりに哀しいもので、それに気を取られて和宏の手も止まりがちだ。
 そのうちに、こんな状態がいたたまれなくなってくる。
 気になり始めると幾らでも気になってきて、和宏は結局キーボードを打っていた手を止めた。
「上木さん……」
 こんな時に呼びかけるなど昔の和宏だったら絶対にしなかったろう。だが、今回ばかりは、その原因が自分にあると思うと黙っている訳にはいかなかった。
「何があったんですか?」
 窺うように尋ねれば、ちらりと視線が絡んだ。
「その……上木さん?」
「あいつ、俺のことが好きだって……裸にしようとばっかりするんだよ。プール連れて行かれて、泳ぐだけならいいんだけど、その間ずっと見つめられて……。その後、ホテルに連れ込まれて……裸にされて」
 小さくなる声だったが、それでもかろうじて聞き取れた。
「へっ……ホテル?」
「……あ、いや、その……」
 思わず呟いてしまったらしい、上木が真っ赤になって俯いた。
 それっきり顔を上げようとしない。
 ホテル……しかも裸にされたって……。
 想像の行き着く先は、ただの一種類。目眩がしそうな卑猥な空想に囚われて和宏の顔も赤くなっていく。
 まさか、と思うけれど、あの隆典がと思うと、否定できない。
 羞恥に目の縁まで赤く染めた上木が、それでも数分ほど経ってから、ぽつりとひと言だけ呟いた。
「その、何もされていない。ほんとに……」
「え?」
「すまん……ちょっと外に出てくるわ。なんかまだ頭が混乱してんだよ」
 微かに笑って、事務所を出て行く。
 その後ろ姿がなんだか寂しそうで、和宏は追いかけることなどできなかった。

【了】