緋色の窯変

緋色の窯変

 正月。
 一月一日は、寝て過ごすつもりだった。
 なのに、一体どうしてこうなっているのだろう。
 八木和宏は未だ夢覚めやらぬような顔をして、呆然と窓の外を見つめていた。車の左は崖にも近い山肌で、紅葉が終わった木々が寒々しく枯れ枝にも似た裸技を晒している。右側はといえば、寒そうな程に冷たい流れを見せる川の流れ。
 心地よいはずの振動は、今にも和宏を眠りに連れ込もうとするのだけど。
「ほんとに、どこに行くんだよ」

 それが気になって、さっきから何度も運転席の父親──祐輔(ゆうすけ)に話しかける。
 なのに。
「まあ、黙って乗ってろ」
 笑みを含んだ声音に、意味ありげな視線が向けられる。
「僕は、今日は用事があったんだけど」
 夜から英典と出かける筈だったのに。
 手の中で携帯を転がして、深いため息を吐く。
 引っ張り出されるとともに慌てて英典に電話をかけたけれど、何故か通じない。
 それに、と自分の姿を見下ろして、その着慣れないスーツに身動いだ。この前作らされた出張用とは違う値の張ったスーツ。
 いきなり店に連れて行かれて、あれやこれやというまに選ばれたものだ。
 ただ出掛けるだけとはとうてい思えないこの姿に、あれやこれやと考えて落ち着くこともできない。
「もう、いい加減諦めなさいって。英君にはいつでも連絡つくんだから」
「った」
 ぺこっと後頭部をはたかれて、恨めしげに後方を見やれば何か企んでいるのはっきりと判る母親──美由紀の表情。
「でも……」
「でももくそもないっての。言うこと聞かないんだったら、正月休み中外出禁止にするわよ」
「……」
 反論の隙もなく、畳みかけられ和宏は口を噤むしかなかった。
 子供だった頃のように母親の言葉にそれほど効力はないとは判っていたけれど、このまま言葉を交わしていても負けるだけだと言うことははっきり判っている。
 運転席の祐輔も、苦笑気味の笑みを浮かべるだけだった。
「何、こそこそしてんのよ。しゃんとしなさいっ」
 どんとふらつくほどに母親の美由紀に背を叩かれ、その痛みに涙目になりながら睨み付ける。
 だが、楽しそうな美由紀はそんな和宏の躊躇いなど意にも介さず、ともすれば止まりそうになる和宏をぐいぐいと押し進めた。
 足下は柔らかなカーペット。ほどよい温もりのフロアに、さざめくような話し声が響いている。
 煌びやかな照明はくどすぎず、けれど十分な明るさで人々を照らしていた。
「何で……ホテルなんて」
 着いた、という言葉に降りてみれば、年末の名残の雪に囲まれた茶色の壁の建物。
 にこやかな笑みの従業員らしき人に導かれてあっという間に中に連れ込まれて、今は祐輔がフロントで手続きをしている。
「まさか、泊まるのか?」
「そうよ。こんなところまで来て日帰りなんてもったいないでしょ」
 当然とばかりに言い切る美由紀の腕は、逃がさないとばかりに和宏の腕を掴んでいた。
「でも」
 ここまで来て、一人で帰るなんて事はできないのは判ってはいる。けれど、ちらつくのは英典との約束だ。
 二人がつきあい始めてから初めての正月。
 一日は陶芸作家である井波英典の家は年始の挨拶が多いからと、夕方から待ち合わせて出掛ける事にしていたのだ。
 二人で初詣なんて考えると赤面ものだが、そんな和宏を見越して、ふらりとドライブしようと誘ってくれた英典に、一も二もなく頷いたものだった。
 なのに。
 コートのポケットの中の携帯電話をぎゅっと握りしめる。
 とりあえずメールは送ったけれど。
 未だ返信がない携帯の振動を逃すことはできなかった。
 こんな日にいきなり行って宿泊できるはずはないから、両親は前もって予約していたのだろう。なのに、和宏には到着するその時まで教えてくれなかった。
 せめて教えていてくれれば、英典の誘いをきちんと断るか、それともうまく逃れたか。いや、逃げると判っていたから、和宏には教えてくれなかったのだろうけれど。
「もう着いているそうだ」
「あら、ほんと?じゃ、急ぎましょ」
 何のことだろう?
 ぼんやりと考えたけれど、先を案内する人に付いていく両親に引っ張られ、問いかけることはできなかった。
「あけましておめでとうございます……」
 目の前の男を呆然として見つめる。
 案内された部屋で荷物を置き、仲居の挨拶もそこそこに隣の部屋に連れて行かれた。
 和宏達が案内されたのと同じ間取りのような入り口の先にはふすまがあって、声をかける間もなくそれががらりと開いた。
「どうして……」
 見開いた眼を閉じることができないままに問いかければ、英典も困ったような笑みを浮かべている。茫然自失して動けない和宏の背が祐輔に強く押されて、たたらを踏むように前へ進んだ。
「おめでとう、英君。みなさん、中に?」
「はい。どうぞ」
 英典の手が和宏の手を掴んで引き寄せる。ぐらりとされるがままに傾いだ和宏に、英典がそっと耳打ちした。
「覚悟しろよ。結納だと」
「え」
 ぴきっと固まった表情のままに、背後を通り過ぎる両親を見やれば、にこりと確信的な笑みを向けられた。
「な、何で……?」
「あら、そんな格式張った事をするつもりはないのよ。ただ、両家揃って温泉旅行としゃれ込んだだけじゃないの。ついでに和宏の事も御願いすることになるんだけど」
「やはりこういうことはちゃんと挨拶するものだしな」
 口々に勝手なことを言っては中に入っていく。和宏はしばし硬直していた体を、何とか英典へと向き直させた。
「電話したんだけど……」
 英典が知らなかったことだけは確かだ。大晦日の晩に電話した時もそんなことは言ってなかった。
 だいたい和宏よりはるかにすばしこい英典がこんな企てを知っていたら、速攻で逃げ出していただろう。
「携帯、朝から盗られてんだよ、兄さんに」
「って、まさか」
 最近会っていなかった英典の兄 隆典も来ているというのか?
 顔色の変わった和宏に、英典は肩を竦めてその背を押して促した。
 先ほどの部屋も二間続きの座敷だった。
 格式のあるホテルとはいえ、こんな部屋は一室でもかなり高そうに見える。置いてある調度品も和宏の目にも高そうに見える。
 そんな部屋に、井波家の人が座して待っていた。
 床の間には桐の箱が置かれ、熨斗が巻かれている。
 座卓には茶と茶菓子が置かれ、井波家と八木家の人数分がすでに淹れられていた。
「結納っていっても、改まったものじゃないのよ。ほら、ここに座りなさい。こっちが和宏。そっちが英典」
「まあ、こうやって両家がちゃんと挨拶するだけ。だから、こうやってホテルですることにしたんだ。家だと、いろいろとかしこまったことをしたくなるしね」
 上機嫌な八木の両親を見やってから、井波陶苑が和宏に笑みを向けた。
「それにかしこまった席だと和宏君も困るだろう?」
 それには条件反射的にこくこくと頷いた。
「ま、家だと英典があっというまに和宏君を連れ出すのが目に見えていたからね」
 そこまで読んでの行動だったわけで、和宏は英典と顔を見合わせた。
「ほんと、着くまでずっと見はられてて携帯どころか公衆電話すら掛けさせて貰えなかったんだ。すまないな」
「いや」
 ここまで用意周到だと諦めもついてしまう。
 こうなれば毒を食らわば皿まで、というやつだろう。
「ほら、座りなさいっ」
 美由紀の再度の命令に、二人は渋々と席に着いた。
 それでも、こうやって両家が改まって顔をつきあわせると、すでにすっかり顔見知りの陶苑の顔すら見ることができない。
「これからも末永い付き合いを」
 澄ました顔で頭を下げる母、美由紀の言葉に、和宏は耳まで朱に染めて、俯いていた。
 信じられない……。
 井波家側から少し大きな紙袋から出されたのは、いつも使われるよりは立派で大きな熨斗・金包。それが黒塗りの盆に置かれている。
 確かに簡易的だとは思う。
 両手で掲げることができるほどの盆に
 正式な結納はもっとたくさんのものが並ぶのを広告などで見たことがあるから。
 だが、派手な水引の細工はやはり普通とは違うもので。
 その飾りの中央にある赤白のビロードのケースが何であるか、容易に想像つく。
 赤く染まって火を吹きそうな顔以上に頭の中も沸騰寸前で、落ち着いて何も考えられない。両親達が何を言っているのか判らないままに、英典と和宏にそのケースが差し出された。
「ほら、英典から和宏君に」
 どこか潤んだ目元を見せている陶苑から受け取った英典が、困惑気味に和宏を見つめてくる。
「和宏、はめて貰いなさい」
 そう言われても。
 動けない。
 最初に座った状態のまま、硬直した体は逃げることも手を差し出すことも敵わない。
「和宏……」
 不意に英典が諦めたように小さくため息を吐いた。
 ぱかっと開けたケースの中からプラチナのリングを取り出す。
「手を出して」
 言われて、思わず英典を見つめた。苦笑が浮かんだその顔を見ても、躊躇いが強い。それでも。
「本当は、石の付いたものって思ったんだけど、和宏、男だものね。だから」
「婚約指輪兼結婚指輪ということで」
 浮き浮きと和宏よりはるかに楽しそうで嬉しそうな美由紀達に促されて、和宏も渋々と左手を挙げた。
 英典の手が和宏の指を支える。
 途端にドキドキと心臓の鳴る音が早くなる。
 それでなくても熱が隠った体が、さらに熱くなってきた。
「英典……」
「ま、俺達は幸せなんだと思って……だから付き合うっきゃないだろ」
 苦笑混じりのセリフに、和宏は目元まで赤い顔を上げた。
 確かに、通常では考えられないくらいに理解ある両親に、そっちでお膳立てされるような同性同士のカップルなどそうそういない。
 だけど、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 意識せずに震えるまつげに、目尻まで赤い和宏はその見える肌が全て朱に染まっていると言って間違いない。
 途端にごくりと喉を震わせた英典が、同じくごくりと音を立てた兄である隆典を横目で見つめた。その顔が仕方ないかと苦笑に歪む。
 そして、盗られるのも敵わないとばかりに和宏に所有の証である指輪をゆっくりとはめていった。
「おめでとうっ」
 直接計ったはずはないのにしっかりとサイズが合っている指輪が薬指に輝くのを呆然と見つめる。周りから聞こえる賛辞の声も虚ろな和宏には聞こえていない。
「それじゃ、結納返しと言うことで、和宏も」
 いつの間にか用意されていた同じケースが和宏に渡される。
「げっ、俺もすんのっ?」
 途端に英典が泡食った顔で父親に迫っていた。それを見つめながら、すでに飽和状態の頭が何も考えられないままに、ぱかんと蓋を開ける。
「あ、そうそう。ちゃんとイニシャルも彫っているのよ。ほら」
 促されるままに見た先に、『K to H』と掘られていた。
「K……」
 思わず口にして、その口を手の平で塞いだ。
 もうこれ以上熱くなりようがないと思っていた肌が、さらに熱くなる。
 そんな様子に気付いた英典がじっと和宏を見つめ、それから目を伏せて小さく小さく息を吐いた。その様子に、和宏の顔から少し色味が失せる。
 英典のそのため息は、和宏にとって嫌な思い出の一つでしかないから。
 情けないと言われているようで、ひどく落ち着かなく、胸の辺が締め付けられる。
 だが、その和宏の動揺がはっきりと現れる間もなく、英典が顔を上げてふっと微笑んだ。途端に、和宏の心もふわりと綻ぶ。
「和宏、はめてくれるか?」
 躊躇いもなく差し出されてきた手は和宏の手よりごつごつとした作業者の手。
「いいのか?」
 確認したのは、ほんの少し落ち着いた頭が途端に不安になったからだ。
 自分が英典のものになるのは問題なかった。法的な拘束力はできない自分たちにとっての、この指輪が唯一の拘束の証になることも惚けた頭でもはっきり判っていた。だげと、英典は本当にそれでいいのだろうか?和宏で本当にいいのだろうか?
 こんなふうに、頑張ろうと思ってもひどく情けなくなる自身で、英典は本当にいいのだろうか、と。
「和宏?」
 躊躇う和宏に英典が訝しげな視線を向けてくる。だけど、手が硬直したように動かない。
 はめて良いのか?
 何度も何度も同じ問いが頭の中を浮かんではぐるぐると駆けめぐり、一向に結論が出ない。
「和宏ってば」
 手が伸びてきた。指輪を掴んだ指に英典の手が添えられる。
「ほら、しっかり持ってろよ」
 笑いながら、英典は自らの指を指輪へと差し込んでいった。その様子をじっと目で追う和宏は、結局最後まで動けない。
「ふふっ、おそろい?」
 邪気のない笑みを見せて、英典が和宏の指に指輪のはまった指を添わしてきた。
 同じ色、同じ形、同じ模様。
 そろえれば、はっきりと結婚指輪だと判るだろう。
「会社じゃ出来ねーよなあ。汚れっちまうし」
 残念そうに呟く英典に、和宏はびくりと肩を震わせた。
「会社?」
 まさか指輪をはめたまま会社に行けというのだろうか?
 汚れない職場である和宏は英典の言葉にそんな事を連想してしまって、顔がひきつった。先輩である上木(うえき)は知っているとはいえ、指輪などしていったら、みなになんと言ってからかわれることか。突っ込まれて、嘘が下手な和宏は、誤魔化す方法などもたない。
「別に普段しなくたっていいよ。できないだろ?」
 だが、すぐに英典が笑いながら言ってくれてほっとする。
「でも今日はしていてくれよ。俺もするから」
 嬉しそうな英典に、和宏も羞恥に捕らわれながらも頷いた。
 こんな小さなリングでも、二人を結ぶ物なのだと思って、幸いに胸が熱くなる。戸惑いも困惑も何もかもが、ごっちゃになって和宏はただこくこくと何度も頷いた。

【了】